由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

SNSの快楽と危険

2024年09月13日 | 近現代史


 インターネットの発達と普及がもたらしたものは、IT(Information Technology「情報技術」)革命と言われた。情報ツール及びメディアとしては印刷物、初期の電波媒体(電話、ラジオ、TV)に次ぐものであり、実効性は前二者に勝るかも知れない。それでも人間世界を変えた実感はさほどないのは、情報伝達の量と速度がどれほど増大しようと、それを受け取る人間の能力(受容力)はそんなに簡単に伸びたりはしないからだ。
 大きな変化は、受け取る側ではなく、発信側にある。SNS(Social Networking Service)によって、誰もが、世界中に情報を発信できるようになった。元祖格である電子掲示板は、ネットに接続しさえすれば誰もが読めるし、書き込みも可能だった。一方、ネット上のコミュニティ形成を目指すサーヴィスもあり、日本での代表はmixiで、最初は既に会員である人に招待されなければ、言わば身元保証人がいなければ中に入れなかった。それが、平成22年から自分でアカウントを作って登録すればいいようになったものが、現在の基本形になっている。
 相互通信用のLINEに、記事投稿用のブログ、フェイスブックやX(旧ツイッター)、画像投稿用のインスタグラム、それに動画サイトであるYouTubeやTik Tokなど。先進国ではこれらを全く見たことがない人のほうが少数かも知れない。何しろ、パソコンはなくても、スマートフォンがあれば利用できるのだ。

 この新式のメディアの危険性と言えば、詐欺と流言飛語の拡散が第一に挙げられる。つい最近、有名人を装って投資詐欺に誘う手口が話題になったばかりだ。後者の代表は、アメリカのQANON(ANONはanonymous「匿名」の略語。訳せば「名無しのQさん」)だろう。Qというハンドル・ネーム(ネット上の名前)の者による謎めいた予断・予言の連続投稿から始まり、やがて国外にまで広まったものだ。
 よく知られた主張は、民主党の有力な議員や支持者は、悪魔崇拝者で幼児性愛者であって、彼らはDS(Deep State「深層国家」)を形成して裏からアメリカのみならず世界の政治経済を操っている、そしてドナルド・トランプは彼らと戦う光の戦士だ……。できの悪いSFかゲームかと思えるものが多くの賛同者、いや、信者を集め、2020年の大統領選挙には不正があったとして、それへの抗議行動である米議事堂襲撃事件の中核になった。
 これらの直接・間接の被害者の方々はお気の毒である。ただ、詐欺も流言飛語もずっと前からあった。SNSがそのために都合のいいツールかと言えば、それは両面ある。情報伝達の速さと広さはかつてないレベルだが、この種の犯罪の前提にはつきものの閉鎖性は失われるのだ。人を操ろうと思ったら、広い意味の洗脳が必要になる。それにはサティアンとかアジトとか、もっとセコければ事務所の一室とか、他所からは遮断された場所があったほうがいい。一対一の説得の他に、宗教やマルチ商法の集会で複数の人数が集まった場合、そこで仮初めにもせよ生まれる同志的紐帯の感情も絶大な効果を発揮する。
 ネット上の情報拡散は、時も場所も選ばないので、これが生じる余地は少ない。洗脳者たちにとっては都合の悪いものを含む情報の洪水に絶えず晒されているからだ。私も時折、有名人と同名の人から、「この情報はあなたにだけ教えるものです」という書き出しのネット上のお便りをもらうのだが、同じ名前で他の人にも「あなたにだけ」の話をしているのを見てしまうので、信じることはできなくなってしまう。
 Qアノンの信者たちは、教祖や同志の言うこと以外は、DSやそれに騙された者たちが流すフェイク(偽情報)だとして、自ら遮断して信仰の世界にとどまるのだろう。私のようないいかげんな者には思いも及ばない志操堅固さである。それでも、歴史に残る大きな騒擾を惹き起こしたのだから、侮ることはできない。

 しかし目下のところ私は、危険性は低いが、それだけによく見かける、SNSが開いた新たな言語作法のほうが気に掛かっている。言葉には公的なものと私的なもの、改まったものと日常会話の別が自ずからあって、誰もが特に意識しなくても使い分けて口にしたり書いたりしている。これが曖昧になったか、いっそ第三の領域が生まれたと思えることがけっこうあるのだ。
 詐欺師ではない発信者でも、自分の言うことが注目され、できれば賛同してもらうのを願っているのだろう。そこで前述の受容力が改めて問題になる。発信した情報が、誰に、どの程度に受け取られるかという。
 有名人の投稿なら、最初からそれなりの注目を集めるけれど、一般人の場合、Xの表示回数やらYouTubeの再生回数は、百もいかないのがむしろ普通だ。逆にこれらの投稿から有名になる人もいるにはいる。投稿画像や動画で多数のフォロワー(投稿があったら通知をもらって見落とさないようにしている人)を集める、通称インフルエンサーは少なくないようだが、あくまで例外的な存在。自己顕示欲・承認欲求を満たすためには、さまざまな工夫が必要となる。

 工夫の中には騒動のタネになるものもある。SNS上でよい評判を取ることをバズる、悪いのを炎上する、と言うようになっているが、無視されるなら顰蹙をかってそれが評判になったほうがいい、と思う者はけっこういる。その評判自体が、SNS上の各投稿や記事のコメント欄などで広まる。そしてこの戦略(すこし前には、炎上商法、などと言われた)のためには、文だけより動画があったほうがインパクトが強いので、主にYouTubeが使われる。
 そのうち、常に需要がある高名な人や団体のスキャンダルを流す者は、通称暴露系ユーチューバーと言われる。議員にまでなってしまったガーシーこと東谷義和がその代表。
 一方、通称迷惑系ユーチューバーも目につくようになっている。渋谷のスクランブル交差点に蒲団を敷いて寝る、など。バイト・テロ(アルバイトをしているレストランの、調理台のシンクにお湯をためて入浴する、など)や、すし・テロ(回転寿司店で備え付けの醤油差しに口をつける、など)もその延長。現場の顔出し動画をアップするんだから、捕まるに決まっている。彼らはまたバカッターとも呼ばれる。それなのに、なぜやるのか?
 ここでは現象面から少し詳しく考えていきたい。迷惑系とは、仲間同士の悪ふざけを拡大し、公表する者だ。私のような陰キャでも、知り合い何人かと焼き肉を食っていて、焼き上がる前のコンロ上の肉を、「取られないおまじないをしま~す」とか言って、一舐めした箸でつつく、なんてことはやった。「バカ、何やってんだ」と笑ってもらえたら成功、怒られたら失敗、でなかなかスリリングだが、逮捕されることはない。また、我々と全くかほとんど関係ない人がたまたまこれを見ても、文字通り面白くもおかしくもないし、その他どんな思いも持たないだろう。
 思いを持って注目されるためには、もっと過激なことをやるしかない。過激が嵩じて、犯罪の段階にまで至れば、いかにも注目される。顰蹙の形で。そんなことぐらいは予想しているだろうが、半面、退屈な日常をほんの少し揺さぶるパフォーマンスとして楽しんでもらえるんではないか、なんぞと安易に期待しているところに、バカッターのバカの所以がある。
 悪ふざけをギャグとして、赤の他人が楽しんでくれるものにするのは、練達の芸人でも難しい技だ。それよりは、非常識で迷惑な行為を良識に基づいて非難しつつ、馬鹿にして笑うほうがいつでも簡単明瞭である。かくて迷惑系は、自分たちの思惑とは別のところで、ネットユーザーに娯楽を与えることになった。

 このように、人を非難すること、馬鹿にすること、罵ること、が今やSNSの提供する最大の娯楽になっている。前出の暴露系は、犯罪ではないにしろ、一般に恥ずべき言動とされているものを暴き、非難する体裁で行われる。むしろこちら側が名誉毀損罪に当る可能性大で、現にガーシーは逮捕された。
 しかし、同じくSNS上で、一応は良識という「社会的正義」に則っている体裁で暴露されたことを拡散するのは、拡散できたらなおさら、一人ではなく大勢で言っていることになるので、完全に安全な楽しみだと思える。暴露の対象は有名人や有名企業がよいが、一般人でもわかりやすく恥をさらした迷惑系などは、餌食になる。それ以外の批判や誹謗中傷もネット上に溢れかえっており、いつ誰がやり玉に挙げられるかわからない。その意味では、今非難攻撃を楽しんでいる者だって、いつか楽しまれる側に転ずる危険はあると言える。

 文字によるSNSの代表である旧称twitterに目を向けると、大元の意味は「小鳥が囀る」で、そこから「ぺちゃくちゃ喋る」などの意味に転じた。綴りが似ているtwitは「なじる、からかう」で、twitterとは関係ないとされるが、2006年創設時の命名者たちはこの近似は意識していたろうという疑念は拭えない。twitter上の投稿はtweetと呼ばれ、これは同じく「小鳥の囀り」また「呟き」の意味もあり、現在でも見かけるが、Xになった今は、「ポスト」のほうが正式(か?)なようだ。
 日本でもサーヴィスが開始された当初は、文字通りの呟きで、「今、昼休憩中」だの。「トイレ、ナウ」だの、投稿者自身と身近でなければいかなる興味の持ちようもないものが多かったようだ。こういうのは今もあるのかも知れないが、運営側の自称ではあくまで情報ツール(ウィキペディアによる)だ。
 それでも、日本語で一投稿原則一四〇字以内の制限があると、詳しい情況まではとても伝えられない。連続投稿などで実質長く書く方法もあるが、それより、ある出来事についての感想や意見を断定的に書くのが、Xと名前が変った現在までの標準的な語法になっている。
 すると、誰かを、あるいは何かを批判するとなると、「頭がおかしい」だの「恥を知れ」だのという、悪罵と言うべき形になることも多い。かくて、ホンネが前面に出てきてタテマエが崩れた、とみなすのは早計で、こういうのがよく見受けられるようになったことへの不安や反発から、心や神経を傷つける言葉・言い方への忌避感は強くなる。「セクハラ」から始まって、「パワハラ」「モラハラ」「アカハラ」「カスハラ」、最近では「ハラハラ」(それは「~ハラ」だと言って攻撃されること)なんて言葉が飛び交うのが何よりの証拠だ。どちらも多すぎるので、批判・再批判の応酬はあったとしても、たいていはSNSの言葉の海に飲まれて、すぐに見えなくなるのである。

 飲まれる前にしばらく浮かんでいた実例として、今年(令和6年)8月にXへの投稿から起きた炎上を二つ見ておこう。投稿者はどちらも有名人だが、そうでなかったら私などの目に触れることはないのだから、そこは仕方ない。
 一つ目はフリーアナウンサー・川口ゆりの、8日のポスト。「ご事情あるなら本当にごめんなさいなんだけど、夏場の男性の匂いや不摂生してる方特有の体臭が苦手すぎる。常に清潔な状態でいたいので1日数回シャワー、汗拭きシート、制汗剤においては一年中使うのだけど、多くの男性がそれくらいであってほしい…
 この川口という人を、私は知らなかったのだが、まあ有名なのだろう。三万近くの「いいね」がついた。半面、批判も多く、現在ではこのポストは削除されている。「男性差別」だと言われて。この言葉を見聞きするのは、今回が初めてではないけれど、「女性差別」に比べればずっと少ないし、これによって発言者の社会的立場がどうにかなった例は寡聞にして知らなかった(川口は所属していた事務所の契約を解除されたそうだ)。それだけ女性の社会的な立場が上がったしるしかも知れない。
 匂いについては、おっさんには清潔感がないとか、加齢臭がどうたらいう言葉はけっこう聞いた。あくまで感覚的なものだから、TVやラジオのインタヴューの答えとして言われても、個人の感想と受け取られ、流された。川口もそのつもりでポストしたのかも知れない。いわゆる私語であり、私語(ささや)きであると。それが大勢に伝わるとは、何しろその大勢は目の前にいるわけではないので、つい忘れがちになるのかも。
 だいたい、彼女が男性の匂いをどれほど嫌いでも、会うこともない男には関係ない話ではある。が、X上で独立した記事として出てくると、意見に見えてしまい、毀誉褒貶の対象になる。「あってほしい…」と願望の形で終わっていても、「そうすべきだ」と言っているのと同じだと受け取られ、「一日に数回シャワーを浴びられる人が何人いると思っているんだ」というような反応を引き出す。このようにして、SNSは、私的な呟きをするりと公的な次元に移すのである。

