西向きのバルコニーから

私立カームラ博物館付属芸能芸術家研究所の日誌

機種変更

2005年12月14日 00時24分55秒 | 短歌
 携帯はたった二年で機種変更母は八十六年そのまま

携帯電話のバッテリーがついに限界に来た。慌ててショップへ走ったが、あちこちどこの店もお客が多くて、なかなか対応してくれない。ようやくひと駅電車に乗っていったところのショップで、機種変更が出来た。
しかしたった2年しか使っていないものを、もはやお払い箱にしてしまうというのは、どうも勿体ない気がする。これも貧乏性のひとつと言えるのかもしれないが…。
まあ、だが多少便利にはなった。新しい機種は機能も充実していて使いやすい。まったく昨今の技術の進歩には目覚しいものがある。

技術の進歩と言えば、HONDAの二足歩行ロボット「ASIMO」もまた進歩したと、TVのニュースで伝えていた。走るスピードは、これまでの時速3kmから、一気に6kmと倍速になったし、円周歩行やジグザグ歩行も出来るようになったそうだ。
「ASIMO」がまだゆっくりしか歩けない頃、その歩き方が母によく似ていると、皆でよく笑っていたことがあった。その後「ASIMO」はどんどん進化をしていくが、逆に母は段々老化していく。母は「ASIMO」の進化するスピードには、完全にぶっちぎりに抜き去られてしまった。
人間80年も生きたら、誰でも空を飛べるようになったり、部品交換くらい簡単に出来るようになっても不思議でないような気がするのだが…。そんな夢見たいな非科学的なことを思うのは、私だけだろうか…?


関係ないが…、せっかく慌てて機種変更をしたというのに、昨日からまだ一度も、携帯には電話もかかってこないし、メールも来ない。果たしてあの携帯…、ちゃんと音が鳴るのであろうか…。ちょっと不安で、寂しい気分…。

短歌公開のお知らせ

2005年12月13日 00時16分58秒 | 短歌
小説の公開に飽き足らず、併せて自作の短歌を随時公開していきます。

短歌を始めて早10年。莫大な量の短歌を書き溜めてきました。新聞や雑誌などに投稿、採用されたものから、「口語短歌全国大会」佳作作品まで…。季節や情景などを描いた趣のあるものから、人間の心の動き、感情の浮き沈み、社会批判、喜怒哀楽、恋愛等など、名作から拙作駄作、へんてこりんなものまで…。様々な形の短歌を、関連するエピソードを交えながら紹介して参ります。小説ともども、ご愛読宜しくお願い申し上げます!

