飄(つむじ風)

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『終わりの日の預言』の周辺情報!!⑭

2008-05-09 21:24:04 | 預言

『終わりの日の預言』の周辺情報!!⑭

シムトラの よい知らせ!! Ⅴ

<平成14年の過越祭(息子と共に)>

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 言うまでもないことであるが、ここでも多くを語る必要はない。読めば、おのおの感ずるままに何かを得ることが出来よう。信仰とは、信じ、仰ぐと書いてある。その信仰に生きる姿とは何かをかいま見ることが出来るであろう。

 投稿者は信者ではないので、その信仰に生きることを共有してはいないが、信仰の姿を見、共感することは出来る。第三者として共感することは出来る。そういうものであろうと共感できる。

 聖書を読み、この預言を読むことによって、主なる神が確かに存在するという確信は強くなった。それは、万軍の主であろうから、全てのものを創りたもうた方であろうから、その言葉は絶対であろうことは当然である。そうすると、それに直くあることは信仰者の姿である。それをとやかく言うのは、信仰者でない者の態度であって、それはその者の選択であり、自由であるが信仰者の言説に何ら影響しない。静かに去る以外にない。

 しかし、反逆は別である。反逆は主の怒りを受けずにはいられない。それは当然のことである。反逆する意図も理由もない。そう思う。それは、この福音にそれを見いだすことが出来ないからである。善意であって、第三者であってそう思う。

 信仰者よ、雄々しくあれと、言いたい。

 
【転載開始】

<平成14年の過越祭(息子と共に)>

 平成14年の過越祭は、ちょうど息子が春休みの時でした。私は夫に「息子を聖所に連れて行きたい」と頼みました。夫は、快く了解してくれました。

 平成14年4月1日から2日にかけて、私は息子と一緒に過越祭のため主の神殿の基に参詣する事ができました。主の神殿の基は建設途中でした。その時息子は、神殿の基の造営のほんの少しですが、お手伝いをさせていただく事ができました。
私 は、息子が楽しみながら、喜んでお手伝いさせて頂いているのを見て、とてもうれしく、本当に一緒に来ることができてよかった、この子がどういう道を歩むか 私にはわからないけれど、神と共に歩むことを選んで欲しいと思いました。それには、私がしっかりしなきゃ、とも思いました。

平 成14年4月12日、私は息子と神殿に行かせてくださったことを主なる神に感謝すると共に、主なる神が与えてくださる『命のパン』を食べ、本当に生きるこ とができるように、そして、深い慈しみの中に生かされていることを喜び歌い感謝していくことができるようにと、主なる神に願い望みを献げました。また、安 息日のことでたくさんのことをお願いしました。<o:p></o:p>

平成14年4月12日~14日、主の神殿の任命者に次の御言葉がありました。

「預言者が、神への感謝と讃美をつかさどる。あなたたちは皆、毎日、預言者と大祭司を通して生活の糧を蓄える。また、主の神殿の新たな任命者には聖所に献げられた奉納のぶどう酒が分け与えられる。<o:p></o:p>

 わたしは、行って所有せよとあなたたちに約束した土地に、あなたたちを導き入れた。<o:p></o:p>

あなたたちはその地に入り、これを所有した。<o:p></o:p>

 あなたたちは堅固な町々、肥沃な土地を得、すべての良きものに満ちた家、貯水池、ぶどう畑、オリーブと果樹の園を、数多く手に入れよ。主の神殿に集まる者は、食べて飽き、太り、大きな恵みを受け、満足して暮らすだろう。<o:p></o:p>

そうして人々が皆、十分の一の穀物と新しいぶどう酒を貯蔵室に持ってくるようにしなさい。私は大祭司に貯蔵室の管理を命じる。大祭司はわたしの言葉に忠実に、それを行うであろう。<o:p></o:p>

 大祭司は、かつて裁判官に預言者の保釈金を収めるために、主の民の中の有力者に各人できるだけのものを出させた。裁判官はこの地にとどまらずに引き上げた。<o:p></o:p>

 大祭司の他の事跡、その行ったすべてのことは、『幻の解釈』とわたしの言葉に記されている。大祭司は任務を果たし、ある者が代わって王となった。<o:p></o:p>

 奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、主の神殿の聖所よ。汚れた者が、その中に攻め込むことはない。<o:p></o:p>

 立ち上がって塵を払え、わが民よ。首の縄目を解け、わが民、カナンのシオンよ。<o:p></o:p>

 わたしはこう言う。初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。わたしの民はただ同然で奪い去られ、支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている。<o:p></o:p>

 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。私が選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。<o:p></o:p>

主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人は、いかに幸いなことか。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて繁栄をもたらす。<o:p></o:p>

 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。<o:p></o:p>

 神に逆らう者は裁きに堪えず、罪ある者は神に身を寄せる事ができない。」<o:p></o:p>

 平成14年5月14日、私は「与えてくださる命ある限り、自分の分別や判断に惑わされる事なく、ただひたすらに神の言われるとおりにしていくことができますように」と主なる神に願い望みを献げました。<o:p></o:p>

ちょうど七週祭が始まろうとしていました。<o:p></o:p>

平成14年7月4日、私に御言葉がありました。<o:p></o:p>

「主なるわたしは高くいても、低くされている者を見ている。遠くにいても傲慢な者を知っている。<o:p></o:p>

 あなたたちが苦難の中を歩いている時にも、敵の怒りに遭っているときにも、あなたに命を得させよう。わたしの御使いを遣わす。<o:p></o:p>

 主なるわたしはあなたのために、すべてを成し遂げよう。主なるわたしの慈しみと、手の業を、放さないようにせよ。
 災いのとき、神はあなたたちの避けどころ、あなたたちの砦。苦難の時、必ずそこにいて助けるのはわたし。
<o:p></o:p>

 あなたたちは決して恐れるな、地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも。<o:p></o:p>

 大河とその流れは、神の都に喜びを与える、いと高き神のいます聖所に。<o:p></o:p>

宿営で預言者をねたみ、主の聖なる人・大祭司をねたんだ者たちは、地が口を開けて彼らと彼女らを呑み込み、彼らと彼女らの仲間を覆うであろう。<o:p></o:p>

預言者は主なるわたしの声を聞いた。<o:p></o:p>

『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』<o:p></o:p>

任命者たちは言った。<o:p></o:p>

『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。』」<o:p></o:p>

私はこの御言葉を頂いて、なんとしても神の慈しみと手の業を放してはならないと思いました。



<ダニエルの祈り><o:p></o:p>

平成14年7月4日、主の民への御言葉がありました。<o:p></o:p>

「力が強いからといって、頼りにし、仕事を任せることができるか。<o:p></o:p>

野牛が穀物をもたらし、実りを集めてくれると期待するのか。<o:p></o:p>

ダチョウは勢いよく羽ばたくが、こうのとりのような羽毛を持っているだろうか。<o:p></o:p>

ダチョウは卵を地面に置き去りにし、砂の上で暖まるにまかせ、獣の足がこれを踏みつけ、野の獣が踏みにじることも忘れている。」<o:p></o:p>

神 は、人がどんなに優れた能力をもっていても、神に聞き従い、神が教えてくださったように生きていかなければ、神が造ってくださった時にそれぞれに与えてく ださった能力は発揮できないと言われました。神は、今の私たち主の民が、神が造ってくださったように力を発揮していないと言われたのです。<o:p></o:p>

平成14年7月18日と19日にも続けて御言葉がありました。<o:p></o:p>

「かつて彼らは、パンと水をもって主の民を迎えず、偽預言者を雇って主の民を呪わせようとした。<o:p></o:p>

あなたがたの神であるわたしは、その呪いを祝福に変えた。人々は、これを聞き、偶像崇拝と姦淫している者を皆、主の民から切り離した。<o:p></o:p>

 しかし、赦しはわたしのもとにあり、あなたはわたしを畏れ敬う。<o:p></o:p>

 あなたは主なるわたしに望みをおき、あなたの魂は望みをおき、わたしの言葉を待ち望む、見張りが朝を待つにも増して。<o:p></o:p>

  あなたは、わたしの言葉を待ち望め。慈しみは主なるわたしの言葉の内にこそある。豊かな贖いも主なるわたしの言葉のうちにある。わたしの言葉こそ、わたし の子イエスではないか。わたしの子、イエスは光であり、光は命の言葉である。(ヨハネによる福音書の冒頭を読め)わたしの子イエスは、他の何物でもない。 偶像ではない。<o:p></o:p>

