つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

中曽根元首相の黒歴史

2023-05-31 | Weblog

田母神俊雄氏(元防衛庁幹部) のメルマガより

私がどうしても許せない。
そんな男がいる。

彼は、日本の“ある産業”を潰し、
日本の自立の夢を壊した。

あなたもこんな疑問を
持ったことがないだろうか?

「なぜ日本はいつまで経っても
国産の武器を作れないのか、持てないのか…」

その答えは簡単。
この男が潰したからである。

そして、日本は国産の武器を
作れなくなってしまったのだ。

この男は、元総理大臣である。

若い頃から自民党の中では
右派と見られ、保守と言われてきた。

戦時中は海軍にも身を置き、
自衛隊からも信頼を置かれていた人だ。


しかし、その事件は起きてしまった。

それは、戦後から
30年が経った1975年(昭和50)のこと。

人知れず、日本は悲願の日を迎えていた。

国産ジェット機のF-1が飛んだのだ。

戦後、GHQの圧力により、
武器を作れなかった日本だったが、

ついに主力武器の国産化により、
軍の自立、日本の自立に光が差した。

しかし、この男の鶴の一声により
全てが壊れることになる。

「F-2戦闘機からは日米共同でやろう」

誰もが耳を疑った。

これまで通常の2倍の経費をかけて
ライセンス国産の体制を維持してきたのに、
そうなれば意味がない。

さらに、この時の日本の技術力は相当なもので、
飛行旋回の技術、レーダーの技術ともに
世界トップレベルであった。

頼る必要などないのである。

しかし、どうすることもできなかった。

私はその手続きが決定されるやりとりを、
何も出来ずに横で見るしかできなかったのだ。

結果、共同開発とは名ばかり…

カネを負担するのは日本なのに、
仕事の4割はアメリカが請け負うという
不平等極まりないものだった。

平たく言えば、
散々カネを絞り取られた挙句、
日本の素晴らしい軍事技術は、
みなタダで持っていかれ、

おまけに仕事すらも
奪われたということである。

そして、今日に至るまで
日本は国産武器を作れず、

他国から武器を買うしか
なくなってしまったのだ。

この売国奴の正体は、、

中曾根康弘

これと別のサイトでこんな情報が見つかり、ますます黒い歴史が・・・

RAPT | JAL123便墜落事故の真実を「墓場まで持っていく」と言った中曽根康弘こそ、JAL123便撃墜の首謀者ではないのか。 (rapt-neo.com)

 

写真はムラサキツユクサ

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日本がなぜこんなに世界一の事績が 3

2023-05-28 | Weblog

■7.国を挙げて取り組んだ教育水準の向上

 幅広い国民参加による世界レベルの偉業達成というパターンは
近現代でも続いている。江戸時代の教育水準の高さはその一つである。

__________
 トロイの遺跡発掘で有名な
ドイツの考古学者シュリーマン(1822~1890)は、
トロイ発掘の六年前の1865年に旅行者として日本を訪れ、
一カ月の間、江戸、横浜などに滞在しているが、
「教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。

シナをも含めてアジアの他の国では女たちが
完全な無知のなかに放置されているのに対して、
日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」
と旅行記のなかで書いている。[1, p185]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この世界一の教育水準は、日本各地に無数に設置された
藩校、私塾、寺子屋によって達成された。

藩校の最初は、元禄10(1697)年に米沢藩が設立した興譲館だが、
その後、全国に広がり、
幕末までに約260のすべての藩が、規模や形態の差はあれ、
藩校を設置している[1, p38]。

 私塾は寛文2(1662)年に、
伊藤仁斎が京都に古義堂を開設して以来、
様々な専門分野で広がり、
幕末には全国で1500もあったといわれている。

 寺子屋は農民や町民の子供たちにお坊さんや神主、
町のご隠居や武士などが教えていた。

幕末には全国で1万から1万5千もあった。
現代日本の小学校数約2万に匹敵する規模の
初等教育が行われていたことになる。

 藩校を運営した各藩主から、
私塾を経営した各分野の専門学者、
さらには寺子屋で教えるご隠居さんまで、
国民の各層がそれぞれに人づくりの志を持って
取り組んだ結果が、世界一の教育水準なのである。


