由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

明治婦人たちの光芒

2025年01月05日 | 近現代史

橋本周延・画 於鹿鳴館貴婦人慈善会之図 明治20年

メインテキスト:山田風太郎「エドの舞踏会」(初出:『週刊文春』昭和57年1月7日~10月14日/文藝春秋社昭和58年刊/文春文庫昭和61年/ちくま文庫『山田風太郎明治小説全集 八』平成9年)

 正月でもあるし、たまには華やかな話をしてみたくなりました。それで、山田風太郎の傑作小説を元に、文明開化期の日本に彩りを添えた女性たちについて、漫然と語ってみます。

 鹿鳴館は、外務卿(明治18年の内閣制度発足後は外務大臣)井上馨の案で、明治16(1884)年、内山下町の旧薩摩藩邸跡地にできた、敷地面積100坪ほど、洋館二階建ての豪奢な社交場である。
 幕末に結ばれた不平等条約、特に治外法権制度の撤廃を目指して、日本は野蛮国ではない、と欧米各国にアピールするために、あちらの上流階級の風俗である女性中心の夜会だか舞踏会、それにチャリティ・バザーなるものもやってみせよう、そのための会場として作られた。

 いやあ、文明開化から20年も経っていない時期に、よくやったなあ、と感心半分呆れ半分に思う場合が今も昔も多いことだろう。特に舞踏会は。
 大人数相手の饗応や宴会はもちろん日本でも昔からあり、江戸時代には一般に芸者と呼ばれるプロの女性が歌や踊りやおしゃべりで雰囲気を盛り上げる要員をしたことはあっても、彼女たちはあくまで脇役。
 だいたい、冠婚葬祭は別として、身分の高い女性が着飾って酒席へ出てくることも、夫婦同伴で招かれるようなこともなかった。レディ・ファーストとか言って、少なくとも表面上、女性が重んじられる、などというマナー(社会的行動規範・様式)なんて、てんから必要性が感じられていなかった。

 西洋風のパーティで最重要視された、女性に期待される一番のアトラクティヴ・ポイントは優美さであり、二番目は会話を盛り上げる当意即妙の機転である。
 日本女性は、一番目の点で、洋服を着慣れていない。それもシンプルなものではなく、夜会服は、当時フランスで流行していたというバッスル・スタイルというやつ(今もありますか?)。
 ヒップラインを強調するのだというけれど、スカートの中に鯨のヒゲや鉄板(これがバッスル)を入れて後ろに大きく突き出したもので、とても重いのだそうだ。踊るどころか歩くのもたいへん、いやその状態で椅子に座れたのか? なんて余計な心配までしてしまう。
 そこまでして、これ、カッコいいかしら? 私のようなファッションセンスがゼロの男の目から見たら、だけでなく、蜂みたいだ、いや、鶏か、云々の悪口は昔からけっこうあったと聞く。

 二番目の点では、おもてなしの主な対象は外国人なわけだが、彼等に気の利いたことを言える言えない以前に、外国語が話せない。
 例外として、夫の赴任に同行して2年間欧米に滞在し、語学だけではなく社交術も学んだという井上馨夫人・武子や、日本最初の女子留学生の一人として津田梅子らと渡米して彼の地で11年間過ごし、ヴァッサー大学を卒業して日本の女性学位取得者第一号となった大山巌(日露戦争時の元帥・陸軍大将)夫人・捨松など、他にも何人かいたが、あくまで例外。
 勢い鹿鳴館に集められた日本の貴婦人たちは、文字通り「壁の花」よろしく、ただいるだけの存在になるしかなかった。

 それでいていわゆる鹿鳴館外交が所期の目的に役立ったのかと言うと、明治20年には条約改正交渉はいったん打ち切られて井上は辞任、23年からは鹿鳴館自体が華族会館となって、その後大きな催しには使われなくなったのだから、この試みは失敗と言うしかないようだ。
 所詮は欧米の単なるサル真似を演じたに過ぎない、などと、当時から今まで、日本人からも外国人からも批判されている。
 しかし私は、新時代の日本の面目をなんとか立てようとする必死の努力を、特にそのために無理に駆り出された女性たちの苦労を、嗤う気にはなれない。数々の無益と有害を重ねた果てに、現在の日本があるのは確かなのだから。

 「エドの舞踏会」は、明治18年、海軍少佐・山本権兵衛(ごんべえ、が元の読み方だが、偉くなってからは、ごんのひょうえ、と呼びならわされている)が、自分が艦長を務めていた横須賀に停泊中の軍艦・天城を夫人に見せに行った帰途、新橋駅前で陸軍中将・西郷従道(西郷隆盛の弟、大山巌の従兄弟)に呼びとめられ、夫婦で馬車に同乗させられたところから始まる。
 車中権兵衛は西郷から思いもかけないことを依頼される。鹿鳴館の夜会が盛り上がらない、殊にご婦人がたの集まりが悪くて困る。ついては山本夫妻を初め、他の海軍士官にも呼びかけて、出席してもらえないか、というもの。
 権兵衛はにべもなく断る。海軍では、陸軍も同じことだが、旧幕時代の武士の気風を色濃く残していて、軟弱極まるダンスなんぞやっていられるか、という思いが一般であり、権兵衛自身もその点では全く同意見だったのだ。
 しかしこの年の暮れ、内閣制度が発足すると、なんと西郷が海軍大臣となり(陸軍中将がいきなり海軍大臣というのは、その後例がない)、権兵衛はその伝令使(後の大臣秘書官に当る)に抜擢される。
 兄・大西郷と同様何事も鷹揚で細かいことには口を出さないこの大臣の下で、権兵衛が辣腕を揮い、日本海軍の基礎を築いたのは歴史家の認めるところだが、この小説中のフィクションとして、彼はまた鹿鳴館がらみの仕事を命じられる。

 直接には大山捨松のことだ。
 今で言う帰国子女、それも非常に稀少な存在だった時代に、他のご婦人方にダンスや簡単な英語や夜会の場での作法を教え、井上武子と並ぶ鹿鳴館外交の女性リーダー格だった人が、そのために国粋主義者の怒りを買い、脅迫状も来れば実際に襲撃計画もたてられたところから、閉口して鹿鳴館に姿を現さなくなってしまった。
 これは日本にとって一大事だ。権兵衛は彼女に付き従って護衛をするとともに、ご婦人方のダンスの練習相手もつとめるように、と。
 護衛はともかく相変わらずダンスは渋る権兵衛に、西郷は「西洋の猿真似と言えば、海軍も陸軍もそうではなかか」「この件、この際、お国にとって、敵艦何隻かを撃沈するにまさる大功じゃ」と叱り飛ばす。
 直接の上官から言われたのでは依頼ではなく命令だ。やむを得ず捨松を訪ねると、こちらはこちらで、「帰ってから日本で、そんなことをするために、向うの大学で勉強したのじゃなかったのですわ」とぼやきつつも、権兵衛の朴訥な率直さにうたれて、とりあえず西郷主催の会を成功させるべく、権兵衛同道の上で、顕官夫人たちの説得に廻ることにする。

大山捨松

 これが発端で、以後読者はこの二人に案内されるかっこうで、井上馨、伊藤博文、山縣有朋、黒田清隆、森有礼、大隈重信、陸奥宗光、ル・シャンドル、の各夫人に出会う。小説全体は、彼女たちを主人公にした短編連作と見るのが一番適当。
 そこでの一番の問題は、当然、国際外交などではなく、夫婦関係であった。

 時代は日本のジャーナリズムの草創期でもあった。横浜毎日新聞(明治3年)、東京日日新聞(5年)などの、政論主体のインテリ向け大(おお)新聞の他に、庶民向け娯楽本位の小(こ)新聞としては、読売新聞(7年)、朝日新聞(12年)などが既に出ていた。
 この二つの区分はすぐに消えていったが、後者の分野で、一番のウリと言えば、今も変らない、スキャンダルだ。それも著名人の、下半身絡みのゴシップは、いつも需要があった。
 ただ身分社会では、上流階級への遠慮は当然のことで、活字、ではなくて版木を彫って刷るような際には、名前はもちろん、場所も時代も変える粉飾を施さなくてはならなかったが、五箇条の御誓文以来、たてまえ上皇室以外の四民は平等になっていた。
 そこへ貴婦人たちが、鹿鳴館外交のおかげで、お飾りではあっても社会の表舞台に出てきたのだ。さらに都合がいいこと(でしょう?)に、明治初期の高位顕官の妻女には、庶民の、それも花柳界出身者が珍しくなかった。
 なにしろ維新の元勲と言えば旧来の藩内では中流か下流の武士で、上流家庭から嫁を娶ることなど望めない身分の者で占められていたので、特定の芸妓と馴染みになると、そのまま結婚するのにもあまり抵抗はなかったからだ。

 古くは維新三傑の一人木戸孝允夫人・松子が幾松の名で京の芸妓をしていたのは有名。その他に伊藤博文の二度目の夫人・梅子や陸奥宗光夫人・亮子も元芸妓である。また井上武子と大隈重信夫人・綾子は、ともにれっきとした旗本の家出身だが、維新後零落したため、若い頃同じ茶屋で奉公していたという噂があった。