 羊でも、牛でも、野の獣でもない。<o:p></o:p>

 打ち傷、鞭のあと、生傷は、大祭司と祭司であるあなたの信仰によってぬぐわれ、包まれ、香油で和らげられる。<o:p></o:p>

 お前たちの畑は荒廃し、町々は焼き払われ、田畑の実りは、お前たちの目の前で、異教の民が食いつくし、異教の民に覆されて、荒廃している。<o:p></o:p>

 そして、娘シオンが残った、包囲された町として。ぶどう畑の仮小屋のように、きゅうり畑の見張り小屋のように。<o:p></o:p>

 もし万軍の主なるわたしがあなたがたのために、わずかでも生存者を残さなかったら、あなたたちはソドムのようになり、ゴモラに似た者となっていただろう。<o:p></o:p>

 ソドムの支配者よ、主の言葉を聞け。ゴモラの民よ、主の民の神の言葉に耳を傾けよ。キリスト者と称する者たちのささげる多くのいけにえ(偶像のイエス)が、わたしにとって何になろうか。<o:p></o:p>

偶像の献げ物を、わたしは憎む。わが子イエスの血を、わたしが喜ぶと思うのか。わたしは喜ばない。<o:p></o:p>

 そうして彼らはわたしの顔を仰ぎ見に来るが、誰がこれらの者を彼らに求めたのか、わたしの庭を踏み荒らす者よ。<o:p></o:p>

むなしい献げ物を再び持って来るな。彼らの香の煙はわたしの忌み嫌うもの。彼らの祝祭など、災いを伴う集いにわたしは耐ええない。<o:p></o:p>


『終わりの日の預言』の周辺情報!!⑫

2008-05-08 08:57:41 | 預言

『終わりの日の預言』の周辺情報!!⑫

シムトラの よい知らせ!! Ⅲ

<夫の為の精一杯の祈り>

2061473_1190114282_8539113387tmoa58  多くを書く必要はないであろう。シムトラの福音(よい知らせ)は、その字義通りに読めば分かり易い。具体的で現実的である。そして、その内容に違和感はない。言葉の慣れは致し方ないかもしれないが、内容において、不合理はない。

 真理は、シンプルである。ありのままの道理である。真理を覆い隠すのは、人であり、人の思いこみであり、執着であり、頑なさであることを新たに思わされる。


【転載開始】

<夫の為の精一杯の祈り>

 私は、自分が神からそれないように、御心にかなう私でいられるようにと祈ると同時に、いつも仕事が忙しすぎる夫のことを祈っていました。神は、神に忠実でありたいと思う私を、慈しみ深く憐れんでくださっていました。

 平成13年1月30日、主なる神は私の願い望みに答え、夫のことに関する御言葉をくださいました。その御言葉で私は、神が夫のこともよく見てくださっていたことを知りました。

 その御言葉をいただいて、2月4日、私は、その時の私の精一杯で神に夫の救いを願いました。神は、必ず「精一杯」を御心に留めてくださいます。そして、平成13年2月7日、神は私の願いに答えてくださいました。

 「あなたはこのすべての祈りと願いをわたしにささげ終わった。それまでわたしにひれ伏し、心をわたしに向けて祈っていたあなたは、わたしの前に、あなたの夫の救いを願った。
 『約束なさったとおり、わたしたちに安住の地を与えてくださった主なる神はたたえられますように。その僕によって告げられた主なる神の恵みの御言葉は、一つとしてむなしいものはありませんでした。わたしたちの神、主なるあなたは先祖と共にいてくださいました。またわたしたちと共にいてくださるように。わたしたちを見捨てることも、見放すこともなさらないように。わたしたちの心を主に向けさせて、わたしたちをそのすべての道に従って歩ませ、先祖にお授けになった戒めと掟と法を守らせてくださるように。主なる神の御前でわたしが祈り求めたこれらの願いが、昼も夜もわたしたちの神、主なるあなたの御もとに達し、日々の必要が満たされ、この僕と夫と息子に御助けが与えられるように。』
 この世に住むものは皆、耳を傾けよ。人の子らはすべて、豊かな人も貧しい人も。 わたしの口は知恵を語り、わたしの心は英知を思う。わたしはあなたの言葉に耳を傾け、謎を解く。災いのふりかかる日、あなたを追う者の悪意に囲まれる時にも、どうして恐れることがあろうか、財宝を頼みとし、富の力を頼る者を。神に対して、人は兄弟をも贖えない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない。
 人生は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。人が見ることは、知恵ある者も死に、無知な者、愚かな者とともに滅び、財宝を他人に遺さねばならぬということ。自分の名をつけた地所を持っていても、その土地の底だけが彼らのとこしえの家、代々に、彼らが住まう所。人間は、栄華のうちにとどまることはできない。  屠られる獣に等しい。これが自分の力に頼る者の道、自分の口の言葉に満足する者の行く末。陰府に置かれた羊の群れ、死が彼らを飼う。朝になれば、正しい人がその上を踏んで行き、誇り高かったその姿を陰府がむしばむ。

 しかし、わたしはあなたの魂を贖い、陰府の手から取り上げる。人に富が増し、その家に名誉が加わるときも、あなたは恐れることはない。死ぬ時は、何一つ携えて行くことができず、名誉が彼の後を追って墓に下るわけでもない。命のある間に、その魂が祝福され、幸福を人がたたえても、彼は父祖の列に帰り、永遠に光を見ることはない。人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい。
 神々の神、主なるわたしは、言葉を発し、日の出るところから日の入るところまで、地を呼び集める。麗しさの極み『主の聖所』からわたしは顕現する。あなたたちの神は来る。黙してはいない。わが前を火が焼き尽くして行き、わがもとには嵐が吹き荒れている。わたしは自分の民を裁くために、上から天に呼びかけ、また、地に呼びかける。わたしの前に集めよ、わたしの慈しみに生きる者を、献げ物を供えてわたしと契約を結んだ者を。天はわたしの正しいことを告げ知らせる。わたしは自ら裁きを行う。
 『わたしの民よ、聞け、わたしは語る。イスラエルよ、わたしはお前を告発する。』」

 そして、神は私に百人の人の名を主の聖所の城壁に記すことを許してくださいました。

 百人の名を祈りの壁に記した後、平成13年2月13日、神は私にこう言われました。

 「あなたがもたらしたものは、わたしの前に香りとなって立ちのぼった。それは様々な香料、ミルラや乳香をたく煙のようだった。なにか望みがあるならかなえてあげる。願いがあるなら言いなさい。あなたが人々のために祈るなら、わたしはしるしと奇跡を送る。」

 この御言葉を頂いた私は、あまりの嬉しさに「少しでも私が神の喜びとなれますように、夫や息子や母が神を知り、立ち帰り救われるように、一人でも多くの人が神を信じ戒めを守る事が当たり前にできるように」とすぐに神に祈りと願いを献げました。私は、「神に忠実でありたい。」そう思っていました。

 平成13年2月22日、御言葉がありました。

 「見よ、私は預言者に布告する。
 娘に言え。見よ、あなたの救いが進んで来る。見よ、わたしのかち得たものはわたしのもとに従い、わたしの実りの働きはわたしの前を進む。われらは聖なる民、主に贖われた者、と呼ばれ、あなたは尋ね求められる女、捨てられることなない都と呼ばれる。『帰ってくるのは誰か。』」

 「さあ、喜んで命のパンを食べるがよい。あなたの業をわたしは受け入れる。どのような時も純白の衣を着て、頭には香油を絶やすな。 太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する夫と共に楽しく生きるがよい。それが、太陽の下で労苦するあなたへの、人生と労苦の報いなのだ。」

 私は、こうして神の深い思いに触れ、「裏切ることがないように、背くことがないように、悲しませることがないように、そして、神の思いに答えていくことができるように」と思っていました。

