飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

27 愛の法則から見た十戒 9

2015-02-26 12:31:07 | 魂の法則-愛の法則-

あの「魂の法則」が、
Part2「愛の法則」として、
新たに公開されている・・・!
遅ればせながら、転載を開始する・・・。その27


言うまでもなく、作者はヴィンセント・ギリェム(Vicent Guillem)氏、スペイン人で生化学博士である。

翻訳は、初版本「魂の法則」の訳者でもある小坂真里さん。

訳者のホームページ「魂の法則」に、既に公開されているものを、

敢えて転載する理由は、

一人でも多くの方に触れて頂きたいとの願いからである。

それは作者の願いでもあり、訳者の願いでもある。


そして、

共感する拙ブログの願いでもあるからだ。

既に、初版本「魂の法則」は日本でも公刊されており、

魂の法則
ヴィセント・ギリェム
ナチュラルスピリット

是非とも、手に取ってお読み頂きたい

尚、カテゴリー魂の法則には、23回に亘って連載させて頂いた経緯がある。


でも、

一冊の刊行本は、はるかに読みやすく、

座右の一冊となるだろう・・・。

 

<ヨッキーくんより>


現代の経済社会の淵源に潜む問題点を鋭く指摘!

資本主義に巧妙に仕組まれた、

貨幣経済システムの罠を見抜いている。


資本主義であれ、

社会主義であれ、

搾取が巧妙に仕組まれているなら、

それは戒律を大きく逸脱する。


それは貨幣を造幣する権利が、

権力者に委ねられているからだ。

無からマネーが作り出され、

実体経済に貸し付けられ、生産が行われる。

それは良いが、

やがて操作され、

いきなりマネーが止められ、金利が上昇する。


貸付金の回収と称して、

多くの生産富が収奪されるのである。

これは巧妙に仕組まれた、『盗み』だという。

全く同感である。


【転載開始】

27 愛の法則から見た十戒 9

 
*次の戒律は、「盗んではならない」です。

  そう、人は通常、盗むということを、誰かからその人に属する物的な所有物を無断で取り上げる行為である、窃盗のことだと考える。そのため、スリや、銀行や宝石店などの店舗を襲う強盗などのことを泥棒だと見なしている。
  しかし、ペテン、詐欺、恐喝などで、労働者からその報酬に見合う賃金を取り上げて私腹を肥やす者や、人の損害、苦しみ、欠乏などの犠牲の上に権力や富を貯える者は、司法によってその罪が暴かれることがなくても、実は最たる泥棒なのだと言っておこう。
  したがって、「盗んではならない」という第7戒律は、「偽りの証言をしたり嘘をついてはならない」という第8戒と「人の財産を欲してはならない」という第 10戒と共にまとめられる。このどれもに、自己のエゴを満たすために人に損害を与えるという意図があるからだ。そう考えてみると、これらの三つの戒律を一 本化して、「エゴに突き動かされて、他者に損害を与えてはならない」という助言にすることができる。

 最 も物的なエゴの形態は、強欲、貪欲、野心である。これらのエゴは、他の人に及ぼす弊害には目もくれずに、自己の富と権力の貯財に夢中にならせる主犯であ る。だが、人間関係のテーマで扱った、執着、嫉妬心、憎悪、憤怒、独占欲、恨み、無念などのエゴ的感情のように、物質主義的ではない他のエゴの形態も、他 者を傷つけるものだ。

*他の人に損害を与えずにお金持ちになった場合でも、霊的な負債を背負ったり、「エゴに突き動かされて、他者に損害を与えてはならない」という最大律を侵してしまうことになりますか?
 掟を破ってはいないが、進化した魂ならば、富を欲することもないし、金持ちになろうと時間や労力を無駄遣いすることもないので、大きな進歩を遂げてもいない。進化した魂は、そのような状況には全く惹かれないのだ。
  人に直接的な損害を与えなくても、自由になる物的な富と権力を隣人の支援に使わずに、自分の物欲を満たすためだけに使うなら、成せたであろう多くの善を施 さなかったことになるので、他者を助ける好機を無駄にして、自分自身も愛において進歩するチャンスを逃したことになる。ある魂が、公益に役立てるように物 的な富を望みながら転生しても、生まれた後でそれを自分のエゴのために使ってしまえば、そのミッションは失敗なのだ。
  いずれにせよ、君たちの世界では、財産を相続するとか宝くじに当たるとかでもしない限り、誰にも損害を与えずに金持ちになることは難しい。君たちの経済や 商業のやり方は、最も強い者の理論に支配されているので、そのような好戦的なシステムにおいては、それに毒されずに、善人が成功するのは至難の業だ。


明確に言うと、どういうことでしょうか?

  君たちが資本主義と呼ぶ、地上に君臨する経済システムは、人間のエゴから生まれた制度であり、この戒律とは始終一貫して矛盾しているということだ。なぜな ら、それは人間の権利を全く考慮することなく、止めの効かない法外な富の蓄積を追い求め、それを認めているからである。

* 僕は経済のことはよくわかりませんが、マクロ経済の指標が多過ぎて、国際経済を推進しているものを理解することは、とても困難な気がします。多くの格差や 不正、貧困が蔓延していて、それが益々ひどくなっているように見えますし、今日のような経済危機の時代にはそれが悪化しています。この現状では、人類のよ り良い未来を垣間見ることは難しく思えますが、どうしたらいいのかもわかりません。
  本当は見かけよりもシンプルだ。全体がとても複雑で、物事がそうなっているのは誰のせいでもないと思わせているのは、君たちに解決策がわからないようにして、責任者を追及できないようにするためだ。
 
  現在の世界の経済システムは、ピラミッド型組織の大企業のようだ。そ れは、利子が増大してゆく巧妙な貸付制度に基づいており、利潤を得る仲買人の手を得るたびに利子が増える仕組みになっている。そして、一番最後に貸付をせ ずにお金を借りるだけの者は、借金とその利子とを自分自身の仕事と生産品で返さねばならないので、押しつぶされることになる。このような人が、ピラミッド の底辺にいる大多数なのだが、このシステムは彼らの労力で維持されている。
  残りの者は、何であろうと安く買って高く売ることで儲ける投機市場を創り上げ、高利貸しと投機で生きている。ここで売買される商品の中には、農産物、畜産 物、海産物、鉱物や工業製品のような現物もあるが、他のものは株式、証券、投資信託など、「金融商品」と呼ばれる架空の産物である。
  実際には、現状の物事はごく単純である。少数の者が貨幣を造幣する権利を独占してしまっているのだ。つまり、お金を造る機械を持っている、ということだ。 ただ同然でお金を生み出すことができ、他の人たちにはそれに利子をつけて貸し出しているので、皆が彼らに借金を負ってしまう。彼らは、安く買い占めて高く 売りさばく特権的な情報を常に持っているので、自分たちが創り上げた市場を操作して、皆を思惑通りに動かすことが、このシステムでは可能なのだ。

*このことは、経済危機と関係しますか?
  その通り。経済危機というものは、偶然に起こるものではなく、ピラミッドの頂点から誘発されるものだ。手始めに、多くの人の借金が増えるように、低利子で お金を貸してあげるのだ。ピラミッドの下層にいる人たちには、数段階の仲買人を経た後に、より高利でこの貸付金が回ってくるが、このお金を使って商売をし たり財産を購入したりするので、経済が活性化して消費が増える。
  これがいわゆる好景気に当たる。この時期は、表面的には裕福であるが、すべてが借金で成り立っていて、それに利子をつけて返済しなければならないので、上辺だけのことである。
  上層部の漁師たちは、沢山の魚が餌に食らいついた―つまり、多くの人が借金を背負った―のを見届けると、釣り糸を引き上げて、獲物を収穫する。これは、あ る時期に財布のひもを締めて、貸付金の流れを止めてしまうという意味だ。すると、資金が不足する。借り入れをするためには、ずっと高い利子を支払わねばな らなくなり、それまでに許与されていた貸付金の利子も高額になる。
  何もかもが、経済活動の妨げとなる。負債者は借金を返済できなくなり、財産を没収されてしまう。国民の生活レベルは顕著に悪化するが、一方で、それまでに 貯えられた富はこのシステムを牛耳る者たちの手に渡る。こうして金持ちは益々金持ちになり、貧乏人はより貧乏になる。経済危機はこのようにして起こるので ある。

