(右に東赤坂駅が見える踏み切り)
(中山道の案内もある)
(赤坂宿)
東赤坂駅が右手にある近鉄養老線の踏切を渡る。
踏切には、中山道の案内看板もある。
100mほど進むと、左に入る道路がありそちらへ向う。
これが「七回り半」の道路の七回り目の曲がり道かもしれない。
しかも直角ではなく30℃ほどの角度で曲がるから、
これが「七回り半」の「半」なのかもしれない。
「中山道左」の案内もキチンとあり解りやすい。
(中山道左の案内)
(宝樹山徳藏寺の石碑)
(徳藏寺の鐘楼と本堂)
少し進んだ左手に真宗大谷派 宝樹山徳藏寺がある。
白壁の美しいお寺の鐘楼と本堂も美しい。
田舎に行けば行くほど寺院は整備され美しい。
中山道を進むと左手に白山神社が見える。
白山神社の手前の川の橋に欄干に
(中山道)の小さなラベルが貼ってある。
さらにその先の民家の前に(中山道一里塚跡)の石碑が建っている。
江戸から数えて110番目(江戸から440km)の
記念すべき一里塚であるが、
塚の跡らしきものは何も残っていない。
京都まで残り100kmを切ったところである。
(白山神社)
(橋の欄干の中山道のラベル)
(一里塚跡の碑)
その先変則な十字路に出るが、
道路向こう側に(中山道)の案内看板が見えるのでそちらに進む。
道なりに進むと、逆Y字路に出て、その先が信号(赤坂大橋東)に出る。
逆Y字の股の部分に常夜灯があり、その竿の部分が道標になっており、
正面に(交通安全)、右側に(右おおがきみち)、
左側に(左なかせんどう)と刻まれている。
つまり大垣道と中山道の追分である。
(変則十字路)
(向こうに中山道の案内がある)
(逆Y字路、中央に常夜灯がある)
(常夜灯の道標「右おおがきみち」)
目の前の杭瀬川を渡る赤坂大橋を渡ろうとすると、
帰宅途中の男子中学生が大勢がやがや騒いでいる。
輪の中をのぞいてみると、大きな蛇(あおだいしょう)が、
橋の石垣の隙間にもぐりこもうとしている。
石垣の間から出てきたところを中学生に見つけられて、
恐る恐る尻込みしているところであった。
蛇は前に進んでもバックはできないものとボクは思い込んでいたので、
何か新しい発見をしたようで、
うれしいような、儲かったような気持ちになって
すこぶる気持ちが高揚した。
これが災いの元で、後で痛い目に遭うことになった。
(杭瀬川の赤坂大橋)
「赤坂大橋東」の信号と橋と中山道の案内)
(橋を渡り終えた所)
橋のたもとにも(中山道)の案内看板はあるので、
見落としが無いように確認して進もう。
この橋を渡る手前から描かれた図が、
歌川広重の浮世絵「木曽海道六拾九次之内 赤坂」であるという。
(図は宿場の東側を流れる杭瀬川を描いていると思われる。
杭瀬川にかかる土橋とその向こうに望む赤坂宿で、
丁度雨上がりらしく、
橋を渡るご婦人が持つ傘が閉じられようとしている。
広重描く杭瀬川は川幅も狭く浅瀬になっているが、
実際は赤坂湊として桑名との間に船運が発達しており、
数百層の舟が出入りしていたものだという。)
(「木曽海道六拾九次之内 赤坂」より抜粋)
(広重の浮世絵「赤坂」)
中山道を少し進むと次の十字路の先が川になっており、
道路右手にその赤坂港跡がある。
その赤坂港の左手に天高く雲つくようにそびえる火の見櫓が目立つ。
どちらかと言うとこの木造の火の見櫓の反対側に、
赤坂港があるといったほうが解りやすい。
大垣市赤坂商工会発行の小冊子によると、
(赤坂港は昔、西美濃の産物や金生山の石灰等を運ぶ、
水運交通の要所で、かっては数百艘の舟が出入りした。
その跡に往時を偲ぶ常夜灯が残されており、
港会館が復元された。)とある。
昔は数百艘の舟で賑わったというが、
今は非常に静かで川面も穏やかで、
とてもその賑わいを想像できない。
杭瀬川は元揖斐川の本流であったという。
先ほど通った赤坂大橋が杭瀬川の上にあった事から考えると、
昔、この杭瀬川は赤坂大橋から赤坂港のあるところまで、
広い川幅だったに違いない。
そうでなければ数百艘の船を想像すら難しい。
(火の見櫓)
(赤坂港と赤坂港会館と常夜灯)
(今は小さくて穏やかな港公園)