 でも、そう思えば思うほど、私は「安息日」のことで自分を勝手に縛り、安息するどころかガチガチになっていってしまいました。私は、いつも何よりも「悪しきものから守ってくださるように」ということと、「夫のこと」を祈っていました。

 平成13年3月1日、私はそのことを願い望みとして神の祭壇に献げました。また、神が言われていることの意味を理解し、実生活に生かすことができるように、そして、一人でも多くの人の祈りが主なる神のもとに届きますようにと、願い望みを献げました。

 驚くことに、私が願い望みを書いている時点で、神がその願い望みに対して御言葉をくださることが本当によくあるのです。

<平成13年の過越祭前の危機>    

 平成13年3月4日、私に、あるレビ祭司が犯した過ちについて知らせる御言葉がありました。そのレビ祭司にも御言葉が与えられ、隠していたことが神によって明るみに出ました。彼女は偶像崇拝をしていました。神がせよと言われたことをせず、神が行けと言われた所にも行っておらず、神はそのことをそのレビ祭司に問いただしました。レビ祭司はそのことを認めました。しかし、悔い改めようとはしませんでした。しかも彼女は主の聖所に通い、聖所を汚していました。

 神は、そのことのために主の聖所を離れました。神は、預言者、大祭司、聖所監督、祭司に、「『父と子よ、共に帰還してください』と三日三晩、祈れ。彼女はわたしに従わず、偶像崇拝者に惑わされて、わたしがかつてイスラエルの人々の前で滅ぼした諸国の民よりも更に悪いことを行った。わたしはその僕である預言者を通してこう告げた。『彼女はこれらの忌むべきことを行い、その偶像によって主の民にまで罪を犯させた。それゆえ、わたしは言う。見よ、わたしは彼女とその家に災いをもたらす。これを聞くものは皆、両方の耳が鳴る。』わたしは言う。『誰を遣(つか)わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』」
 平成13年3月29日、過越祭に参詣するにあたり、また夫に頼み、主の聖所に行かせてもらいました。その時、私は「与えてくださる命ある限り、神から離れず、見失わず、聞き従っていくことができるように、そして神を信じ続け、祈り求め続けて行くことができるように、また、神が共にいてくださる喜びを伝え、御心にかなった道具であることができるように、そして神が我が家に与えてくださった慈しみと恵みをいつも忘れることがありませんように」と主なる神に願い望みを献げました。

平成13年4月6日、私に御言葉がありました。

「わたしに向かって喜びの叫びをあげよ。歓声を上げ、喜び歌い、ほめ歌え。

音楽にあわせてほめ歌え、音に合わせ、樂の音にあわせて。

ラッパを吹き、角笛を響かせて、わたしの前に喜びの叫びをあげよ。

とどろけ、海とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものよ。

潮よ、手を打ち鳴らし、山々よ共に喜び歌え、わたしを迎えて。

わたしはあなたをレビ祭司に任命した。主は世界を正しく裁き、諸国の民を公平に裁く。」

 平成13年4月24日、私は「私が神から離れることがないように、神を信じ、祈り求め続けていくことができるように、私が人々の願い望みを集めることができるように、息子を間違って育てないように」と主なる神に願い望みを献げました。

 平成13年5月6日、私に御言葉がありました。

 「まだ望みがあるならかなえてあげる。まだ何か願い事があれば応じてあげよう。あなたはわたしに願い望みなさい。

 わたしはあなたの祈りに耳を傾ける。

 その日が来れば、人は子牛一頭、羊二匹の命を救いうるのみ。しかし、それらは乳を豊かに出すようになり、人は凝乳を食べることができる。

 わたしはあなたの盾、あなたの栄え、あなたの頭を高く上げる。

 わたしに向かって声をあげれば、わたしは聖所から答える。

 私があなたを支えている。

 いかに多くの異教の民に包囲されても、決して恐れることはない。  

 わたしが彼らに対して立ち上がる。あなたの神であるわたしが、あなたを救う。

 わたしは、わたしを畏れ敬うあなたを、彼らから救い、あなたを恵む。」

 私は、この御言葉を頂いた時から長い間「わたしはあなたの祈りに耳を傾ける」と言ってくださっている意味が、まるでわかっていませんでした。「どこにいても、神は、私の祈りを聞いていてくださっている」そう思っていました。私は祭司でした。神が一個人としての私の祈りを聞いてくださるのは、主の聖所あってこそなのです。私が主の聖所の務めを果すことを神が信じてくださっているからこそ、神は私の祈りを聞き届けてくださると、言ってくださったのでした。神は、私が聖所に参詣し、そこで祈ることを待っておられるのでした。神は祭司としての私が聖所に来て祈ることを、心待ちにしてくださっているのでした。

 神は、私がへりくだっていたからこそ、本来は祭司として主の聖所で毎日の務めを果すべき私を憐れんでくださっていたのです。その私が、神がそう言ってくださったことをいいことに、どこで祈っても私の祈りは聞き届けられるなどと、へりくだらない心になってしまっては、御言葉を曲解して神の憐れみを無にしてしまうところでした。【続く】

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『終わりの日の預言』の周辺情報!!⑪

2008-05-07 08:57:33 | 預言

『終わりの日の預言』の周辺情報!!⑪

シムトラの よい知らせ!! Ⅱ

<神との出会い>

 繰り返し言っておくが、投稿者は、主の民の一員ではない。たまたま、通りすがりのものである。クリスチャンでもない。聖書は座右の書ではあるが、ことさら研究に専心しているものでもない。真理を好むものである。従って、本連載ブログテーマは全く、『善意の第三者の紹介記事』にすぎない。(善意=事情を知らないこと:法律的用語解釈でご理解を)24167923_1185535045_77733784g7n2ixi

 いつぞや、コメントで、『あなたの導く神は....云々』とあったが、そのつもりはない。しかし、とらえ方は各様あるので、否認はするが、議論するつもりはない。それぞれが、情報としてとらえ、吟味することは悪いことではないと思う。

 客観的にみて、すべてに教えの中には、戒と律がある。深く考えることはないと思う。『安息日』は戒である。戒とは、制限的戒めであるし、律とは推奨的戒めである。と考える。まあ、それはどの世界にもある。国には法律が、団体には噂守規定が、修行団体には修行規定がある。それくらいに考えている。

 さりとて、何ともあざやかな聖書的変容であろうか。それが、この上なく、興味をそそられることなのである。幾世代も架けて、そうした戒律を培ってきたのなら分かりもする。そうではなく、ある日、突然に密教宗教団体にある事件をきっかけにおそった変容。これは奇跡に近い。否、奇跡そのものと言っても決しておかしくはない。あだや、おろそかに出来ない事件である。

 そう思ったからこそ、転載を決意した。その考えは変わらない。

 そして、転載し、読み進めているうちに、いよいよその真実性を確信するに至った。『一見、一読の価値がある。』と。それだけのことである。

 どこまで転載を続けられるか分からないが、聖書に対する改変の事実も、この『終わりの日の預言』を通じて、明らかにされてくるのも一つの出来事である。そして、日本と高野山と密教と、四国88カ所の関わりとその意味、これからの出来事との関わりの謎を追うことも可能性が見える。楽しみにしている。



【転載開始】

<神との出会い>

 平成9年2月頃、私は「聖所の祭礼にどうしても参加したい。」と夫に頼み込み、横浜から日帰りで初めて祭礼に参加しました。当時の聖所は、大阪府天王寺区国分町にありましたが、まだ『主の聖所』という名称ではありませんでした。<st1:msnctyst w:st="on" address="大阪府天王寺区国分町" addresslist="27:大阪府天王寺区国分町;"></st1:msnctyst>

私 は、祭礼の知らせを大祭司から頂いた時、「なんとしても行かなきゃ」と思いました。なんとしても行って、神に守られたかったのです。私はとても臆病なの で、神に守られて安心したかったのです。何から守られたかったのか・・・それは言葉にするなら「神以外のものから」とでも言ったらいいでしょうか。私は、 理屈でなくここに行けば大丈夫と思ったのです。<o:p></o:p>

  平成10年8月、主の聖所(幕屋)は大阪の天王寺区大道に移転しました。この聖所の移転に際して私は、これだけは絶対に取っておかねばならないと、大事に大事にしていたものを「幕屋造営」のために奉献しました。その大事にしていたものは私にとって「最後の砦」のようなものでした。

