広告代理店に勤めるハワード(ウィル・スミス)は、
6歳の娘を病気で亡くし、生きる屍のような堕落した毎日を送っていた。
そんな彼を元に戻そうと、仲間たち(エドワード・ノートン、ケイト・エインスレット、マイケル・ペーニャ)が奮起する話。
いやー、なんかあんまりパッとしなかったんだよなあ。
人物背景とか設定はわかるんだけど、
ハワードを元気づける手法が、全然共感できなくて(笑)
ハワードは、広告において大事なことは
愛と時間と死だと物語の冒頭で言っていて、
娘が亡くなったことで、行き場のないやるせなさからか、
その愛と時間と死宛てに手紙を書くんだよね。
もちろん宛先なんてないよ。
宛てのない手紙をポストに投函。
んで、ハワードを尾行させるために雇った探偵経由で、
その手紙の存在を知った仲間たちが、
役者を使ってそれぞれに愛、時間、死の役を与え、
ハワードに接触させることで、彼自身が今普通じゃないことを悟らせ、
元に戻そうと画策する。
その役者たちが、下記の通り。
愛=キーラ・ナイトレイ
時間=ジェイコブ・ラティモア
死=ヘレン・ミリン
なんか子供だましだなと思ってしまった。
一応、他の人には見えないという設定で接触するんだけど、、、
あ、そんなことはないよ。普通に見えてるんだよ?
見えてるんだけど、ハワードの前ではそういう設定で接するってだけ。
これが、ファンタジー映画で本当に見えない妖精とかがいるならまだしも、
現実的な映画で、こんないい歳したおっさんに、そんなことすんの?!ってまったく共感できず。。。
しかもその役者たちの働きがよくわからないまま、
結局、カウンセリングをやってる元妻の支えにより復活するっていうね。
もはやあの3人の意味、そんなないじゃんっていう。。。
まあ、映画はそんな感じなんだけど、
日本版のサイトにあるこの企画がけっこうよくないなと思い。
http://wwws.warnerbros.co.jp/subarashiki-movie/special.html
なんだこのズレてる感。。。
確かにウィル・スミスは広告代理店勤務という設定だったけど、
じゃあ物語の中で広告感あったかというと、ないからね。
彼の「広告とは何か」を伝えるシーンや、
エドワード・ノートンがキーラ・ナイトレイと知り合うシーンにおいては、
広告っていうものが少し機能しているけれど、
別にこれ業界映画でもなければ、ビジネス映画でもなく、
ただのヒューマン映画だから、そもそも職業なんでもよかったって気はする。
だから、こういう企画があると、間違いなく映画本編に対する間違った印象づけをすると思ってる。
よくない!!
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