昨日は、放送大学のサークルで「明智光秀ゆかりの地をたずねて」というテーマの講演会がありました。来年の大河ドラマ「麒麟がくる」にちなむタイムリーな内容です。ライフワークとして光秀を追い続けてこられ、著書も出されている塩見先生のお話を、興味深く聞きました。光秀は、すぐれた武将であるだけでなく、当代一流の文化人と親交を持ち、茶の湯、和歌、連歌に造詣が深い文化人でした。
清廉潔白と言われる光秀は生涯側室を持たず、直系がいないため、謎も多いですが、岐阜生まれであることは間違いないので、ドラマが始まるころには岐阜県可児市など、騒がしくなることでしょう。
清和源氏の出で、土岐一族。明智城生まれ。1556年、城は斎藤義龍に滅ぼされます。諸国を放浪し、越前の朝倉家の家臣になりますが、朝倉義景は側室に庭園を造り、遊興にふけっているのでいやになり、40歳ころ信長に仕えるようになります。やがて琵琶湖の湖岸に坂本城を建てて、城主となります。10年住みましたが、本能寺の変の後廃城。今は石杭だけです。しかし、2000年の旱魃で、琵琶湖が干上がり、坂本城の石垣が一部現れたようです。その城は大天守のほかに2つの小天守がある雄大なものであったとフロイスは記録しています。
なお、朝倉義景が愛妾小少将のために作った諏訪館庭園跡は、8年前放送大学の研修旅行で訪れています。(記事は2011.9.12)
本能寺の変の原因は、次のように言われています。時代によっても変わります。手紙が発見されたりするので。
1 野望説 2 怨恨説 3 名分存在説 4 前途不安説 5 黒幕説
平成初 中期 朝廷関与説 足利義昭黒幕説
近年 室町幕府再興のクーデター説(平成29年手紙発見により)
3日天下ならぬ13日天下でした。信長を打ちとった後、生涯の友であった細川藤孝(幽斎) に助けを求めたのに裏切られたのが最大の悲劇でした。このあたりの手紙のやりとりは、10年前、知りあいの歴史小説家から頼まれて、原稿をパソコンで打ち込んだことがあるので思い出しています。「武功夜話」だったかもしれないです。「武功夜話」は、昭和34年の伊勢湾台風の後、崩壊した前野家の土蔵から発見されたもの。
帰りのエスカレーターで、偶然塩見先生と乗り合わせたので、「光秀は生き延びて四国に渡り、末裔が坂本龍馬になった、なぜなら同じ桔梗紋だから、という俗説を聞いたことがありますが、本当ですか?」と聞いてみたら、「本当です、時間がなくて話せなかった」という回答。しかし、微妙に桔梗の形が違うそうです。
塩見氏
歌舞伎の本能寺を表す浮世絵 右端が信長
平成29年発見された光秀の手紙
出生地とされる明智城址 (土岐市)