■8.「何事か成らざらん(できない事などあろうか)」

『日本史のなかの世界一』には、このほかにも
「江戸時代、268年間の安寧」「日本の花火の豪華さ美しさ」
「パーフエクト・ゲームとなった日本海海戦」
「戦後日本、奇跡の復興と高度経済成長」
「自然環境との調和、森林の保存の歴史」と、
興味深い世界一が次々と紹介されていくが、
これらも無数の国民が力を合わせて実現したものである。

 その最後を飾るのが「世界最長の王朝、万世一系の天皇」で、
皇室が2千年以上も続いてきたこと自体が世界史の奇跡なのだが、
その陰にあって皇室を支えてきた
無数の先人たちがいたことを忘れてはならない。

「和をもって尊しとす」とは、
聖徳太子の17条憲法の第一条冒頭の一節だが、
これは単に「仲良くしなさい」という意味ではない。

第一条は、上下和睦して事を議論する時は、
物事の道理が自ずから通うので、
「何事か成らざらん(できない事などあろうか)」
という強い信念で結ばれている。

 世界の陸地面積の0.2%でしかない日本列島に住む、
世界人口のわずか約1.7%の日本人が、
これだけの世界一を成し遂げたことを見れば、
人々の「和」によって「できない事などあろうか」と
断言された太子の確信の正しさが史実として証明されている、
と思えるのである。

(文責:伊勢雅臣)

写真はいつも最後に咲く小輪のシンビジウム

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日本がなぜこんなに世界一の事績が 2

2023-05-27 | Weblog

■4.のべ260万余人が参加した奈良の大仏建立

 国民参加という点では、天平勝宝4(752)年に完成した
世界最大のブロンズ像・奈良の大仏も同様である。

大仏建立を志された聖武天皇は詔(みことのり)を出されて、
「生きとし生けるものがことごとく栄えることを望む」と語られた。

しかし、単に国家権力をもって人民を使役したのでは、
その志は果たせない。

__________
 ただ徒らに人々を苦労させることがあっては、
この仕事の神聖な意義を感じることができなくなり、
あるいはそしり(悪くいうこと)を生じて、
かえって罪に陥ることを恐れる。・・・

国・郡などの役人はこの造仏のために、
人民の暮らしを侵(おか)し、乱したり、
無理に物資を取りたてたりすることがあってはならぬ。[1, p75]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この詔は現実の政策によって実行された。
造仏に従事した木工、仏師、銅工、鉄工などの技術者ばかりでなく、
人夫、雑役夫などの雇人にも、賃金と食米が支給された。

現場の重労働に従事する工人には、
一日約8合の玄米が炊かれ、
塩・味噌・醤油・酢・海藻・漬物・野菜・木の実等が
副食として出された。

 工事に従事した延べ人数は、金知識(鋳造関係の技術者)が
37万2075人、役夫(えきふ)が51万4902人、
材木知識が5万1590人、役夫が166万5071人と合計260万余人。

当時の日本の推定人口は約500万人だから、
そのかなりの割合の国民が参加したわけである。[2]

 事業に参加する人々には
賃金や食事を支給するばかりでは無い。

聖武天皇は一人ひとりがこの事業の趣旨をよく理解し、
それに主体的に参加することを期待された。
詔にはこうも言われている。

__________
 もし更に人の一枝の草、一把(ひとにぎり)の土を持って、
像を助け造らんことを情願(ねがう)あらば、
恣(まま)にこれを許せ。

 もし人民が寄進したいというのであれば、
どんなにわずかの寄進でもよろこんで受けよう。
わたしは国民とともにこの大事業をなしとげたいからだ。[c]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 大仏の建立に参加した一般人民は
国家権力者に使役された奴隷だったと考えるのは過ちである。

またこれらの人々がすべて賃金や食事目当てだった、
と考えるのも表面的に見える。

ちょうど現代の御遷宮に多くの国民が
ボランティア参加しているように、
当時の人々は聖武天皇が国民全体の幸福を祈って発願された
事業に参加できる誇りと喜びを感じていたのではないか。


