飛鳥川
昨日は夫の友人のIさんが、滋賀県一宮である多賀大社の神男になられるというので、お祝いを兼ねて大祭に出かけました。翌日は台風24号の予報。前日の昨日は快晴.彼は晴れ男なのでしょう。この日は半年も前から決められていました。神職と同じ衣装で木靴も履いておられます。前夜から身を清める儀式をされたようです。下着は一切つけず巫女さんに着付けは任せます。伊勢神宮の親元である歴史あるこの神社には、全国に末社が239社あります。ほぼ各県にあり、岐阜と愛知が最も多いです。
JR米原から近江鉄道というローカル線にはじめて乗りました。赤字路線の赤字埋め合わせは町がしているそうです。米原から乗り換え、終点の多賀大社前駅から徒歩10分。その参道に見逃せない宝物がありました。国指定の重要文化財の仏像がある寺院。平安時代の定朝作ということは一目で分かりました。管理の老婦人が親切に電車の時間を教えて下さいました。撮影自由も嬉しかったです。参道には、井伊直弼に影響を与えた村山たか女の生家もあり、ここも車で来たら見逃すところでした。直弼の死のあと、許されて長く生きたようです。
多賀大社の宝物殿とか秀吉寄進の奥書院と庭園は大祭のときは非公開で、がっかりしたのですが・・・能楽堂から生の謡曲か聞こえ、それがバックグランドミュージックとなり、Iさんたちの行進とあとは口上があり、巫女さんの舞が奉納されました。
一日切符を勧められこれを買いました。彦根城も途中下車して寄ろうかとも思いましたが、あまりの暑さにばててしまいました。
近江鉄道 米原発多賀大社行き 一日切符 彦根も通ります
これでは赤字 乗り換え駅は草ぼうぼう
秀吉寄進の太鼓橋 濃州岐阜と右から書かれています
能楽堂
真中の白い衣装が神男Iさん
阿弥陀如来 国指定重文 帰りに寄った寺院にて 村山たか女の生家
近江長岡からの伊吹山 我が家から見る形と全く違います
仙人草
雑草にもこんなかわいい花があることをこれまで知りませんでした。我が家の生垣にからみついて、植えた覚えのない白い小さな花が咲いています。名前はネットで教えていただき、仙人草であることが分かりました。更に調べると、「キンポウゲ科の多年生のつる草で、北海道から九州までの全国や朝鮮半島、台湾、中国中部の比較的標高の高い地域に分布しています。」とありました。扁桃腺治療に効果があるらしく、薬草園にもあるようです。
薬草としての使用方法は、腕で試すと、水ぶくれができて、跡も残るので注意するよう書いてありました。葉を絞りそのエキスを腕に付けるようですが・・・跡が残っても扁桃腺を治したい人にはよいようです。動物は毒性を知っているためか、決して食べないそうです。
大抵スマホを枕元におくのですが、昨夜10時すぎヤフーニュースの受信音.先日の北海道地震の時も3時過ぎに同じ発信音がありましたので、また地震かしらとページを開けると、広島優勝の報。3年連続9度目の優勝でした。地震でなくてよかったです。
仙人草
一昨日はとても綺麗な夕焼けでしたが、これはもっと以前に撮影したもの 北の窓より撮った岐阜市方面
一昨年に続いて、今年も笠松町の鮎鮨街道のイベントに参加しました。昨日午後2時すぎ、前日の雨も晴れて定刻に町商工会館前をスタート。教育長の挨拶にはじまり、先導役に続きます。高嶋商店の前で、引き継ぎ式。江戸時代の古文書が高嶋家に残されているので、その文体で中学生が朗読。候(そうろう) 文も読めました。
高嶋家は、濃尾震災で倒壊はしたものの、火災に遭わなかったため、天保13年発行の「鮎鮨継立帳」が残りました。この古文書にのっとり、このイベントが12年前から行われています。そこには、岐阜の加納より、次の一宮に運ばれていくことが書かれているのです。愛知県一宮までは、笠松港から船にて送られます。高嶋家での引き継ぎ式は、当主の九代目の高嶋氏が迎えて下さいました。先年、そこで味噌を買ったことがあります。代々味噌醸造業を営みながら、庄屋も勤めておられました。庄屋の前で引き継ぎます。
鮎鮨街道とは、徳川時代、将軍のいる江戸まで、夜昼を問わず歩き続け、5日をかけて、江戸まで長良川の鮎をなれずしにして運んだ街道のこと。江戸までは東海道。46宿の中継地点がありました。5日後になれずしが丁度良い味加減になるよう作られました。今の寿司とは味が違い発酵されたものです。
12年前は岐阜からスタートしていたのですが、5年前に岐阜市は止めてしまったため、笠松独自で行われています。岐阜市の長良川畔からスタートし、名古屋街道に沿い、運ばれていました。名古屋街道は今もその時代ままの道幅。笠松港から木曽川を船で渡り、一宮の真清田神社に向かいます。次の中継地は、尾張の一宮です。