【今気がついたのですが、維新政府における長州閥の有力者の、有名な夫人の名前を読みで並べると、マツ・タケ・ウメになりまして、なんとなくお目出度い。呵々。】

 一番ドラマチックな結婚をしたのは、最初に登場した山本権兵衛夫妻である。夫人の登喜子は新潟の貧農出身で、品川の遊女に売られたものを、権兵衛が見初めて、なんと夜間、海軍の仲間とボートで品川沖から侵入して、彼女を強奪したのだ。
 いわゆる「女郎の足抜け」。明治5年には太政官布告・人身売買禁止令と司法省達・芸娼妓解放令が出て、強制的な売春は名目上禁止されたが、売春そのものが非合法になったわけではなく、金銭による縛りの点では年季奉公が前借金に変わっただけで、江戸時代からの遊里の慣習は実質的には残っていた。
 それからしたら権兵衛のやったことが無事に済むわけはなかった。しかし、遊郭側としても上得意の海軍と正面から揉めるのは避けたかったらしく、結局は金を払って身請けの形にして収まった。最初からそうすればよかったんじゃないか、と思えるけれど、権兵衛としては、登喜子をそんな場所から一日も早く救い出したかったのだろう、とこれは私の想像。
 その後「夫婦むつまじく生涯たがいにふわ(不和)を生ぜざる事」などの誓約を交わして二人は結婚。社会的に成功した男はよそに女を作るのが当り前だった時代(例えば後述の陸奥宗光など、アメリカ人にbrilliant womanとよばれたことさえあるという妻を持ちながら、艶福家として有名だった)に、権兵衛は固く約定を守り、鴛鴦夫婦として生涯添い遂げた。

 以上は鹿鳴館外交を進める上でも有利なことではないかと思えるだろう。文字通りほぼずっと家の奥にいる「奥方」より、酒席に出て、そういう場での男とのやり取りも経験しているほうが、言葉の問題さえ克服できたなら、洋風のパーティには明らかに向いていそうだから。

 ただし、今までなんとなく芸妓とか茶屋奉公とか呼んできたが、江戸から明治まで、接客業の女性にもかなりはっきりした等級があった。大きく分けて、芸者と遊女の違いがある。

陸奥亮子

 例えば陸奥亮子がそうだった新橋の芸者の場合。
 こちらは花街であっても遊郭ではなく、芸事中心の遊び場として知られていた。亮子は、父は武士だが母は妾で、父の顔はほとんど見たことがなく、小さい頃から置屋(芸者を抱えている店)に入って歌舞音曲の稽古はもちろん、和歌を中心とした古典の知識も仕込まれた。教養のある、いわゆる粋人を相手にするのがたてまえだったのだ。
 彼女は小鈴の源氏名でお座敷に出て、板垣退助の愛人になった(正妻にはならなかった)小清と並ぶ人気芸者になってからも、「男嫌い」の評判があったそうで、「芸は売っても身は売らぬ」が、ある程度は通用する世界だったのである。
 結婚後には大山捨松などから英語を習い、鹿鳴館の華と謳われた後、明治21年に駐米公使となった夫について渡米、その美貌と才知によってかの地でもたいへんな評判を得たそうだ。不平等条約改正の第一の功労者は陸奥宗光だが、その傍らにいた亮子の力も、何かと大きかったろう。

 一方落語にもよく登場する品川の遊女は、「宿場女郎」で、江戸時代でも幕府に公式に認められた公娼ではなく、お目こぼしされていた私娼である。三大遊郭(江戸吉原、京都島原、大坂新町)などより、安価にまた気軽に遊べるのがウリだった。山本登喜子は、短い間でも男から手軽に扱われる立場だったことを恥じる気持ちもあってか、人前に出ることを嫌った。
 「エドの舞踏会」の最後は、西郷主催の夜会に、「立派なご婦人たちを見せるために」と、権兵衛が妻を鹿鳴館へ連れて行くところで終わっているが、これはフィクションであろう。

 この小説で取り上げられた大きなスキャンダルは二つ、初代文部大臣・森有礼夫人の常子と、第二代総理大臣・黒田清隆についてのものである。
 最初のは、常子が女子を産むと、それは紅毛碧眼であったために森家を離縁されたというもので、スキャンダルより今で言う都市伝説に近い。
 森は、英語を今後の日本の共通語にしようと一時唱えるなど、井上馨などをはるかに超えた欧化主義者として知られ、非難を浴びることが多く、とうとう暗殺された。この話もそんな彼への反発から出てきたものだろう。
 常子は、士族、つまり武家の出身。外交官だった森と日本最初の契約結婚(山本夫妻のように、約定に基づいて夫婦になること。福澤諭吉が証人を務めた)をしてから、公使となった夫に付いて、清で3年、イギリスで4年半過ごした。西太后とヴィクトリア女王両方に拝謁した唯一の日本人女性となったのである。
 明治17年に帰国すると、大山捨松が主催した鹿鳴館のチャリティ・バザーに参加している。英語力の点だけでも、捨松の片腕たるに相応しい人物のようだが、その後の活動の記録はなく、明治19年によくわからない理由で離婚してから、杳として消息を絶った。これも上の伝説が生まれた基だろう。
 実際は、静岡事件と呼ばれる伊藤博文の暗殺計画に常子の実家を継いでいた養子が加わっていたことから、有礼及び森家に迷惑をかけることを恐れて身を引いたのだ、とする説が有力。すると常子の犠牲的な精神から出たことになるが、小説では、敢えて、外国人の子を産んだというフィクションを生かし、日本と西洋の精神的な間隙に落ち込んだ夫婦の悲劇を描こうとしている。
 全体の調子は一種の怪異譚になっているので、そういう、事実とは違うお話として愉しめばよい。

 題材にされた二番目のスキャンダルのほうがずっと大きく、今でもけっこう有名。何しろ、総理大臣まで務めた人の妻女殺害疑惑なのだ。こういうのは世界的にみてもあまり例がないだろう。
 西南戦争終結直後の明治11年、樺太開拓使次官として、実質的に北海道・樺太の開発と統治の最高責任者だった黒田清隆の妻・清(せい)が23歳の若さで亡くなった。元々患っていた肺病の悪化によるものだと届けられたが、実際は酔って帰宅した黒田が彼女と口論になり、斬り殺したのだろうという風評がたち、新聞にも書かれた。
 黒田は普段は思慮も人情もある人物だった。戊辰戦争では政府軍を率いて、函館五稜郭に立て籠もって最後の抵抗をした幕臣・榎本武揚と戦ったが、榎本が降伏すると、「航海術にかけては日本随一の人物で、殺すには惜しい」として頭を丸めて助命嘆願した。
 また、今後の日本のためには海外留学経験者が必要不可欠だと唱えて、大山捨松らを送り出す献策をしたのも彼だった。
 しかし酒量が一定限度を超えると人が変って暴れ出す。二年前にも酔って軍艦から大砲を発射し、誤って民家を破壊、死傷者まで出している。この時には金を払って示談にした。このへん、四民平等とはいえ、現在とは感覚が違う。しかし清のときは、伊藤・井上ら長州閥の有力者が騒ぎ出した。
 これに対して西郷隆盛亡き後の薩摩閥の重鎮・大久保利通が黒田を庇う。それでも、墓を掘り返して検屍して、他殺の形跡はない、と報告が出るまでには至ったのだが、その任に当った大警視(現在の警視総監)・川路利良は大久保の腹心として知られていたから、疑惑は消えなかった。
 この二ヶ月後には大久保も暗殺され、黒田が薩摩閥のトップとなって、明治21年には伊藤の後を襲って二代目の内閣総理大臣に就任。むしろそれだからこそ、この嫌疑は長く残り、彼の妻殺しは明らかな事実であるように書く人が現在もいる。

 「エドの舞踏会」に登場するのは、清ではなく、後妻の瀧子。元博徒で江戸の本所で材木商として成功した丸山傳右衛門の娘、というのは名目で、実際は深川の芸者だった者を黒田が惚れ込んで、傳右衛門の養子ということにしてもらい受けたという、これも当時の噂が使われている(これは嘘だろう。上述の情況で、妻が元芸者であることを隠さねばならぬ理由などないのだから)。
 黒田とは23歳の年齢差がある。夫の死後、「不行跡」があったとして黒田家を離縁されていて、これが小説の発想の基になっている。
 妻を殺した自責の念に苦しめられている黒田を見て、榎本武揚が「あれは今後の日本のために大事な男だから」と瀧子に両手をついて結婚を頼み込んだ。惚れた女と一緒になれば精神的に安定するだろうというわけで。とはいえやはり黒田の酒乱は心配ではあったので、瀧子の幼馴染みで榎本家の馬丁をしていた山代源八に、いざというときには瀧子を守ってやるようにと言い含めて、黒田の馬丁として送り込んだ。
 それを知った黒田は、二人の仲を疑い、酔うとそれをネタに理不尽なDVを奮うようになった。瀧子はそれにじっと耐えていたが……。
 これ以上は実際に小説を読んでいただきたい。絢爛たる性の残酷話は、谷崎潤一郎に匹敵する迫力で、この短編連作中第一の傑作になっている。谷崎はヴァンプ(ヴァンパイアからきているようだ)と言われた悪女が好きなので、このヒロインのような、一途な烈女は描かなかったことを思うと、余計に感銘深い。

