つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

京セラ稲盛和夫の半生

2023-08-31 | Weblog

伊勢雅臣氏のメルマガより (途中からですが)

■3.「和夫君をどうしても中学校に入れてやってください」

 稲盛和夫は自分の前半生を「悲惨」だったと言う。

 戦時中、鹿児島で小学生だった稲盛少年は
いたずらばかりしているガキ大将だった。

小学校卒業とともに名門旧制中学を受験するが、
勉強もしていなかったので不合格。

中学に行けない生徒は国民学校の高等科で
2年学んでから就職というのが、
一般的な進路だったので、その道に進んだ。


 昭和19(1944)年暮れ、風邪を引き、
すっと寝込んでいたが、医者に診て貰うと、
なんと結核の初期症状。

当時は結核は死に直結する病で、
医者は「安静にして、十分栄養を」と言うが、
戦争末期、食糧難の最中では栄養補給もままならなかった。


 年があけて昭和20年、
小学校の担任だった土井先生が
空襲の中を家まで訪ねてきた。

何事かといぶかる両親に、土井先生は
「和夫君をどうしても中学校に入れてやってください」
と頼んだ。
願書まで提出してくれていた。


 試験当日は、防空頭巾をかぶって、
「和夫君を借りていきます」と、熱の残る手を引いて、
名門鹿児島一中の試験会場まで連れていってくれた。
しかし、そんな体調では受かるはずもなく、二度目の不合格。

 稲盛少年は「もう中学校にいくのはあきらめよう」と思った。

鹿児島でもしょっちゅう米軍の空襲があり、
さらに結核の身では将来の希望を持てる状況ではなかった。


 しかし、土井先生はまた家にやってきて
「鹿児島一中は受からなかったけど、鹿児島中学という私立校がある。
何としても中学校に行きなさい」。

両親も「この子は病気ですから、中学校には行かせないつもりです」
と言ったが、先生は願書を出してくれていて、
「受付は終わっているから、必ず試験に行くように」と聞かない。


 土井先生の厚意、善意のままに、稲盛少年は鹿児島中学を受験し、
何とか合格できた。

土井先生が願書を出してまで勧めてくれなければ、
まちがいなく稲盛少年は国民学校高等科卒で就職していた。

__________
 小学校時代の同窓会に顔を出しますと、小学校を卒業し、
市バスやタクシーの運転手になった同級生や、
実家の食堂を継いだという同級生に出会い、
昔話に花が咲くことがあります。

私も田舎でそのような人生を送っても、
なんらおかしくなかったのです。

今日(こんにち)があるのは、
土井先生のおかげだと強く思い、
今も心から感謝しています。[2,p210]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■4.大学進学に両親を説得してくれた辛島先生

 昭和20年春、旧制中学に進学したが、
敗戦により新制高校に進んだ。卒業を迎える頃になり、
貧乏人の子沢山の家だったので、
長兄と同様に、地元で就職しようと考えていた。


 ところがクラス担任をしていた
辛島(からしま)政雄先生が家にやってきて、
「稲盛君は学校で一、二の成績だし、就職するのは惜しいですよ。
苦しいでしょうが、大学で勉強をし、
好きな道に進ませた方がいいと思います。ぜひ考え直して下さい」と、
就職を希望する両親に説いた。


 学資についても「大学で奨学金を貰い、
アルバイトをすれば何とかなる」と、渋る両親に熱弁をふるった。

その結果、大学を目指すことになったが、
志望していた大学は落第、
地元の鹿児島大学工学部応用化学科に進学することになった。
そして大学の4年間、懸命に勉強をする。

__________
 もし、辛島先生がわざわざ家まで訪ねてくださり、
両親を説得してくださらなかったとすれば、
やはり今日の私はなかったに違いありません。[2,p212]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■5.あちこち駆けずり回って就職先を世話してくれた竹下先生

 いよいよ大学を卒業する頃は、まだ戦後10年で、
しかも朝鮮戦争終了後の不況で、就職先がなかなか見つからなかった。

特に地方大学の出身者には、
思うような会社に就職することは大変、難しい状況だった。


 指導教授だった竹下寿雄先生は大変心配して、
あちこち駆けずり回って、
ようやく京都の松風(しょうふう)工業という
碍子(がいし)製造会社を紹介してくれた。


 しかし大学では有機化学を専攻していたので、
急遽、磁器、すなわち無機化学を勉強しなければならなくなった。

そこで半年間だけ粘土鉱物の研究に携わり、
ハロサイトという結晶を発見するなど、
半年間の成果を卒業論文としてまとめた。


 卒論の発表会で、新たに着任した内野正夫先生の目に留まった。
東京帝国大学応用化学を出て、
満洲で軽金属製造を指揮するなど、
第一級の先端技術者として活躍していた人だった。

内野先生は「あなたの論文は東大の学生よりも素晴らしい。
あなたはきっと素晴らしいエンジニアになりますよ」
とまで言ってくれた。


■6.「絶対にパキスタンに行ってはなりません」

 松風工業に就職してからも、
内野先生は鹿児島から東京に出張する都度、
京都駅に停車する時間を電報で知らせてくれて、
その都度、わずかな停車時間中に、
いろいろ研究上や人生面のアドバイスを受けた。