スタート地点 中継地点
高嶋家前で休憩 後方は9代当主 笠松港近くに到着
町長挨拶
毎年8月はお休みですから、昨日は2ヶ月ぶりの短歌会でした。もう来月は文化祭の準備です。2首選んで貰うよう伝えました。歌会後は新人歓迎の食事会でしたが、肝心の主役のHさんがが夏風邪でお休み。少し寂しい歓迎会でしたが、教室では話せない話題も出て、リラックスしました。
いつも万葉集ですが、昨日はそれに関連する古事記と日本書紀についての話もしました。万葉の歌の中には、日本書紀との関連が必要となってくるからです。実物を持参してその一部分を教材としました。いつもより皆さんは興味深そうでした。次の万葉歌に移るとき、どうしても必要なのです。教材は日本書紀ですが、古事記との関連性も話す必要があります。今月の歌は今年の酷暑を物語っています。
今月の歌
猛暑日は涼しき我家の部屋にゐて猫など撫でて過ごすがよろし Mさん
デザートの果物が隠れてしまいました
昨日頂いた彼岸だんごなど
猛暑のため今頃ハイビスカスの一番花が・・・ これは夏から咲き続けています
リメンバー・ミーは、昨年制作された米国映画。アニメでアカデミー賞をとりました。最初は不気味などくろですが、慣れてくると愛着が感じられます。機関紙ハーストーリーにも紹介されたこともあり、事務所でDVD鑑賞しました。月一度、ハーストーリーを読んだり、支援国ハイチへのプレゼントを作ったりしています。めがねケースは完成。めがねチェーンも完成しましたので、来月2日ハイチに持ち運んで貰います。
このアニメは、笑いもありますが、霊界を感じさせる深刻さもあります。何しろひいひいじいさんたちと話す物語ですから。ヒロインは、ある時死者の国に迷い込みます。そこは夢の国のように美しくガイコツたちが楽しく暮らす国。ただし、日の出までに生者の国に戻らないと、体は消えてしまいます。
年一度先祖が家族に会いに来るメキシコの祝祭「死者の日」をモチーフにしているためか、所々にスペイン語が入っています。日本語訳にするとき、スペイン語はそのままにしたようです。原作は英語のはずですから。
めがねケース制作途中 完成
昨日は、母の49日法要を営みました。これで一応一区切りはつきまして、次は来年の一周忌となります。いつも自宅で営むのですが、今回ははじめて葬儀会場に頼みました。母の葬儀を営んだところです。すべて一括して楽になる予定でしたが、いろいろあって、来年は考え直す必要があります。最年少の東京の孫と会えたのも楽しかったし、日ごろ会わない親族との話も貴重です。妹と孫は京都住まい。京大生の孫はまだ夏休みということで、顔を見せてくました。今回の台風21号のすさまじさは岐阜以上だったようです。京都ではまだ倒木があちこち散乱しているようです。
祭壇 前日届いた供花
料理の一部 デザート
来年は一年生 最年少の孫 数珠を手に
そこら中に米国にまで韓国は日本憎しと、従軍慰安婦像を、これでもかと言わんばかりに作り続けています。それに加えて徴用工のものまで作ろうとしているのは、嘆かわしく、ゆゆしいことです。
あまり知られていませんが、You tubeによると韓国兵がベトナム戦争中、ベトナム女性に子供を何千人も作らせました。万という単位かもしれない子供が現実にいるのです。ベトナムの人はおとなしくて、騒がないので、韓国も知らぬふりをして平然としています。ベトナムに働きかけて、ライダイハン像(下記のネット参照) を作れば、韓国もあわてるのではないでしょうか。日本は直接関与していないので、騒いでも国際社会は気にとめてくれないですが、ベトナムが訴えてくれれば、韓国も少しは慰安婦像を控えるのではないでしょうか。韓国は日本以外の国から苦情を言われると、ひどくおびえるようです。英国ではそのライダイハン像を作る話があります。
http://www.sankei.com/world/news/170919/wor1709190010-n2.html
別のサイトに以下の情報がありましたので追記します。韓国も謝罪はするようです。
【 挺対協、ベトナム大使館前で「韓国軍の戦争犯罪を謝罪します」】(ハンギョレ新聞)
日本軍「慰安婦」被害者支援団体である韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)と人権・女性団体が在韓ベトナム大使館の前でリレー1人デモを始めた。ベトナム戦争当時、韓国軍人たちの戦争犯罪で苦痛を受けたベトナム被害者らに謝罪するためだ。挺対協は11月、ベトナム韓国軍民間人虐殺被害地域に「謝罪紀行」にも発つ予定だ。
