飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

22 愛の法則から見た十戒 4

2015-02-24 11:56:46 | 魂の法則-愛の法則-

あの「魂の法則」が、
Part2「愛の法則」として、
新たに公開されている・・・!
遅ればせながら、転載を開始する・・・。その22


言うまでもなく、作者はヴィンセント・ギリェム(Vicent Guillem)氏、スペイン人で生化学博士である。

翻訳は、初版本「魂の法則」の訳者でもある小坂真里さん。

訳者のホームページ「魂の法則」に、既に公開されているものを、

敢えて転載する理由は、

一人でも多くの方に触れて頂きたいとの願いからである。

それは作者の願いでもあり、訳者の願いでもある。


そして、

共感する拙ブログの願いでもあるからだ。

既に、初版本「魂の法則」は日本でも公刊されており、

魂の法則
ヴィセント・ギリェム
ナチュラルスピリット

是非とも、手に取ってお読み頂きたい

尚、カテゴリー魂の法則には、23回に亘って連載させて頂いた経緯がある。


でも、

一冊の刊行本は、はるかに読みやすく、

座右の一冊となるだろう・・・。

 

<ヨッキーくんより>


真実は単純である。

大げさに祀り上げられたものは、

ほとんどが人為的に必要に駆られた結果である。


大袈裟と言う言葉自体が、

それを彷彿させられる。

袈裟と言うのは、僧侶の衣服に過ぎないが、

それを大々的にしたのが大袈裟である。


通常、

誇張するという意になる。

総じて、

宗教は誇張する傾向になるのものである。

その事を如実に指摘されており、

溜飲の下がる思いがする。


とまれ、

必要なのは真実であり、真理である。



【転載開始】

22 愛の法則から見た十戒 4

 
*そうですね、では十戒の二つ目を見てみましょう。「神の名をみだりに唱えてはならない」ということですが、これについて教えてください。

  これは申命記にも記載されているが、訳に誤りがある。ヘブライ語を逐語訳すると、「神の名を、欺くために使ってはならない」となる。つまりこの掟の問題 は、戒律自体が間違っていることではなく、その意味の解釈の仕方にあり、そうなったのは、もともとのヘブライ語の翻訳を改変してしまったためである。この ことは前にも話したかもしれないが、とても重要なことなので、ここでも掘り下げて見てみることとする。
  多くの人は、「神の名をみだりに唱えてはならない」ということは、世間で一般的に使われる下品な表現の中で、神の名を用いてはいけないことだと思ってい る。そして、誰かがそのような表現を口にするのを聞くと、発言者でさえ文字通りの意味で言っていないことを考えてみようともせず、神への冒涜だとして腹を 立てる。しかし実際には、そのような言い回しは通俗的で粗野であるかもしれないが、無害なもので、霊的には何の問題ともならない。
 しかしながら、この戒律が真に意味するところは、「神の名を、利己的な目的を正当化するために使ってはならない」である。人類はこれまでにもこの掟を平然と破ってきたし、今も破り続けている。
  最もひどい残虐行為も神の名において行われてきた。その中には、聖なるものへの儀式に人間を生贄に捧げることから、異教徒の殺戮、宗教戦争や十字軍、改宗 の強要、異端者の迫害・拷問・殺害などや、宗教権威のエリート層を肥やすための搾取、信徒を操るための教義の改ざん、人びとの間に不和や争いを生み出すこ とまでが含まれている。このようなことすべてに、大変有害な利己的な意図があるのだが、人間が神の名のもとに犯したのである。これは本当に由々しきこと で、霊的には致命的な結果をもたらす。本当は自分たちのエゴのせいなのに、神がそのようなことを命じたと皆に信じ込ませるのはペテンである。
  聖典でさえも改変し、神がイスラエルの民に他民族の殺戮を命じたと信じさせようとするのは許しがたい。また、神、あるいは神の遣いとされるモーゼが災いを 招いて、兄弟であるエジプト人を殺し、イスラエルの民をエジプトから解放するようファラオに迫ったとすることも看過できない。もし、それが本当であるな ら、神とモーゼは、そこら辺の人殺しや暗殺者、人類の殺戮者などと同じように残酷で、命を粗末にするのだと認めないわけにいかなくなる。

*話が逸れてしまいますが、モーゼやファラオのお話で好奇心が刺激されてしまいました。実際はそうでなかったのなら、本当に起きたことは何だったのでしょう? エジプトの災いについては、宗教でも絶対に確かなこととされていますが。
 
 当時は二人の関係が良かったので、イスラエルの民を解放してもらえるように、モーゼがファラオを説得したのだ。

*では、ヘブライ人(古代イスラエル人・ユダヤ人の別称)たちは、彼らを殺そうとするフォラオの軍に追われなかったのですか?
 
 追われたのだが、それはファラオとその軍によってではなく、ファラオの決定に不満を持ったエジプトの支配層による。彼らが出発することを知ると、追っ手の傭兵隊を組織した。ファラオに歯向かうことを避けて、エジプトの手の届かないところで捕らえようとしたのだ。

*それで、何が起きたのですか? 聖書には、モーゼが聖なる力を借りて紅海の水を断ち割り、ヘブライ人が渡れるようにした後、エジプト兵に水が押し寄せたので、彼らは溺れ死んでしまったとありますが。
 
  実際に起こったことは違うのだ。まず、モーゼが水を断ち割ったというのは本当ではない。モーゼが考えたルートは、通常水に覆われている地域を通らなければ ならなかったが、時折、気候と潮の状況により、場所によっては渡れるほどの水準にまで、一時的に水が引くことがあった。モーゼの顧問役たちはこのことを 知っており、彼にそれが起きる日時を教えたので、単に、潮が引く頃まで待って出発したのだ。ファラオに仕えている者たちも、通り道に当たる地域を整えてく れていた。2~3日遅れてそこに追っ手が到着した時には、もう潮が満ち始めていた。中に入って行けば海に飲まれてしまうことは明らかであったから、常識が あれば渡ろうとはしなかった筈だ。だがそうしてしまい、渡っている途中で水かさが増して、溺れ死んでしまったということだ。
  これでわかっただろうが、実際には、何も超自然的なことは起きていない。信じられているように、神の怒りに触れて死んだわけではない。死んでしまったの は、彼ら自身の憤りのせいだ。ヘブライ人に追いついて殺したいという欲求の方が、自分たちの命を守ろうとする良識よりも勝っていたということだ。

*それでは聖書には、なぜ別の話が書いてあるのでしょう?
 
 利己的な関心のためなら、すべてが歪曲されてしまうと言っただろう。当時は聖なる書物というものは、司祭職しか手にすることができなかったのだ。だから、実際に体験した人たちが死んでしまうと、自分たちに有利になるように事実を変えてしまうことは割と簡単だった。
  どの宗教でも同じだが、ユダヤ教の支配者たちは、人民に神の存在を怖れさせて従順にさせることで、彼らの権威に逆らわないようにしておきたかった。そのた めに、裁きの神と執行者モーゼ、というイメージを創り上げたのだ。ひと度そのような神話を作りあげれば、人民を意に従わせようとする場合は、神の言葉を モーゼが代弁していると言いさえすれば、人びとを震え上がらせ、怖れから言いなりにさせることができたからだ。

*なんてことでしょう! その時代の歴史に、本当に起きたことをもっと知りたいです。人類の宗教観に多大な影響を与えてきたことですから。
 
  それは、我々が見ている大事なテーマから外れてしまうので、今は不適切だ。君に話したことを、人間がどういうものであるかを示す一例としてほしい。自分の 一時のエゴを満たすためになら、何でも改ざんしてしまうのだ。霊的な教えもしかり、また、捏造された間違いだらけの神や使者の概念さえも伝えようとするの だ。

*第二の戒律(神の名をみだりに唱えてはならない)に最も違反したのは、特に過去の時代における宗教権威者だったようですね。
 
  過去の宗教権威者だけでなく現在の宗教権威者もだ。現在はより巧妙に行われているとはいえ、まだ神の名が利己的な目的のために使われている。霊的には偽り で、人間の魂の進歩を妨げる宗教上のドグマを正当化するために、未だに神の名が用いられる。高位聖職者たちは、その地位がもたらす権力を利用して、ありと あらゆる搾取や犯罪を犯し続けている。今では多くのことが秘密裡に行われているが、それは首謀者が明るみに出ると、法廷に引き出されるからだ。
  政治権力者たちも、都合のいい時には宗教を利用して、利己的で侵略的な目論みを市民に納得させようとする。たとえば、市民を戦争に送り込みたい場合などに は、犠牲を要請しているのは神であると言いくるめ、神が味方についているから、戦闘中も守ってもらえると思い込ませる。
  だが、一番の影響力を持っていた宗教や政治の権力者たちが最も有害だったとはいえ、この戒律を破っているのは、彼らだけではない。個人的なレベルにおいて も、見せかけの正統宗教や霊性の下に人間の自由や意志を制約したり、私欲に基づいて他の人たちをコントロールしたり操作するなど、偽善的で利己的な行動 は、この掟に背くものである。
 同様に、自己の利益のために、人の宗教及び霊的信心を利用する者も、この戒律を破っている。したがって、「神の名を、利己的な目的を正当化するために使ってはならない」ということを我々が正しく応用するのなら、「霊性で商売をしてはならない」ということに繫がるという結論に至る。つまり、霊性を商売にして儲けようとする人も、この戒に背いていることになるのだ。

*「霊性で商売をする」とは、具体的に何を意味するのですか?
 
 霊性とは、魂が存在するだけで元来生まれ持つ特性である。進化を促す力となり導き手となるために、霊界から個々の魂に授けられた資質であり、天賦の才なのだ。
  したがって、霊性というものは、特定の人に属するものではなく、皆が平等に有するものだ。我々には無償で与えられているのであるから、それを使用する時に は無料とせねばならない。それゆえ、霊性を金儲けのために使ってはならない。そうするのなら、それは、誰かが空気を私物化して、呼吸をする権利と引き換え に、人からお金を取るようなものだ。我々の持つ霊的な能力と知識を、思考に忍び込むエゴに占有させてしまえば、無私の志ですべき他者や自己の進化に役立つ 霊的な仕事も、利潤や儲けを引き出す物的な商売に変わってしまう。
  様々な霊媒能力も、すべて霊界から授かった才能なので、どれも商売の対象としてはならない。この中には、エネルギーの伝授も含まれるが、お金と引き換えに 霊界からの助言や交信を受け取るのもダメである。霊媒能力は、我々の進化を助けるために与えられたのであり、取引のための商品ではない。霊的な才能の使い 方を誤れば、霊的な援助が貰えなくなろう。高次の霊たちは、私欲を肥やすことに協力的でないのだ。

*でも、「お金持ちになりたいのではなく、霊性に天職を見出したのでそれに従事したいと思っている。他の仕事をする時間がないけれど、何かで暮らさないといけないので、スピリチュアルなことでお金を取る必要があるんだよ」と言う人がいますが、これについてはどうですか?
 
 誰から、物質界での仕事を免除されていると言われたのかね? 我々は全員、霊的な進化と関係があるのだから、「霊的なこと」に従事するために皆が仕事を辞める決意をしたとしたら、この世界は何で生きていくのだろうか? 
  現在、多くの人たちが、スピリチュアルな変化を遂げるということは、世俗的な仕事を辞めて、彼らが霊的な仕事と呼ぶことに専従することだと思い込んでい る。そして、世俗的な仕事からの収入がなくなるので、霊的な知識を伝えたり助言を与えたりして、お金を貰っても構わないと正当化しているが、そうではな い。
  霊的な成長は、物質界の仕事と完全に両立させることができる。しかも、病気、老体、肉体的または精神的に不適合な場合を除いて、誰もそれを免除されること などない。肉体を持って生まれた者の生きる上での義務-たとえば仕事だ―を回避する口実として、霊性を持ち出してはいけない。なぜなら、すでに霊的な仕事 をしているからと言い訳をして働かない者は、楽をしようとする怠け者であり、霊的に進化はしない。誰もが生計を立てるために働かねばならず、皆がそれにふ さわしい対価を受け取らねばならない。霊的なことを物質界の職業にすることは、正当化できない。
 

 


21 愛の法則から見た十戒 3

2015-02-23 11:52:27 | 魂の法則-愛の法則-

あの「魂の法則」が、
Part2「愛の法則」として、
新たに公開されている・・・!
遅ればせながら、転載を開始する・・・。その21


言うまでもなく、作者はヴィンセント・ギリェム(Vicent Guillem)氏、スペイン人で生化学博士である。

翻訳は、初版本「魂の法則」の訳者でもある小坂真里さん。

訳者のホームページ「魂の法則」に、既に公開されているものを、

敢えて転載する理由は、

一人でも多くの方に触れて頂きたいとの願いからである。

それは作者の願いでもあり、訳者の願いでもある。


そして、

共感する拙ブログの願いでもあるからだ。

既に、初版本「魂の法則」は日本でも公刊されており、

魂の法則
ヴィセント・ギリェム
ナチュラルスピリット

是非とも、手に取ってお読み頂きたい

尚、カテゴリー魂の法則には、23回に亘って連載させて頂いた経緯がある。


でも、

一冊の刊行本は、はるかに読みやすく、

座右の一冊となるだろう・・・。

 

<ヨッキーくんより>


人間は、迷信に弱い。

それは、確たる認識を持たないからであるが、

この世においては、閉ざされた空間であるので致し方がない。


致し方がないという事はさて置いても、

迷信・盲信・狂信に至る原因は、

他を抜きんでたい欲から発している・・・。

所詮は、欲なのであり、虚栄心の現れなのである。


一所懸命に生きるという事は、

与えられた場に、全力を尽くすという事であり、

それ以外は余計なことであろう。

今を生きるのでなければ、未来はない。

過去は取り戻せないが、

学びの宝庫とはなる。

そして、知恵とすることが出来るのである。


それを差し置いて、

何が要るというのであろう。

それは虚栄であり、欲である。

欲が深いと、

欲ある者に引っかかるという事である。


世の中に、霊能者を語るものは多いが、

大多数は虚栄であり、偽物である。

カギはカギに引っかかる。

真っ直ぐは引っかかる術がない。


しかし、

アカシックも霊性の不滅も真実である。



【転載開始】

21 愛の法則から見た十戒 3

 
*すでに肉体のないこのような存在たちに状況を把握してもらって、霊的次元で自分の道を進んで行ってもらえるように手助けすることはできるのでしょうか?

  それは君たちによるというよりは、彼ら次第だ。なぜなら、霊的な次元では、その移行に必要とされる援助が得られるのだが、時々、物的な世界との繫がりを断 ち切り難い場合があるのだ。そういう場合、支援する魂たちは、彼らが自分自身の意志で歩み続けることを決めるまで、見守っている。
  また、そのような境遇の存在たちは思考を読むことができるので、声に出さずに頭の中で話しかけてみることも有効だ。彼らの置かれた立場―つまり、もう肉体 的な生を終えたこと(中にはあまりに混乱していて、自分が肉体を離脱したこともわかっていない者がいるのだ)―や、その場所に永久的に留まっているのは不 可能なことを説明し、霊的な世界の仲間や愛する者たちに助けてもらうべきだと諭すのだ。
  何よりの助けとなるのは、彼らを亡くしたことによる悲痛や悲嘆の感情を避けることである。というのも、準備不足の者は、それが原因で、留まってしまうから だ。肉体を失った者は、愛する者たちが自分がいなくなったことで悲しみに暮れているのを見ると、哀れに思い、その状態で独りにさせてしまうのを辛く感じる ものだ。だから、喪失感と悲しみを乗り越えることが、彼らを心置きなく立ち去らせてあげることになるのである。

*仲立ちをしてくれる霊媒や予知能力者を通して、死んでしまった家族と交信できるでしょうか?
 
 故人は、人の最も敏感な時を選んで別れを告げたがるものなので、コンタクトは、夢の中やはっきり意識できる体験として、自然に起こり得る。コンタクトが自然に起きないのであれば、あえてそれを強いる必要はない。
 たまに、故人との交信を強く渇望するあまり、それを利用する者の手に落ちてしまうことがある。事前に一定額を支払うことで、死者との待望のコンタクトを取ってあげると口約束されるのだが、大概それは偽物であり、ただの演技に過ぎないのだ。
 愛する故人からの連絡の形跡がすぐになくても、心配には及ばない。死というものは存在しないのである。連絡がなかったとしても、他界した人は、そのまま霊的な次元で生き続けている。
  君たち自身の準備が整っていないために、連絡が取れないこともある。たいていの場合、君たちはあまりに悲嘆に暮れていて、愛する故人が伝えたいと思うこと を受け取る余裕がない。そういう時にコンタクトがあっても、喪失感が増して、別れ難い思いをズルズルと引きずり、辛くなるばかりだろう。だが、悲しみを克 服すれば、切望することが叶うかもしれない。
 睡眠中は皆、身体から離れられるので、愛する者たちがいるところへ赴くことができる。敏感で感受性が高ければ、その経験を覚えていることが可能となろう。

*では、手相見やタロットや同様の手法で、未来や過去を言い当てられると言う人や予知者のことをどう思われますか?
 
  未来は白紙である。いわゆる「アカシックレコード」と呼ばれる、個人の過去の記録や未来の可能性にアクセスすることは可能だが、それはとても制限されてい る。肉体を持った者は、当人の進化のために有益となる場合に限り、特別に自分個人の記録を見ることが許されるが、他人のものにはアクセスできない。
 アクセスは通常眠っている間に起こり、その体験は夢として記憶されたり、予感となったり、深くリラックスしている状態でビジョンとなって現れることもある。しかし、それができるのは自分が望んだ時ではなく、霊的世界がそうした方がよいと判断した時だ。
 人は大概、好奇心や欲心や利己的な関心から、自分の過去や未来のことを知りたがるが、霊的なガイドたちは、君たちのそのような動機を満たすために、この知識にアクセスさせてくれるのでないと、はっきり伝えておこう。
  それなのに、他人のアカシックレコードに入り込めると言っている人たちの数の多さには、全くびっくりさせられる。その多くが、事前に一定額を受け取ってい るのだが、いい加減にカードを並べたり、適当に本のページを開いたり、生贄にした動物の内臓の配置に意味を見出したり、あるいは他のゲームや多少不快な儀 式をするだけで、いともたやすくその人の過去や未来を知ることが可能だとする。もちろんのことだが、このようなことはすべて嘘だ。

*でも、予知者の中には、言い当てられる人もいますよね。
 
  ほとんどの場合は当たらない。当たるように見えるのは、透視力を持つと自称する者が狡猾で、クライアントを持ち上げるのが上手く、その人から情報を引き出 して返答したり、お客が聞きたいことを言うのに長けているからだ。お客を満足させれば、今後もセッションの代金を払ってくれる顧客となるからだ。
 だが一体誰が、自分の運命や未来が、適当に並べたカードに書かれていると信じられるのだろうか? カードを切り直してもう一度引いたら、違うカードが順番を変えて出てくるのではないだろうか? そうなってしまえば、その人の将来も変わってしまうということかい?
  常識を使って判断すれば、たとえばタロットというものが、ただの遊びに過ぎないことがわかるだろう。カードを並べるだけで、未来を占ったり過去を透視でき ると信じる人は、ゲームのモノポリーが得意なだけでエコノミストだと思い込んだり、飛行機のビデオゲームが上手いだけでパイロット気分になる人と同じであ る。
 それゆえ、そのようなゲームと霊性とをごっちゃにしてはならない。根拠のないことを信用してはならないのだ。これらはすべて霊性とは無関係なのだが、しっかり意識していないと虚偽と真実とを混ぜてしまい、迷信と霊性とを見分けられなくなってしまう。

*ごく一部だとしても、言い当てることができて、正しかったとわかるケースはどうですか? たとえば、人の個人的な出来事を詳しく言い当てられる場合は、どう説明できるのでしょうか?
 
 確かに霊媒能力を持つ人もその中にいるのだろうが、その能力を間違って使用しているようだ。霊媒能力というものは、霊的な授かりものであり、いたずらに用いてはならない。利益を目的にすべきではなく、ましてや職業にしてはならない。
  過去を言い当てた時のお客の反応が面白いので、そういうことを生業とする人たちに、進化の乏しい霊たちが寄り付くことがある。その場合は、カードを読んで 当てているのではなく、そのような霊たちがお客の信用を得るために、彼らに正しい情報-その全部が正しいとは限らないのだが―を提供しているのだ。
  また、霊媒能力を持つ人の中には、下心があるわけではないのだが、無知であるがゆえに世間のエゴに翻弄されて、自分の本当の能力と俗世間で学んだ技法とを 混同してしまっている人もいる。こういう場合は、あまり進化はしてはいないものの、悪い意図を持たない霊たちが介入しやすい。

*占星術、つまり、天体が人生に及ぼす影響についてはどうお考えですか? 星座占いや星座カードは? 生まれた日付けと時間がわかれば、その人のだいたいの性格や、人生で起きる出来事をあらかじめ知ることができるというのは本当ですか?
 
  創造の万物は相互に網の目のように結びついているので、天体が発するエネルギーの光が、他の天体やそこに住む生物に影響するというのは本当だ。そして、地 球からの距離によって重力の強さが変わるのと同じように、それらの天体の近くに行けば行くほど、その影響が強くなることも確かである。また、天体の配置に よって、特定の霊的な仕事がやりやすくなることもあるので、進化した魂は、霊的次元の任務に取り組むために、より好都合な時期を選ぶことがある。
  しかし、それはあくまでも影響力に過ぎず、決定的な要素ではない。マラソンの選手が、いつも適度な気温と湿気を望むのは、それが、いい記録を残すための大 切な条件だと知っているからだ。しかし、いい天気だから良い選手になれるわけでも、悪い天候のせいで劣ったランナーになるわけでもない。天候の及ぼす影響 は、選手の記録を調整するのに限られるが、これと同じことが天体についても言える。進化した魂は、生まれる時の天体の配置がどうであろうと進化しているの であり、そうでない魂は、天体の位置が良くても進化した魂にはなれないのだ。
  転生することになる魂の誕生が二週間早まるか遅れるかによって、その人が違う人生を送ったり、異なった性格になるなどということが、どうして信じられるの かね? 魂の人格や成長というものは、無数の転生を経て獲得した霊的な学びの結果である、と何度も言わなかったかね? 人生で出会う試練は、生まれる前に 自ら選んで準備をしたもので、それを乗り越えるかは個人の意志次第だと言っているのに、どうして誕生の日付によって、その人の人生の出来事が決まってしま うと思えるのだろうか?
 もう一度、はっきりさせよう。未来は白紙だ。人の未来が誕生日で決定されているのなら、どこに自由意志の余地があるのだ? 二次的なことばかりに注意を向けていると、本当に大切なことを見逃してしまう。

 


20 愛の法則から見た十戒 2

2015-02-23 10:47:09 | 魂の法則-愛の法則-

あの「魂の法則」が、
Part2「愛の法則」として、
新たに公開されている・・・!
遅ればせながら、転載を開始する・・・。その20


言うまでもなく、作者はヴィンセント・ギリェム(Vicent Guillem)氏、スペイン人で生化学博士である。

翻訳は、初版本「魂の法則」の訳者でもある小坂真里さん。

訳者のホームページ「魂の法則」に、既に公開されているものを、

敢えて転載する理由は、

一人でも多くの方に触れて頂きたいとの願いからである。

それは作者の願いでもあり、訳者の願いでもある。


そして、

共感する拙ブログの願いでもあるからだ。

既に、初版本「魂の法則」は日本でも公刊されており、

魂の法則
ヴィセント・ギリェム
ナチュラルスピリット

是非とも、手に取ってお読み頂きたい

尚、カテゴリー魂の法則には、23回に亘って連載させて頂いた経緯がある。


でも、

一冊の刊行本は、はるかに読みやすく、

座右の一冊となるだろう・・・。

 

<ヨッキーくんより>


まさに、『人を呪わば、穴二つ』である・・・。

すべての儀式、祭式、呪術の類は、基本的に霊性とは無関係である。

全く、同感だ。


本当にそれが必要なら、

人間は生まれる時、それを身に付けてきているはずである。

例えば、数珠・念珠が必要なら手に持って生まれる・・・?!

十字架とて同じである。


勿論、今それを愛用している方にとやかく言うつもりはない。

基本的に偶像は、

人間がその時の認識力の限界で、

編み出された象徴に過ぎない。


人間は、裸で生まれ、裸で死んでいく。

そして、等しく霊性を発揮していくものである。

今、偶像を否定できないという方は、

それで良かろうが、

本質的には、霊性に無関係という事を押さえておくことは重要であろう。


又、

憑依も悪霊も、そして、悪魔の存在は否定しないが、

引き入れるのは、

その波長同通の法則であって、

同調している者に一義的原因がある。

全ては、

二義的原因から問題解決はないという法則を知る必要があるだろう。


世界は自らが変えることが出来る。

不一不二(ふいつふに)の法則は、宇宙の法則である。

自分自身が宇宙の一部であるからである。



【転載開始】

20 愛の法則から見た十戒 2

 

*霊界が儀式についてどう思っているのか、もう少し深く教えていただけないでしょうか。というのも、人間が宗教を信仰するのは、祭式が神聖と見なされている影響が大きいと思うのです。

 儀式というものは、それを執り行うことで神に近づけると勘違いした人間が発明したお遊びに過ぎないのだが、実際には、真の霊性に人が近づくことを阻むカモフラージュにされている。
  祭式は、人間社会の慣習と感受性の度合いに応じて、時代ごとに変化していった。過去の時代においては、人間を拷問したり生贄にすることで神々が満足すると 信じられていたために、儀式というものは身の毛のよだつ行為であった。のちに人間の生贄が動物の生贄に取って替わり、今日でもこの習慣は様々な地域社会に 残存している。イエスのお陰でキリスト教の社会では動物を捧げる風習はなくなり、それほど残酷でない儀式に置き換わった。
  しかしながら、神や霊性の導き手たちが彼らの援助と引き換えに、祭式や捧げ物を要求したり必要とすることなどないと知っておくことだ。彼らは、この習慣を 進化の乏しい人間にありがちな特性だと思っており、捧げ物をすることで命が奪われたり、苦しみや痛みが生まれることに悲しみを覚えている。そして、それを する者たちが自らを騙してしまっていることを悲しく思う。それというのも、人間や動物を犠牲にするような残酷な儀式は「愛の法則」に反するものなので、実 際には意図したこととは反対に霊的な債務を負うことになるからであり、無害な儀式でも霊的な観点からは無意味であるからだ。
  また、聖地とされる場所に巡礼する必要もなければ、それを要請されることもない。願をかけて長期間絶食するといった馬鹿げた行為も、自分を鞭打つことも、 健康を損なうリスクがありながら誰の得にもならない、苦痛を生み出す無意味な肉体的なせっかんも不要だ。求められるのは、前進したいという意志のみなの だ。
  これまでに何度となく繰り返してきたが、もう一度言っておこう。霊的な向上に役立つのは、エゴを排除し愛の感情を育むことにおける我々の進歩のみである。 そしてこれには、日々の努力が欠かせない。それゆえ、霊性の道に近道など存在しない。つまり、多くの人びとが望むように、自己努力をせずに目標に達する、 手段も儀式も存在していないということだ。儀式というものは、偶像崇拝やお祈りを繰り返すのと同じように、霊的な視点からは意味のないものだ。


*特定の儀式やおまじないによって、霊的な力を獲得できると約束する人もいますが、そういうこともあるのでしょうか。

 そんなことはもちろん、愚か者だけが騙されるでまかせだ。前に説明した筈だが、テレパシーや透視力といった能力が発達するのは、愛における霊的な向上が見られる時だけだ。だから、そのようなことを実践して、超人的な能力を獲得できる者などいやしない。


* しつこく聞いて申し訳ないのですが、魔術やおまじないについてはどう思っていますか? 効き目があるというのは本当ですか? つまり、ブードゥー(黒魔 術)や呪いのように危害を加えることが目的であっても、人が願い事をする時には、ある種の霊の協力を得られるのでしょうか? また、何か根拠があるので しょうか?

 まじないも魔術も、霊的な実習とは見なせない。まじないとは、儀式と同様お遊びであり、宝くじに当たりますように、という他愛もないもののこともあるが、時にはゾッとするものもある。他者に損害を与えようとして願をかける場合などは、利己的な意図が明らかである。
 確かに中には、悪い目的を持った人間の要求に応じようとする、ネガティブな存在がいる。彼らも似たような悪い意図を持っていて、特定の人に害を及ぼそうとするのだ。
  だが、そうは言っても、それが成就されるとは限らない。人に危害を加えたい霊や人間がそう望むだけで、誰でも好きな人をいじめることが許されるとしたら、 それは、肉体を持って生まれた者たちの自由意志を侵害することになる。ネガティブな存在たちに、好き勝手に人を痛めつける能力があったとしたら、皆がメ チャメチャにされてしまうだろう。
  しかし、すでに話したことだが、彼らが影響を及ぼすことのできる範囲は限られている。ネガティブに感化することができるのは、そのような悪い影響を甘んじ る低波長の者たちか、怖れや自己暗示によって、そうなると信じてしまう者たちなのだ。したがって、このような悪い霊に感応しないように防衛するには、各自 の人生に対する姿勢が一番有効である。人を傷つけないように気を配りながら、善い意図を持って行動する者は、自動的にこのような影響力から身を守ることが できる。
 それよりも、魔術で他者を不幸にしたいと思う者の方が、この手の行為の被害者になりやすい。悪霊たちは、誰にも危害を与えることができないと、悪いことを企んで自分たちを呼び込んだ者自身に影響して、餌食にしてしまうのだ。
 他者に黒魔術を使った者は、原因と結果の法則において、将来人から呪われることになる。そうして自分自身で、他人に及ぼした忌まわしい行為の結果を体験することとなる。


*それでは、誰かに呪われているため、または悪霊に苦しめられているために気分がすぐれない、と言っている人たちをどう思われますか?

  ほとんどのケースが事実ではない。気分が悪いのは本当だろうが、それは呪われているからではなく、自分自身の感情的な問題や利己的な行為が原因となってい る。また、霊に嫌な目に遭わせられるかもしれないと信じることで怖くなり、悪霊という恐ろしい存在を自分の想像力で創りあげてしまう人もいる。そしてその ことによって、自分の力を失い、精神的にも落ち込んで、自己暗示によって不快になってしまう。不快感の原因が何であるのかを突き詰めて考えるよりも、それ を人のせいにした方が簡単なので、そういうことになるのだ。

*でも、実際にネガティブな霊の影響を受ける場合もあるのでしょうか? 悪魔に憑かれてしまった人とか、悪霊に支配されてしまった人もいますか?
 
 
 悪魔は存在しないので、悪魔に取り憑かれてしまった人はいない。記録に残る「悪魔憑き」のほとんどが実際には、強い心理的錯乱がある精神患者で、極度のトラウマ状態を経験したことや、狂犬病などの伝染病の犠牲となったことによる。
 だが、エゴ的な感情が起こるとネガティブな霊の影響を引き付け、それがより一層助長されることになるというのは本当だ。人からかけられた呪いが効いたのではなく、自分自身で招いた状況なのだ。
 様々な要因で、大なり小なり憑依的な霊に左右される人がいるのも確かである。その理由としては、悪い霊との交信を望んだためとか、彼らに感化されやすい弱点-たとえば麻薬を常習しているなど―があるとか、極端にネガティブな利己的な態度をとったせいである。
 他に、過去に悪いことをしたせいで、その復讐をしたがっている霊にさいなまされる場合もあるが、通常その影響力はかなり限定されている。一般的には、被害者となる人に否定的な思考を起こさせるだけで、その人に取り憑くことはない。
  霊媒となる才能がある人は、その資質ゆえに霊界との交信が取りやすく、コンタクトも強いものとなるので、ネガティブな霊にもっとはっきりと邪魔されやす い。でもそれは低俗な本能や邪悪な行為に引きずられた場合だけで、ホラー映画に出てくる悪霊に取り憑かれるケースなどは全くの作り話だ。


*では、そのような場合には、どうしたらその影響を振り払えるでしょうか? いわゆるエクソシスト(悪魔払いの祈祷師)は、悪霊の影響を払う特別な力があるのでしょうか?

  もう説明した筈だ。ネガティブな存在に悩まされるのなら、それは通常は、我々がその霊を呼び込むような態度をとってしまったことを反映しているのだ。だか ら、肯定的な態度に変わること、つまりエゴによって生まれた悪習を断つことが、その影響からの解放に繫がる。何か特別な儀式やまじないを行うことで振り払 うのではない。君たちがエクソシストと呼ぶような祈祷は、無益なだけでなく馬鹿げている。


*エネルギーを通すことで被害者のエネルギー体を綺麗にすることは、ネガティブな霊の影響を払う役に立つのでしょうか?

 エネルギーを流す人が良いパイプ役であり、その能力を利己的な目的に使用しないのであれば、助けになれる。高次の霊たちが、その人を通して活躍するので、悪い影響を振り解いてあげることができるからだ。
 だがそれをしてもらっても、否定的な態度を変えようとしなければ、その効果も一時的なものだ。したがって、ネガティブな存在たちの影響を振り解くのは他人に頼ることではなく、自分次第なのである。


*自分の態度が悪くなくても、ネガティブな霊がいる雰囲気を感じ取れる敏感な人もいますか?

 そういう人もいて、疲労や倦怠を感じるが、不快感は長くは続かず、その場所を離れれば消失する。つまり一部で信じられているように、低波長の霊たちが頻繁に出入りする環境にいたからというだけで、悪い霊に憑かれて苦しめられることなどない、ということだ。
 時折そのような悪い雰囲気は、肉体を持った者自身のエゴ的感情によって生じている。繊細な人であればそれを感じ取って気持ちが悪くなるが、それも一時的な感覚であるものだ。

*いわゆる「超常現象」を発生させることのできる霊がいるというのは、本当でしょうか? 物が動いたり、照明や機器が独りでに点滅したり、ビデオや録音で捉えた声や残像などがあって、そのような現象に遭遇した人たちはとても怖がっているようですが。
 
 そのような現象はあるが、悪さをしようとしているためとは限らない。
  時には、まだ生きていることを知らせたいために、肉体を持った者と交信したがっている霊に過ぎない。そういう場合は、少し前に亡くなった霊であることが多 い。この物理的な生にまだ執着を残していて、住んでいた環境や人間関係を捨てたくないために、まだ生き続けていることを知らせたくて、近親者の注意を引こ うとする。彼らに話しかけたり触ろうとするのだが、肉体を持つ者との交信やコンタクトの可能性に限界があるので(肉体を持つ者の感受度による)、その存在 に気づいてもらえない。そこで彼らにとっては、物質よりもエネルギーを扱う方が簡単なので、電気で動く機器に干渉して、電球やテレビやラジオを点けたり消 したりする。また、そこに霊媒体質の人がいる場合には、その人のエネルギーも借りて、物体を移動させることもある。
 こういうことは、何が起きているのかわからない人たちを大変怖がらせてしまうが、実際には邪悪な意図はなく、注目を集めたいだけで、肉体を持つ人たちの間に引き起こす怖れには気づいていない。

 

 


19 愛の法則から見た十戒 1

2015-02-22 11:42:34 | 魂の法則-愛の法則-

あの「魂の法則」が、
Part2「愛の法則」として、
新たに公開されている・・・!
遅ればせながら、転載を開始する・・・。その19


言うまでもなく、作者はヴィンセント・ギリェム(Vicent Guillem)氏、スペイン人で生化学博士である。

翻訳は、初版本「魂の法則」の訳者でもある小坂真里さん。

訳者のホームページ「魂の法則」に、既に公開されているものを、

敢えて転載する理由は、

一人でも多くの方に触れて頂きたいとの願いからである。

それは作者の願いでもあり、訳者の願いでもある。


そして、

共感する拙ブログの願いでもあるからだ。

既に、初版本「魂の法則」は日本でも公刊されており、

魂の法則
ヴィセント・ギリェム
ナチュラルスピリット

是非とも、手に取ってお読み頂きたい

尚、カテゴリー魂の法則には、23回に亘って連載させて頂いた経緯がある。


でも、

一冊の刊行本は、はるかに読みやすく、

座右の一冊となるだろう・・・。

 

<ヨッキーくんより>


日本でも、と言うより、

仏教にもあるのである。

十善戒という。

お四国巡礼では、必ず、唱導するアレである。


NWOのふざけた十戒もある。

イザヤの十戒は、現代的で分かり易い。

微妙に詳細である事は、納得できる・・・。

言うまでもなく、戒とはいましめ、換言すれば制限である。

ともすれば、心を縛ることにもなり得る。


十戒は、勧めもあるから、

そうとばかりは言えないが、

時代と共に、魂の進化と共に微妙に変化して当然であろう・・・。


これから、

十戒について、

連続するが、興味深く拝見して行こう・・・。

確かに、

日本人は戒律について、奔放な部分があるが、

世界はそうではない。



【転載開始】

19 愛の法則から見た十戒 1

「愛の法則」から見た十戒

※ (注) 十戒とは、モーゼに率いられたイスラエルの民がエジプトから脱出した後、シナイ山で神から授かったとされる10の戒律で、旧約聖書では、申命記5章と出エジプト記20章に記載されている。プロテスタントやカトリックなど宗派の違いで多少内容が異なるが、「愛の法則」では、スペイン・カトリック教会の教義の十戒をとりあげている。

 
スペイン語版、カトリック教会における十戒

       1.                    すべてに優先して主なる神を愛せよ。

       2.                    神の名をみだりに唱えてはならない。

       3.                    祝日を聖なるものとせよ。

       4.                    あなたの父と母を敬え。

       5.                    汝、殺すなかれ。
 
       6.                    不純な行為をしてはならない。

       7.                    盗んではならない。

       8.                    偽りの証言をしたり嘘をついてはならない。

       9.                    不純な考えや願望を抱いてはならない。 (元来存在しない)

    10.人の財産を欲してはならない。

 
イザヤの十戒

1.神と隣人とを自分のことのように愛しなさい。

 2.神の名を、利己的な目的を正当化するために使ってはならない。(霊性で商売をしてはならない)

 3.少なくとも週に一日は休日として、仕事を休むためにとっておきなさい。

 4.君たちの人生を取り巻くすべての人たち、特に最も傷つきやすい者である子どもたちに対して、慈 愛、尊重、理解を示しなさい。

 5.どのような形であろうと、いかなる理由があろうと、絶対に命を絶ってはならない。

 6.望まない性行為を誰にも強いてはならない。(感情の自由を尊重せよ)

 7.エゴに突き動かされて、他者に損害を与えてはならない。
(公共の益・社会の正義・富の公平分配を促進せよ)カトリック教会の十戒7・8・10の統合

 
 8.自由意志を尊重せよ。

 9.霊的裁きの法則を尊重せよ。

 10. 個人的または集団的な争いごとを平和に解決せよ。



旧約聖書の申命記と出エジプト記に書かれてある十戒(括弧内は原典のヘブライ語訳からのイザヤの解釈)

 
1.わたしのほかに何ものをも神としてはならない。(唯一の神)

2.自分のために、偶像を造ってはならない。(神のように崇めるために偶像を造るのはやめなさい)

3.神の名をみだりに唱えてはならない。(神の名を、欺くために使ってはならない)

4.土曜日を心に留め、これを聖なる日とせよ。6日間は働いて7日目はいかなる仕事もしてはならない)

5.あなたの父と母を敬え。

6.汝、殺すなかれ。

7.姦淫してはならない。(売春してはならない)

8.盗んではならない

9.隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

10.あなたの隣人の家―妻、奴隷、牛、ろば、すべて―を欲しがってはならない。

 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ç

*十戒(モーゼが神から与えられたとされる10の戒律)の元となったのは何ですか? 神自身が口述したのでしょうか、それともモーゼが発案したか、誰か別の人間が作ったのでしょうか?


  神自身ではない、そうだとするのは言い過ぎだろう。しかし、君たちが十戒と呼んでいる最初のものが、高度に進化した存在たちによってモーゼに伝えられたのは確かだ。高度に進化していたがゆえに、彼らを神の使者だと考えてもらっても構わない。

*それらの存在は、どんな目的で十戒を伝えたのでしょうか?

  その時代の人びとに、霊性とはいかなるものかという基本的な概念を与えるためだ。だが高次の存在は、何かを要求したり義務付けたりすることがないので、戒 律というよりは助言であったと言った方がよい。それゆえ、それを十戒と名付けたのは間違いなのだが、君たちが聞き慣れているのなら、引き続きそう呼ぶこと にしよう。

*真実であるものが少しでも残されたことに感謝します。

  とはいえ、改ざんや改変、加筆などの標的にならなかったわけではない。

*そんなことだと思っていました。で、改ざんされたものはどれで、されなかったものは何ですか?

  もしよかったら、一つ一つ見てみよう。歪曲されているものは、後世のもので歴然としているので、君たちにもわかることだろう。旧約聖書に書かれた内容と、カトリック教会で公認された十戒とを比較すればいいだけだ。

*では、最初の戒律から始めましょう。カトリック教会によると、それは「すべてに優先して主なる神を愛せよ」ですが、これは何をいわんとしているのでしょう?

  これは良い戒律だが、エホバがモーゼに十戒を与えたとされる申命記(モーゼ五書の一書。十戒は旧約聖書では、申命記と出エジプト記に記載されている)では見当たらない。
  これはむしろ、当時の律法学者に「すべての戒めの中で、どれが第一のものですか」と問われたイエスが、「第一の戒めは『イスラエルよ、聞け。われらの主なる神は、ただ唯一の主である。心をつくし、魂をつくし、意志をつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』であり、第二は『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』である」と答えたことに由来する。
  しかし、申命記においては、「あなたはわたしのほかに何ものをも神としてはならない。また自分のために、偶像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は 地にあるもの、あるいは地の下の水中にあるもの、いかなるものの形も造ってはならない。それらを拝んではならないし、それらに仕えてはならない」となって いる。

*どちらが本物なのですか?

  両方とも霊的に高次のものだ。モーゼのものは、その時代に頻繁に見られた多神教と偶像崇拝に対する風刺である。神が唯一の存在であること、そして、偶像を 崇拝しても主たる神には届かないし霊性とも無関係であると伝えたのだ。つまり、「神のように崇めるために偶像を造るのはやめなさい」と告げている。
 イエスのものは、神が唯一であることを認めた上で、より高度な要素が付加されている。それは、「神と隣人とを自分のことのように愛しなさい」ということで、「愛の法則」の要と言えよう。

*二つとも正しいのだとしたら、何が問題なのですか?

 私には、何の問題もないよ。カトリック教会の十戒が申命記にも記載されていて、エホバが―ヤハウェと呼ぼうが構わないが―モーゼに告げた通りのものであると頑なに信じている者にとって、問題となるのだろう。でも、実はそうではないところに近世のペテンがあるのだ。
 旧約聖書に書かれていることに的を絞って見るならば、第一の戒律はイエスのもので、モーゼのものではない。

*ではどうして、そのように変えたのでしょうか?

  申命記の戒律では、「神のように崇めるために偶像を造るのはやめなさい」と人に告げている。しかしながら、よく観察すると、カトリック教会はこの掟に背い ている。彼らは、多くの聖人や聖母、またイエス自身のあらゆる種類の、おびただしい数の像を崇拝することに力を入れているからだ。ルターのような宗教改革 者にも気づかれたこの矛盾をなくす策の一つが、この戒律自体を削除して、他の体裁を繕えるものにすり替えてしまうことだった。

*なぜカトリック教会は、聖像を崇拝するようになってしまったのでしょうか?

  これもすでに話したことだが、コンスタンティヌス皇帝以後のカトリック教会は、それ以前の宗教の慣習と儀式とを採り入れたのだったが、それらの宗教では 神々への偶像崇拝が一般的だったのだ。この風習はローマ帝国の様々な地域において根強く残り、コンスタンティヌス帝が布告した強制的な改宗をもってして も、簡単に一掃できなかった。
  しかも教会にとっても、この習慣を排除することは得策ではなかった。というのも、偶像やそれらへのお供え物を崇めさせておけば、人びとの気を逸らせておく ことができ、真の霊的な価値観を問われることも、それに相反する彼らの利己的なやり方が問題視されることもなかったからだ。
 こうして、過去の男性神の数多な偶像は、聖人やイエスのものに替わり、女性神の偶像は聖女や聖母のものとなった。除外されたものは、新しい宗教の聖像にするのが不可能だった、動物の像のみであった。
  私の話が意外だとしたら、もっと時代が近い、似たような現象を見てごらん。アメリカ大陸が征服されて先住民は強制的に福音化されたが、未だに、先コロンブ ス文化の神々への崇拝と祭式が続いている。今では、かつての神々の名が、教会の聖人の名前に置き換わっているだけなのだ。
 以上のことが、ユダヤ教徒が偶像を崇めない理由の一つになっている。
 他方、カトリック教会もユダヤ教会と並んで、十戒を正式に認めると公言しているにもかかわらず、信者は偶像を崇拝しているのだ。

 


18 愛の法則から見た隣人愛

2015-02-21 09:47:20 | 魂の法則-愛の法則-

あの「魂の法則」が、
Part2「愛の法則」として、
新たに公開されている・・・!
遅ればせながら、転載を開始する・・・。その18


言うまでもなく、作者はヴィンセント・ギリェム(Vicent Guillem)氏、スペイン人で生化学博士である。

翻訳は、初版本「魂の法則」の訳者でもある小坂真里さん。

訳者のホームページ「魂の法則」に、既に公開されているものを、

敢えて転載する理由は、

一人でも多くの方に触れて頂きたいとの願いからである。

それは作者の願いでもあり、訳者の願いでもある。


そして、

共感する拙ブログの願いでもあるからだ。

既に、初版本「魂の法則」は日本でも公刊されており、

魂の法則
ヴィセント・ギリェム
ナチュラルスピリット

是非とも、手に取ってお読み頂きたい

尚、カテゴリー魂の法則には、23回に亘って連載させて頂いた経緯がある。


でも、

一冊の刊行本は、はるかに読みやすく、

座右の一冊となるだろう・・・。

 

<ヨッキーくんより>


エゴが惹起されるのも、

この物質世界に住するからである。

それは目に見えるものしか把握できないからである。

触れられないもの、

感じられないものは、存在しない。


そして、

心の裡は人には見えない。

隠されるものと思ってしまう・・・。

油断すると、

虚栄や、自尊や、自負の心が芽生えてくるのであろう。


現実の世界に投影されるものは、

やはり、

目に見えるもの、触れるもの、感じられるものだからである。

これが、物質世界を煩悩の世と呼ばれる所以である。


油断すると、煩悩の世界に翻弄される図である。

しかし、

本質は違う。

実存の世界は、さらに広い。

心を裡に向ければ、実存の世界に開かれる。

霊界と言う言う広大な実存の世界である。


本質は霊界にある。

本質を見失って、煩悩に迷う事は一世一代の損、

否、

今生の過ちである。


煩悩に対応する菩提心が人間には内在している・・・。

常に謙虚であるという事は、

菩提心の問いかけに素直であるという事であろう。


【転載開始

18 愛の法則から見た隣人愛

*妬みはどのように乗り越えますか?

 初めに、自分が妬んでいることを認めること。自尊心のある者は、虚栄心のある者よりもエゴ的感情をよく理解しているので、妬んでいることを自覚できる。
 残念ながら、妬みは、君たちの世界で頻繁に見られるエゴ的感情である。しかも、大多数の者は妬んでいることを認めたがらないので、停滞してしまうのだ。自己の悪癖を認識しない者は、それを修正することができないのである。
 妬みを克服するには、他の人たち以上になりたいという願望を放棄する必要がある。他者の持ち物を所有したいという欲望を放棄し、幸福になれるかは自身の資質と感情とを覚醒できるか次第で決まるので、人から何も奪う必要はないと気づくことだ。
  邪心や妬みも、大なり小なり他者を拒絶すること―毛嫌い、嫌悪、恨み、憎悪に至る―であり、隣人愛とは正反対の一番邪悪なエゴ的感情を培養するので、幸せ になる代わりに不幸の主原因である心の病気になりやすい。望むものを手に入れるのが不可能だと、憤り、無力感、悲しみが生まれる。

*では、どうやって邪心を克服するのですか?

  これは理解や自覚によって解決するのが難しいエゴである。邪心を患う者は、自分が痛手を与えていることを完全に自覚しながら行動しているからだ。邪心のあ る者は、苦悩を生み出すことに執念を燃やしている。他者にしたことを自分が身を持って苦しんでみるまでは、改悛の情を持ち始めることがない。
  こうして気弱で無防備な状態になった時に、かつて自分が犠牲にした人たちから利他・無条件の愛の行為を受けると、思考回路が覆り、決定的な変化を遂げさせ る一打となる。常に計算づくで動くことに慣れているので、自分がこっぴどく痛めつけた人たちが復讐のチャンスがありながら、赦してくれて手を差し伸べてく れるのが理解できないのである。
 彼らの邪心が溶解して、過去の自分の犠牲者たちへの揺らぎない忠誠心に取って替わるのは、この時である。彼らが恩赦にも救済にも値しないと知っていたにもかかわらず、赦してくれて、助けを求めた時に救ってくれたからである。

*今度は野心について話してください。
 
 野心とは、所有または支配したいという強力な願望である。
 野心の対象が物的な形態であれば、強欲や貪欲の形で顕れる。つまり強欲や貪欲は、実際には野心の変種なのである。
 領土や人に対する権力欲や支配欲も、野心の別の異形である。
 野心家は、何でも人の上位に立つことを狙い、誰にも主導権を握られたくないので、嫉妬深い人でもある場合が多い。
  野心家は、手に入れていくもので絶対に満足せず、飽くことなき所有欲を益々募らせていく。目標としたものを獲得するにつれて、幸せになれると思っている が、目指すものを得るとそれで納得せずに、常にそれ以上のものを欲しがる。そうして、もっと過度で獲得困難な目標物を探し出す。

*でも、世界平和や飢餓の撲滅など崇高な目的を野望に抱く人たちもいますが、正しい行為ではないのでしょうか?
 
 それらは野心ではなく、大望である。野心と大望という言葉のここでの意味づけの違いは、野心は崇高な概念に基づかないとしていることだ。
  野心家は、利己的な考えで動き、行動する際に良心の咎めを感じにくい。自分の持っているものでは決して満足せずに、所有したい、支配したいという熱意は留 まることがない。つまり、野心は飽くことを知らず、過度になっていく。野心家は倫理的・道徳的な紀律を全く尊重せず、目的は手段を正当化すると考えている ので、自由意志を大切にできない。そのため、往々にして自分の見解を人に押しつけ、失敗を認めたがらない。
 見込みが外れると激怒し、目的を達するために、さらに攻撃的で有害な手段に訴える。つまり、自分の欲しいものを正当に手に入れられなければ、不当な手段で獲得するのだ。だから、他の人たちに損害を与えずに野心を満たすことは難しいのである。

*野心はどう克服しますか?
 
  所有したいとか支配したいというような強力な願望では幸せになれるどころか、自分自身に動揺と不安を生み、他者にあらゆる苦悩を与えると気づくことだ。行 き過ぎた野心は、極度に有害なエゴが現れ出たものである。過度の野心に支配された人は、人類に最大の弊害と苦悩とをもたらすが、同時に、自分自身でも大き なカルマの負債を負う。
  人類の最大の犯罪者は、この物質界の所有者になろうとして、思いのままに政治や国際金融の糸を操ってきた権力者たちである。世界支配を渇望し、自分たちの 富と権力を増やせるのであれば、何百万という人たちに苦悩や死を引き起こす決定にも躊躇しない。だが彼らは、自分たちが生み出した苦悩が全部、霊的次元に 戻った際に、自らの身に降り注いでくることに気づいていない。
  一生懸命獲得したものは全部、一切合財、物質界を去る時に失うことになり、霊界に移った時に待っているものは、カルマの巨大な債務である。そして、他の人 びとに与えたあらゆる苦しみを、自分の身を持って味わうことから返済していくのだ。彼らの魂は犯した罪を全部修復し終えるまで苦しみ続けるが、それには大 変長い時間がかかるので永遠に思えるほどである。

*次は偽善について話してください。

 偽 善は、それ自体がエゴ的感情というより、虚栄心の顕れである。それは、いいイメージを与えようとして、実際には違うもののふりをすることだ。偽善者は霊的 な進化を望んではおらず、褒め称えられたいために、そう装っているに過ぎない。自己変革をしようとせず、世間体を繕っているだけなのだ。それゆえ偽善は、 霊的進化の大敵である。自己のエゴの改善や排除の努力をせずに、エゴを隠して、偽りの慈善のイメージを人に与えるからだ。狡猾に行動して、他者のためにな る本当に善良な人だと思われようとするが、実際には自分自身のエゴを満たすために行動する人たちである。
 偽善的な態度は、政治においてよく見られる。特に選挙の時期にはそれが顕著で、候補者は誰もが投票してもらおうとイメージ作りに熱心で、市民の状況を改善しようと望んでいるふりをする。だがひと度権力に就くや、自分自身や恩がある者への利益を優遇する。
  これは政治に限ったことではない。あらゆる分野で、本来の自分とは異なった顔をして、他者を利用する傾向にある。他者を愛するふりをしながら、その外見的 な善意の陰に、人から認められたいとか、名声・富・権力への願望など、利己的な目的を隠している人が大勢いるので、偽善は人類愛の大敵である。

*本当に善意で行動している人と、ただそう見せかけたい人とをどう区別したらいいですか?
 
 善意の人は正直に利他の精神で行動し、言うことと行うことが一致している。偽善者はふりをしているだけで、言ったことと全く別のことを行うなど、常に矛盾している。これで違いは明らかだ。
  たとえば、謙虚だと自慢しがちであるが、本当に慎み深い者は、他者のために良いことを行っても自慢したりしない。それを行うだけで充足できるからである。 だが偽善者は、何らかの見返りを貰えない限り、誰のためにも何もしない。偽善者はいつかはミスを犯し、その利己的な目論見が露になる。その時に、化けの皮 が剥がれてしまうのだ。

*偽善を乗り越えるためには何をしたらいいですか?
 
  最初にそれがあることを認め、打ち克つ努力をしなければならない。また、生涯にわたって芝居を続けるのは疲弊することで、虚しさを生み、それゆえ不幸にな ると気づくことだ。霊界では自分を偽ることは不可能で、人は見せかけたいと思うようにではなく、それぞれがあるがままに見られるので、霊的な視点からも無 駄で無益な努力である。
 偽善は他の人たち以上になりたいという願望から生じるので、虚栄心と主役になりたがる傾向との関係が深い。その願望を手放せれば、偽善を克服できるかもしれない。

*次は、主役になりたがる傾向についてお話いただけますか。
 
 主役になりたがる傾向については前にも話したので、ここではあまり取り扱わないことにしたい。繰り返しになるからだ。
 要約すると、主役になりたがる傾向は、注目の的になって注意を引き付けたいという願望である。これは虚栄心の段階で一番強く見られるもので、名声や成功、他者からの称賛や賛辞への願望となって表れる。
 この傾向は自尊心と自負心の段階でも表れるが、その場合は、愛情不足や愛されたいという願望が原因であることが多い。自尊心や自負心のレベルにいる人たちが自己顕示欲が強いと、傲慢になる。傲慢な人は、他の人たちに勝っていると感じていて、優越的、高圧的に行動する。

*人から好かれたいと思うのは別に悪いことに思えませんが。
 
  好かれたいのも悪いことではないが、それが正しいやり方ではないのだ。何かの見返りを期待して行動する人は、それが得られらないと失望したり怒ったりする ので、他者のためだったのではなく、利益のためであったとわかる。本当に愛する者は、人から認められる必要もなく、人のために行動するだけで満たされる。
 それに、私たちを好きになるかを決めるのは我々ではなく、相手の意志次第であることに思い至らなければならない。相手にしてしてあげたことへの感謝の意として、私たちに対する好意を要求することは、その人の自由意志を侵すことになる。

*主役になりたがる傾向と傲慢とは、どう克服すべきですか?

 謙虚になる練習をすることだ。

*では謙虚さとは正確には何でしょうか? 定義できますか?
 
  謙虚さとは完全に正直に包み隠さず率直に行動でき、自己の美徳を自慢せずに自分の欠点と過ちとを認められる人に特有の、霊的資質であると定義できる。霊的 に人の役に立つためには、謙虚さという資質を伸ばすことが欠かせない。謙虚でなければ、自画自賛や自己崇拝に陥ったり、自惚れたり傲慢になってしまう。

*謙虚さに欠けると、どうして自画自賛や自惚れ、傲慢になるのですか。
 
 他者の支援に関心のある人がどんどん皆の注意を引き付けていっても、当人が謙虚でなければ、きっと自分自身に陶酔して失敗することだろう。大勢の人びとの注 目の的であると感じれば、必ず主役になりたいと思う気持ちが暴走する。自己のエゴをよく内省してみなければ、他の人よりもすごく、勝っていると思い込んで しまうのだ。
 この時、何よりもこの人の動機となっているのは、もっともっと沢山の人たちからの注目・称賛・賛辞を獲得したいということだ。もっとも良識的なやり方で大変巧妙にやれば、霊的な内面を把握する能力の大きい魂にしか最初は気づかれないかもしれないが。
 また、より高い霊的な素質を示す人たちを自分のファンを奪うライバルだと見なして、その人たちへの妬みが芽生えることもある。比較されることによって当人の欠点が歴然とする場合は、狡猾かつ悪意を持ったやり方で、その人たちを卑下しようとする。
 往々にして、自分の直属の特権的なポストに、充分な能力はないものの言うことはよく聞く従順な部下を配置する。こうなると、人の役に立ちたいという動機は二次的になり、より多くの信奉者を獲得する抗弁として使われるだけとなる。
 こういうことが起こるのは、謙虚さを育まなかったからである。つまり、完全に正直に包み隠さず率直に行動せずに、欠点(主役になりたがる傾向、傲慢と妬み)を認めることもなく、自分の徳だと思っていることを自慢するからである。

*そういう見方をするなら、隣人愛や人助けは不可能に思えます。主役欲に囚われることなく求められる謙虚な状態に達するのは、非常に難しいです。一体、エゴの罠に陥ることなく、隣人を愛したり、人を助けることができるのでしょうか?
 
 もちろんできるとも。心からそう望み、自分自身のエゴを見張って、エゴが顕れた時に気づいて、意思を支配されないように頑張るなら可能となる。
  自惚れたり思い上がったりせずに自分自身の能力をわきまえて、それ以上のことをしようと望まないことだ。人助けをしようとする場合に、皆より目立ちたいと いうのが目的であってはならない。また、他の人たちが行っていることと競い合っても比較してもならない。単にそれが誰かの役に立つかもしれないことだけ で、満足して行動すべきである。これが、無条件の愛に向けて確実かつ安全に歩を進める秘訣である。