 パキスタンから松風工業に実習に来た青年が、
母国で碍子を作っている大きな会社の御曹司で、
「ぜひパキスタンに来て欲しい」と何度も誘われた。

この件で内野先生に相談すると、こう言われた。

__________
 絶対にパキスタンに行ってはなりません。
せっかくここまで高めてきた技術を、
パキスタンで切り売りすれば、
数年後に日本に帰ってきたときには、
エンジニアとしてのあなたは使い物にならなくなっているでしょう

あなたがパキスタンにいる間に、
日本の技術は日進月歩で進んでいくはずです。
ぜひ日本で頑張り続けなさい。[2,p218]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 このままパキスタンに行っていたら、
中途半端なエンジニアで終わっていたろう、
と稲盛は述懐する。


 後に内野先生は鹿児島大学を辞めて、
ある会社の東京研究所の所長となるが、
稲盛は東京に出張するたびに先生を訪問して、
新製品や新規事業の技術的アドバイスを受けたり、
大学研究機関への紹介をお願いしたりした。


■7.「我が師」

 松風工業に入社して3年ほど経った頃、
新しい研究テーマについて、
経営幹部と意見が合わなくなり、会社を辞めることになった。

それを機に、元の上司とその友人たちが
「稲盛和夫が研究開発した技術を世間に問うための場」として、
新しい会社を作ってくれた。

これが今の京セラの前身である。


 元の上司が大学時代の同級生・
西枝一江(にしえだ・いちえ)さんを紹介してくれた。

西枝さんは初めて稲盛と会った時には
「こんな若造が」という反応しか示さなかったが、
何度も通い詰めて、
ファインセラミックスの可能性を繰り返し説いていくうちに、
「やってみるか」と言ってくれるようになった。


 そして、自分の家屋敷を担保にして
1千万円の開業資金を用意してくれた。

この西枝さんの支援があってこそ、京セラを創業できたのである。


 西枝さんは経営のあり方から、酒の飲み方まで、
実に多くのことを教えてくれた。

会社の状況を報告するたびに、
京セラの成長を我がことにように喜んでくれた。


 ある時、京セラを上場させようと思って、西枝さんに相談した。

上場により、大株主である西枝さん自身が
相当の利益を手にすることができるので、
喜んでいただけると思っていた所、
「そんなことはやめなさい」と言う。

「訳のわからない株主に経営を左右されるような
上場などするべきではない」と言うのである。

__________
 それほど、欲のない、心の美しい方でした。

今も、そのお姿を思い返すとき、私は心の底から、
「我が師」と呼ばせていただきたいと思います。[1,p222]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■8.感謝、幸せ、世のため人のため

 自分の前半生を稲盛はこう振り返る。

__________
 悲惨な前半生が続いていましたが、
松風工業に入り、研究に打ち込み、その成果をもって、
京セラという会社をつくっていただく頃になりますと、
自分の人生を振り返って、今あるのも、
様々な方々との出会いと助けがあったからだと
はじめて思えるようになってきたのです。[1,p236]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「感謝」の念が湧き起こってくると、
自分の「幸せ」を感じ始めるようになった。

すると、さらに他の人々の幸せをも願うという気持ちが
自然に湧き出てくるようになってきた。

 京セラが20代の若者中心にできた時、
仲間でつくった誓詞血判状には、
「世のため人のために尽くす」という言葉を盛り込んでいた。

__________
 京セラがスタートすると、
そのできたばかりの会社をどのように経営していけばよいのか、
私は大変悩みました。

8人の仲間が集まり、20人の従業員を採用し、
28名で会社を創業したのですが、経営を誤り、
会社を潰せば、大変なことになります。

せっかく集まった従業員たちを絶対に路頭に迷わせてはならない。

そのために、私は「誰にも負けない努力」を払うことを心に誓い、
今日まで必死に働いて参りました。[1,p237]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この稲盛の姿勢と、それに共感した多くの人々が、
京セラ、KDDI、日航の成功を実現したのである。

稲盛の説く「成功への要諦」を一言で言えば、
「感謝、幸せ、恩返し」ということになろう。


 そもそも稲盛和夫を育てた人びとも
「世のため人のため」と思って、
その成長、成功のために尽くしたのである。

それに感謝し、幸せに思った稲盛が
今度は恩返しとして「世のため人のため」に尽くしている。


 稲盛和夫の説く「成功の要諦」は事業の成功だけでなく、
人びとが互いに感謝し合う、幸せな社会を築く道なのである。
(文責:伊勢雅臣)

