1922年11月、ドルマバフチェ宮殿を後にする、最後の皇帝メフメト6世。
この写真が撮られてから数日後、彼は英国の戦艦でサンレモに亡命。
1926年に同地で没することとなる。
『わたしの里美術館 』
裸のお姫様方の群像絵画。是、ロシアから見たクリミア半島と
見立ててください。田舎のすけべオヤジにしてみれば
『生つばゴックン』だったんですネ。フランスも、しかし英国はもっと狡猾でした。
『トルコ風呂』
マルクスが44歳のころ、大英図書館でもくもくと 『資本論』 を書いていた。そして 80歳をこえたアングルは 『トルコ風呂』 に通い詰めて、おっと違った、上の絵を描いていた。この猥雑ともいえば 云えてしまう絵が出来上がったのが1862年のこと。
セルビアと云えば、学校教育では有名なお話。セルビア人の青年により、オーストリア= ハンガリー帝國の皇太子が殺害された。これがサラエボ事件。1914年6月のことでした。
それより約半世紀前の 1854年から1856年 に起きた戦争がクリミア戦争。アングルが『トルコ風呂』を描く前です。1855年のバリ万国博覧会では、すでに巨匠になっていた彼の大回顧展がひらかれている。
セヴァストーポリ防衛戦
1852年にモンテネグロ公はロシアとオーストリアの後押しで、歴史的宗主国のオスマントルコ帝国に反旗をひるがえした。1853年7月にはオスマン帝国の辺境の民を扇動し、ついにロシアがトルコ軍に襲いかかった。
英国やフランスはトルコを助けるとの名目でこの戦争に介入してきた。満州に進んだ日本帝國から支那を助けるとの名目で、太平洋戦争をしかけてきた米英と似たようなもの。けっかはもう一つの第一次大戦を経てオスマントルコは解体された。大日本帝国も、明治時代のロシアとの戦いでは米英から支援を受けたが、後の大東亜戦争を経て帝国の版図は分割された。政体は改変させられ、帝政はかろうじてシンボルとして温存された。トルコではメフメト6世が追放され、世俗政治つまり欧州謂うところの「共和制」となった。つまり経済は実質イギリスなどの金融の菌糸に侵されるようになった。
わが日本国に於いても新自由主義者言うところの 『地方分権』 とは、このような脈絡で捉えるべし。
日本国は半独立の状況にある。そのシンボル的表現が「日本銀行」である。原則として日本政府が株式の過半数を保有はしている。しかしこの「中央銀行」の運営は独立性があるべしとなっている。このへんが微妙で、日本国の大手のマスコミがコリアに裏から押さえられているのと同様に、隠然とではあるが日本の中央銀行は、ユダヤの支配力の下にある。元の日銀総裁福井俊彦 を見てみれば 、それが理解出来る。
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クリミア戦争は、マグロの解体ショーならぬ、
トルコ帝國の分割戦争の端緒 だったのです
油断していると、支那と雨の狗が対立を粧いながら実は結託して 『沖縄独立』 を画策しているのかも知れません。鳩山氏は表面は「日本国総理大臣」のナリですが、本当は工作員だったりして。『日本は日本人だけのものではありません』 なんて言ってますから、確信犯かもしれません。
つまりトルコ帝國を帝政廃絶、「共和制」(経済は国際金融、民主政治は国民への幻想)となり じっさいは、ユダヤに乗っ取られちゃったンダと思われます。しかし政治敵、国際法的には自立国家です。いまの日本と同じです。
鳩山先生は くるくるパーなのだそうな。確かに軽い言葉を連発する御仁です。この軽い御輿を担がせたのは、コリアに牛耳られた日本の大手マスコミ。その顔役さんに煽られて政権交代となっちゃいました。
デンパな見方をすれば
宮崎県口蹄疫事件は「バイオテロ」の可能性もあります。牛豚をたくさん殺させて、混乱を引きおこしているあいだに、北朝鮮魚雷攻撃事件をデッチ上げて、軍事的脅威を煽る。そして、安保マフィアは「辺野古移転の利権」をもとに戻す。9.11からアフガンそしてイラクへの戦争の流れを見れば、あの基地外どもは普通にしでかすことなのかも。
全欧州をも凌駕する版図を誇っていたオスマントルコ帝國も
現在は下図のような普通の大きさの地方国家となってしまった。
是がほぼ現在の中近東の地図です。オスマントルコ帝国は滅亡。
かつての領土は蚕食と分割の結果、このようになりました。