■5.「百姓は、みずから進んで、老人を扶け、幼児を携えて」

 多くの国民が喜んで
国家的巨大事業に参画するというのは、
仁徳天皇陵の築造においても見られたようだ。

__________
 この「前方後円墳」と呼ばれる古墳は、
全長が486メートル、円の部分は高さ34メートルもある。

取り囲む二重の濠まで含めた総面積は
34万5,480平方メートルであり、
秦の始皇帝の底面積11万5,600平方メートルの三倍、
エジプト最大のクフ王の大ピラミッドの
底面積5万2,900平方メートルの六倍以上だ。

大きさだけでなく、
その全体の形態は中国にも朝鮮にも前例のない
美しい形態である。[1, p34]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ある試算によれば、
これだけの土を更地に盛り上げるためには
10トンのダンプカーで25万台分の運搬が必要であり、
これを全て人力で行うためには延べ680万人が必要という。

 仁徳天皇は「民のかまど」の逸話で
日本書紀などに聖帝として描かれている。

高台から国を望まれて、かまどから煙が見えないことから、
民が不作で窮乏しているのであろうと考えられ、税を免じた。

宮殿の茅葦屋根が破れても修理させず、
風雨で衣服が濡れる有様だった。
6年の後、ようやく天皇が宮殿修理の許可を出されると:

__________
百姓は、みずから進んで、老人を扶け、幼児を携えて、
材料を運び、簣(こ)を背負って、昼夜を問わずに、
力を尽くして競いつくった。
従って、あまり日数がかからないで、宮室がことごとく完成した。
そこでいまに至るまで、聖帝とたたえ申し上げるのである。[1, p36]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 仁徳天皇が崩御された際も、
多くの民が天皇の聖徳を偲んで、
このような形で力を合わせてて
陵を造営したものと想像しうる。


■6.国民による国民のための詩集

 多くの国民が参加して偉業を成し遂げるというのは、
巨大建造物に限らない。

世界最古、最大の選詩集『万葉集』もその一つである。
4,516首と言う規模で世界最大であり、
かつ、7,8世紀の歌を集めている。

 規模や古さだけではなく、
万葉集が特徴的なのは天皇から庶民ままで
ほとんどあらゆる階層を含んでいることである。

__________
 アメリカの文学史家、ドナルド・キーン氏は・・・
天皇の国見の歌から、恋の歌、生活の歌まで、
その題材の豊富なことは、
詩集として世界でも稀なことであると述べている。

作者も宮宮廷の詩人だけでなく、
防人(さきもり)の歌や東人の歌、農民、遊行女婦、乞食まで
多様な階層の歌が選ばれているのである。

いかに階層に対する偏見がないか、
また平等な世界であったかがよくわかる。[1, p84]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 西洋やシナの詩集が専門歌人の作品を集めているのに対し、
万葉集は、多くの国民がそれぞれの思いを詠んだ詩歌を集めた、
まさに国民による国民のための詩集であった[d]。

この和歌の伝統は、
現代の日本でも皇室を中心に中学生から老人まで
数万の短歌を集める「歌会始め」に連なっている。

写真は我が家のシンビジウム

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日本になぜこんなに世界一の事績が 1

2023-05-26 | Weblog

伊勢雅臣氏のメルマガより

■1.日本になぜこんなに世界一の事績があるのか

 日本列島は世界の陸地面積のわずか0.2%、
それもユーラシア大陸の片隅だ。

そこに住んでいる日本人は世界人口の約1.7%に過ぎない。
それなのに、なぜこんなに世界一が沢山あるのか。

これが『日本史の中の世界一』[1]を読んで、
まず感じた疑問であった。


 この本には世界最古の土器から戦後の高度成長まで、
世界一と言える日本の事跡が50も紹介されている。

それも単にそれらを並べただけではなく、
美術史の世界的大家・田中英道・東北大学名誉教授が編集し、
各分野での著名な専門家がその背景に至るまで
具体的に説明しているので、
それらを生み出した国柄に関する卓越した日本論となっている。


