飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

『終わりの日の預言』の周辺情報!!⑱

2008-05-17 09:08:24 | 預言

『終わりの日の預言』の周辺情報!!⑱

シムトラの よい知らせ!! Ⅸ

<今、一日一日と神の裁きの時が迫っています。>

<写真は記事に無関係>

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 全く同感である。一言の差し挟む余地はない。それぞれ、異論反論はあるであろう。それはそれで結構である。しかし、それは人間の意見であって、創られた側の意見であるとしたら、それまでである。その前に、素直に耳を傾けたいものである。

 所詮は、創られ、生かされていることに間違いはない。それをどう否定しようにもしようがない。明日、無常の風が一吹きすれば、誰も彼も、身一つはおろか、全ての栄耀栄華、財産、自由に出来ることなく、黄泉の世界に入ることは間違いない。その時、どうあがいても遅いのである。その時は、無に帰すると信念の人も、そうではないと信じる人も、ただ一人対応しなければならない。

 そうでなく、生まれてきたときと同様に、見守られ迎えられ、育てられてきたことを思い出せば、無常の風が一陣吹いたとき、創り主に見守られ、迎えられ、歩むべき魂の新たな行く末を示されるとしたら、何という幸せなことであろう。それは間違いない。

 ならば、幼子のごとく素直に、来し方を反省し、真実が示されたならば、従うという姿勢が近道である。

【転載開始】今、一日一日と神の裁きの時が迫っています。

どうして神は裁かれるのでしょう。一体何を神は裁かれるのでしょう。誰が「裁く」と言っているのでしょう。それは、この世の全てをお造りになった神御自身が「裁く」と言っておられます。

何故神は御自分の造られたものをお裁きになるのか・・・。それは人間が万物の造り主であられる真の神に対し、背き、悪に悪を重ねているからで、その悪を行っている悪しき者たち、また悪しき時代が神によって裁かれ終わるのです。
そして、その後、真の信仰が花開き、真の神の国が到来するのです。

神の言われる悪い行いとはいったい何でしょう。
今世の中で起こっている様々な犯罪でしょうか。勿論それは当然悪いことです。でも、神の言われる最も悪い行いとは、人間の作ったものを崇拝し、それにひれ 伏すこと、また、真の神以外のものをあたかも救い主のごとく依り頼むこと、自ら傲り高ぶり神を畏れ敬わないことです。それは、真の神に対しての「不信仰」 そのものです。

そういう人々が、今現在は人の目には裕福でとても幸せそうに見えるかもしれない。でも、神が裁かれる日、どうあろうとしてはならないことをしていたら決して救われることはないのです。

人 は自分の命さえ、自分でどうすることもできません。まして、その人間に作られ、自分で動くこともできないものに人を救うことができるでしょうか。私たちの 魂を贖い、救うことができるのは、唯一絶対の存在である神のみです。そして、人間が作ったものの中に神はおられないのです、絶対に。

 それがしてはいけないことだと知らず、真の神を知ることもできず、ただただ救われたくて神以外のものに必死にすがっている人もきっとたくさんいることでしょう。

では、救われたかったらどうすればよいのか。答えは一つです。

自 分の力、あるいは人間の力で生きているような大きな勘違いはやめ(神が私たちを消し去るおつもりなら、一瞬にして消え去ってしまいます)、人間の作ったも のを崇拝するのをやめ(像は勿論ですが、財産、学歴、名誉なども同じことです)、ただただ神を畏れ敬い、慕い求め、神に従うことです。

「お腹がすいてペコペコだよ。お願い、パンをちょうだい。」と言っている我が子に親が石をあたえるでしょうか。神と私たちも同じことです。

人間は栄華のうちにとどまることはできず、死ぬ時は何一つ携えて行くことができず、名誉がその人の後を追って墓に下るわけでもありません。人がどんなに財宝を貯えたとしても、それを他の人に遺さねばなりません。人はいったい何を信じ、何に依り頼むか・・・。

また、人は自分の罪故に罰せられます。子が親の罪を負うことはなく、親が子の罪を負うことはないのです。すなわち、親がどんなに神に逆らおうと、子がどんなに神に逆らおうと、その人自身が罪から離れ神に従うならば、神は決して拒むことなく必ず受け入れてくださいます。

神は何故、これほどまでに神の御目に悪とされることを行う人間をすぐにでも滅ぼし尽くさないのでしょう。

まだ時が満ちていないということもありますが、それは、神が私たち全ての造り主であり、一人でも多く神に気付き、神のもとへ立ち帰ってほしいと願っておられるからにほかなりません。それほどまでに私たち人間は神に愛されているのです。

では、まだ神に気付いていない人々がそれほどまでに神に愛されているならば、神に従った人はどうなるのでしょう。

た とえ世の中がどのようになろうと、どうすればよいか行くべき道を神は必ず教えてくださり、また、神に逆らう者たちが、神に従う私たちを滅ぼそうといかに戦 略を練ろうとも、神がその敵を撃って滅ぼしてくださるのです。そして、たとえ山々が揺らぎ海の中に移り、海の水が騒ぎ沸き返りその高ぶるさまに山々が震え るとも、必ず必ず神が守ってくださるので何も恐れることはないのです。

一体人間の作ったどんなものにそのようなことができるでしょうか。 

神は全知全能であり、御旨の成就を人間が妨げることなど決してできないのです。

神の御前に、私たちは良いことも悪いことも心の奥にしまったどんな小さなことさえも、隠すことなどできません。「どうせ誰も見ているはずがない。自分の繕った心の中までわかるはずがない。」・・・いいえとんでもない、神は何もかも全て御存知です。