 以上、虚実取り混ぜた日本近代初期女性伝に浸ってみました。
 それぞれが置かれた時と場所で懸命に生きて輝いたご婦人たちには、改めて深甚な敬意を表します。
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福田恆存に関するいくつかの疑問 12(「一匹と九十九匹と」再論)

2024年12月18日 | 文学
メインテキスト:福田恆存「一匹と九十九匹と ひとつの反時代的考察」(『思索』昭和22年春季号三月刊初出。文藝春秋昭和62年刊『福田恆存全集 第一巻』などに所収)
サブテキスト:D.H.ロレンス/福田恆存訳『現代人は愛しうるか 黙示録論』(原著は1930年刊。翻訳初版は昭和26年白水社。中公文庫昭和57年)

福田恆存没後三十年記念シンポジウム 令和6年12月15日
左から林宏之氏、前田嘉則氏、金子光彦氏、由紀草一   撮影:山本直人氏

【シンポジウムでは下記のことをお話しする予定でしたが、時間が足りず(一人15分の持ち時間)、大幅に端折らなければならなくなりました。そこで、僅かな改訂を加えて、ここに発表します。「一匹と九十九匹と」については以前にも書いておりますが、別角度から取り上げていますので、重複は気にしないことにします。】
 私からは稀代の言説者・福田恆存先生の出発点の、少なくとも一つであろうことをお話ししようと思います。以後、「先生」は省きます。

 若い頃の福田恆存に影響を与えた作家というと、まずD.H.ロレンスが挙げられます。福田は昭和16年に彼の最後の著作である『アポカリプス(黙示録)』を訳出。すぐに大東亜戦争が始まったのでこの時は本にならず、戦後に『現代人は愛しうるか』のタイトルで出版されました。
 中公文庫版の「訳者あとがき」では「私に思想というものがあるならば、それはこの本によって形造られたと言ってよからう」と言っています。
 また「一匹と九十九匹と」の末尾には、

 ぼくはこの文章においてかれの「黙示録論」を紹介するつもりで筆をとつたのであるが、そこまでいたらずして終つた。が、ぼくはぼく自身の言葉で語りたかつたし、すでにその目的を果たしてゐる。

とあります。
 この『アポカリプス』の中では「集団的自我」と「個人的自我」ということが言われています。

諦念と瞑想と自己認識の宗教はただ個人のためのものである。しかしながら、人は己の本性のほんの一部においてのみ個人たりうる。他の大きな領域においては、人は集団である。

 直感的にわかりますでしょう。人間は家庭の中で生まれ育ち、現代日本だと、学校という小社会を経て、職業人として、大きな社会、最大の枠組みは国家ですが、その一員として生きる。そこでどういう位置を占めるかが、その人の、いわゆるアイデンティティですね、自分はどういう人間であるかが決まる、と言ってさしつかえない。たいへん頼もしい人だ、とか、なんだかぱっとしない奴だ、というような具合に。
 それに対して、そういう社会的評価は「本当の私」とは違う、少なくとも全てではない、なんて思いも人間は抱きがちなものです。宗教は、もちろん宗教教団の話ではない、広く何かしら超越的なものへの関心をこう呼ぶとして、そういう個人の心の中に生じるのだし、逆に、それがいつの時代にもあるのは、集団には収まりきれない個人の領域があることの証になる。
 ロレンスは後者こそ重要だと思っていました。「共同体はつねに非人間的であり、それもかならず人間以下である」とこのすぐ後では言っています。「国家は絶対にクリスト教的ではありえない。あらゆる国家はそれぞれ一つの権力である。それ以外ではありえないのだ」とも。
 そうすると、国家とは一段低い、ほとんどどうでもいいものだと、言ってはいませんけど、そう感じられる書き方になっています。

 「一匹と九十九匹と」はこの「アポカリプス」を踏まえて、というより、そこから出発して、福田流の人間観を述べたものです。
 当時の、終戦直後の文学界では、「政治と文学論争」というのが盛んで、「一匹と九十九匹と」も、その文脈で読まれたのですが、そんなのは知らなくてもいいです。時代の制約を超えた普遍的な価値のあるエッセイですから。
 ロレンスを参照すると、「九十九匹」が「集団的自我」に、「一匹」が「個人的自我」に当ることはすぐに予想できます。福田先生はこの比喩を、新約聖書の黙示録からではなく、福音書から取っています。即ちイエスの言葉。

「なんぢらのうちたれか、百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたずねざらんや」(ルカ傳第十五章八節)

 この教説の解釈は、キリスト教団の内部では、いろいろと、精緻になされているのでしょうが、それもこの際関係ありません。
 素朴に読んだ場合、「え?」と思いませんか? 羊を百匹所有している。そのうちの一匹がいなくなった。そうしたら、九十九匹を、どこか囲いの中じゃなくて野っ原に置き去りにして、一匹が見つかるまで探すだろう、それが当然だ、なんて言われたら。
 「そうかあ?」となりませんか。九十九匹を放っておいて、狼に襲われたり、羊たちの内部で争いごとがおきたりしたらどうするんだ? 最悪、九十九匹も全部失われる結果になってしまうこともあるんじゃないか、と。そっちをちゃんと面倒を見てくれる人がいなかったら、成り立たない話なんですよ。
 つまり、役割分担が必要なのです。福田は、九十九匹の、集団を統べる行為が最も広い意味の政治、集団から必然的に逸れてしまう人間性に関わるものが宗教、宗教一般が昔日の力を失った現在では文学、の仕事になる、と言ったのです。
 その、九十九匹=社会的自己と、一匹=個人的自己の二つのうちどちらがより大切か、とは言いません。そのへん、神がかったところのあるロレンスより、福田恆存の方が健全な常識人であったと言えるでしょう。
 国家なんてどうでもいい、なんて言えません。国家がダメだと、その中にいる人、つまり国民と、時には外部にいる人にまで、たいへんな厄災になる実例は、今も世界中にあるわけで。
 国家も、その中の経済共同体つまり企業とか、地域共同体つまりご近所とか、一番小さいものは家庭ですが、それら共同体の安寧は人間の幸福にとって必要不可欠なものですから、そのために、政治家や公務員はもちろん、一般人も応分の努力しなければならない。
 もっとも、努力した結果、誰にとっても満足な、理想社会が実現するかというと、それは難しいでしょう。
 一応はこんなことですかね。特別な才覚はなくても、一生真面目に働いてさえいれば、誰でも、家を一軒ぐらいは持てて、子供を二、三人は一人前になるまで育てることができる。一昔前の日本はそれに近かったわけで、その程度ならなんとか、できた。私は政治にはそれ以上を期待してはならん、と思いますが、それでみんな、完全に満足か? 何も文句はないか、というと、それは、どうも……、ということになる。人間とは本当にやっかいなものです。
 やっかいなものですが、これが無視されてはならない。そうすれば結局、人間そのものの完全な疎外と抹殺に結びつくから。文学はその一匹の、個人的自己はあると示すことで、結果としてそういう警告を発する。それが言わば文学の、唯一の社会的効用ということになろうかと思います。

 なんですが、ここで近代はさらにやっかいな問題を抱えることになってしまった。

ぼくたちが個人の存在感にひけめを感じるやうになつた原因は、前世紀における個人の勝利そのもののうちに見いだされねばならぬのである。

 「すべて国民は、個人として尊重される」とか、「一人の人間の命は地球より重い」なんて、タテマエなんですけど、タテマエ上の比喩としてであれ、社会と個人の優劣など考えるべきではありません。元来次元の違うものですから。のみならず、比較するとなると、何かしら同一の尺度が必要になります。その場合は、というか尺度と言えばもう、九十九匹の側にしかない。
 その場合、どれくらい社会全体の役に立つかで、個々人の価値は変っていくと自然に感じられる。それが社会、つまり九十九匹の世界というものです。またこの九十九匹を一体として動かすための指導理念、それはその時々の社会正義と呼ばれるわけですが、その有用性も疑うことはできない。
 それでいて、民主的な社会(戦前の大日本帝国も立憲君主国なので民主国家です。為念)では、誰もが自立した個人として、国家が抱える困難な現実に「主体的に」取り組むことが求められる。特に、言葉の、観念の世界で指導者であるはずの知識階層がそうです。
 求められても、戦前の社会の貧困や、国家の最大の危機である戦争の苛烈な現実を前にすると、彼らの知識の中には現実に対応できるものはないことに気づかざるを得なかった。さらにまた、そこで守られるべき個人の価値も、どこにも見出すことができなかった。そこで現実に対応しているように見えるコミュニズムや国家主義には、その理論的な適否とは別に、いっぺんにもっていかれるしかなかった。

この現実に彼等の個人が足をさらはれたといふ意味において、ぼくは戦争中の知識階級の狂態を一時期前のコミュニズムの流行と同一視するのになんのさはりも感じない。その当時にあつても彼等の眼を奪つたものはコミュニズムそのものであるよりは現実の力であり、その反面に彼等の自我の空虚さであつた。

