伊勢雅臣氏のメルマガより (途中からですが)
■3.「和夫君をどうしても中学校に入れてやってください」
稲盛和夫は自分の前半生を「悲惨」だったと言う。
戦時中、鹿児島で小学生だった稲盛少年は
いたずらばかりしているガキ大将だった。
小学校卒業とともに名門旧制中学を受験するが、
勉強もしていなかったので不合格。
中学に行けない生徒は国民学校の高等科で
2年学んでから就職というのが、
一般的な進路だったので、その道に進んだ。
昭和19(1944)年暮れ、風邪を引き、
すっと寝込んでいたが、医者に診て貰うと、
なんと結核の初期症状。
当時は結核は死に直結する病で、
医者は「安静にして、十分栄養を」と言うが、
戦争末期、食糧難の最中では栄養補給もままならなかった。
年があけて昭和20年、
小学校の担任だった土井先生が
空襲の中を家まで訪ねてきた。
何事かといぶかる両親に、土井先生は
「和夫君をどうしても中学校に入れてやってください」
と頼んだ。
願書まで提出してくれていた。
試験当日は、防空頭巾をかぶって、
「和夫君を借りていきます」と、熱の残る手を引いて、
名門鹿児島一中の試験会場まで連れていってくれた。
しかし、そんな体調では受かるはずもなく、二度目の不合格。
稲盛少年は「もう中学校にいくのはあきらめよう」と思った。
鹿児島でもしょっちゅう米軍の空襲があり、
さらに結核の身では将来の希望を持てる状況ではなかった。
しかし、土井先生はまた家にやってきて
「鹿児島一中は受からなかったけど、
何としても中学校に行きなさい」。
両親も「この子は病気ですから、
と言ったが、先生は願書を出してくれていて、
「受付は終わっているから、必ず試験に行くように」と聞かない。
土井先生の厚意、善意のままに、稲盛少年は鹿児島中学を受験し、
何とか合格できた。
土井先生が願書を出してまで勧めてくれなければ、
まちがいなく稲盛少年は国民学校高等科卒で就職していた。
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小学校時代の同窓会に顔を出しますと、小学校を卒業し、
市バスやタクシーの運転手になった同級生や、
実家の食堂を継いだという同級生に出会い、
昔話に花が咲くことがあります。
私も田舎でそのような人生を送っても、
なんらおかしくなかったのです。
今日(こんにち)があるのは、
土井先生のおかげだと強く思い、
今も心から感謝しています。[2,p210]
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■4.大学進学に両親を説得してくれた辛島先生
昭和20年春、旧制中学に進学したが、
敗戦により新制高校に進んだ。卒業を迎える頃になり、
貧乏人の子沢山の家だったので、
長兄と同様に、地元で就職しようと考えていた。
ところがクラス担任をしていた
辛島(からしま)政雄先生が家にやってきて、
「稲盛君は学校で一、二の成績だし、就職するのは惜しいですよ。
苦しいでしょうが、大学で勉強をし、
好きな道に進ませた方がいいと思います。ぜひ考え直して下さい」
就職を希望する両親に説いた。
学資についても「大学で奨学金を貰い、
アルバイトをすれば何とかなる」と、渋る両親に熱弁をふるった。
その結果、大学を目指すことになったが、
志望していた大学は落第、
地元の鹿児島大学工学部応用化学科に進学することになった。
そして大学の4年間、懸命に勉強をする。
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もし、辛島先生がわざわざ家まで訪ねてくださり、
両親を説得してくださらなかったとすれば、
やはり今日の私はなかったに違いありません。[2,p212]
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■5.あちこち駆けずり回って就職先を世話してくれた竹下先生
いよいよ大学を卒業する頃は、まだ戦後10年で、
しかも朝鮮戦争終了後の不況で、
特に地方大学の出身者には、
思うような会社に就職することは大変、難しい状況だった。
指導教授だった竹下寿雄先生は大変心配して、
あちこち駆けずり回って、
ようやく京都の松風(しょうふう)工業という
碍子(がいし)製造会社を紹介してくれた。
しかし大学では有機化学を専攻していたので、
急遽、磁器、すなわち無機化学を勉強しなければならなくなった。
そこで半年間だけ粘土鉱物の研究に携わり、
ハロサイトという結晶を発見するなど、
半年間の成果を卒業論文としてまとめた。
卒論の発表会で、新たに着任した内野正夫先生の目に留まった。
東京帝国大学応用化学を出て、
満洲で軽金属製造を指揮するなど、
第一級の先端技術者として活躍していた人だった。
内野先生は「あなたの論文は東大の学生よりも素晴らしい。
あなたはきっと素晴らしいエンジニアになりますよ」
とまで言ってくれた。
■6.「絶対にパキスタンに行ってはなりません」
松風工業に就職してからも、
内野先生は鹿児島から東京に出張する都度、
京都駅に停車する時間を電報で知らせてくれて、
その都度、わずかな停車時間中に、
いろいろ研究上や人生面のアドバイスを受けた。
パキスタンから松風工業に実習に来た青年が、