 もう一つ、時間的には前例より少し早い、フワちゃんとやす子の件。彼女らは私も知っていたから、かなり売れている芸人なんだろう。
 まず2日の、やす子のXポスト。「やす子オリンピック/生きてるだけで偉いので皆/優勝でーす」。
 これに対する4日のフワちゃんのリツイート(引用して反応するポスト)。「おまえは偉くないので、死んでくださーい/予選敗退でーす」【/は原文の改行部を示します】
 後者の投稿はすぐに削除されたが、スクリーンショットによって記録されたものが拡散した。このように、記録も拡散も簡単なのもSNSの特性であり、そこでの言葉が公的なもののように見える要因の一つになっている。
 フワちゃんは自分のポストを削除しただけ(それだと、証拠隠滅だという非難を浴びたろう)ではなく、同じ4日のうちに「(前略)言っちゃいけないこと言って、傷つけてしまいました/ご本人に直接謝ります」とポストしたが、それで収まることはなかった。彼女はタレント活動休止にまで追い込まれた。
 結局何が起きたのだろう? 背後の事情についてもいろいろ言われているようだが、あくまで言葉のやり取りのみに着目する。フワちゃんは、やす子のポストを漫才のボケとみなして、ツッコミを入れようとしたのではないだろうか。
 最初のポストで、やす子は何が言いたかったのか? 「みんな違って、みんないい」とでも? そうだとして、この言葉に感動したり、慰められたりする人がいるだろうか? 何かに失敗してがっかりしている人に言ってあげれば、そういうことにもなるかも知れないが、具体的な状況抜きで言葉だけ投げ出されても、「やす子って、性格いいんだな」以外にはなんとも思いようがない。この騒ぎがなかったら、このポストは彼女のファン以外の人の記憶に残ることもなかったろう。
 お笑い芸人がこんなことではいかん、とフワちゃんが、先輩として、義憤にかられて(もちろん冗談ですよ)、少しは面白くなるように転がしてやるか、と余計なことを考えてやってしまったのが「予選敗退」のリツイートだったのではないだろうか。それにしてもうまくないので、笑えないが。「お前、オリンピックでなに金子みすゞやってんねん。違うやろ」とでも言えば。……やっぱり、面白くないですか? フワちゃんは関西人じゃないですし。まあ、これなら、ボケーツッコミとして辛うじて成り立つのではないか、と思って作った例ですので。
 そう、フワちゃんのリツィートは、やす子の言葉をひっくり返しただけで、ツッコミにもなっていない。それで、「死んでくださーい」の部分だけ浮き上がったものを掬い取られれば、これは明らかに、社会的に言ってはいけない言葉だ、ということになる。フワちゃんもそれに気がついたからこそすぐに削除したのだろうが、時既に遅し、いわゆるデジタル・タトゥーとして残され、多くの人の目にとまることになってしまった。
 フワちゃんという人は、元来ユーチューバーの出身で、権威にも常識にも靡かない無邪気で破天荒な言動がウリだった。そうであればこそ、言葉には、言葉がどんな場を創り、どんなふうに行き渡るかについては、もっと自覚的であるべきだったのだ。
……と、エラソーに言ってみて、いや、そうではなくて、SNSという新たな言葉の場が開示した言葉という道具の持つ恐ろしい面には、現代人は畏敬の念を持つべきなのだろう、と思いついた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正しい道をどこまで行くべきか

2024年08月25日 | 倫理

【AIはどちらを犠牲にする?】正解のない究極の2択「トロッコ問題」とは何か?【科学・ざっくり解説】ぶーぶーざっくり解説【小学生でもわかる科学】

メインテキスト:ベンジャミン・クリッツァー『21世紀の道徳 学問、功利主義、ジェンダー、幸福を考える』(晶文社令和3年初版、令和5年4刷)

 先日の読書会で、日本在住の(国籍は)アメリカ人が、ブログなどのSNSで日本語で展開してきた、倫理に関連する言論をまとめたものを読んで、思うところがあったので書きます。
 クリッツァー氏(以下、著者、と表記する)は、この書籍の発刊当時32歳で、若い。と、言うと、AUのコマーシャルであのちゃんが「『若い』でまとめないで下さい」と言っていたのを思い出す。もちろん、おじさんおばさんにいろいろあるように、若者にもいろいろある。それでも、そのおじさんおばさんの若い頃の一般的な傾向とは少し違うな、と思える特徴があって、そんな感想が出てくる所以を自分で分析すると、次の二のからだ。
(1)例えば「革命」などの観念からではなく、現実、と見えるものから出発しようとするところ、保守的な感じ。
(2)その現実の動きに一本の論理の筋を見つけると、それをどこまでも押していこうとするところ、けっこう過激。

 順に述べると、「第9章 ロマンティック・ラブを擁護する」と「第12章 仕事は禍いの根源なのか、それとも幸福の源泉なのか?」が(1)の典型になる。これらについては、恋愛や仕事(労働)には価値があるし、幸福の基になる、なんて当然すぎる話ではないか、なんでそんなことをわざわざ言うんだ、と不思議に思う人もいるだろう。
 その反応がまだ世間の普通と言っていいだろうが、言論や表現の世界ではdiversityを推進するポリコレ派に勢いがあって、いわゆる普通の、昔ながらの異性愛を称揚するのはオクレている、反動だ、とされそうな雰囲気がある。言わば、ある人々にとって好ましい「多様性」という価値観を一様に押しつけられるような状況はあるのだから、それに対して改めて言う価値ならある。
 労働についての言説はもう少し複雑な感情がからむ。「働いたら負け」なる言葉は聞いたことがあるが、2000年代にネット上に現れたミーム(≒流行語)であることは本書のおかげで知った。その謂いは、昭和後期に若者だった我々とあまり変らない、と即断して回想風に語ろう。小此木啓吾が言って流行語になった「モラトリアム人間」(昭和53年)とか、浅田彰の「スキゾ・キッズ」(昭和59年)などの標語が言い現しているのは、職業≒一定の社会的な立場、によって自分の社会的なペルソナ(外向きの顔)が決まってしまうことへの嫌悪、否むしろ恐怖だった。
 平たく、身も蓋もなく言い直せば、「自分たちの親のような、つまらない大人になりたくない」という気分。これが、主に大学生、その中でも生産に直接結びつかない人文系の学部(有益な批判的観点をもたらすことだってある、と、本書の「第2章 人文学は何の役に立つのか?」では力説されている)に学ぶ若者の間で色濃く見られた。これは私自身が陥った状態で、文学部なんぞというところにいたので周囲にもたくさん見たので、必要以上に確信を持って語ってしまいます。
 古くは夏目漱石「それから」(明治42年)の主人公がそういう心性の持ち主だが、彼は30歳になってもなぜ働かないのか、ちゃんと説明できていない。ありようは、20年以上かけて頭の中で肥大してきた自己像(時々「理想」などと呼ばれた)が、うまくおさまるような場を、現実社会の中に見つけることが難しかったということ。とりわけ我慢ならないのは、周囲からの「お前ももう大人なんだから」という声に負けて就いた職業上の「責任」でもやっぱり負わされるところ。ざっとこういうのが「働いたら負け」の中身である。もちろん、いつの時代でもそんな若者ばかりだったわけはないが、この言葉が多少はバズる(流行る)程度には共感が持たれる。
 ただ、明治時代では働かなくても生活できる男はわずかだったが、戦後の高度成長期を経た日本なら、五十万人程度のニートを養うぐらいの富は、一般家庭にも蓄積されていたのである。
 こういう者たちにとって、「社会は不正に満ちている」というような言説は、現実的・論理的な整合性より、自分たちを正当化してくれるようなのですばらしくも正しくも思え、いつまでも後を絶たない。マルクス主義がその絶対王者的代表だが、近年の話題作としては、D・グレーバー『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』を著者は紹介している。これらにはもちろん、正しい面もある。r(資本成長率)>g(経済成長率)は常に成り立ち、資本家と労働者の経済格差は開く一方である。有害無益な権威や地位を守るための牛の糞なみの仕事もあり、しかもそのほうが人間社会に必要不可欠なエッセンシャル・ワークより高賃金だったりする。
 このような社会の矛盾や害悪が存在するからといって社会に出ないとしても、それによって社会のほうがどうにかなるわけではないのはもちろん、その人自身にも何ももたらさない。単なる妄想以外には、自己満足さえも、ない。人間は社会的な生物なのであって、「幸福を得るためには他者の存在が不可欠であるし、社会に対してなんらかのコミットメントをしなければならない」(P.352)からだ。
 このへんを私なりに敷衍して述べると、他者とは現実そのものなのだ。人間は誰も、自分第一に生きているのだから、他人を丸ごと、そのまま受け入れてくれることなどない。わかりきった話なのだが、誰にとっても自分は特別な存在なので、そこまでなかなか思い至らない。即ち、自己をなかなか客観視できないのが、人間一般の通弊なのである。
 さらにまた、(普通は)職業を通じて社会にコミットメントすることは、マルクス主義者やグレーバーが指摘した、社会悪にいくらか手を染めることになる。その指摘は部分的には正しいから、それを厭い、避けようとする気持ちも、幾分かは正しいことになるだろう。しかしそれを言っても、単なる言い訳にしかならない。個人に現実を換えられるチャンスが少しはあるとしても、そのチャンスは現実の外側にあるわけはないのだから。現実に身を曝すことを厭う自分には、どこからみてもなんの意味もないのだ。

 著者のこのような現実的な平衡感覚は、他でも、例えば「第7章 フェミニズムは「男性問題」を語れるか」のジェンダー論でも発揮されているようである。
 フェミニストの中には、男女それぞれの特性と言われているものや、男らしさ・女らしさの価値観などは、すべてが男性中心社会で、男性に都合のいいように拵えられたフィクションだ、と唱える者がいる。これも完全なデタラメではないが、それでも男女の生物学的な体格・体力差を無視するのは馬鹿げている。それは近年スポーツの世界でトランス・ジエンダー選手が女子競技に進出した結果、明らかになってきた。
 しかし内面的な、思考や行動の様式・傾向の分野になると、身長・体重・筋肉量のような、明確に測定して数値化できる指標はなく、同性間でも個人差が大きいので、曖昧で恣意的と思える部分がどうしても残ってしまう。以前に紹介した小浜逸郎の男女関係論は、性的な身体性に基づくもので、説得力が高いと個人的には感じられるが、そこから一歩進めて社会的な役割分担の話になると、「蓋然的なことしかいえない」のは小浜本人が認めているとおりだ。
 本書で紹介されているサイモン・バロン=コーエンの「システム化思考」と「共感思考」という枠組み(『共感する女脳、システム化する男脳』)も、男はより理性的、女はより感情的、と昔から言われてきた決まり文句に実をつけたようなものではないか。体験的に「それはそうだな」と思う人が多いからこそ決まり文句になっているのだが、それが進化論的必然によるのか、既存の社会規範によるものか、決して確実な証明はできないし、私見では、そんな証明が重要なわけでもない。なんであれ、女性も男性も、この社会でなるべく幸福になりやすい方途を探すほうが大切なのである。。
 この第7章で取り上げられているのは、フェミニストから非難されている「有害な男らしさ」だ。男性は共感力が弱く、他人を傷つけても平気な場合が多い、というのがその内容だが、ではその非難は男性の特性を充分に考えたうえでのものかと言えば、かなり疑問だ。
 彼らの議論は「生物学的な要素を無視して社会構築的な要素を強調するという偏向や、女性の立場からの問題意識が議論に混入しているために、問題の原因に関する冷静で正確な分析がおこなわれているとは期待しがたい」(P.183)。フェミニストの議論は女性の「ため」を図る政治的なものであり、客観的な基準は二の次にされている、というわけだ。これはフェミニスト以外の多くの人が抱く見方だろう。
 「ただし」と、すぐ後で著者はつけ加える。「フェミニストにもたしかな功績があるかもしれない」。「男性問題」は確かに存在するのだ、と。ただし、外部の社会的な問題ではなく、「自分はシステム化思考に偏っており、共感思考に欠如しているのではないか」などと、「内部」の問題としてこれを捉えることを、男性に勧めている。
 これをも含めて柔軟な平衡感覚と評するべきだろうか。そうかも知れないが、それより、「批判している側の顔も少しは立てておこう」という折衷的な態度に見える。本書の他の場所では、「共感思考」より「システム化思考」を重んじている印象が強いので、余計にそう感じられる。

 そこで(2)に移る。
 本書の「まえがき」で、次のように宣言されている。「答えの出せない思考なんて意味がない。(中略)哲学的思考とは、私たちを悩ませる物事についてなんらかのかたちで正解を出すことの出来る考え方なのだ」と。
 個人がある状況に直面したときどうするかの言動にはいくつかのパターンがある。そのうちのどれが他よりましか、より悪いか、答えを出そうとするのが倫理問題だというのはその通りであろう。ただ、「すべてに答えを出せるんだ」と言われたら、その態度には不安が持たれることが多いだろう。著者にもそれがわかっているから、わざわざこう言ったのだろう。
 あらかじめ自分自身の立場を言っておくと、私は、倫理問題に関しては、いつでもどこでも誰でもを納得させることができる答えのほうが、例外だと思っている。だから私たちは常に悩まねばならないし、悩み続けること自体に意味があるとも思っている。なるほどそれは「学問」ではないかも知れないが、世の中には学問より大事なことはある。

 著者の考え方は、良きにつけ悪しきにつけ、私よりずっと「男らしい」と言える。
 例えば、マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』が有名にした「暴走する路面電車」の例は、ずいぶん以前に当ブログでも取り上げたが、ここでは「第5章 「トロッコ問題」について考えなければならない理由」に出てくる。路面電車かトロッコかは問題ではない。要は「複数人の命を救うために一人の命を失わせることは正しいか?」という思考実験だ。摘要だけを述べると。

①「分岐線問題」(と、著者は表記している)爆走するトロッコの前方の線路に五人の作業員がいる。あなたの前にはトロッコの路線を切り替えて分岐線に導くためのレバーがある。このレバーを倒せば五人は助かるが、分岐線のほうには作業員が一人いて、彼は轢き殺されるだろう。あなたはどうすべきか?

