息子は不登校に始まり20余年を引き篭もりで過ごし、その中にあって何とか這い上がろうと英語とドイツ語を勉強した。英語はTOEICの最高点とまでは行かないがそこ近くまで行ったが結局それで仕事はなかった、現在別の仕事をしている。その彼が”言霊”と言うものを私に教えた。さらに日本語に現れている日本文化について解説した。おもしろかったので書き留める。
”俺が、私が、彼が”と言う主語、或いはそれを暗示する格が無くても通用する言語はおそらく日本語だけではなかろうか。それが無くても”会話は成立する”・・・例えば”昨日どこへ行ったの?”と言う言葉に主語も主格もない。が、それを言われた数人の人の誰かは”何処其処”と答える。
これは日本人が”全体性の意識”中で生きている、”他者と自分の区別が余り明確でない”ことの現れではないか?と彼は言う。その付言として言ったのが次のようなことであった。
幕末から明治維新にかけてやって来た外国人は最初、日本人は”博愛の精神”が無い、と見た。しかし長く見聞するうちに考え方が変わった。例えば、神社の境内で暮らす、或いはそこで物乞いをする病人を”放置”している、何と冷酷な、と最初は思ったが、時経つうちに日本人たちが”明日はわが身かもしれないが、それも天の定め”なる諦観のうちに生きている、自分にも何時そのような事が起こるか分からないがそれはそれで自分の”分”として甘んじる覚悟・・・大して違うものでもないとの思いで生きている、ということに気がついた。
また、西欧人は人間と動物を峻別し差別と保護の概念があるが日本人はその観念も薄いことに気着いた。例えば炎天下で使役する牛の頭上に日よけのコモをかぶせてある、池の鯉が夜中に野鳥の害に会わぬように夜は洞窟の中に追いやる、などを見て仰天した。・・・確かに、私の祖母もネコを苛める私に向かって”家族の一員じゃから、苛めてはいけない”と言った。ペットなる概念はさらさら無かった。話が逸れるが犬用の防寒着などと言う発想は未だに日本人がペットの真の意味を理解していない、犬もネコも”家族”の概念が生きているのではなかろうかと思う。
以上は”逝きし世の面影”なる本の記事だそうだ。そこで私もその本を読んでみた。すると終わりの方に、しかしこの日本的なものは近代化に従って捨て去れらる運命にある、と言う意味のことが書かれている。そこには”個”を主張する西欧近代の啓蒙思想こそが”進歩した文化の表れ”である意味がほのめかされている。
しかし、まさにその”個”を重んずる、主張することが現代の病巣ではないか?”頑張ったものにはそれだけの報いがあってしかるべきであり恵まれないものはそれだけの理由がある、そんなものに自分の頑張りの成果など分けてやるものか”の思想がアメリカのカウボーイ経済ではないか?”自己主張の軋轢を解決する手段”として訴訟があり、はなはだしくは銃があり、そこから”絶えざる緊張”が生まれ、あらゆることにバネ仕掛けの反応・・・強烈な有無を言わさぬ自己主張と防御動作が出てくる。或いは”己の才覚によって稼ぐ、際限なく稼いで何が悪いか?”となる。
その同じ象限の中に、”国の借金1000兆円、ドーするんだ?!”の論議が出てくるように思う。もしこれが個人と全体を峻別しない江戸時代以前の概念にの中に置かれたら、それでみんながしあわせならエージャナイカ、エージャナイカになるのではなかろうか。日本人の心の底にある、”貧しきを憂えず、等しからざるを憂う”の概念はそういうところに起因するのではないか?