最初のデモ実行者として立った挺対協の尹美香(ユン・ミヒャン)常任代表は、14日朝8時30分頃、ソウル鍾路区(チョンノグ)の駐韓ベトナム大使館前で「ベトナム政府とベトナム人民に韓国国民として心から謝罪いたします」と書いたプラカードを持って一時間強1人デモをした。尹代表が韓国語とベトナム語2カ国語で作成されたプラカードを持って立っていると、一人のベトナム国籍市民が近づいてきてありがとうという挨拶をする場面もあった。
県庁近くの銀杏
昨日は老人会会員S子さんの告別式が営まれましたので、夫と二人で参列しました。行年82歳。まだ8月に彼女の畑で会ったばかり。畑までは車でいつも行かれていました。畑はお墓の近くにあるので、花を供えるとき、よく会うのです。体調が悪いので、来週入院しようかしら、と言われていた矢先、突然悪化したので、救急車で病院へ。これこそピンピンコロリでした。長患いせず、羨ましい死に方です。周囲は大変あわてておられましたが・・・喪主であるご子息は小学校の先生。遺族代表挨拶もスムースです。中には紙を見ながらでもガクガク震えている人もありましたのに。
昨日の僧侶はカミソリあて、という珍しい葬儀の作法をされました。親鸞によると、人は、もとどり(髻)を3ヶ所カミソリで切り、その時から法名つまり、院号に変わるのだそうです。その3つの内容は忘れましたが、いろいろなことを象徴していました。本物のカミソリを持ち、空間で切られました。真宗のお葬式は何度も出ましたが、この作法は初めて。正信偈のお経は、リズム感のある唱え方でこれにも驚きました、まるで歌を聞いているような心地よさでした。霊柩車が発車するとき、かすかに「マイウエイ」が流れていました。
S子さんは娘時代、母に裁縫を習っていました.昭和30年代、母は頼まれて、和裁の個人指導をしていました。嫁ぐ前に自分で婚礼の準備をするのです。すべて自分で縫い上げるのですから、半年くらい来られていたでしょうか。お礼は家でとれた野菜。ボランティアと言えたかもしれないです。彼女の明るい性格は、一生変わらなかったです。 合掌
式場
昨日は放送大学研修旅行で、揖斐川町の奥にある徳山ダムに行きました。行きのバス中では岐阜大学原田教授の話を聞き、ダムの手前にある水と森の学習館では、竹内徳山ダム管理所所長の講義を聞きました。いつものように学ぶところが多い旅行でした。木曽川、長良川、揖斐川の木曽三川について知っているつもりが何も分かっていませんでした。木曽川と揖斐川は、渓谷が多いので、並外れて多くのダムが建設されています。長良川はなだらかな川でダムが殆どありません。木曽川の水は岐阜県ばかりでなく名古屋市にも提供しています。大都市では地下水源を頼っている所も多いのに、岐阜県は他県に提供しています。木曽川流域にある多くのダムは、関西電力が管轄してるとは知りませんでした。揖斐川流域は中部電力です。
徳山ダムは、電力ばかりでなく、水資源(農業用水、工業用水) 洪水調節にも役に立っています。先日の台風21号のときの降雨時も、洪水が起きないよう水量が調節されました。古い形式のダムは、電力だけのようです。
2時間の講義のあとは、タム底までエレベーターで降りて地底を視察。気温は14度。地底の設備は撮影禁止でしたので、坑道のみとします。
最下段右側の写真は、亡くなるまで徳山村を撮影した増山たづ子さん撮影のもの、彼女は戦争に行った夫が帰ったら、ダムに沈むふるさとの写真を見せてあげようと、何百枚もの写真を撮り続けました。写真展も開かれ、これはその一枚。岐阜の新聞には何度も彼女のことが掲載されました。反対運動も多くて、ダム決定までの日にちが長かったので、何年にも亘り撮影されました。
風様のコメントを見ての追加記事;ダム形式は、ロックフィルダム。総貯水容量は、6億6000万立方m.これは日本一で、浜名湖の2倍。堤体積は、1370万立方m.これも日本一。2008年完成。建設には50年以上かかりました。
昨日はテニスの大坂なおみ選手が、日本人女子はじめての世界4大タイトルの一つ全米オープンを制覇しました。ハイチは、私たちがボランティアで支援している国のひとつてす。なおみさんのお父上はハイチ人です。
赤色の四角いマークがダム
21号台風の水位調節
レジュメの一部
揖斐川上流 竹内氏の講義
ダム底 気温14度 湿度88%
坑道 徳山ダム
ダム堤 増山たづ子さんの写真