 その国柄の一つとして、特に目立つのは、
天才な個人が現れて世界一を作り出したというよりも
(もちろんそのような事例もあるが)、
多くの国民が参加してその力を寄せ集めて
なし遂げた事例が非常に多い、ということである。


■2.式年遷宮というシステムの独創性

 たとえば伊勢の神宮の20年ごとの式年遷宮。

各神殿が二つ並んだ敷地を持ち、
ひとつの神殿が20年経って古びた頃、
隣の敷地に全く新しい神殿が建てられて、
神はそちらに遷られる。

第一回の式年遷宮は持統天皇4(690)年に行われたが、
その時点では、
世界最古の木造建築物として今も残る法隆寺は建立されていた。

__________
 そのような高度な建築技術を持っていたにもかかわらず、
飛鳥時代の先人たちは、
その“最先端”の技術を、伊勢神宮の建築には用いていない。

 その代わりに、
すぐに朽ち果てる弥生時代の倉庫さながらの神殿を、
二十年ごとに建て替えるという
“神殿のリメイク・システム”を考案したのである。[1, p59]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 このシステムにより、
神宮は古びることなく、
1300年以上も後の現代においても真新しいままでいる。

__________
 この式年遷宮というシステムの独創性に、私は驚くほかない。

しかし、そのシステムが、はるか千三百年の時を超え、
二十一世紀の今日まで“生きている”ことは、
さらなる驚きである。

世界史上、このような信仰に基づく、
このようなシステムが、
このように長く続いている例は他にない。[1, p61]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 さらに驚くべきは、
この建て替えが内宮と外宮という二つの「正宮」だけでなく、
14の別宮と、109の摂社、末社、所管社、
すなわち合計百二十五の神社すべてで行われる、
ということである。

しかも建物だけでなく、「御装束」(神様の衣服)や
「御神宝」(お使いになる道具)も約800種、
2500点をすべて2千数百人の職人が長い歳月をかけて作り直す


■3.無数の多くの代々の国民が、力を合わせて続けてきた

 御遷宮には1万本以上のヒノキが使われるが、
それらは木曽地方などの神宮備林で育てられる。

樹齢2、3百年の用材を大量に育てるための人々がおり、
用材を切り出す際には神事が行われる。

 切り出された用材は直径1メートル近く、
長さ数メートルのものもある。それらを奉曳車に乗せて、
長さ100-500mの綱を200-5,000名の曳き手が
掛け声に従って引く「御木曳(おきびき)」という行事もある。

 平成18(2006)年から翌年にかけて行われた
第62回御遷宮の御木曳行事には一日神領民という
希望者が約7万7千人も参加した。

筆者は沿道でその行事を見学したが、
日本全国から集まった人々が,
地域ごとに揃いの法被(はっぴ)を着て、
いかにも楽しそうに掛け声に合わせて綱を引っ張っていた。


 この第62回目御遷宮の総費用は550億円という。
神宮を参拝した人々のお賽銭や、篤志家・企業などからの寄付、
さらには全国の神社での神宮大麻(おふだ)の
販売などによってまかなわれている。

いわば国民の多くが御遷宮を支えているとも言えるのである。

 このような大規模な御遷宮が過去1300年以上、
62回も続けられてきたという事は驚くべき事実である。

御遷宮は「続いてきた」のではない。我が先人たち、
それも無数の代々の国民が力を合わせて「続けてきた」のである。
その努力こそ世界唯一というべきであろう。[a]