②「歩道橋問題」あなたは跨線橋の上から、暴走している路面電車の前方の線路に、五人の作業員がいるのを見る。あなたの隣にはとても太った男(以下、デブと表記する。因みに私も、自他共に認めるデブである)がいた。彼を橋から突き落として電車にぶつければ、その男は死ぬだろうが、電車は止まるか脱線するかして、五人の命は助かる。どうするか?
 
 ①の場合、多くの人が、一人の人を死なせることを選ぶだろう、と予想される、ばかりではなく、哲学や心理学の授業でのアンケートで、そういう結果が出ていることが報告されている。
 因みに、法律もこれを支持しているようだ。条文を挙げると、刑法三七条(緊急避難)。「自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる」。
 ところが②になると、デブを突き落とすべきだ、と答える人数はかなり減る。どこが違うのか? 五人の人間の命を救うために一人の命を犠牲にするのは同じだ。司法も、それを「やむを得ずにした行為」だと認めたら、「罰しない」ことになるだろう(実際はかなり微妙であることはここでは措く)。しかし、目的も結果も同じであっても、積極的・直接の行為で一人を殺すのは、心理的・感情的に納得できないところが残る。
 著者はこの問題については明確な自分の答えを出していない。ただ、「明確な答えは出せないという答え」については批判している。①にしても②にしても、自分が現実に直面する確率はゼロとみなしてさしつかえないだろう。ならば、こんなことを考えること自体が無駄ではないか、というような。これはトレードオフ(二者択一)をいやがる態度である。
 思考実験は現実をぎりぎりまで抽象化したものだ。決定的な局面でどちらを選ぶか、迫られる場合は、実人生のうちに決して多くはないけれど、絵空事ではない。小浜『倫理の起源』には、妻が難産で苦しみ、このまま出産を続ければ母体が危険である、と言われた場合が例示されている。そこまで切迫していなくても、介護が必要になった老親を自宅に置くべきか、それとも介護施設に入れるか、などは、今やかなり一般的な問題になった。
 つまり、母体と胎児、老親と他の家族、などのどちらかの負担を軽くするために、どちらかに大きな負担を、極限では命に関わる負担を与えねばならない、これは今後どれほど文明(医療や社会制度)が進もうとも、完全に解消することはできない逆境であろう。この世に生きる誰もが、いつかトレードオフを迫られる可能性はあるのだ。そのために、このような思考実験で練習しておくのは有益である……か?
 最後以外は完全に同意する、というところで元の問題にもどると、一番上で紹介したYouTube動画にもあるように、「分岐点問題」にはその後様々なヴァリエーションが考え出されている。そのうち本書には②の変型である、

③「落とし戸問題」が紹介されている。跨線橋のデブが立っているところが下に開く落とし戸(絞首台にあるあれ)になっていて、デブの体に触れないで電車にぶつけることができるとしたら?

 これはレバーなどの操作で五人を助けることができるという点で、①の場合に近くなる。それで実際に、デブの命を犠牲にしよう、という人が増える。だが結局、違いはどこにあるのか? デブの体に直接触れるか触れないかだけではないか?
 このヴァージョンが出ているのはジョシュア・グリーン『モラル・トライブズ』だが、そこでは、上は感覚的な問題であって、道徳的な優劣ではない、と断定されている。世界全体の幸福は計量可能なのであって、つまり、一人の命を犠牲にして複数の命が助かるなら、そのほうが正しい。これに着目するなら、どう殺すかは問題ではないし、まして体に触れて相手が人間、あるいは生物であることを文字通り実感する負荷(不快感)は無視してよい。
 これは功利主義と呼ばれ、著者もこの立場にある。結局これだけが、トレードオフの問題に正解が出せるのだ、というより、正解を求めるなら、これ以外のやり方はない。
 それは認めねばならない。倫理とはつまり、AとBの二つのやり方があったら、どちらがよりいいかは見つけることができるという信念に基づく。すべて同じだ、というならニヒリズムで、それに徹するのは人間にはなかなかできることではない。
 とは言いながら、このような解決法を示されると、やっぱり「正解」を出すのは難しいな、という思いも同時にしてくる。人間をただ量(数)の点でのみとらえるので、「多数は少数に勝る」で一定の答えが出てくるのだが、もちろん考慮すべき要素は他にもある。
 そこで、さらに次のようなヴァージョンも生まれる。

④五人は老人で、一人が子どもだったらどうするか?

⑤五人が凶悪犯罪者で、一人が世のため人のために尽くしてきて、今後もそうするだろうと予想される天才だったら?

 問題をいたずらに複雑化しようというのではないことはわかっていただけるだろう。人間の置かれた状況は常に個別具体的で無数のケースがあり、行為には常にその場での熟慮と決心が必要で、しかもその挙げ句に後悔することがないとは限らない。トレードオフに一定の回答はなく、だからこそ人はいつも新たに、決断力が必要とされるのだ。

 著者の合理性は、もっとあからさまに常識を逸脱することがある。それが本書のウリではあろうけれど。
 「第6章 マザー・テレサの「名言」と効果的な功利主義」は、マザー・テレサの来日時の発言とされる「大切なことは、遠くにある人や、大きなことではなく、目の前にある人に対して、愛を持って接することだ」(P.137)などの批判から始まっている。同じことは、例えばアダム・スミスなど、多くの人が言っている。
 前出のサンデルの本でも、二人の子どもが海で溺れていたとき、一人が自分の子どもで、もう一方がそうでなければ、自分の子どもを優先して助けるのが正しい、とされている。これもトロッコ問題の別種のヴァリエーションになりそうだ。

⑥五人が他人で、一人が自分の子どもだった場合、あなたはどうするか。

 子どもを死なせる、とためらいもなく答える人はごく少数であろう。
 しかし著者は、今度はピーター・シンガーを援用して、こういうのを「身内びいきのバイアス」と呼び、非合理だ、と言う。もっとも、⑥のような重大な犠牲を払っても、とは言わないが。可能な範囲で寄付しようというような話なら、地球の裏側の人であっても、身近な人たちより困っている場合には、そちらの救済を優先すべきだ、と。
 「10万円しか持たない人がさらに10万円を得る場合にその人が感じる価値と、すでに100万円持っている人がさらに10万円を得る場合にその人が感じる価値を比較した場合、単純に考えると前者は後者の10倍の価値を感じることになるはずだ」(P.154)という「収穫逓減の法則」からして。
 身内びいきが起こる進化的な理由はわかる。人間は個体としてはかなり弱い動物だ。生き延びるために自分を守ってくれる、少なくともそれが可能な身近な人のほうが、顔も知らない人間より貴重なのは当り前なのだ。
 しかし、進化論的にはそうでも、それが道徳的に正しいとは限らない、とシンガーと著者は言う。なるほど、一理ある。「他人への思い遣り」を原理化すれば、こういうことになるだろう。疑念はむしろ、実際的な効率の部分にある。
 寄付、昔風に言えば義捐金は、災害などの一時的に困っている人にこそ有効であろう。サブサハラの民族の多くが苦しんでいるような絶対的な貧困に対しては、いくら出せばいいのか、ゴールが見えないし、ずっと継続して援助できるとしても、それに頼って生活し続けるのは、その地域の人々の精神状態、つまり誇り、を考えると決していいことではない。その地域自体が経済的に繁栄するに越したことはない。
 そのためにはどうすればいいか? 市場経済に参入することだ。これも原理的に、気候条件や資源の有無などを一切無視して言えば、自分たちでお金が儲けられるようにすればこの問題は本当に解決するのだし、それは不可能ではないははずだ。
 豊かな社会とは、もの(サービスを含む商品)が大量に溢れ、それを流通させるためのお金もたくさん流通する世の中を指す。前述のr>gによって、金持ちと貧乏人の差は広がる一方ではあるのだが(だから労働者は世界の少数の金持ちに搾取されていると言ってもいいのだが)、それでもやっぱり我々庶民・労働者の生活も少しずつ豊かになる。理由は至極単純だ。労働者も自由に使えるお金(可処分所得)を持ち、商品を買ってくれた方が、資本家もより多くのお金が儲かるからだ。20世紀初頭にヘンリー・フォードたちが発明したこの大量生産・大量消費方式が、資本主義はいつか行き詰まるというマルクスの予言を超え、現在までのところ経済成長は続いている。
 今の場合に重要なのは、このやり方は、市場から誰かを理不尽な差別によって排除するよりは参加させたほうが、皆にとって都合がいいところである。チャイナの経済が1990年代以降奇蹟のような発展を遂げたのも、国内の努力はあったに違いないが、各国の、あるいは国際的な資本が、消費と労働力の市場としての強大なポテンシャルを認めたからこそだ。現在の世界最貧困地帯にこれが起きることを期待しても悪くはないだろう。
 実際、本書にも書かれているが、1960年代から2020年代のコロナ禍まで、各国の収入の差は、少しずつでも狭まっていた。これは、経済成長の恩恵は世界各地に一応は及んでいることを示している。それというのも、これによってもっと儲かると期待できるからで、道徳心ではなく、エゴイズムが原動力になっているからだ。まず資本家が、自分たちの儲けを追求し、そのために広い範囲への市場の拡大が目指される。この企てはかなりsustainable(持続可能)である。
 問題がないとは言わない。しかし、これ以外に貧乏人をいくらかでも豊かにする方法を人類が見つけていない以上、貧困問題を解消するのに「身びいきのバイアス」を否定しきることはできないであろう。

