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市橋達也の自立

2009年11月17日 01時51分00秒 | 社会・経済
大阪市西成区、通称あいりん(愛隣)地区。過酷な重労働とは不釣合いな低賃金、しかしそれでしか収入を得ることができない人間たちが集う街である。東京なら山谷、横浜なら寿町のような地区。
「寮」とは名ばかりの二畳ほどの狭い寝るだけのスペース。そこに市橋達也は1年以上、潜伏していた。

潜伏中の市橋の行動が次第に明らかにされていくにつれて、奇妙な感慨がわいてくる。
もちろん犯罪行為は決して許されることではない。
ただ、「彼は自立して生活していた」と思え、「やればできるじゃん」みたいな感情がわく。

大学卒業後、彼は定職に就かず親の援助で生活していた。働かずに女性をナンパしたりして過ごす日々。「しょうもないボンボン」を絵に描いたような怠惰な日々。仮に英国人女性死亡(※現時点の容疑は死体遺棄なので、あえて「殺害」という単語は用いない)に関与しなくても、決して尊敬できる人間ではない。
それが逃走という契機によって、ようやく彼は自立した。親への接触は逮捕のリスクが高いため、彼は否応無く親への依存を断たれた。
こう書くと「甘やかした親の責任」みたいな短絡論が出ようが、そうは思えない。親が援助を断って自立を促したとしても、彼が自立したか疑わしい。あるいは「援助しなければ犯罪に手を染めてでも金を手に入れる」と親を脅すようなことがあったかもしれない。

逃走によって市橋が自立できたのは、親への接触が逮捕のリスクによって強制的に断たれたからだ。「捕まりたくないから逃げる」という単純な彼の行動論理で当てはめれば、「頼れる親がいれば脛をかじる」のも同様の論理のように思える。

だが、そんな「しょうもない若者」が逃走者となって見事に自立した。「見事に」という表現は不適切だが……。それは「捕まりたくない」という執念であり、さらに言えば「生きたい」という「生への渇望」だろう。
冒頭の「やればできるじゃん」という感慨はそこに起因する。彼のような若者でもやればできた。
しかし、その契機が一人の女性の死亡であることが、なんともやりきれない。
もっと別の方法で自立できていれば、あるいは彼が罪を犯すこともなかったかもしれない。リンゼイさんの尊い生命も奪われなくて済んだかもしれない。「生への渇望」によって動かされた市橋の人生、その前に彼を変えるエネルギーが生まれなかったのが残念に思う。
彼が自立しようと思えばできる人間だっただけに、なんともそれがやりきれない。


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