パソコン検索の不便さとか画一化は、誰でも認めることだろう。ハリーのこだわりは、わからないでもない。しかし、現代のテクノロジー社会の前では、彼の主張は、些少なこととして押しやられてしまう。それを、子供のように抵抗する姿は、痛々しいのだけど、こっけいでもある。精神のバランスに破綻さえきたしていた彼には、自分の前に登場したブライアンは、救いであったはずだ。人は、どこまでも、理解してもらいたいという欲求を持つものだから。
ブライアンは、自分のプライベートをさらけだした必死の説得を試み、それは成功するかに見えた。カード目録をブライアン宅のガレージに保管するという提案に応じて、ハリーは投降することに同意したのだ。ところがハリーが土壇場で気が変わる。ブライアンを蹴飛ばして、図書館に戻ってきてしまう。
このラスト5分が息つまる展開になるのだけど、演劇初心者のカッチイには、何がなんだかかわからないことに(笑)
ネタバレバレの演劇評ですが、ええとハリーは、爆破スイッチを押してしまう、いやその前に一発誰かから撃たれたんだよね。そして大爆発。でエンド。
カード目録というのは、保管するだけじゃ意味を失ってしまう。新刊が入るたびに追加・改訂などのケアを続けていかないとだめなのだ。
それは、コンピュータで作るデータベースも同じこと。インターネットのWebページの生命力の希薄さに驚くことがある。2年も経たないうちに、リンク切れが続出する。むしろ、ネット社会になったからこそ、頻繁に、メンテナンスを行っていかなくちゃいけない。コミニュケーションは、こういうテクノロジーの発達した時代になったからこそ、丁寧に紡いでいかなければならないのだ。ハリーは、ブライアンとのコミニュケーションのなかにこそ、それをたぐったようなのだけど、それを引っ張っていく恐ろしさに絶望したのか?
自分をわかってほしいという欲求から、相手をわかりたい。そして、わかりあいたというプロセスには、ステップがある。その階段を登っていくには、愛と理性と根気がいるのだろう。
舞台は、臨場感がある。役者さんとの距離が、何メートルなんだし、なんたってライブだもん。でも、ちと難解だなあ。
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