アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 年譜 其の四

2013年10月06日 | 近世の歴史の裏側

 

○年譜 其の四

 

 

9月26日 忠次郎奪回を企む上植木村小屋番の伜万蔵(29)、玉村宿で捕まる。万蔵所持の

長脇差は刃長2尺6寸6分、銘兼貞の業物、太刀拵えいたと伝えられる。

9月28日 忠次郎、唐丸駕篭に乗せられて雨の中、木崎宿から玉村宿に向かう。

9月29日 忠次郎一行、玉村宿にて関東取締出役の取り調べを受ける。

              梁田宿の上総屋源七、山名村の大黒屋三右衛門、玉村宿に来る。

10月1日前橋の福田屋栄次郎、玉村宿に来る。

1015日 忠次郎一行、玉村宿を出立。

1019日 忠次郎、江戸伝馬町の牢に入れられる。

1030日 江戸青山に潜伏中の高野長英(47)、幕吏に囲まれ自害。

1215日 忠次郎、勘定奉行池田播磨守より、死刑の判決。

1221日  忠次郎、午前11時、大戸関所にて処刑される。

        関所村の村民が警備人足などに動員される。

                   忠次郎の助命嘆願のため、菩提寺養寿寺の貞然法印を初め

          、国定村の名主、15ケ村の人々130名の他に越後、常陸、下野の

           者も助命運動をし、嘆願が百を越えた。

  1226   木崎宿の岡っ引左三郎と馬太郎、勘定奉行より追放と判決される。

嘉永6年(1853年) 

      ペール来航    

 

      田部井村名主宇右衛門‥忠次郎と博奕を相催し不当の利を稼ぎ

忠次郎を匿った罪、不届きに付き死罪(牢の庭にて打首)

          国定村の子分清五郎‥‥‥不届きに付き遠島。

          田部井村の子分庄八‥‥‥不埒に付き罰金3貫文。

          お徳とお町‥‥‥不埒に付き押込み(家で謹慎)。

          国定村の子分次郎右衛門と八寸村の子分七兵衛‥不届きに付き追放。

          世良田村の名主幸助‥忠次郎より金を受け取り手助けせし罪(贈賄)、

不埒に付き罰金5貫文となる。

              国定村の名主又兵衛と村役‥不埒に付き罰金5貫文と3貫文。

              宇右衛門妻と伜‥‥‥不埒に付きお叱り。

              田部井村村役たち‥‥‥不埒に付きお叱り。

              国定村の子分喜代松‥‥‥牢死。

              忠次郎の首が養寿寺の貞然のもとに届く。

              貞然は忠次郎に『長岡院法誉花楽居士』の戒名を贈る。

同4年(1851

        羽倉簡堂『赤城録』を著す。

                 田崎草雲、忠次郎の画像を描く。