 昭和の終わり頃まで、高名な学者・文芸家たちの大東亜戦争中の言説がほじくり返されることが時折ありました。日本軍を讃え、戦争を鼓吹する内容が、戦後は、文章ぐるみ全部かその部分のみ削除されて、つまり隠されたのです。まことに小狡いやり方と言えますが、これが一人や二人ではない。みんなそうだったと言っても過言ではない。なぜそんなことになるのか? たぶん以下のようなことではなかったでしょうか。
 時代の波に抵抗する術は見つからないので、溺れないために、波に乗って向こう側まで行ってしまった。戦後にその波が突然逆向きになると、もうかつての心事を説明する言葉も見つからない。元来彼等の思索や意見など、厳しい現実の前では何物でもない。その身も蓋もない事実が身も蓋もなく露出してしまったのですから。
 例えば、戦争中、自分は戦争よりもっとやるべき仕事がある、というような、個々人の思いなどはエゴイズムに過ぎない。そう見える。他の多くの国民が兵士として命がけで戦っている時に、そんなものに拘るとしたら、これを正当化する言葉など見つかるもではない。
 しかし、もう一段遡って考えてみよう。エゴイズムはなぜ悪いのか。

社会正義の名によりひとびとが蛇蝎のごとく忌み憎んだエゴイズムとは、かくして社会正義それ自身の専横のもちきたらした当然の帰結にほかならぬのである。

 反論も許さぬ社会正義の押しつけこそ、個々人の欲求を単なる自分勝手にする。それでいて、社会正義のほうは、大勢に関わるから、エゴイズムとは関係ないかと言えばそういうことはない。大勢の都合を無理矢理押しつけようとする姿勢において、それもまたエゴイズムと呼び得る。

社会正義がエゴイズムに支へられてゐること、それはそれでいいが、それでゐてその事実を自覚し是認しないといふことになれば、事態は許しがたいものとならうし、わざわひはほとんど収拾しがたいものとなるであらう。

 戦後の日本社会では、戦前の共産主義、戦後の国家主義に代って平和主義が社会正義の王座を占め、そこで純粋個人は、全く当然のこととして、またしても無視された。そうせねばならぬ、と感じられたのです。

個人は社会的なものをとほして以外に、それ自身の価値を、それ自身の世界をもつことを許されない。社会は個人をその残余としてみとめず、矛盾対立するものとして拒否するのである。だが、矛盾対立するものはなぜ存在してはいけないか。

 矛盾対立するものの相乗と相克こそがこの世界を保つ。これが福田恆存の二元論です。この世界観に立脚して、世の大勢から逸れてしまう一匹の立場を守ろうとすることが、文学をベースとした先生の言論活動を貫く柱となったのです。

現代の風潮は、その左翼と右翼のいづれを問はず、社会の名において個人を抹殺しようともくろんでゐる。ゆゑに個人の名において社会に抗議するものは、反動か時代錯誤のレッテルをはられる。

 昭和22年ではまだ福田は保守反動の名を冠されてはいませんでしたが、やがてそうなるだろうことを、先生自身は早くもこの段階から予想していたようです。

 最後にこの文章では直接触れられていない、福田恆存にとっての大事なポイントを申し上げます。
 社会全体にも抗し得るような個人が成り立つためには、その個人も、共同体も、国家をも超え、また前述した現世の矛盾対立を最終的に止揚する巨大な「全体」の観念が必要なのです。西欧では、キリスト教による唯一絶対神の観念が、衰えたりとはいえ、生活意識の根底に残っているだろうと思われます。
 絶対者の前では、個人も集団もそれ自体としては相対的であるしかない。ならば、例えば国家は、もちろん個人よりはるかに強力ですし、またそうであるべきですが、理念的に、必ず上だということはなく、その意向に、本当はその時々の社会的正義に反したからと言って引け目を感じることはない。そしてまた、このような超巨大な全体の中の一部を占めるという感覚が、一個人に窮極の意味を与えるであろう。ロレンスが宗教は純粋個人のものだとした所以です。
 絶対者の観念の乏しい日本では、そのような思想的な営為は難しいことではあります。それでもなお、人間社会にはエゴイズムは至る所にあり、誰しもがそこから逃れられない現実のなかで、ごまかすことも絶望することもなく生きていくためには、「一匹と九十九匹と」の最後に言うペシミスティック・オプティミズムのためには、最上の処方箋になり得ることは疑いないと考えます。
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少子化と教育費

2024年11月30日 | 教育

ウェストミシガンの女性コミュニテーのブログより

 かなり前から、重要な政治的イシューとして、少子化が世界的な話題になっている。
 ロシアではチャイルドフリー(意識的な子どもなし)を奨めるSNS記事を禁止する法律がじきに成立しそうだ。チャイナは35年続けた一人っ子政策を2015年に廃止して、今や「子どもは三人産め。それが国家のためだ」なんて言っているとのこと。
 いかに独裁国家でも、こんな話を素直に聴く人はそういないだろう。子どもをいつ作るか、何人作るか、それは、普通は夫婦の、カップルに委ねるしかない。これは大原則である。自由主義とか個人主義とかの、主義主張の問題ではない。子どもの養育は両親が最終責任を負うしかない、という単純な事実からして、そうなる。
 例しにこういうことを考えてみよう。「自分は子どもなんて欲しくない。しかし、それでは国のためにならないから、産んで育てるんだ」なんて言う母親に子どもを育ててもらいたいか? 私は御免だ。
 イスラエルのキブツや日本のヤマギシ会のように、家族ではない大集団で子どもを養育する例もあるが、それは即ち家族の解体を意味する。それが好ましいと思う人はそんなに多くはいないだろう。

 などなど、世界中で多くの人が真剣に悩んでいる、少なくともそう見せてはいる問題なのだが、翻って考えると、少子化というのは、本当に悪いことなのだろうか?
 すぐにわかるデメリットは、いわゆる高齢化社会になると、生産に従事する年齢層が薄くなって、経済が行き詰まる、というもの。しかしそれが、ロボットやAIの発達によって(いわゆる技術革新によって)、これまで必要とされた人間の労働力が減少しても、生産性はかなりの程度保持できるとしたら、壊滅的な事態は避けられるのではないか、と考えられる。いや、楽観的すぎるかも知れないが……。
 それに第一、人類の歴史を考えると、今の状態は異常とは言わないまでも、かなり特殊で、しかも急激にこうなったのである。
1950年におよそ25億人だった世界の人口は、2000年にはおよそ61億人と、この50年の間に2.4倍に増加した。現在は、1.2%の割合で年間7700万人増加している。(中略)2050年までに、世界人口は、国連の中位推計で93億人に達するものと予想される。」(『国土交通白年度書平成14』)
 だから地球全体では、人口増こそ依然として問題なのである。
 そこで、両者を含めて最適な状態を考えると、現在の文明の状態を保つため(今更農耕社会にもどるのは、私のためにも、私の子孫のためにも望まないので)には、
① 労働力不足を補うAI技術の開発発展
② その技術革新の成果を現在の開発途上国にも及ぼす
ことを目標とすべきであろう。
 そこから逆転して考えると、地球全体での出生率1.8程度の、緩やかな少子化こそ望ましいのではないだろうか。

 それでもやっぱり、日本の平成5年度の合計特殊出生率(1人の女性が産む子どもの数の指標となる割合)は昨年1.20(厚生労働省調べ)というのは少なすぎるようだ。有効な方策はあるのだろうか。
 「経済的な不安があるから、思うように子どもを作れないんだ」という夫婦は多いのだから、政府にできることは、そういう外部的な条件を、なるべく子どもを増やすことが有利になるように、少なくとも不利はなるべく減らすように、整えることだろう。というか、外部からの有効な働きかけとしては、それしかない。
 しかし、ここには押さえておくべきポイントがある、と思う。何も特別なことではない。漠然となら誰でも知っていることだが、教育問題に触れるので、あまり露骨に語るのは憚られるような雰囲気があり、うっかりしていると、百田尚樹氏のような、見当外れの暴論を言うことになってしまいかねない。
 以下、ネット上で手に入る統計数値をなるべく細かく挙げて、実態をみていこう。

 まず家族を作る大前提に関わる晩婚化・未婚化問題。
 社会保障・人口問題研究所の「出生動向基本調査」令和3年度(18~34歳未婚男女者対象)によると、「いずれ結婚するつもり」の男性は81.4%(前回85.7%)女性は84.3%(前回 89.3%)で、「一生結婚するつもりはない」男性17.3%(前回12.0%)女性14.6%(前回8.0%)を大きく上回っている。
 ただ結婚願望は前回の調査(5年前)より減ってはいる。そしてまた、実際の婚姻数もそうなっている。昭和47(1972)年の約110万組をピークとして、平成12(2000)年からは減少傾向が続き、昨年はついに50万組を割り込んだ(約47万組。こども家庭庁調べ)。
 なぜ結婚しないのかについては、24歳までは「結婚するにはまだ若すぎるから」が男女ともに40%台で最も多い。25歳以降は「適当な相手にまだめぐり会わないから」が男性43.3%(前回45.8%)女性48.1%(前回51.2%)が最高になる。しかし男女双方で前回より僅かに割合が減っている。その代り、「今は、趣味や娯楽を楽しみたいから」「異性とうまくつき合えないから」が少し増えている。「今は、仕事(または学業)にうちこみたいから」は、男性14.3%(前回17.9%)女性14.4%(前回19.1%)で、むしろ減っている。
 これらをまとめると、結婚が家同士の契約関係の面が薄れ、実際に本人同士の決意のみに拠るとなると(日本国憲法第二十四条「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」)、ある特定の異性(適当な相手)と夫婦関係になることは新たな家を作ることに他ならず、そのための決意が、そして、そのように決意する「理由」が必要になるのだ。そう感じられること自体が、結婚の敷居を高くする。
 改めて考えてみれば、それまで他人だった者とずっといっしょに、新たな生活を築くというのは、かなり途方もない試みだとも言える。
 一方で、一生独身、というのもまた、重大過ぎる決意で、そうする理由もまた、簡単には見つからない。人は依然として、家庭を持って生きるのが普通だと一般に考えられている。その「普通」を捨ててまで打ち込むべき仕事や学問研究がいつでも、いつまでもある人のほうがごく稀だろう。
 この社会通念のみが、今のところ結婚難に歯止めをかけている。

