もう来ることも・・・
長年不通であった弟の死。
行方も知らなかったが遠く関西の地にて病気で倒れられたことを知る。
どんな思いで道中車を走らせたのでしょう。
倒れられて一週間程でしたでしょうか。
「この間に3回行きました・・・」
「それはご苦労様でした。しんどかったですね。」
御骨にして帰られるのに車窓から見える景色を見つつ、
「もうここにも来ることもないね、よく見ときなさいよ・・・」
遺骨を抱きしめながら返事のないつぶやきをして帰られたとのこと。
切なくなるような情景を思い描いていました。
故郷にいる頃は、皆一緒・・・
でも、それぞれの人生を歩み始め会わなくなってくる。
いろんな縁に触れ純粋な心も濁り、心を通わせる事すら難しくなることもあるかもしれません。
自分が生きるのにいっぱいいっぱいになる。
そういう人生を送るのだから「葬式なんて必要ない!」って思われていたかもしれません。
皆に不義理するのだから、自らの葬式なんて最初に排除するんだろうと思います。
夕方、ボェ~と見ていたNHK。
番組案内で「エンディングノート」の特集みたいな番組宣伝をしていました。
バ~ンと飛び込むようにアップにされた言葉は、「葬式はしてほしくない」との言葉。
「あ~、またか・・・」ってモヤ~とする感覚の中、なんていう番組でいつの放送かも見ていたんですけど流していました。
なんでこんな事ばかり特集されるのか・・・
報道局はどうしたいのか・・・
「葬式」・・・
何なんでしょうね・・・
なんでそこまで言われるのでしょうね。
派手になっている現状に嫌悪感を持たれるのでしょうか・・・
僧侶への御布施が問題なのでしょうか・・・
偉そうな僧侶の態度が問題なのでしょうか・・・
確かに寺にとって葬儀は大きな力をいただく御縁であることは間違いありません。
ウチのような過疎地の寺にとっては尚更のことであります。
綺麗事では維持できない現状に「御心配をおかけしてすいません、御供えさせていただきます。」と謹んでお受けさせていただくことです。
「御布施なんていりませんよ!元気になるようなモノでもいただいてください!」って言いたくなるような御縁もあるのですが、コイツはやっぱりいただいて帰っているのです・・・
すいません・・・
コイツが生きるために・・・
寺のためとは思いつつも、同時にどこまでもコイツのために・・・
正直、嫌になる時です。
こんなコイツが「住職でござい!」って御参りするのですから、中には嫌悪感持たれる方もおられるんだと思います。
嫌だったら勤めなくてもいいんです。
「俺は、そんなことしてほしくない」とおっしゃるのであればしなくてもいいんです。
罪を作りながらお勤めするよりもずっといいのでしょう。
私はそう思います・・・
ただ、見送る方の立場には虚しさだけが残り歓びに出遇うことなどないのでしょう。
立ち向かい抱いていて下さる阿弥陀さまがおればこそ、その苦しみを乗り越えることが出来るし歓びをいただけるのでしょう。
大切なあなたがそのご縁となって下さり、阿弥陀さまに出遇うのでしょう。
「俺が救われていたようにお前も今、救われているんだよ!」って合わさん手を胸元で合わして下さりながら安心して泣けるのが「葬式」なのでしょう。
そこに気付くことなのでしょう・・・
華美なモノはいらないのです。
私のように大きいのは顔ばかりで何の力もない僧侶が嫌いであれば一番に断ればいいのです。
阿弥陀さまのおはたらきのもと目をつむられ横になられている大切なあなたを導師として自らが歓べるひと時にさせていただければいいのです。
寺を護持していくのに本当に難しい時代になりました。
挫けそうになる毎日ではありますが、大切にしてまいりたいと思います。
こんなコイツでも御浄土のお飾りとして御縁いただく時、そのひと時を全力に過ごさせていただくことです。
一人でも多く一緒に阿弥陀さまに出遇えたことを歓べることが出来るように・・・
声、張っていこう!
恥ずかしげもなく泣いていこう!
お会いしたことのないあなたの御縁をいただき各思うことです。