*これには一体、どういう解決策があるのでしょう?
  解決策は簡単なものだ。各人が自分の置かれた立場で、エゴを、つまり貪欲と強欲とを放棄し、分かち合うように努めるのだ。他者を自分自身のように見て、そ の人の幸福も自分のもののように気にかけてあげることだ。皆がこの一歩を踏み出すならば、世界は瞬く間に変わるだろう。
  現状の経済システムが保たれているのは、人間の強欲や貪欲、野心がふんだんで、愛や寛容が乏しいからだ。ほとんどの人が分かち合おうとしない。多くを所有 する者は、自分が持っているもので満足しない。自分の豊かさを持たざる者と分かち合おうとはせず、他の人びとを犠牲にしてでも、それ以上のお金と権力と を、さらに手に入れることを目指す。また、大勢の持たざる者たちも、上層階級の者のように、成功して金持ちや権力者になりたいと望むので、彼らが持てる者 の立場になれたとしても、同じことしてしまう。
  それゆえ、上部の者たちを入れ替えるだけでは、不充分である。我々全員が本当は霊的な存在で、同じ霊的進化の道を歩む仲間であり、愛を体得して幸せになる という目標を共有し、そのために互いを必要とし合っていると認識できるような、人類全体に及ぶ集合的な意識改革が起こらなければならない。
  富を溜め込んでも幸福になる役には立たないが、生きるために必要なものがなければ苦しむことになる、と気づくことが肝心だ。こうして、豊かにある物を分け 合えば誰も損はしないし、皆が恩恵を受け取ることになる。だが繰り返しになるが、そのためには富の蓄積を放棄し、分かち合おうとしなければならない。


*素晴らしい展望ですが、まるで夢物語です。もっと具体的な対策があるべきだと思います。

  対策の処方箋を望んでいるとしても、そんなものは存在しない。エゴを放棄して分かち合いで兄弟愛に努めようとする、人間の意志と善意次第だからだ。そうい う協力精神がない限り、すべての努力は水の泡だ。愛に基づく社会変革を実現したいと大多数の人たちが願い、それが根付くように精力的に協力してくれねばな らない。強制によってや、全般的な協調がないならば、何も成し得ないからだ。
  指導者には、霊的に高度の許容力を持つ人たちを選ぶ必要がある。愛に満ち、謙虚で、寛大で、貪欲・強欲・野心を一切持たず、状況を把握していて、公共の 益・社会の正義・富の公平分配を促進する方策を採る用意がある人たちだ。そういう人たちならば、その場その場で、するべきことがわかるであろう。
  大至急すべきことの一つに、高利貸しと投機で成り立つこの経済システムを解体し、利己的な手口が世界に再臨しないように見張って防いでくれる、正義感のある公平な法を制定することがある。したがって、「エゴに突き動かされて、他者に損害を与えてはならない」という戒律は、「公共の益・社会の正義・富の公平分配を促進せよ」で補完されることになる。

 


26 愛の法則から見た十戒 8

2015-02-26 11:32:44 | 魂の法則-愛の法則-

あの「魂の法則」が、
Part2「愛の法則」として、
新たに公開されている・・・!
遅ればせながら、転載を開始する・・・。その26


言うまでもなく、作者はヴィンセント・ギリェム(Vicent Guillem)氏、スペイン人で生化学博士である。

翻訳は、初版本「魂の法則」の訳者でもある小坂真里さん。

訳者のホームページ「魂の法則」に、既に公開されているものを、

敢えて転載する理由は、

一人でも多くの方に触れて頂きたいとの願いからである。

それは作者の願いでもあり、訳者の願いでもある。


そして、

共感する拙ブログの願いでもあるからだ。

既に、初版本「魂の法則」は日本でも公刊されており、

魂の法則
ヴィセント・ギリェム
ナチュラルスピリット

是非とも、手に取ってお読み頂きたい

尚、カテゴリー魂の法則には、23回に亘って連載させて頂いた経緯がある。


でも、

一冊の刊行本は、はるかに読みやすく、

座右の一冊となるだろう・・・。

 

<ヨッキーくんより>

 

 

戒律について、

これ程現状に照らして、

解説した情報はこれまでにないだろう。

言わば、真理のディスクロージャーだ・・・。


全て真理は、適材適所に下される。

それは魂の進化を育むための愛の法則だ。

杓子定規に解釈して、

自らを縛ったりしてはならないものだ。


ましてや、

時の権力の知と意により、

大きく曲げられたという事実には驚かされる。

又、

時の流れは、

魂の進化の足跡でもある。

まだまだ、道半ば、端緒に就いたばかりかもしれないが、

確実に歩んでいるのである。


旧来の陋習に捉われず、目を見開き、

新たな眼差しが常に必要とされる。


【転載開始】

26 愛の法則から見た十戒 8

 
*第六番目の戒律は、「不純な行為をしてはならない」です。

 これも、時代と共に変化してきた戒律だ。カトリックやキリスト教の申命記の訳では、「姦淫してはならない」とある。

*どちらが正しいものなのですか?
 どちらも正しくはない。申命記に記載されているヘブライ語の十戒を見てみれば、この戒の最初の訳は「姦淫してはならない」ではなく、「売春してはならない」であると気づくだろうが、それは「望まない性行為を誰にも強いてはならない」というに等しい。
 取り決めによる結婚も、この戒律の及ぶ範囲だ。伴侶の一方に―通常は女性になるが―望まない性関係を持つことを義務付けるからだ。つまりこの戒は、婚姻関係があろうがなかろうが人に望まない性行為を強いてはならない、という意味である。
 この時代の女性や子どもの権利(特に子どもの)は無に等しく、彼らは、家畜に毛が生えたも同然の扱いを受けていた。
  女性は、特に最下層に属していれば、いたいけな幼少期から商品とされ、奴隷や娼婦として売買されて、お金を払うことができた者たちの低俗な本能をみたす道 具とされた。女性が誘拐されたり強姦されることなど、日常茶飯事だった。戦時には、たびたび戦利品とされて、兵士に強姦されたあげく、娼婦や奴隷にさせら れた。
  取り決め婚も日常的で、家族でさえも自分たちの娘をお金や権力がある人と結婚させることができると、いい取引をしたと思っていた。親の利益のために、少女 が大人や老人と結婚させられたり、男児と女児同士の結婚も頻繁であった。子どもたちがまだ小さい頃や生まれる以前に、親同士の決断で婚姻が取り決められて いたので、結婚の90%以上には、弱い方の伴侶の意志が反映されていなかったと言える。
 権力者や野心家は、より一層の富や権力を貯えるためや領地拡大の手段として、あるいは単なる気紛れから好き勝手な人を性的に所有できるように、婚姻を利用した。一夫多妻は普通のことで、富と権力の象徴であり、良いことと思われていた。
  これほどまでの搾取と屈辱を忍従させられていた、女性や少女たちの苦しみを想像してみてほしい。この戒律は、そのような搾取のすべてに歯止めをかけようと したものだ。それなのに、ここでもまた人間のエゴが、犠牲者を刑吏に、刑吏を犠牲者にすり変えてしまった。なぜなら、すぐに罰せられるのは売春を強いられ た女性たちとなり、売春を担ってこの掟に背いた、娼婦斡旋者、レイプ犯、強引に夫となった者、あるいは娘を売って商売した親などは、お咎めなしとなったの だ。

*この戒律を変えようとした動機は何でしょう? つまり、いつ、どうして、「売春してはならない」が「姦淫してはならない」になったのでしょうか。

 権 力者が堂々とレイプや売春をしていれば、「売春してはならない」という戒律に違反していることが明白になる。政略結婚も一夫多妻制度も、代わりに妻や妾た ちを扶養しなければならなかったものの、権力者にだけ許される人目を欺く売春や強姦の一種であった。実際のところ、この慣習はモーゼが生まれるずっと以前 から、広く行き渡っていたのである。
  モーゼはそのような搾取の実態を知り、大変な憤りを覚えたので、聖なる助言を拠り所にして、その廃止を法令化しようとした。彼の生存中は、最も目にあまる 乱用行為を止めることができたが、彼の死後は、支配者たちが彼らの都合のいいように、この戒律を解釈し始めたのだ。だが、戒律自体を変えてしまう度胸はな かったので、元の意味が曖昧になる新たな法律を発案して、それを付け足した。
  始めに、政略結婚や一夫多妻制や妾を囲うことが神の意に叶うことだというイメージ作りをし、結婚はそれ自体が聖なる制度であるとした。次に、不用となった 妻たちの扶養義務から逃れるために離縁制度を考案し、この戒律自体の解釈を変え、売春していたのだと告発して、離婚を女性のせいにした。
 中には本当に、恋愛感情を抱く別の男性と性関係のある女性もいたが、それは、無理やり権力者の妻にされていたために、公にその人とつき合うことがならず、人目を忍ぶ恋をしていたからである。
 また他の女性たちは、離縁によって社会から完全に閉め出されてしまい、身売りをして生き延びるしか術がなく、虚偽の罪状を現実のものとして認める羽目になってしまったのだった。

 カトリック教会はさらに大胆で、最終的にこの戒律を改ざんしてしまい、配偶者を選ぶ自由は無視して、婚姻制度を最も重要なものとした。のちの時代の権力者たちも、エゴを満たす武器として政略結婚を利用し続けており、それを放棄する気がなかったからである。
  そのために不義密通という概念を導入し、掟の再定義に利用したので、この戒律は「姦淫してはならない」に変わり、婚外交渉を持つ配偶者を罰することが可能 になった。だが、カトリック教の社会もユダヤ教のように男尊女卑が根強いので、実際に姦淫罪で有罪とされたのは女性だけで、男性は咎められることなく依然 として二重生活を送っていた。


*お話にもかかわらず、最も信仰心の篤いとされる社会では、今でも取り決め婚は正常で神が喜ぶと見なされている、一般的な習慣です。これについて話されたいことはありますか?

  取り決め婚は、外見上「潔白」に見せかけているが、実は制度化された蹂躙形態である。この点に関して疑義が生じないように補足をすると、取り決め婚は、自 分が選んでもいない相手と暮らして性関係を持つことを強要されるので、霊的な観点からは、自由意志の甚だしい侵害であり、人の感情を極度に屈折させるもの である。
 しかも、言うことを聞かなければ神の計画に背く不純で汚い人だと思い込まされるなど、脅迫や恐喝の限りを尽くして隷従から逃れられないようにされるので、「神の名を、利己的な目的に使ってはならない」という掟にも違反することになる。

*それでは、不義密通は霊的に見て悪いことなのですか、どうなのですか?

 この件については、パートナーとの関係について話した時に幅広く扱ったが、霊的な次元では、自分の感情に誠実であるか否かが唯一の問題だと言った筈だ。それが、幸せへの鍵であるからだ。
 夫婦にお互いに男女の愛情があれば、自然に忠誠心が湧いてくるものであり、その無理強いはできない。
  世間のしきたりは、ここでは問題でないのだ。無理やり夫婦にされれば、強要された伴侶とセックスすることを嫌悪して、間違いなく大反発するだろうし、自分 で選んだ人と交際して性関係を持ちたいと願うに決まっている。また、自分で決めた関係であっても、愛情がなければ不満を覚え、性欲が減退しセックスを拒否 するかもしれず、別の関係で満たされない思いを埋めようとするだろう。
 このようなケースでは、不義または密通と呼ばれるものは、夫婦間に男女の愛がないことを反映している。そのような夫婦は、我慢しているか、愛のない関係を強いられているかで、家庭の中に見出せない愛を外に求めているのだ。
 ラテン語源学上では、「不義密通」という言葉[adulterio]は、物の品質や純正さを異物を混ぜて変化させてしまうことや、真実を偽ったり改ざんすることを指す「偽造する」という語[adulterar]から派生している。
  これらの意味を知ることで、不義密通という言葉の霊的な定義がわかりやすくなる。不純な関係とは、二人が外見的には愛情があるふりをして一緒になっておき ながら、本当はそうでない場合である。つまり、愛のないカップルの結びつきは、演出された偽りのものであり純粋ではない、ということだ。
 パートナーとの関係が相互の愛の感情と類似性に基づいていれば、霊的な定義においても現世的な意味においても、不義密通は存在しなくなる。愛する者と一緒にいれば、性関係も真に満たされたものとなるので、性欲を満たすために別の関係を求めようとしなくなるからだ。
 だが、これが実現するためには、感情においての自由がなければならない。よって、人間がこのことを理解できるまでに進歩した今日においては、この「売春してはならない」という戒律は、「感情の自由を尊重せよ」に 置き換えられると言っておきたい。別の言い方をすると、すべての人は、誰とカップルになりたいか、またはなりたくないかを、性的な関係を持つことも含め て、自由に選ぶ権利があり、何者もこの権利を侵してはならないということだ。それゆえ、誰も、望まない相手と一緒になることを強要されはしないし、嫌な関 係をずっと続けるように強いられることもない。

*教会で褒め称えられている婚姻非解消主義はどういう位置づけとなりますか?

 前にも言っただろうに。署名入りの結婚契約書の有無にかかわらず、確固とした愛情がある場合には、夫婦の関係は自然に続いていくのだ。継続を強制することは、自由意志の侵害になってしまうので、してはならない。
  婚姻の不解消は神聖な法律ではなく、人間が考案したもので、モーゼもイエスも関係ない。事実、これは、イエスが地上にやって来てから千年以上も経って、導 入された規則である。歴史を復習してみるがいい。キリスト教徒のローマ皇帝が支配していた間はずっと、離婚は合法であった。キリスト教徒の皇帝の時代の民 法では、離婚後に再婚することを認めていたのだ。ローマ帝国が解体して誕生した国家も全部が、離婚を有効としていた。
 キリスト教国家で婚姻非解消主義を推進したのは、法王グレゴリオ9世(在位: 1227‐1241)である。彼は、当時の皇帝や王族と敵対していたために、彼らが頻繁に妻を取り替えているのを見て、法令を出したのだ。

*それでは、離婚しても天の法則に違反することにならないのですか?
 
 もちろんだ。その反対に、自由意志の行使と感情における自由を選択できるので、良いことだ。先にも言ったが、望まない関係を続けるように強要される者は一人もいない。それに霊界は、人間の自由意志や感情の自由の妨害などしやしない。

*離婚が増えているのは、夫婦間の愛情が減ってきているからだと解釈する人がいますが、そうなのでしょうか?

 いや、そうではなく、もっと自由に関係を切れるようになったということで、満たされない関係を終わらせることに、心の咎めを感じなくなったことの反映である。
  以前の方が離婚が少なかったとしても、関係が良好であったからでも、もっと愛があったからでもない。そうではなく、法律で離婚が認められていなかったため か、合法であっても抑圧的な教育を受けたせいで、多くの人たちが、愛がなくてもその関係を継続させねばならないと感じていたからである。

*「売春してはいけない」という戒律の話のついでに、霊的な視点からは売春をどう見ているのか、ご意見いただけますか?

 売春は、感情の発達の成長が乏しいことを反映している。進化した魂ならば、愛のない性関係など理解できない。また、二人の合意がない場合は、なおのこと受け容れがたい。
 売春で性欲を満たそうとする者は、感情が貧しく、愛の感情や感受性よりも本能に支配されている。

*でも売春はどのように法令化すればいいのでしょうか? 合法化すべきでしょうか、禁止するべきでしょうか?
 
