つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

シャネル

2023-03-30 | Weblog

これは丸谷さんのメルマガからです。

あなたはココ・シャネルと聞いて
どんなイメージを持ちますか?

高級ブランド「シャネル」の創業者でしょうか。

確かにそうです。

しかし、ココ・シャネルに、
もう一つの裏の顔があったことは
あまり知られていません。

それが、「ナチスのスパイ」であったこと…

信じられない話ですが、
彼女は第二次大戦中に
スパイ活動をしていたのです。

それもナチスに協力をして。

そのコードネームは
「ウエストミンスター」。

ナチス親衛隊(SS)情報将校との
愛人関係を持っていたことや、

上流階級とのネットワークを使い、
彼女はスパイとしての役割を果たしました。

なかでも興味深いのは、

ナチスの将校と、
イギリス首相チャーチルとの
パイプ役を果たしていたということ。

実際、ナチスのスパイ作戦
「モデルフート作戦」の
主軸を担ったのは彼女でした。

その作戦は、
「ナチスと連合軍との和平交渉」。

ナチスとイギリス政府の
橋渡しの役割を果たそうとしたのです。

このように、
彼女がナチスに協力した背景は、

諸説あるものの、
シャネルが過激な反ユダヤ主義だったことも
関係しているのでしょう。

ちなみに戦後、
シャネルがナチスに協力していたことを
糾弾されなかった裏側には、

懇意にしていたチャーチルの口添えが
大きく働いていたとも言われています。

いかがでしたか?

シャネルに意外な裏の顔があることは、
あまり知らなかったのではないでしょうか?

しかし、ここで伝えたいのは、
シャネルが良かった悪かった
ということではありません。

このように、
ナチスやヒトラーたちに
協力をした者がたくさんいるということ。

さらに、ただ協力するだけでなく、
ヒトラーやナチスを育て上げた者たち…

彼らにカネや武器などを
支援した人たちがいるにも関わらず、

その実態が、100年近くもの間、
ずっと秘密のベールに
包まれているということです。

ヒトラーやナチスだけが
悪のように祭り上げられることで、

まるで煙幕のように、
その後ろで暗躍した人たちが
分からなくなってしまっているのです。

あの惨劇は、
ヒトラーたった1人によって
引き起こされたものなのか?

・なぜヒトラーはドイツ国民を扇動出来たのか?

・なぜヒトラーは世界を敵に回したのか?

・なぜヒトラーは巨大な悪魔となったのか?

それらの謎を繋いでいった先に
“巨大な悪の黒幕たち”の存在が見えてきたのです…

ヒトラーを煙幕にし、
その陰に隠れていたモノとは何なのか…

写真は我が家のコブシ

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ルイ・ヴィトン

2023-03-28 | Weblog

中山理さんからのメルマガより

「ルイ・ヴィトンのモノグラムは
日本文化がルーツだった」



(引用元:shutterStock)

このように聞いて、

「フランスのアパレルブランドと、
日本にどんな関係があるんだ?」

と疑問に思う方もいるかもしれません。

その理由は、今からおよそ150年前の
1867年、パリ万博まで遡ります。

このパリ万博には日本も多くの品を出展しており、
中には島津藩の品物もありました。

これをたまたま見たルイヴィトンの関係者が、
島津藩の『家紋』に感銘を受け、
モノグラムを考案したと言われています。


(引用元:Wikipedia)

さらには、日本の市松模様がヒントになって
ダミエの柄が生まれたという説もあります。

(ヴィトンのダミエと市松模様)↓


(引用元:shutterStock)


このように、芸術大国フランスに
日本は意外な形で影響を与えていました。

同じく、フランスの世界的ブランド
『シャネル』の創業者ココシャネルは、

「黒はすべての色に勝る」という言葉を
残していますが…

実は、この500年以上も前から
シャネルと全く同じことを言っていた
日本人が存在していたのです。

写真は頂いたクリスマスローズ

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祝日考

2023-03-26 | Weblog

伊勢雅臣氏のメルマガより

国柄探訪:深い泉の国
From:伊勢雅臣


■1.古代文化と現代文明の不思議な共存

「そう、新旧の不思議な共存、
 外国人が日本へ来て驚くのは、
 それですよ。

 近代技術の粋を集めた丸の内のビル街を、
 古風な祭の行列がしずしずと進むのを見て、
 たまげてしまう(笑)」 
    [1]

