秋刀魚の歌
あはれ ・
秋風よ ・
情あらば伝へてよ ・
――男ありて ・
今日の夕餉に ひとり ・
さんまを食<ひて ・
思ひにふける と。 ・
さんま、さんま ・
そが上に青き蜜柑の酸をしたたらせて ・
さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。 ・
そのならひをあやしみなつかしみて女は ・
いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。 ・
あはれ、人に捨てられんとする人妻と ・
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、 ・
愛うすき父を持ちし女の児は ・
小さき箸をあやつりなやみつつ ・
父ならぬ男にさんまの腸をくれむと言ふにあらずや。 ・
あはれ ・
秋風よ ・
汝こそは見つらめ ・
世のつねならぬかの団欒を。 ・
いかに ・
秋風よ ・
いとせめて ・
証かせよ かの一ときの団欒ゆめに非ずと。 ・
あはれ ・
秋風よ ・
情あらば伝へてよ、 ・
夫を失はざりし妻と ・
父を失はざりし幼児とに伝へてよ ・
――男ありて ・
今日の夕餉に ひとり ・
さんまを食ひて ・
涙をながす と。 ・
さんま、さんま、 ・
さんま苦いか塩つぱいか。 ・
そが上に熱き涙をしたたらせて ・
さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。 ・
あはれ ・
げにそは問はまほしくをかし。> ・
「我が一九二二年」(大正12)所収
語釈
【女】【人に捨てられんとする人妻】 谷崎潤一郎夫人、千代子を指す。作者は大正6年頃から谷崎と交遊があったが、潤一郎の心が千代子から離れていくのを見て夫人に同情し、やがてそれが恋にかわる。
【妻にそむかれたる男】 作者自身を指す。作者は大正9年に米谷香代子と離婚している。
【愛うすき父を持ちし女の児】 谷崎夫妻の子を指す。
【世のつねならぬかの団欒】 世間普通ではないあの親しいつどい。「人に捨てられんとする人妻」と「妻にそむかれたる男」と「愛うすき父を持ちし女の児」の団欒を指す。
【夫を失はざりし妻と/父を失はざりし幼児】 千代子がその後、夫に捨てられなかったことを指す。
秋刀魚の歌---佐藤春夫
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