 というのはさすがに汚く言い過ぎであって、未婚男女が結婚のメリットとして、「自分の子どもや家庭をもてる」が男性31.1%(前回35.8%)女性39.4%(前回49.8%)で、減ってはいるが、かなり上位を占めているのは当然でもあり、良いことだと言うべきだろう(因みに、女性では結婚する理由中これが第一位。男性では「精神的な安らぎの場が得られる」33.8%に次ぐ第二位。これは男性のほうが、「安らぎの場」としての家庭が、タダではないにしろ、より楽に手に入ると思っている証左であろう)。
 そして、結婚後の夫婦が持ちたい子ども数(平均理想子ども数)としては2.25人(前回2.32人)だが、実際問題を考えた場合の子ども予定数は平均2.01人(前回と同じ)になっている。
 この差はどこから来るか。「子育てや教育にお金がかかりすぎるから」という理由が52.6%でダントツである。これが、妻が35歳未満の、最も出産が期待される若夫婦に限ると77.8%で、大多数となる。少子化解消を政治課題とするなら、ここにこそ焦点を合わせるべきであろう。
 日本の教育費は高い、というのは有名であり、個人的に20年ほど前に、外国人にも「そうなんだろ?」と訊かれたことがある。「子どもを一人、一人前にするのにだいたい1,000万円かかるんだろ?」と言う日本人もいた。すると三人なら3,000万円。おいそれと子どもは持てないと思うのも無理はない。
 この金額はそんなに間違っていない。文科省の「令和3年度子供の学習費調査」によると、幼稚園から高等学校まで、すべて国公立へ通った場合の学習費総額は574万円、すべて私立だと1,838万円で、ここに今や6割以上が進む大学など上級学校の資金が加わる。
 問題はその中身である。公立小中学校では授業料は無償、学校内でかかる費用は制服代や教材費、部活動などの費用で、学習費にかかる費用は年間、小学校で18.7%、中学校で24.6%に過ぎない(給食費は別)。小学校で70.2%(約25万円)、中学校で68.4%(約37万円)が、塾や習い事など、学校外の費用に充てられている。
【なお、私立だと、小学校の学校外活動費は、割合は39.6%で少ないが、金額の平均66万円で、公立の三倍近くになっている。私立小学校は学費も高い(総額約961万円)が、校外活動にも多くの金額をかけるということで、子どもを私立の小学校に入れるのは富裕層の特権だと感じられるのも無理はない。】
 そして幼稚園。文部科学省の管轄だから(保育園は厚生労働省)学校ではあるのだが、義務化されているわけではない。子どもを行かせなくても、制度上問題はないということだ。しかし現在、どちらにも行かせない、というのは、未就園児という言葉もできたぐらい特殊で、令和5年のこども家庭庁設立準備室の発表では1.8%(5.4万人)がそうだという。
 さらに現在、3歳から就園する3年保育が主流を占めている。これは地域にも拠るが、せいぜいこの20年ほどの傾向であって、例えば私自身は幼稚園に3ヶ月ほど通ってなんとなく行かなくなった話を、軽い調子で、小さい頃父母からされていた。
 国公立と私立の別だと、圧倒的に私立が多い。幼稚園は学校数で69.7%、在園者数で88.2%が私立だ(令和6年度学校基本調査による)。その費用は前掲の調査で平均135万円。これが多くの場合、「当然のこと」として教育費の中に含まれる。



 これは近い将来変ることが見込まれる。公立高校の授業料は昨年までは収入の条件付きで無料だったが、東京都や大阪府では、今年度の入学生から、私立を含めて、実質すべて無償となると同時に、就学前の幼児教育も無償にすることになっている。
 これらの施策が無意味とは言わない。政府は、この点ではかなり懸命に、少子化最大の原因である「教育にお金がかかり過ぎる」情況を改善しようとしていると評価すべきであろう。その上で、我ながら厭な予測を申し上げるのだが、これは無駄ではないにしても、決定的な方向転換の効果はそんなにあるとは思えない。
 理由を手短に言えば、子どもの教育は個々の家庭の事業として行われるからだ。この事業の最終目標は、自分の子どもの社会的な成功である。一流企業や上級公務員がそのわかりやすい例。その他、芸術芸能やスポーツの分野で成功する人はいわゆる学習の分野よりずっと少ないが、それでも「子どもの隠れた才能を引き出す」ために習い事をさせる親は少なくない。そのための学校外活動費が、前述のように、公立小学校で年間25万円、私立で66万円なのである。
 日本人は子どもの教育に金を惜しまない、ともよく言われるが、目に見えない才能を引き出し、伸ばす、ことのためにはどれくらいの金額が必要なのか、誰にも言うことはできないであろう。それを賄う財力があるなら、限界は、子ども自身の時間と体力にしかない。我が子にずいぶん無理をさせているな、と思える親はしばらく前から決して少なくない。
 問題は、このような傾向が、社会の隅々にまで及ぶ、ということである。今後見込める夫婦の年収が、上に見たような教育費を賄うには不安だ、と思えたら、結婚する理由は確実に、一つはなくなるであろう。そこは妥協して、我が子が、社会の上位層に入れないのはしかたないとしても、人並み以下は耐えられない。そこで、幼稚園にも入れるし、塾にも行かせる。第一、ほとんどの子がそうするなら、これをやめたら他の子どもたちと一緒に遊べないのだから、もう選択の余地はない
 このような情況では、公立学校の質の向上などには、ほとんど魅力が感じられないであろう。そこは、誰でも入れる、というか、私立学校にも行かないとしたら、入らなければならない場所だ。ないのは困る、なぜなら、子どもを昼間どこへ置いたらいいのか分からなくなってしまうから(その理由で、保育園はかなりの地域でまだ増設が望まれている)。
 すると、学級崩壊の無秩序状態はさすがに困るが、そうでなければ、何か一定のことを生徒に強制し過ぎるのはむしろ迷惑だと感じられる。義務教育ではないが、今や進学率が98.8%に達して、行くのが当り前になっている高等学校では、「勉強をしないからという理由で留年や退学させるなんてひどい」と、普通に言われるようになっている。「この子は、文科省の定めた学習指導要領の、当該学年に習得すべき学習内容をまるで身につけていないのだから、もう一年同じ学年で学習し直させてあげよう」なんて親切心は、誰も望まない。

 最後に、この分野でも参照すべき数値を挙げておこう。OECDが2022年に発表した公財政教育支出(国の総支出のうち教育のために出している部分)は、対GDP比だと、OECD37カ国の平均4.3%のところ、日本は3.0%で、36位である。もちろんGDP世界第四位の国なのだから、金額では小学校から高校までの生徒一人あたり年間約12,500米ドル(1ドル150円として約188万円)支出していることになり、これはGDP各国平均12,000ドルよりは高い。が、日本は全体として公教育にお金をかけているほうだとは言えない。
 そのことの結果が一番顕著なのは学級規模、つまり一クラスの生徒数である。OECDの平均は21.1人のところ、日本の公立小学校は平均27.2人で、OECD諸国中の第二位の人数になっている。公立中学校は平均32.0人で、やはり第二位。

 諸外国に比べて日本のクラスの生徒数は多すぎることは、私が教員になった40年ほど前から話題になっていた。しかし昭和55(1980)年から平成3(1991)年までで小学校でようやく40人学級(一クラスの上限を40人にする、ということ。実際の編成には弾力性が認められているので、地域差がある)が完成し、令和2(2020)年から、コロナを慮って、ようやく35人学級に引き下げられた。
 クラスの人数は少ないほうが学習効率はよいし、生徒一人一人への教師の目も届くと、確証はないが、普通に思える。しかしそれは、官僚も政治家も、一般国民もあまり望まないようだ。
 子どもの学力が上がるのは好ましいに決まっている、ただし自分の子どもなら。他所の子どものために、なぜ多額の税金や社会保障費が使わなければならないのか。優秀かそうでないかは、所詮比較相対上の話だ。学力が全体として底上げされるなら、むしろ我が子のライバルに塩を送ることになってしまいかねないではないか。エゴと言えばそうだが、子作り・子育てが各家庭の事業である以上、このような思いが根絶されることはない。



