インターネットの発達と普及がもたらしたものは、IT(Information Technology「情報技術」)革命と言われた。情報ツール及びメディアとしては印刷物、初期の電波媒体(電話、ラジオ、TV)に次ぐものであり、実効性は前二者に勝るかも知れない。それでも人間世界を変えた実感はさほどないのは、情報伝達の量と速度がどれほど増大しようと、それを受け取る人間の能力(受容力)はそんなに簡単に伸びたりはしないからだ。
大きな変化は、受け取る側ではなく、発信側にある。SNS(Social Networking Service)によって、誰もが、世界中に情報を発信できるようになった。元祖格である電子掲示板は、ネットに接続しさえすれば誰もが読めるし、書き込みも可能だった。一方、ネット上のコミュニティ形成を目指すサーヴィスもあり、日本での代表はmixiで、最初は既に会員である人に招待されなければ、言わば身元保証人がいなければ中に入れなかった。それが、平成22年から自分でアカウントを作って登録すればいいようになったものが、現在の基本形になっている。
相互通信用のLINEに、記事投稿用のブログ、フェイスブックやX(旧ツイッター)、画像投稿用のインスタグラム、それに動画サイトであるYouTubeやTik Tokなど。先進国ではこれらを全く見たことがない人のほうが少数かも知れない。何しろ、パソコンはなくても、スマートフォンがあれば利用できるのだ。
この新式のメディアの危険性と言えば、詐欺と流言飛語の拡散が第一に挙げられる。つい最近、有名人を装って投資詐欺に誘う手口が話題になったばかりだ。後者の代表は、アメリカのQANON(ANONはanonymous「匿名」の略語。訳せば「名無しのQさん」)だろう。Qというハンドル・ネーム(ネット上の名前)の者による謎めいた予断・予言の連続投稿から始まり、やがて国外にまで広まったものだ。
よく知られた主張は、民主党の有力な議員や支持者は、悪魔崇拝者で幼児性愛者であって、彼らはDS(Deep State「深層国家」)を形成して裏からアメリカのみならず世界の政治経済を操っている、そしてドナルド・トランプは彼らと戦う光の戦士だ……。できの悪いSFかゲームかと思えるものが多くの賛同者、いや、信者を集め、2020年の大統領選挙には不正があったとして、それへの抗議行動である米議事堂襲撃事件の中核になった。
これらの直接・間接の被害者の方々はお気の毒である。ただ、詐欺も流言飛語もずっと前からあった。SNSがそのために都合のいいツールかと言えば、それは両面ある。情報伝達の速さと広さはかつてないレベルだが、この種の犯罪の前提にはつきものの閉鎖性は失われるのだ。人を操ろうと思ったら、広い意味の洗脳が必要になる。それにはサティアンとかアジトとか、もっとセコければ事務所の一室とか、他所からは遮断された場所があったほうがいい。一対一の説得の他に、宗教やマルチ商法の集会で複数の人数が集まった場合、そこで仮初めにもせよ生まれる同志的紐帯の感情も絶大な効果を発揮する。
ネット上の情報拡散は、時も場所も選ばないので、これが生じる余地は少ない。洗脳者たちにとっては都合の悪いものを含む情報の洪水に絶えず晒されているからだ。私も時折、有名人と同名の人から、「この情報はあなたにだけ教えるものです」という書き出しのネット上のお便りをもらうのだが、同じ名前で他の人にも「あなたにだけ」の話をしているのを見てしまうので、信じることはできなくなってしまう。
Qアノンの信者たちは、教祖や同志の言うこと以外は、DSやそれに騙された者たちが流すフェイク(偽情報)だとして、自ら遮断して信仰の世界にとどまるのだろう。私のようないいかげんな者には思いも及ばない志操堅固さである。それでも、歴史に残る大きな騒擾を惹き起こしたのだから、侮ることはできない。