写真は我が家のシンビジウム

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ルーズベルト一族の黒歴史

2023-05-24 | Weblog

丸谷元人さんのメルマガより

ルーズベルト大統領の
母方の祖父がウォーレン・デラノJr.
という人物です。

デラノは24歳のときに初めて中国に渡って、
ラッセル商会というところに勤務しました。

そして、
アヘンの密輸を組織的に行っており、
今で言う薬物の組織犯罪集団として
勤務をしていたわけです。

その後、1843年の初頭までに
デラノは中国のアヘン貿易で大成功して、

中国と取引をするアメリカ最大の会社の
代表パートナーにまで上り詰めました。


つまり、中国の広東に違法アヘンを密輸して、
ぼろ儲けをしたという人です。

なんと、ルーズベルトの祖父は
麻薬の密売人だったということです。


また、ジョン万次郎という、
日本で江戸の末期に漂流して、
アメリカの捕鯨船に助けてもらって
アメリカ本土まで行って帰ってきた人がいます。

その捕鯨船の
ジョン・ハウランド号というのを所有していたのも、
このルーズベルトの祖父だったという事で、
そのくらいのお金持ちだったのです。

ちなみに、捕鯨船と聞いて
「アメリカも捕鯨していたのか」
思う人もいるかもしれませんが、

ペリーが日本に来航してきた最初のきっかけは、
クジラを追いかけてきたという話があります。

日本に給水器とか、薪とか、
そういったものを補給する目的として
最初は渡ってきたのです。

ところが、
今の日本はクジラを食べるなとか言われて、
いわゆる国際的に欧米諸国中心に
叩かれまくっています。

確かにクジラは
日本人と少数の民族しか食べませんが、

アメリカ人やオーストラリア人など、
昔は捕鯨船で追いかけていた人たちは
肉を食べるのではなく、

クジラの脂肪を取ったあとは
巨体の全て海に捨てていました。

そのために、最新鋭のハープーンで
クジラを追いかけていました。

一方で日本は1頭のクジラを捕まえると、
髭は三味線の弦にして、皮や骨、
肉まで全て食べて7つの村が潤ったというくらい、
恵比寿様信仰の象徴にもなりました。

このクジラ問題で今、
日本だけが悪者になっていますけど、
彼らは散々それをやっていたわけです。

しかも儲かっていたからこそ、
捕鯨船のオーナーになれたのです。
そのための手元資金は、
薬剤師としてお金を稼いだのでしょう。

ちなみに、
ペンシルベニア州のデラノという、
ウォーレン・デラノJr.の名前がついた
地名があるというくらい、
アメリカでは成功者です。

日本で言ったら
豊田市という感じの成功者です。

日本では、そこまで破廉恥ではないので、
麻薬密輸業者の名前を取って
町の名前にするという事はありません。

とにかく、
こういう人がルーズベルトの祖父でした。

 

私はこの情報を知り、これまではルーズベルトは生まれながらにリッチの人と聞いていましたので、すっかり失望しました。英語では生まれつきお金持ちの人は、「銀のスプーンをくわえて生まれたと」、表現されます。まさにこの表現にぴったりと人と思っていたのに・・・


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われは海の子

2023-05-22 | Weblog

古庄幸一氏のメルマガより

われは海の子

この歌は、現在においても
小学校で子供たちの唱歌として
歌い継がれています。

しかし、その教科書に
載っているのも3番まで。

では、4番以降は
どこへいってしまった
のかというと、、、

実は、戦後のGHQによって

墨で塗られ、消されて
しまっていました。

一般的に、教科書の墨塗りは
戦争へ向かわせるような
軍国主義的な内容を

日本から消し去ることを目的に
行われたとされています。

しかし、この唱歌
『われは海の子』の

7番までの歌詞で
なにが歌われているかと言うと、

海とともに育つ
一人の少年が生まれの
青年に成長するまでを
たどるストーリー。

いったいなぜ、
GHQはこの歌を問題視し、

本来の意味がわからない
程度の歌詞だけを残して、

黒く塗りつぶしてしまったのでしょうか?

それは日本人から
日本人の魂を奪うためでした…

今年1月10日には、蛍の光の3,4番がGHQによって削除されたことを書いていますが、この歌もそういう憂き目を見ています。

1番(われは海の子〜)

我は海の子 白浪の
騒ぐ磯辺の 松原に
煙たなびく 苫屋こそ
我が懐かしき 住家なれ

  • 磯辺:岩石の多い波打ち際
  • たなびく:横に漂っていく
  • 苫屋(とまや):粗末な家のこと。茅などを編んで作った「苫」を乗せた家

<歌詞の意味>

私は海の子供だ
波しぶきのあがる海岸の松林
煙が漏れて流れていく粗末な家は
私が住んでいた懐かしい家である

2番(生まれてしおに〜)