 本当に裁きの時は迫っています。今こそ自らの悪しき行いを捨て、神に真の救いを願い、依り頼む時です。

 神に従って初めてそれまで自分を縛っていた様々のものから開放され、そのままでは決して知れ得なかった喜び、楽しみに満ち溢れることができるのです。

裁きの日の後、何一つ欠けることのない真の信仰が花開いた本当の神の国が到来します。

あなたも「真の神の国」に生きたい、そう思いませんか?【転載 続く】


『終わりの日の預言』の周辺情報!!⑰

2008-05-16 07:38:26 | 預言

『終わりの日の預言』の周辺情報!!⑰

シムトラの よい知らせ!! Ⅷ

<神の呼び声>

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<写真は記事に無関係>

 これをどう捉えるか。それはまさに自由意思である。自由と言うことは、まさしくこう言うときに、使うべきである。それは自己責任に委ねられているからである。何故か、各個性を尊重すれば、自ずとそうなる。
 何でもかんでも自由奔放と言うことは、本当の自由ではない。悪魔のささやきである。考えてみれば分かる。生まれ落ちて、この方、自由などあり得ない。自由にどうぞと言うことであれば、とっくに死んでいる。親の献身に従ってこそ、現在がある。自然と社会の規律に従ってこそ現在がある。その上に、自己責任による、選択の自由が許されているにすぎない。
 それが、主のもとに許された自由というものである。創られたものは、創り主のもとに従順でなくては、存在し得ない。総じて、自由というものは、許されていると言うことの別名であると考えるべきである。

 いま、人類は選択の自由を迫られている。正しい選択とは何か。生の選択か、滅びの選択かである。

【転載開始】

神の呼び声

何故神はこの国に警告されたのでしょう。

それは、神御自らが御自分の民としてくださった民の子孫がいるからです。

その民の先祖達は、愚かにも神に背き、神がしてはいけないと言われていたことを行い神から離れてしまいました。

神が罪から離れ立ち帰るよう言われても、その行いを悔い改めることがありませんでした。

そのために民は強国に捕囚され、時の移り変りの中で世界中に離散してしまいました。それは、神が前もって言われていたことが実現したのです。

そして、年月が経つにつれ、この国の偶像崇拝や武力闘争の歴史の中で、神の教えは変質していき、子孫に神のことを語り継ぐことさえもなくなりました。

神は、ありとあらゆる全てをお造りになりました。私たちは、神が造られた世界にいながら、しかも私たちも神が造ってくださったにもかかわらず、神から遠く離れ、神ではなく人間の都合で決められたことに従っています。

今も神に背き続けているのです。罪を犯し続けているのです。

現代において、何が神に背いていることなのか、何が罪なのかさえ分からない有様です。

民が離散してしまってから人間にとっては長い長い月が過ぎました。しかし、どれだけの年月が過ぎようと、全てを造られた神は何一つとして変わらず存在し、今も私たちに生きて働かれるのです。

神が定められた「終わりの時」を目前に、神は離散してしまったその子孫達に罪から離れ神のもとへ立ち帰るよう呼びかけておられます。【転載続く】


『終わりの日の預言』の周辺情報!!⑯

2008-05-15 09:25:46 | 預言

『終わりの日の預言』の周辺情報!!⑯

シムトラの よい知らせ!! Ⅶ

<神の願い>

 多くを語らない。読めばわかる。然り、然りである。

Sky_006<写真は記事と無関係>

 

 真理は、単純である。愛は、複雑でない。複雑は歪められた結果生ずる。歪めるのは人間であって、愛ではない。愛は奔流である。歪められた愛が憎しみである。言わば、奔流に逆らう渦、淀み、無駄な抵抗である。やがて、必ず、奔流に飲み込まれてしまう運命にある。

 無駄な抵抗をやめにして、素直に身を任せるしかないのが、本来の人間の姿ではないだろうか。それを問うている。それ以外に、平安はない。

【転載開始】<神の願い><o:p> </o:p>

 赤ちゃんが「オギャー!」と生まれ出た時、父母として誰かを認識しているわけではありません。ただ、最も身近にいて、自分の世話をしてくれるから、頼ってくるのです。<o:p></o:p>

 逆に、親はその子がお腹にいた時から知っています。<o:p></o:p>

 その子が自分たちのことを「お父さん」「お母さん」と認識してくれた瞬間は、どんなに嬉しいでしょう。<o:p></o:p>

 神は、私たちの造り主です。私たちの真の親です。<o:p></o:p>

 神は、私たちが神に気付いていなくても、私たちのことを全てご存知です。そして、私たちが神に、造り主に気付くことを待っておられるのです。神が共にいてくださることこそが、私たちの力であり、安らぎであり、満ち足りであり、真の幸福だからです。<o:p></o:p>

 神は私たちが気付くよう、きっとどれほどのチャンスを与えて下さっているかわかりません。それでも、ほとんどの人が神に気付けないでいるのです。<o:p></o:p>

 私もそうでした。ずっと気付けないでいました。でも、思い返すと、あれもこれも神だった・・・。<o:p> </o:p>

 私は、神が何故私たちが無条件に神の道を選ぶように造られなかったのか、不思議でした。当然神にはそれがお出来になりました。でも、そうは造らなかった。なぜなら、それではただのロボットにすぎず、人としてなんら成長がなく、もろく弱いからです。<o:p></o:p>

 人が自分で進むべき神の道を選択し、鍛錬され、強く育つのです。<o:p></o:p>

 神は、その人が選択する全ての可能性をご存知で、どの道を選んだらどうなるということ全てを見通されておられるのです。何を選択するのか、神の道を選択するか否かは、その人自身の責任です。<o:p> </o:p>