写真は岐阜県産の梨

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日本人が語るインディオの悲劇

2023-08-29 | Weblog

 丸谷元人のメルマガより。



「日本人がたどる”インディオの悲劇”」
というテーマで丸谷元人先生に
お話していただきました。

今からおよそ500年前…

アメリカ大陸で行われた
スペイン人による過酷な植民地支配。

先住民である”インディオ”に、
暴力、略奪、強姦、虐殺など…
人間としてのあらゆる尊厳が奪われました。

しかしこれは、
単なる歴史の話ではありません。


そんなアメリカ人が、人の国に来て
偉そうに言うわけですけれども、

さらにもう1つ、ヨーロッパ人というのは
中南米で同じことをしていました。
例えば、大航海時代のスペイン人です。

お読みになった方も多いと
思うのですけれども、

ラス・カサスという人が書いた有名な本、
『インディアスの破壊についての簡潔な報告』
というのがあって、これはもう衝撃的です。

もし読んでいない方がいらっしゃったら、
これは岩波文庫で出ていますから
ぜひ読んでいただきたいです。

この本は欧米人、スペイン人の
過去の残虐を理解するには必読書です。

1519年の段階で、メキシコ全土の人口というのは
推定2,000万人だったのですけれども、
その50年後には人口が9割減少したというのです。

いくつかの民族は、完全に社会システムごと
消滅させられているのです。

このラス・カサスの本の
一部を見てみると、こんな感じです。

「スペイン人らは村々へ押し入り、
老いも若きも身重の女も、
産後間もない女も、

ことごとく捉えて、
腹を引き裂きずたずたにした。
13人ずつ」

「13人ずつ絞首台に吊るして、
その下に薪を置いて火をつけた。

こうして彼らはインディオたちを
生きたまま火あぶりにした。

また、インディオの体中に乾いたわらを縛って、
それに火をつけて彼らを焼き殺した
キリスト教徒たち、つまりスペイン人もいた。

キリスト教徒たちは彼らインディオを
狩り出すために、猟犬をどう猛な犬に仕込んだ」。

「犬はインディオを1人でも見つけると、
瞬く間に彼を八つ裂きにした。

戦争が終わると、
男たちは全員殺されてしまっており、
生き残ったのはいつも若者や女や
子どもたちだけであった。

キリスト教徒たちは
その生き残ったインディオたちを
仲間うちで分配しあった。

ある島には300人のインディオを分配されて
所有したスペイン人の管理がいたが、

わずか3ヶ月のうちにそのうちの270人が
鉱山労働で死んでしまい、生き残ったのは
全体の10分の1に当たる30人にすぎなかった」。

「大きな重たい荷物を担がされたため、
疲れてヘトヘトになったり、
空腹とその過酷な労働、

それに生来のひ弱さのために
病気となったりするインディオが数人にいた。

その時スペイン人たちは、
いちいち鎖を外すのが面倒なので、
インディオたちの首かせの辺りを剣で切りつけた。

すると、首と胴体は
それぞれ別の方向に転がり落ちた。

スペイン人は夫婦を無理やり引き離し、
夫から妻や娘を奪い、
水夫や兵士たちにあてがった」。

どれほど多くの強姦、暴行が
犯される羽目になったことか。

スペイン人は50~100人の娘の中から、
これはと思う娘を1人それぞれ選ばせて、
1アローバのブドウ酒かオリーブ油、
もしくはベーコンと交換した。

スペイン人たちが手当たり次第に、
ただ気まぐれからインディオたちの男や
女の手と鼻と耳をそぎ落としているのを目の前で見た」。

こういう記述が
山のように出てくるわけです。
これはすごい話です。

そして、これと同じ時代に
スペイン人が浸透していた国があります。
それが日本なのです。

戦国時代、まさにポルトガル人や
スペイン人らが、このころ日本にいました。
彼らは、日本の一部でも同じようなことやりました。

例えば50万人もの日本人女性を
いわゆる性奴隷にして連れ去ったりとか、
家畜のような扱いをしたということで、

秀吉の側近たちが
驚いたということがありました。

日本の場合は、秀吉がバテレン禁止令を出して、
家康が鎖国令を出したので
助かったということがありました。

ところが、家康がやったそういった鎖国とか
バテレン禁止、クリスチャン禁止をやると、
これがあたかも日本の侍とか日本人による、

むちゃくちゃな人権侵害行為
みたいになってしまったのです。

映画『沈黙 -サイレンス-』みたいなものが
ありましたけれども、あんな感じで、

もうやたらと白人神父たちは
素晴らしい人たちで、
日本の侍たちに追いかけられていじめられまくって、

それで「神よ。神よ」と言って
泣きまくっているというものです。

しかし、「その前提があるでしょ?
あんたらはそういうことを世界各国でやってた。
日本でもやってたんですよ。

だからNOって言ったのに、
あんたらが来て教会をつくろうとして

改宗させて、改宗した日本人を傭兵(ようへい)にして
日本をやろうとしたわけでしょ?」ということです。

「NO」と言ったのに、
それでも入ってくるという、
言ってみれば工作員みたいなものです。

日本の戦前に、共産主義者が
アメリカ共産党やロシア共産党から
大量に送り込まれて、天皇制とか

日本の社会政府を
暴力革命でやろうとした
あの話と一緒です。

時代が時代ですから、それは過酷にやります。

しかし、「やられました。神よ、神よ」
「私の顔を踏め。それでいいんだ」と、

私から言わせれば「やかましいわ」
という話なのですけれども、

そういうものがもう美談になって
映画になってしまって、
見た人は涙を流すわけです。

「冗談じゃない」ということです。

1つの作品として、時代背景を関係なしにしたら、
それは1つの信仰の物語ですし
文学としては素晴らしい物語だけれども、

その前提を完全に抜いてしまったら、
そんなアンフェアなことはないと思うのです。

これは、欧米人との会話の中でも
よく出てくるのですが、
日本が大東亜戦争でアジアを攻撃しました。

抗議した時に、彼はよく

「いきなり日本が来て、
世界を征服しようとした」
と言うのですが、

「そんなことしてないわ。
石油売ってくれないから行っただけじゃないか。

しかもおまえたち、

何でフィリピンに行ったら
アメリカ軍が出てきて、
ベトナムに行ったらフランス軍が出てきて、

マレーとかシンガポール行ったら
イギリス軍が出てきて、

でインドネシア行ったら
オランダ軍の戦闘機は
日本と戦ったんだよ?

何で現地人じゃなかったんだよ。
おまえらはそこで100年、200年、500年
何やってたんですか?