生れて潮に 浴して
浪を子守の 歌と聞き
千里寄せくる 海の気を
吸いて童と なりにけり

  • 潮に浴:海水の産湯
  • 童:少年

<歌詞の意味>

産まれたら海水で体を洗い
波の音を子守唄にして
はるか遠くから流れてくる海の力を吸い込み
立派な子供に成長したものだ

3番(高く鼻つく〜)

高く鼻つく 磯の香に
不断の花の 薫りあり
渚の松に 吹く風を
いみじき楽と 我は聞く

  • 不断:絶え間ないこと。不断花という季節問わずに花が咲く植物もあるらしい。
  • 渚:水際
  • いみじき楽:素晴らしい音楽

<歌詞の意味>

強い磯の香りの中に、
絶え間なく咲き続ける花の香りが混ざっている
海沿いの松林に吹き抜ける風の音は
素晴らしい音楽として私には聞こえてくる

4番(丈余のろかい〜)

丈余の櫓櫂 操りて
行手定めぬ 浪まくら
百尋千尋 海の底
遊びなれたる 庭広し

  • 丈余:丈=3Mの長さ。丈余で約3M。歌の中では、とても長いという意味。
  • 浪まくら:船の中で寝る。船旅。
  • 櫓櫂(ろかい):櫓と櫂。船をこぐ道具。ボートのオールに似ている。
  • 百尋千尋:尋は両手を広げた長さの単位。尋が百も千もあるので、とても長いという意。ここでは海の底を指すので、とても深いということ。

<歌詞の意味>

長いオールを操って
行く先を決めずに船旅に出る
とても深い海の底は
遊び慣れた広い庭のようである

5番(幾年ここに〜)

幾年ここに 鍛えたる
鉄より堅き 腕あり
吹く塩風に 黒みたる
肌は赤銅 さながらに

  • かいな=腕
  • 赤銅(しゃくどう):銅に金を混ぜた合金。赤銅色の肌はかなり黒に近い=相当日焼けをしている。

<歌詞の意味>

何年もここで鍛えているので
鉄のように固い腕になった
潮風が吹き 日焼けをし
黒くなった肌は赤銅のようだ

6番(浪にただよう〜)

浪に漂う 氷山も
来らば来れ 恐れんや
海まき上ぐる 竜巻も
起らば起れ 驚かじ

<歌詞の意味>

もし氷山が漂って来たとしても
来るなら来い、私は恐れない
海から竜巻が起こったとしても
起こるなら起こるが良い 私は驚かない

7番(いで大船に〜)

いで大船に 乗出して
我は拾わん 海の富
いで軍艦に 乗組みて
我は護らん 海の国

  • 拾わん:拾いましょう
  • 護らん:守りましょう
  • いで:さあ!いざ!の掛け声

<歌詞の意味>

さあ、大船に乗り
私は海産物を集めよう
いざ、軍艦に乗り
私は日本の国を守ろう

 

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公民館短歌会 186

2023-05-20 | 短歌

 岐南町南町民センターで短歌会を始めて何年になるでしょうか。スタートしたのは平成16年ですから、いつの間にか20年になろうとしています。鬼籍に入られた方も多いです。

 昨日は激しい雨の中でしたが、予定通りすすめました。やはりあの雨ではカートを引くのも無理のようで、最高齢のHさんは欠席。作品は添削して次回お渡しすることにしました。

 歌話は、天田愚庵を取り上げました。江戸末期から明治にかけた人で禅僧。戊辰戦争の時は15歳。従軍して父母妹と生き別れて20年。探しても再会できずでした。やがて清水次郎長の養子となりました。次郎長が全国に名が広まったりは彼の書いた伝記によるものでした。佐賀の乱で誤認逮捕で獄中生活。獄中で歌人に会い、そこで短歌を学びます。彼に影響を与えたのは山岡鉄舟との出会い。斎藤茂吉も彼の歌を認めています。正岡子規との交流もありました。しかし、病弱のため51歳で亡くなりました。