そこにしか、つまり全体性への回帰しか最早現代社会の未来展望は開けないのではなかろうか。そう考えると国、ではない、政府つまり国家を運営する組織の借金1000兆円とか現在の経済的閉塞感を解決出来るのは最早経済学ではなく哲学ではあるまいか。且つもし仮に世界に先んじて日本がそれに成功したら・・・多分国民のモラルの程度から推してそれを出来る唯一の国が日本であろう・・・間違いなく日本人が21世紀以降の指導者だろう。奇しくも12月23日から占星学的には地球は支配被支配、権力、闘争の星、魚座を離れ協調と平衡の水がめ座(だったかな、記憶あいまい)に移行した由。
”俺が、私が、彼が”と言う主語、或いはそれを暗示する格が無くても通用する言語はおそらく日本語だけではなかろうか。それが無くても”会話は成立する”・・・例えば”昨日どこへ行ったの?”と言う言葉に主語も主格もない。が、それを言われた数人の人の誰かは”何処其処”と答える。
これは日本人が”全体性の意識”中で生きている、”他者と自分の区別が余り明確でない”ことの現れではないか?と彼は言う。その付言として言ったのが次のようなことであった。
幕末から明治維新にかけてやって来た外国人は最初、日本人は”博愛の精神”が無い、と見た。しかし長く見聞するうちに考え方が変わった。例えば、神社の境内で暮らす、或いはそこで物乞いをする病人を”放置”している、何と冷酷な、と最初は思ったが、時経つうちに日本人たちが”明日はわが身かもしれないが、それも天の定め”なる諦観のうちに生きている、自分にも何時そのような事が起こるか分からないがそれはそれで自分の”分”として甘んじる覚悟・・・大して違うものでもないとの思いで生きている、ということに気がついた。
また、西欧人は人間と動物を峻別し差別と保護の概念があるが日本人はその観念も薄いことに気着いた。例えば炎天下で使役する牛の頭上に日よけのコモをかぶせてある、池の鯉が夜中に野鳥の害に会わぬように夜は洞窟の中に追いやる、などを見て仰天した。・・・確かに、私の祖母もネコを苛める私に向かって”家族の一員じゃから、苛めてはいけない”と言った。ペットなる概念はさらさら無かった。話が逸れるが犬用の防寒着などと言う発想は未だに日本人がペットの真の意味を理解していない、犬もネコも”家族”の概念が生きているのではなかろうかと思う。
以上は”逝きし世の面影”なる本の記事だそうだ。そこで私もその本を読んでみた。すると終わりの方に、しかしこの日本的なものは近代化に従って捨て去れらる運命にある、と言う意味のことが書かれている。そこには”個”を主張する西欧近代の啓蒙思想こそが”進歩した文化の表れ”である意味がほのめかされている。
しかし、まさにその”個”を重んずる、主張することが現代の病巣ではないか?”頑張ったものにはそれだけの報いがあってしかるべきであり恵まれないものはそれだけの理由がある、そんなものに自分の頑張りの成果など分けてやるものか”の思想がアメリカのカウボーイ経済ではないか?”自己主張の軋轢を解決する手段”として訴訟があり、はなはだしくは銃があり、そこから”絶えざる緊張”が生まれ、あらゆることにバネ仕掛けの反応・・・強烈な有無を言わさぬ自己主張と防御動作が出てくる。或いは”己の才覚によって稼ぐ、際限なく稼いで何が悪いか?”となる。
その同じ象限の中に、”国の借金1000兆円、ドーするんだ?!”の論議が出てくるように思う。もしこれが個人と全体を峻別しない江戸時代以前の概念にの中に置かれたら、それでみんながしあわせならエージャナイカ、エージャナイカになるのではなかろうか。日本人の心の底にある、”貧しきを憂えず、等しからざるを憂う”の概念はそういうところに起因するのではないか?
そこにしか、つまり全体性への回帰しか最早現代社会の未来展望は開けないのではなかろうか。そう考えると国、ではない、政府つまり国家を運営する組織の借金1000兆円とか現在の経済的閉塞感を解決出来るのは最早経済学ではなく哲学ではあるまいか。且つもし仮に世界に先んじて日本がそれに成功したら・・・多分国民のモラルの程度から推してそれを出来る唯一の国が日本であろう・・・間違いなく日本人が21世紀以降の指導者だろう。奇しくも12月23日から占星学的には地球は支配被支配、権力、闘争の星、魚座を離れ協調と平衡の水がめ座(だったかな、記憶あいまい)に移行した由。
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