植民地をやって散々現地人から
搾取をしてむちゃくちゃやってたじゃないか」
と言うと、彼らは何と言うかというと

「私は日本の戦争の話をしてるんで、
過去の終わった話はしてない」と、
こう言うわけです。

この映画『サイレンス』も全く同じです。
こういうことを、われわれ自体が
見抜けなくなっているのです。

こういうのは「ええかげんにせえよ」と
言わなければいけないのです。

(中略)

とにかく、そういった意味で
スペイン人とかイギリス人は、

こうやって南北アメリカ大陸で
飢餓とか虐殺、奴隷化をやったわけです。
こうして人口の9割を減らしていったということです。

そしてもう1つの攻撃手法、
これが病原菌による攻撃なのです。

コロンブスは、1529年にエスパニョーラ島
という所に天然痘を持ち込んで、

50万人いたインディオの大半が
天然痘で死んで、50年後には
2万人までになったみたいな話もあります。

また、世界経済フォーラムのメンバーでもあって、
ベトナム戦争で枯葉剤をまくことを提案して、

その直後にノーベル平和賞を取った
ヘンリー・キッシンジャーという
人がいますが、あの人がこう言いました。

「食糧を制する者は国民を制し、
エネルギーを制する者は
大陸全体を制することができ、

貨幣を制するものは
世界を制することができる」。

私は、こういった発想とか、
スペイン人なり白人なり欧米人が
かつてやってきたこと、

そして今行われている食糧の話とか、
病気とか注射の話なんかを見ると、

かつてのインディオとか
アメリカ先住民は今のわれわれなのです。

われわれが今やられようとしているのに、
われわれはボケーッとしているわけです。

そして、やっている人たちに一生懸命お金を貢いで、
自分たちを殺そうとしていることを
一生懸命応援しているわけでしょう?

ここまでバカになってきてしまっている
ということなのです。

なぜなら、今回まさにその食糧だの病原菌だの、
その手法でわれわれ現代人は
責められているではないですか。

写真はある日の夕焼け 右方は金華山の上の岐阜城

 

 

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遠藤伸子シャンソンコンサート~ごきげんいかがピアフさん~

2023-08-27 | 文化

 昨日は予定していた遠藤伸子シャンソンコンサートに友人と岐阜市文化センター出かけました。とても暑い日でしたが、涼やかな声に癒されました。とても80歳になろうとしておられる歌手とは信じられないパワーを感じました。セ・シ・ボンに始まり、いつものように愛の讃歌で締めくくられました。

 第二部のはじめは、~ごきげんいかが、ピアフさん~ということで、エディット・ピアフの生涯を歌で辿られました。悲劇的に人生を終わったと言われる歌手です。でも本人は満足した人生と言われていたとか。

 ピアフは16歳の時、御用聞きの少年と恋に落ちて子供を産みます。でも2年後その子は亡くなります。その後名声を得てから二度の結婚。47歳で癌のため亡くなりました。

 遠藤さんはシャンソン歌手を47歳から目指されたのです。生後まもなくお父上は戦死。子育ても終わり、11歳で死別したお母上の歌手願望を実現され、カーネギーホールのステージに立たれました。ビアフと違い、ご主人と共に穏やかな人生を歩んで来られました。娘さんはジャズ歌手。息子さんは後援会の会長です。かわいい孫娘さんと共に娘さんと三人でステージで、花束を受けられました。ご主人は撮影係です。ピアフとは違う平穏な人生です。

 

 昨夜は久しぶりにプロ野球の巨人阪神戦をTV観戦しました。今年の阪神は好調で6連勝。周囲は中日ファンばかりで、対中日戦ではアナウンサーも中日を肩入れするコメントばかり。関西にいたときサンテレビをみていましたが、余りにも違いすぎて観戦をやめました。次男が小さいころ、掛布ファンでしたから背番号31のパジャマを着ていました。(私は出来たら田淵の22がよろしいのですが) 東京在住の今も阪神ファン。二人の息子たちはずっとタイガースです。昨夜はもう7回の風船とばしもありません。藤川投手は解説者。岡田監督もお年をめされました。9回裏の抑え投手はWBCで活躍した岩崎。9:6で勝利。古関裕而作曲の「六甲おろし」を聞くのも心地よかったです。18年ぶりに優勝してほしいです。

 ついでに高校野球のことも。いつも郷里のチームが負けると観戦しないのですが、今年は107年ぶりに慶応が優勝かもしれない、という話題につられ、次男が慶大出ということで、応援もしたく、仙台育英との決勝戦を見ました。優勝した慶応のチームは、長髪ばかりでびっくり。これまでみんな丸坊主だったのに。それに監督と言わず、森林さんと呼ぶようです。

 いつも校歌の作者が気になり、見ていますと、作詞者が信時潔。学校の歴史が古いことを知りました。ブログ友のokoさまが住まいされる千葉県の試合も見ましたが、代表校の専大松戸の校歌は作詞が草野心平、作曲者が山本直純。山本氏は40年くらい前、大阪のザシンホニーホールでの清水和音のピアノリサイタルの終了後、茶房で会い、サインを頂いています。

 

席近く来られ思わずシャッターを

左からお孫さん、中は遠藤さん、右は娘さん

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音楽療法10

2023-08-26 | わが家

 我が家での毎月のミニバイオリンコンサートも昨日で10回目。演奏活動で濱島先生もご多忙のため今月はお休みかと思っていたら、突然メールが届き、来て下さることになりました。猛暑の中を申し訳ないことでした。