50歳の時の歌

かぞふれば我も老いたり母そはの母の年より四年老いたり

今月の一首

四年ぶりやうやく戻りし故郷はどこまでもどこまでも青き山   Hさん

写真上は郷里の福岡に帰られたHさんからのお土産のニワカ煎餅 包装紙の裏側には博多弁が・・・

 

 今朝のNHIBS火野正平さんの自転車旅は、30年前に住んでいた加古川市の場面でしたので、思わずくぎづけ。私たちが住んでいたころはまだ文化財に指定されていなかった八仏を紹介していました。これに似た仏像は見たことがあります。古墳時代の石棺の蓋に8体の仏像が彫られています。南北朝時代に彫られたらしいです。

 

加古川市の八仏

 

 

 

 

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音楽療法 7

2023-05-19 | わが家

 昨日は月一度の音楽療法の日で、バイオリニストの濱島先生を迎えました。リクエストされたオペラ座の怪人と悲愴に始まりました。オペラ座の怪人は、先ごろラスト講公演がありましたが、私たちは名古屋で20年位前に見ました。リクエストした人は映画がよかったそうです。忘れかけていたメロディーを再び思い出しました。

 ベートーベンの悲愴は山場だけ演奏されました。とても長い曲ですから。そして、前回のカノンをもう一度。演奏者からは、季節に合わせて、ということで、サマータイム。そして、タンゴでもいかがと言うことで、ジェラシー。バイオリンでのタンゴは、初めて聴きました。軽快でとてもよかったです。濱島先生は母校の中部学院大学で教壇に立たれています。八面六臂の大活躍です。

 

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音楽療法の歴史と概要・自衛隊ヘリのこと

2023-05-18 | 講演会

 昨日は、サンサンの会があり、中部学院大学教授、看護リハビリテーション学部長、大森先生の講義を聞きました。テーマは、「音楽療法の歴史と概要」。大森先生の講義は、昨年10月20日に続きます。

 音楽療法の歴史は、羊飼いのダビデが竪琴を奏でて、イスラエル王サウルの病を癒したという旧約聖書から始まります。但し中世の1000年くらいは医学も音楽療法も停滞していました。顕微鏡も発明されていないので微生物の存在も分かりません。毛細血管も分からないため、血液は途中で消えると思われていたそうです。教会の権力が強くて僧侶が取り仕切っていました。そういえば地動説にも僧侶が最後まで反対していた話を思い出します。天動説が正しいと。

 近代音楽療法が20世紀米国で発祥。今はあらゆる領域で発展しています。

 時間より早く会場の岐阜市立図書館メディアコスモスに着きましたので、文芸春秋を30年ぶりに拾い読みすることにしました。沖縄近海で自衛隊ヘリが墜落したニュースが気になっていたからです。これも中国が怪しいです。亡くなられた10人のうち8人は幹部。沖縄あたりは中国の軍艦がたむろしています。このニュースの詳細も40年は秘密にされるのでしょうか。御巣鷹山の日航機墜落事故の真相は40年後の今頃になりボツボツ聞くようになりましたし。

 自衛隊の名簿などは中国のスパイにより盗み取られ、駄々洩れになっていることと思います。何しろ日本はスパイ防止法もないので、働き易いのだそうです。スパイ防止法を成立させない野党には投票しない方が賢明ですね。

 同じ日の同じ時間に中国海軍の艦船が通過していたのになぜかマスコミは伝えません。あのヘリには、第八師団トップ坂本陸将も乗っていました。この方の見つかった状況や死因についても、日本のメディアはだんまりです。師団ナンバー3の庭田陸佐も犠牲になりました。最新兵器の見えざる攻撃のようでした。

 

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南京大虐殺の真相…ウソを広めた悪魔の女

2023-05-17 | Weblog

丸谷 元人氏のメルマガより


 
(出典:Wikipedia)