 最後に、著者の真骨頂と言うべき動物倫理に就いて少し触れる。ビーガニズムそのものに対する批判なら、当ブログでは日本最高のビーガンである宮澤賢治(彼の在世中にはこの言葉はなかったが)について以前に書いているので、そちらを見ていただきたい。また、著者自身がビーガンであるかどうかは明らかではない。P・シンガーなどの論理を祖述しているだけかも知れないのだが、それは追求しない。
 「第3章 なぜ動物を傷つけることは「差別」であるのか?」にあるの主張を最も端的にまとめた文は、「知能の高低に関係なく、苦しみや痛みを感じる動物に苦痛を与えることや動物を殺すことは否定される」(P.65)だろう。
 この謂いは以下。「なぜ人を殺してはいけないか」を考え詰めて、その人に苦痛や恐怖を与えるからだ、という結論にたどりついた。ところで死に際して恐怖や苦痛を感じるのは人間だけではない。だから、この理由で殺人が悪とされるならば、その程度の知性はあると考えられる動物を殺すのも悪とされねばならない、と。
 これは一つの論理の筋を押し通そうとするとどうなるか、の典型であろう。私にもその傾向が、若い頃のみならず、老年と呼ばれる今でもあるので、以下は自戒として書く。
 道徳、にもいろいろあるが、著者やシンガーや、それに小浜逸郎も賛同していた功利主義のそれは、人間の世界を/世界でうまくやっていくことを主眼とするのだし、私もそういうものとして優れていると思う。動物倫理は、そこから逸脱している。これによって人間と動物が今よりもっとうまく共存していけるならいいが、それはまず期待できないからだ。
 本書でも後のほうに出てくる道徳の黄金律は「自分がしてほしくないことは他人にするな」で、これは世界各地の多くの文化に出てくるし、反対する声はほとんど無いので、そう呼ばれている。要するに契約関係である。前述の「思い遣り」もまたここに由来する。自分が他人にできるだけ厭なことをしないと約束して、それと引き換えに他人からもされない権利を手に入れるわけだ。これが完全な形で履行されるわけではないが、原則としてはあることによって、人間の世の中はなんとか保たれている。
 著者は権利という言葉を嫌う。主張した者にしか与えられない感じがあるからだ。動物は主張したりはしない。だからと言って存在を無視されていいものか? というわけだ。しかし上のような契約関係は「自然」に生まれるわけはない。他人の立場に自分を置き換えてみる想像力が必要となる。それは自然から大きく外れた生活をするようになった人間のものだ。
 狼も、危険からは逃げようとするので、殺される恐怖と苦痛は感じるのだろう。が、ではお前に殺されて食われる兎の身になって考えてみろ、と言われても無理だ。能力以前に、そんな不自然な世界に生きていないのだし、第一、他の動物を殺すのを禁ずるのは、彼らの生存を禁ずるのと同じことになってしまう。
 道徳は日本語では人道とも呼ばれる。人間が人間の世界で踏まえるべき正しさ、ということだ。そこに後から合理的な理屈をつけるのはいいが、限度を心得ず、「正しさ」をどこまでも拡張しようとすると、人の世をうまく運営するための道、という功利主義の真面目も台無しになってしまう。これもまた道徳の前提として、心得て置かねばならないことであろう。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

舞姫・明治の国際恋愛

2024年07月31日 | 文学


メインテキスト:六草いちか『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』(講談社平成21年、河出文庫令和2年)
        同『それからのエリス いま明らかになる鷗外「舞姫」の面影』(講談社平成25年)
林尚孝『森鴎外と舞姫事件研究』(公開開始平成26年)

 鷗外森林太郎の小説家としてのデビュー作「舞姫」には基になった事実があることはよく知られている。何より、ドイツから日本まではるばる林太郎を訪ねてきた女性に、彼の親族や友人数名が会っている。しかし二人の関係の詳細は、ほとんどわかっていない。それでも、何しろ我が国近代文学史上屈指の大作家の、しかも、当時は非常に珍しかった国際的な、情痴沙汰ではない、恋愛沙汰である。いろいろな空想を働かせる余地が大きいところも相俟って、現在まで多くの考察の対象となってきた。
 この女性の名前はエリーゼ・ヴィーゲルト(Elise Wiegert)であることは、中川浩一・沢護両氏が明治21年の週刊英字紙『ザ・ジャパン・ウィークリー・メール』に掲載されていた横浜港出入港者名簿から発見して、『朝日新聞』昭和56(1981)年5月26日夕刊に発表していた。
 その後ドイツ在住の作家・六草いちか氏が古い住民票や教会の教会簿を精査し、多くのことを明らかにした。何しろエリーゼの妹の孫と面談するところまでいったのだから、大したものだ。林太郎との関わり合いについては依然としてほとんどわからないままだとはいえ、19世紀末に森林太郎に出会い、特別な間柄になったこのドイツ人女性について、これ以上の情報は今後もおいそれと出てこないだろう。
 私は鷗外という人については、好き嫌いを言えば好きになれないものを感じているが、以前に少し述べたように、近代日本初頭の知識人として、西洋思潮とまともに対峙した人物の一人であることは認めざるを得ない。彼の青年時代の、国境を越えた恋物語はどういうものだったか、それは小説「舞姫」以上に意味深い可能性がある。週刊誌的な、俗な興味もあることは否定しないが、それを交えつつ、この間の彼の心事に思いを馳せてみよう。
 資料、というよりは想像のガイドとしては、前記六草氏の著作とともに、茨城大学農学部の名誉教授で独自にこの問題に取り組み、令和2年に逝去なされた林尚武氏の考察がネット上に出ているので、ありがたく使わせていただく。

 彼女のフルネームはエリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト(Elise Marie Caroline Wiegert)で、1866年9月15日、現在はポーランド領であるシュチェチンで生まれた。因みにこの地名は、「舞姫」中に、主人公・太田豊太郎と添い遂げようとするエリスの決心の堅さを見て、強欲な母親がついに折れ、「わが東に往かん日には、ステツチンわたりの農家に、遠き縁者あるに、身を寄せんとぞいふなる」というところで一度だけ出てくる。現実のヴィーゲルト家の、縁者もいただろう。あるいはエリーゼは実際、林太郎にこのようなことを言ったのかも知れない。
 ただ、エリーゼの誕生時、彼女の父は既に軍役を終えてベルリンで銀行員として勤務しており、彼女も洗礼が終わるとただちにベルリンへ移った。15歳のときに父が死亡。その後は母が、仕立屋をして女手ひとつでエリーゼとその妹を育てた(「仕立物師」は「舞姫」ではエリスの父の職業になっている)。
 一方林太郎は明治17(1884)年に陸軍派遣留学生としてドイツに到着、ライプツィッヒ→ドレスデン→ミュンヘンでの研究と仕事を経て、明治20年から1年3ヶ月の間ベルリンに滞在した。
 彼とエリーゼの出会いはどのようなものであったかはわからない。林尚孝氏は、林太郎の「獨逸日記」中にある、ミュンヘンで漢詩を贈った「舞師某」、つまりダンスの先生某(なにがし)こそ彼女ではないか、と推測している。それなら「舞姫」と平仄が合うわけだが、その可能性は低い。後年の彼女の職業からして、母親の仕事を手伝っていた、といったところではないだろうか。ほぼ確かなのは、彼らの交流の場は主としてベルリンだったろう、ということぐらいである。

 明治21(1888)年9月8日、林太郎は帰国する。その4日後の12日、エリーゼが横浜に着く。この年、林太郎二十六歳、エリーゼ二十一歳。
 従来、エリーゼが一方的に林太郎を追って来日したのだ、と思われていたが、それは違う。林太郎がベルリンを去ってロンドンやパリで三週間過ごした後、上司である石黒忠悳(いしぐろ ただのり)といっしょにマルセイ港を発ったのは7月29日、エリーゼはその4日前にドイツのブレーメン港を出航している。しかも一等船室の乗客として。
 その船賃は1750マルク。これは林太郎のライプツィッヒ滞在費用の17ヶ月分に相当するそうで、庶民の、母子家庭の娘がおいそれと出せる額ではない、ここから、エリーゼは富裕な家の令嬢であるとか、逆に高級娼婦だったという説も出てきた。しかし、六草氏はこれは林太郎が支払ったのだろうと推察している。官費留学生の身分ではあったが、彼はその頃から欧文の翻訳を多数依頼されており、その謝礼金を貯めればかなりのものになったろうから、と。
 果たしてそうなら、エリーゼ来日の目的は一つしか考えられない。林太郎と結婚するためだ。そしてそれは、林太郎の望みでもあったはずだ。
 それは実現しなかった。それどころか、エリーゼが翌10月17日に離日すると、林太郎はさらに1ヶ月後の11月22日、赤松則良男爵の長女登志子と結納を交わし、正式に婚約している。これはどういうことか。この不思議さが、林尚孝氏らのいわゆる「舞姫事件」の核心であり、また鷗外森林太郎の人物像を観ようとする者に深い陰影を感じさせずにはいられない要素である。

 まず、赤松登志子との縁談について、わかっていることをやや細かく述べる。
 この斡旋をし、後に媒酌人を務めたのは、旧幕臣で当時の政府要人であり、また森家の遠縁で恩人と言ってよい西周(にし あまね)だった。彼が遺した日記は、手書き文字の解読に手間取ったこともあり、この件に関する一級資料である箇所が翻刻されたのは平成10年になってからだった。その、明治21年9月10日の条には次のようにある。
舛子、午後、千住〈の〉森氏を訪ひ、林太郎の帰京を賀し、且赤松との縁談を申し込む。彼方よりの返答を申置く」(舛子は西夫人。〈 〉内は由紀の付け加え)
 林太郎帰国の2日後、エリーゼ来日の3日前という絶妙な時期に、赤松登志子との縁談申し込みがなされた、ということだ。しかしこれは正式な、という意味であって、雑談風の打診なら以前からされていた可能性がある。
 さらに『西周日記』の9月18日には「森ばゞ来り婚約の返辭を述ぶ」とある。初めて話をもちかけてから8日後に返事では、いくら当時でも早すぎる。さらに、この「ばゞ」の部分は最初「林太郎」だと解読され、彼自身が婚約を承諾した、と取られていた。エリーゼはまだ日本にいるにもかかわらず。それならば、林太郎は、本心ではエリーゼとの結婚など望んでいなかったということだろう。しかし実際は、返事をしたのは彼の祖母だった。本人はどうだったのか?
 林太郎の妹・小金井喜美子(星新一の祖母)が書いた「次ぎの兄」という回想記に、この件について、家人が「ただ本人の気持に任せて置きます」と返事をすると、直接に林太郎に尋ね、こちらはまた「両親の気持次第に」と答えた、とある。
 尋ねたのは西家だろう。それが10日以前なら、まだ林太郎の滞欧中に、手紙でしたこと、ということになる。果たしてそうなら、エリーゼを呼び寄せたのは、家族を初め周囲に意中の人を見せつけて、赤松家との話はきっぱりと破談にするつもりだったとも考えられる。が、なにしろ林太郎はそういう果断な行動には及んでいない。
 貴美子の回想にはいろいろ問題があることは現在では知られている。例えば、エリーゼの名を「舞姫」のヒロインそのままのエリスと標記していることなど。しかし、後の結婚後の成り行きからしても、時期はともかく、林太郎がこの件について、しばらくは煮え切らない態度をとっていたのはまずまちがいない。その間に、森家は、特に祖父母が強引に話を進めたものだろう。海軍中将である赤松との婚姻は、軍医としての林太郎の将来も、森家のそれも、明るくするのは間違いないから。
 それだけではない。当時「陸軍武官結婚条例」というものがあり、士官が結婚できるのは「行状端正」であって、またそれを証する者が必要とされていた。林太郎は留学の段階で陸軍軍医として中尉相当の士官の地位にあり、その点でまず外国人女性との結婚には高いハードルがあった。現在でも、警察官や自衛隊員は、国際結婚は可能だしその実例もあるが、出世はまず望めなくなる、と知り合いの元警官から聞いたことがある。
 では林太郎は、出世のために恋人を捨てたのか? 結局は、そういうことになる。しかし、今の一般庶民とはまるで感覚が違うことは考えに入れるべきだろう。
 林太郎は、若くしてその才を帝国陸軍、ひいては大日本帝国から見込まれ、海外留学に送り出された。明治人としては、恩義を感じるのが当然である。それ以上に、まだ出来たばかりで「普請中」(鷗外の後の小説の題名)の明治政府は、特に医学のような国の発展に直接関わる部分では、林太郎のような優秀な頭脳を本当に、切実に必要としていた。男として、その期待に応えなければ嘘だ、と自然に感じられたろう。
 森家から見ても、元津和野藩の御典医だった父・静男は、上京して医院を繁盛させていたが、そろそろ隠退を考えていた。弟が二人いたが、長男で大秀才の林太郎が去ったら、家にとってたいへんな損失である。そのように感じられるのがごく普通の時代だった。そのうえで林太郎は親孝行で、母には絶対服従のようなところがあったらしい(小堀杏奴「晩年の父」)。それで「(結婚は)両親の気持次第に」と言って、時間稼ぎをしようとしたのも不思議はない。
 ただそれも、欧州滞在当時ならまだしもで、帰国して、恋人も近くにいた状態でなおこんな態度だったとしたら、優柔不断にも程があると言えるだろう。悪く言えば、そこを祖父母につけ込まれて、結婚承諾の返事をされてしまった。それにも唯々諾々と従ったのだとすれば、もはや不誠実と変らない。
 それでも、林尚孝氏は、林太郎の欧州からの帰国の旅日記である「還東日乗」中の、特に漢詩「酔太平」などから、彼は陸軍を辞めようとした決意した形跡があると言っている。他にもこれに同意見の人は多い。そうだとしても、同僚からも友人からも家人からも懇願され責められたなら、彼もついに我を折らざるを得なかったのは想像に難くない。ドイツにいればドイツ娘との結婚も可能だと意気込んだが、帰国して日本社会の中に身を置いたら、それはいかにも非現実的な夢だと見えてきた、といったところか。