 自分の子供が正しく育つことを願わない親はいないでしょう。また、自分の子供が喜びでない親はいないでしょう。<o:p></o:p>

 神は、一人一人が正しく育つことを願っておられるのです。

 神よ、あなたは私を顧みてくださいました。
 あなたこそ、エル・ロイ(わたしを顧みられる神)です。


『終わりの日の預言』の周辺情報!!⑮

2008-05-12 21:35:29 | 預言

『終わりの日の預言』の周辺情報!!⑮

シムトラの よい知らせ!! Ⅵ

<ルツ記を読みなさい>

 具体的なことは分からないが、祭司ことシムトラと主との預言を通じての対話が、自然と生き生きとして伝わってくる。いける神とは、まさしくそういうことなのであろう。神は語らず、応え給わずということは、神がいないのと言うことではなく、神を求める側に問題がある。と、言うことなのであろう。2061493_1190114413_85391169txpjct3d

 その意味で、預言のこの箇所は重要な意味がある。

 ともすれば、我々はご都合的に神を求め、ご都合的な応えを求めていることに気がつくことが肝腎である。それ以前に、応えを与えられていることが多い。しかし、それに気づくことがない。そういうことなのであろう。それは分かる。

 信仰とは、どこまでも素であり、直くあらねばならない。ということを教えられる。翻って、今の時代、千客万来、居士多才あれども、その素直さを美徳とする者は少ない。そこが問題である。いや、それが人間の進化というモノであるなどと言う声が聞こえる気がするが、その人間が何によって創られ、何によって進化をしたかの根底を誤ると大変である。

 人間が、神になる。そのようなことは人間の奢りであり、諸悪の根源である。そのように考える輩が、敢えて言えばサタンであり、サタンによって誘導される者達ををサタニストと呼び、サタニズムを蔓延せしめている。これが現代の加速度的に進行する世界混乱の基である。

 結局、自然を含む世界を神に代わって、支配しようとするドグマに犯されてしまっているのが現況の世情である。その意味で、この預言は真の信仰を呼び戻すきっかけとなるにちがいない。


【転載開始】
<ルツ記を読みなさい>

平成14年12月、やっと私は何か月ぶりかで「願い望み」を神に献げました。

その時、私が願ったのは夫のことでした。

夫が、魂で神を呼び求めてくれるように、そのように時が満ちるようにと願いました。私が神に願い望みを献げたのは、大祭司から指導をいただいたからです。

 私たちの願い望みに対して、神がどのような御業を示されるのか教えていただかなければ、私たちはその御業をただの偶然だと思い、気がつかないかもしれません。

預言者を通して御言葉をいただき、大祭司を通してその御言葉を私たちに伝えてもらわなければ、私たちは神の御言葉を知ることはできないのです。

主なる神は、私たちの目には見えなくても確かに存在しておられるのに、人は信じるために、すぐ目に見えるものを欲しがります。神殿や祭壇は、神のためでなく、私たちのためにあるのです。

 神から初めて御言葉をいただいてから2年以上が過ぎ、やっと私はそのことを理解したのです。

平成14年12月29日、私に対して御言葉がありました。

「あなたが神を呼べば、敵(あなたの敵であれ、夫の敵であれ、あなたの子の敵であれ、神の敵であれ)は必ず退き、神はあなたの味方だとあなたは悟るだろう。神の言葉を(御言葉=預言)を讃美せよ。主の言葉(御言葉=預言)を讃美せよ。今、あなたは『ルツ記』を読みなさい。あなたたちは何が正しいかを見分け、何が善いかを識別しようとする。しかし、人間がそれを見分け、それを識別できるだろうか。あなたの願い望みに先立って(あなたが今回のような願い望みをもつようになる前に)、あなたが神を呼べば、敵は必ず退き、神はあなたの味方だとあなたは悟るだろう。神の言葉(御言葉=預言)を讃美せよ。主の言葉(御言葉=預言)を讃美せよ。今、あなたは『ルツ記』を読みなさい。」

私は、ただその通り「ルツ記」を読みました。

「神を呼ぶ」とは、私たちが書き記した願い望みを祭壇に献げ、その願い望みに対して預言者を通して御言葉をいただき、大祭司がその御言葉を解釈して、私たちに答えてくださるということだったのです。

 主なる神が預言者を通して与えてくださる御言葉を、正しく解釈することができるのは、今は大祭司だけなのです。

平成15年1月16日、私はルツのように生きるにはどうしたらよいのか、どのように旅を進めたらよいのか教えてくださるように、主なる神に願い望みを献げました。また、私は、今までまだ一人の人の願い望みも集めることができないでいます。私は、そのままを神に献げました。そして、何があってもゆるがない確信をもってしっかりと歩みたいと、主なる神に願い望みを献げました。その祈りを献げ、しばらくしてから、私はようやく「献げもの」とは「告白」であったことに気付くのです。