しかし目下のところ私は、危険性は低いが、それだけによく見かける、SNSが開いた新たな言語作法のほうが気に掛かっている。言葉には公的なものと私的なもの、改まったものと日常会話の別が自ずからあって、誰もが特に意識しなくても使い分けて口にしたり書いたりしている。これが曖昧になったか、いっそ第三の領域が生まれたと思えることがけっこうあるのだ。
詐欺師ではない発信者でも、自分の言うことが注目され、できれば賛同してもらうのを願っているのだろう。そこで前述の受容力が改めて問題になる。発信した情報が、誰に、どの程度に受け取られるかという。
有名人の投稿なら、最初からそれなりの注目を集めるけれど、一般人の場合、Xの表示回数やらYouTubeの再生回数は、百もいかないのがむしろ普通だ。逆にこれらの投稿から有名になる人もいるにはいる。投稿画像や動画で多数のフォロワー(投稿があったら通知をもらって見落とさないようにしている人)を集める、通称インフルエンサーは少なくないようだが、あくまで例外的な存在。自己顕示欲・承認欲求を満たすためには、さまざまな工夫が必要となる。
工夫の中には騒動のタネになるものもある。SNS上でよい評判を取ることをバズる、悪いのを炎上する、と言うようになっているが、無視されるなら顰蹙をかってそれが評判になったほうがいい、と思う者はけっこういる。その評判自体が、SNS上の各投稿や記事のコメント欄などで広まる。そしてこの戦略(すこし前には、炎上商法、などと言われた)のためには、文だけより動画があったほうがインパクトが強いので、主にYouTubeが使われる。
そのうち、常に需要がある高名な人や団体のスキャンダルを流す者は、通称暴露系ユーチューバーと言われる。議員にまでなってしまったガーシーこと東谷義和がその代表。
一方、通称迷惑系ユーチューバーも目につくようになっている。渋谷のスクランブル交差点に蒲団を敷いて寝る、など。バイト・テロ(アルバイトをしているレストランの、調理台のシンクにお湯をためて入浴する、など)や、すし・テロ(回転寿司店で備え付けの醤油差しに口をつける、など)もその延長。現場の顔出し動画をアップするんだから、捕まるに決まっている。彼らはまたバカッターとも呼ばれる。それなのに、なぜやるのか?
ここでは現象面から少し詳しく考えていきたい。迷惑系とは、仲間同士の悪ふざけを拡大し、公表する者だ。私のような陰キャでも、知り合い何人かと焼き肉を食っていて、焼き上がる前のコンロ上の肉を、「取られないおまじないをしま~す」とか言って、一舐めした箸でつつく、なんてことはやった。「バカ、何やってんだ」と笑ってもらえたら成功、怒られたら失敗、でなかなかスリリングだが、逮捕されることはない。また、我々と全くかほとんど関係ない人がたまたまこれを見ても、文字通り面白くもおかしくもないし、その他どんな思いも持たないだろう。
思いを持って注目されるためには、もっと過激なことをやるしかない。過激が嵩じて、犯罪の段階にまで至れば、いかにも注目される。顰蹙の形で。そんなことぐらいは予想しているだろうが、半面、退屈な日常をほんの少し揺さぶるパフォーマンスとして楽しんでもらえるんではないか、なんぞと安易に期待しているところに、バカッターのバカの所以がある。
悪ふざけをギャグとして、赤の他人が楽しんでくれるものにするのは、練達の芸人でも難しい技だ。それよりは、非常識で迷惑な行為を良識に基づいて非難しつつ、馬鹿にして笑うほうがいつでも簡単明瞭である。かくて迷惑系は、自分たちの思惑とは別のところで、ネットユーザーに娯楽を与えることになった。
このように、人を非難すること、馬鹿にすること、罵ること、が今やSNSの提供する最大の娯楽になっている。前出の暴露系は、犯罪ではないにしろ、一般に恥ずべき言動とされているものを暴き、非難する体裁で行われる。むしろこちら側が名誉毀損罪に当る可能性大で、現にガーシーは逮捕された。