滞日四十余年、
上智大学名誉教授
トーマス・インモース氏はこう語る。

これは西洋の文化人・知識人が
日本でよく感じることらしい。 

イギリスの代表的な
高級週刊誌エコノミストも、

かつて、
自衛隊のジェット戦闘機の前で、
神官がお祓いをしている写真を掲載していた。

欧米人から見れば、
何ともユニークな光景として
見えたに違いない。

過去には、
長野オリンピック開会式では、
ベートーベン第9の5大陸同時演奏と、
信州の郷土色豊かなお祭りが披露された。

最新の現代文明と
古代からの民俗文化との共存には
日本人ですら驚かされた。

国際常識では、
古代からの習俗・習慣を
いまだに持つ国は、
文明的・経済的には遅れた国であり、

先進国とは、
そういうものから脱却して
「近代化」の進んだ国である、と考える。

日本での古代文化と
超先進文明との共存は、

この国際常識を
真っ向から否定するもので、
まことにユニークな国柄だ。


■2.深い泉の国

インモース氏は、
我が国を「深い泉の国」と呼び、
次のような詩をものされている。

__________
   深い泉
 この国の過去の泉は深い。
 太鼓と笛の音に酔いしれて
 太古の神秘のうちに沈み込む。
 測鉛を下ろし、時の深さを、わたし自身の深さを測る。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「太鼓や笛の音」といえば、
長野オリンピックで、
君が代が雅楽として
演奏された光景を思い浮かべればよいだろう。

測鉛(そくえん)とは、
縄の先に鉛を結びつけた
水深を測る道具である。

日本という泉の深さを測る、
それはインモース氏の学問そのものだが、

それを通じて、
「わたし自身の深さを測る」といわれる。

西洋人であるインモース氏自身の
心の奥底に潜む、
太古の心情-それは同じ人類として
西洋人にも共感しうるものらしい-を
明らかにする、という事であろう。

__________
日本のことについて質問された時に
まったく答えられなくて
困ったという人も少なくないだろう。

日本のことについて知らないために、
外国文化の理解が浅いレベルにとどまったり、
見えるべきものが
見えなくなる場合も多いのではないか。[2]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

まず自分自身の
アイデンティティについて知らなければ、
外国文化の事も深く共鳴できない。

これは国際派日本人となるための
キーポイントである。


■3.祝日考

先日3月21日は春分の日であった。

我が国には16日の祝日があるが、

そのそれぞれが、
歴史の過程を通じて生み出されてきたもので、
その由来を探ることは、

そのままこの「深い泉」の深さを
測ることとなる。

今回はいくつかの祝日を取り上げて、
その由来をたどることで、
「深い泉」とはどのようなものか、
考えてみよう。

春分の日を中日として、
前後7日間を彼岸会(ひがんえ)と称して、
先祖供養を営む。

皆さんの家族でも
お墓参りに行かれる方がいるであろう。

中日には昼夜が同じ長さとなり、
太陽が真東から昇って、真西に沈む。

真西に沈む太陽を拝んで、
念仏を唱えると西方の彼岸、
極楽浄土に行けると信じられていた。

彼岸の法要は、
平安初期から朝廷で行われ、
江戸時代には庶民の間に
年中行事化したものである。

我が国だけの「仏教行事」だそうで、
仏教思想と古来からの太陽信仰が
習合して生まれたものであろう。

「日本後記」大同元年(806)
3月17日の記事に、

自害せられた早良親王
(桓武天皇の皇太子であったが、
延暦4年(785)廃せられ、
ついで淡路国に遷される途中に没)の為に

諸国国分寺で、
旧暦2、8月(現在の3月、9月)に
「別して七日、金剛般若経を読ましむ」
という記事がある。

外国人に話をする機会があったら、
9世紀の頃から続いている行事だと
さりげなく言えば、
それだけで「泉の深さ」が
理解できるはずである。


■4.祝日に見る日本人の一生

元日は、年の始めを祝う日であるが、
中世の頃までは、大晦日が先祖の霊、
祖霊が帰って来る日であった。

現代でも歳神様とか、
正月様と呼ばれる祖霊は
家の守護神であり、
また豊作をもたらす穀霊でもあった。

元日には、
子孫の繁栄を見守る
祖霊とともに新年を迎え、
御節(おせち)料理をお供えする。

人間が食べるのは
そのお下がりなのである。

数え歳では、
元日に家族揃って、
一緒に年齢を加えるわけだが、

男子は15歳頃、女子は13歳頃になると、
祖霊とともに、成人となるのを祝う。

ただ、旧暦の元日は新月で闇なので、
望月(満月) の15日に元服式を行った。

これが「成人の日」の起源である。

現在でも全国各地で成人式が行われるのは、
この元服式の継承である。 

5月5日は「子供の日」である。
鯉のぼりを立て、菖蒲湯に入る。 

聖徳太子の時代の
推古天皇19年(611)5月5日、
野山で薬草を摘む「薬猟」が行われた。

香りの強い植物は邪気を攘うと信じられ、
春から夏への季節の変わり目に
心身の邪気を追い祓ったのである。

「菖蒲」が「尚武」となり、
武家の男子の無事なる成長を祈った。

これが町人社会にも広がって、
武家の幟(のぼり)にかわって
出世魚の鯉のぼりが使われるようになった。

9月15日は「敬老の日」である。
これは奈良時代の初めの
養老の滝伝説に起源を持つ。

美濃の国に薪を売って、
老父の好物の酒を求めていた
親孝行の木こりがいた。

ある時、
石の苔に足を滑らせて転倒して、
偶然「酒の泉」を見つけた。

これで老父に孝養をつくしたという。

この事をお聞きになった
元正天皇は霊亀3年(717)9月に、
その地に行幸し、木こりを国守にとりたて、
同年11月に養老と改元された。

敬老の日が設定されたのは、
昭和26年(当時は「年寄りの日」)であるが、
9月中旬に地域のお年寄りを招待して
「敬老会」を開くというのは、
かなり前から行われていた。


■5.日本文化の個性

こうして祝日の由来をたどるだけで、
日本文化のいくつかの個性を
見る事が出来る。

まず第一に「重層性」。

長い日本の歴史の過程で、
いろいろな経験や工夫が
重層的に積み重なって
祝日ができている点である。 

フランス革命で
暦まで新しく人為的に作り出してしまったような
革命主義は、我が国の歴史には無縁であった。

皇室が文化の発信元となり、
それが国民生活の中に
自然に定着したというパターンが目立つ。

「時は流れない、それは積み重なる」、
ウィスキーの宣伝ではないが、
この言葉は日本文化にそのまま当てはまる。

第二に「受容性」。

インドの仏教思想や
中国の儒教・道教の思想も、
自然に取り入れられている。

シナのように
外国のものは頭から野蛮だと
見下すような中華思想、

あるいは大戦中に
一時見られた国粋主義も、
我が国の文化伝統からは遠いものである。

現代のクリスマスや
バレンタイン・デイなども
同じ受容性のあらわれである。

第三は「敬虔性」。

神道や仏教などの
素朴な宗教的心情に基づく点である。

宗教と言っても、
哲学的な理論武装をしたり、
他宗教を攻撃するような
「近代的」な面はなく、

「祖霊を迎える」とか、
「邪気を祓う」といったきわめて、
つつましい、敬虔なものであった。

現代の我々も、
お正月に初詣をすると
なんとなく清々しい気持ちになるとか、
お墓参りをすると、

先祖が「草場の陰で」
見ていてくれるような気がするのも、
同じ敬虔な心情であろう。

重層性、受容性、敬虔性、
この3つが、
我が国の文化的個性を表す
キーワードと言えよう。
 
これらは日本文化の個性を表すものであって、
それが他国より優れているとか、
劣っているなどと考える必要はまったくない。

ただ自分自身の個性をよく理解し、
発揮する、そうする事によって、

他の文化の優れた個性をも、
理解し、共感することができるのである。

「この国の過去の泉は深い」。

その深い所では、
他民族、他文化とも共感しうる、
人類共通の心情にふれる事ができる。

写真は庭の椿






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音楽療法 5

2023-03-24 | わが家

 我が家での濱島先生によるミニバイオリンコンサートも、昨日は5回目を迎えました。先月は義兄の告別式があり、お休みしました。あいにくの天候でしたが、演奏には差し支えありません。雨天は、微妙に音が違うようてすが、それまで聴きとることは出来ません。季節によっても違うそうです。

 毎回別の方を招待しています。そうしますと、思いつかないリクエスト曲が出るものです。前回、「春の海」がすてきでしたので、又頼みました。そして卒業の時期に合わせて、「いい日旅立ち」。そして新しい希望曲の「カノン」。前回の「千の風になって」も頼みました。何度聞いてもよいものです。

 昨日のメンバーの一人は、すでに13年くらい前、隣の笠松町でも演奏会があったらしく、二度目でした。もう20代から活躍しておられたようです。最後の曲は昨年末のコンサートで披露されたもの。自分で作られたた曲でした。あの時の照明と生花のすばらしさを言いますと、照明だけでかなりの金額が投入されたそうです。服装も曲に合わせられていたとは知らなかったです。そういえば後半のスタンダードな曲の場合は、そういう雰囲気のスーツでした。前半はカジュアルでした。

 午後から来客があったので、動画で撮っていたバイオリンコンサートの一部を聞いていただきました。前回長屋門の展示室を見てもらいましたが、そこに追加で飾ってほしいと、浮世絵のアルバムをプレゼントされました。感謝です。

 

 

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第34回 GIFUいけ花展

2023-03-23 | 岐阜県

 義姉が出品しているというので、昨日は30年ぶりに岐阜市文化センターでの第34回 GIFUいけ花展を見に出かけました。コロナで3年ほど開かれていなかったそうで、大変な賑わいでした。義姉は長く草月流をたしなんでいます。義姉の話では、一週間で1万人の来場者があったそうです。私は関西で嵯峨御流を習っていたのですが、岐阜へ来た30年前に止めてしまいました。

 母が若いころ習っていた則天門流も健在で、亡くなった妹が習っていた小原流も見られ、12の流派が競って展示されていました。池坊のパワーが相変わらず岐阜では優勢です。義姉の作品は、シンビジウムにスモークツリーにハラン。竹ひごを着色したオブジェにからませてありました。則天門の作品にバイモを使ったものもあり、わが家にもあるので、応用してみたいです。

 

 ところで昨日は、WBCで日本代表の侍ジャパンが14年ぶり3回目の優勝を果たし、日本中が大フィバーでした。決勝戦の相手は米国で、3:2で勝利しました。前回の優勝は2009年。大谷翔平選手は二刀流で、MVPの表彰を受けました。史上初の日米決勝戦とあれば、世界中が沸いたことでしょう。野球発祥の国に勝てたのですから、大したものです。予選からすべてすごい内容でした。準決勝対メキシコ戦は、逆転サヨナラゲーム。手に汗握るものでした。日本人の素晴らしさを再認識しました。チームワークもよくて、栗山監督、大谷、佐々木、ダルビッシュ、村上、ヌートバー、山本、高橋たちの名は忘れないでしょう。3年後も頑張ってほしいです。

 

バイモも

懐かしい嵯峨御流

トップの人の作品

クリスマスローズがしおれたらしく活けかえておられます

 

 

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現地人慰安婦1万6000人説

2023-03-22 | Weblog

丸谷氏のメルマガからです。

ダイレクト出版 政経部門の小川です。

また最近ですが、
韓国が「慰安婦問題」などと言って、
日本にイチャモンをつけてきていましたね。

外務省は徹底的に、
正しい歴史認識を外にも
発信していってほしいと思いますが…

実は、日本兵の慰安婦問題というのは、
韓国だけの話ではないと
知っていましたか?

今日は、東南アジア、
特にパプアニューギニアにおける
慰安婦問題について、

オーストラリアを含む
南洋諸島、中東などで

危機管理コンサルタントとして
活躍されてきた丸谷元人先生に
お話いただきました。

ぜひ、続きをお読みください。

*****

From:丸谷元人

かつての慰安婦問題でも
「殺した女性の頭を釜で煮て食べさせられた」
(鄭玉順)とか、

「時々人肉スープを飲まされた」(朴永心)
とかいう荒唐無稽な話が真面目に提起され、

日本や海外のメディアが
嬉々として飛びついたことがあった。

こんな嘘くさい証言など、
叩けばボロはいくらでも出てくる。

次などは完全に、
一時期はやった「性奴隷」系の話である。

「日本兵の宿舎でセックスの相手をさせられました。
兵隊の階級には関係なく、多くの人の相手をしました。

約10人ぐらいの未婚女性がいましたが、
疲れてできないと拒否して殺された者もいる。

第一キャプテンの名はウエハラ、
第二はワギモトでした。

わたしは幸い宿舎から逃げ出せました。
何カ月かわからないけど、長い間でした」

というのはウルゥプ村のカミ・ドマラさん。

この「性奴隷」系の話に対する反論は、
2011年4月に高知新聞から出版された
『祖父たちの戦争』を読むのが一番よいだろう。

この本は、高知県出身で、
私が以前監修した『ココダの約束』という
本の主人公でもある西村幸吉氏の
人生を追ったものであるが、

高知新聞の気鋭・
社会派ジャーナリストである福田仁氏が、
膨大な取材と現地調査を通じて

丹念かつ丁寧に書き続けた
記事をまとめた一級の秀作である。

発言者は、西村幸吉氏
(歩兵第一四四連隊兵長。戦後、遺骨収容のために
26年間ニューギニアのジャングルで暮らした方)と、

堀江正夫氏(第一八軍の元参謀、少佐)であり、
この方々の発言はすべて、

私自身もドキュメンタリー番組
制作の際の取材で、直接本人から聞いている。

<西村幸吉氏>
「あの話(『週刊朝日』の記事)にゃ、
高知の戦友たちも随分怒ってましたよ。
『何が女じゃ!何日か食わんとおって、
そんなことできるか実際に試してみい』ってね。

戦場では、食糧も武器も尽きたんです。
食いもんの確保と、逃げ道を探すこと、
この二つで頭ん中いっぱいですよ」
(『祖父たちの戦争』、191ページ)

「私、戦後はニューギニア各地を随分回りましたが、
白人との混血はあちこちの村におります。

彼らも、もう60代になっているわね。
だけど日本人との混血児には
一度も出会ったことがない。
うわさすら聞いたことありません」
(同書、192ページ)

<堀江正夫氏>
「ああ、あの記事ね。
誰が信用するかって。反論もばからしくってさ…」
(同書、193ページ)

この堀江正夫先生は、
陸軍士官学校出身でニューギニアに上陸し、
第一八軍司令官・安達二十三中将に付き添い、

悲惨な戦いとなった
アイタペ作戦にも参加、
終戦後にはウェワク沖の
ムシュ島に抑留された方である。

終戦当時の日本兵の極限に近い飢餓地獄を、
実際にご自身で体験されている方だ。

『週刊朝日』の記事には、
日本兵が1万6000人もの
パプアニューギニア人女性を
強制的に慰安婦にした、という話も載っている。

しかし堀江元参謀はこれについても、
以下のように一蹴している。

「1万6千…。あははっ。そんな数字、どこから出てくるか。
想像もつかない。兵隊は転進に転進を重ね、
栄養失調とマラリアで次々と亡くなってるんですよ。

昭和19年8月以降は、
軍事司令官ですら一粒の米も食べてません。
僕は終戦時30歳だけど、性欲を覚えたことは
一度たりともなかった」
(同書、194ページ)

「ニューギニアに関しては、
そんなことできる戦況じゃなかった。
初めから向こうの制空権下にあって、
海上輸送が途絶えたんです。
『慰安婦』なんてもう、夢にもあり得ない」
(同書、193~4ページ)

私自身も、これとまったく同じお話を聞いている。
この、パプアニューギニア人の
慰安婦なるものについては、
他の兵士らも同様の意見である。

「兵隊とパプア女性との間に
性的接触はまったくなかったようだ。
これに類する話を聞いたことがない。

当時のパプア女性は例外なく
熱帯性皮膚病に侵されていた。
そのうえ蚊除けのため特異な臭いの
植物油を体に塗っていた。
これらが、兵士除けにも作用したのだろう」
(『戦場パプアニューギニア』奥村正二、中公文庫、177ページ)

今でも、パプアニューギニアの
セピック地方などに行けばよく判るが、
人は決して多くない。

村から村までの距離は遠く、
昔は交通手段など徒歩以外にはあり得なかった。
そして多部族社会の習慣として、
特に昔は部族間の交流は極めて少なかった。

その中で、特に若い女性だけを
1万6000人も集めることなどは、
物理的に不可能なのだ。

あの灼熱の地で、
毎日、滝のようなスコールが降ったら
マラリア蚊が一気に草むらから
飛び出してくるところだ。

しかも昼間は敵の飛行機が上空を舞い、
見つかれば執拗な機銃掃射や爆撃を受ける。

また、毎日砲撃が加えられ、
オーストラリア軍のコマンド部隊も
あちこちに侵入してきている。

実際、ポートモレスビーで
編成された原住民部族は、
セピック地方の各地に浸透していた。

そんな環境を、人肉食が頻発するような
「極限の飢餓状態」にあるガリガリの兵士が、
あの重い銃と飯盒をぶら下げて、

消えかけているその命をかけて
「若い女」を探しに出るのだ。

もし、「いや、あり得ただろう」と
思う人がいたら、ぜひ自分で
それをやってみればよい。

この記事にある
「パプアニューギニア人慰安婦1万6000人」が
どれだけバカらしいことかは、
簡単な計算をすればすぐに判る。

まず人口から見てみよう。

あの戦争の頃のパプアニューギニアの人口は、
実際には200万から300万人くらいだったろう。

仮に300万だとして、男女比を1対1とすると、
女性の数は単純計算で「150万人」となる。

当時の平均寿命を50歳と仮定すると、
「同学年のニューギニア人」は各年齢に
「3万人」いることになる。

ここで、百歩どころか
「一万歩くらい」譲って、
仮に日本軍が悪魔的な組織だったとしよう。

その「悪魔の日本軍」が、
パプアニューギニアにおいて
「慰安婦」として「強制連行」の対象にした
年齢層を15歳から30歳に設定したと仮定してみる。

なぜその年代かというと、
そもそも向こうの、特に地方にいる
女性などは今日でも、

実際の年齢より
かなり老けて見えるからである。

今でこそ都市部の女性は、
普通に化粧もしているし、
若い女の子であれば、

今風のファッションに身を包んでいて、
なかなかの美人さんもいるが、
昔は決定的に違う。

集落に住んでいる人の場合、
風呂にも入ったことのない人たちなので、
人によっては、かなり「厳しい」。

疑問に思う人は、
一度自分の目で確かめてみればよい。

私自身、あるセピックの村に
何日間も泊まった時の経験だが、
我々のような外国の珍客が
奥地の村にまで入って行ったというので、

村の女たちがキャッキャとはしゃいで、
あの手この手で我々にアプローチしてきたことがあった。

しかしどう見ても彼女らは30歳くらいに見える。
顔に入れ墨をしているし、
ブアイという果実をクチャクチャ噛んでいて、

口は吸血鬼みたいに真っ赤、
歯も「ヤニ」がついていて黒々しているのだ。

それでも一生懸命に
「ウインク」などをしてくるので、
思いきって年を聞いたら、

「17歳」「16歳」という
返事が返ってきて、
腰を抜かしたものだった。

そんな彼女らは、30代前半の私をつかまえて
「同年代」だと思っていたというから、
「こりゃ何もかも違うなあ」と思ったものである。


出典:丸谷元人著『日本の南洋戦略』
第三章  ニューギニアの日本兵 pp.159-162

写真は法事の日の料亭の床の間

 

 

 

 

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義兄の法要

2023-03-20 | わが家

 昨日は2月に亡くなった義兄の49日の法要が執り行われました。晴れ男だったようで、お葬式の日のように晴れ渡っていました。まず僧侶の読経から始まりますが、その前に長いお話がありました。なるほどと思われることばかりで、観無量寿経のことも分かりやすく説明されました。それもそのはず医師も兼ねておられて、NHKにも何度も出演。その番組は何度も再放送されたそうです。著書も多くて、中には、上野千鶴子さんとの対談もあります。橋田寿賀子さんも主治医に指名されていた小笠原先生です。

 橋田さんは、92歳のころ、「もう生きたくないから安楽死させてほしい」と依頼されたそうです。先生は,寿賀子さんの「寿」は永遠の命を表すし、「賀」というめでたい文字もご両親がつけられた名前。もっと大切にしなければと、説得されて、安楽死を止められたそうです。

 まだ話足りない様子でしたが食事時間も迫っているので、お帰りになられました。先生の著書はアマゾンで取り寄せてみたいです。医師になる前から僧侶の資格を9歳で取られていました。奥様も僧侶の資格を持たれていて、義兄の通夜式は奥様の読経でした。その日先生は開業医として行かねばならないところがあったのです。

 食事は申し分のない内容で和気藹藹で楽しく過ごしました。ところが会も終わりかかるころ、突然義姉が嘔吐。倒れて、救急車を呼ぶ事態になり、騒然となりました。娘は着物の帯をゆるめ、もしかしたら又、お葬式ということになるかと、私も胸の動悸が治まりません。救急車が到着したころようやく意識が戻りほっとしました。義姉と付き添いの娘のWちゃんはそのまま病院へ。 

 とんでもない結末でしたが、多分義姉はこの日の準備で疲れが出たのでしょう。和服も体に負担がかかったのでしょう。こういう場合、息子よりやはり娘。Wちゃんのかいがいしさに87歳の義姉は救われたのでした。息子は法事を仕切っているので、病院には行けません。

 義兄は、さくらの会に招待されましたが、義姉も菅内閣のとき、国から表彰を受けていました。長く民生委員をつとめたことによります。私はそれを4年で退きましたので、問題外です。

 この日は私もとても忙しく、朝7:45からはこの地区での年6度の道路の空缶拾いと、神社の除草作業。8:30からは彼岸も近いので、墓地の花の取り換え。9時にはタクシーGOを呼び、法事の会場の義兄宅へ。読経の後は、食事処へ移動。救急車を送り出した後、先月のように義妹に便乗させてもらい帰宅しました。帰りは、木曽川の向こう側にまだ雪を冠った御嶽山が美しく見えました。

 追記: その後の情報では、義姉は病院で回復し、帰宅。入院には至りませんでした。息子は薬剤師で、孫は医師の卵。当座の処置もよかったのでしょう。私たちも安心できました。

 

帰りには木曽川の向こうに御嶽山が見えました

 

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公民館短歌会 184

2023-03-18 | 短歌

 昨日も季節外れの暖かさの中で、短歌会を開きました。早いさくらたよりもちらほら聞かれる頃となりました。先月は天体ショーもあったらしいのですが、見逃していました。2/21は、細い月の下に木星と金星が金の雫のように並んでいたそうです。3/3は、月は半月前より大きくなり、金星と木星は上下入れ替わり、寄り添っていたようです。日没に西の空を眺め、確認されたとか。

