(八百屋 お七)
本郷追分を左折してしばらく進むと、誠之小学校前の信号があるが、
ここから白山一丁目の信号に出るまでの左側に、
三つの坂道が並んでいる。
手前にある坂(丸山新町と駒込西片町との境)には、
「胸突き坂」次に中坂があり、一番北側に浄心寺坂
(お七坂とも言う)がある。「胸突き坂は」都内23区に
四つあるが、そのうち三つは文京区にある。
文京区には、如何に坂道が多くあるかが判る。(文京区)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/8b/7acfc3820cd83c9ab560983b5c0f70fc.jpg)
(胸突き坂)
俗に「胸突き八丁」と言うが、辞書を引くと、
「胸突き八丁」=〔広義では、物事の成就する手前の一番苦しい時を指す〕
とあるが、発祥はここの坂からでたようだ。
坂が急で道路が胸を突くような急な坂のことを言うらしい。
転じて、物事の成功前の一番苦しい時を言う。
なお、「胸突坂のすぐ南に誠之小学校がある。旧福山藩主から
敷地400坪を50年無償、校舎などの寄付を受けた。
この辺りは、福山藩の中屋敷があり、誠之館と名づけられた
江戸の藩校があった。四書の「中庸」にある
(之を誠にするは人の道なり)の誠之館から名をとり
学校名にした由緒ある小学校がある。」(文京区教育委員会)
中山道に戻り進む。白山一丁目の信号を左折する。
急坂を降りきる途中の右側に、天台宗 円乗寺がある。
ここが八百屋お七の墓がある所だ。
やや奥まったところにそのお墓はある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/02/689c9e39c13589ea99c356c8635920a8.jpg)
(円乗寺)
「お七については、井原西鶴の「好色五人女」など
古来いろいろ書かれて語られて異説が多い。
お七の生まれは駒込片町で、かなりな八百屋であった。
天和の大火、天和2年(1682年)12月、
近くの寺院から出火で、お七の家が焼けて、
菩提寺の円乗寺に避難中、寺の小姓 吉三郎と恋仲になった。
やがて家は再建されて自家に戻るが、
お七は吉三郎に逢いたい一心で付け火をした。
家が燃えればまた菩提寺で吉三郎に逢えると考えたのだ。
女心が良く出ている。
当時放火は大罪(今でも大罪に変わりないが)で、
火あぶりの刑に処せられた。16歳であった。
三基の墓石のうち、中央がお寺の住職が建て、右側が寛政年間に
お七を演じて好評だった岩井半四郎が建て、左側は近所の有志が
270回忌の供養で建立したものである。」(文京区教育委員会)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/39/2b0eedf15f60c8d52f97be105be38a19.jpg)
(お七の墓は三基ある)
お七坂を下って真っすぐ進むと、白山下の信号に出るが、
直進すると登り坂になり、坂の頂上付近から下る右側に
林が見えてくる。東京大学付属小石川植物園、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/8b/c2285f575c54b5c3ad2c1df6eb813974.jpg)
(小石川植物園への案内看板)
本郷追分を左折してしばらく進むと、誠之小学校前の信号があるが、
ここから白山一丁目の信号に出るまでの左側に、
三つの坂道が並んでいる。
手前にある坂(丸山新町と駒込西片町との境)には、
「胸突き坂」次に中坂があり、一番北側に浄心寺坂
(お七坂とも言う)がある。「胸突き坂は」都内23区に
四つあるが、そのうち三つは文京区にある。
文京区には、如何に坂道が多くあるかが判る。(文京区)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/8b/7acfc3820cd83c9ab560983b5c0f70fc.jpg)
(胸突き坂)
俗に「胸突き八丁」と言うが、辞書を引くと、
「胸突き八丁」=〔広義では、物事の成就する手前の一番苦しい時を指す〕
とあるが、発祥はここの坂からでたようだ。
坂が急で道路が胸を突くような急な坂のことを言うらしい。
転じて、物事の成功前の一番苦しい時を言う。
なお、「胸突坂のすぐ南に誠之小学校がある。旧福山藩主から
敷地400坪を50年無償、校舎などの寄付を受けた。
この辺りは、福山藩の中屋敷があり、誠之館と名づけられた
江戸の藩校があった。四書の「中庸」にある
(之を誠にするは人の道なり)の誠之館から名をとり
学校名にした由緒ある小学校がある。」(文京区教育委員会)
中山道に戻り進む。白山一丁目の信号を左折する。
急坂を降りきる途中の右側に、天台宗 円乗寺がある。
ここが八百屋お七の墓がある所だ。
やや奥まったところにそのお墓はある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/02/689c9e39c13589ea99c356c8635920a8.jpg)
(円乗寺)
「お七については、井原西鶴の「好色五人女」など
古来いろいろ書かれて語られて異説が多い。
お七の生まれは駒込片町で、かなりな八百屋であった。
天和の大火、天和2年(1682年)12月、
近くの寺院から出火で、お七の家が焼けて、
菩提寺の円乗寺に避難中、寺の小姓 吉三郎と恋仲になった。
やがて家は再建されて自家に戻るが、
お七は吉三郎に逢いたい一心で付け火をした。
家が燃えればまた菩提寺で吉三郎に逢えると考えたのだ。
女心が良く出ている。
当時放火は大罪(今でも大罪に変わりないが)で、
火あぶりの刑に処せられた。16歳であった。
三基の墓石のうち、中央がお寺の住職が建て、右側が寛政年間に
お七を演じて好評だった岩井半四郎が建て、左側は近所の有志が