 先月あまりにもよかったので、またユーモレスクをリクエストしてしまいました。そして、もう来月では季節に合わなくなるので、またもやアロハオエをリクエストしました。新しい人が来られたので、過去にお願いした、シューベルトのセレナードもリクエストしました。なんど聴いても癒されます。Rさんがネットで調べたということから、「G線上のアリア」も再演して下さいました。G線ばかりでなく場合によっては、編曲されて、別の弦を使うこともあるそうです。

 この日午前中は、放送大学の生徒による講話がありました。学生のUさんが学ばれた「社会と産業」について話されました。終了後の質問時間に講師に聞きました。先月8日にも書いていますが、千葉県から頂いた羽島市の大賀ハスがピンクから白になったことが気になっていたのです。「大賀ハスはなぜ20年で白くなったのですか」と聞きましたら、羽島市在住のUさんは、「あれは周囲のハスと雑交配して白くなったのです」と教えられました。とても残念です。道理で観光客が誰もいなかったのです。

 

 

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ノジギク

2023-08-25 | ガーデニング

 今日の朝ドラ「らんまん」のテーマは、ノジギク。30年前まで兵庫県に住んでいたことから、とても懐かしい花です。40年前、友人からノジギクの苗を貰い、庭に植えていました。兵庫県の県の花ですから、当時どこの庭でも見られました。

 朝ドラでは牧野博士が命名したノジギクを、奥さんの壽恵子さんが、職場の料亭で岩崎弥之助に披露していることに始まりました。弥之助も牧野博士と同じ土佐の出身ですから、うまい取り合わせと思いました。