平成15年2月2日、主なる神から御言葉がありました。

「わたしの祭司よ、わたしが教える。これはどういう意味か、答えるがよい。『マナセは十二歳でユダヤの王となり、五十五年間エルサレムで王位にあった。その日、礼物と初物と十分の一の供出物を蓄える収納庫の監督が任命された。こうしてそこに、律法が定めているように、祭司とレビの生活の糧を、町々の耕地から徴収して納めた。実にユダの人々は、祭司とレビ人の働きを喜んでいた。祭司とレビ人は神への務めと清めの務めを守り、詠唱者と門衛はダビデとその子ソロモンの定めによく従った。ダビデとアサフがいた昔の時代のように、詠唱者の頭がいて、神への讃美と感謝の歌をつかさどった。ゼルバベルの時代とネヘミヤの時代のイスラエルの民は皆、毎日、詠唱者と門衛に生活の糧を提供した。また、レビ人には奉納物を与え、レビ人はその奉納物をアロンの子らに分け与えた。その日、モーセの書が民に読み聞かされ、アンモン人とモアブ人は神の会衆に永久に加われないと記されているのが分かった。かつて彼らは、パンと水をもってイスラエル人を迎えず、バラムを雇(やと)ってイスラエル人を呪わせようとしたからである。わたしたちの神は、その呪いを祝福に変えてくださった。人々はこの教えを聞くと、混血の者を皆、イスラエルから切り離した。(しかしルツはどうだったか。よく考えてみなさい。)これに先立って、トビヤに縁のある祭司エルヤシブは、神殿の祭司室を任されていた。』」

平成15年2月4日、私は、この御言葉についてこう答えました。

祭司の務めをきちんと果たすなら、食べることに困ることはない。また、たとえ神の会衆に加われないと記されてあっても、心から神を求め従うならば神はその人を受け入れてくださる。そして、女性としての私のあり方が、これからの息子に大きく影響する、と。

ルツは、彼女のすべてをかけて神に従い、自分のなすべきことをどんな状況下においても果たしていました。私は、いつも状況に振り回され、その状況がよくなることを神に願うばかり・・・。神は、私が清くなるように、雪のように白くなるように洗うとまで言ってくださっているのに・・・。

私は「私のすべきことは、神を伝えること」と思い、へいせい15年2月20日、「これを伝えたい」と自分勝手に思い込み、神に献げたのでした。

平成15年2月25日、私の願い望みに対して、神は教えてくださいました。

「いかに幸いなことか、矢筒をこの矢(わたしの言葉)で満たす人は。町の門で敵と論争する時も恥をこうむることはない。」と。また、「あなたはわたしの祭司ではないか。あなたはわたしが『せよ』と言うことを、せよ。わたしが『伝えよ』と言うことを、伝えよ。それがわたしの祭司ではないか。」と言ってくださいました。預言者や神の使者たちがしていることについても、「彼らが伝えているのは『わたしの言葉』であり、彼らはわたしが伝えよと言った、わたしの言葉を伝えているのだ。」また「香油は病む人を癒すために伝えるのではなかったのか。」と教えてくださいました。

さらに、こう言ってくださったのです。

「わたしの使者が、主の聖所を訪れたあなたのもとに来て、『神は我々をあなたのもとに遣わし、あなたをイエスの花嫁、すなわち祭司として迎えたいと言っています。』と告げた。あなたは立ち上がり、地に伏して礼をし、『私はご主人様の僕たちの足を洗う足を洗うはしためになります』と答え、すぐに立ち、急いでわたしの使者の後に従った。あなたは主の花嫁、すなわち祭司となった。」

「あなたの願い望みは間違っている。正しく、わたしに求めよ。そうすれば、わたしはあなたに『これをせよ』『これを伝えよ』と言おう。献げ物は、その時、受ける。」

本当に本当に私以上に神は私のことをご存知です。

平成15年3月2日、御言葉がありました。

「わたしがあなたを偶像崇拝の地から導き出した時、その最中にあなたの地(
神奈川区)の長が、わたしの僕らに反旗を翻してその支配から脱し、自分たちの王を立てた。それゆえ、わたしの言葉は火と燃えて天の軍を率いて彼らがわたしの聖所にのぼって来た時に、夜襲のように彼らに襲い掛かり、彼らとその長たちを打ち破った。しかし、その民は自分の家に逃げ帰った。こうしてあなたの地の長はわたしの僕らに反旗を翻してその支配から脱し、今日に至っている。その頃、同時に関東にいた別の長が反旗を翻した。

 あなたはその者たちと、その者が住む地に、わたしの言葉を伝えるがよい。

平成15年3月9日、私の願い望みに対しての御言葉がありました。

「あなたの嘆きがわたしの前に届いた。わたしの腕の力にふさわしく、あなたと共に住む『死に定められている人々』を生き長らえさせよう。主なるわたしは、近隣の民のふところに、わたしを辱めた彼らの辱めを、七倍にして返そう。あなたたちはわたしの民、わたしに養われる羊の群れ。とこしえに、歓喜してわたしの道を歩み、代々に、あなたの主なる神の栄誉を語り伝えよ。床につくときにもわたしに語りかけ、わたしへの祈りを口ずさんで夜を過ごしなさい。わたしは必ずあなたを助けよう。わたしのふところの中であなたは喜び歌う。あなたの魂がわたしに付き従うならば、わたしは右の手であなたを支える。あなたの命を奪おうとする者は必ず滅ぼされ、陰府の深みに追いやられる。剣にかかり、山犬の餌食となる。わたしによって、あなたたちは喜び祝い、誓いを立てた者は誇るようになる。偽って語る口は必ず閉ざされる。あなたはこう伝えなさい。『わたしは、神が全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。罪の数々がわたしを圧倒しましたが、神に背いたわたしたちを、神は贖ってくださいます。いかに幸いなことでしょう、神に選ばれ、近づけられ、神の庭に宿る人は。恵みの溢れる神の家、聖なる神殿によって、わたしたちが満ち足りています。わたしたちの救いの神、神の恐るべき御業が、わたしたちへのふさわしい答えです。遠い国、地の果てに至るまで、すべてのものが神に依り頼みます。御力をもって山々を固く据え、雄々しさを身に帯びておられる方。 大海のどよめき、波のどよめき、諸国の民の騒ぎを静める方。お与えになる多くのしるしを見て、地の果てに住む民は畏れ敬い、朝とゆうべの出で立つ所には、喜びの歌が響きます。神は、眠りから覚めた人のように、酔いから覚めた勇士のように奮い立ち、御自ら油を注がれた人の敵を撃って退かせ、とこしえに嘲られるものとされました。』」