この写真の女性をご存じでしょうか。
名前だけは聞いた事がある
という方もいると思います。

彼女の名は、アグネス・スメドレー。

この人物こそ、
南京での日本軍による20万虐殺説を、
さんざん喧伝したという事で
日本人にとって許せない人です。

実は、これらの人々の証言をもとに、
日本の学校教育が行なわれていました。

"アメリカのジャーナリストが言うから
間違いない"と言うと、
そんな事があるわけなかったのです。

現場で南京戦に参加した人たちに、
私も何人かインタビューさせていただきましたけど、

その人たちが
「そんなものはなかった」とか、
「見てない」と言っても、
周りの人は黙らざるを得ません。

アメリカの女性ジャーナリストが
言っているから間違いないだろう、
という話になってしまうのです。

ちなみに、
私が20年近く前に取材した元兵士の方は、

南京大虐殺をどう思われますかと言ったら
「冗談じゃない」とおっしゃっていました。

なぜかというと、
兵士というのは場合によって
40〜50キロの荷物を担いで歩くわけです。

しかも、中国の国民党が早々に逃げてしまい、

日本軍に物資を残さないために
村とかも焼いてしまいます。

その村を見つけて入ると住民たちは怖がって、
どこかに逃げていくわけです。

中に入ったら日本と違って
衛生管理が違いますから不潔です。

汚い茶碗や、ハエが集っている米のほか、
布団でも着物でも汚れています。

そんなものを
日本兵が散々略奪したと言われているけど、

ただでさえ
40キロぐらいの荷物を担いでいるのに、

壊れた汚い茶碗とか、
ハエが集っている飯とか、
茶色の布団や着物を

一体誰が取るのかと言っていたので、
非常に説得力がありました。

そのような中で
日本兵が大量の略奪や、女性を暴行して
大量に組織的な虐殺をしたと言ったのが
アグネス・スメドレーです。

ちなみに私は、
日本軍による暴行も当然あったと思っています。

だから憲兵がいて、摘発したわけです。

もちろん不良兵士による小さな事件は
どこの国でもあります。

でも、組織的な一般市民を並べて
100人斬首したという事実はなかったと思います。

ただし、南京においては
武器を捨てた国民党軍の兵士が
逃げられなくなっていました。

実は、中国軍に特戦隊というのがいます。

それは前線で戦わされている
部隊の後ろに監督している部隊の事で、
前線から逃げてくる味方を撃ち殺していました。

それで仕方ないから
前線の兵士たちは敵に向かって
突撃するしかなかったのです。


逃げられなかった兵士たちは
軍服を脱いで民間人を襲って、
服を盗んで着て、
民間人のふりをするのです。

これは国際法違反です。

そのような中で、ピストルを隠し持って
日本兵を撃った奴が出てきたので、
日本は対処せざるを得なかったのですね。

こういう輩を便衣兵と言いますけど、
いわゆる今のゲリラです。

これは、
国際法であるジュネーブの法規上は
保護しなくてもいい対象でありますので、
日本がこれを討伐したという事はあったでしょう。

ただし、一般市民である婦女子まで含め、
並べて首を片っ端から斬ったという事は
ないだろうという事です。

実際に南京を日本が攻略したときは、
南京の人口は20万だったと言われています。

日本軍が1937年12月に南京を占拠しました。

占拠して1ヶ月後に
国際委員会が再度人口統計すると
なんと25万人に増えていたらしいです。

なぜかというと、
途中で日本と戦争になるからと言って
逃げていた人たちが、

戦争が終わって
秩序が回復したので戻ってくるわけです。

もしも、阿鼻叫喚の大虐殺が起きていたとしたら、
そんなところに誰も戻ってこないでしょう。

この大虐殺が今では
30〜40万人という話になっていて、
どんどん死者の数が増えているという事ですが、

これを喧伝したのが、
アグネス・スメドレーです。

日本にとって許せない謀略活動しており、
戦後に生まれた我々の世代、
次の子供の世代までも、

こういった日本人としての誇りを
打ち砕くような洗脳教育をする
きっかけを作った人でもあるのです。


// 編集部からのお知らせ //

丸谷元人先生の
「作られた独裁者たち
第2巻 『虚像の革命家 毛沢東』 編」

という新講座の一部です。



コメント (2)
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