 まさか、忘れていた白い花がドラマに登場するとは思わなくて驚きました。本当に可憐な小さい花で、これが日本古来の菊で1000年も歴史があるとは知らなかったです。

 岐阜に引っ越すとき持ってくればよかったと今頃悔やんでいます。野路菊と書きます。写真も撮らずにいたことも残念です。

写真はヒメツキミソウ

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主体農法

2023-08-24 | Weblog

福山隆さんのメルマガより

農業分野における主体思想
――金日成の“主体農法”が飢饉の原因



〇 農業分野にまで適用された主体思想
     ――〝主体農法〟

〝主体農法〟とは、
北朝鮮で行われた主体思想に基づいて
食糧自給を目指す農法である。

朝鮮半島北部(北朝鮮)は、
日本統治下では主として

鉱工業地域として
開発が進められていた。

そのため、
同地に建国された北朝鮮では

食糧自給と
そのための農業振興が課題となり、

農業については素人同然の
金日成・金正日父子の指導によって
進められた。

それは主体思想というイデオロギー
――外国の干渉を排撃する
強烈なナショナリズム
(「ウリ(我々)式社会主義」)――

に無理矢理に整合する
〝主体農法〟に基づき行われた。

〝主体農法〟とは、
ありていに言えば

農業には素人の
金日成の指導・思い付きを
絶対視する農法である。

農業技術など全く無視した
素人の思い付きで

北朝鮮の農業は
コントロールされたのだ。

〝主体農法〟の実態は、
農民たちに対して、

神格化された
金日成の観念的スローガン(思い付き)に
何ら疑念を持たずに、

金日成のロボット同然の
朝鮮労働党の指導に服従し、

精神論のみでやり抜くことを
要求するものに近かった。

この農法は、
経験知にもとづく伝統農法も
科学的知識にもとづく近代農法も

まったく無視していたため
失敗するのは必至だった。

その結果、
北朝鮮の農地と
それを背後で支える自然環境が破壊され、
かえって食糧難をもたらした。

北朝鮮に先んじて
ソビエト連邦や中華人民共和国で

似たような政策を推進し、
失敗している。

しかし、
両国の農業政策は対外的には

「大成功だった」と
喧伝されたため、

北朝鮮も
中ソの過ちから学ぶことはなく、
同様の間違いを繰り返すこととなった。

金日成の
〝主体農法〟の失敗例の第一は、

金日成が指導(命令)した
段々畑の造成である。

金日成は
「食料が足りないなら
山林を農地に変えればよい」とする

単純な発想から山林を切り開いて
山頂まで棚田や段々畑を造るモデルを
北朝鮮全土に広めた。

段々畑化は、1970年代初めから、
全国で一斉に開始された。

山を段々畑
――全耕地の7割が
傾斜15度以上の山の斜面を利用したもの――

にしたので、
北朝鮮全土の山々が
ハゲ山になってしまった。

段々畑に適しているのは、
土壌をしっかり保持する
(土留め効果のある)、

茶やミカンなどの
多年生植物(作物)で
なければならない。

すなわち、段々畑には
土留め効果のある
果樹や茶などの

多年生植物(作物)を
栽培するべきであったが、

金日成は
「トウモロコシ(土留め効果のない一年生植物)
を植えろ」と指導した。

金日成が
土留め効果のない段々畑(トウモロコシ栽培)
を造ることを指示したため、

少し雨が降っただけで
その段々畑は崩壊してしまった。

段々畑の崩壊が
引き金となり、

禿山となって
保水力を失った山全体の土砂が
河川に流れ込んで水位が上がり、

河川が容易に氾濫し、
洪水が多発する原因となった。

1990年代、北朝鮮は
大雨による水害に見舞われたが、

被害を激甚なものとした原因に
〝主体農法〟があることは間違いなく、
まさに人災である。

さらに、洪水の影響で
大量の土砂が海に流れ込み、

海底の海草が
全滅するなどにより

沿岸の生態系が
破壊されてしまったため、

農業のみならず
漁業までもが不振に陥った。

金日成の
〝主体農法〟の失敗例の第二は、

トウモロコシ栽培の
奨励である。

金日成が
トウモロコシ栽培を奨励したために
連作障害を引き起こし、

増産どころか、
不作を招き、
ひいては食糧難に繋がった。

金日成の
〝主体農法〟の失敗例の第三は、

稲やトウモロコシの
密植である。

金日成は
中国の毛沢東を模倣して、

コメやトウモロコシを
常識外れの密度で植える
密植を奨励した。

密植について、
コトバンクには次のような説明がある。


〈密植とは一定面積に
    多くの作物個体を植え込むこと。
    この逆が疎植である。

    植物生態学の研究によれば,
    栽植密度と単位面積当りの収量との間には
  〈最終収量一定の法則〉があり、

  ある密度までは、
     密度の上昇に伴って
     収量が向上していくが、

     ある密度以上では
     収量は頭打ちとなり、
     それ以上増加しないといわれている。

     したがって、
  密植は作物の収量を上げるための
     一つの方法であるが、

  (1)作業により多くの労力を必要とする、
     (2)個体間の光や養分の奪い合いが
          起こりやすく、各個体が貧弱となる、

     (3)過繁茂による光不足と
          多湿条件が病害虫の発生しやすい
          状態を作り出す、
 
     などのマイナス面が生ずる〉


北朝鮮の稲作の現場では、
密植することによって、

稲やトウモロコシに注ぐ
日照が不足し

風も通らない上に、
化学肥料を機械的に
大量に投与したため、

ヒョロヒョロになって、
収穫量は激減したという。

また、密植では
土壌の消耗(地力低下)が著しく、
農地の生産力が崩壊した。

地力低下のために、
ソ連をはじめとする東欧共産圏の

北朝鮮への援助による
化学肥料の供与が途絶えると、

多くの農地が「砂漠化」と称して
差し支えないほどの
惨状(不作)を呈した。

土留めのない
段々畑造成も密植も、

金日成が現地指導した際に発した
「教示(指導)」(マルスム=お言葉)に
基づいており、

伝統的な農法からも逸脱し、
科学としての農業という観点からも
不合理きわまりないものであった。

生産者側が勝手に
植栽方法を改善すれば、

「教示」に従わなかったという理由で
処罰される可能性が大きく、

最高指導者に対しては
意見を述べることもできない。

北朝鮮では、憲法よりも
最高指導者による「教示」の方が
優先されるからである。

農業の専門家といえども
「教示」に逆らうことは
できなかった。

在日本朝鮮人総聯合会
(朝鮮総連)の重鎮であった
李佑泓は、

1989年、
祖国の農業発展に尽力したものの
頓挫した経緯を

『どん底の共和国
―北朝鮮不作の構造』
(‎亜紀書房(1989/8/1))で著したが、

北朝鮮における
不作の理由のひとつとして、
この〝主体農法〟を挙げている。

農業技術者の
李佑泓(在日朝鮮人)は

祖国北朝鮮の農業発展に
寄与すべく、
一年半にわたって尽力したが、

あまりにも悲惨な
北朝鮮の現状に絶望したという。

李佑泓は
金日成親子指導の不合理極まる
〝主体農法〟の構造と、

苛酷な労働条件下で
疲労困憊の極に達した
農民たちの惨状を暴露した。