ではまず手始めに、これまでのWeblogにまつわる短歌を…。

 小一で十七キロで高三で五十キロ今七十五キロ
 今度こそ今度こそ死ぬ死ぬ死ぬと言いつつ生きて四十五歳
 救急車三べん乗って入院は七回したでけんど生きとる

BW(ブルーウェーブ)6

2005年12月12日 00時06分08秒 | 小説
 マモルが家の玄関を入ると、ちょうど電話が鳴り出した。急いで出てみると、母であった。今病院で湿布薬(しっぷやく)をたくさん貰って重いので、K駅まで迎えに来てくれと言う。K駅までは徒歩で十二、三分で行けるが、母の足なら、三十分近く掛かってしまう。ましてや重い荷物を持って歩くなど、年寄りには自殺行為に等しい。駅前からタクシーに乗ればいいのに、「勿体ない」とかなんとか言って、乗らない。まったくしょうがない、年寄りには世話が焼ける。そう思って、マモルはさっき入ってきたばかりの玄関で、今度はスニーカーを踵までスッポリと履き、また鍵を掛けて家を出た。
 家から駅までの道の周りには、緑色が目立つ。田圃や畑も多く、ちょうど田植えの作業を終えて、帰っていく耕うん機と擦れ違った。<太閤園ネオポリス>の周辺は、どこも皆長閑である。五分ほど歩いたところに、交通量の多い旧国道が通っていて、そこの押しボタン式信号機を青にしてから、横断歩道を渡る。つい二、三年前までは、ここには信号機も横断歩道もなかった。だが数ヶ月前に建った薬品会社の外塀で見通しが悪くなってしまったある日、道端に生花と、缶ジュースが供えられていた。「警察に頼んでも、──死人が三人以上出ないと、信号機を設けるわけにはいかない――って言われてしまって……」と訴えている人を、いつだったかテレビのニュースで観たことがあったが、まったくおかしな世の中である。マモルはこの横断歩道を渡る度、いつもそんなことを思い出す。
 旧国道を渡って農道に入ると、正面を左右に走る線路が見えてくる。K駅はもうすぐだ。
 その時、突然マモルのの後ろで、チャリチャリチャリン! という鈴(りん)の音が、けたたましく鳴り響いた。とっさに道の右端に避けたマモルのすぐ脇を、一台の自転車が猛スピードでビュンと走り抜けて行った。その一瞬、マモルは信じられないものを見た。今尋常とは言えない速さで自分を追い越したその人の、まるでキャッチャーのように後ろ向けに被っていた青い野球帽の鍔(つば)の上に、黄色いBWの文字があった。後ろ姿とはいえ、ついさっき移動図書館の帰りに見た、あの同じシャツ同じズボン。それに何より、青い青いBWの野球帽。その自転車の人は、草谷さんのお爺さんに間違いなかった。くどいようだが、そのスピードは、九十歳を過ぎたよちよち歩きの老人の出すものとは、とても想像できかねる速さであった。
 この光景に、マモルははっとさせられた。同時にマモルの頭や胸や腹の内で蠢(うごめ)いていたもやもやしたものが、たった今あの老人のもたらした風によって、何もかも全部吹き飛ばされていったような、清々しい気分になった。ふと見上げれば、梅雨の空を覆っていた灰色の雲は切れ切れになり、その雲の切れ間からは、青い青い空がのぞき始めていた。そういえば、あの気象予報士も言っていたっけ。
「明日は梅雨の中休み。青空が広がって、皆さんハレマッ!、なんて驚かないようにしてくださいね」って……。
 マモルは、電車を降りてくる母をK駅で待ち受け、母が重たそうに持っていた、湿布薬のたくさん入った手提げを受取り、二人して家路についた。その途中、マモルは本屋に立ち寄って、珍しくも一冊の文庫本を買った。本屋から出てきたマモルの手にあった文庫本を見て、母は声を上げて笑った。本の表紙には、夏目漱石『坊っちゃん』、という題字があった。

(完)


小説、次の作品は、ミステリー『アジサイ~地下鉄の声~』をお届けします。

BW(ブルーウェーブ)5

2005年12月11日 00時01分56秒 | 小説
 公園のある希望ヶ丘町の真ん中の道を、スニーカーの踵を踏んづけたまま、マモルは歩いた。道の両側に建ち並ぶ同じような形をした家家の前には、白や紺といった、比較的地味な色をしたクルマばかりが、キチンと列を成すように路上駐車されている。ある家では鳥籠のブンチョウが囀(さえず)り、またある家の門柱には、銀色のふさふさの毛をしたペルシャ猫が、狛犬のように、気取った顔で座っている。誠に絵に描いたような、閑静な住宅街である。マモルは希望ヶ丘町を南の端まで歩いて、手すりのある緩やかなスロープを登った。このスロープの上に、マモルの住む石ノ川町(いしのがわちょう)がある。
 石ノ川の西の岸辺を底辺に、三角形に伸びる石ノ川町は、約六十世帯。<太閤園ネオポリス>の中では、希望ヶ丘町に次ぐ大きな町である。
 左手に石ノ川町、そして右手に希望ヶ丘町を見ながら、マモルはその町と町を隔てる、幅の広い道を歩いていた。すると、道のずっと先の、左側の石ノ川町の、二筋目の通りの角辺りから、一人の老人が姿を見せた。老人は角を曲がって、マモルの方に向かってゆっくりゆっくりと歩いて来る。遠視のマモルには、その老人が自分と同じ石ノ川町内に住む、草谷(くさたに)さんのお爺さんであるということが、すぐに判った。マモルは、以前にも何度か、このお爺さんを見掛けたことがあった。最初に見たのは、もう一年ほど前になる。やはりその日と同じく、移動図書館に母の借りた本を返しに行った帰りだった。お爺さんは、荷物運びにでも使うような台車を押していて、その上には十冊ほどの本が、高く積み上げられて乗っかっていた。よちよち歩きの赤ちゃんみたいな、おぼつかない足取りで台車を押すお爺さんの頭には、青空よりも鮮やかな、青い青い野球帽があって、そしてその帽子の中央には、黄色いBとWの大きな文字が並んでいた。あのプロ野球界のスーパースター、イチロー選手と同じ帽子であった。お爺さんとイチロー選手、その違和感がもっとも強烈な印象となって、マモルの記憶に残っていた。それからも何度か、マモルはこのお爺さんを見掛けた。移動図書館の来ないある日には、杖に頼って歩いていたこともあった。だがいつもいつも、やはりあの青い野球帽を被っていた。そしてまた今日も、である。
 マモルが、同じ老人会に所属する母に訊(き)いたところによると、草谷さんのお爺さんは、もう九十歳を過ぎているのだそうだ。九十歳代にしてあの読書意欲は何だろう? 歩くこともままならない老人の、どこにあれだけ多くの本を読む、読書力が隠されているのだろうか? 本などはほとんど読んだことのないマモルには、到底想像も着くはずはない。きっと歳をとると、そんなことぐらいしか楽しみがなくなってしまうのだろうと、マモルはただ思うのだった。

(続く)


BW(ブルーウェーブ)は、次回第6話、完結拡大版でお届けします!ご期待ください!

ジョン・レノンの死から

2005年12月10日 00時51分38秒 | Weblog
ジョン・レノンが射殺されたのは、1980(昭和55)年12月9日(米現地時間8日)。あれから25年の月日が流れた。

25年前の同じ日、当時大学生だった私は、松原市のアパートから富田林市の文化住宅へと引越しをしている最中だった。免許を持っていた友達に頼んで、レンタカーのトラックを借りて、荷物を載せて走っていた。
ペーパードライバーの為運転に慣れておらず、不安定な友達ともども、助手席の私もスリル満点の緊張したドライブだったが、目的地が近くなるにつれて段々リラックス運転に変わってきたところで、私がカーラジオのスイッチを入れた。そしてラジオに流れてきたのが、「ジョン・レノン射殺」のニュースだった。ビートルズの全盛時代をあまり知らない世代で、また音楽にもそれほど詳しくない私たちにとっても、それは衝撃的なニュースであった。

この事件の数日後、駅前にジュース&ピザの店「FUNNY」がオープンした。この店のマスター(写真)は当時26歳。この事件には大きなショックを受けていたという。
そんなマスターも間もなく52歳。店も開店25周年を迎える。駅前にはマンションが立ち並び、随分と景色も変わってしまったが、「FUNNY」は当時のスタイルをほとんど変えることなく、ほぼあの頃の姿のまま、今も駅前にある。最近では、当時学生だった昔の常連客らが、久し振りに店を訪ねて来てくれることに、マスターは喜びを感じると語ってくれた。
マスターは、現在週に3度ジムに通って、体を鍛えているのだという。そうして店が休みになると、またエエ波を求めて海に出掛ける。
時代は変わっても、「FUNNY」のジュースの味とピザの味と本物のサーファーは、今なおここに健在である。

BRAVO! FUNNY!

BW(ブルーウェーブ)4

2005年12月09日 17時31分36秒 | 小説
 マモルが公園に着いた頃には、バスに積まれたたくさんの本を、既に大勢の人々が囲んでいた。土曜日の午後ということもあって、子供が多い。特に児童図書の棚がある車内には隙間もなく、子供たちが犇(ひしめ)き合うようにして、本を読んでいた。一方大人はというと、ざっと見たところ女性と老人ばかりで、若い男性は一人もいない。マモルが最近読んだ新聞には、リストラで職を失った人や、就職先の決まらない学生たちによって、図書館の利用者が増えている、という記事が出ていたが、さすがに移動図書館にまでは、それらしき傾向は見当たらなかった。しかし子供や女性や老人ばかりなのが、どうも自分には場違いな雰囲気で、いささか寂しくもあった。
 マモルは、母の借りていた二冊の本を返却した。実を言うと、母はテレビ同様、目の負担にならぬようにと、それほど熱心に本を読むことはない。だからその二冊の本も、ほんの数ページしか読まないまま、返却してしまったことになる。母は「読まずに返すなら、もう借りるのはよそう」などと、たまにそういった消極的なことも言うが、結局は自らの読書意欲が勝り、また借りてくる。母のような老人には、何ページ読むか、という結果よりも、読みたい、というその意欲が大切なのだ。それが母のためなのだと、マモルは母の無駄とも思えるその行為を、自分に納得させていた。
 残念ながら、マモルには子供の頃から読書意欲がない。我が子にたくさん本を読ませようと、全五十六巻にも及ぶ『少年少女世界文学全集』を始め、数多くの本を買い与えてきた母の期待を見事に裏切って、マモルはテレビばかり観ていた。マモルが小学校に上がった頃は、ちょうどテレビが白黒からカラーに移行していった時期だった。「時代が、僕を本から遠ざけたのさ」というのが、マモルの言い分、いや、屁理屈であった。本当は、ただ読書が苦手なだけであった。第一それ程までに本を読まない奴が、今自分史を書いているというのだから、その辺りもどうも辻褄(つじつま)が合わない。とにかく本は返した。これで母に頼まれていた用事は、全部済んだ。さて読書意欲がない上に、場違いな雰囲気ときていれば、後はもう逃げるしかない。マモルは、そそくさと公園を出た。

(続く)

BW(ブルーウェーブ)3

2005年12月08日 00時37分25秒 | 小説
 ポーッ、というかん高い時報の音が耳を突き刺し、驚いたマモルは、少し飛び上がるように再び目を覚ました。いつの間にかラジオを子守歌代わりにして、眠ってしまっていたのだ。柱時計の針は、二時を指していた。つけっ放しにしたラジオからは、既に次の番組のパーソナリティーの声がしている。
 不意にマモルは、母に頼まれていたもうひとつの用事を思い出した。それは母が移動図書館から借りていた本を、代わりに返しておいて欲しいということであった。 
 H市は東西に長く、その距離は十キロ以上ある。マモルの住むこの地域は、<太閤園(たいこうえん)ネオポリス>と呼ばれ、H市の東の端に位置しているのであるが、不便なことに、市役所を始め保健所や郵便局、それに大手スーパーや商店街に至るまで、主要な施設は皆西の端に位置していた。クルマのある家庭ならいいが、マモルはその免許すら持っていない。だから移動図書館は重宝した。もっとも、まったくと言っていいほど読書の習慣がないマモルよりもむしろ、マモルの母が重宝していた、と言うほうが正しい。
 移動図書館のバスは、毎月第一第三土曜日に、隣の町内にある、希望ヶ丘町(きぼうがおかちょう)住宅中央公園にやって来る。それも、確か午後二時から二時四十分までだった。慌ててパジャマからGパンとTシャツに着替えたマモルは、玄関の下駄箱の上に母が置いていった二冊の本を小脇に抱え、スニーカーを履き外へ出ようとして足を止めた。壁に掛けられた鏡の中に、髭面の自分がいたからだ。今履いたばかりのスニーカー蹴るように脱ぎ捨て、洗面所の鏡の前で、電気カミソリを回した。一週間ほど放ったらかしにしていた無精髭は、だいぶ長めで、時々カミソリの網目にひっかかって回転を停め、幾度か痛い思いをした。そうしてやっと外に出直し玄関に鍵を掛け、急ぎ足で希望ヶ丘町住宅中央公園に向かった。慌てて履き直したスニーカーの踵(かかと)は、踏んづけたままであった。細かい雨の粒が、時折マモルの頬をかすめるように落ちてはいたが、もう傘を差すほどの雨ではなかった。

(続く)

BW(ブルーウェーブ)2

2005年12月07日 00時19分44秒 | 小説
 正午の時報とともに次の番組が始まった。眠い。まだ十分な睡眠時間をとれていないマモルは、またうつらうつらして、もうラジオのスイッチを切る気力もない。それでも半分夢の中で、ラジオを聴いていた。お笑い系のパーソナリティーの話すたわいもない取り留めのない世間話があって、今度はニュースアナウンサーが、「交通事故の数」「失業者の数」「甲子園球場の観客動員数」の、それぞれの記録更新を伝える。いつもそう感じるのだが、ニュースというものには、比較的明るい話題が少ない。甲子園のニュースにしたって、長年低迷が続いていたタイガースに対する、ファンの切実な思いが込められていて、決して手放しで喜べるニュースではない。そしてそして、また次のお天気コーナーに毎度毎度出てくる気象予報士が、これまたどうも喜べない。
「今日、近畿地方が梅雨に入りました。さて今日がお誕生日の方は、ハッピー・バースデー・ツー・ユーですね」なんぞという、いつもながらつまらないくだらないどうしようもないダジャレを発する。それを夢うつつで聴いているにも拘らず、そんな素人ギャグについまた吹き出してしまう自分が情けなく、不本意で悔しい思いのマモルであった。
 実はマモルはタレントである。つまり玄人である。本名を沢松守(さわまつまもる)といい、苗字なしの片仮名書きの、"マモル〟は芸名である。しかし世間には、その芸名も顔もあまり知られてはいない。つまり売れていない。勿論レギュラー番組もない。月に二度、三度、事務所からCMやドラマなどのオーディションの話は来るが、その内のいくつが、実際の仕事につながるかは分からない。例え仕事につながったところで、たかが知れている。だから食っていけたりいけなかったりで、食っていけない時は、いい歳をして親の脛(すね)をかじる。といっても、八十前の母のぼろぼろの脛は、もうかじる余地もほとんどなく、その味は悲しく苦い。段々切羽詰まってきた今日この頃、マモルはこんなことを考えていた。母に、後どれくらいの寿命が残されているのだろうか? 母の寿命は、マモルの寿命にも関わる。それを想うと、夜眠り難くなった。そしてどうせ眠れないのなら、いっそ起きていて何かやろうと考えた。そこでマモルが思いついたのが、自分史を書くことだった。本当は三十代半ばで、自分史など書くつもりは毛頭ない。まあ自分史と言えば聞こえはいいが、実質は遺書である。努力しても努力しても実らない、そんな馬鹿な自分の生き様を、せめて書き残しておこうと思った。そろそろ自暴自棄になり始めていた。そういうわけで、マモルは昨夜も一晩中起きて、自分史を書いていた。

(続く)

クールダウン

2005年12月06日 15時32分56秒 | Weblog
人間、心が熱くなれば、寒さもあまり感じなくなるものなのか?

今になって思えば、昨日は朝から熱くなっていた。
病院に行く母の為にタクシーを呼ぼうと、電話をかけた。
「○○○のカームラですが…」。「あ、お墓の横の、いつものカームラさんですね」。
待つこと十数分、タクシーが来た。しかし我が家が分からないらしく、パァ~ン、パァ~ンとクラクションを鳴らしながら、辺りをウロウロ探し回っている。堪りかねた私は、家から100㍍ほど離れたところまで歩いていって、クルマを誘導した。運転手は「スンマヘ~ン!」と謝ってはいたが…。
しかし私はブチ切れた。母をクルマに乗せた後、再度タクシー会社に電話をして、文句を言った。「アンタさっき<いつものカームラさん>て言うたんとちゃうんかい?!それやのになんでクラクション鳴らして探しまくらんと分からへん訳あんのんじゃ、このボケ!」。一方的に言いたいことを言って、電話を切った。

しばらく時間が経って冷静になって考えてみると、それほど怒ることでもなっかたように思い、多少反省をした。
この自分でも意外な気持ちの高ぶりは、その夜の撮影で、TVドラマ初となる台詞を貰ったことにあったのだと思う。夜、たった一行の台詞を発することに、朝から興奮をしていたのだと思う。

初めての台詞も無事言い終えて、深夜に及んだ撮影が終了した後、日中降っていた雪は、いつの間にか雨に変わっていた。
ホテルから、まだ夜が明けぬ暗い街に出た頃には、雨は小降りになっていた。交差点で信号待ちをしていた私の前を、屋根に雪を積んだクルマが通り過ぎるのを見た時、私の体が、思わずブルッと震えた。


それにしても、「お墓の横のカームラさん」って…、確かに家の前に墓地はあるが、ゲゲゲの鬼太郎でもあるまいし…。一部の世間様からは、私が世捨て人のような人だと思われているであろうことは自覚していたが、いつの間にか、まさか妖怪扱いされていようとは…ゲゲゲのゲ~!

2005年12月05日 16時06分24秒 | Weblog
この冬、初めての雪となった。
時折、強く吹雪いている。

そんな雪の中、今私は京都の撮影所へと急いでいる。
今夜の撮影は、深夜に及ぶらしい。
恐らく、泊りになるであろう。

それにしても…、寒い!