『本能寺の変』とは、どんな事件だったのか?
それは、織田家臣明智光秀が主君織田信長を裏切って殺害した謀反だった。
・・・「なんだ、ただの釣りか?」「炎上商法に引っかかった!」そんな不満と怒りが聞こえる(笑)。
ちょっと待ってほしい。御歳64歳を迎える筆者が約半世紀に渡って研究した本能寺の変の真実をここに発表する。
まずは本能寺の変が発生した天正十年の時代背景を考えてみよう。この頃の一番大きな出来事は甲斐の武田氏の滅亡だ。信長が一番恐れた大名が武田晴信(信玄)だった。敵対関係にならないよう贈り物を何度と贈り、偶発的にも戦闘とならないように松平元康(徳川家康)と同盟して領土が接しないように配慮しつつ盾に利用した。信玄が病死後も武田二十四将と呼ばれた戦国最強の家臣団の騎馬軍団は健在だった。その武田家を織田・徳川連合軍は長篠の戦いで打ち破り、ついには武田勝頼を自刃させて武田家は滅亡する。東には、まだ上杉・北条などの強敵は残っていたが、信長にとって東で一番気を付けなければならない勢力、それは徳川家だったろう。
徳川の強さは浅井・朝倉や武田との戦いで身に染みてわかっている。武田亡きあと、その徳川家は武田の遺領を一部併合し、また信長が恐れた武田家臣団の武将たちを召し抱えている。元々、信長は同盟者とはいえ家康の力を恐れていた部分があり、家康の正室・築山殿や嫡男・信康を家康に殺すように命じたりして徳川家が必要以上に力をつけることを防いでいる。
ところで、天下統一のしかたには二種類ある。ひとつは日本全土を自分の領土とすること。もうひとつは日本全土を自分の領土か自分に服従した者の領土とすること。豊臣秀吉や徳川家康が達成した天下統一は後者だ。では信長もそうした天下統一を目指していたのか?否、彼は天下布武(武力で天下を治めること)を公言して領土拡大を実行している。浅井長政・松永久秀・荒木村重など信長を裏切った武将は降伏もさせずに攻め滅ぼしている(松永久秀は一度は許された)。また、信長との戦いに敗れて降伏してきた相手を何度も無下に惨殺している。日本全土を自分の領土にする天下統一など不可能と考えるのは凡人の歴史学者の発想で、凡人には想像もできないスケールの信長は考えられない計画を実現しようとしていた。
閑話休題。武田家が滅亡した状況で武田への盾とした徳川家の役割は終わった。むしろ家康に力をつけられて第二の武田家に成られるのはまずい。そこで信長が考えたのは徳川家康暗殺。武田氏との勝利を祝すという名目で家康を安土城へ招き、饗応役を命じた明智光秀に毒殺させる。これが信長のシナリオだった。
徳川家康も信長を100%信用していたわけではない。裏切りが日常茶飯事の戦国時代、いつ自分が裏切られて殺害されるやもしれぬと、常日頃から考えていたろう。武田という強敵が亡くなってすぐの信長からの招きに、暗殺計画かもしれない危惧を当然抱いたはずだ。かといって招きを断れば謀反の疑いとの口実で大軍で攻められることも考えられる。行かない訳にはいかなかった。しかし安全に大軍で出向けば、また謀反の疑いと言われかねない。家康は生命を賭けた博打に応じるしかなかった。
家康毒殺を命じられた光秀は着々と準備を進めていた。そして信長・家康・光秀が顔を揃えた饗宴の席で、家康の家臣が騒ぎ出す。「この魚から異臭がする」と。そのままでは「殿(家康)が食する前に某がお毒見奉る」などと言い出しかねない。それで毒見した家臣が毒死すれば、信長の家康毒殺計画が露見してしまう。咄嗟に信長が機転を働かせる。饗応役の光秀を「徳川殿に腐った魚をお出しするとはなんたるうつけもの!」と殴る蹴るの暴行。光秀も信長の芝居と瞬時に察して抵抗しない。憤慨した振りをした信長は宴は中止と言い放って引っ込む。これでなんとか毒殺未遂は露見を免れる。因みに光秀ほどの武将が毒殺しようとして異臭に気付かないはずがない。この騒ぎは毒殺を恐れた家康が毒見を合理化するために仕組んだものだろう。
しかしこれで信長が家康暗殺を諦めたわけではない。家康に「安土まで来たついでに堺を見物して行ってはどうか?」と持ち掛ける。それで「自分も中国攻めをしている羽柴秀吉の陣中視察に出かける」と伝える。ここで信長が数万の兵を率いて中国へ向かうと言えば、当然家康は堺見物など警戒して承諾するはずがない。自分は数十名の親衛隊と出立して京で茶会など開き信忠率いる本体を待って合流する予定であると言って家康の警戒を解く。実は家康暗殺の実行部隊は、丹波亀山を出た明智光秀率いる数万の大軍だった。
ここまでは、信長と家康の立場で歴史を見てきた。ここからは明智光秀の立場で見て行こう。光秀は信長を100%信用していたのか?否、光秀も信長を完全には信用していなかった。用済みとなった家臣が何名も粛清されるのを目の当たりにしている。佐久間信盛の追放がこの時期に近いので挙げる人が多いが、長年信長に仕えた林秀貞(通勝と記してある書物が多いが誤り)などは信長が機内統一を果たす頃になって、尾張統治を争っていた頃に自分でなく弟の信行に味方した罪を問われて処分されている。光秀もいつ信長から不要として処分されないとは限らない。そして、それは役立たずとして処分されるよりむしろ家康のように「自分にとって脅威の存在」とされた挙句に処分されかねない。例えば、信長から皆殺しにしろと命じられた丹波平定で降伏した波多野氏の助命を嘆願したり、四国平定に置いて長曾我部氏の降伏を認めるよう信長に進言したり、あとから難癖を付けようと思えば付けられるような行動を光秀はいくつかしている。そんな自分にとって最も脅威的な存在である織田信長が僅かな供回りだけで京に投宿している。しかも秀吉の援軍ではなく「家康を討て!」は他ならぬ信長の命令だ。光秀の大軍が中国ではなく東に進んでいる情報が仮に信長の耳に入ったところで何の疑いも持つはずがない。
光秀にとっては千載一遇の好機だった。それは巷で言われるような「自身の天下取りへの好機」ではなく、将来の不安の元凶を葬り去る好機だった。信長暗殺後の光秀のもたもたした行動がそれを物語っている。秀吉の中国大返しが当時としては奇跡的な進行速度だったとしても、天下取りが目的の謀反ならばもっと足場を固める時間はあった。
つまり本能寺の変とは信長の描いたシナリオ通りに織田信長も明智光秀も行動していたが、最後の最後で将来の不安を払拭するために光秀が信長を討った事件である。
最後に、筆者は明智光秀が南光坊天海になったとする説には必ずしも賛同はしないが、歴史にロマンをお持ちの方々にリップサービスするならば、本能寺の変の真相を光秀から聞かされた家康が命の恩人である彼を参謀として取り立てたという話はどうだろうか(笑)?
それは、織田家臣明智光秀が主君織田信長を裏切って殺害した謀反だった。
・・・「なんだ、ただの釣りか?」「炎上商法に引っかかった!」そんな不満と怒りが聞こえる(笑)。
ちょっと待ってほしい。御歳64歳を迎える筆者が約半世紀に渡って研究した本能寺の変の真実をここに発表する。
まずは本能寺の変が発生した天正十年の時代背景を考えてみよう。この頃の一番大きな出来事は甲斐の武田氏の滅亡だ。信長が一番恐れた大名が武田晴信(信玄)だった。敵対関係にならないよう贈り物を何度と贈り、偶発的にも戦闘とならないように松平元康(徳川家康)と同盟して領土が接しないように配慮しつつ盾に利用した。信玄が病死後も武田二十四将と呼ばれた戦国最強の家臣団の騎馬軍団は健在だった。その武田家を織田・徳川連合軍は長篠の戦いで打ち破り、ついには武田勝頼を自刃させて武田家は滅亡する。東には、まだ上杉・北条などの強敵は残っていたが、信長にとって東で一番気を付けなければならない勢力、それは徳川家だったろう。
徳川の強さは浅井・朝倉や武田との戦いで身に染みてわかっている。武田亡きあと、その徳川家は武田の遺領を一部併合し、また信長が恐れた武田家臣団の武将たちを召し抱えている。元々、信長は同盟者とはいえ家康の力を恐れていた部分があり、家康の正室・築山殿や嫡男・信康を家康に殺すように命じたりして徳川家が必要以上に力をつけることを防いでいる。
ところで、天下統一のしかたには二種類ある。ひとつは日本全土を自分の領土とすること。もうひとつは日本全土を自分の領土か自分に服従した者の領土とすること。豊臣秀吉や徳川家康が達成した天下統一は後者だ。では信長もそうした天下統一を目指していたのか?否、彼は天下布武(武力で天下を治めること)を公言して領土拡大を実行している。浅井長政・松永久秀・荒木村重など信長を裏切った武将は降伏もさせずに攻め滅ぼしている(松永久秀は一度は許された)。また、信長との戦いに敗れて降伏してきた相手を何度も無下に惨殺している。日本全土を自分の領土にする天下統一など不可能と考えるのは凡人の歴史学者の発想で、凡人には想像もできないスケールの信長は考えられない計画を実現しようとしていた。
閑話休題。武田家が滅亡した状況で武田への盾とした徳川家の役割は終わった。むしろ家康に力をつけられて第二の武田家に成られるのはまずい。そこで信長が考えたのは徳川家康暗殺。武田氏との勝利を祝すという名目で家康を安土城へ招き、饗応役を命じた明智光秀に毒殺させる。これが信長のシナリオだった。
徳川家康も信長を100%信用していたわけではない。裏切りが日常茶飯事の戦国時代、いつ自分が裏切られて殺害されるやもしれぬと、常日頃から考えていたろう。武田という強敵が亡くなってすぐの信長からの招きに、暗殺計画かもしれない危惧を当然抱いたはずだ。かといって招きを断れば謀反の疑いとの口実で大軍で攻められることも考えられる。行かない訳にはいかなかった。しかし安全に大軍で出向けば、また謀反の疑いと言われかねない。家康は生命を賭けた博打に応じるしかなかった。
家康毒殺を命じられた光秀は着々と準備を進めていた。そして信長・家康・光秀が顔を揃えた饗宴の席で、家康の家臣が騒ぎ出す。「この魚から異臭がする」と。そのままでは「殿(家康)が食する前に某がお毒見奉る」などと言い出しかねない。それで毒見した家臣が毒死すれば、信長の家康毒殺計画が露見してしまう。咄嗟に信長が機転を働かせる。饗応役の光秀を「徳川殿に腐った魚をお出しするとはなんたるうつけもの!」と殴る蹴るの暴行。光秀も信長の芝居と瞬時に察して抵抗しない。憤慨した振りをした信長は宴は中止と言い放って引っ込む。これでなんとか毒殺未遂は露見を免れる。因みに光秀ほどの武将が毒殺しようとして異臭に気付かないはずがない。この騒ぎは毒殺を恐れた家康が毒見を合理化するために仕組んだものだろう。
しかしこれで信長が家康暗殺を諦めたわけではない。家康に「安土まで来たついでに堺を見物して行ってはどうか?」と持ち掛ける。それで「自分も中国攻めをしている羽柴秀吉の陣中視察に出かける」と伝える。ここで信長が数万の兵を率いて中国へ向かうと言えば、当然家康は堺見物など警戒して承諾するはずがない。自分は数十名の親衛隊と出立して京で茶会など開き信忠率いる本体を待って合流する予定であると言って家康の警戒を解く。実は家康暗殺の実行部隊は、丹波亀山を出た明智光秀率いる数万の大軍だった。
ここまでは、信長と家康の立場で歴史を見てきた。ここからは明智光秀の立場で見て行こう。光秀は信長を100%信用していたのか?否、光秀も信長を完全には信用していなかった。用済みとなった家臣が何名も粛清されるのを目の当たりにしている。佐久間信盛の追放がこの時期に近いので挙げる人が多いが、長年信長に仕えた林秀貞(通勝と記してある書物が多いが誤り)などは信長が機内統一を果たす頃になって、尾張統治を争っていた頃に自分でなく弟の信行に味方した罪を問われて処分されている。光秀もいつ信長から不要として処分されないとは限らない。そして、それは役立たずとして処分されるよりむしろ家康のように「自分にとって脅威の存在」とされた挙句に処分されかねない。例えば、信長から皆殺しにしろと命じられた丹波平定で降伏した波多野氏の助命を嘆願したり、四国平定に置いて長曾我部氏の降伏を認めるよう信長に進言したり、あとから難癖を付けようと思えば付けられるような行動を光秀はいくつかしている。そんな自分にとって最も脅威的な存在である織田信長が僅かな供回りだけで京に投宿している。しかも秀吉の援軍ではなく「家康を討て!」は他ならぬ信長の命令だ。光秀の大軍が中国ではなく東に進んでいる情報が仮に信長の耳に入ったところで何の疑いも持つはずがない。
光秀にとっては千載一遇の好機だった。それは巷で言われるような「自身の天下取りへの好機」ではなく、将来の不安の元凶を葬り去る好機だった。信長暗殺後の光秀のもたもたした行動がそれを物語っている。秀吉の中国大返しが当時としては奇跡的な進行速度だったとしても、天下取りが目的の謀反ならばもっと足場を固める時間はあった。
つまり本能寺の変とは信長の描いたシナリオ通りに織田信長も明智光秀も行動していたが、最後の最後で将来の不安を払拭するために光秀が信長を討った事件である。
最後に、筆者は明智光秀が南光坊天海になったとする説には必ずしも賛同はしないが、歴史にロマンをお持ちの方々にリップサービスするならば、本能寺の変の真相を光秀から聞かされた家康が命の恩人である彼を参謀として取り立てたという話はどうだろうか(笑)?
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