 エリーゼのほうは、前出の「次ぎの兄」によると、「手芸が上手なので,日本で自活して見る気で『お世話にならなければ好いでしょう』というから,『手先が器用な位でどうしてやれるものか』というと,『まあ考えて見ましょう』といって別れた」と林太郎が母・峰子に打ち明けたそうだ。言葉も満足に話せない日本へ行って、誰の世話にもならず、手芸で自活して、林太郎との結婚の日を待つ、ということか。この通りのことを言ったのだとすると、二十歳そこそこの世間知らずの娘の蛮勇か、あるいは元来勝気な性格か、おそらく両方だったろう。
 日本にいた35日の間は、築地精養軒ホテルに滞在していた。林太郎の両親は、彼女のことも、彼女が日本にいることも知っていたが、一度も会っていない。林太郎の弟の篤次郎(三木竹二)とはけっこう懇意になり、一度買い物に同行すると、彼女は日本の袋物に興味を示したということだ。
 それ以外に貴美子の夫・小金井良精がよく会っているが、彼は森家の意を受けて最初からエリーゼを早く帰国させることに努めたようである。
 そして10月17日、林太郎・篤次郎・小金井良精に、林太郎の親友・賀古鶴戸(かこ つると。相澤謙吉のモデルとされる)の四人は、エリーゼを見送るために横浜港に赴く。林太郎は最初、横浜駅まで行って引き返すつもりだったのを、最後にせめてもの誠意を示すために、艀に乗って客船まで同行したのだろうと、林尚孝氏は推測している。
 このとき、「舷でハンカチイフを振って別れていったエリスの顔に,少しの憂いも見えなかった」という夫・小金井良精の言葉を喜美子が記している。全幅の信頼はおけない喜美子の文中に、さらに伝聞として出てくる情報だし(喜美子はエリーゼには会っていないのだから、彼女に関することはすべて伝聞なのだが)、その上に「様子」を観察した夫の目を通してなのだから、伝言ゲームなみにいろいろな媒介がはさまっていて、実際はどうだったか、即断はできない。しかし、六草氏はここから、このときのエリーゼはまだ林太郎とのことをあきらめていなかったのではないか、と推測している。
 傍証になりそうなものに、林太郎の遺品の一つに、モノグラムと跳ばれる、Mori RintaroのイニシャルMとRを中心にデザインした、ハンカチ入れの刺繍型(上の写真)がある。これは喜美子や林太郎の長男・森於菟らの証言で、エリーゼから林太郎への贈り物だったとされている。古いドイツの風習では、新婦の嫁入り道具として、夫のイニシャルをデザインした刺繍を贈る習慣があったそうで、これによって、二人の間では結婚の約束がされていたのだろう、と言われてきた。
 しかしこれはエリーゼのお手製でも、特注品でさえなく、古道具屋で探せばほぼ同じものが見つかる一般商品の可能性が高いことを発見したのは他ならぬ六草氏だった。それでも同氏は、肝心なのは物ではなく、それを彼に贈った気持ちなのだ、としている。
 それは一方的に裏切られたようである。エリーゼの帰国2ヶ月後に、賀古鶴戸が、陸軍中将山縣有朋(天方拍のモデルとされる)に随行して渡欧している。この時彼は、旧知のエリーゼを尋ね、林太郎の婚約のことを告げたかも知れない。「舞姫」のエリスの叫び「我豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺き玉ひしか」は、このときの実際のエリーゼのものだったのかも知れない、と六草氏は言う。
 他方、日本滞在中の森家の扱い、つまり、林太郎の両親が会いに来るでも、向こうから招待されるでもなく、義弟の小金井は最初から帰国を急かす、などからして、少なくとも日本での、林太郎との正式な結婚は無理だ、と一ヶ月ほどの期間で見極めたのではないかと私は思う。さればとて、林太郎がすべてを捨ててドイツの、彼女の元に走っても、待っているのは、それこそ「舞姫」の、豊太郎とエリスと同種の悲劇でしかないではないか。
 林太郎ほど賢明でなくても、その程度の予想はつく。エリーゼは、たいていの男より向こう見ずだったとしても、恋人がそう予想していることは察するだろう。林尚孝氏は、自分のために林太郎が苦境に立たされていることがわかって、身を引いたのかも知れぬ、と言う。私はどちらかと言えばこれに賛成する。帰国の船上で晴れやかな顔を見せたというのが本当なら、「吹っ切れた」というところではないだろうか。
 因みに、エリーゼの帰りの船賃は森家が出して、篤次郎が支度をした。横浜から最初の寄港地神戸までは来たときと同じ一等船室だが、それからジェノヴァまでは二等船室だった。このような扱いも、エリーゼは、ベルリンで甘い時を過ごしたかつての森林太郎以外の日本人には厄介者でしかない、と思い知らせるものだったろう。その林太郎も今となっては畢竟向こう側の人間である。たとえ、彼女の旅費を節約するために、船出の時以外は二等船室に移し、イタリアのジェノヴァからベルリンまでは汽車で行かせるようにしたことは、彼の与り知らぬ事だったとしても。
 
 「舞姫」は、前述の賀古の帰国直後に、わずか一週間ほどで書かれている。これを読んだ人は、ついに一人の女性を破滅に追い込んだ太田豊太郎の優柔不断ぶりに歯がゆい思いがすることだろう。同様の批判は当時からあった。
 明治23年2月に前月「舞姫」が発表されたのと同じ雑誌『國民之友』に文芸評論家の石橋忍月が「舞姫」と題する批評文を気取半之丞の筆名で発表。同作の主人公太田豊太郎が子まで成した女性を捨てて功名出世を選んだからには、「胆大にして且つ冷淡」な人物でなければならないのに、彼は「小心翼々たる慈悲に深く恩愛の情に切なる者」である。これは物語の構成として破綻ではないか、と批判している。
 これに対して林太郎は、相澤謙吉の筆名で、つまり豊太郎にエリスを捨てて帰国することを勧めた親友が豊太郎を語るという体裁で、「舞姫に就きて気取半之丞に与ふる書」を、自身が創刊した文芸誌『しがらみ草子』に出し、反駁している。豊太郎が日本へ帰る戦中で書いた形式の「舞姫」の冒頭近くに、「(前略)人の心の頼みがたきは言ふも更なり、われとわが心さへ変り易きをも悟り得たり。きのふの是はけふの非なるわが瞬間の感触を、筆に写して誰にか見せむ」とある。つまり彼は、大胆でも冷酷でもなく、心の弱い者であり、エリスとの一件を通じて、そのことを思い知らされることになった、というのが全体の構成であって、それを破綻と言うのは妄評である、と。
 作品評としては林太郎の言うほうが正しいが、作者として、ある意味では悪意よりたちの悪いこのような人格的な弱さをどう感じているのか、作品からも自作評からも浮かんでこない。決して自己弁護はしていないけれど、「わが心の変り易さ」と正面から向き合おうというわけでもない。今後はそれを克服しようというのか、それとも一種の宿痾として抱えていこうというのか。それはフィクションに仮託しても、ついに語り得ないことだったようだ。
 恋愛事件そのものは、もちろん今でもそんなに珍しいものではない。さらに、この頃の官費留学生はエリートであり、現地の女性と懇ろになるのは、むしろ普通だった。日本人の男がそんなにモテたものか、と思う人もいるかも知れないが、ヨーロッパは基本的に階層社会であり、下層の女性には東洋人であっても上層の後光は眩しかったろうし、もっと単純に金銭づくの関係もあった。エリスがそうであったとされたような、劇場の踊り子との関係も、近いものを林太郎も見聞きしていたかも知れない。
 その中に置けば、林太郎のエリーゼへの扱いは、まだしも誠実なものだったと言える。しかしそれも、彼の気持ちの中だけの話であって、社会的な立場をも超えてどうにかするほどの強さはなかった。
 それもまたありふれた話ではある。ただ少し気にかかるのは、林太郎は、結局は権威に屈して愛を捨てた自分の不甲斐なさに苛立ちを感じ、それを文学として昇華することもできず、行き場のないモヤモヤをしばらくの間保っていたかも知れないところである。
 彼は赤松登志子と、翌年2月に結婚、さらに翌年の9月には長男の於菟をもうけているが、その後すぐに離縁している。この頃の林太郎は日に日に痩せ衰えて顔色も悪く、その身を案じた母・峰子が率先して別れさせたらしい。彼女は晩年まで、この結婚を無理に勧めたことを後悔していたそうだ。
 林太郎もまた、登志子とは気が合わない、とは言っていた。しかし、思うに、彼女のほうにばかり原因があったわけではないだろう。この時期の彼は、前出『しがらみ草子』を創刊した一方、医学会誌『東京医事新誌』の主筆に推されたのに、東大時代の恩師らと医学会問題をめぐって対立して、すぐにその座を逐われた。石黒忠悳との仲も悪くなり、後のことになるが、西周からは、離婚問題によって義絶された。彼の生涯で最も多事多難な時期であった。
 それくらいならば、エリーゼと結婚しても、そんなに大きな相違はなかったのかも知れない。あの迷いは、あの不誠実は、なんのためのものだったのか。登志子がそんな、行き場のない苛立ちの行き場にされたのだとしたら、彼女こそこの事件最大の被害者と言えそうだ。彼女はその後、他家に嫁いだか、明治33年、30歳を少し越えた若さで病没している。

 登志子との離婚後に、またエリーゼを呼び寄せて結婚してもよかったのではないか、という疑問がふと頭をよぎったが、それは愚問だ、という答えがすぐに浮かんだ。あの一ヶ月余りのうちに、結婚問題については彼ら二人の間では決着がついたのだろう。人間的な強さや弱さに関わらず、取り返しのつかないことはあるのだ。
 しかしながら、その後も林太郎はエリーゼと長く文通を続けた。これが一番驚くべきことだ。そこで何が語られたのだろう。
 林太郎は、死期が近づいた時、後妻の志げ(茉莉を筆頭とする二女二男の母)に命じて彼女に関わるすべての手紙や写真類を焼却させた。かくして、我が国近代初頭の、国境を超えた類稀な愛(やはり、そう呼ぶべきだろう)の記録は、モノグラムの型を除いて日本からは永遠に失われた。あとは、ドイツで、エリーゼが遺したがものが将来発見される可能性がほんの少しあるだけだ。
 彼女は、帽子制作者として16年間自活して独身で過ごした後、1905年に38歳で結婚している。1902(明治35)年には、林太郎は18歳年下の前記荒木志げと再婚しているので、手紙でそれを知った彼女は今度こそ本当に「吹っ切れた」気分だったのかも知れない。その夫とも1919年に死別、さらに第二次世界大戦をも生き延び、1953年、老人ホームで亡くなっている。享年86歳。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小浜逸郎論ノート その5(共同態・下)

2024年06月13日 | 倫理


メインテキスト:小浜逸郎『倫理の起源』(ポット出版プラス令和元年)
サブテキスト:ジョン・スチュアート・ミル/関口正司訳『功利主義』(原著の出版年は1861年、岩波文庫令和3年)

