マモルが家の玄関を入ると、ちょうど電話が鳴り出した。急いで出てみると、母であった。今病院で湿布薬(しっぷやく)をたくさん貰って重いので、K駅まで迎えに来てくれと言う。K駅までは徒歩で十二、三分で行けるが、母の足なら、三十分近く掛かってしまう。ましてや重い荷物を持って歩くなど、年寄りには自殺行為に等しい。駅前からタクシーに乗ればいいのに、「勿体ない」とかなんとか言って、乗らない。まったくしょうがない、年寄りには世話が焼ける。そう思って、マモルはさっき入ってきたばかりの玄関で、今度はスニーカーを踵までスッポリと履き、また鍵を掛けて家を出た。
家から駅までの道の周りには、緑色が目立つ。田圃や畑も多く、ちょうど田植えの作業を終えて、帰っていく耕うん機と擦れ違った。<太閤園ネオポリス>の周辺は、どこも皆長閑である。五分ほど歩いたところに、交通量の多い旧国道が通っていて、そこの押しボタン式信号機を青にしてから、横断歩道を渡る。つい二、三年前までは、ここには信号機も横断歩道もなかった。だが数ヶ月前に建った薬品会社の外塀で見通しが悪くなってしまったある日、道端に生花と、缶ジュースが供えられていた。「警察に頼んでも、──死人が三人以上出ないと、信号機を設けるわけにはいかない――って言われてしまって……」と訴えている人を、いつだったかテレビのニュースで観たことがあったが、まったくおかしな世の中である。マモルはこの横断歩道を渡る度、いつもそんなことを思い出す。
旧国道を渡って農道に入ると、正面を左右に走る線路が見えてくる。K駅はもうすぐだ。
その時、突然マモルのの後ろで、チャリチャリチャリン! という鈴(りん)の音が、けたたましく鳴り響いた。とっさに道の右端に避けたマモルのすぐ脇を、一台の自転車が猛スピードでビュンと走り抜けて行った。その一瞬、マモルは信じられないものを見た。今尋常とは言えない速さで自分を追い越したその人の、まるでキャッチャーのように後ろ向けに被っていた青い野球帽の鍔(つば)の上に、黄色いBWの文字があった。後ろ姿とはいえ、ついさっき移動図書館の帰りに見た、あの同じシャツ同じズボン。それに何より、青い青いBWの野球帽。その自転車の人は、草谷さんのお爺さんに間違いなかった。くどいようだが、そのスピードは、九十歳を過ぎたよちよち歩きの老人の出すものとは、とても想像できかねる速さであった。
この光景に、マモルははっとさせられた。同時にマモルの頭や胸や腹の内で蠢(うごめ)いていたもやもやしたものが、たった今あの老人のもたらした風によって、何もかも全部吹き飛ばされていったような、清々しい気分になった。ふと見上げれば、梅雨の空を覆っていた灰色の雲は切れ切れになり、その雲の切れ間からは、青い青い空がのぞき始めていた。そういえば、あの気象予報士も言っていたっけ。
「明日は梅雨の中休み。青空が広がって、皆さんハレマッ!、なんて驚かないようにしてくださいね」って……。
マモルは、電車を降りてくる母をK駅で待ち受け、母が重たそうに持っていた、湿布薬のたくさん入った手提げを受取り、二人して家路についた。その途中、マモルは本屋に立ち寄って、珍しくも一冊の文庫本を買った。本屋から出てきたマモルの手にあった文庫本を見て、母は声を上げて笑った。本の表紙には、夏目漱石『坊っちゃん』、という題字があった。
(完)
小説、次の作品は、ミステリー『アジサイ~地下鉄の声~』をお届けします。
家から駅までの道の周りには、緑色が目立つ。田圃や畑も多く、ちょうど田植えの作業を終えて、帰っていく耕うん機と擦れ違った。<太閤園ネオポリス>の周辺は、どこも皆長閑である。五分ほど歩いたところに、交通量の多い旧国道が通っていて、そこの押しボタン式信号機を青にしてから、横断歩道を渡る。つい二、三年前までは、ここには信号機も横断歩道もなかった。だが数ヶ月前に建った薬品会社の外塀で見通しが悪くなってしまったある日、道端に生花と、缶ジュースが供えられていた。「警察に頼んでも、──死人が三人以上出ないと、信号機を設けるわけにはいかない――って言われてしまって……」と訴えている人を、いつだったかテレビのニュースで観たことがあったが、まったくおかしな世の中である。マモルはこの横断歩道を渡る度、いつもそんなことを思い出す。
旧国道を渡って農道に入ると、正面を左右に走る線路が見えてくる。K駅はもうすぐだ。
その時、突然マモルのの後ろで、チャリチャリチャリン! という鈴(りん)の音が、けたたましく鳴り響いた。とっさに道の右端に避けたマモルのすぐ脇を、一台の自転車が猛スピードでビュンと走り抜けて行った。その一瞬、マモルは信じられないものを見た。今尋常とは言えない速さで自分を追い越したその人の、まるでキャッチャーのように後ろ向けに被っていた青い野球帽の鍔(つば)の上に、黄色いBWの文字があった。後ろ姿とはいえ、ついさっき移動図書館の帰りに見た、あの同じシャツ同じズボン。それに何より、青い青いBWの野球帽。その自転車の人は、草谷さんのお爺さんに間違いなかった。くどいようだが、そのスピードは、九十歳を過ぎたよちよち歩きの老人の出すものとは、とても想像できかねる速さであった。
この光景に、マモルははっとさせられた。同時にマモルの頭や胸や腹の内で蠢(うごめ)いていたもやもやしたものが、たった今あの老人のもたらした風によって、何もかも全部吹き飛ばされていったような、清々しい気分になった。ふと見上げれば、梅雨の空を覆っていた灰色の雲は切れ切れになり、その雲の切れ間からは、青い青い空がのぞき始めていた。そういえば、あの気象予報士も言っていたっけ。
「明日は梅雨の中休み。青空が広がって、皆さんハレマッ!、なんて驚かないようにしてくださいね」って……。
マモルは、電車を降りてくる母をK駅で待ち受け、母が重たそうに持っていた、湿布薬のたくさん入った手提げを受取り、二人して家路についた。その途中、マモルは本屋に立ち寄って、珍しくも一冊の文庫本を買った。本屋から出てきたマモルの手にあった文庫本を見て、母は声を上げて笑った。本の表紙には、夏目漱石『坊っちゃん』、という題字があった。
(完)
小説、次の作品は、ミステリー『アジサイ~地下鉄の声~』をお届けします。