同著は
「同胞愛と科学精神が生んだ
衝撃のレポート」と紹介されている。

1995年7月30日から
8月18日にかけて、

北朝鮮では
歴史的な大洪水に見舞われ、

多くの田畑とともに
備蓄食糧も流されて
農業は大打撃を受けたが、

重村智計は、
農業生産の低下と
食糧難の真の原因は水害ではなく、

農業政策の失敗と
〝主体農法〟であると
述べている。 

1995年の大水害ののち、
世界食糧計画(WFP)や
世界食糧理事会(WFC)などが

北朝鮮農業の実態を
調査した結果、

北朝鮮では
主食の農作物としては

コメとトウモロコシしか
栽培していない実態が
明らかとなった。

専門家らは
冬場のムギの耕作を提案したが、

金日成の「教示」にない作物を
植えてよいのかという異論があり、

そのために1年以上におよぶ
長い議論の結果、
ようやくムギ栽培が認められた。

「苦難の行軍」と呼ばれる
1990年代後半の
北朝鮮大飢饉の原因は、

〝主体農法〟に
あったのである。

北朝鮮における
コメとトウモロコシの生産量(1989-1997)の推移は
以下のとおりである。

なお、北朝鮮で
飢饉が発生した年は
1994年から1998年であった。




〇 〝主体農法〟の軌道修正

「苦難の行軍」期にあたる
1996年、

のちに脱北することとなる人物が
酒の密造で警察に摘発された
老夫婦を助けた際、

老婆が
「日本の統治時代より
生活が厳しい。

日本時代には少なくとも
食べ物がなくて死んだ人は
いなかった。

配給もきちんとしていたし」と
話しているのを聞いている。

北朝鮮では
1957年11月から、

協同農場の農民を除く
全国民に食糧配給制度が
実施され、

一般労働者は1日あたり700グラム、
軍人は800グラム、

15歳以下の子供や老人は
100グラムから500グラムまで、と

職業や年齢に応じて
配給されることになっており、

1990年代初頭には
平均450グラム程度の
配給量となったが、

1995年の水害で
その半分に減量され、
それから数年でさらに減少させられた。

食糧不足が
北朝鮮国民に与えたダメージは
深刻だった。

2001年5月に北京で開かれた
第5回東アジア太平洋地域閣僚等会合に

北朝鮮当局が
提出した資料によれば、

1993年に
73.2歳だった平均寿命は
1999年には66.8歳と短命になった。

また、
5歳以下の乳幼児死亡率はこの間、

1000人あたり
27人から48人へと激増している。

生存しても
乳幼児期の栄養失調は

発達障害や認識障害などの
後遺症として残り、

食糧難の時期に
生まれた子どもたちが

徴兵年齢に達した
2009年から2013年にかけては、

17パーセントから29パーセントの若者が
アメリカの基準では
認識障害と診断されて

兵役不可となるレベルにあると
推計された。

1994年から1998年までの
「苦難の行軍」の時期に

北朝鮮領内で餓死した人は
300万人に達したという
推計もある。

農業不振と
食糧難を改善するため、

金日成死去後の1997年には
「農民の志向と実情に
合わせて農業を行う」として

〝主体農法〟の
実質的修正がなされ、

家族経営・親族経営を
可能にした他、

農民が自由に作物を処分できる
自留地を拡大するとの
施策がなされた。 

自留地(農家の前庭)は
猫の額ほど狭いものの、

そこだけは土地が肥え、
農作物がよく稔っていたと
いわれる。

すなわち、皮肉にも
自留地の拡大は
食糧増産に繋がるのだ。

しかし、
この〝主体農法〟の
実質的政策修正にあたっては

「金日成主席が
現地指導した農場での指示を、

そのまま全土に適用したことに
間違いがあった」とされた。

すなわち、
金日成の「教示」そのものには
何ら間違いはなかったとされたのであった。

独裁国家における驚くべき
「言い訳・詭弁による
独裁者の無謬性の堅持」に他ならない。

写真は毎年咲く朝顔

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エランガ先生御一家のインド旅行

2023-08-22 | 海外旅行

 昨日の英会話の時間は生徒たちの希望により、先生ご一家のインド旅行の話となりました。ご主人がインドサミットに招聘され、先ごろ一家でおでかけとなったようです。お二人のご子息はあまりの日本との違いにショックを隠せない様子らしいです。生まれたときから日本で豊かな生活をしてきたお二人にとっては、しばらくトラウマ状態のようになるのも無理はないと思います、私たちも10年ほど前インドに行きましたが、あまりの汚さに夫は、二度と行きたくないと言っています。私はもう一度旅してガンダーラに行きたいと願っているのですが、無理のようです。

 タージマハール周辺以外は掃除はされていません。物乞いをするストリートチルドレンが多いし、一度相手をすれば後が困るので先生は相手にされなかったようで、このあたりもご子息は驚かれたようです。

 貧富の差が大きいので、高級レストランもありますが、人口増加で貧民層も増え、これからどうなるのでしょうか。老人の姿があまりなくて、若者の国と言うイメージだったようですが。今もカースト制度は生きているようです。

 驚かれたことは、手荷物検査のところで野生の猿が現れて乗客の小さなバッグを持ち去ったこと。突然の出来事でなすすべがなかったようです。大切なものが入っていたでしょうに。そういえば私たちの時も、あちこちに猿がいたことを思い出しました。牛もいたのですが、猿はもっといました。孔雀もいたような。

 日本の猛暑に比較すると、温度は高くても湿度が低いので涼しかったようです。言葉は24か国語が話されるので、英語を話せる人にはなかなか会えないとか。私たちは団体旅行でしたので、このあたりのことは分からなかったです。

写真はヤナギバルイラソウ

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岐阜大学医学部室内合奏団第44回定期演奏会

2023-08-21 | 岐阜県

 昨日は、岐阜大学医学部室内合奏団第44回定期演奏会に誘われましたので、サラマンカホールに出かけました。この合奏団の演奏会は初めて聴きました。友人のお孫さんが医学部に在籍されていて、招待頂けたのです。指揮者の宮崎龍彦氏は医学部付属病院病理学部教授で医学博士。母校の愛媛大学交響楽団の指揮者でもあります。学生時代からトランペット奏者。ドイツ留学もされていました。今年は6人の新入生。そして9人が卒業します。9人には、終了後一人ずつ花束が渡され、祝福されていました。

 プログラムは、なじみのあるモーツァルトのK138から。二曲目は、ヘンデルの「王宮の花火の音楽」。さらに二曲演奏され、10分間の休憩に。その間、ステージでは楽団員有志の演奏がありました。これは初めてです。休憩の後は、よく知られた「エルガーの威風堂々」。そして馴染み深い「カノン」。これと次の「G線上のアリア」は、我が家で、バイオリニストの濱島氏が弾いて下さった曲。そしてフィナーレは、難曲と言われるチャイコフスキーの弦楽四重奏の第一番。よく医学部の忙しい学業の合間に練習されたものと感心します。

 卒業生の花束贈呈の後に、アンコールはシベリウスの雄大な曲。私たち四人は大満足で、茶房でコーヒータイム。余韻を楽しみました。充実の半日でした。

 