Ⅵ 理と情
 この人間の二大行動原理については、『倫理の起源』(以下、本書、と呼ぶ)では二つの、典型的な、ある意味で極論が紹介されている。それ自体非常に面白いので、以下にまた自分の言葉で述べる。
 まず当ブログでずいぶん以前に述べたカントの嘘に関する考え。通称「ウソ論文」、正式名称は「人間愛から嘘をつく権利という、誤った考えについて」には次のような例が出ている。
 Aの家に殺し屋Cに追われた友人Bが来て、匿ってくれるように頼む。Bを家に入れてから、Cが来て、Bは来なかったか、と訪ねる。この時AがCに、「Bは来なかった」と言ってはいけないか?
 いけない。なぜなら、それはウソだから。
【上記の例はカントを批判したフランスの哲学者バンジャマン・コンスタンが、「カントたちの説だと、こういうバカなことになるよ」、と例示するために拵えたもので、「ウソ論文」はコンスタンに対する再批判として書かれている。しかし、カントは「自分はこういうことを言った覚えはないが、自分の考えとしてもさしつかえない」としている。などなどの細かいことは、以下では省いて大雑把なことだけ記すので、そのへんの詳細は最近出た『カントの「嘘論文」を読む』(令和6年白澤社発行/現代書館発売)などに当って下さい。】
 「なんだよ、それは」とたいていの人が言うだろう。小浜が言うように、「カントという哲学者はなんてバカなやつなんだと直感的に思」(P.192)う人も多いと思う。
 より軽い、日常的な場面を考えよう。ある女性が男にデートに誘われた。行きたくなかった。「その日は用事がありますから」と言って断った。その実、用事がなかったら、それはウソということで、悪なのか。「あなたが嫌いだから、行きません」というような、いわゆるホンネをいつもぶつけ合わねばならないのか。
 そもそも、「あなたが嫌い」という感情は、「事実」と呼ぶに相応しいのだろうか。そのときの「本心」ではあったとしても、男心も女心も、変りやすい。明日はどうなるのか、本人にもわからない、その場限りかも知れないものを、いちいち明らかにして、どうなるというのか。
 というような考えこそ、カント先生からしたら、最も忌むべきものだったようだ。人間は理性的な存在であり、自分の言動すべてに責任を持つ、持てる……少なくともそうなるべく努力すべき者なのだ。
 この場合の「責任」とは、結果に関するものではない。上の例で「Bはいる」といっても、BがAもCも気づかないうちに家から去っていたら、殺害を免れるかも知れない。同じ状況でAが嘘をついても、BはCと外で出くわし、殺されるかも知れない(やや強引な例のようだが、これはカント先生自身が書いていること)。
 つまり、未来を完全に予測できない人間が、結末について責任を問われるべきではないが、真実や信念について忠実であることなら、できるはずだ。だから、すべきなのだ。
 もう一つ、人間関係で一番大事なのは、他人を、自分の欲望を達成するための道具扱いしてはならない、ということだ。ウソをつくのは、結局は、相手を自分の都合のいいように動かそうとしてのことだろう。その「都合」が正しいものであっても、「相手」が悪人であっても、そのことに変わりはない。だから、誰も、どんなウソでも、つく権利はない……。
 この理念が他にもまして重要かどうかも、議論が分かれるだろう。たとえそう認めたとしても、現実にはやっぱり無理な話ではありそうだ。
 第一に、カント先生自身は例外だったかも知れないが、普通の人間にいつも「正しくあれ」などと要求するところ、いやそれ以前に、いつも「正しさ」を気にかけるように要求するところが無理だ。誰しも、普段あまり深く考えないでふるまい、後からその理由を問われた時に、改めて首尾一貫した動機を考え出す、というのが実情に近い。「自由意志から行為へと言ういう因果関係は、じつは逆なのである」(P.193)と小浜が言う通り。
 カント風の「自由で自律的な個人」の観念に基づいている近代刑法(だから、良い・悪いの判断がつかないとされる心神喪失状態の犯罪は罰せられない。刑法第三九条一項)にも、「嘘つき罪」はない。嘘は、それによって不当な利益を得ようとする動機が明らかなとき、罰の対象になる(詐欺罪)。
 そもそも、いわゆる社交辞令もダメなのだとすれば、どんな共同体も保たれないだろう。コンスタンの批判の要点もそこにあった。
 そんなことを、いかに象牙の塔に籠もった哲学者先生とはいえ、全く知らなかったはずはない。むしろ、だからこそ、人倫と、ひいては人格を、なし崩しの後退から守るために、「嘘はいけない」という道徳律を強く言わなければならない必要性を感じたのだろう。
 事実、それは、子どもを教育する時などに、絶えず言われ続けている。そのことはまた、人の世から嘘は決して消えないことの証左でもある。

 上は友情という「情」と、正直という「理」が対立した場合には、後者のほうを優先すべき、としたものだが、世の中にはこれと反対の主張もある。「論語」の次の箇所。

葉公(しょうこう)孔子に語(つ)げて曰く、吾が党に直躬(ちょっきゅう)なる者有り。その父、羊を攘(ぬす)みて、子これを証せり、と。孔子曰く、吾が党の直なる者は、是に異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直は其の中に在り、と。(子路十八)

 親や子が悪事を働いたとしても、それは匿す。それこそ、正しく、まっすぐ(直)な道である、と言う。人情の自然のようだが、こう断言されると、それはそれでまた、不安になってこないだろうか。子が悪いことをしたときには、親はむしろ世間ではそれがどういう扱いを受けるか、実地に教えてやるべきではないだろうか、など。
 予め結論を言うと、こういう場合にいつも当てはまる普遍妥当な解答はない。一口に親子と言っても、同じ人間は二人といないのだから、同じ親子関係も二つはない。当然その間に流れる感情も独自のもの。また、匿すべきものも、盗みから殺人から過失犯から信用失墜行為まで、千差万別にある。
 ただ、一般に、親子の情と呼ばれ得るような感情は人間社会に広くあることは認められているから、それを頭から無視することはしづらい、という事情があるだけだ。それで現在日本の刑法にも、それを汲んだ規定がある。第百五条(親族による犯罪に関する特例)「前二条の罪については、犯人又は逃走した者の親族がこれらの者の利益のために犯したときは、その刑を免除することができる」。
 「前二条」とは、第百三条犯人蔵匿等、第百四条証拠隠滅等。犯人を匿したり逃がしたり、証拠を隠したり破損したりして、犯罪者の発見を、したがって処罰を困難にしても、その犯罪者の親族である場合には、罪に問われないことがあり得る、ということである。
 ここで親族というのが、民法の定める六親等の血族(姻族なら三親等)だとすると、はとこ(あるいは、またいとこ。祖父母の兄弟の孫)まで、あるいは従姉妹の孫までだから、ずいぶん広い。顔を見たこともない、という場合も多いだろう。
 ただ、たとえ一親等の親子でも、必ず免責されるわけではない。そうなるかどうかは、裁判官の判断次第。犯罪があまりに凶悪だとか、親愛の情からと言うより、金をもらって逃亡を手伝ったような場合は、危うい。逆に、どれほど親愛や恩義を感じていたとしても、また、罪を犯した者にどれほど同情の余地があろうと、親族でなければこの規定は関係ない。
 こういうことを文字の上で眺めているときは、せいぜい、まあそんなものかな、で終わりになる。その程度の納得でも、なかったとしたら、こういう規定は定着しない。しかし、具体的な場面にぶつかったら、このような区別が合理的なものだと思えるかどうかは別問題になる。
 六親等までならよくて、七親等以上はダメ、親類ならよくて、親友ではダメ、などという線引きに明確な理由があるか、と言われるなら、そんなものはない。ただ、一元的な正義の観念をどこまでも押し通そうとするのも、人情だけで世の中を治めようとするのも、どちらも無理で、どこかに制限を設けねばならない必要性があるだけだ。
 つまりこれらの原理は、一方が一方を制限するところに存在意義がある。前述した小浜の「私的・公的という対概念は、互いに他方の「否定態」としてしか成立しない」という言葉は、そういう意味であろう。
 その限度自体も、絶えず揺れ動くから、いつでもどこでも誰でもを完全に納得させることは原理的に不可能。すべては、不完全な人間同士が作る「世の中」を成り立たせるための工夫であり、それ以上ではない。

Ⅶ 公と私
 上の問題もまた、共同態の中で自己意識を持って生きる人間が必然的に直面する矛盾の一種である。ここまで拙論につきあってくださった人にはもうおわかりのことと思うが、私が本書を読みながら終始気になったのはこの一点だ。
 理と情もそうであるように、公と私なら、公の方が高級であり、価値が高い、となんとなく考えられている。また、男女だと、男が主に担うの前者、女は後者で、これは「女・子ども」を軽んじる理由になっている。
 このような見方の修正を図ることが本書の主要な目的の一つであり、そのことには私も基本的に同意する。ただ、その理念上の、また実際上の困難は、小浜以上に気にかかってしまうのである。それについては充分に、ではなくても繰り返し述べたから、もう控えよう。
 本シリーズの最後にあたって、「公共性」の概念を中心として、既述との重複は気にせずに、小浜倫理学の核心と考えられるものを改めて略述しておく。

 小浜は最初に、良心の起源を、幼児が家庭内かその代わりになる場所で、多くは親から受ける叱責だとしている。このとき明示的に「出て行け」とは言われなくても、年長者の怒りは、当の子どもが現にいる共同体=家庭から放逐される恐怖を呼ぶ。それは文字通り死活問題なので、やがて成長して、自分の親を他人の親と比較して客観視・相対化できるようになり、反抗もできるようになっても、深層心理に刷り込まれた恐怖心は消えない。悪いことは、共同体を失う恐怖を呼び起こすから、ブレーキになる。そうならないときもあるが、まあ、だいたいは。
 つまり、良心は一定の共同体の人間関係から身につくものであり、それは他の、思いやり・勇気・正直、などの徳目も、必ずしも親だけではなく、友人や教師などの他の大人との関わりの中で身につけていくものだろう。だから、倫理は共同態から生まれる、と言えるのである。

 しかし、倫理、と改めて言われると、具体的な人間関係とは別次元にあるような気がしないだろうか。それは言葉の抽象性によるところが大きい。「人に迷惑をかけてはならない」と言われる場合の人(他人)の範囲は、無限定である。実際には、バタフライ効果とやらを最大限考えて、「風が吹けば桶屋が儲かる」式のこじつけ連鎖反応まで入れるのでなければ、世界中の全人間に迷惑をかけられる人などめったにいないわけだが、そんなことをわざわざことわる要もない。
 とは言え、抽象化され一般化された徳目は、その分人間の現実を離れる。よい例が前述の、カントの嘘に関する要求だ。繰り返すことになるが、どんな時にも嘘はいけない、ということを実行したら、身辺の共同態を壊してしまいかねない。それでもよい。カントは、時に嘘をつかなくてはやっていけない弱い人間が、自分たちを守るために作り出したような共同態に価値を認めなかったのだから。
 人間は個人として、常に正義と公正を気にかけるべき存在だ。……いや、そう言われても、そんな人間こそ、現実にはめったにいないのだから、観念的ではないかと思えるのだが……。いやいや、ここで「弱いのは仕方ない」などと認めてしまったら、弱いからこそ、人間はどこまでも堕落してしまいかねない。道徳律は、自分の行いを反省するための鑑(かがみ)としてこそ必要なのではないか?
 と、いうような道徳観は、昔から今まで、人間世界に普通にある。おかげで、道徳というと、高いところから一方的に降りてくるお説教のことだという感覚も、普通にある。

 倫理道徳を現にある人間から離れた理念として考えられがちな理由は他にもある。例えば、「人に迷惑をかけてはならない」を一歩進めて、「人には親切にしなければならない」とした場合。これまたいつも、完全にできるものではないが、できるだけそうしましょう、ぐらいには納得できる。それでもなお。
 親切にする対象は、遠くの人より身近な人が、身近な中でもいっしょに生活している家族が優先されることになるだろう。単純に親切な行いをする機会の多さからしても、親愛の情の深さからしても、それがごく自然であり、正しい、とも考えられている。孔子の言葉はそれを踏まえている。
 それでよくない場合はあるか? 次の例を考えよう。川で二人の子どもが溺れていた。Aは自分の子どもで、Bはそうではなかった。この場合、Aを優先して助けるのは正しいのか? この問いはかつてベストセラーになったマイケル・サンデル『これからの正義の話をしよう』(原題は『Justice』)に載っていて、正しい、とされている。西洋でも、そう思われている場合が少なくない。ということだ。
 だがしかし、結果として、Bが救ってもらえないことになったとしたら、Bの親にしたら、素直に「それが正しい」とは感じないだろう。その人の置かれた立場によって、価値観が一八〇度変ってくることもあり得る。情とはそういうものだ。
 では、人の世の価値はついに相対的であるしかないか? 人間の実感に即する限り、そうとしか言えない。ならば、結局のところ、人間の世界から殺人がすっかりなくなることはないだろう。ある人間は、自分の置かれた状況に応じて、他の人間を殺してもよい、あるいは殺さねばならない理由を考え出すだろうから。
 それでも、ではなく、それだからこそ、「人命は大事だ」と言い続ける必要があるのではないか、という考え方も出てくる。そうでないと、人の世は殺人が日常的に横行するような場になってしまいかねない、という心配から。これまた、用心のために、上から降りてくるお説教としての道徳であり、公的に正しいとされる。

 最大の問題点は、以上のような道徳はタテマエというのに非常に近く、身勝手な本心を隠し、自分にとって都合のいいように使い回される可能性が常にあるところだ。いわゆる、偽善というやつ。
 前回言ったように、「愛国心は悪党の最後の逃げ場」になり得るのだし、「世間」という日本特有とも言われる観念については、太宰治が次のように言っている。

