私は本当は私じゃない・・・
今日の愛媛新聞「四季録」は、ズバリ言い当てて下さっていて気持ちよかった。
丹下健太とおっしゃる作家さんが執筆なされていました。
「先週の四季録において私は嘘をついた」とおっしゃるのです。
その嘘とは・・・「私は本当の私じゃない。本当の私は私じゃなく俺なのです。」
お分かりでしょうか・・・
私と書いているのは新聞という公の場だからであり、普段何かを考える時には「俺」という一人称で考えるということなのです。
「俺」が「私」になることで使う言葉も変わってくるのです。
「私」なら丁寧、堅い口調。
「俺」なら親しげな口調。
作者は、これを書く為に2つの方法をおっしゃいます。
1つは、「俺」を使って考えたことを私に変換、翻訳する。
2つは、「俺」が「私」を演じて書く。
変換、翻訳には誤訳やニュアンスの違いが生じる。
演じるとは・・・嘘をつくこと。
それらを使いながら書いている。
本音と建前。
私と公。
なるほど。
私もそうです。
この様なつまらないモノでもどこのどなたが読んで下さるか分からないので、「きれいな言葉できれいな内容で・・・」って一様は思うのです。
何回も何回も変換を繰り返し翻訳を試みるのです。
でも正直、書いていてつまらないのです。
書いていてつまらないモノを読んで面白い筈がありません。
だから・・・最近では遠慮なく、「オレ」「コイツ」で素直に書いています。
嫌悪感を持たれるかもしれないと思いつつ、正直に外面住職を書くことです。
御門徒の前で外面飾るコイツ。
演じています、どこまでも「いい住職」を・・・
腹の中にはもの凄く恐ろしく汚いモノを抱えつつ・・・
「生きる」ということのために、どこまでもどこまでも・・・
すいません・・・
そして、有難うございます。
コレどこまでも徳正寺住職の有様であります。