 未成年が関係するものは、全部禁止すべきである。斡旋業者も客も―このケースでは小児性愛者になるが―追及されるべきで、未成年者は二度とそのような搾取をされないように保護されなければならない。
  成人の売春に関しては、強制されたものを禁ずるべきである。つまり、売春をする者が、そうするように何らかの方法で、強要されたり圧力をかけられる場合で ある。これは自由意志の侵害となるので、司法は売春を強いた者を追及すべきであるが、強制的に身売りさせられていることを客が知っていた場合は、客も同様 に処罰されるべきである。そして、それ以上の痛手を受けないように、身売りさせられていた者を保護しなくてはならない。
 誰も経済的な理由から売春をせずに済むように、政府も、経済的な糧のない人たちを支えようとすべきである。他の選択肢がなくどうしようもないので、自分や家族の食い扶持を稼ぐための最終手段として売春に訴える者がいるが、そういう売春では、社会そのものが共犯者なのだ。
  しかし、家族を扶養する必要もなく、充分な自己決定能力がある人が、自発的に身体を売ることを自分自身で決意した場合には、それを禁ずることはできない。 このような決断自体が、当人の内面の乏しさを映し出しているとはいえ、その人は自分の意志でそうするのであり、客がそれを強要して犯罪に加担したわけでも ないので、この場合は自由意志の侵害の対象とはならない。
  また、売春を完全に禁止しても、かなり原始的な性本能を満たす需要が多く、自由意志を尊重できない君たちの世界の現状では、それを根絶することはできない とつけ加えておこう。むしろ、その結果、強姦や性的虐待のケースが増えて、売春も秘密裡に行われることだろう。よく考えてみれば、君たちの社会で自ら売春 に従事する人たちは、多くの強姦や性的虐待を防いでくれている。それがなければ力づくで性欲を満たそうとする、進化の遅れた大勢の魂の低級な本能を、自分 から進んで満たしてくれているからだ。
  それゆえ、君たちの世界では、強制的には売春を排除できないだろう。そうすることによってではなく、人類が感性を充分に発達させて、性欲が生物的な本能を 満たすものから、男女の愛の想いを表現するものに変わった時に、売春は自然となくなるだろう。そして、これを達成するためには、人間が感情と性的な面で、 自由を獲得していることが外せない。そうなれば、性的な関係も自然なものになり、それが商売や搾取の目的に使われることもなくなるのだ。

 

 


25 愛の法則から見た十戒 7

2015-02-26 07:33:07 | 魂の法則-愛の法則-

あの「魂の法則」が、
Part2「愛の法則」として、
新たに公開されている・・・!
遅ればせながら、転載を開始する・・・。その25


言うまでもなく、作者はヴィンセント・ギリェム(Vicent Guillem)氏、スペイン人で生化学博士である。

翻訳は、初版本「魂の法則」の訳者でもある小坂真里さん。

訳者のホームページ「魂の法則」に、既に公開されているものを、

敢えて転載する理由は、

一人でも多くの方に触れて頂きたいとの願いからである。

それは作者の願いでもあり、訳者の願いでもある。


そして、

共感する拙ブログの願いでもあるからだ。

既に、初版本「魂の法則」は日本でも公刊されており、

魂の法則
ヴィセント・ギリェム
ナチュラルスピリット

是非とも、手に取ってお読み頂きたい

尚、カテゴリー魂の法則には、23回に亘って連載させて頂いた経緯がある。


でも、

一冊の刊行本は、はるかに読みやすく、

座右の一冊となるだろう・・・。

 

<ヨッキーくんより>


戒律は、

時代の要請に与えられた合理的な、

言わば、

法的教えであると解することが出来る。


例えば、

イスラムで一夫多妻制は、

戦乱のうち続く中東の地で、

寡婦扶養制度と観ることも可能だ。


【転載開始】

25 愛の法則から見た十戒 7

 
*今度は、五番目の戒律である「汝、殺すなかれ」について話しましょう。

 これは、議論の余地がないほど明確だ。この掟は、霊的な世界から授かった時のままの形で保たれてきた。それゆえ、他の解釈はあり得ない。
 「殺すなかれ」は殺すなかれであり、命を奪ってはならないということだ。
  知っての通り、魂は不死なので、幸いなことに人間が何をしようとも、その不死性を絶やすことはできず、せいぜい肉体の生を中断させることができるだけだ。 だが、肉体での生命は、霊界が魂に授けてくれる贈り物の一つである。肉体を持って生きている期間は、霊的な世界で魂が学んだことを実践してみせる場であ り、身体の維持に空気が必要となるように、魂にとっては欠かせないものだ。そのため生き物には、自己の存在を認識できる前から、自分や同族の命を保つプロ グラムとなる、生存本能というものがある。
 命を奪うことは、その人の進化のチャンスを絶ってしまうことであり、霊的視点からは極めて否定的なことだ。それゆえ、この戒律のように簡潔だが基本的なルールを守れない限り、地球人類が心待ちにする、進化の飛躍を遂げる準備が整ったとは見なせない。


*世界のどこを見回しても、殺人を咎めない刑法というのはあり得ないと思いますけど。

 それはそうだが、人間は、死の中でも分け隔てをしているようだ。ある命は他の命よりも重要度が高いらしく、多くの場合において、殺人を合法化している。

*それは、どういう意味ですか?
 
  平和時にある男が何人もの人を殺すと、連続殺人者ということになり、必ず裁判で有罪とされるだろう。だが、同じ男が戦時に敵側の人たちを殺すと、戦争の英 雄となり、政府から勲章を貰うだろう。しかし、この男が敵兵を殺したくないがために軍を離反するとすると、お上に捕らえられて、反逆者の罪を着せられ、処 刑にされるかもしれない。
  ある指導者が、自国の軍隊に敵国を爆弾で攻撃することを命じたとして、それで何千人もの人が死んだとしても、それは職務を遂行したということになり、死者 が軍人であれば「損失」と呼ばれ、市民であれば「付随的損害」と呼ばれる。そして、その国が戦争に勝てば、その指導者は英雄として記憶され、歴史でも名誉 ある記録をされて、街路や学校の名前は、彼の名を戴くことになる。
 また世界の多くの国々には、刑法の中に死刑があり、罪次第では「正義を行う」ためにそれが執り行われている。
  以上の結論を言うと、君たちは「殺すなかれ」という戒律を、不当な契約書の末尾に小さい文字で書かれた「殺すに値しない者を殺すなかれ。しかし殺すに値す る者を殺せば、じょうできだ。」という補足と共に、適用していることになる。そうしておけば、殺されても当然だったという口実を後から探しさえすれば、済 むからだ。人殺しをしたりそれを命じる者は皆、そうしてもいい動機があると思い込んでいるものだ。

*戦争については、どうお考えですか?
  戦争と呼ばれる集団的な殺人や殺戮は、霊的な視点から見れば、最も重い罪の一つである。無数の命が奪われるという理由だけでなく、生き残る者に与える破壊 と苦悩には、計り知れないものがある。それゆえ、戦争を煽ってはならないことも、非常に大切な霊的な助言であると伝えておこう。戦争の最高責任者たちは、 彼らが与えた損害をすべて修復するまでは、永く辛い償いを耐えねばならない。

*でも、たいていの場合、戦争に赴く人は自分がひどいことをしているとは気づかずに、祖国のためとか、自分たちのイデオロギーや宗教的な信仰を守るためなど、いいことをしていると信じ切っていますよ。
 
 それは自分を欺いているか、騙されているのだ。殺人を正当化し得るほどの理念や信仰や祖国など、何一つないからだ。
 したがって、「聖戦」というものは存在しない。そんなものは、人間が作り出したものであり、富や権力への野望を正当化するために神を利用して、狂信によって、他の人たちに仲間を殺しをさせようとするものだ。
 ゆえに、戦争を先導してはならず、戦争に参加してもならない。それを正当化できるものは、何一つとしてないのである。


*死罪についてのご意見も聞いておきたいのですが、死刑は、世界の多くの国で、重い罪を裁く妥当な方法とだと考えられています。

 死刑は、どんな事情があるにせよ、またいかなる理由があろうとも、霊的な観点からは恥ずべきもので、残虐で恐ろしく、身の毛のよだつ、おぞましいものである。
 あろうことか、最も宗教心があり神の信徒だと自認する国々が、犯罪者への罰として死刑を適用するのに一番熱心である。それを我々が、どれほど深く嘆きながら見ていることか。
 裁きの代理人たちが、法に背いた者に死刑を課して、罪人と同じレベルになるならば、どの点で殺人者よりも優れていると言えるのだろうか?
 より残酷な国家では、軽犯罪に対しても死刑が適用される。中には、霊的に見れば罪に値しないものまでが含まれる。たとえば、そこでは愛してもいない男性との結婚を強いられる女性が大多数なのに、夫に不実であると処刑されてしまう。
  一神教を奉じる三大宗教、つまり多数の国の何十億人もの信者が、この「殺すなかれ」が織り込まれた十戒を聖なるものとしている。しかし実際には、どれほど の人たちがこの掟を尊重しているだろうか? 最も信心深いと言っている者が、この掟を一番守っていないように見えるではないか。
  よくあることだが、自分の宗教の儀式や規則をすべて守り、従わない人がいると目くじらを立てる、熱心な信者を自認する者が、実は最も感性に欠け、情け容赦 がないのだ。そういう者は、人の生命や苦悩には全くお構いなく、死刑を擁護したり、自国の子どもを軍役に就かせて戦争によって他国の兄弟たちを殺すように 煽るのだが、自分たちが神に祝福されていると強く確信している。
 神の真の信奉徒でありたい者は、正義の行為に見せかけたこのおぞましい犯罪に、真っ向から反対せねばならない。死刑が正当であると思わせているのは神ではなく、自身のエゴを神の似姿に仕立てあげたい者どもの狂信によって支えられていると知るべきだ。

*人殺しをしたり、誰かや大勢の死に対して責任のある人が死んだ後は、どういう運命が待ち受けるのでしょうか?

 通常、一部の霊たちの間で「奈落」と呼ばれる、下層アストラル次元の特定の場所に拘留される。そして、自分と同じような犯罪を犯した者たちと共に、犯した罪の大小に応じて、かなり長い間そこに留まることになる。
 そのような場所で、犯した犯罪の場面を何度となく再体験させられるが、今度は犠牲者の苦悩をあたかも自分のもののように感じるので、その苦しみは最たるものだ。このような者は、お互いに苦しめ合ったりもするが、復讐に執着する進化の乏しい犠牲者の魂にもさいなまれる。
  犯した罪を自覚し後悔する兆候が見えると、より進化した魂によって「奈落」から救い出されて、救助所に運ばれ、回復の手当てを受ける。その後、自分の罪の 更正のための準備に取りかかるが、それはまず霊界で始まる。一例を挙げると、自分と同じ状況にいる者たちの救出を手がけたりする。そして、機が熟して物理 的な次元に転生すると、罪の償いに捧げる人生を送りながら、それを継続していくのだ。

*自殺について話されることはありますか?

 自殺は自分自身を殺すことに等しく、霊的には魂の成長の機会を無駄にすることになるので、否定的なことだ。それはまた、試験を欠席してしまうのと同じであるが、今回中断してしまったことは、次の転生で、再び立ち向かわねばならなくなるのだ。

*自殺者は霊的な次元で、どういう運命を辿るのですか?

  一般的には、混乱した状態で、繰り返し自分が命を絶った瞬間を思い出し、近親者の悲しみを自分のことのように感じるものだ。再体験を繰り返すうちに、自分 の取った行動がいかに無意味なものであったかを意識するに至る。自覚して後悔し始めた兆しが見えると、彼らには新しい転生が準備される。それほど時間をお かないで生まれ変わることが多く、中断してしまった人生で越えなければならなかった試練と同じものに直面することになる。

*安楽死に関してはどうですか? 治癒の可能性のない病人や末期患者の場合のように、それを擁護できるケースがありますか?

 前にも言ったと思うが、生命とは神聖なもので、死が自然にもたらされる前に中断してはならないものだ。苦しみを避けてあげたいという善意からでも、命を打ち切るという行為は、霊的視点からは良くないことだ。
  苦境にいる人たちの命を全部終わらせてしまったら、誰もこの世にいなくなってしまう、と気づかないかね? 人が直面する状況はすべて、それが遺伝性の病気 であろうと、半身不随であろうと、どれも、その魂を成長させる意味があるのだ。それらは、魂が生まれる前に選んだ試練なのだよ。
 寿命の前に命を中断させても、その人は別の機会に戻ってやり残した課題を終わらせる羽目になるので、全く助けとならない。苦痛を味わっている魂は、時折おじけて、命を断って逃げ出したいと思うことがあるが、安楽死によっては、その状況から抜け出すことはできない。

*でも末期患者の場合なら、安楽死を正当化できませんか?

 死にかけているのなら、死を早めることにどういう意味があるのかい? 自然に死なせてあげなさい。

*おそらく、苦痛を短くしてあげるためでしょう。多くの末期患者が耐え難い痛みを抱えていますから。

 ならば、痛みを緩和してあげなさい。だが、命を途絶えさせてはならない。

*では、永く昏睡状態にある場合はどうですか? その場合には安楽死を弁明できますか?

  いや、その場合でも擁護できない。人が肉体生を終え、この世を去らなければならない時には、霊界から助けが来て、なるべく早く身体から離脱できるようにし てくれる。でも肉体にまだ生命が宿っているのなら、その人生にまだ意味がある、ということだ。なぜなら、寿命が来て魂が肉体を脱ぐ瞬間が訪れたら、君たち が何をしようとも、その人の旅立ちを避けることはできないからだ。

*中絶について話しておかれることはありますか?

  このことについては前作で深く取り上げているので、ここで繰り返すのはやめておこう。犠牲となる胎児の顔を見ることもなく、その苦しみがわからないとして も、妊娠中絶が殺人であることに変わりはない。空襲を命じる者たちは犠牲者の顔を知らないが、それでその罪が軽くなるわけでないのと同じことだ。
 胎児に宿った魂は、拷問されて殺される人と同じくらい苦しむのだ。そんな苦しみを与えずに済めば、自分自身の子どもの死刑執行人となって、苦悩することもない。
 生命を尊重するのだ。生命は、進化のために与えられた非常に貴い天の恵みである。殺人、戦争、死刑、自殺、安楽死、中絶といった、どのような形であろうと、またいかなる理由があろうと、絶対に命を絶ってはならない。そうすれば、自分自身のためにも、他の人のためにも、多くの苦痛を回避できる。

 


24 愛の法則から見た十戒 6

2015-02-25 08:54:41 | 魂の法則-愛の法則-

あの「魂の法則」が、
Part2「愛の法則」として、
新たに公開されている・・・!
遅ればせながら、転載を開始する・・・。その24


言うまでもなく、作者はヴィンセント・ギリェム(Vicent Guillem)氏、スペイン人で生化学博士である。

翻訳は、初版本「魂の法則」の訳者でもある小坂真里さん。

訳者のホームページ「魂の法則」に、既に公開されているものを、

敢えて転載する理由は、

一人でも多くの方に触れて頂きたいとの願いからである。

それは作者の願いでもあり、訳者の願いでもある。


そして、

共感する拙ブログの願いでもあるからだ。

既に、初版本「魂の法則」は日本でも公刊されており、

魂の法則
ヴィセント・ギリェム
ナチュラルスピリット

是非とも、手に取ってお読み頂きたい

尚、カテゴリー魂の法則には、23回に亘って連載させて頂いた経緯がある。


でも、

一冊の刊行本は、はるかに読みやすく、

座右の一冊となるだろう・・・。

 

<ヨッキーくんより>


日本のささやかな愛の法則であろう・・・。

コメント氏からの情報だ。


愛の法則

 

愛の法則の最もシンプルな真実は、

愛する者同士の別れは決してないという事である。


東北大震災の不条理な死別も、

又、報われることがあるという実例である。

情報に多謝!



【転載開始】

24 愛の法則から見た十戒 6

 
*それでは、(教会などで)人のために募金集めをするのもいけませんか?

 困っている人のために助けを請うのは、悪いことどころか、その反対だ。貧困者を支援するという善い目的のためにお金が使われるのであれば、それは霊的に気高い行為である。
  正しくないのは、仕事をしないで済むように、自分のためにお金を貰おうとすることだ。無意味なことや利己的な目的で、お金をせがむのも正当化できない。そ して、それに輪をかけて不当なのは、公正なことを口実としながら、後で利己的な目的にそのお金を使ってしまうことだ。貧困者を救済するために集金しておき ながら、それを株に投資してしまうというようなやり方が、これに当たる。

*でも普通は、募金集めをする人は、立派な志でやっていると思っている筈ですよ。ある人にとっては気高い目的でも、別の人にとっては無意味なことがありますが、それをどうやって見分けるのでしょうか? たとえば、信仰の場の建設や老朽化した教会の修復を崇高なことだと思う人がいても、他の人たちには意味がなかったりします。
 
 崇高な趣旨とは、必要としている者を助けることである。社会格差や理不尽な物事を一掃するのに役に立たず、貧困者のためにならないものには、利己的な意図がある。
 各人が良心を見つめ、人のために募金集めをしてあげる時の自分の動機が何であるのかを内省してみるがよい。そうすれば、自分をつき動かしているものがエゴ的な思いなのかがわかる。他人は欺けても、自分の良心を騙すことはできないからだ。
 カトリック教会は大金持ちであるので、聖堂の改修や新しい教会の建立のために資金を集める必要などない。もっとも、他の人たちに彼らの棲み家の請求書を払わせることができれば、大満足であろうが。

*他にしてはならないことはありますか?
 前に言ったことだよ。霊性を職業にしてはならないということ、つまり、スピリチュアルに関係する活動をして生計を立てようと思ってはならない、ということだ。霊的なことでお金を稼ぐ者は、霊性の助言役としての資格を失い、霊性の商人と成り果てるのだ。
  また、財産や経済的な利益を手に入れるためや、人より有利になるためや優遇されるために、霊性を使うべきではない。そうすれば、組織の資金で維持される、 宗教的な職業(僧職)階層ができてしまうこともない。そのようなものは、教会の信仰や儀式をしきり、組織を維持する方策として加入者を勧誘すること以外 に、何の役目も果たしていない。
 私の話は、今日のピラミッド型の不公平な会社構図を例にとれば、理解しやすくなるだろう。

*宗教への勧誘が悪いことのようにお話されていますが、矛盾が出てきてしまいました。霊性の知識を自分の人生に役立てられて、それを他の人たちにも教えてあげたいと願うことが、いけない行為なのでしょうか?
  先ほどの勧誘とは、相手の自由意志を尊重せずに、何かを説得したり納得させようとすることを指している。私が問題にしているのは、力づくで信徒を獲得した り、操作や強制をしたりする者たちのことだ。あるいは、特定の信仰に加味することを条件に人を助けたり、全く関心のない者を説得したり、自分の概念や信念 を押しつけようとする者たちのことである。このようなことはすべて、相手の自由意志を強要することになる。
 他者を愛するということは、相手が必要としていることを助けてあげるということで、その見返りとして、自分の考えや信仰を共有してもらうことを期待してはならない。霊的な知識を広めようとすることは、悪いことではない。その反対にそれは善いことで、人が成長し幸せになるために求められることでもある。だが、それを相手の意志に反して行ってはならないのだ。要するに、自分が真実を知っていると信じていても、人に強要してしまえば間違いを犯していることになる。
 したがって、自分自身の信念を相手にも信じさせようと躍起になって、無理強いしたりプレッシャーをかけたりしてはならない。誰にも、絶対に、自分の信仰を押しつけてはならない。そうではなく、それを自分自身に適用して、愛の感情を発達させてエゴを一掃することで、もっと幸福になるのだ。自分が実際に手本となって示してあげることが、他の人たちにとっては、一番の学びとなるのだ。

*では、スピリチュアルな援助を求めて人が来る時は、どのような態度で接するべきでしょうか?
  人を助ける時には、自分の信念を受け容れてもらうことや共有してもらうことを引き換え条件としてはならない。心を開いて、彼らが興味を持つことに応じて、 分かち合うべきである。様々な意見が出るのを認め、自分と違う視点を尊重すべきだ。そして、他の人の視点がより的を得たものであれば、聞く耳を持ち、自分 自身のものの見方さえ変えようとしてみるべきだ。
 感情的な問題を解決してくれるように頼まれた時は、自分の意見を言う前に、「君の心はどうしたいの?」とその人に質問してみてごらん。我々は思考と感情とを混同してしまうことが多いが、心の声ほど適切に我々 を導いてくれるものはないからだ。頭に介入するのはエゴなので、そう尋ねることで、心で思うことと頭で考えることとの区別がつくように手助けしてあげられ るのだ。考えが整理できるように、君たちの意見や体験談を話すのはいいが、当人に代わって決断を下したりせずに、それぞれの人生にふさわしいことを自らの 価値判断で決めさせてあげなさい。
  求められる援助の内容と程度は、人によりけりだ。各人のレベルに合わせて、必要とされ、受け取る気があることだけを与えるまでだ。それと同様に、君たちの 能力が及ぶことまでに限られる。君たち自身に、その人の手助けができる準備が整っているかを見てみるのだ。自分がまだ力不足に思えれば、それを認めて、そ の用意がある人に助けてもられるように適役を探しなさい。悪気がなくても、知らないことを助言してしまえば、その人を助ける代わりに混乱させてしまうから だ。
 また助けが必要な人がいても、それを欲しがらなければ、当人の意志を尊重して、アドバイスはしても押しつけないことだ。このような場合には、その人が気を変えるかを、ただ見守るだけしかできない。要は、その人が中に入ってこなくても戸は閉ざさずに、考えを変えた時に一度は断った助けを頼む勇気が出るように、半開きにしておくのだ。


*他につけ加える大事なことがありますか?

  ああ、自分の信念は権威ある者の価値観で決めずに、自分自身を拠り所としなさい。私が言いたいのは、あの人が言うことだからと特定の人の言葉を重視しない で、伝えられるメッセージの質で判断して、自分自身の価値基準で、それを排除するのか受容するのかを決めなさい、ということだ。そうすれば、真の霊的な教 えが、身分の低い人のものであるために過小評価されることもなければ、利己的な内容が、著名人のものであるために持てはやされることもない。
 宗教上の権限は、実のところ、権威者の裁断が正しいものだと信者に思い込ませたこと、つまり、地位が上の者の言うことは下位の者の意見よりも価値があると思わせたことによる。最高司祭だとか大司教だとか呼ばれる法王の言葉は、絶対なる真実となり、霊性に関してはそれ以上の権威を持つ者がいないので、議論の余地もないのである。
 このようにして宗教の権威者たちは、彼らの利益にはなるが人間の霊的進化を阻む、利己的な信念を良しとすることに成功した。一方で、霊的には本物であっても、彼らの利得を損なう概念は非難や中傷をされ、葬られてきたのだ。

*まだ他に、してはならないことがありますか?
 そうだね、他者のために行うことで、人から認められたいとか、有名になりたいとか、賞賛されたいなどと思わないことだ。そうなれば愛ではなく、自分の虚栄心を肥やすだけだからだ。
 

*では、第三の戒律に移りましょう。これは、「祝日を聖なるものとせよ」でした。
 この戒律もまた、改変されてしまっている。申命記の文中では、「土曜日を心に留め、これを聖なる日とせよ。六日間は働いて、すべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」となっていた。
  この戒律の意義は、権力者の搾取に対して労働者の権利を認め、その代償に報いるための休日を与えるものであった。当時は奴隷制が頻繁に見られる時代で、支 配者は、自由人であろうと奴隷であろうと、働き手に休みを与えずに搾り取る傾向にあった。それゆえ、従僕や荷積みの動物までを含めた全員に、休む権利があ ると明記する必要があった。それは、すべての搾取に歯止めをかけようとするものだったのだ。つまり、「少なくとも週に一日は休日として、仕事を休むためにとっておきなさい」と言おうとしていた。
 教会もまた、この戒律を自分たちの都合のいいように改変するのに、ささやかながら手を貸した。初めは休日を尊重するものだったのに、彼らの都合に合わせて、イエスや聖母や聖人たちを祭る儀式を重視するものに変えてしまったのだ。
 つまり、これも、コンスタンティヌス帝以前のローマ帝国の風習を模倣したものであったのだ。聖ヨセフの祝日や聖ヨハネの祝日といった聖人のお祭りやクリスマスでさえ、それぞれが春分の日、夏至、冬至と重なっているが、それは、以前の異教の祭日をキリスト教のお祝いに再編したからなのだ。

*第四番目の戒律である「あなたの父と母を敬え」を見てみたいと思いますが、これについてはどういうご意見ですか?
  これは、老人を保護するのが目的だった。その時代の社会制度には、高齢者を守るための社会保障制度も、年金もなかったのだよ。当時の統治機関は、困窮者や 弱者を守ることなど一切しなかったし、老人を保護しようともしなかった。したがって、老人たちに残された唯一の選択肢は、家族、つまり子どもたちに頼ることであった。子どもたちは大人になると、もう自分たちではやっていけなくなった年寄りを扶養したのだ。
 しかし、この戒律もそ の意味合いにおいて、やはり改ざんされている。というのは、両親を敬い世話をするといった肯定的なことを、親の意に従うのが子どもの義務であることにして しまったのだ。この掟を盾に取り、子どもたちに対する所有権を得た親の多くは、心おきなく横暴に振舞い、彼らを隷属させた。虐待や侮辱、操縦によって、ほ んのいたいけな幼少期から子どもたちの自由意志を侵害して、勝手に結婚相手を決めて不幸な人生に縛り付けるなど、彼らの意を曲げ、その人生をコントロール したり支配したのだ。しかも、それが神聖なる権利だと思い込んでいた。
 よって、宗教色が濃い社会においては、親は子の人生に関して、より一層支配的になっていった。だから子どもが大人になって、しがらみを断ち切るほど強くなると、親のことなど知りたくもないという事態になる場合が多いのも、驚くに値しない。
 その時になると、親たちは「こんなにも色々尽くしてあげたのに、なんて仕打ちだ」と言いながら、子どもらに見捨てられたと嘆くのだが、実際には、自分の蒔いた悪い種を取り入れているに過ぎない。
 それゆえ私は、「父や母を敬う」だけでなく、人を理解し尊敬して慈しむ心は、家族すべてに、つまり、祖父母や、父母や、兄弟や子どもや孫たちにまでも、行き渡らねばならないと言うのだ。その中でも特に子どもたちは一番弱い存在なので、大事にしてあげなければいけない。
 小さな子どもたちは、最も傷つきやすく無防備な存在なので、より一層の理解と愛情と尊敬をもって、扱ってあげなければならない。子どもは絶対にたたいたり、辱めてはならない。以前にも子どもに対する愛情については取り上げたと思うが、それはとても大切なことだからだ。
 したがって、この戒律に関しては、次のようにより広範な意味で解釈することだ。君たちの人生を取り巻くすべての人たち、特に最も傷つきやすい者である子どもたちに対して、慈愛、尊重、理解を示しなさい。

 


23 愛の法則から見た十戒 5

2015-02-24 12:52:11 | 魂の法則-愛の法則-

あの「魂の法則」が、
Part2「愛の法則」として、
新たに公開されている・・・!
遅ればせながら、転載を開始する・・・。その23


言うまでもなく、作者はヴィンセント・ギリェム(Vicent Guillem)氏、スペイン人で生化学博士である。

翻訳は、初版本「魂の法則」の訳者でもある小坂真里さん。

訳者のホームページ「魂の法則」に、既に公開されているものを、

敢えて転載する理由は、

一人でも多くの方に触れて頂きたいとの願いからである。

それは作者の願いでもあり、訳者の願いでもある。


そして、

共感する拙ブログの願いでもあるからだ。

既に、初版本「魂の法則」は日本でも公刊されており、

魂の法則
ヴィセント・ギリェム
ナチュラルスピリット

是非とも、手に取ってお読み頂きたい

尚、カテゴリー魂の法則には、23回に亘って連載させて頂いた経緯がある。


でも、

一冊の刊行本は、はるかに読みやすく、

座右の一冊となるだろう・・・。

 

<ヨッキーくんより>


ここまで読み進めて来た方で、

我が意を得たり、

と感ずる方も少なくないのではなかろうかと思う。


人間の霊性は、等しく天賦のものである。

その目覚めの高低は差があるとしても、

内在するものは等しい。

発露するには縁が必要であるから、

生まれた環境と地域により、

宗教に別があろうが、

その目指すものは一つであろう。


そこに人間の知と意が加わり、

差異が強調されているとしたら、

それに翻弄される必要はない。

多くの宗教は些細な差異を強調して対立する。

ISIS(イスラム国)等は、

その典型であるが、

その動機は、ほとんど政治的陰謀である。


そんなものに一喜一憂する必要は全くない。

何処とは言わないが、

宗派性に捉われる必要などないのである。

真実と真理に軸を置いて、

天賦の霊性に生きることが、

普遍の道であると納得した次第である



【転載開始】

23 愛の法則から見た十戒 5

 
*霊的な観点から見ると、霊性を職業化するのは正しくない、と言われるのですか?

  その通り、正しいことではない。君の言うところの霊性を職業化したことによって、宗教や聖職者が存続することになったのだ。聖職者たちは、霊的な仕事らし きもの(儀式や崇拝に時間を割くことは霊的に無駄なことなので、実際には仕事とも呼べないが)をすることで世俗的な仕事を免れて、自分たちで稼げないお金 を信者や信徒から貰って食べていく必要があると人びとに思い込ませ、彼ら自身もその気になってしまった。
  繰り返すが、霊的な仕事に専念できるように実際的な仕事を免除されることがあるなど、誰も信じてはならない。


*カトリック教会は、イエスやその使徒たちの例を見習ってそうしなければならない、と理屈をつけることでしょう。

  一体どのような手本があるというのだ? イエスは大工の息子であり、一緒に住んでいる間は、父親の仕事場で働いていた。多忙な使命に取り組むと大工をする時間がなくなったのは事実だが、霊的なことで一度きりともお金を取ったことはないし、養ってほしいと頼んだこともない。
  彼の使徒たちも、そんなことはしたことがない。各々が持っている物を提供し、家族や職業上の義務を投げ出した者はおらず、世俗的な仕事と霊性とを両立させ ていた。注目すべきは、使徒の中に一人としてユダヤ教の司祭がいなかったことだ。当時働いていなかったのは、ユダヤ教の聖職者だけだったのだ。
  使徒たちは生存中、教会を組織することも、聖職者を名のることも、扶養してほしいと人に頼んだことも、一度もなかった。ただ質素に暮らし、持っている物を分かち合っていた。
  イエスと使徒たちがユダヤ教の僧侶たちにそれほど睨まれたのは、彼らの宣教によって、ユダヤの聖職階層に最も収入をもたらす商売であった、動物の生贄のために寺院に行く人の数が随分減ってしまったからだ。


*この場合はカトリックのことですが、教会は何を間違って、創始者たちが行ったことや宣教したこととは裏腹に、ユダヤ教会と同じように成り果ててしまったのでしょうか? 

  すでに話してあるが、イエスもその使徒たちも、教会など一つとして設立していないし、そうする意図もなかった。そのような機関を創り上げたのは、先駆者たちが伝えてくれたメッセージを悪用した、後からやって来た者たちである。
  君もまるで教会に独自の命があるかのような質問の仕方をするが、それを見ても、君たちが宗教機関というものをいかに重要視しているのかが伺える。実際に は、教会というものは存在していないのだ。教会独自の意志も良心も存在しないのだから。それゆえ、教会が善を成すこともなければ、悪を成すこともない。そ れは、ただ、特定の人間によって組織され、運営されている構造上の枠組みに過ぎない。内部の人びとは時代と共に移り変わるが、幸いなことに人の一生は短い ので、せいぜい何十年かしか権力にはしがみついていられない。
  だから、違う質問をしたらどうか。人間はどうして、霊的な成長に役立てるために授けられた真の霊性のメッセージを、それと正反対のもの、つまり、自分が隷 属させられるドグマに変えてしまったのだろうかと、質問してみたらどうか。そのような教義は、人に自己の意志と自由を放棄させ、搾取や狂信、格差を増長し ている。
  教会は、自己のエゴに流されてしまった者たちによって企てられ、組織され、歴史において存続してきた。実のところ、それは、霊性を求める人びとの潮流に よって手放さざるを得なくなった指揮権を力づくで奪い返して、以前の抑圧形態を再度導入したものに過ぎず、徐々にコントロールに成功したのだ。


*霊性を求める人びとの潮流によって手放さざるを得なくなった指揮権を力づくで奪い返して、以前の抑圧形態を再度導入したものに過ぎない、とはどういう意味ですか?

  つまり、イエスの死後、継承者たちがその教えをあらゆる場所で普及させることに尽力したので、イエスの無条件の愛のメッセージは急激な広がりを見せた。そ のうちに、その無条件の愛のメッセージに賛同する人びとの数も、飛躍的に増えていった。イエスの教えは、人間同士の平等や兄弟愛を訴えていたので、それに よって自分たちのやり口がバレてしまうと思った時の権力者たちは脅威を感じ、幾人ものローマ皇帝が大規模な迫害を行った。しかし大虐殺にもかかわらず、キ リスト教徒と呼ばれることになった人たちの数は、止まることなく増え続けた。そこで、この流れを外圧で撲滅するのが不可能だと見た権力者たちは、内部に浸 入することで舵取りをして、進路を変えてやろうと決意したのだ。
  この新しい戦略で最も際立つものの中に、コンスタンティヌス帝の治世のものがある。彼は自らキリスト教に改宗したとして、ローマ帝国全体の強制的な改宗を 布告したのである。しかし、これによって、すでに時の経過と共に作り変えられていたキリスト教は、それ以後は、より一層改変されてしまった。もう貧困者や 奴隷の信仰であってはならず、富と権力と相容れるものである必要があったが、そうではなかったので、丸ごと改造されてしまったのである。
  このように、我々は、再び人類の諸悪の根源に行き着くことになる。一番の問題は、人間の利己心なのである。道徳の権威者だと自称したこれらの者は、そうい う利己的な魂であり、教会を維持して強大にするのが大事だと人びとに思わせ、神が喜ぶからと、そのために命を捧げたり他者の命を奪うことを奨励したのだ。 だがそれは、霊性の面で進化の乏しい人びとの無知、怖れ、狂信だけに支えられる大嘘である。
  本当のことを知りなさい。君たちが教会と呼ぶ枠組みは、神にとっても霊的世界にとっても、何の意味もなさない。霊界にとって大切なのは、霊的な生命を有す るものだけなのだ。一言で言えば、神にとって意義があるのは人間であり、教会ではない。それゆえ、宗教的または霊的な組織を拡大しようと努めて、人生を無 駄にしてはならない。またそこに富を貯えたり、信者の数を増やそうとしてはならない。これらのことは、霊的な視点からは無意味な努力であり、君たちの進化 にとっても全く役に立たない。
 それよりも、自分たちの心の中のエゴを根絶して、愛の感情を発達させるように努めなさい。それだけが唯一、奮闘する甲斐のあることで、霊的な進化の階段を昇らせてくれるものだ。

*けれど、そうならないように回避できたであろう特定のエゴがありますか? つまり、具体的にはどのような事柄が、教会のような機関を創るのに貢献してしまったエゴ的な行為と見なせるのでしょうか?
 
  一番の問題は、イエスが宣教した霊的な教えを基盤として、教会や宗教を創り上げてしまったということだ。先にも言った通り、イエスはいかなる教会も創ろう としたことなどない。そうではなく、ただ人類に、ごく単純な次のメッセージを伝えようとしたのだ。「愛の感情を育み、エゴを排除しなさい。これは、一人ひ とりの仕事であり、物理的な組織の設立を一切必要としない」

*将来、同じことを繰り返さないで済むように、アドバイスをください。
 
 いかなる旗印の下にも結束しないこと。なぜなら人間というものは、すぐに自分のグループの者とそうでない者とを分け隔てして、仲間を優先し、他の者を差別する傾向にある。信仰や政治に関してであろうと、愛国心であろうとである。これが集団的なエゴの姿なのだ。
 霊的な真相を知れば、そのお陰で、人類は皆兄弟であると気づけるようになる。人それぞれにレッテルを貼るのは違いを生み出すだけで、時が経つと、争いや不和の口実として利用されてしまう。


*どういう意味かわかりません。

 人間はお互いの違いを見出すために信仰を利用してきたので、宗教のために対立してきたし、今でも仲間を殺しあって敵対する羽目になっているということだ。
  実のところ、これまでになかった組み合わせは残っていないほどだ。つまり、ユダヤ教徒対イスラム教徒、キリスト教徒対イスラム教徒、キリスト教徒対ユダヤ 教徒といった始末だ。しかも、キリスト教徒の中では、カトリック対プロテスタントとなり、同じイスラムでも、シーア派対スンニ派となる。
 不思議なことに、これらの宗教はどれも同一の神を信じており、アブラハムを始祖とし、モーゼを、民に与える戒律を神から授かった預言者だとしている。
  社会から離れることを試みたり、世間から孤立した共同体を創るのはやめなさい。むしろ、その反対のことをするように。世の中が少しずつ「魂の法則」-特に 愛の法則―と調和したものとなるように、社会を変えようと努めるのだ。すべての人には、自由で幸福になる権利があるので、誰からもこの権利を奪ってはなら ない。世間から離れて閉ざされた共同体を創れば、他の人たちは、君たちが成し遂げた成果の恩恵にあずかれなくなってしまう。


*でも俗世間と交われば、協調した行動がとれなくなり、霊的な悪習に染まる危険を冒しはしませんか? 初期キリスト教徒も、またそれ以前にはエッセネ派の人たちも、他の人たちから離れたコミュ二ティーに集まりませんでしたか?

  初期キリスト教徒やエッセネ派の者たちがその時代の町から離れた場所に隠れたのは、度重なる迫害から身を守るためであり、社会から遠ざかりたいわけではな かった。同じ理念を追う人たちの協力を求めるのは何も悪いことではないが、それを口実にして他の人たちと距離を置いてはならないし、同じ考えや信仰を共有 しない者を排除するのもよくない。
 自分の信念をしっかりと持っている者は、他の人の信念にそう簡単になびくことはない。引きずられるとするなら、それはそれほど確固たるものではなかったということだ。
 また、自分と違った信仰や文化を知ることも、決して悪くはない。そうすることによって人間的な幅が広がり、自分自身の考えや信念を形成する上で、さらに多くの情報が得られるからだ。
 カトリックの信仰者は、カトリック教国に生まれたからそうなっただけだ。また、イスラム教徒の者はイスラム教の国に生まれついたからであり、自分の信仰を自由に選べだわけではない。他に選択肢がなかったのだ。

*ですが、物理的な機関を何も創れないとなると、隣人愛のメッセージと矛盾することになりませんか? 教育や医療の現場や困窮者の保護施設などの、物的な支援をするプロジェクトの実現を妨げることになりませんか?
 
  我々がここで問題視する機関の創設とは、それ自体の存続を図ることを主目的とした物質主義的な機関のことで、それを設立することで、権力と富とを肥やそう とするもののことだ。富と権力は、利己的な願望を叶えてくれる特権的な地位を狙う、欲望と野心に満ちた者を引き付け、現状を一層ひどくしてしまうのだ。
 寄る辺ない人たちを助けたいのであれば保護センターを創ればいいし、病人を看護したいのであれば病院を創ればよく、子どもたちを教育したいのであれば学校を創ればよいのだ。
  大切なのは、単に儀式を執り行ったり聖遺物を貯える機関ではなく、相互扶助に役立つものにすることだ。そうでなければ、人びとの助けとなるべく設立された 筈なのに、当初の機能を果たせなくなってしまう。君たちは、あまり利用されていない既存の機関を活用して、社会的な機能を持たせることができるし、まだな ければ新しいものを創り上げることで、ここでのアドバイスを実行できる。
  私が批判しているのは、物的な手段を利用することではない。それらは正しく使用すれば、公正で気高い理念である、公共の福利に役立てることができる。そう ではなく、これと正反対のこと―つまり、エゴ的な利益を満たすこと―をしようとして、物的な手段を悪用することを非難しているのだ。私欲は、多くの貧しき 者の犠牲の上に成り立つ、少数の富める者を生み出す社会格差の元凶となる。