しかし、同じくSNS上で、一応は良識という「社会的正義」に則っている体裁で暴露されたことを拡散するのは、拡散できたらなおさら、一人ではなく大勢で言っていることになるので、完全に安全な楽しみだと思える。暴露の対象は有名人や有名企業がよいが、一般人でもわかりやすく恥をさらした迷惑系などは、餌食になる。それ以外の批判や誹謗中傷もネット上に溢れかえっており、いつ誰がやり玉に挙げられるかわからない。その意味では、今非難攻撃を楽しんでいる者だって、いつか楽しまれる側に転ずる危険はあると言える。
文字によるSNSの代表である旧称twitterに目を向けると、大元の意味は「小鳥が囀る」で、そこから「ぺちゃくちゃ喋る」などの意味に転じた。綴りが似ているtwitは「なじる、からかう」で、twitterとは関係ないとされるが、2006年創設時の命名者たちはこの近似は意識していたろうという疑念は拭えない。twitter上の投稿はtweetと呼ばれ、これは同じく「小鳥の囀り」また「呟き」の意味もあり、現在でも見かけるが、Xになった今は、「ポスト」のほうが正式(か?)なようだ。
日本でもサーヴィスが開始された当初は、文字通りの呟きで、「今、昼休憩中」だの。「トイレ、ナウ」だの、投稿者自身と身近でなければいかなる興味の持ちようもないものが多かったようだ。こういうのは今もあるのかも知れないが、運営側の自称ではあくまで情報ツール(ウィキペディアによる)だ。
それでも、日本語で一投稿原則一四〇字以内の制限があると、詳しい情況まではとても伝えられない。連続投稿などで実質長く書く方法もあるが、それより、ある出来事についての感想や意見を断定的に書くのが、Xと名前が変った現在までの標準的な語法になっている。
すると、誰かを、あるいは何かを批判するとなると、「頭がおかしい」だの「恥を知れ」だのという、悪罵と言うべき形になることも多い。かくて、ホンネが前面に出てきてタテマエが崩れた、とみなすのは早計で、こういうのがよく見受けられるようになったことへの不安や反発から、心や神経を傷つける言葉・言い方への忌避感は強くなる。「セクハラ」から始まって、「パワハラ」「モラハラ」「アカハラ」「カスハラ」、最近では「ハラハラ」(それは「~ハラ」だと言って攻撃されること)なんて言葉が飛び交うのが何よりの証拠だ。どちらも多すぎるので、批判・再批判の応酬はあったとしても、たいていはSNSの言葉の海に飲まれて、すぐに見えなくなるのである。
飲まれる前にしばらく浮かんでいた実例として、今年(令和6年)8月にXへの投稿から起きた炎上を二つ見ておこう。投稿者はどちらも有名人だが、そうでなかったら私などの目に触れることはないのだから、そこは仕方ない。
一つ目はフリーアナウンサー・川口ゆりの、8日のポスト。「ご事情あるなら本当にごめんなさいなんだけど、夏場の男性の匂いや不摂生してる方特有の体臭が苦手すぎる。常に清潔な状態でいたいので1日数回シャワー、汗拭きシート、制汗剤においては一年中使うのだけど、多くの男性がそれくらいであってほしい…」
この川口という人を、私は知らなかったのだが、まあ有名なのだろう。三万近くの「いいね」がついた。半面、批判も多く、現在ではこのポストは削除されている。「男性差別」だと言われて。この言葉を見聞きするのは、今回が初めてではないけれど、「女性差別」に比べればずっと少ないし、これによって発言者の社会的立場がどうにかなった例は寡聞にして知らなかった(川口は所属していた事務所の契約を解除されたそうだ)。それだけ女性の社会的な立場が上がったしるしかも知れない。
匂いについては、おっさんには清潔感がないとか、加齢臭がどうたらいう言葉はけっこう聞いた。あくまで感覚的なものだから、TVやラジオのインタヴューの答えとして言われても、個人の感想と受け取られ、流された。川口もそのつもりでポストしたのかも知れない。いわゆる私語であり、私語(ささや)きであると。それが大勢に伝わるとは、何しろその大勢は目の前にいるわけではないので、つい忘れがちになるのかも。