 私は、ほとんど何のためらいもなく仏像(偶像)を捨て去ることができました。でも、目に見える偶像は捨て去っても、神以外のものにも依り頼んでいる私自身を捨て去ってはいなかったのです。自分ではまるでそのことに気付きませんでした。<o:p></o:p>

 神 以外のものに対して「これだけは絶対手放せない」と思う自分自身に縛られ苦しい、ということがわかりませんでした。ただ私は、当時言葉でわかっていたわけ ではありませんが、自分の願いを叶えたければ、その願いを叶えてくれる大元をきちんとしなければいけないと、なんとなく漠然とそう思っていました。<o:p></o:p>

私が「これだけは絶対になくせない」と思っていたものを取り去ってから、気が付くと神は、それまでずーっと私の心の中にしこりのようにあった願いを、叶えてくださっていました。<o:p></o:p>

私は、その願いを神に願い望みとして献げたことはありませんでした。でも神は、私が何を願い望んでいるか本当によくご存知でした。<o:p></o:p>

この時から数年が経ち、ようやく「神に願いを叶えていただきたければ、お願いばかりするのではなくて、神のことを最優先することなんだ」とわかりました。<o:p></o:p>

あの時、奉献していなかったら、私は未だに縛られ苦しんでいたことでしょう。

<願い望みを叶えてくださる神><o:p></o:p>

平成12年8月、「霊視商法詐欺事件」の無実の罪のために拘留されていた預言者が、神の御業によって帰還されました。<o:p></o:p>

そ の年の夏、大祭司から「預言者を通して神が私たちの願い望みを聞いてくださり、御言葉をくださる。」ということを聞きました。私は「神が御言葉をくださる なんて、そんなすごいことがあるんだ。」と、最初はよく訳もわからず、自分が思い悩んでいたことを願い望みに書いて、主の祭壇に献げました。そして、ドキ ドキしながら、御言葉を待ちました。<o:p></o:p>

平成12年9月5日、主なる神は私に最初の御言葉をくださいました。<o:p></o:p>

「あ なたたちの進めている旅はうまくいく。安心して行くがよい。主は、あなたたちのたどる旅路を見守っておられる。ためらわずに出発し『約束の地』に入るべき だ。行けば、あなたたちは穏やかな民のところへ行けよう。神があなたたちの手にお渡しになったのだから、その地は大手を広げて待っている。そこは、この地 上の物が何一つ欠けることのない所だ。」<o:p></o:p>

「建 物の中に彫像と鋳像があるのを知っているか。彫像と鋳像を取り除きなさい。今、どうすべきか決めなさい。そして主の民にしなさい。そしてあなた自身は、一 個人の家の祭司であるより、主の民の一部族、氏族の祭司となりなさい。そしてあなたの主の聖所(神殿)を再建しなさい。旅を続け、神の家に立ち帰りなさ い。道を正す人に、私は神の救いを示そう。固く立って、主があなたたちを救うのを見よ。恐れるな。おじけるな。その地の住民よ、聞け。あなたたちの神、主 に信頼せよ。そうすれば、あなたたちは確かに生かされる。またその預言者に信頼せよ。そうすれば勝利を得ることができる。主に信頼せよ、その慈しみはとこ しえに。そうすれば、あなたたちを打つ者たちは互いに戦って自滅する。」<o:p></o:p>

「主なる神の聖所を再建し、聖所の祭壇に献げ物をしなさい。この時のためにこそ、あなたはわたしがつくったのではないか。聖所を再建するのは、あなたたちがあなたたちの救い主を迎えるためである。」<o:p></o:p>

 私は、ただただ驚いたのと同時に、嬉しくて嬉しくて、もっともっともっともっと神に近づきたい!と思いました。でも、その御言葉の意味は、大祭司に解釈して頂いても何にもわかっていませんでした。<o:p></o:p>

御言葉の意味がよくわかっていなくても、どこかで、「御言葉は絶対だ」ということを感じていました。<o:p></o:p>

そして、それからというもの、神は私が一番求めていたものを、惜しみなく与え続けてくださいました。<o:p></o:p>

 平成12年、神は私をレビ祭司に任命してくださいました。

<安息日><o:p></o:p>

私が初めて『安息日』のことを聞いたのは、平成11年頃でした。<o:p></o:p>

安息日は、金曜日の日没から、土曜日の日没までです。「安息日に、いかなる仕事もしてはいけない。荷を出し入れしてはいけない。物の売り買いをしてはいけない。」と聞いたとき、「今の時代にできない」と思いましたし、また『安息日』を守ることがそんなに重要なことと思えないでいました。そして、最初の頃は安息日とは程遠い、ほとんどいつもと変わらない生活をしていました。<o:p></o:p>

要するに、知恵を絞ってどうにか神の言われていることに従うのではなく、自分の都合を優先させていたのです。<o:p></o:p>

でも、いつからか「神の言われることにどんな意味があるのかわからないが、とにかく守ってみよう」と思い始め、まして、神の<前(みまえ)で誓約してからは、毎週それはそれは緊張して安息日を過ごしていました。<o:p></o:p>

ところが平成12年12月23日の安息日、私はいつもの習慣で、売りにきた野菜を買ってしまったのです。お金を払ってから「はっ」と気付き、私が真っ青になったことはいうまでもありません。<o:p></o:p>

私はすぐにそのことを神に告白し、神に贖罪を願いました。
その告白に対して、平成12年12月28日、神は次のように言われました。<o:p></o:p>

「まことに、主の民の聖なる方、わが主なる神はこう言われた。<o:p></o:p>

『お 前たちは立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある。』と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。お前たちは 言った。『そうしてはいられない、安息日にもやることがある』と。それゆえ、お前たちは安息日にも忙しくしなければならない。また、『大急ぎでやらなけれ ばならないことがある、忙しい』と言ったゆえに、あなたたちを追い立てるものはあなたたちを忙しくさせるであろう。一人の威嚇によって、あなたたちはもろ ともに忙しくし、五人の威嚇によって、お前たちは急ぐ。<o:p></o:p>

 主の言葉を聞け。<o:p></o:p>

  主はこう言われる。あなたたちは、慎んで、安息日に荷を運ばないようにしなさい。家のどの門からも荷を運ばないようにしなさい。家のどの門からも荷を持ち 込んではならない。また、安息日に、荷をあなたたちの家から持ち出してはならない。どのような仕事もしてはならない。安息日を聖別しなさい。それをわたし はあなたたちの先祖に命じたが、彼らは聞き従わず、耳を貸そうともしなかった。彼らはうなじを固くして、聞き従わず、諭しを受け入れようとしなかった。主 は言われる。もし、あなたたちがわたしに聞き従い、安息日に門から荷を持ち込まず、安息日を聖別し、その日には何の仕事もしないならば、わたしはあなたの 願いをかなえる。それゆえ、主は恵みを与えようとして、あなたたちを待ち、それゆえ、主は憐れみを与えようとして、立ち上がる。まことに、主は正義の神。 なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。まことに、『主の聖所』の民、あなたよ、もはや泣くことはない。主はあなたの呼ぶ声に答えて、必ず恵みを与 えられる。主がそれを聞いて、直ちに答えてくださる。わが主はあなたたちに、ぶどう酒と聖水を与えられた。あなたを導かれる方は、もはや隠れておられるこ となく、あなたの目は常に、あなたを導かれる方を見る。あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け、右に行け、左に行 け』と。」<o:p></o:p>

その時の私は、「こんなことしてしまって、どれだけ神に怒られるだろう・・・」と、毎日毎日しょげかえっていました。でも、神のくださった御言葉はこんなにも慈しみに溢れたものだったのです。<o:p></o:p>

私が、この上ない喜びに包まれたのは言うまでもないことです。そして「神に聞き従おう」とあらためて思ったのも言うまでもないことです。また、私は臆病者なので、どうか神を信じ続けていくことができますようにと、主なる神に感謝と願い望みを献げました。<o:p></o:p>