 世間とは、いつたい、何の事でせう。人間の複数でせうか。どこに、その世間といふものの実体があるのでせう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こはいもの、とばかり思つてこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言はれて、ふと、
「世間といふのは、君ぢやないか」
 といふ言葉が、舌の先まで出かかつて、堀木を怒らせるのがイヤで、ひつこめました。
(「人間失格」)

 上の文中の堀木とは、一時は太宰が師と仰いだ井伏鱒二のことらしいが、そうであってもなくても、小説中のこの人物が「世間が許さない」と言うのには特別の悪意はない。だいたい、それこそ世間にありふれた道徳を説いているなら、文学者にしてもなお、自分の内面を見つめる必要などめったに感じないものだろう。それが一番やっかいなところかも知れない。
 もっと言えば、権力者など、社会的な上位者こそこういうタテマエを振り回しがちなのも当然であろう。それこそが「教育」だと思い込んでいる人も少なくない。この場合、言われていることの内容より、それを「言い聞かせる」行為が即ち相手に対する上位の証であり、そこで証される上下関係こそ社会秩序を作るようにも感じられる
 最悪の場合、権力者とその側近たちが、抽象的な徳目に自分勝手な内容を盛り込み、それを「正しい善」であるとか「公共」であると言い立てて、国民を抑圧して誤った方向へ導く、なんぞということも、歴史上決して珍しくなかった。

 小浜は、上のような行き方を、そもそもの最初から、人間性の本質を不当に軽んじた一種の転倒であるとする。そして、その端的な例として、プラトン/カントを初めとした西洋の大思想家を批判するのだが、最後には、その弊を脱したものとして、功利主義に、とりわけJ・S・ミルには共感を示している。
 ミルと言えば、私などには馴染み深い徹底した自由主義・個人主義ではなく、『功利主義』の、次の言葉が引き合いに出される。「功利主義が正しい行為の基準とするのは、行為者個人の幸福ではなく、関係者全部の幸福なのである」。
 ここだけみると、これは例えばカントの、「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」と同じような「命令」に見えるが、少し違う。
 功利主義の格率から出てくる「命令」(なんて言葉を使うのがカントの悪影響かも知れない。ここは、当為、正しい方向、ぐらいの意味)は二つ挙げられている。その二つ目には、教育や世論の力で「各個人に、自分の幸福と社会全体の善とは切っても切れない関係があると思わせるようにすること」とある。またしても、「思わせるようにする」という言い方だと、実際はそうでもないのに空想的なキレイゴトを刷り込む、というふうに見えるが、よく考えてみれば、個人の幸福が社会と密接な繋がりがあるのは当然至極なのだ。
 小浜は次のように言っている。

しかしいずれにしても、ここでミルが言いたいことは、「社会的諸関係のアンサンブル」(マルクス)としての本性をもつ人間は、その社会的諸関係を時間的・空間的に拡大して自分の視野の中に収めるようになればなるほど、その全体の「幸福」に配慮せざるを得なくなるということである。できるだけ広範囲の人々の利益や幸福に気配りすることが、結局は身のためでもあることがわかってくる。文明がよりよく発展することは、健全な公共精神が育つための条件の一つである、ということであろう。(P.281-282)

 私の言葉でなるべく平易に言うとこうなる。
 人間は必ず共同態の、人間関係の中で生きていくものだ。それなら、範囲の違いはあっても、誰か他の人といっしょに幸福になるしかない。よほどのサイコパスでもなければ、周りの人全員が不幸で苦しんでいるのに、自分だけ満足して喜んでいる、などということはあり得ない。非常に自己中心的な、自分大好き人間であっても、否むしろそういう者こそ、被自己承認欲求を満たすこと、つまり他人から認められ称賛されることを強く望んでいる。そのためには、他人にとって有益な何かを成し遂げなくてはならない。
 そして、ここがいかにも功利主義なのだが、幸福とは各種の欲求が満たされた状態を言う。この点で、ミルはそうではないが(「満足した豚であるより……不満足なソクラテスであるほうがよい」は『功利主義中』の言葉)、小浜は欲求の対象に上下の区別をつける必要は認めない。優れた芸術作品に接したときのいわゆる精神的な喜びも、おいしい食物を食べたときの快楽も、人に満足をもたらし、幸福な状態に導く点で変わりはない。そしてどちらも、安寧な生活がなければ存分に味わってもいられないことからすれば、人の幸福のためには何が一番重要であるかは、自ずとわかろうというものだ。
 この認識が充分に広く・深く行き渡るならば、「法律と社会の仕組みが、各人の幸福や〔もっと実際的にいえば〕利益を、できるだけ全体の利益と調和するように組み立て」ることも可能であろう。これは、先ほどの引用では省いた功利主義の「格率」から出てくる「命令」の第一である。
 もちろんこの実現は簡単なことではない。「社会的諸関係を時間的・空間的に拡大して自分の視野の中に収める」ことが充分にできるために、人類はどれほどの知見と思慮を重ねていかねばならないことか。20世紀からこっちの世界の歴史を少し見ただけでも、ミルや小浜の言うところは単なる夢物語に過ぎないように思えてくるだろう
 「けれども」と小浜は言う「非常に長い目で見れば、これらの数多い失敗の経験こそが「相互にうまくやる」交渉の技術と叡智とをゆっくりと培っていくはずである」(P.282)。「非常に長い目」とは、1000年単位のスケールだとも。
 1000年先の未来など想像することもできないし、今まで当の小浜の言葉も援用して縷々述べてきた〈公〉と〈私〉のアポリアがどういう形で解けるのか、さっぱりわからないので、小浜に完全に同意することはできない。いや、同意も何も、「この課題の具体的な追究はすでに個別学としての倫理学の範疇を越えている」(P.468)というのが本書の最後の文なので、それはこちらで考えていくしかないとされているのである。
 それでも、個人のささやかな幸福を犠牲にしてでも実現・実行すべき「公」や「正義」の概念が、この世にどれほどの悲惨をもたらしてきたかを考えただけでも、日々の幸福な営みをこそ第一として、そこから公共性を編み上げていくという方向性には、賛成せざるを得ない。人間の不幸をすっかりなくしてしまうことなど不可能だとは思うが、多少はましな未来を目指すためには、これを第一原則とするしかないであろう。
 ……と、思いながら、やはり気になってしまう。人は安寧な暮らしだけで満足できるのだろうか? そうでないとしたら、真理だの正義だの、神聖なものだの民族のアイデンティティだのといった、観念的な、「自分を超えたもの」→「自分をより高く大きな世界へ導いてくれそうなもの」への希求は消えない。それはどういう形になるのか? それもまた、政治や倫理学の範囲の問題ではない、と言われればその通りかも知れないので、それまたこちらで独自に考えていくしかないのだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

半世紀前、大学で

2024年05月27日 | 近現代史


メインワークス:樋田毅『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋社令和3年、文春文庫令和6年)
代島治彦監督「ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ」(令和6年)

 ポット出版社長沢辺均氏が標記の映画をプロデュースなさり、ご案内をいただいたので、まず基になった樋田氏の本を読んだ。
 これは昭和47(1972)年11月9日、早大文学部で起きた革マル派(正式名称は「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」)という新左翼のセクト(党派)による川口大三郎君リンチ殺人事件について書かれたものだ。私はその後にこの大学に入ったが、直接には何も知らない。「へえ、そんなことがあったんだ」と思うばかりで。
 だから、何があってその結果どうなったかについては、本書に直接あたってもらうに如くはない。私は思想の部分に最も興味を惹かれたので、それについて書き付けておく。
 樋田氏が依拠したのは、渡邊一夫「寛容は自らを守るために不寛容になるべきか」(現在岩波文庫『狂気について』平成5年に収録)に基づく非暴力主義というべきものだ。私も若い時分にこのエッセイを一読し、少しだけイラッとした覚えがある。
 革マル派に対抗するのに「寛容」の精神で、具体的には非暴力でやる。これはたいへん理にかなってはいる。当時の革マル派は、自分たちに反対の立場の者たちには容赦なく暴力を揮う、非寛容の固まりのようだったから。
 しかしこの理念を実行に移すとなると、渡邊の文章では触れていない困難に直面することになる。
 当時の早大のほとんどの学部には、学生自治会というものは、形式上あったが、革マル派によって占められていた。そして革マル派にとっては、学生の自治なんてものより、自分たちが進めている革命運動のほうが大事だった。
 一番のうまみは、大学当局が徴収して渡してくれる自治会費やら、早稲田祭時のテラ銭(大学からの援助に、入場券代わりにパンフレットを売っていて、それがなければ学生でさえ、構内に入ることはできなかった。おかげで私は、八年ほどここに籍があったのに、一度もこの学園祭を見たことはない)などの、要するに金だったろう。
 それでも、私腹を肥やすのではなく、革命運動の資金に使うのだから、彼らの正義感が傷つくこともなく、この支配に抵抗する者への暴力が控えられることもなかった。

 川口君は、新左翼のいわゆる革命運動については、数回集会に参加して、幻滅を感じただけの、その頃珍しくなかった一般学生だった。それが、革マル派との流血の闘争関係に入っていた中核派(元々は革マル派と同じ日本革命的共産主義者同盟に属していた)のスパイの嫌疑をかけられて、大学構内の自治会室で、八時間に及ぶリンチの末に、死んだのだ。これは要するに、セクトが一般学生に明白に牙を剥いた事象だと捉えられた。
 反革マルの動きは、学生自治会を正常化すること、つまり、普通の選挙で、学生によって、学生の代表として選ばれた者たちによる組織にする方向で目指された。革マル派はこれに当然、暴力で対抗した。自治会正常化運動の中心にいた樋田氏も襲われて、大人数に鉄パイプで殴られ、一ヶ月の入院を経験している。
 たぶんそれより精神的にきつかったろうと思えるのは、先述した「寛容」の信念に直接由来する。革マルの暴力に対して非暴力で戦うという。ために樋田氏は、同じ運動内でも、革マルから身を守るために、ヘルメットと角材で最低限の武装はすべきだ、とするメンバーから批判され、孤立感を味わうようになった。
 この問題は、日本の専守防衛、平和主義を考える場合の補助にもなるだろう。

 人間には、すべてに寛容になる、つまり寛い心ですべて容認する、なんてことは、すべてを否認するのと同様、できるものではない。だいたい、「すべて」なら、暴力も容認するのか、ということになって、文字通り話にならなくなってしまう。
 いわゆる、「罪を憎んで人を憎まず」、暴力そのものは容認しないが、それを揮う人間は、存在は否定しないでおこう、ということなら、原理的にはできないではない。その者が、全く反省せず、これからも暴力を揮うことはほぼ確実な場合でもか? と思うと、非常に難しいが、まあ理屈の上では。

 このときのことに話を戻すと、樋田氏は、次のような現実的な理由も言っている。多少の武器を持ったとしても、日頃から訓練を受けていて、戦闘に慣れている革マル派に勝てるものではない。大学当局や警察を含めた外部からは、革マルと同類だとみなされ、また、革マルのこちらへの暴力に、正当化の口実を与えてしまうばかりだろう。つまり、戦略的に全くメリットはないのだ。
 その通りだ。しかしそれなら、「向こうにただ殴られるだけで黙っていろということか」という反応はすぐに出てくる。また、闘いに勝つことも難しい。
 樋田氏たちは、一時は革マル派を圧倒することができた。身体的な打撃は加えなくても、多くの学生が憤激し、一致団結して立ち向かってこられたら、少数派にまわったほうは引くしかない。「数の暴力」という言葉がある。いや、そこまで厳密になったら、やはり話にならなくなるので、問わないとしても、数もまた、実際的な力になるのは明らかだ。
 ところが「寛容」だと、団結して行動しようがしまいが自由、ということになる。いつでもどこでも、若者は熱しやすくさめやすい。樋田氏たちの周りには次第に人が集まらなくなり、一年も経つ頃には、その活動は全く目立たなくなっていた。革マル派は相変わらず自治会を牛耳り、その正常化の試みは実を結ぶことはなかった。
 それでも、その後革マル派の校内での勢いは、次第に衰えていったことは私も肌で感じた。それは日本全体の、学生運動の退潮による。新左翼を含めた皆が、「革命ごっこ」に飽きてしまった、ということだ。
 では、あれは一過性のお祭り騒ぎだったということか? 現に、少なからぬ人間が命を落としたというのに?
 そうなのだ、としか言い様がない。それにしても?