 神は私に、人々に伝えるべきことを教えてくださいました。

平成15年3月10日にも御言葉がありました。

「わたしの祭司よ、あなたに、わたしへの願い望み方を教えよう。あなたがいま、わたしに願い望むべきことは、こうである。『主よ、呼び求めるわたしの声を聞き、憐れんで、わたしに答えてください。心よ、主はおまえに言われる“わたしの顔を尋ね求めよ”と。主よ、私は御顔を尋ね求めます。御顔を隠すことなく、怒ることなく、わたしを退けないでください。あなたはわたしの助け。救いの神よ、わたしを離れないでください、見捨てないで下さい。父母はわたしを見捨てようとも、主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。主よ、あなたの道を示し、平らな道に、導いてください。わたしを陥れようとする者がいるのです。』」

『神に御言葉を願い望みなさい』

そういうことだったのです。そして「告白」からすべては始まることもやっとわかりました。

 私は、偶像崇拝していた自分を、神が御心に留めてくださったのだと思っていましたが、そうではありませんでした。

平成15年4月16日の御言葉。

「私は偶像崇拝していたあなたを心に留めたのではない。サタンは理由もなくあなたを偶像によって破滅させようとしたが、あなたはどこまでも無垢であったので、あなたの唇の叫び(祈り)はわたしの耳に届いた。

あなたの叫びを聞き、あなたをサタンの唆しから救い出すだめに、あなたに心を留め、あなたを救い出した。あなたと、あなたの子は、わたしの霊によって新しく生まれた。」

私は、「そうだったのか、そうだったんだ」と思いました。

私が神を選んだのではなく、神の一方的な憐れみによって私を導き出してくださったことをはっきりと知りました。また私は、息子も神によって新しく生まれるのだということも知りました。人は、神に「命」の息吹を吹き込んで頂いて初めて、真に「生きる者」となることができるのです。ただ、この時の理解はまだ漠然としたものでした。

<平成15年の過越祭と七週祭>

 私は、平成15年4月20日、過越祭の祭礼を祝うために、夫に頼んで主の神殿に行かせてもらいました。その過越の前から、私の信仰の軌跡、そして与えてくださった神の慈しみを記し始めました。神が私に、それを記すようにと言ってくださったのでした。

一つ一つをよく思い出し記すことが、私自身のためでもあり、世に伝えるためでもあったのです。

 平成15年6月、主の神殿で七週祭がありました。私は、主の聖所で三大祭礼(過越祭、七週祭、仮庵祭)が執り行われるようになってから、まだ一度も七週祭に参詣したことがありませんでした。なぜなら、過越祭から七週祭までの期間が短く、夫に、「また大阪まで行かせて欲しい」と頼みづらかったからです。自分勝手な都合からでした。

 私は、夫にあらためて「1年に3回、主の神殿に行かせて欲しい」と頼みました。夫は、何も言わず承知してくれました。

神が、ちゃんと計らってくださっていました。また、「主の神殿」に行くことをいつも承知してくれる夫に、感謝を忘れてはならないと思いました。私はこの時から優先順位が逆転したのです。


平成15年8月17日、私は神がこれからも色々なことを私に教えてくださるように、また御言葉に聞き従っていくことができるようにと、主なる神に願い望みを献げました。

 平成15年8月18日、まだ主の神殿に私の願い望みが届いていないのに、神は私に、「『エレミヤ書17章19節』を読むように伝えなさい」と御言葉をくださいました。この願い望みを主なる神に献げる少し前、あいかわらず安息日がよくわからない私に大祭司は、「聖書をよく読んで、答えをみつけるように」と言ってくださいました。それでも私はまだ、なぜ「安息日に荷物の出し入れをしてはいけない」と神が言われるのか、わからずにいました。そのことを具体的に教えてくださるように願い望みを献げてはいませんでした。自分でもっと捜さなければいけないと思っていました。

でも、神は私が今何を一番教えていただきたいと思っているか、よく御存知だったのです。

私は、すぐに『エレミヤ書』を読みました。

 平成15年8月18日13時50分、祭司である私に伝えよと言われた御言葉。

「祭司であるあなたは天の御使いたちが見守る中で、その書(エレミヤ書)を開いた。彼女が書を開くと天の御使いたちは皆、立ち上がった。」

 私は、そういう状況の中で読んだなんて夢にも思いませんでした。でも以前、神は私に「御使いをつかわす」と言ってくださっていました。魂が潤うって、こういうことなんだなぁ・・・そう思いました。そもそも、神は、神の憐れみのゆえに、私が安息日を守れるようにしてくださっているのです。世の中の状況では、安息日に色々なことがあります。でも、それを思い煩うのではなく、どうやったら守ることができるか知恵を求めればいい、神の言われることを守るのに、人の顔色を気にしてビクビクすることはない、やっとそう思えるようになりました。以前から神は、「たとえ敵に包囲されても、必ずそこから救い出す」と、私に言ってくださっているのですから。神が与えてくださった安息日は、私たちの喜びなのです。本当に、今まで何一つとして神の言われたことが実現しないことなどないのです。「御使いをつかわす」と言ってくださったことも「わたしがあなたに教える」と言ってくださったことも。

平成16年2月4日、主なる神は、預言者を通して私にこう言われました。「わたしがいったん定めたなら、だれも翻すことはできない。わたしは望むままに行う。あなたのために定めたことを実行し、ほかに多くのことも定めている。あなたのことも、あなたの夫のことも、あなたの子や子孫のことも、あなたの父のことも」

これから先、神が私に一体どんなことを定めてくださっているのか、私にはわかりません。でも、それは必ず神が私の喜びとして定めてくださっていることと確信しています。
なぜなら、神は私に子供を授けてくださり、神は私を偶像崇拝の中から救い出してくださり(そのまま偶像崇拝を続けていたら大変なことになっていた)、私はこうして神を知ることができたのですから、

 この年の仮庵祭のあとから、私は個人としてではなく、祭司として新月祭のお祈りを神にお尋ねしながら献げさせていただくようになりました。

神は、本当に忍耐強く一つ一つ丁寧に教えてくださいます。
私は、いつも「これからも私に教えてくださるように。そして、いつも素直に神に従う私であるように。」と神に祈っていました。

 平成18年(2006年)2月10日昼、私に御言葉がありました。

「『主なる神は生きておられる。』ことを、もしあなたが告知し始めなかったら、追う者たちが『夜明けのとき』までその兄弟を追い続けたことだろう。」

 平成18年9月、私は新年祭と仮庵祭を祝うため、息子と神殿に参詣しました。
その少し前から、私のなかにモヤモヤとした疑問がありましたが、それをまだ口にしたことはありませんでした。
でも、神は本当に何もかも全て御存知で、預言者に「シムラトが来たらイザヤ書の56章6節~7節を教えるように」と言ってくださっていました。そこにはこうありました。

 主のもとに集って来た異邦人が、主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく私の契約を固く守るなら、わたしは彼らを聖なる私の山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。

神は「わたしが教える」と私に言ってくださった。
その御言葉通り、神は私に惜しみなく教え、育て導き続けてくださっています。
神のくださる御言葉は、何一つとして虚しいものはなく、何一として成就しないものはありません。【転載続く】


『終わりの日の預言』の周辺情報!!⑬

2008-05-10 18:34:21 | 預言

『終わりの日の預言』の周辺情報!!⑬

シムトラの よい知らせ!! Ⅳ

<幕屋再建>

⑬と⑭を取り違えました。前後しましたが、お詫びします。m(_ _)m 訂正の上、掲載しました。

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 引き続き、内容については解釈は控える。ありのままにお読みいただき、それぞれの感想があってもよいと思う。

 幕屋、初歩的な神殿であろうが、と言うより集会所的なモノであろう。本来の教会は、そうしたモノであったと思う。それで十分である。大切なのは、人々の纏(まつ)わる所だからだ。祭りは、纏(まつ)わる事からきた言葉で、人々が集まり共に主をを想うことは重要で、一人でするより魔に惑わされることが少ない。祭壇は、いずれにしてもあって然るべきである。モニュメントとして必要性もあるが、演壇みたいなモノである。主の演壇、祭司の演壇として必要であろう。

 原始キリスト教時代(イエスの立志時代)、イエスは路上で、丘で、あるいは人家で説教した。その後、教会が登場した。しかし、それは単なる集会所程度のモノであった。十字架も像もなかった。今のような教会が出来たのは、遙かに後世であろう。今ではキリスト教と言えば、十字架となっているが、これは甚だおかしいと想ってきた。

 イエスは磔になったのは、ほぼ事実であろう。その時十字架であったかそうでなかったのか、定かではないが、師と仰ぐイエスをその磔の姿のままで仰ぎ見ることが適当であるのかどうか、違和感を覚える。もし、親が死んだとしたら、その思い出に病院でベッドに括りつけられた写真なり、絵なりを肖像化するであろうか。肖像化するとしたら、元気で溌剌とした親の写真を選ぶはずである。

 十字架は、意図された 偶像である。罪の贖いが、十字架によって為されたという陋習がそこから生まれた。罪の贖いは、主を通して為される。人は誰しも主を内在している。内在した主が生わすのに、何故に偶像が必要であろうか。偶像は、他力依存心の発現であり、魔のそそのかしである。

【転載開始】
<幕屋再建>

平成13年5月14日、ある祭司と私に対して御言葉がありました。

「彼女は言った。『あなたの作ったものに取っ手がない』などと。

 災いだ、なぜ子供をもうけるのか、と父親に言い、なぜ生みの苦しみをするのか、と女に問う者は。

 主の民の聖なる神、その造り主、主はこう言われる。あなたたちはしるしを求めるのか。わたしの子ら、わたしの手の業について、わたしに命ずるのか。大地を造り、その上に人間を創造したのはわたし。自分の手で天を広げ、その万象を指揮するもの。

 わたしは正義によって彼を奮い立たせ、その行く道をすべてまっすぐにする。彼はわたしの都を再建し、わたしの捕(と)らわれ人を釈放し、報酬も賄賂(わいろ)も求めない。主なる神は言われた。

 主はこう言われる。覚王院門の産物、その商品があなたのもとに送り込まれ、あなたのものになる。彼らは鎖につながれて送り込まれ、あなたに従う。彼らはあなたにひれ伏し、あなたに願って言う。『神は確かにあなたのうちにいます。ほかにはおられない。他の神々はむなしい。まことにあなたはご自分を隠される神、主の民の神よ、あなたはイエスの救いを与えられる。』と。偶像を造る者は辱めの中を行き、皆共に恥を受け、辱められる。

 主の民は主によって救われる。それはとこしえに続く救い、あなたたちは世々とこしえに、恥を受けることも、辱められることもない。神である方、天を創造し、地を形づくり、創り上げて、固く据えられた方、混沌として創造されたのではなく、人の住む所として形づくられた方、主はこう言われる。わたしが主、ほかにはいない。わたしは隠れた所で、地の闇のところで、語ったことはない。主の民に向かって、混沌の中にわたしを求めよ、と言ったことはない。わたしは主。正義を語り、公平を告知する者。

 国々から逃れてきた者は集まって、共に近づいて来るがよい。偶像が木にすぎないことも知らずに担ぎ、救う力のない神に祈る者。意見を交わし、それを述べ、示せ。だれがこの事を昔から知らせ、以前から述べていたかを。それは主であるわたしではないか。わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神は、わたしのほかにはない。地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、世界審判の日に、救いを得よ。わたしは神、他にはいない。

 わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は決して取り消されない。わたしの前に、すべての膝はかがみ、すべての舌は誓いを立て、恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。主に対して怒りをもやした者はことごとく、主に服し、恥を受ける。主の民はすべて、主によって、正しい者とされて誇る。

 竜はかがみ込み、倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ、おまえたちの担いでいたものは重荷となって、疲れた動物に負わされる。彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず、彼ら自身も捕らわれて行く。わたしに聞け、二人の祭司よ、共に。あなたたちは覚王院門を出た時からわたしに負われ、わたしの胎である『主の聖所』で担われてきた。

 同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」

 私は「神は、なんでこんな私にここまで言ってくださるんだろう」と、この上なく嬉しいと同時に、神にこれだけ言って頂けることに傲慢にならず、もっともっと謙虚にならないといけない、と自分に言い聞かせました。そして、神が私を育ててくださっているということをあらためて知りました。

 神は、私ともう一人の祭司に幕屋を再建する事をお命じになりました。私は、喜んでそのお手伝いをさせて頂きました。主の聖所は、大阪府天王寺区生玉前町に再建されました。

 主なる神は、私を祭司としてくださいました。

私は、この少し後くらいから、「夫が会社を止めて、私と二人で生活の糧を得ることはできないものか」と考えていましたが、結局はもがいただけでした。
平成13年9月3日、「自分が願い望んだから『今』があるのに、先のことを考え不安になってしまいました。どうか、真っ直ぐに神の道を見て歩き、本来神が造ってくださった姿に戻ることができるように、そして、神に従い続ける心を与えてくださるように、神から離れることがありませんように」と主なる神に願い望みを献げました。

 平成13年9月6日、主なる神はこういわれました。

「わたしは秘儀ではなくまことを望み、秘術を排して知恵を悟らせた。わたしはあなたの罪を払った。あなたが清くなるように、あなたを洗おう。雪よりも白くなるように。それによって喜び祝う声を聞かせよう。それによって砕かれたその魂が喜び躍るように。」

私が「こんなこと神に言っていただくなんて、なんてなんて幸せ者なんだろう」と心から喜んだのは、言うまでもありません。

<平成13年の仮庵祭> 

平成13年秋、再建された主の聖所で、はじめての祭礼の準備が始まりました。

 私はこの頃「神は私を何のために造られたのか。私には何ができるのか。」といつも思っていました。神は、最初から私にはっきり言っておられたのに、です。

平成13年10月、夫に頼んで、主の聖所の仮庵祭に参詣させてもらいました。

その時、私は「私たちが神によってしか生かされない存在であることを忘れることがないように、もし、神から離れそうになった時は、その力強い御手で引き戻してくださるように、私たちが自分中心ではなく、神の御言葉を素直に聞き、どんな時もきちんと受け止め、神に喜んでいただける生活を送ることができますように」と、主なる神に願い望みを献げました。

平成13年10月11日、仮庵祭に際して、主なる神はこう言われていました。

「預言者は祭司を大祭司、二人の祭司の組に分けた。

多くの者には恵まれなかったので、一つの家系として登録された。

大祭司は、祭司らと共に選び分けられ、神聖なる者をとこしえに聖別し、主の御前で香をたき、主に仕え、主の御名によってとこしえに祝福する者である。預言者は神の人であり、彼らはレビの部族(レビテス)という名を受けた。王が二人。レビ人が二人。

 誰が気付くであろうか。いかに幸いなことか、主を畏れ、主の道に歩む人は。」

平成13年11月7日、贖罪日を終えて、主なる神は主の民にこう告げられました。

「財宝の多いことを喜びとし、財宝の力こそを強大だと思ったことは、決してないか。

 ひそかに心を迷わせたことは、決してないか。

 全能者と言い争う者よ、いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか。むなしさを愛し、偽りを求めるのか。

 主の慈しみに生きる人を主は見分けて、呼び求める声を聞いてくださると知れ。

 おののいて罪を離れよ。

 ふさわしい献げものをささげて、主により頼め。

 いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪あるものの道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。

 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のする事はすべて、繁栄をもたらす。

神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。

神に逆らう者は裁きに堪えず、罪あるものは神に従う人の集いに堪えない。

神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。

彼を苦しめた者の子らは、彼のもとに来て、身をかがめ、彼を卑しめた者も皆、彼の足元にひれ伏し、主の僕、主の民の聖なる神の僕と、彼を呼ぶ。

かつて彼は捨てられ、憎まれ、通り過ぎる者もなかったが、今わたしは彼をとこしえの誇り、代々の楽しみとする。

 あなたたちは国々の乳に養われ、王たちを養う乳に養われる。こうしてあなたたちは知るようになる、主なるわたしはあなたたちを救い、あなたたちを贖う者、主の民の力ある者であることを。

 わたしは青銅の代わりに金を、鉄の代わりに銀をもたらし、木の代わりに青銅を、石の代わりに鉄をもたらす。わたしがあなたに与える命令をなせ。あなたを支配するのは恵みの業。

 赦しはわたしのもとにある、わたしの民であるならばあなたはわたしを畏れ敬え。

 あなたたちはわたしに望みをおき、あなたたちの魂は望みをおき、わたしの言葉を待ち望むがよい。」

私は、自分でどうしたらいいかよくわかりませんでしたが、どんな時もどんなことも祭司としてふさわしい口と心を持って行動することができるようにと願っていました。この時はまだ、どうしたらいいかわからないのなら神に尋ねればよいことを、わかっていました。

でも、もし神に尋ねて「こうせよ」と御言葉をいただいても、たとえそれがどんなことであったにしてもその通りにしていく自信がなかったので、尋ねることができませんでした。「本当は、神の言われるとおりにすれば、たとえその時に自分がどう思おうとそれが最良の道である」ということを大祭司や預言者を見て知っていたのに、「神からどんな答えをいただくのか恐い」と思っている自分がいました。

けれど「神から離れたくない」という私の思いも、自分の中では確かなものでした。

平成13年11月11日、私は「私を含め、主の民が主なる神のみを畏れ敬い、神にのみ望みをおき、御言葉を待ち望むことができるように、そして、神の言われるとおりにしていくことが当たり前にできるように」と、主なる神に願い望みを献げました。

神からどんな御言葉を頂いてもその通りにする自信がないのに、御言葉を待ち望むというのも、矛盾していることでした。でも、だからこそ、神の言われるとおりにしていくことを当たり前にできる自分になりたいと願っていました。

平成13年12月20日頃から主の聖所では『宮潔め祭(ハヌカ)』が執り行われていました。

平成13年12月30日、主なる神はこう言われました。

「あなたの手が労して得たものはすべて、あなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことか、いかに恵まれていることか。

 あなたは妻として家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。食卓を囲む子は、オリーブの若木。

 見よ、主を畏れるあなたはこのように祝福される。

 主の聖所から、わたしはあなたを祝福している。命のある限り主の聖所を見、多くの幸せを見るように。

 あなたは家系のために心に言うがよい、『わたしが若い時から、あなたたちはわたしを苦しめ続けたが、わたしを圧倒できなかった。主なる神がわたしを耕し、この家には授からないはずの子を、わたしのために授けてくださった。私の行く道を長く作ってくださった。あなたたちの先祖は、主なる神に感謝しなければなりません。』」

私は、この御言葉を頂いた時、涙が止まらず、顔がぐちゃぐちゃになったのを今でもよく覚えています。

「神は、ずっとずっと私を導いていてくださった。なにもかも、やっぱりご存知だった」と、子供がずっとできなかったときのこと、子供ができてからのこと、いろいろなことで胸がいっぱいでした。

その時から、ただ単純に「神が私に子供を授けてくださった」と思っていました。でも、神の言われた「子供を授けた」ということの意味は、そういうことではないということが、この時はまだわかりませんでした。

平成14年1月16日、私は、「どんな時も神以外のことに惑わされず、心をしっかりと神に向け、どんな時も神とイエス様を見失わずいられますように、また、どんな時も自分が祭司であることを忘れず、きちんと役割を果たしていくことができるように」と、主なる神に願い望みを献げました。

平成14年2月6日、大祭司、祭司、総督への御言葉がありました。

「わたし(イエス)はあなた方を選び、愛する主の民の誇りとした。神は歓呼の中を上られる、主は角笛の響きと共に上られる。歌え、神に向かって歌え。歌え、我らの王に向かって歌え。神は、全地の王、ほめ歌を歌って、告げ知らせよ。神は諸国の上に王として君臨される。神は聖なる王座に着いておられる。諸国の中から自由な人々が集められ、わたしの父なる神の民となる。地の盾となる人々は神のもの。神は大いにあがめられる。更に祭司は詠唱者として歌い、監督が神殿建築の総督となれ。その日、あなた方は大いなる献げものをささげ、喜び祝え。神は大いなる喜びをお与えになるであろう。主の聖所の喜びの声は遠くまで響くであろう。

総督は立ち上がって、主の神殿建築を再開せよ。神の預言者もあなたがたと共にいて助けるであろう。」

平成14年2月22日、主なる神は言われました。

「悪を行う者はすべて憎まれる。わたしは偽って語る者を滅ぼし、罪を犯す者、欺く者をいとう。しかしあなたは、深い慈しみを得て、わたしの家に入ることができる。聖なる宮に向かってひれ伏し、わたしを畏れ敬うことができる。わたしの恵みの業のうちにあなたを導き、わたしの道を歩ませよう。心配することはない。」

神は、いつも私が願い望む前に、私が何を願い望むかをすべてご存知です。私は、こうして慈しみの御言葉を頂けば頂くほど優等生になろうとしている自分に気付きませんでした。

神は一度も私に優等生でいることを求めたことなどありません。それなのに、勝手に自分で「そうあらねば」と思うようになっていました。

私は、私たちの魂が本当に満たされ、本当に生きることができるように、どうしたらいいのかよくわからないけど、喜びの歌を歌い、神を讃美していくことができるように、言葉ではなく自分自身で神を伝えることができるように、イエス様が私たちを愛してくださったように私も少しでも心から人を愛することができるようにと祈っていました。

 平成13年2月23日、総督についての御言葉がありました。この御言葉通り、総督は「主の神殿」の基を大阪府校外の羽曳野に建立することを決意され、聖所もそこに移る事になりました。【転載終了】

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