 なんだか、どうしようもないという見通しだけを述べて終わりになりそうだが、「教育にお金がかかりすぎる」情況は、特定の個人や集団のせいではなく、国民全体の思惑や欲望が絡み合ってこうなったのだ、ということは最初に心得ておくべきだろうと思う。
 そのうえで、子育て支援金を出す以上の施策は、私にも思いつかない。今年度から、三歳までは月額15,000円、その後高校卒業時点までは10,000円支給することになっている(一人親や、低所得家庭の場合は増額される。また第三子以降は全期間30,000円)。ざっと計算して、第一子、二子は234万円、第三子以降は648万円総額で貰えることになる。
 この金額の多寡についてはいろいろ議論があるところだろう。もう一つのポイントは、この金が親に渡される、というところである。何にどう使ったか、報告の義務があるわけではないので、生活費に充てても、貯金しても、つまり子どものために使わなくても自由。
 再三述べたように、子作り・子育てが各家庭固有の事業である面からすれば、それでよい。しかし、自由である場合には、必ず、機会を生かすだけの賢明な人とそうでない人の差が出てきてしまう。またこの場合、塾やスポーツクラブなど、学校以外の教育機関がどれくらいあるかの地域差も大きく関係してくる。
 だから私はこれによって、少子化には少しは歯止めがかかるかも知れないが、それ以上に、いわゆる階層化を進める結果のほうが大きいのではないか、と予想している。それでもかまわない、と思うか、その弊害が顕著になったら他に対策を立てればよい、と思うか、それぞれではあるだろうが、今後の日本社会の在り方を考えるためには、けっこう大きなポイントだと思う。
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悲劇論ノート 第7回(チェーホフの反悲劇)

2024年11月03日 | 

桜の園 初演の舞台写真

 ヘンリック・イプセンが近代劇の父なら、アントン・チェーホフは現代劇の父と呼ばれるに相応しい。「人形の家」の初演は1879年、「かもめ」は1896年で、17年の間隔しかないが、物事が起きるときには連続して起きるものなのだらう。具体的には、近代写実劇が完成すると、その限界も目につき、以降の作家は乗越えを目指さざるを得ず、そこで最初に大きな成果を挙げたのがチェーホフといふことになりさうだ。
 最大のポイントは、イプセンが一般市民(といつてもけつかう富裕なブルジョワだが)を題材とした悲劇的な作品を完成させたのに対して、チェーホフは近現代での悲劇の不可能性を、劇の根底の一つとして見せたところにある。

 今まで折に触れて述べてきたが、ギリシャ劇から、17世紀フランスのラシーヌやモリエールまで、悲劇は王侯貴族や神話上の人物を描くもの、喜劇は一般庶民を、と決まつてゐた。
 単純な話、例へばシェイクスピアの「リア王」「マクベス」「ハムレット」などで、主人公の言動が国家全体を揺るがす大事になるのは、彼らの身分が高いからだ。リア王が王様でなければ、たとへ大金持だつたとしても、アホな頑固ジジイに過ぎない。当事者以外からは笑はれるのに相応しいので、喜劇になる。
 さうは言つても、一般庶民でも、自殺もすれば人殺しもする。嫉妬もすれば熱烈な恋もする。これをドラマに仕組めないものか? いはゆるブルジョワが、たくさんお金を稼いだおかげで社会の中枢に成り上がるにつれて、その要請は自然に強くなる。

 イプセンは初期の頃、韻文で、「ブラン」や「皇帝とガリラヤ人」のやうな壮大な歴史劇を主に書いたが、「青年同盟」(1869)や「社会の柱」(1877)などの、現代を舞台とした劇も手掛けてゐる。しかし「人形の家」が決定的なのは、第一に緊密を極めた構成、第二に平凡な家庭の主婦にドラマ性≒悲劇性を見出した点にある。
 先蹤はと言ふと、西洋古典悲劇の系列の最後に位置するジャン・ラシーヌであつたらう。極限まで狭められた場所と時間の中で、際立つた個性の持ち主たちが言葉をぶつけあひ、うねるやうに、しかし一筋に結末にまで行き着く。過去の情況説明も舞台上の「現在」の進行中に、過不足なく伝へられる。現代でも依然として、映画やTVドラマを含めた、せりふによる劇作品のお手本であらう。

 しかし、「人形の家」がイプセンの名をヨーロッパ中に広めたのは女性解放運動の文脈で受け取られたからだ、といふのは、皮肉としか言ひやうがない。彼はこれまで、自由主義の立場からした社会諷刺を鏤めた劇をいくつか書いてきたのに、「人形の家」では、その種のものは一番後景にまで退いてゐる。因みにヒロインのノーラは、女性の権利、なんぞとは一言も口にしてゐない。
 ノーラはフェミニストではなく、ボヴァリストなのだ。夢と現実の区別がつかないのではなく、夢の実現を容易にあきらめず、ために破滅に至る。この生き方は悲劇のヒロインたるに相応しい。ただ、エンマ・ボヴァリーもノーラ・ヘルメルも、女王でも王女でも、貴族の令嬢でもなく、ブルジョワの主婦である。
 その身分の者は、「真実の愛」などといふものを求めてはいけないか? いけなくはない。ただ、いつまでも保ち続ける、あるいは保ち続けてゐるかのやうなふりをする義務はない。まして、命を賭けてまで。さういふのは貴族のもの、即ちノーブレス・オブリージュ(高貴な義務)なのだ。そんなものからは免れてゐる庶民が、何を場違ひな、といふ感じは、決して拭へない。
 簡単に言えば、「ボヴァリー夫人」を読んだり、「人形の家」を観たりする人のかなり多くが、「なんか、大げさなんじゃないか?」との思ひを抱いてしまふ。
 後者については、この家庭は自分が思ひ描いてゐたやうな理想的な場所ではなかつた、夫は自分を一人前の人間とは看做してゐなかつた、と気づいたときの幻滅の大きさをできるだけ思ひ遣るとしても、それで、夫だけならともかく、三人の子どもまで捨てて出て行くのは、やり過ぎではないか? 私が実際に会つた中でも、さういふ感想を言つた人はけつかう、女性の中にも、ゐる。

 では、彼女のやうな人間の身の程はどんなものか。「桜の園」に登場する、農奴上がりの商人・ロパーヒンは、眠れない夜には時々次のやうに考へると言ふ。

神よ、あなたは実にどえらい森や、はてしもない野原や、底しれぬ地平線をお授けになりました。で、そこに住むからには、われわれも本当は、雲つくやうな巨人でなければならんはずです……。(神西清訳で引用。以下同じ)

 これを聞いたヒロイン・ラネーフスカヤの反応は、

まあ、巨人がご入用ですつて……。お伽話のなかでこそ、あれもいいけれど、ほんとに出てきたら怖いわ。(以上第二幕)

 ここで象徴的に言はれてゐるのは、彼らはどこからみても巨人≒英雄ではなく、ちつぽけな人間であつて、しかもそのことを自覚してゐる、といふことだ。これが大前提。
 それだけでも、「桜の園」の主要人物はヒーローとはなり得ない。力も、覚悟すらなく、切迫した状況に投げ込まれれば、正面から対峙できず、ひたすらやきもきしてウロウロする者たち。彼らを描くのは悲劇ではあり得ない。

 チェーホフは短編小説家として広く名を知られるやうになる以前から劇作を志し、挫折を経験してゐる。「イワーノフ」の改訂版(1889)は成功したが、それは、この頃までモスクワやペテルスブルクの上流人士の間では流行語だつた「余計者」としてのインテリゲンツィアを採りあげたところが大きいやうだ。
 しかしその同じ年に書かれた「森の主」は上演を断られてゐる。当時の劇の主流だつた悲劇の、衰退・通俗形式たるメロドラマからして、この劇は筋の起伏も大仰な情熱の発現も乏しく、要するに退屈だと看做されたのだ。
 その後7年間劇作に手を染めなかつたが、1896年には「かもめ」を完成した。初演は失敗して、チェーホフに深い絶望を与へたが、2年後、コンスタンチン・スタニスラフスキーの演出によるモスクワ芸術座の再演は大成功で、ためにこの劇団も作者も名声を確立した。以後のチェーホフの多幕物四作品は、すべて同じ劇団・演出によつて演じられてをり、ヨーロッパの演劇革新運動の主要な拠点となつた。

 「かもめ」は最初から喜劇と銘打たれた。普通に言つて笑ふ要素はほとんどない(ラテン語まで使つた言葉遊びや言ひ間違ひによる擽りは少しあるやうだが)、むしろ陰鬱な印象が残る作品だといふのに。それを敢えて喜劇としたのは、当時の劇界や劇作品のあり方に対するチェーホフの強い反感の現れだらうが、内容的には諷刺を主眼とするところがこの名に相応しいと思へたのかも知れない。ただそれも、非常に独特のやり方で、だが。
 エレオノーラ・ドゥーゼ並だといふ元大女優と、ツルゲーネフ並だといふ流行作家を登場させ、彼らの贋物性が描かれる。それは自分自身がけつかう自覚してゐるので、彼らは決して道化ではない。今更ドタバタ何かやつたりはしない。男や女を求める以外には。
 ドラマはより若い世代が起こす。彼らの名声に憧れる若い女と、彼らの古くさい芸術に反発して新形式を求める若い男が、そのために破滅するのだ。自分たちの情熱によつてではなく、その対象の空虚さに直面することで。これは悲惨ではあつても、悲劇ではない。
 しかしだからと言つて、この若い男・コースチャが自殺する結末は、私には、ノーラの家出以上の唐突感がある。劇にまとまりをつけるための強行手段ではなかつたか。そんなふうにさへ感じる。