平成13年1月3日、主なる神は私に言われました。<o:p></o:p>

「娘 よ、わたしはあなたの贖罪の言葉に耳を傾け、つぶやきを聞き分ける。わたしは、あなたの主、あなたの神、わたしはあなたが助けを求めて叫ぶ声を聞く。わた しに向かって祈りなさい。娘よ、朝ごとに、わたしはあなたの声を聞く。朝ごとに、あなたはわたしの前に訴え出て、わたしを仰ぎ望みなさい。わたしは、決し て逆らう者を喜ぶ神ではない。他の神々にひれ伏してはならない。他の神々にひれ伏す者はわたしのもとに宿ることを許されず、すべて憎まれる。わたしは彼ら を滅ぼす。しかし、わたしはあなたを深く慈しみ、わたしの家に迎え入れる。あなたはわたしの家、聖なる宮に向かってひれ伏し、わたしを畏れ敬っているから である。<o:p></o:p>

 娘 よ、わたしは、恵みの御業のうちにあなたを導く。まっすぐにわたしの道を歩みなさい。あなたを陥れようとする者から、自らを守りなさい。彼らの口は、正し い事を語らない。わたしは、彼らを悪に定め、そのたくらみのゆえに打ち倒す。彼らは背きに背きを重ねる反逆の者。彼らを追い落とす。わたしを避けどころと する者は皆、喜び祝い、とこしえに喜び祝う。あなたがわが名を愛するならば、御旨のままわたしに守られる。」<o:p></o:p>

 私は、神が私の心の内をわかっていてくださったこと、こんな私を「娘」と呼んでくださったこと、そして私を守り導くと言ってくださったことが嬉しくて嬉しくて嬉しくて、「私の精一杯で聞き従おう」と思っていました。<o:p></o:p>

平成13年1月7日、七人の任命者に対して御言葉がありました。<o:p></o:p>

「主 に感謝をささげて御名を呼べ。諸国の民に御業を示せ。主に向かって歌い、ほめ歌をうたい、驚くべき御業をことごとく歌え。『主の聖所』を誇りとせよ。主を 求める人よ、心に喜びを抱き、主を、主の御力を尋ね求め、常に御顔を求めよ。主の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡を、主の口から出る裁きを心に留めよ。

 主の僕、アブラハムの子孫よ、ヤコブの子ら、主に選ばれた人々よ。主はわたしたちの神、主の裁きは全地に及ぶ。主はとこしえに契約を御心に留められる。千 代に及ぼすように命じられた御言葉を、アブラハムと結ばれた契約、主イエスに対する誓いを。主はそれを主の民に対する掟とし、主の民へのとこしえの契約と して立て、宣言された。

 『わたしはあなたに約束の地を、嗣業として継がせよう』と。その地で、彼らはまだ数少なく、寄留の民の小さな群れで、国から国へ、 ひとつの王国から他の民のもとへと移って行った。主は彼らを虐げることを誰にも許さず、彼らのことを、王たちに戒めて言われた。『わたしが油を注いだ人々 に触れるな、わたしの預言者たちに災いをもたらすな』と。

 主はこの地に飢饉を呼び、パンの備えをことごとく絶やされるが、あらかじめ一人の人を遣わしてお かれた。捕囚として売られた民の父。王は人を遣わして彼を解き放った。諸国を支配する王が彼を自由の身にした。彼は民を主の思いのままに戒め、長老たちに 知恵を授けた。主の民は敵の地に下り他の者の地に宿っていたが、主はご自分の民をそこから導き上り、彼らを大いに増やし、敵よりも強くされた。

 主が王や敵 の心を変えられたので、彼らは主の民を憎み、主の僕たちを悪だくみをもって扱った。主は預言者を遣わし、大祭司を選んで遣わされた。彼らは人々に御言葉と しるしを伝え、敵の地で奇跡を行い、御言葉に逆らわなかった。

 主は闇を送って、その地を暗くされた。主が川の水を血に変えられたので、その川に住む者の命 は死んだ。主は重ねて預言者に語られた。『ゆるやかに流れるわたしの水を拒む者は、くずおれる。それゆえ、見よ、主は大河の激流を、彼らの上に襲いかから せようとしている。激流はどの川床も満たし、至るところで堤防を越え、その地にみなぎり、首に達し、溢れ、押し流す。その広げた翼は、国土を覆い尽く す。』

 諸国の民よ、連合せよ、だがおののけ。遠い国々よ、共に耳を傾けよ。武装せよ、だがおののけ。武装せよ、だがおののけ。戦略を練るがよい、だが、挫 折する。決定するがよい、だが、実現することはない。神が彼らと共におられるのだから。」【続く】


『終わりの日の預言』の周辺情報!!⑩

2008-05-06 09:31:52 | 預言

『終わりの日の預言』の周辺情報!!⑩

シムトラの よい知らせ!! Ⅰ

<真実の神>

 シムトラとは、前掲『終わりの日の預言』の中で、S・Sと言う頭文字で登場する方であろうと思う。いわゆる一般の信者であった方で、預言者・大祭司ハナンエルとは事情が異なる。その後、祭司と使命を与えられたようである。24167917_1185535020_77555839g5lqpvl
 
 その語り口は、素朴で率直で分かり易い。ハナンエルの文書とも併せて読むと、その整合性はキチンとしている。投稿者が『終わりの日の預言』に関心を持ったのは、この素朴さ・率直さである。時として、真理が蒔かれるときは、決して既成の宗教からではないと言うことである。イエスは大工(左官)の子であった。仏陀はバラモンではない、クシャトリア(軍人)であった。

 かつての預言も、そのように必ずと言って良いほど、既成の宗教の神官・祭司・司祭・僧侶から出でたることは少ない。今回など僧侶といえども、荒野山の坊主(失礼!、言葉の綾としてお許しを請う)である。とうてい、聖書とは関わりがないと想える。そこに意外性の関心を抱くに至った理由がある。

  シムトラの福音よい知らせ)は、言い方によれば、庶民的で取っつきやすい。人間に要求されるのは、要は素直な心であり続けることだ。素というのは『もと』と言う意味である。もと』とはいろいろな意味があろうが、紛れもなく、創造されたとすれば、創造主こそもと』である。それは主に従うということであって、アーメンという意味である。これは仏教の『南無=帰依する』に通じる

 現代の人間にもっとも要求されることは、この帰依し、従うという素直さである。誰がみても、確かに驕り高ぶり、自我自尊に傾いている。自尊は悪いことではない。自我偏重は困るのである。そればかりではなく、それを意図的に扇動し、そのような悪弊を増長せしめようとする勢力が、確かに存在する。そして、それにあやかり、利得欲望を満たそうとする心根がある。これは滅びの道である。このことを気がつくだけでも、『終わりの日の預言』の価値があると思っている。
 

【転載開始】<真実の神>         

 この地を造られたのは誰か。あの天を造られたのは誰か。人間を含む全ての生き物を造られたのは誰か。太陽、月、星、空気、海、山、川、季節ごとに咲く花、季節ごとに実る果物や野菜など、ありとあらゆる全てを造られたのは誰か。そして、全ての始まりの前から存在しておられるのは誰か。<o:p> </o:p>

私は、全てが当たり前に存在しすぎていて、あまり深く追求したことがありませんでした。<o:p></o:p>

しかし、神にやっと気付き、この地もあの天も私たちも含め全てを造られたのは神であったことをはっきり知りました。<o:p></o:p>

私たちも、神が造ってくださった。そして、それぞれに相応しい役割を与え、この世に送り出してくださった。<o:p></o:p>

それなのに私たち人間は、本当の親である私たちの造り主を忘れ、自分勝手に生き、自分勝手に願い望み、自分が「良い」と思えるものに依り頼んで生きています。<o:p></o:p>

どう考えても、それで幸せになれるはずもなく、世の中が平和で真に満ち足りるわけもありません。<o:p></o:p>

殺伐とした世の中は、ひどくなるばかりです。それは、人間が虚しいものに依り頼み、神からどんどん遠く離れていくからです。<o:p></o:p>

<o:p></o:p>

私は、子供の頃からいつも魂が飢え、乾いていました。もちろん当時、はっきりそう言葉で感じていたわけではありません。<o:p></o:p>

両親は、とても私を大事に育ててくれたし、温かい家庭でした。<o:p></o:p>

でも、何かが違っていた。何かが本当ではなかった。それは、友達といる時も同じで、一緒に楽しく騒いでいてもいつもどこかが冷めていました。<o:p></o:p>

何かが足りなかった。物事に真面目に一生懸命に取り組むのだけれど、心から満ち足りて夢中になれたものは一つもありませんでした。<o:p> </o:p>

私の生まれ育った家は、古くからの商家で、代々受け継いできた仏壇がありました。<o:p></o:p>

当たり前のこととして、「仏」と言われているものを「善」として大事にしていました。<o:p></o:p>

そして、死んだ先祖が仏と言われているものと共に自分たちを守ってくれていると教えられていました。<o:p></o:p>

先祖の命日には必ず仏壇に供え物をし、初物は必ず仏壇に供えていました。<o:p></o:p>

また、その土地には大きな寺や神社があり、日常に溶け込んでいました。<o:p></o:p>

そのような環境で育った私は、深く考えたこともなく、自然なこととして受け入れていました。<o:p></o:p>

私 は先祖のことを思う時、「写真で曾祖父母くらいまでは知っているけれど、私が生まれるまでに人類の初めから気が遠くなるくらいの年月が流れ、脈々と血が受 け継がれてきたんだ。私の先祖は、一体どんなふうに何をして過ごしてきたのだろう。」と、なんとも言葉にできない感情を抱いていました。<o:p></o:p>

でも、社会に出てだんだんと、そういうことを思うことも無くなっていきました。<o:p></o:p>

それから月日は流れ、私は結婚しました。<o:p></o:p>

結婚して何年過ぎても私には子供ができませんでした。<o:p></o:p>

私は子供が欲しかった。女として生まれたからには、自分の子供を産みたかった。でも、子供ができませんでした。<o:p></o:p>

また、いつの頃からか「こうあらねばならない。」という思いが常に私を支配するようになっていました。<o:p></o:p>

魂がとても不自由で苦しかった。心の中で悲鳴を上げていました。<o:p> </o:p>

そんな頃、私の実家の近くの寺のチラシが目に留まりました。そこには「霊視で悩み解決」というようなことが書いてありました。<o:p></o:p>

私は、早速行ってみることにしました。<o:p></o:p>

そこに行くと、祭壇のある部屋に通され、後から一人の僧侶の女性が入って来て祭壇に向かい経文を唱え始めました。<o:p></o:p>

それが終ってから、私と向かい合い話をするうち、先祖供養が足りていないこと、私が絶家であること、私が住んでいる家の霊環境が悪く私にそれが影響していることなどを言われました。<o:p></o:p>

そして、それを解決するために自宅に荒神の掛軸と十一面観音の彫像を祀り、入信するようにと言われました。<o:p> </o:p>

私は、生まれ育った環境のせいか、言われたことに抵抗がなくすんなり受け入れることができたので、「それで苦しみから解放されるなら」と、すぐに入信を決心しました。そして、それから毎日自宅で荒神の掛け軸や、木彫りの十一面観音像に向かい経文を唱えていました。<o:p></o:p>

また、寺で決められた集まりがあると出席し、熱心に法話を聞いていました。<o:p></o:p>

私は、自分のことを「熱心な信者だ」と思っていたのですが、実はとんでもない私の思い違いでした。<o:p></o:p>

熱心な信者は、たとえ自宅が寺から遠かろうと、朝夕の勤行に参列していたそうです。私は、寺と自宅が決して近いとは言えない距離だったので、朝夕の勤行には参加したことがありませんでした。自分の都合を優先させていたのです。<o:p></o:p>

ま た、私は寺の朝夕の勤行に参加することがとても意味のあることとは思えないでいましたし、それよりも寺で決められた集会に参加し、法話を聞くことの方が重 要でした。私にとっては、仏像の前で経文を唱えることよりも、法話で聞いたことを実生活に生かしていくことの方が重要でした。<o:p></o:p>

私は、自分の納得できたことしかやらない我が道をひたすら歩む信者、他の信者とは異質の信者だったのです。<o:p> </o:p>

私が「これは信じられる。」と思ったのは、寺にある大きな仏像ではなく、「教義」でした。<o:p></o:p>

私が「どうしてもやらなければ」と思ったことは、「見返りを求めず、施すこと」でした。<o:p></o:p>

私は幼い頃から、先祖は自分を守ってくれている存在と思ってきました。それなのに、実際は苦しくて助けを求めているのは、すでに死んでしまって自分でどうすることもできない先祖の方だと聞いた時、言葉になりませんでした。<o:p></o:p>

「先祖が苦しくて助けを求めている。私が供養料を出して寺に供養を頼み、それで先祖が楽になれるのならば、なんとしてもしてあげなきゃ。」と、見返りを求めない使命感のようなものを感じていました。<o:p></o:p>

ただ、今から思うと、人が人の魂をどうにかできるなど、とんでもないことですし、全ては肉体が生きていた時の自分の行いの故のことなのです。その行いの善悪とは、人間の価値観や判断によるものではありません。<o:p></o:p>

まして、私は「供養」の本来の意味を全く理解していませんでした。<o:p></o:p>

本来の「供養」とは、「供に養うこと」、つまり、施しあうことなのです。そして、それが「愛する」ということなのです。神は、私たちが神を愛すること、隣人を愛することを望んでおられます。<o:p> </o:p>

「子 供が欲しい」という理由から寺に通い始めた私でしたが、思い返すと真剣に仏像に向かいそのことを願い祈ったことがありませんでした。心の奥底で「仏像に向 かって祈ったところで、子供ができるわけがない。」と思っている私がいました。私にとって大事なのは、仏像の前でひたすら祈ることよりも、教えを実践する こと、すなわち、見返りを求めず施すこと、そして笑顔で奉仕することでした。<o:p></o:p>

「私 の行いが仏の教えに沿っていて正しいならば、仏は必ずそれを見ていて下さっているはずだし、仏がそんな私に子供を授けてもいいと思われるなら、きっと子供 ができるだろう。もし、子供がこのまま出来ないのだとしたら、仏から見て私にはまだ何かが足りないのかもしれない。」そう思っていました。【続く】<o:p> </o:p>

しかし、数年が過ぎた頃、私は寺のある僧侶に不信を抱き、結局寺には行かなくなってしまいました。<o:p></o:p>

でも、仏の教えは真実だったとその思いだけは変わらず、自宅の荒神の掛け軸や木彫りの十一面観音像に向かい毎日経文を唱えていました。<o:p></o:p>

自宅で何を毎日祈っていたかというと、魂が楽になることでした。当時はそう言葉で思っていたわけではありません。神に気付き、真実を知ったからこそ、「あの頃私が願い求めていたことは、こういうことだったのだ。」とはっきり言えるのです。<o:p> </o:p>

私は、つい最近まで「偶像崇拝をしていた。」と思い込んでいました。それは、かつて毎日偶像に向かい祈っていたからです。<o:p></o:p>

でも、果たして私は偶像を信じ崇拝していたのだろうか・・・。<o:p></o:p>

幼 い頃からの慣習で、神仏像を粗末にしてはいけないというだけのこと、寺でも、「しなさい。」と言われ、「善」だと言われ、ただ言われたとおり、教えられた とおり行っただけのことで、結局偶像を信じてもいなければ、崇拝もしていなかったのです。私にとってそれらは人間が作った「掛け軸」でしかなく「木彫りの 像」でしかなかったのです。<o:p></o:p>

私が信じたものは、自分自身が「これは正しい」と思えた「教え」でした。<o:p> </o:p>

私が寺から離れ2年位過ぎた頃、「霊視商法詐欺事件」としてマスコミに取り沙汰されているある寺がありました。<o:p></o:p>

その寺は、私が通い始めた頃の寺の本山でした。<o:p></o:p>

私は事件を知っても、「それは人間が起こしたこと。仏の教えとは何ら関係ない。」と、あまり関心を持ちませんでした。<o:p></o:p>

ところが、なんとこの事件は神が真実を明らかにするために起こされたことだったのです。<o:p></o:p>

その頃の私は、まだ神に気付いておらず、夢にもそんなことを思っていませんでした。<o:p> </o:p>

神は何故そのようにされたのか・・・。<o:p></o:p>

それは、その寺に必死に神仏の救いを求めやって来る人々を神が憐れんでくださり、その偶像崇拝の教団から救い出してくださるためでした。<o:p></o:p>

真実を明らかにされ救い出してくださったのは、どんな人間の知恵や計らいや力でもなく神以外にはおられないこと、神が厳然とおられ生きて働かれることを私たちが知るためでした。<o:p></o:p>

そして、真実の神を知った者たちが、神だけを依り所とし、真に命を得ることができるようになるためでした。


『終わりの日の預言』の周辺情報!!⑨

2008-05-05 09:25:30 | 預言

『終わりの日の預言』の周辺情報!!

ハナンエルの よい知らせ!!⑨

幻の解釈 アポカリプス 真理の開示Ⅴ

 おなじみの『ヨハネの黙示録』である。しかし、聖書の『ヨハネの黙示録』の書き写しではない。基本的に『ヨハネの黙示録』である。しかも、新しく時事的ですらある。かといって、理念において、改変されているとは思わない。むしろ、分かり易く、具体的である。それ以上の評論は控えるのが適当であろう。各自、素直に読まれることが一番良い。22999548_1208513568_2412716534_63a8

 釈迦に説法であるが、聖書には、重要なヨハネが、3人は登場する。バプテスマ(洗礼)のヨハネと福音書のヨハネ、とそして、黙示録のヨハネである。その他、ヨハネという名は多く登場するが、当時、おなじみに人名であったのであろう。先は、黙示録のヨハネ、後のヨハネはバプテスマのヨハネである

 ヨハネの黙示録は、終末預言といわれる。『終わりの日の預言』と似たようなものである。が、はっきり言って難解である。そして短い。それで終わりじゃあちょっと言葉足りずじゃないの、と言いたい位である。そして、その黙示録は、多くの時事解説に引用される。我田引水も多々ある。
 それをとやかく言うつもりはないが、この黙示録は引用ではないところが希有である。それに具体的に指し示される福音として、黙示録を補い、開かせている。

【転載開始】

「ヨハネはこう伝えている。」と御使いは言った。

 「42ヶ月の間、活動する権威が与えられた。そこで口を開いて神を冒涜し、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒涜した。獣は聖なるものたちと戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた。

 地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた子羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むだろう。
   耳ある者は、聞け。
   捕われるべき者は、捕われて行く。剣で殺されるべき者は、剣で殺される。
   ここに聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。
   わたしはまた、もう一匹の獣が地中から上って来るのを見た。
   この獣は、子羊の角に似た2本の角があって、竜のようにものを言っていた。

    この獣は、先の獣が持っていた全ての権力をその獣の前で振るい、地とそこに住む人々に、致命的な傷をおったあの先の獣を拝ませた。そして、大きなしるしを行って、人々の前で天から地上へ火を降らせた。更に、先の獣の前で行うことを 許されたしるしによって、地上に住む人々を惑わせ、また、剣で傷を負ったが尚
   生きている先の獣の像を造るように、地上に住む人に命じた。
   第2の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。

  また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。
   そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。
   ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを
   考えるがよい。数字の人間を指している。そして、数字は666である。
   また、わたしが見ていると、見よ、子羊がシオンの山に立っており、子羊と共に14万4000人の者たちがいて、その額には子羊の名と、子羊の父の名とが記されていた。
  わたしは、大水のとどろくような音、また激しい雷のような音が天から響くのをきいた。わたしが聞いたその音は、琴を弾く者たちが竪琴を弾いているようであった。
  彼らは、玉座の前、また4つの生き物と長老たちの前で、新しい歌のたぐいを歌った。
  この歌は、地上から贖われた14万4000人の者たちのほかは、覚えることができなかった。彼らは、女に触れて身を汚した事のない者である。
  彼らは童貞だからである。この者たちは、神と子羊に献げられる初穂として、
   人々の中から贖われた者たちで、その口には偽りがなく、とがめられるところのない者たちである。
   わたしはまた、別の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て、大声で言った。
   『神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。
   天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。』
   また別の第2の天使が続いて来て、こう言った。
   『倒れた。大バビロンが倒れた。怒りを招くみだりな行いのぶどう酒を、諸国の民に飲ませたこの都が』。また、別の第3の天使も続いて来て、大声でこう言った。
  『誰でも、獣とその像を拝み、額や手にこの獣の刻印を受ける者があれば、』」
   「巷に投げ捨てられる。彼らも、その妻、息子、娘もすべて。こうして、わたしは彼らの悪を、彼ら自信の上に注ぐ。あなたは彼らにこの言葉を語りなさい。」と主なる神は言われる。
  「わたしの目は夜も昼も涙を流し、とどまることがない。娘なるわが民は破滅し、その傷はあまりにも重い。野に出て見れば、見よ、剣に刺された者。
   町に入って見れば、見よ、飢えに苦しむ者。牧師も司祭も見知らぬ地にさまよって行く。かつてわたしは偶像崇拝の国エジプトに、あぶを送って彼らに食いつかせ、蛙を送って荒廃させた。作物をいなごの群れに与え、労して得たものをいなごに与えた。
  わたしはぶどうの木を雹で打ち、いちじく桑を霜で枯らし、家畜を雹に渡し、その群れを 稲妻に渡した。わたしは燃える怒りと憤りを、激しい怒りと苦しみを、災いの使いとして彼らの中に送った。現代の貴族らも飢え、群衆は渇きで干上がる。
   それゆえ、陰府は喉を広げ、その口をどこまでも開く。高貴なものも群衆も、騒ぎの音も喜びの声も、そこに落ち込む。彼らは泥のように踏みつけられる。

わたしの神殿を再建する日、その日、人々はあなたのもとに来る。
  しかし、大地は荒れ果てる。そこに住む者の行いの実によって。主の名は正義のゆえに高くされ、聖なる神は恵みの御業のゆえにあがめられる。羊たちは牧場にいるように草をはみ、肥えた家畜は廃墟で餌を得る。
   災いだ、むなしいものを手綱として、罪を車の綱として、咎を引き寄せる者は。 
   彼らは言う。『主の聖所の聖なる方を急がせよ。早く事を起こさせよ、それを見せてもらおう。その方の計らいを近づかせ、実現させてみよ。そうすれば納得しよう。』
    災いだ、偶像崇拝を善と言い、律法を悪と言うものは。教会は闇を光とし、光を闇とし、苦いものを甘いとし、甘いものを苦いとする。
    災いだ、自分の目には知者であり、うぬぼれて、賢いと思う者は。
    正義が示されても曲げられてしまう。諸国を見渡し、目を留め、大いに驚くがよい。
    お前達の時代にひとつのことが行われる。それを告げられても、お前たちは信じまい。
   見よ、わたしは新しいバビロンを起こす。
  それは冷酷で剽悍(ひょうかん)な国民。地上の広い領域に軍を進め、自分のものでない領土を占領する。彼らは恐ろしく、すさまじい。彼らから、裁きと支配が出る。
   彼らの馬は豹よりも速く、夕暮れの狼よりも素早く、その騎兵は跳びはねる。
   騎兵は遠くから来て、獲物に襲い掛かる鷲のように飛ぶ。彼らは来て、皆、暴虐を行う。どの顔も前方を向いている。」
   主はわたしにに言われた。
    「見よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに、諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破棄し、あるいは建て、植えるために。」主の言葉がわたしに臨んだ。
   「何が見えるか。」わたしは答えた。「煮えたぎる鍋が見えます。こちらへ傾いています。」
   主はわたしに言われた。「災いが襲い掛かる、この地に住むものすべてに。新しいバビロンに、わたしは今、呼びかける。」と主は言われる。
   「彼らはやって来て、バチカンの門の前に、都をとりまく城壁と、そのすべての町に 向かって、それぞれ王座を据える。わたしは、わが民の甚だしい悪に対して、裁きを告げ る。彼らはわたしを捨て、他の神々に香をたき、手で造ったものの前にひれ伏した。 
   あなたは腰に帯を締め、立って、彼らに語れ、わたしが命じることをすべて。
   彼らの前におののくな。私自身があなたを彼らの前でおののかせることがないように。 わたしは今日、あなたをこの国全土に向けて、堅固な町とし、鉄の柱、青銅の城壁として、立ち向かわせる。彼らはあなたに戦いを挑むが、勝つことはできない。 
わたしがあなたと共にいて、救い出す。」と主は言われた。
 主の言葉がわたしに臨んだ。
   「新しいバビロンは軍と部隊を備え、すべての懸案事項について指示を与えた。
   また教会とその住民については、次のように指示した。『軍隊を送ってあの者どもを一掃し、アメリカの軍と再建された都と教会に残留している者どもを根絶やしにせよ。
   あの者どもを思い出させるものは、その地からすべて取り払い、他の国の者を彼らの土地のいたるところに入植させ、彼らの住んでいた土地をその者たちに分け与えよ。』 こうして彼は歩みを進めた。部隊長は、将軍を選び、4万の歩兵と7千の騎兵を与え、権力者の命令どおりに教会に攻め入らせた。将軍たちは全軍と共に出陣した。」
   「権力者たちにとって、聖地の家々は、水がなくて、人を欺く泉となった。
   バチカンの住民よ、ついでわたしは、征服者をお前のもとに来させる。あなたがたの栄光は去る。お前の喜びであった子らのゆえに、髪の毛をそり落とせ。禿鷹の頭のように大きなはげをつくれ、彼らがお前のもとから連れ去られたからだ。
   災いだ、寝床の上で悪をたくらみ、悪事を謀る者は。夜明けとともに、彼らはそれを行う。彼らは貪欲に畑を奪い、家々を取り上げる。住民から家を、人々から嗣業を強奪する。」
   それゆえ、主はこう言われる。
 「知恵を教えよ。人生にはこれらの徳よりも有益なものはない。だれか幅広い体験を 望む人がいるか。知恵こそ過去を知り、未来を子息(予測)し、言葉の理解 や、謎の解釈に秀でており、しるしや不思議、季節や時の移り変わりを予見する。あなたは知恵と一緒に暮らしなさい。知恵が善を勧めてくれ、悩み や苦しみを慰めてくれることを知れ。 
   知恵によってあなたは人々から誉れを受け、若くても長老たい(ち)に尊敬される。
   裁くときには、その鋭さを認められ、権力者たちからは驚嘆の目をむけられる。
   あなたが黙れば人々は待ち、声をあげれば耳を傾け、長く話しても、手を口に当てて聞き入る。あなたは知恵によって不明を得、後の世代にいつまでの記憶される。
   あなたに諸国民を治め、国々を服従させよう。残忍な王たちもあなたのことを聞いて恐れる。あなたは人々の間では恵み深く、戦いの時は勇敢な者と見なされる。
   わが家に戻れば知恵のお陰でくつろげる。知恵とのつきあいには苦さがなく、知恵と共にある生活には苦労がない。」
   「あなたたちはかつてのイスラエルと同じ偶像崇拝を行い、安息日を守らず、わたしの言葉を無にしている」と主イエスは言われる。
   「皆、わたしの言うことを聞いて悟されない。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。
   人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出てくるからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、・・・」

   「『主の神殿』に集う者よ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。
   『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢いものには隠して、幼子のようなものにお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。』父のほかに、子がどういうものであるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいない。
       『主の神殿』に集う者よ、あなたがたの知っているものを知る霊は幸いだ。
       言っておくが、多くの法王、司祭、神父、牧師たちは、あなたがたが知っているものを知りたかったが、知る事ができず、あなたがたが任命されたものを任命されたかったが、任命されなかったのである。」
       主イエスは言われる。「『主の神殿』の主の民よ、あなたがたは神の栄光に包まれ、安全に歩め。長老たちの霊も、聖霊も、神の命令で『主の神殿』の民のために木陰をつくる。
   父は、預言者の内臓を造り、母の胎内に預言者を組み立ててくださった。
   わたしは父に感謝をささげる。大祭司は恐ろしい力によって、驚くべきものに創り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか、わたしはよく知っている。」
   「あなたたちは、敵に立ち向かい、相手を打ち破った。あなたたちは主に渇きを訴えた。あなたたちは地の至るところに散らされた。中には、神の御旨を行う者もいたが、罪に罪を重ねる者もいた。あなたは『主の神殿』の基を強固にし、その中へ命の水を引いた。鉄の道具で切り立った岩をくり抜き、用水地を造った。」

   教会に集う者よ、忘れたのか、と主イエスは言われる。
   「わたしは、ヨハネのところに言った。彼らか洗礼(バプテスマ)を受けるためである。
   わたしが洗礼を受けたとき、天がわたしに向かって開いた。わたしは、神の霊が鳩のように自分の上に降って来るのを見た。そのとき、父が『これはわたしの
   愛する子、わたしの心に適う者』と言ったのを、人々は聞いた。」
   「しかし、ヨハネは後にわたしを不審した。ヨハネはどうなったか。」と主イエスは言われる。わたしは主イエスに言った。「わたしたちは確信に満ち溢れてふるまっており、モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らにみられまいとして、自分の顔に覆いをかけたようなことはしません。しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。 今日に至るまで、聖書が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはあなたにおいて取り除かれるものだからです。
 このため、今日に至るまで聖書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いがかかっています。しかし、偶像から離れ、あなたの方に向き直れば、覆い は取り去られます。 あなたは<霊>です。わたしたちは皆、あなたに覆いを除かれて、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによるこ とです。わたしたちは、憐れみを受けてあなたに仕える者として、その務めを任命されました。わたしたちは、あなたが『終わりの時』に召集される人々 に呼びかけます。」
   すると、主イエスは言われた。
   「それは狼の群れに子羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。
   だれにも挨拶するな。預言の御言葉だけを伝えなさい。わたしの子がそこにいるなら、あなた方はその人を召集しなさい。彼がささげるものを受け取り、彼を迎え入れなさい。 彼はわたしの子である。どこかの教会に迎え入れられたら、出される物を食べ、その教会の病人を『主の神殿』に連れて来て、いやしなさい。
   しかし、教会に迎え入れられなければ、こう伝えなさい。<足についた教会の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ>と。
   その教会は不幸だ。その教会に与えられた預言の御言葉が他の者たちに与えられていれば、その者たちはわたしに迎え入れられることを願い望んだに違いない。
   しかし、裁きの時には、彼らよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。
   あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」
   主イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見た。
   敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたたちに授ける。悪霊も屈服する。」
   主イエスは言われた。「第2の顔は人間の顔。その昔、イスラエルの住民たちは皆、バビロンの王の言葉を侮り、駆けつけて彼らと戦う鮮烈に加わろうとする者はなかった。彼らは王を恐れず、王といえども1人の人間にすぎないと思っていたのである。
  そして彼らは使節の一行を空手で追い返して面目を失わせた。
   このためバビロンの王はこれら全域の住民に対して激しく憤り、王座と王国にかけて誓った。」 教会に言いなさい、と主イエスは言われる。
   「再建されるバビロンの王も、遠征して、諸地方の教会の財を取り立てること、またさら に大量の財を集めることを決意した。」
   「あなたたちは、『主の聖所』にきて、罪を告白し、罪の清めの聖水を受けよ。」
   わたしは『主の聖所』にいる。偶像のある所にいられようか、と主イエスは言われる。
   「牧者と称する者よ、あなたたちは神に願わないのか。
   『<荒野で食卓を整えることが、神にできるだろうか。
   神が岩を打てば水がほとばしり出て、川となり、溢れ流れるが、民にパンを与えることができるだろうか。肉を用意することができるだろうか。>
   主はこれを聞いて憤られた。火はヤコブの中に燃え上がり、怒りはイスラエルの中に燃えさかった。彼らは神を信じようとはせず、御救いに依り頼まなかった。
   それでもなお、神は上から雲に命じ、天の扉を開き、彼らの上にマナを降らせ、食べさせて下った。神は天からの穀物をお与えになり、人は力ある方のパンを食べた。神は食べ飽きるほどの糧を送られた。
   神は東風を天から送り、御力をもって南風を起こし、彼らの上の肉を塵のように降らせ、 翼ある鳥を海辺の砂のように降らせ、彼らの陣営の中に、宿る所の周りに落としてくだ さった。彼らは食べて飽き足りた。神は彼らの欲望を満たしてくださった。」
  神に立ち帰れ。神に立ち帰る者は救われる。」【転載終了】