そんなふうに三姉妹の確執を歯牙にも掛けずに、彼はレクイエムのことを考えていた。正月の決心や童に期待されていることが関係したのかしないのか、いずれにしても『怒りの日』の残りの部分に手を付けることにした。第12節から第16節までを三管編成ながら渋めのオーケストレーションで、バスとソプラノの二重唱とし、第13節をこの部分の頂点としてリフレインさせた。第17節以降はうって変わって、地鳴りのような低音部に支えられた合唱にコンピュータ・ミュージックをかぶせた。特に第十八節の『涙の日』では、涙がしたたり落ちる様子をコンピュータのピコピコという音で表現した。インベーダー・ゲームの音が耳に残っていたからなのか、単にYMOが流行っていたから借用しただけなのか、その理由はわからないが。
この部分を作曲しながら全体のまとめ方に一つのアイディアが浮かんだ。『怒りの日』を頂点として、前後のオーケストレーションを徐々に薄くしていくのである。『イントロイトゥス』の弦楽パートのみから始まって、『キリエ』がほぼ二管編成と打楽器、『怒りの日』で三管編成とオルガン、更にロックバンド、ブラスバンド、コンピュータ・サウンドが加わるという費用面を無視したような大編成になる。『オフェルトリウム』は通常の三管編成、『サンクトゥス』は二管編成、アニュス・デイは各パート一人ずつの弦とオルガンによる通奏低音、最後の『コンムニオ』はいわゆるアカペラで、器楽伴奏はない。後半はハイドンの『告別』シンフォニーに倣った形になっている。そう、このレクイエムは様々な意味での告別であるのだ。
いずれにしても、『アニュス・デイ』を残すのみとなった。歌詞自体は単純で作曲の方針も決まっていたので、勢いで書けそうな気がしたのだが、シュッツふうというのがいけなかった。あのシュッツである。レクイエム全体のモチーフというだけでなく、彼の低く厳しい声を聴きながら作曲するのは並大抵のことではなかった。1か月ほど油汗を流して頑張ってみたが、ワン・フレーズも書けずに撤退した。
そうなったら仕事に精を出せばいいものを何を考えたのか、いつものことながら突然、登山を始めた。登山靴、ウールの靴下、ザック、ニッカボッカ、コッヘル、バーナー等々色々買い揃え、足慣らしと称して近くの山に登り始めた。栄子や輪子、欽二も誘ったが、いやまたそのうちにとか言って尻込みするので、独りで朝早く出かけて行く。梅雨明けを待っていたように、8月に入ると「富士山を見に行く」とだけ言って、夜行列車に乗って、とうとう八ヶ岳に登り始めた。富士山を見るなら、もっと手頃で近い低山があると思うが、我々としてもこの男の考えることは、理解しがたいことが多々あるのでやむをえない。ともかくにわか仕立てでは赤岳(だろうと思うが)の頂上までたどり着くわけもなく、富士山がよく見えるコル(山の出っ張りのことである)の上で、もういいやと休憩し、十分ほど風景を楽しんだらさっさと清里の方へ降りてしまった。
それで……それで、次は富士山とか、穂高とかに登ってみるとかいうなら話も進めやすいのであるが、我々の主人公はぱたっと山登りをやめてしまったのだった。飽きっぽいのである、長続きしないのである、根気というものと無縁なのである。再びそれで、例の『アニュス・デイ』の着想を得たというなら、この男をほめていいのかもしれないが、そういうわけでもなさそうなのである。困ってしまうのである。これでは我々の知性が疑われてしまう。物語のストーリー展開とか、プロットとかをもう少し考えて行動してもらいたいものである。こんな男を主人公にした我々の側に落ち度があるのだろうか。しかし、今さら(そう、この物語もとっくに半ばを過ぎているのである)、彼を見放すわけにもいかない。ただ一つだけ登山に関して欽二と交わした会話があるので、それを紹介しよう。八ヶ岳から帰った後、暑い最中ではあったが、焼き鳥屋で何十串と食べた時のものである。
「……それでなんで山登りなんか始めたんだ? しんどいだけだろうに」
「まあ、最初は特につらいが、1時間ほど歩いていれば汗も引いて、それほどでもなくなってくる。……身体を動かさないとわからないこと、山へ行って初めてわかることもあるからな」
「ふうん、そういうもんかね。……どんなことだ?」
「やおよろずの神ってのは感覚的真実だなってことだ。実感としてよくわかるってことだ」
「なんだそれ? 商売の神様とか、貧乏神とか、そういうのか?」
宇八は手羽先をしゃぶりながら言う。
「はは。そこまではわからんが、山岳信仰とか、巨木信仰ならよくわかるということだ。けやきの巨木なんかに手を触れていると、本当に尊敬したくなるぜ。……おれには個人崇拝なのか、偶像崇拝なのか、よくわからんような抽象的な一神教より、よほどよくわかるってことさ。あれは言葉にこだわりすぎてる。初めに言葉ありきなんて、初めに過ちありきだ」
「ふーん、そんなもんかね」
これだけである。他にいっとき熱中した山登りについての彼の発言はない。
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山登りの会話、虞美人草をちょっと思い出しました。こういうところ好きです。
虞美人草なんかと比較していただくと汗顔の至りですが、自分としても気に入っているところです。
これからもよろしくお願いします。