だいたい、彼女が男性の匂いをどれほど嫌いでも、会うこともない男には関係ない話ではある。が、X上で独立した記事として出てくると、意見に見えてしまい、毀誉褒貶の対象になる。「あってほしい…」と願望の形で終わっていても、「そうすべきだ」と言っているのと同じだと受け取られ、「一日に数回シャワーを浴びられる人が何人いると思っているんだ」というような反応を引き出す。このようにして、SNSは、私的な呟きをするりと公的な次元に移すのである。
もう一つ、時間的には前例より少し早い、フワちゃんとやす子の件。彼女らは私も知っていたから、かなり売れている芸人なんだろう。
まず2日の、やす子のXポスト。「やす子オリンピック/生きてるだけで偉いので皆/優勝でーす」。
これに対する4日のフワちゃんのリツイート(引用して反応するポスト)。「おまえは偉くないので、死んでくださーい/予選敗退でーす」【/は原文の改行部を示します】
後者の投稿はすぐに削除されたが、スクリーンショットによって記録されたものが拡散した。このように、記録も拡散も簡単なのもSNSの特性であり、そこでの言葉が公的なもののように見える要因の一つになっている。
フワちゃんは自分のポストを削除しただけ(それだと、証拠隠滅だという非難を浴びたろう)ではなく、同じ4日のうちに「(前略)言っちゃいけないこと言って、傷つけてしまいました/ご本人に直接謝ります」とポストしたが、それで収まることはなかった。彼女はタレント活動休止にまで追い込まれた。
結局何が起きたのだろう? 背後の事情についてもいろいろ言われているようだが、あくまで言葉のやり取りのみに着目する。フワちゃんは、やす子のポストを漫才のボケとみなして、ツッコミを入れようとしたのではないだろうか。
最初のポストで、やす子は何が言いたかったのか? 「みんな違って、みんないい」とでも? そうだとして、この言葉に感動したり、慰められたりする人がいるだろうか? 何かに失敗してがっかりしている人に言ってあげれば、そういうことにもなるかも知れないが、具体的な状況抜きで言葉だけ投げ出されても、「やす子って、性格いいんだな」以外にはなんとも思いようがない。この騒ぎがなかったら、このポストは彼女のファン以外の人の記憶に残ることもなかったろう。
お笑い芸人がこんなことではいかん、とフワちゃんが、先輩として、義憤にかられて(もちろん冗談ですよ)、少しは面白くなるように転がしてやるか、と余計なことを考えてやってしまったのが「予選敗退」のリツイートだったのではないだろうか。それにしてもうまくないので、笑えないが。「お前、オリンピックでなに金子みすゞやってんねん。違うやろ」とでも言えば。……やっぱり、面白くないですか? フワちゃんは関西人じゃないですし。まあ、これなら、ボケーツッコミとして辛うじて成り立つのではないか、と思って作った例ですので。
そう、フワちゃんのリツィートは、やす子の言葉をひっくり返しただけで、ツッコミにもなっていない。それで、「死んでくださーい」の部分だけ浮き上がったものを掬い取られれば、これは明らかに、社会的に言ってはいけない言葉だ、ということになる。フワちゃんもそれに気がついたからこそすぐに削除したのだろうが、時既に遅し、いわゆるデジタル・タトゥーとして残され、多くの人の目にとまることになってしまった。
フワちゃんという人は、元来ユーチューバーの出身で、権威にも常識にも靡かない無邪気で破天荒な言動がウリだった。そうであればこそ、言葉には、言葉がどんな場を創り、どんなふうに行き渡るかについては、もっと自覚的であるべきだったのだ。
……と、エラソーに言ってみて、いや、そうではなくて、SNSという新たな言葉の場が開示した言葉という道具の持つ恐ろしい面には、現代人は畏敬の念を持つべきなのだろう、と思いついた。