つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

久野治記念歌集「白寿」

2022-05-09 | 

 今年99歳になられた著者の久野治氏から歌集「白寿」が、このほど送られて来ました。岐阜県歌人クラブ紙の知り合いで、著書多数。織部の研究家で、その方面の著書により賞も獲得されています。三菱重工退職後、文学の道に志され、短歌、作詞、それに絵もたしなんでおられます。

 夏の気温が日本最高である多治見市の地を離れ、近年琵琶湖畔の高層住宅に住まわれています。短歌は14歳から詠まれていて、陶芸関係の作品が最多です。下に順に挙げましたが、この他にクラシックコンサートを詠まれたものもあります。巻末には6曲の郷土の歌の作詞作品があります。これからも長生されることを祷ります。

一握の 陶土を柩に 入れしとう 天にて轆轤 まわし給うか     (陶芸家・加藤唐九郎)

蜩も 啼きつくしたると 思うとき 卒寿をまえに 母逝きにける

そのむかし 利休の首を さらしたる 戻り橋あと 春の雨降る

若き日に 征きたる東西 西ドイツ 既に貧富の 差はひろがりぬ

窯神の 供えの水・塩 こぼれけり 攻め焚き一気に 地ひびき立てる

高台の 下石小学校 そのむかし 田中邦衛 が教鞭とりたり  (俳優 田中邦衛)

窯の火は 冷ましに入りて ふと見上ぐ 染井吉野は すでに七分か (第3回岐阜県文芸祭文芸大賞)

そのむかし 佐藤一斎の 言よろし 「春風をもって 人に接す」と

頑張ったね と言ってやりたし 一人孫 われらが一族 少子にあれば

大比叡の 山の麓に 庵むすび われの余生は 歌詠み人か

 著者は、三菱重工にてゼロ戦の制作に携わっておられた昭和19年徴兵を受けられ、フィリピンに派遣される途中、米軍の攻撃にあい、船が大破。15時間漂流の後、友軍に助けられました。その後台湾で軍務をされ終戦となりました。中日出版発行。192頁。

下段の写真は昨日の母の日に届いた長男夫婦からのプレゼント

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

手作りお菓子 54

2022-05-07 | わが家

 昨日もNさんから手作りお菓子を頂きました。メニューは、ガトーショコラ、パンナコッタ、ミルクプリン&レモンゼリー。だんだん暑くなってきましたので、冷菓はほどよい甘さでおいしく頂きました。

 久しぶりに次男がくれた一眼レフのカメラを充電して、撮影してみました。月見草誌の表紙絵作者のTさんから冬に頂いたホウチャクソウが開花したので、撮影し、彼女にも報告したのです。丈が3cmという極小の植物です。冬に葉が全部枯れて諦めていたら、小さな芽を吹いて極小の花が咲きました。チゴユリは別の花らしいですが、あまりにも似ているため区別ができません。交配することもあるそうで、ますます複雑です。

 

手作りお菓子

ホウチャクソウ

昨年にもアップしていますが・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

孫たちと

2022-05-05 | わが家

 連休は、昨年末以来、東京から孫を連れで次男が来てくれたこともあり、娘の孫たちと総勢8人で焼き肉店に行くことにしました。育ち盛りで、半年も経っていないのに身長が伸びています。バレエのレッスンを受けているせいでしょう。英語とスイミングも続けています。

 我が家の草ひきのお手伝いをするということで、ジーンズや軍手まで持参しました。聞けば東京の小学校は人工芝で草ひき不要とか。草ひきは初めての体験です。翌日は、父の命日で、僧侶が読経に来られることになっていて助かりました。日頃は除草は夫の仕事です。

 まだ焼き肉店までには時間があったので、トランプゲーム。このカードは夫がネドから貰ったものです。会社退職前ロボット関係の担当でした。この日、私は20年前次男からプレゼントされたイタリア製のスカーフを身に着けていました。300ドルの値札が付いていたせいか、今も当時のままの風合いを保っています。次男に改めて礼を言うと、「ニューヨークに仕事で行ったとき買ったもので、値引きしてもらった」とか。10年前くれたニコンのカメラに充電して、また使おうと思います。30年くらい前、慶大を出て会人になったころ、品の良い折り畳み日傘をくれたことも思い出しました。気に入って長く使用していました。

 娘の6人乗りの車で出発し、大学生の二人の孫は自転車で・・・帰りは寒くて申し訳ないことでした。

バレエのポーズから

最初はタンの刺身から

デザートのアイスとぬるめの中国茶

ネドのカードで51を

 

 

 

 

