西向きのバルコニーから

私立カームラ博物館付属芸能芸術家研究所の日誌

北校舎 15

2006年01月30日 22時26分00秒 | 小説
 ようやく、クラス会は終わった。学校の正門を出ても、まだ名残惜しそうな他の連中とは対照的に、苦痛にさえ感じるその場を、早く立ち去りたかった浩人であったが、ひとつだけ心残りなことがあった。去年の修学旅行の際、乗り物酔いをしやすい浩人の為に、バスの窓際の席を常に譲ってくれた石岡琢也(いしおかたくや)に、一言礼を言いたかったのだ。浩人には、それが去年の言わば唯一のいい思い出であった。
「石岡、ありがとうな」
「何がや?」
「修学旅行の時、俺ばっかり窓際にすわって」
「……」
 浩人にはいい思い出であっても、石岡は記憶にすらないらしい。ぽかんとしている石岡の顔を見た浩人は、素早く自分の財布から千円札を一枚取り出し、それを石岡の手に強引に握らせ、「ほんまにありがとう。ほならな、バイバイ!」と一方的に台詞(せりふ)を吐き、石岡やたむろする皆から逃げるようにして、その場から走り去った。後を追おうとする石岡を振り切って走る浩人の目から、涙がとめどなく溢れた。一枚の千円札は、大黒先生や石岡らといた三年八組に訣別する為の、浩人からのささやかな手切れ金となった。
 浩人は思い出し、考えた。去年彼らの卒業の前に立てた、自身の目標を。それは、アナウンサーになることであった。
 先に卒業していった皆のそのほとんどが、自分の意思ではなく、ただ周りの皆がそうするから、なんとなく主体性のないままに進学していこうとしている。まだ恐らく、誰も自分の将来の仕事について、具体的に計画している奴はいないだろう。それならば、自分はいち早く、将来の具体的な目標を立てよう。それがアナウンサーだった。浩人が小学一年生の時、昼の校内放送で自作の作文を朗読して以来、漠然とながら、アナウンサーという仕事に憧れを感じていた。それを具体化しようと考えた。体の弱い栗栖には無理じゃないかと言う友人もいたが、浩人はその忠告を聞こうとはしなかった。先に行ってしまった皆を、いつかは抜き返したい。その為にも、浩人は抜き返したことを皆に明確にできる仕事に就きたかったのだ。
 もう振り返ることはない。振り返っても、無意味な連中と無駄な時を費やすだけだ。そこに自分の席はない。自分の席は、あの煤ぼけた北校舎にある。大宅が用意してくれた机が三年二組の教室で待ってくれている。自分の席で、自分の目標に向かって頑張るしかない。そう考えた浩人は、またテレビにかじり付きとなった。とはいえ、漫画やバラエティー番組にではない。夏の甲子園の高校野球を一日中観た。ラジオを聴きながらテレビ画面を観て、実況アナウンサーを真似て、口を動かした。それは浩人が心新たにアナウンサーになる為の勉強を本格的に始めたと同時に、二学期に友達と存分にお喋りする為の、ウォーミングアップのようでもあった。

(続く)
 


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