休憩時間の演奏

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原爆報道

2023-08-18 | Weblog

西鋭夫氏のメルマガより

中山研一氏の『現代社会と治安法』
(岩波書店、1970年)によると、

GHQは1945年9月から1946年1月までに、
670に及ぶ新聞記事を拒否した。

これらは、
マッカーサーがマスコミの力を十分認識しており、
彼が自分の評価に関して
いかに過敏に反応したかを示すものだ。

「アメリカ帝国主義」という言葉はタブーだった。
「アメリカ」と「帝国主義」という
2つの言葉は矛盾している、
というのがマッカーサーの考えだ。


原爆報道

原子爆弾も検閲の格好の対象だった。
例えば、松浦総三氏は『占領下の言論弾圧』
(現代ジャーナリスム出版社、1969年)の中で
「原爆は、戦争を短縮したのであり、平和のために投下された」
という記事だけが許可された、と書いている。

ロバート・リフトンは、
Death in Life: Survivors of Hiroshima
(『生きながらの死――ヒロシマの生存者たち』1967年)の中で、
「原爆に関する検閲は、原爆について書くことは、
日本人の報復心を煽る結果になるとの恐怖心が大きな動機となっていた。
だが、原爆の破壊力のあまりの物凄さをみて、アメリカ人が困惑し、
自責の念にかられたことも、原爆を検閲の対象にさせた」
との見解を述べた。

アメリカが原爆について、
いかに神経過敏になっていたかを示すものとして、
1947年4月に行なわれた広島市長選で、
ある候補者がラジオで話をしている途中に、
GHQが放送中止を命令した事件があげられる。
その候補者が原爆について肯定的なことを言わなかったからだ。


記録映画の末路

広島と長崎の惨状の記録映画製作について、
伝説的なエピソードが残っている。

30人以上の日本人カメラマンが、
核物理学者、医者、生物学者、建築家たちの協力を得て、
1945年8月から12月にかけて、記録映画にとりかかった。
ところが、10月21日、アメリカ軍憲兵(MP)が
長崎で撮影中のカメラマン1人を逮捕し、
飛行機でGHQ(東京)に連行。

GHQは直ちに撮影中止を命じた。
映画製作者たちはGHQに、
「世界の歴史ではじめて核爆弾の洗礼を受けた国民として、
後世にその記録を残しておきたいと願う
日本人の気持ちを理解して欲しい。
この記録は人類の将来のためのものだ」と訴えた。
真に、勇気のある抗議だった。

GHQは、この記録映画の作成は、
陸軍戦略爆撃班の仕事だとしながらも、
その価値を認めて、日本人の記録映画完成を許可した。

1946年2月、「原子爆弾の効果」と題する
3355メートルの映画(総撮影フィルム1万5250メートルから編集)
がGHQに提出され、直ちにワシントンに送られた。

総撮影フィルムのうち、
日本人の手元に残ったフィルムは無いと思われていたが、
日本の撮影班は、GHQの命令を無視して、
完成した映画の半分以上を隠していた。
秘密は占領終結まで守られた
(松浦著『占領下の言論弾圧』参照)。

「原子爆弾の効果」は、1967(昭和42)年9月3日、
日本国民の要求によって日本に返還された。

だが、日本政府(文部省)は、
この映画は原爆の被害に遭った人たちのプライバシーを侵害し、
余りにも残酷な場面がある等の理由を挙げて、
映画の極く一部しか公開しなかった。

 

 昨日も台風の影響で新幹線のダイヤが乱れる中で、長男の方の孫が帰省してくれて、墓参りや仏壇に手をあわせてくれました。次男と娘の帰省は早すぎてまだ墓地の花も準備していなかったのです。孫は社会人。東京に帰る途中で岐阜羽島に途中下車して寄ってくれました。

写真は、なばなの里のベゴニアガーデンで

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ファミリーヒストリー・草刈正雄

2023-08-16 | 映画・TV・演劇

 NHK総合のファミリーヒストリーは、毎回見ている訳ではありませんが、たまたま今週月曜日のこの番組を見ました。この日の主人公は草刈正雄さん。ハーフであることはそれほど珍しくはないですが、彼の場合は父親が朝鮮戦争で戦死と聞いていたのに、10年前まで生きていたらしく、視聴することにしました。

 朝鮮戦争後、草刈さんの母親のスエ子さんは、ロバート・トーラさんと知り合い、同棲。1952年、草刈さんを身ごもります。しかし、その後トーラさんは軍人のまま福岡から西ドイツに行ってしまい、孤独の中で出産。親子は苦難の人生を歩み、貧困の中で、息子は新聞配達などをしています。母親は多分息子に、「父親は死んだ」と伝えていたのでしょう。ところが彼は73歳になった今、父が生存していたことを知ることになります。スエ子さんはすでに故人。生前、彼をきびしくしつけたようです。「あいの子」とさげすまれる日々。彼は、時には母親が電車に飛び込むのではないかと思ったそうです。

 NHKが乏しい情報を駆使し、遂に父親を見つけ出しました。名前のスペルが分からないので困難を極めたそうです。ノースカロライナ州に埋葬されていたのですが、その姉、つまり草刈さんの伯母が97歳で生存。甥の彼のことを気にかけていたのです。草刈さんは渡米し、ついに伯母さんとの対面が叶い、二人は抱き合います。草刈さんもあふれる涙をぬぐいながら、(自分そっくりの父親が別の女性と結婚していたこともあり)「いろいろあるが会うことにした」のだそうです。

 

台風7号は、昨夜こちらも吹き荒れましたが、日本海にようやく去ったようです。スピードが遅かったため、昨日一日台風情報にふりまわされました。

写真は、なばなの里のクレオメ

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