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国際ソロプチミスト岐阜のチャリティバザー

2022-05-03 | 岐阜県

 昨日は、寒い日でしたが、岐阜市のじゅうろくプラザで、国際ソロプチミスト岐阜のチャリティバザーが開催されました。友人二人と出かけました。ジャズ歌手の川鰭さんと、エランガ先生のご子息のサチンくんとの共演でした。第一部と第二部に分けられ、サチンくんは衣装替え。どちらも衣装は先生の手作り。なんと歌手の川鰭さんのドレスまでエランガ先生制作とは驚きました。サチンくんの衣装を間近にみて、触らせてもらうと、スパンコールがびっしりつけられ益々驚きました。

 川鰭さんのサニーサイドストリートに始まり二人が交互に歌いました。第二部は、セシボンからスタート。サチンくんの地上の星もとてもよかったです。横浜で学生生活を送り、緊急医療のことなど学んでいます。最前席に座り、サチンくんからサインを貰いました。彼は謙遜して、「ばくのなんか・・・」「まだ10人目で・・・」

 サチンくんは、帰省したところで、川鰭さんとの練習は半時間ほどというのにうまくデュエットしていました。サチンくんが歌手デビューし、「パリ祭」のステージでソロで歌ったことは、2018.7.20に書いています。今回はボランティア出演でした。

 40年くらい前、大阪のザシンホニーホールで、清水和音のピアノを聞いた後で、喫茶に山本直純さんがいたので、友人とサインを頼んだことを思い出しまた。彼はもう鬼籍に入りました。そのサインを紛失してしまい残念です。

 中日新聞が取材に来ていて、今朝の地方版に出ていました。曲目を書くのかと思うとその記事は一つもなくて、取材した人はあまりジャズには関心がないようでした。

 

 

柴橋市長の挨拶

川鰭さん

共演中 サチンくんの上着にはスパンコールがびっしり

サチンくんはサテンの上着

サイン

5/3付け中日新聞

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水崎林太郎翁を顕彰する会

2022-05-02 | 岐阜県

 昨日は雨の中、誘われて水崎林太郎翁を顕彰する会に参加しました。岐阜県出身の偉人ですが、知名度は低いです。私はたまたま10年前、JR岐阜駅南側を流れる川沿いの桜を撮影していて、顕彰碑を見つけました。

 水崎氏は、明治元年生まれ。31歳で岐阜加納町長。その後47歳(1915年) で、開拓民として渡韓。水不足に悩む大邱の住民のために、灌漑用の貯水池を作りました。寿城池(スソンモ) と言います。大邱は人口250万。韓国第三の都市。池を作るためには、十数億という大金を要します。朝鮮総督府に助成金を嘆願するときは、胸に短刀をひそませ、断られたら自決の覚悟でした。その気迫に押され、承認されました。

 灌漑池は昭和2年(1927年) 完成。規模は20ヘクタール。1000ヘクタールの田畑を潤すことができました。この韓国一の灌漑池は、農業用のほかに今は観光地にもなっています。小学生向きの絵本も出ています。池のほとりで12年寝泊まりし、その間奥さんは岐阜におられ、72歳で亡くなられ、程なく水崎氏も大邱で亡くなられ、遺言では、池のほとりに韓国式のお墓を作ることを依頼されました。

 2000年から岐阜市長などが渡韓。寿城池のほとりの水崎氏の墓前で、日韓合同の慰霊祭もされています。(沈壽官ブログにも掲載・確認しますと確かに2008.5.30に記録されていますが、名前が誤記されていますので、訂正をブロガーにお願いしています)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

40年前に制作した仏頭

2022-05-01 | 文化

 かつて友人と習っていた仏像制作のときの作品を乞われてはじめて人様に差し上げました。兵庫県にいたころいろいろな稽古事をするなかで、今も継続しているのは短歌ですが、40年ほど前10年間程度、仏像彫刻も習っておりました。10年くらい経ったころ転勤で東京に住まいすることになり、その後定年となり郷里の岐阜に帰り、夫は、名古屋の私立大学教官として勤務していました。かつてお家流の香道も習っていて、郷里に還ったら、お家流を家元のある名古屋で習うつもりでしたが、実行せず、名古屋の万葉研究会に暫く行きました。それも今は怠けています。

 昨日は夫の趣味の日本刀鑑定会の定例会で知り合ったI氏が来られました。いろいろな骨董品を格安に分けて頂きます。昨日はコロンブスが大西洋横断に乗った帆船のサンタマリア号の模型。いつもお世話になるので、乞われて仏像を贈呈しました。まだこれまで写真を撮っていなかったこともあり、初めて撮影。これは、ヒノキで彫りましたが、先生が塗装した方がよいという判断で唯一の塗り物。友人と楽しく習っていたころのことを思い出しました。先生は30年ほど前に他界。彫刻刀もたくさんありますが、使わない間に錆びてしまいました。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする