あの「魂の法則」が、
Part2「愛の法則」として、
新たに公開されている・・・!
遅ればせながら、転載を開始する・・・。その22
言うまでもなく、作者はヴィンセント・ギリェム(Vicent Guillem)氏、スペイン人で生化学博士である。
翻訳は、初版本「魂の法則」の訳者でもある小坂真里さん。
訳者のホームページ「魂の法則」に、既に公開されているものを、
敢えて転載する理由は、
一人でも多くの方に触れて頂きたいとの願いからである。
それは作者の願いでもあり、訳者の願いでもある。
そして、
共感する拙ブログの願いでもあるからだ。
既に、初版本「魂の法則」は日本でも公刊されており、
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魂の法則 |
ヴィセント・ギリェム | |
ナチュラルスピリット |
是非とも、手に取ってお読み頂きたい
尚、カテゴリー魂の法則には、23回に亘って連載させて頂いた経緯がある。
でも、
一冊の刊行本は、はるかに読みやすく、
座右の一冊となるだろう・・・。
<ヨッキーくんより>
真実は単純である。
大げさに祀り上げられたものは、
ほとんどが人為的に必要に駆られた結果である。
大袈裟と言う言葉自体が、
それを彷彿させられる。
袈裟と言うのは、僧侶の衣服に過ぎないが、
それを大々的にしたのが大袈裟である。
通常、
誇張するという意になる。
総じて、
宗教は誇張する傾向になるのものである。
その事を如実に指摘されており、
溜飲の下がる思いがする。
とまれ、
必要なのは真実であり、真理である。
【転載開始】
22 愛の法則から見た十戒 4
これは申命記にも記載されているが、訳に誤りがある。ヘブライ語を逐語訳すると、「神の名を、欺くために使ってはならない」となる。つまりこの掟の問題 は、戒律自体が間違っていることではなく、その意味の解釈の仕方にあり、そうなったのは、もともとのヘブライ語の翻訳を改変してしまったためである。この ことは前にも話したかもしれないが、とても重要なことなので、ここでも掘り下げて見てみることとする。
多くの人は、「神の名をみだりに唱えてはならない」ということは、世間で一般的に使われる下品な表現の中で、神の名を用いてはいけないことだと思ってい る。そして、誰かがそのような表現を口にするのを聞くと、発言者でさえ文字通りの意味で言っていないことを考えてみようともせず、神への冒涜だとして腹を 立てる。しかし実際には、そのような言い回しは通俗的で粗野であるかもしれないが、無害なもので、霊的には何の問題ともならない。
しかしながら、この戒律が真に意味するところは、「神の名を、利己的な目的を正当化するために使ってはならない」である。人類はこれまでにもこの掟を平然と破ってきたし、今も破り続けている。
最もひどい残虐行為も神の名において行われてきた。その中には、聖なるものへの儀式に人間を生贄に捧げることから、異教徒の殺戮、宗教戦争や十字軍、改宗 の強要、異端者の迫害・拷問・殺害などや、宗教権威のエリート層を肥やすための搾取、信徒を操るための教義の改ざん、人びとの間に不和や争いを生み出すこ とまでが含まれている。このようなことすべてに、大変有害な利己的な意図があるのだが、人間が神の名のもとに犯したのである。これは本当に由々しきこと で、霊的には致命的な結果をもたらす。本当は自分たちのエゴのせいなのに、神がそのようなことを命じたと皆に信じ込ませるのはペテンである。
聖典でさえも改変し、神がイスラエルの民に他民族の殺戮を命じたと信じさせようとするのは許しがたい。また、神、あるいは神の遣いとされるモーゼが災いを 招いて、兄弟であるエジプト人を殺し、イスラエルの民をエジプトから解放するようファラオに迫ったとすることも看過できない。もし、それが本当であるな ら、神とモーゼは、そこら辺の人殺しや暗殺者、人類の殺戮者などと同じように残酷で、命を粗末にするのだと認めないわけにいかなくなる。
これでわかっただろうが、実際には、何も超自然的なことは起きていない。信じられているように、神の怒りに触れて死んだわけではない。死んでしまったの は、彼ら自身の憤りのせいだ。ヘブライ人に追いついて殺したいという欲求の方が、自分たちの命を守ろうとする良識よりも勝っていたということだ。
どの宗教でも同じだが、ユダヤ教の支配者たちは、人民に神の存在を怖れさせて従順にさせることで、彼らの権威に逆らわないようにしておきたかった。そのた めに、裁きの神と執行者モーゼ、というイメージを創り上げたのだ。ひと度そのような神話を作りあげれば、人民を意に従わせようとする場合は、神の言葉を モーゼが代弁していると言いさえすれば、人びとを震え上がらせ、怖れから言いなりにさせることができたからだ。
政治権力者たちも、都合のいい時には宗教を利用して、利己的で侵略的な目論みを市民に納得させようとする。たとえば、市民を戦争に送り込みたい場合などに は、犠牲を要請しているのは神であると言いくるめ、神が味方についているから、戦闘中も守ってもらえると思い込ませる。
だが、一番の影響力を持っていた宗教や政治の権力者たちが最も有害だったとはいえ、この戒律を破っているのは、彼らだけではない。個人的なレベルにおいて も、見せかけの正統宗教や霊性の下に人間の自由や意志を制約したり、私欲に基づいて他の人たちをコントロールしたり操作するなど、偽善的で利己的な行動 は、この掟に背くものである。
同様に、自己の利益のために、人の宗教及び霊的信心を利用する者も、この戒律を破っている。したがって、「神の名を、利己的な目的を正当化するために使ってはならない」ということを我々が正しく応用するのなら、「霊性で商売をしてはならない」ということに繫がるという結論に至る。つまり、霊性を商売にして儲けようとする人も、この戒に背いていることになるのだ。
したがって、霊性というものは、特定の人に属するものではなく、皆が平等に有するものだ。我々には無償で与えられているのであるから、それを使用する時に は無料とせねばならない。それゆえ、霊性を金儲けのために使ってはならない。そうするのなら、それは、誰かが空気を私物化して、呼吸をする権利と引き換え に、人からお金を取るようなものだ。我々の持つ霊的な能力と知識を、思考に忍び込むエゴに占有させてしまえば、無私の志ですべき他者や自己の進化に役立つ 霊的な仕事も、利潤や儲けを引き出す物的な商売に変わってしまう。
様々な霊媒能力も、すべて霊界から授かった才能なので、どれも商売の対象としてはならない。この中には、エネルギーの伝授も含まれるが、お金と引き換えに 霊界からの助言や交信を受け取るのもダメである。霊媒能力は、我々の進化を助けるために与えられたのであり、取引のための商品ではない。霊的な才能の使い 方を誤れば、霊的な援助が貰えなくなろう。高次の霊たちは、私欲を肥やすことに協力的でないのだ。
現在、多くの人たちが、スピリチュアルな変化を遂げるということは、世俗的な仕事を辞めて、彼らが霊的な仕事と呼ぶことに専従することだと思い込んでい る。そして、世俗的な仕事からの収入がなくなるので、霊的な知識を伝えたり助言を与えたりして、お金を貰っても構わないと正当化しているが、そうではな い。
霊的な成長は、物質界の仕事と完全に両立させることができる。しかも、病気、老体、肉体的または精神的に不適合な場合を除いて、誰もそれを免除されること などない。肉体を持って生まれた者の生きる上での義務-たとえば仕事だ―を回避する口実として、霊性を持ち出してはいけない。なぜなら、すでに霊的な仕事 をしているからと言い訳をして働かない者は、楽をしようとする怠け者であり、霊的に進化はしない。誰もが生計を立てるために働かねばならず、皆がそれにふ さわしい対価を受け取らねばならない。霊的なことを物質界の職業にすることは、正当化できない。