 本書の最後に、大岩圭之助氏とのインタビュー記事が掲載されている。ここが内容的には本書中一番興味深い、と言える。
 大岩氏は、川口君の事件とは直接関係ないが、革マル派自治会の副委員長で、当時は委員長代行を名乗っていた。体格がよく、威圧的で、彼に殴られた学生も何人かいる。その後早大を退学して米国とカナダを放浪、やがて米国コーネル大学で文化人類学の博士号を取得、帰国後明治学院大学で教えるとともに、「スローライフ」を提唱する思想家・運動家として活動している。辻信一の筆名で、高橋源一郎との対談本もある。
 樋田氏は大岩氏から暴力を受けたことはないが、革マルによる管理支配体制打倒のビラを各クラスに配布しているときに出くわし、「そんな浅はかな理論が通用するか」と言われ、国家権力を含めた管理支配体制を打倒する闘いをしているのは革マル派だけだと、蕩々と説教された。
 しかしそれから約半世紀後に会ってみると、大岩氏はそんなことは覚えていない、と言うのだった。彼は理論的な本はほとんど読まず、マルクス主義がどういうものかもわかっていなかった。ただ、時代状況に乗って高校時代からけっこう学校批判の活動で知られており、ためにオルグされた格好で革マル派に入った。
 その行動原理は、人間関係のある側にどこまでも味方するという、任侠映画のものだった、と自ら言っている。自分たちがまちがっているとみなす人々はたくさんいるのは当然知っており、また自分自身の確信も揺らぐことへの恐怖もあって、暴力に走ったのだ、とも。
 当時、革マル派をはじめとする新左翼の活動家がみんなこうだったとは思わない。中には、黒田寛一(革マル派の理論的指導者)らの理論に心から心酔し、その路線での革命運動に邁進した人だっていたに違いない。
 そういう人もまた、自分や自分たちの組織を何が何でも守りたいという動機から無縁だったはずはなく、それが過激な行動に走るバイアスの一つにはなったろう。人間の弱さの一部であり、そのことを認めるのは、寛容の現われと言えるだろう。

 しかし、大岩氏はここからさらに、当時の責任なんて感じられない、と言う。ある危機的な状況の中で無我夢中で動いていたものを、後で理屈をつけて説明しようとしても、それは必ず嘘になるから、と。彼は、暴力を揮った人たちには「申し訳ない」と言うものの、これでは何に対して謝っているのかもわからない。
 その大岩氏が最後の頃には「でも、僕に責任がないということにはならない。まず、なかったことにはしない。そして、何らかの形で応答していくことを諦めてはいけないと思います」などと言う。「人間が生きていくというのはそういうことだと思っています」と。
 これでは支離滅裂だと感じたが、きっと大岩氏は言葉以外のやり方で責任をとっていこうとしているのだろう。実際、この頃のことを含めて、公にはずっと沈黙を貫いた元活動家も多く、樋田氏はそのうちの一人(革マル派自治会委員長田中敏夫、故人)を紹介するところから本書を始めている。
 それで責任を取ったことになるのかどうか、疑問ではあるけれど、そういう見方もあることはわかる。ただし、言論人でもある大岩氏の場合はどういうことになるのか、私には見当もつかない。

 人間は完全ではない、ということを大岩氏はカナダの大学で鶴見俊輔から学んだと言う。そのことは、自己についても他者についても、認めざるを得ない。
 そのうえで、言葉を諦めてはならないと思う。全部嘘だ、というのは厳密には正しいが、そんなに厳格にはならないところにこそ、寛容さは発揮されるべきだと思う。
 すべては嘘、別言すればフィクションでも、そこに筋を通そうとする努力ならできる。それこそがつまり、人間が生きていくということなのではないだろうか。

 次に映画に関連して。
 5月5日に早稲田奉仕園の、先行上映会+シンポジウムに出席した。
 シンポジウムは代島監督・原作者の樋田毅氏・映画中劇パートの演出を担当した鴻上尚史氏、の三人の話、それから会場にいた関係者四、五人からの発言があった後、インタビュー(因みに前述の大岩氏にもインタビューを依頼したが、「自分の証言は自由に使ってもらってかまわないが、映画に顔出しするのは勘弁してくれ」と断られたそうだ)+映画中劇+当時の資料紹介、で構成された映画が始まった。
 すべてを通して、昭和47(1972)年11月8日、どうして早大文学部構内で川口大三郎君が殺されたのか、いくつかの背景はわかったような気がしたので、それを書き付けておく。

(1)劇パートから
 無理矢理連れ去られた川口君の友人三人が心配して自治会室前へ行った。ドアの前には見張りの、革マル派の男二人。「友だちが連れ込まれたという話があるんだけど、出してくれないかな」と頼んでも「ダメだ」と言われる。「お前ら、関係ないから帰れ」とも。「関係ないわけないじゃん。だって川口は友だちなんだ」。
 押し問答をしている最中に、他の学生からの通報を受けた教員が二人やってきたが、ドア前の革マル派学生とちょっと言葉を交わしただけで、帰ってしまった。
 次に女性活動家が部屋から出てきて、血走った目で「私たちは革命をやってるんだ。お前たちは、その邪魔をするのか」とこちらを詰り始めた。「そんな話じゃないだろ。友だちの川口を返してほしいと言っているだけなんだから」と言い返すと、「私たちはこれから革命をやる。お前らはそれに刃向かうのか」と一方的にまくしたてて、部屋へ戻ってしまった。
 以上の科白は樋田毅氏の原作本から引用していて、映画では少し違っていたような気がするが、それは大きな問題ではないだろう。ここで注目すべきなのは、川口君の友人たちと、革マル派学生たちのチグハグさだ。
 このときの革マル派の論理とはこうだ。自分たちは革命運動に従事している。これは何よりも最優先されるべきものである。友情がどうたらは、それに比べたらものの数ではない。そんなものをあくまで押し立てて、自分たちの崇高な運動を邪魔するなら、粉砕してもかまわない、否むしろそうすべきだ……、とまでは言っていないし、思ってもいなかったかも知れないが、彼らの論理を押し詰めればそうなる。現に、そういうことをやっていたし、この時もそういう結果になった。
 ここで、第一、カクメイなんてものになんでそんな価値があるんだ、自分たちが入れあげるのは勝手だが、「そんなの知らねえ」と言っている者にまで押しつけてもいいと、どうして思えるんだ、と、不思議に感じる人も、今の若者の中にはいるかも知れない。
 これにちゃんと答えるのは難しいので、他日を期すことにして、ここでは関連したことに以下で軽く触れるだけにする。

(2)シンポジウム最後の、川口君の同級性の発言から
 この人はシンポジウムの出席者まですべて含めたこの日の発言者全員の中で、一番通る声で口跡もよく、二階席にいた我々にも最初から最後まで聞き取れた。
川口は早稲田で死んだんじゃない、早稲田に殺されたんだ」と言うと、「そうだ!」という合いの手と拍手が起こり、かつての学生の集会みたいな雰囲気だ、と感じた。
 なんで「殺された」のかと言うと、そもそも、学内の革マル派支配に対して何もしなかった大学当局の責任があるではないか、ということ。
 この両者は裏取引をしていた、少なくとも紳士協定は結んでいて、学生に対する革マル派の専横はほぼ見過ごされていた。彼らが仕切っている限り、他の新左翼の、もっと剣呑かもしれないセクトは入って来れないから。
 しかし、事件の大前提であるこのような状況についても、事件そのものについても、土台となる当時の「常識」があった。
 前述のように、教職員が二人来ているが、「なんでもありません」と言われたら大人しく引き上げている。
 さらにキャンパスは夜中の9時にはロックアウトされるので、彼らは8時ぐらいと9時ぐらいに見回りに来て、見張りの革マル派学生に下校するように促している。
 この頃川口君は死線を彷徨っていたろうが、「僕らもすぐに帰りますから」と言われ、またしても、部屋の中をあらためることなく、去ってしまった。
 後の糾弾集会で、このうちの一人の、学生担当副主任(そういう役職があることを、今回初めて知った)が吊し上げられる記録映像が本映画中に採用されている。
 彼は学生たちの非難に対して、「様子を見に行って特に何もなかったら帰るしかないじゃないか」と言った。「機動隊の導入には教授会の承認が必要なんだよ」とも。
 単なる言い逃れだと断ずることはできない。革マル派学生十数人、それも鉄パイプや角材や金属バットを持っている中へ、二入で乗り込んでいったとしても、被害者が増えただけの話ではないだろうか。
 先生だろうが教授だろうが、革命運動に携わっていない者は軽侮の対象、邪魔をするなら嫌悪の、そして「粉砕」の対象になるしかない。
 じゃあせめて、警察を呼べば?
 件の川口君の元同級生氏は、その点非常に率直に、「川口のために警察を呼ぶことは、その当時の常識に囚われてできなかったんです」と認めた。
 川口君の場合のように死亡にまで至れば、さすがに犯人は指名手配され、何人かは逮捕もされたが、その後反革マル運動をして学内で革マル派に襲われ、殺されるまではいかなくても半殺しの目に合った人たちは、樋田氏を初めとして、誰も被害届を出していない。
 なんの常識か? 革マル派の推進している革命運動は疑わしいとしても、革命そのものは正しい。革命とまではいかなくても、若者(本当は、大学生)なら「反権力」「反体制」が当り前なのだ。
 デモなどで機動隊とぶつかった経験のあるセクト内の者はもちろん、ノンポリ(ノンポリティカル。政治には無関心な、意識が低い者、というニュアンスの軽蔑語)で、「革命(運動)には関係ない」学生にしても、学校へ警察がずかずか入ってくるのは好ましくない。それでは、「学の独立」が失われる、少なくとも汚されるから。
 このような考え、否むしろ気分は、今でもすっかり消えたわけではないだろう。
 川口君は連行される時、「助けてくれ」と、また「警察に連絡してくれ」とも叫んだ、と『毎日新聞』には書かれていたそうだ(樋田氏の本による)。
 この段階で、教師でなくても学生が、警察に通報しようとすればできた。暴行罪や監禁罪にはなりそうだから。でも、しなかった。そういうことは頭に浮かびもしなかったろう(もっとも、通報しても、大学内での学生同士の殴り合いなら珍しくなかったこの時代、警察がまともに取り合わなかった可能性はあるが、それはまた別の話)。
 これが即ち、当時の「常識」であった。
 加害者である革マルの学生たちも当然、この「常識」の上で行動していた。「お前はブクロ(中核派)のスパイだろう」「他のスパイの名を言え」と、散々殴っておいてから、拘束を解いて、「川口、もう帰っていいぞ」と軽く声をかけている。川口君が床に倒れてからは、人工呼吸までしている。
 彼が生きて帰っても、警察にタレこんだりはしないと確信していたからだ。
 そうなると学校とは、警察力など社会の権力関係がストレートに及ばない子どもの世界、ネバーランドみたいなものだし、そこで、大人になれない、いや、大人になることを拒絶したい者たちが活動していた、ということになりそうだ(私も、左翼ではないが、この気分には浸っていたから、決して馬鹿にしているわけではない)。
 悪い点ばかりではないけれど、そこに、本来あり得べからざるはずの暴力が出てくると、とめどがなくなってしまう場合があることは、昨今のいじめ事件を見るにつけても、心得ておいたほうがよい。

(3)インタビューパートから。
  あくまで非暴力で革マル派に対抗した樋田氏たちと違い、強硬手段で革マル追い出しを目指した人々もいる。そちらのリーダーだった人の言葉(記憶で引用)。
「女子学生の中には、鉄パイプを振れないのを泣いて悔しがる人もいました(ちょっと註記、いや、別に、振れるだろと思う人もいるだろうが、当時は女性はそんなことをするべき存在じゃない、というこれまた「常識」があった、ということだろう)。彼女らは、自分の排泄物をスロープの上から革マルに投げつけて戦いました。私も(武器を?)提供したことがあります」
 楠正成の故事に倣った、わけはない、ベトコンの戦い方を参考にしたかな。
 いや別に、スカトロの話をしたいわけではなく、こういうことを言うときの、70歳を過ぎているであろう人の、なんとも生き生きした表情が印象的だった。
 政治的にどうたら以前に、人間は暴力が好きなのだ。もちろん、自分が犠牲にならない暴力は、だが。それだけに、樋田氏たちの考えは貴重だと言えるが、このことは、今後とも社会運動を展開しようとしたら常に問題になるだろう。これも覚えておくべきだ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする