生活資本主義なる言葉は造語だが・・・
金融資本主義は、
現代のピラミッド型資本主義である事は、
論を待たない!!
つまり、
金融による資本が全てを支配しているのである!
株主が居て、その資本で企業を支配している。又、銀行が居て、その金融資本力で企業を支配している。勿論、銀行も株主が居るわけである。株主による資本が全てを支配しているのである。これが資本主義なのであるが、資本そのものも金融で調達出来る。
頂点に立つのは、金融支配力である。
中央銀行がある。その支配者は、実のところ、民間金融資本家である。
そこが通貨を二束三文で印刷しているのであるから、金融の元はほとんど只である。その通貨は準備制度の下に、預金準備率を自由に扱い、市中の通貨量を調整して、好景気を作りだしているわけである。これを信用創造という。
信用創造と言えば、聞こえがよいが、無から有を作り出す魔法の杖である。
信用しているかどうかは、主観の問題だが、この主観を洗脳により生み出して、運営しているのが金融資本主義である。その主体は中央銀行にある。日本で言えば日本銀行だが、株式会社である。従って、株主が実体権力を握っている。
アメリカでは、連邦準備銀行である。民間である。同じ金融資本家である。言い換えれば、金貸しである。同じ金貸しであっても、共同して金融で資本を作り出す資本家である。
その金融資本家が、国家の通貨発行権を手にしているのであって、世界の通貨発行権を手中に収めているわけであって、もう自由自在の金融特権を保持しているわけであるから、誰も太刀打ち出来ない。
元来、
物が生産されて、受益者に到達するまでは、タイムラグが生ずるから、資金を必要とする。その間の生産資材・貯蔵品は、即換金されないからだ。その間の人的資金、流通資金等々が必要とされるから、前もって資金を提供される事が不可欠である。
そのための信用創造というわけだ。それは、中央銀行を通じて、銀行がその資金の供給元となる。だから、銀行が産業を支配する構造が生まれる。ひいては、大本の中央銀行の株主たる金融資本家の支配構造が生まれる。
物々交換であれば、通貨は必要とされなかった。だが、物は不安定要因がある。季節動向や地方特性がある。又、飢饉や過不足が生ずる。その歪みを埋めるために通貨は考案されたものと考えられる。
それは正当であるが、その交換手段である通貨が、一部の権力に支配された事に諸悪の根源があるのだ。国家権力ならいざ知らず、現在は民間の金融資本家に委ねられている。
現在は、金融資本家というものが、国家を超えた最大の権力者である。これを国際金融資本と呼ばれている。これが諸悪の根源である。
現在の金融資本主義というものが、特定の金融資本家(複数)によって握られており、全ての経済支配を行っているという事である。経済支配は、政治支配に繋がるし、当然、最も資本を必要とする軍事支配も行われる。
これが世界の現実である。
資本により支配された企業は、その運営をする従業者を支配する。従業者は生活のために企業に身を売るのである。心まで売る必要がある。
企業は、有形無形の価値を受益者に提供する事で、成り立っている。その実務を取り持つのは従業者である。従業者は、一面では受益者も兼ねている。大多数の従業者が、受益者を兼ねているから、経済は回るのであるが、最近の経済は少し、おかしくなっている。
企業が競争という名の下、従業者を切り捨て、多くを日雇い労務者のごとく、非正規雇用に邁進しているのである。その原因は、企業の最大利益を求めるエゴから発している。それが国際競争力という大義名分の名の下、行われている。
諸悪の根源は、ここにある。さらにそのもとを辿れば、通貨を支配する金融資本家の利益の最大化である事は容易に推察出来る。その金融資本家は、実体経済の利益率に飽きたらず、金融詐欺にまで手を染めているから、いわゆる国際競争力というものが、実体経済をはるかに凌ぐ苛烈さを示しているのである。
そこには、生活という人間本来の欲求を超えた、飽く事なき利益の最大化の追求にある。
生活ではなく、単なる儲けが目当てであって、それに邁進するものは大いに儲けるが、それにあぶれたものは、大いに貧窮するのである。それが勝ち組と負け組である。
勝ち組は、少数で、負け組は大多数である。
これを是正するとしたら、昔は、革命であろう。今、何を持って革命とするかは、定かではない。相手が見えないからである。
普通、革命とは国家権力を転覆させる事を目的であった。しかし、今は、国家権力を転覆させたところで、状況は変わらない。国家が、金融資本家に支配されているからである。国家権力は国民にあると言うが、実体は金融資本家の代理人に依って、行使されている。
政治家も官僚もその支配人であるから、選挙は単なるセレモニーである。その状況を革命によって覆しても何も変わらない。代理人をすげ替えるだけである。本当の相手は、別のところにあるからである。
不正選挙等というものが、問題になっている。代理人として、相応しくない者が、不正選挙によって除かれるのである。これは常態化していると観て良い。
その追求は、しぶとく大に小に進められなくてはならないが、実体権力が国家に属していない以上、正義はなかなか実現しないのも実情だ。しかし、これを繰り返せば、あぶり出す事が出来るのである。
この原因は、国民自身の目から覆い隠され、洗脳の内にあるからだ。先ず、洗脳が解かれ、真実を知る事から始められなくてはならない。
これには勇気ある行動が必要である。
一つ一つの事件について、真実を明らかにする事である。今般の不正選挙等は、到底、その真実を国家に糾弾させようとする試み(不正選挙に関する行政訴訟)があるが、容易では無かろう。容易ではないだろうが、あぶり出しにはなっていると観測する一人である。
騒ぐ事は出来る。
今回の東京高裁の裁判所争乱事件などはその典型である。大いに騒ごうと思っている。洗脳し、覆い隠そうとする権力からすれば、喩え、代理人であっても、騒がれる事が一番の脅威であり、いやな事なのである。
【五反田の】 独立党 合唱課題曲 【ビクトリア】
やがて、隠しきれない事態が訪れれば、代理人の放逐が始まるかも知れないからだ。これが、今流の革命かも知れない。しかし、その道は、長く、険しい。
大まかに観ると、諸悪の根源は、この金融資本主義の金融資本支配にあるのは間違いない話である。が、細かに観ると、複雑多岐に亘る利権構造が、大木の主根から分かれた子根、細根のように張り巡らされている。
その中で、弱い人間の生活基盤が築かれているのであるから、容易な話ではないのである。
大きくは、政治利権であり、さらに経済利権がある。産業利権は、大企業から零細企業まで繋がるであろう。小さくは、生活利権がある。従業者間でも、その利権の中で生活圏を保っているのである。
現実は厳しい。
政治経済全般が、網の目のように人脈・金脈で繋がっているからだ。諸悪の根源は理解出来ても、それから離れる手段はというと、皆目分からないと言う人々は、圧倒的に多数なのである。
ではどうすれば良いだろうか? それは長くなるので、続きを書く。
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