 それもあつて私は、この後1899年に上演された「ワーニャ伯父さん」からの三作こそ、本当に革新的な、真のチェーホフ劇と呼ばれるべき作品なのではないかと考へる。
 すぐに目につく特徴は以下。ここまでの、二十歳そこそこで書かれて作者の死後に題名が欠けた状態で原稿が発見されたものを含む四作は、すべて主人公と言つていい男が変死することで終はる。題名のない戯曲のプラトーノフは女に撃ち殺され、あとの三人、イワーノフ、ジョルジュ(ワーニャの前身)、コースチャはすべてピストル自殺。
 それが、「森の主」が改作された「ワーニャ伯父さん」になると、ワーニャはピストルを振り回すものの誰も殺さず自殺もしない。最後に劇を締めくくるのは、彼の姪・ソーニャの「でも、仕方ないわ。生きていかなければ!(中略)長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じつと生き通していきませうね」から始まる有名な長科白。死ぬより辛く、勇気も要るこの決意の切なさは、誰の心にも沁みるだらう。
 このやうに、死ぬことでせめて格好をつける男たちに代って、女性の苦悩を経た覚悟が残るのは、次の「三人姉妹」にも引き継がれる。「もう少ししたら、なんのために私たちが生 きてゐるのか、なんのために苦しんでゐるのか、わかるやうな気がするわ
 なんのために生きてゐるのか≒自分とは何かは、やはり呪はれた問ひとしてある。しかも現代人は、とりわけ女性は、ヒーローとして自らの選択や行為の結果そこにぶつかるより、愛ある(と、見えただけ、を含む)関係から弾き出されて孤独になって、自分自身と向き合ふ。問ひに答へられる者はゐない。もしも全能の神があるなら、きつと、死後に教へてくれるだらう。

 かうして、英雄ではない、さうなることもできない≒さうなることを期待されてゐない者たちに相応しい必然性を備えた現代劇は出来上がった。
 ただしチェーホフの最後の戯曲は、情況の深刻さや感情の激発を押さえたより穏やかな雰囲気のもので、「かもめ」以来初めて喜劇と銘打たれてゐる。「桜の園」の初演は1904年1月で、その5ヶ月後に彼は亡くなつてゐるが、健康を害してゐたとはいへまだ四十四歳で、死を意識してゐたかどうかは定かではない。
 例えば「三人姉妹」にはあつた死(主人公とは言へない男のだが)も、「桜の園」の劇の進行中にはない。死は、六年前、ラネーフスカヤの息子が川で溺死したこと、そして、最後に皆に忘れられて館に取り残された老僕が、たぶん遠からず迎へることが予想される。言はば、桜の園消滅の、舞台外の序章と終局を成してゐる。
 もう一つ、これは今まで述べた内容の点より重要かも知れない。登場人物が各々自分の思ひに捕はれ過ぎてゐて、会話がすれ違う場合が非常に多い。愛も憎しみも、人間以外のものへの憧れも執着も、ちやんと他者に受け取られて、返されることはほとんどなく、いつの間にか虚空に消えてしまう。これは「かもめ」以後の特徴だが、「桜の園」では最も露骨に目につく。
 イプセンの、何が焦点であるかが常に明確なドラマとはおよそ逆であり、言はば、筋の一貫の代わりに雰囲気の一貫が置かれてゐる。現代劇を拓くためには、この要素が何よりも大きかつたらう。
 いや、そんなことより、皆が自分の穴の中に籠もつてゐて、他人に同情はできても、本当に関わり合うことはめつたにできない。また、自分自身の運命の主人公にもめつたになれない。それこそ我々がちつぽけな存在であることの何よりの証左なのだ。喜劇の手法を応用して、舞台上に現出されたこのリアルこそ、最も憂鬱で、最も恐るべきものであらう。

 例えば、ラネーフスカヤには、守るべきものはあり、それが桜の園だ。「桜の園のないわたしの生活なんか、だいいち考へられやしない」(第三幕)とまで言ふ。しかし、全力を挙げて守らうとするのかと言ふと、かなりズレてゐる。
 桜の園とは何か。「世界ぢゆうに比べものもない美しい領地」〈第四幕〉とも言われる宏大な土地で、ラネーフスカヤが生まれ育ち、結婚後もしばらくは過ごした館がある。ただし楽しい思い出だけではなく、六年前に夫がシャンパンの飲み過ぎで亡くなると、続いて愛息の事故死に見舞はれた。それで堪らなくなつた彼女はフランスへ赴くのだが、その時は男が一緒だつた。その後、この男に彼女は持ち金全部を搾り取られた挙句、捨てられて、故郷に戻つてきた。これが劇の始まり。
 この劇には明確な時期の指定はないが、ロシア革命(1917年)以前に始まつてゐた貴族階級の没落を背景にしてゐるのは明らか。農奴解放(1861年)の結果、もとは絶対服従だつた使用人たちが、時には主人一家を馬鹿にした態度をとるやうになつている。
 それにラネーフスカヤ自身、貴族階級出身ではあっても、貴族ではない弁護士と結婚し、そのうへ前述のような次第で、身持ちがいいとは言へないので、(たぶん、本家みたいな)伯爵夫人の伯母さんからは嫌はれてゐるといふ、言はば正式な貴族からは外れた存在なのだ。
 性格は、よく言へば優しい好人物で、頼まれるとどんどん人に金をやつてしまふ。そのため(だけではないだらうが)、借金の抵当になつた桜の園を守る実務的な能力は、兄・ガーエフともども、全くない。これが第一幕から強調されてゐるので、「彼らは桜の園を守り通すことができるか」のサスペンスは半ば以上失はれてしまつてゐる。

 ラネーフスカヤが桜の園を失ふのは、ただ世間知らずのためだけではない。別荘地として分割して貸し出せば、所有権を手放さなくてもすむ、といふロパーヒンの提案を二度に渡つて断るのは、「俗悪」だからだ、と言ふ。
 桜の園がばらばらに解体されて、新興成金たちが我が物顔に(借地権はどの程度のものかわからないが、その範囲では「我が物」に違ひない)闊歩する、桜の木も木材として伐られるのにも耐えなければならない。さうなつたら、そこはもう何よりも貴重な桜の園などではない。わかつてゐないのは、財務状況にしか興味のないロパーヒンのはうなのだ。
 と、正面から主張して議論を続けるなら、作品の対立軸は明確になり、価値あるものを守らうとして挫折する人間の悲劇として劇構造も安定する。ギリシャ悲劇も、イプセンの劇も、そのやうになつてゐる。
 しかし、ラネーフスカヤはすぐに話を逸らしてしまふ。彼女は、理屈はわからず、感情のみで動く人物として最初から最後まで振る舞ふので、「全くどうしようもない」といふ印象しか残らない。

 同じやうなことは、最終的に桜の園を買い取ることになるロパーヒンについても言へる。「新陳代謝の意味では、猛獣が必要」であり、「君の存在理由」(第二幕)は要するにそこにある、と、他人についてはやたらに鋭い見方を発揮する万年大学生のトロフィーモフに評される彼だが、最初から奪ふ者として登場するわけではない。
 彼は農奴の子どもだつた時代に優しくしてくれたラネーフスカヤを心から慕い、なんとかして助けたいといふ善意に満ちてゐる。が、本当の意味でそれができる手段は持ち合はせてゐない。
 かくてこの両者は決して噛み合はず、劇の中心はなんなのか、単純明快な筈なのに、ひどく曖昧な印象が残ることになる。

 このやり方でチェーホフは、劇中から本当の悪人を取り除くことに成功した。
 「三人姉妹」では、最初野暮な田舎娘として登場したナターシャが、三姉妹のただ一人の兄弟の妻となると、次第に家庭内の主導権を握り、姉妹を閉め出す。その過程が、そんなに目立つわけではないが、主筋ではある。彼女は市会議長と不貞を働いてゐる疑いが濃厚で、この男の手先として、女性が象徴する繊細で優美なものを押しのけて滅ぼす力の象徴になつてゐる。
 これはチェーホフ劇では珍しいはうの例である。桜の園は繊細で優美なものの象徴には違ひないが、それを滅ぼすのは、個人の顔のない時代の流れとしか言ひやうがない。ガーエフやラネーフスカヤがもつとしつかりしてゐて、このときは桜の園を守り通せたとしても、二十年も経たないうちに革命によって失はれてしまつたらう。我々はそのことを知つてゐるのだから、所詮は空しい努力だとしか言へない。

 最後に、喜劇につきもののはずの笑ひについてもう一度考へておかう。
 第三幕、桜の園の競売の日だというのに、館では舞踏会が開かれる。このチグハグさは、まさに喜劇的だが、それで笑ふためには、競売場で無力を曝け出しているガーエフや、雰囲気に巻き込まれて(だらう)競売に参加することになり、勢いのままに桜の園を競り落とすことになつたロパーヒンの姿などを眼前に展開させる必要がある。
 しかし、彼らが登場するのは、すべてが終わってからで、ラネーフスカヤは泣くことしか出来ず、他には、なんとかして母を慰めようとする娘のアーニャがいるばかり。とても笑へない。

 もう一つ、最終幕(第四幕)で、せっかく機会を作ってもらったのに、ロパーヒンはどうしてワーリャ(ラネーフスカヤの養女で、桜の園の管理をしてゐる)に求婚しないのか。お互ひに思ひ合つてゐることは、第一幕から明らかにされてゐるといふのに。教養のないことへのコンプレックスから脱却できないので、金儲け以外のことには臆病になつてしまふのだ、といふ説明は一応つくが、それにしても。
 ワーリャのほうでも、女性からプロポーズはできない、といふ当時の常識に縛られて、ただ泣くばかり。最後に、半ば無意識のうちに傘を振り上げるが、ロパーヒンがぎよつとすると、「わたし、そんなつもりぢやなかったのに」と言ひ訳をして、二人の関係は完全に終はる。
 いつそ叩いてやればよかつた。そこからてんやわんやの滑稽な騒動が始まり、結婚という幸福な結末に至るのは、喜劇作家たちがよくやる手だ。それがないのは、思ひ切つた行動ができない平凡な者たちを描くといふ、悲劇とは正反対の方向に、針が振り切れている感じがある。

 「絶望の虚妄なるは希望の虚妄なるにまさに同じ」といふ言葉が思ひ出される。チェーホフは、自分自身はちつぽけだし、世界に意味が見出せないからと、何も出来ずにゐる男を最も嫌つた。生きるとは、人と人の間で、何かをやり続けること以外ではない。もしそこに意味があるとしたら、その果てにしか見えてくることはないだらう。「ワーニャ伯父さん」や「三人姉妹」の女性たちが言ふ通りに。
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しろうるり箴言集 巻の一

2024年10月19日 | 創作
 以下は最近ふと思いついてFaceBook上で書き始めたアフォリズムが、「序」を入れて全部で二十になりましたので、ここにまとめたものです。発表時の順番は変え、また最小の訂正は加えてあります。箴言の後の【  】内は、最初のを除き、ただいたコメントへの回答から、自作解説(?)として適当と思えたものの採録です。


海北友雪画 徒然草絵巻一(部分) 江戸時代


 あるえらい坊さんがさほど偉くない坊さんを見て「しろうるりだ」と言った。
「そりや、なんですか」と訊かれると、
「そんなやつは儂も知らん。もしゐたとしたら、こいつに似てることだらうよ」と答へた。
(徒然草より超訳)
原文:徒然草第六十段「真乗院に、盛親僧都とて」【この僧都、或法師を見て、しろうるりといふ名をつけたりけり。「とは何物ぞ」と人の問ひければ、「さる者を我も知らず。若しあらましかば、この僧の顔に似てん」とぞ言ひける

その壱
「『自分の頭で考へろ』などと言ふ輩は近頃最もものを考へない者ではないか」
「そは卑見なり。その心は『いちいち言はれなくても俺の都合の良いやうにせよ』といふことにて、深慮遠謀とこそ言ふべき也」

その弐
「努力してるのに、成果が出ません」
「そらあ努力が足りんのだよ」
「どこまで努力すればいいんですか」
「成果が出るまでさ」
 無謬にして無敵の返答はこれ也。
【「やればできる」っていうのは、励ましの言葉として流通してますけど、ひっくり返すと、「できないのはお前がちゃんとやってないからだ」という非難になっちまうんです。こういう論理性(ですよね?)は、現実にもかなり力を持ちますんで、もっと自覚的であってもいいはずです。】

その参
「これはあなたには(男だから、大人だから、日本人だから、など)わからないだろうが」と話し始める人。
 わからないことが前提の話をなぜするのか、いかにもわからない。

その肆
「お前のためを思って言ってるんだぞ」とは強欲な言い方だと言われても仕方がない。
 非難しながら、そのことに対する感謝まで要求しているのだから。

その伍
「明るく、前向きに、希望を語ろう」と語る人は、往々にして、思い通りにはならない現実を背後に押し込み、直面するのを避けたいらしい。

その陸
 ある大手マスコミの最終面接。
応募者「私の夢は完全な事実のみを読者に伝えることです」
面接官「残念乍ら君は不採用だ。完全な事実なんてものがあったとして、そんなつまらないもの、誰が知りたがるのかね? 土台売り物にならんのだよ」
【「醜い現実より美しい嘘のほうがよい」という言葉がありませんでしたっけ? 真鍋昌平の漫画『闇金ウシジマくん』には「ずっと自分を好きでいたかった」し、「みんな(自分に)都合がイイ嘘が好きだから」ずっと嘘を突き通そうとする女性が登場します。現実を都合良く解釈して快適な気分に浸ることを「自分流に(真実を)知る」と言うなら言えないこともないですが、その内実は「本当に本当のことは知りたくない」のです。それに心の一部では気がついているところに、現代人の悲惨があります。】

その漆
「我らは正義だ。悪は断固粉砕せねばならない」
「異議なし。で、悪はどこにいる?」
「ほら、すぐそこにいる。打倒することで、我らの正義は証明されるのだ」 
 かくて、内ゲバが始まる。

その捌
「悪しき権力者は世界のどこかにいる。我々は圧迫されるだけの善なる被害者だ」
と思っている人々が蹶起するので、圧政を斃す革命が成就した暁には、さらにひどい圧政が始まってしまう

その玖
 ある絶対平和主義者が思いついた。
「私に害意をもつ連中や、将来そうなる可能性のある者をすべて抹殺してしまおう。そうすれば少なくとも私にとって世界は絶対に平和な場所となる」
 かくしてまた新たな戦争が始まるのだった。

その拾
 ある県の新採教員研修会である講師が、
「無意味なことに耐えられるのが現代の英雄だ」と言ったとのこと。
 この人が自分がそう言ったことも無意味だと自覚していたら、英雄とまではいかなくても、なかなか偉いもんだ。
【「面白き こともなき世を 面白く」生きられる者こそ英雄でしょう。私はニイチェのいわゆる末人なんで、なかなかそれができませんけど(^_^;)】

その拾壱
 唯我論や運命論は、反証は不可能という意味では完璧。ただし、これを信じる人々が、自分が見ている単なる幻影に過ぎない他者や、あらかじめ決められた運命の操り人形に過ぎない他人に何をどう話そうというのか、は解きがたい疑問。

その拾弐
 何かを価値だとする人とそんなの幻想だとする人が議論したら、それは後者が勝つだろう(あくまで、議論、ならばだが)。幻想ではない、とする究極的な証拠は見つからないのだから。その代り、その勝利もまた幻想であることを受け入れねばならない。
【人間の目に見えるものはすべて洞窟の壁に映った影だというのは本当かも知れませんね。でもその影の世界の「真善美」以外に、人間に求め得るものはないでしょう。】

その拾参
「なんであんなことしたんだ? 何を考えていた?」
「別に、何も。あれこれ考えたら何も出来なくなるじゃねえか。考えないためにやったんだよ」

その拾肆
「人間はどこまでも自由であるべきだ。しかるに、あの時あの場所で生まれるについては、私の意思は全く関わっていない。これはたいへんな屈辱だ。両親は問責されるべきだろう。少なくとも彼らには、私を生む・生まないを決める自由はあったはずだから」

その拾伍
「俺はあいつよりはマシなんだから、マシな扱いをされるべきだ。それが平等ってものだ」
 皆がそう言うので、平等を実現しようとしたら黙って従わせるために力を使うしかない。するとその分、平等は失われる。

その拾陸
「評価できない仕事はない」と言われたが、それならその「評価する」仕事も評価されるべきだろう。それからその「評価する仕事を評価する」仕事も……。
 で、どこかに、評価されずに評価するだけの絶対評価者を想定しなければならなくなってしまう。
【評価は広い意味なら、人間関係のあるところには必ずあると言えるでしょう。あいつはいい奴だ、厭な奴だ、なんてことは。問題は、職場などの公的な場でなされるもので、それが公正と言えるかどうかです。人間は完璧な者ではないので、完璧な評価もありません。結局、ある評価で人事考課を決定するためには、それに従わせる権力がどうしても必要になります。そのこと自体はやむを得ない、と言えるでしょうが、権力の権威付けのために、完璧な評価(しばしば「総合的な評価」なんぞという欺瞞のための言葉が使われます)があるような顔をすると、無駄な害が生じます。】

その拾漆
 なぜ金が欲しいかと言えば、金で好きなものが買えるからだ。貴重なのは金ではなくてもののほうなのは当り前すぎる話。しかしこのような手段と目的の混同が現に文明を駆動している。故にこの錯覚の外側で生きることは現代人には不可能なのである。
【交換でも、直接的な物々交換の間に貨幣が入ると様相ががらりと変ります。貨幣は交換の手段であると同時に、交換の留保でもあるわけで。交換を先延ばしすることで歴史が、そして文明が生じるわけです。】

その拾捌
「なぜ俺は今ここにいるんだろう?」
「なぜ私があなたの前にいるのか、それがわかったらわかるかもね」
【人生の夢は、本当に眠って見るのでなければ、いや、それでさえ、他者とのあいだにしかありませんので。偉大な冒険か、華麗なショーか、退屈なドラマか、悲惨な物語か、自分一人では決められない。自分を完全に理解してくれるのは他者ではなく、自分自身の幻影でしかありませんので、それが前に立っていたら、目をこすってよく見てみましょう。】

その拾玖
「なぜみんな『世界が終わる』という話が好きなんだろう?」
「自分の目に入る世界では、いつまでたっても何も始まらないように見えるからじゃないかな」
【生きている以上変化は細かいものなら絶えず起こっているわけですけど、そこに意味が見出せないのが問題なわけです。見出そうとすると手っ取り早いのは「結末」を考えることで、これによって過去も現在もそこに至る道筋として、物語化するわけです。宗教感情の大元の一つはここにあります。】
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