 別の天体ショーもあり、友人が教えてくれたことは、国際宇宙ステーション希望が、西空に4分ほどこのところ毎晩見られること。でも我が家の南側にテニスコートがあり、ナイターで煌々と照明され、見えにくいのです。

今月の一首

如月の西の空には月の船月の雫か木星金星       Hさん

 ところで会員のSさんが、富士山麓で開かれたある会議で、短歌大会への投稿を依頼され、即興で詠まれた歌が、第10回いすみ市短歌大会に佳作入選され詠草集に掲載されました。選者は、秋葉四郎さん、松平盟子さん、日高堯子さんなど。全国27都県市町から応募され、岐阜県は一人でした。いすみ市は千葉県にあります。

朝ぼらけ富士は茜に染まりたり細き稜線いよよきはまる

 

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悼・大江健三郎氏

2023-03-15 | 文化

 小説家の大江健三郎氏が3日亡くなられました。メディアでは昨日発表されたのですが、その前日にはネットの情報で知っていました。35年ほど前、神戸で講演会があり、聞きに行ったことを思い出します。そのころ関西にいたので、関西住まいだった司馬遼太郎さんの講演会にも出かけました。それに金田一春彦氏のものも。金田一氏の話は愉快でした。息子の秀穂さんもうまかったです。

 大江氏がノーベル賞を獲得された後だったので、全国で講演されていたのでしょう。彼の熱烈なファンである友人のMさんは、「障害のある子の話に触れないで、涙が出るから」と言うのです。私は息子さんの光さんの音楽の才能がすごいと話しただけでしたが。ファンというものはそういうものなのでしょうか。「死者の驕り」を読んだりしましたが、才能はすごいと思いました。

 講演会で一つ覚えていることがあります。大江氏の出身高校は松山東高校。その前身の旧制中学を正岡子規が卒業していることを嬉しそうに話されました。話をしている間は上着のボタンを嵌めたり外したりして話される癖がありました。子規の後輩である大江氏も東大に行かれました。

 昨日のニュースによると、彼は別の高校にも在学されていて、転校されたようです。その高校で発表された詩が発見されたようです。その詩にとても高校生が使うことはないような難読文字があり、驚きました。

 昨日は扇千景さんとイトーヨーカドーの創業者の伊藤雅俊氏の訃報もありました。同じ日に有名人3人の訃報があったのも珍しいと思います。

 今年の庭木剪定もようやく今日で終わりそうです。5人で3日かかります。樹齢100年近い松が枯れたのは残念でした。昨年も樹齢100年の柊が枯れてしまいました。その後に何を植えるかは庭師さんに任せています。最下段の紅梅の写真は月も入れたつもりですが、ボケました。

 

枯れた松は上から少しずつ切断

もう終わっている我家の紅梅 

 

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改築して22年経つと

2023-03-13 | わが家

 築150年ほどの自宅を、22年前改築しました。昨年はエアコンが6台ダメになり買い替え。中には母が書道塾をしていたころのものもあり、これは、43年前のもの。週一回しか使用しなかったし、その後長屋門展示室にして使用頻度が低いためでした。さらに冷蔵庫とテレビも買い替え。そのうえパソコンが使えなくなり、買い足し。これは23年間で5台目くらいでしょうか。パソコン故障は一年未満のため、新品交換かと思いきや、そんなに甘くなくて、無料修理でした。

 今年になり、インターホンが不調となり、さらにガスファンヒーターが故障。一階の廊下に水漏れ。これは二階トイレからのもの。この水回りの工事施工とウォッシュレットも新調しました。前の形式のものと比較すると少し進化しています。インターホンは、正確にはテレビドアフォン。これも22年経つと映像が回転するようになりました。これも今のものは進化していて、留守中に来た人の映像もビデオに残るので、誰の訪問があったかが再生してみると、分かります。

 ガスファンヒターは、これも進化していて空気清浄のボタンもあります。石油ストーブは管理が大変なため、使用していません。普通は10年でダメになるケースが多いのに、22年とは・・・ガス屋さんも驚いていました。

 

テレビドアフォン

ガスファンヒーター

ウォッシレット

テータテート

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