母国で碍子を作っている大きな会社の御曹司で、
「ぜひパキスタンに来て欲しい」と何度も誘われた。
この件で内野先生に相談すると、こう言われた。
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絶対にパキスタンに行ってはなりません。
せっかくここまで高めてきた技術を、
パキスタンで切り売りすれば、
数年後に日本に帰ってきたときには、
エンジニアとしてのあなたは使い物にならなくなっているでしょう
あなたがパキスタンにいる間に、
日本の技術は日進月歩で進んでいくはずです。
ぜひ日本で頑張り続けなさい。[2,p218]
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このままパキスタンに行っていたら、
中途半端なエンジニアで終わっていたろう、
と稲盛は述懐する。
後に内野先生は鹿児島大学を辞めて、
ある会社の東京研究所の所長となるが、
稲盛は東京に出張するたびに先生を訪問して、
新製品や新規事業の技術的アドバイスを受けたり、
大学研究機関への紹介をお願いしたりした。
■7.「我が師」
松風工業に入社して3年ほど経った頃、
新しい研究テーマについて、
経営幹部と意見が合わなくなり、会社を辞めることになった。
それを機に、元の上司とその友人たちが
「稲盛和夫が研究開発した技術を世間に問うための場」として、
新しい会社を作ってくれた。
これが今の京セラの前身である。
元の上司が大学時代の同級生・
西枝一江(にしえだ・いちえ)さんを紹介してくれた。
西枝さんは初めて稲盛と会った時には
「こんな若造が」という反応しか示さなかったが、
何度も通い詰めて、
ファインセラミックスの可能性を繰り返し説いていくうちに、
「やってみるか」と言ってくれるようになった。
そして、自分の家屋敷を担保にして
1千万円の開業資金を用意してくれた。
この西枝さんの支援があってこそ、京セラを創業できたのである。
西枝さんは経営のあり方から、酒の飲み方まで、
実に多くのことを教えてくれた。
会社の状況を報告するたびに、
京セラの成長を我がことにように喜んでくれた。
ある時、京セラを上場させようと思って、西枝さんに相談した。
上場により、大株主である西枝さん自身が
相当の利益を手にすることができるので、
喜んでいただけると思っていた所、
「そんなことはやめなさい」と言う。
「訳のわからない株主に経営を左右されるような
上場などするべきではない」と言うのである。
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それほど、欲のない、心の美しい方でした。
今も、そのお姿を思い返すとき、私は心の底から、
「我が師」と呼ばせていただきたいと思います。[1,p222]
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■8.感謝、幸せ、世のため人のため
自分の前半生を稲盛はこう振り返る。
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悲惨な前半生が続いていましたが、
松風工業に入り、研究に打ち込み、その成果をもって、
京セラという会社をつくっていただく頃になりますと、
自分の人生を振り返って、今あるのも、
様々な方々との出会いと助けがあったからだと
はじめて思えるようになってきたのです。[1,p236]
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「感謝」の念が湧き起こってくると、
自分の「幸せ」を感じ始めるようになった。
すると、さらに他の人々の幸せをも願うという気持ちが
自然に湧き出てくるようになってきた。
京セラが20代の若者中心にできた時、
仲間でつくった誓詞血判状には、
「世のため人のために尽くす」という言葉を盛り込んでいた。
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京セラがスタートすると、
そのできたばかりの会社をどのように経営していけばよいのか、
私は大変悩みました。
8人の仲間が集まり、20人の従業員を採用し、
28名で会社を創業したのですが、経営を誤り、
会社を潰せば、大変なことになります。
せっかく集まった従業員たちを絶対に路頭に迷わせてはならない。
そのために、私は「誰にも負けない努力」を払うことを心に誓い、
今日まで必死に働いて参りました。[1,p237]
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この稲盛の姿勢と、それに共感した多くの人々が、
京セラ、KDDI、日航の成功を実現したのである。
稲盛の説く「成功への要諦」を一言で言えば、
「感謝、幸せ、恩返し」ということになろう。
そもそも稲盛和夫を育てた人びとも
「世のため人のため」と思って、
その成長、成功のために尽くしたのである。
それに感謝し、幸せに思った稲盛が
今度は恩返しとして「世のため人のため」に尽くしている。
稲盛和夫の説く「成功の要諦」は事業の成功だけでなく、
人びとが互いに感謝し合う、幸せな社会を築く道なのである。
(文責:伊勢雅臣)
写真は岐阜県産の梨