270回忌の供養で建立したものである。」(文京区教育委員会)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/39/2b0eedf15f60c8d52f97be105be38a19.jpg)
(お七の墓は三基ある)
お七坂を下って真っすぐ進むと、白山下の信号に出るが、
直進すると登り坂になり、坂の頂上付近から下る右側に
林が見えてくる。東京大学付属小石川植物園、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/8b/c2285f575c54b5c3ad2c1df6eb813974.jpg)
(小石川植物園への案内看板)
通称小石川植物園に出る。植物園の中はかなり広く、
訪れるには弁当持参で一日がかりとなるので、
別の日に訪れるのがよいと思われる。
春の桜の時期がとてもよい。
桜だけで150種類はあり、あまり知られていないが、
ニュートンが「万有引力の法則」を発見するきっかけとなった
リンゴの木もある。
入場料は確か330円。
「元々は、徳川綱吉候が館林藩主であった頃の屋敷跡で、
将軍になってからは、薬草園となり、享保七年(1722)
「赤ひげ」で有名な小石川養生所になり、
享保20年には、青木昆陽が甘藷を試作した。
明治になって東京大学の付属植物園となった。
植物園の松の花さへ咲くものを
離れてひとり棲むもみやこに
若山 牧水(1885~1928)」
(文京区教育委員会)
中山道に戻って少し進むと、右側に「ほうろくじぞう」大円寺を
朱書した石柱がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/f2/6e242cde42a5f6d2c22726c163cdbb1c.jpg)
(大円寺の石柱)
「ほうろく」とは、素焼きの土鍋のことで、
戦前までは、豆を炒ったりするときに使った。
熱した焙烙(ほうろく)をかぶったお地蔵様は
自ら焦熱の苦しみを受けることで、
火あぶりの刑を受けた八百屋お七を供養しているという。
その後このお地蔵様は、頭痛、目、鼻、耳などの首から上の
病気を治すことで、霊験あらたかな地蔵として信仰を集めた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/63/651b8c4e51e04c74c4510ee15754df5f.jpg)
(ほうろく地蔵)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/fe/fac4df8e861b3f5d2888333241a2ecb6.jpg)
(願いが叶ったお礼のほうろくの数々)
同寺の墓地の奥の奥に、幕末の砲術家 高島秋帆のお墓があり、
国史跡になっている。
高島秋帆は東京都板橋区の大湿地帯の徳丸が原を、
大砲の演習場とした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/c4/c4755ba0833631328e99e64309610ed9.jpg)
(高島秋帆の墓)
昭和48年(1973年)この地をならし宅地造成し、
東京のマンモス団地となったが、この高島秋帆の
名をとって高島平とし、現在は4km四方に6.4万世帯が住む、
東京の一大ベッドタウンになっている。
ここを出て進むと白山上に出るが、「旧中山道を歩く」の
第一日目はここで終えたい。そして都営地下鉄「白山」駅で
帰路の着くことにした。 歩いて20km以上になった。
火あぶりの刑を受けた八百屋お七を供養しているという。
その後このお地蔵様は、頭痛、目、鼻、耳などの首から上の
病気を治すことで、霊験あらたかな地蔵として信仰を集めた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/63/651b8c4e51e04c74c4510ee15754df5f.jpg)
(ほうろく地蔵)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/fe/fac4df8e861b3f5d2888333241a2ecb6.jpg)
(願いが叶ったお礼のほうろくの数々)
同寺の墓地の奥の奥に、幕末の砲術家 高島秋帆のお墓があり、
国史跡になっている。
高島秋帆は東京都板橋区の大湿地帯の徳丸が原を、
大砲の演習場とした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/c4/c4755ba0833631328e99e64309610ed9.jpg)
(高島秋帆の墓)
昭和48年(1973年)この地をならし宅地造成し、
東京のマンモス団地となったが、この高島秋帆の
名をとって高島平とし、現在は4km四方に6.4万世帯が住む、
東京の一大ベッドタウンになっている。
ここを出て進むと白山上に出るが、「旧中山道を歩く」の
第一日目はここで終えたい。そして都営地下鉄「白山」駅で
帰路の着くことにした。 歩いて20km以上になった。
凄い! さっき全部印刷にかけたら41枚ありました。 とても素敵な本になりそうです。
後やりたいことは地図を買ってきて ひでさんの歩いた後や情報を書き込むこと
いつもわくわくしてやませていただいています。さすが日本の中心 どこにも歴史を感じるものが盛りだくさん。
嬉しいですね
中山道って、ほんとにいろんな話の種が埋もれているのですね。
もう少し歩くと今度はお岩さんがありますよ!
どらさん
お元気そうで何よりです。
中山道第一の宿場町板橋宿まで、
わき道しないで歩くと、十kmほどですが
これを寄り道しながら歩いたので
四日かかりました。
もし初めての人が歩いて、
納得がいくまで観て歩くと、
一週間以上かかるのではないでしょうか?