由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

小浜逸郎論ノート その4(共同態・中)

2024年04月26日 | 倫理


メインテキスト:小浜逸郎『倫理の起源』(ポット出版プラス令和元年)
サブテキスト:和辻哲郎『倫理学』(初版は岩波書店全三巻昭和12~24年。岩波文庫全四巻平成19年)

 前回は、『倫理の起源』の結論部分に即応して愚考を述べました。これはやや性急過ぎて、小浜の論の魅力的なところを取りこぼしてしまったようです。今回と次回、改めて、各種共同体の相関・相克関係や、公私の別について、小浜の言説をきちんとお浚いして、自分なりに感じる問題点を提出してみようと思います。

Ⅳ 和辻倫理学の継承と批判 往還の相と信頼
 第一のテーゼと言うべきもの。重要なのは常に共同態なのだ。共同態があるからこそ、善がある。また、ある共同態がまずます平和に、幸福に営まれているなら、そこに善は実現されている。

 では、悪とは何か。その共同態が乱れ、さらには失われること、ということになるだろう。
 共同態のための場所である共同体がほぼ完全に消失する場合、BC1世紀ローマ帝国に滅ぼされたカルタゴとか、16世紀スペインのコンケスタドールに征服されたインカ帝国などの例は、今後も起こらないとは言えないが、倫理は共同体内部の人間の在り方を考えるものだ。
 人は共同態の中で生まれ育って初めて人となる、共同態以前にいかなる個人もない、というのは、いわば発生論。元はそうでも、人が太郎とか花子とか固有名を持ち、一個の人格として扱われ、他者とは違う自分を意識したら、それだけで既存の共同性からは微妙に逸れている。
 最も重要なのは、この逸れた個人がもう一度共同態に復帰すること。というよりは、共同性の核(それが何かは少し曖昧だが)を保存したまま、新たに創り上げていく、と言ったほうがいいだろう。

 ある家庭の息子や娘が成長して結婚し、今度は自分が父母になって、子どもを産み育てる。今でも三世帯同居など、大家族はあるけれど、それでもそれは、元の「家」とは別のものになっている。子どもが結婚して嫁さんなり婿さんなりが入ってくるだけでも元とは違う。そこに新たな子どもが誕生すればまた違ってくる。
 それでも、子育てなどの基本的なモデルは代々ずっと受け継がれた部分が大きく、それこそ共同態なのだが、親子が別居した場合でも、そのような無形の部分の継承はなされている。

 小浜が、というより彼が最も影響を受けたと認める和辻哲郎の倫理学は、このような過程を共同態からの「往還」と呼ぶ。
 個人が、反抗期とか何かで、意識的にもせよ無意識的にもせよ、共同態から背き離れるのが「往」、それからまた共同態に復帰するのが「還」、これが人間の、生活の歴史を形成する。
 それで、「往」が悪の過程で、「還」が善の過程なのだが、いつかまた還る運動の過程にあるなら、「往」も全き「悪」とは呼べない。行ったっきりで戻る道が見つからない、あるいは完全に否定するとしたら、それこそが「悪」になる。
 これでもう贅言は要さないかも知れないが、和辻―小浜が最重要と考えたのは、現にある家庭とか国家とかを保ち守ることよりむしろ、個々人が他者と共有し共生できるだけの、精神的なものを含めた場を創ることで、「他人への思いやり」と言えば、ほぼ尽きている。

 小浜が悪の代表と考えるのは、個人の自由を重んじるあまり、「自分が正しいと信ずるなら、人を殺してもいい」なんて思うこと。ドストエフスキー「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフはこの状態に陥ってしまった。
 文学からまた別例を探すなら、ロビンソン・クルーソーは、事故で共同体からは離れてしまったが、それまで同胞とともに生きてきた英国社会の共同性から身につけたマナー(考え方と行動のパターン)は保っているので、共同性を失ったわけではない。それは、食人の習慣がある南米の原住民を野蛮人とみなすprejudice(偏見、だけど、元義は、「前もってする判断」)を含めての話ではあるが。

 別様に表現すると、人間は関係性によって形成される、関係的な存在である。しかし、関係的存在であることを認識するところに自己が現れる。そして、それゆえにまた、人としての正道と言えば、関係性を自ら背負うところにある。つまり、関係性こそが倫理となるのである。【キルケゴールの「自己とは関係がそれ自身に関係する関係である」はそういうことではないかと私は思っている。】
 ここまでなら特に異論はない。しかし実は倫理上の実際の問題は、この次からなのである。

 小浜逸郎は和辻哲郎の倫理学を高く評価し、自分はその後継者を目指す者であることも認めている一方で、その弱点も厳しく指摘している。小浜の倫理学は、この弱点の克服を目的としている、と言っても過言ではない。
 以下、小浜の和辻批判を私なりに言葉をやや変えて紹介すると。

(1)和辻は、共同体の中心核となる感情は信頼だと言う。それはそうで、成員同士に信頼感がなかったらいかなる共同体も成り立たないのは自明。ただ、それだけで共同体が保たれるかと言えば、これまた明らかに違う。
 和辻がそう言っているわけではない。が、共同性こそ人倫の基礎という割には、共同性につきまとう諸問題にはあまり言及していない。
 小浜の言い方だと、和辻は「ザイン」(現にあるもの・現実)と「ゾレン」(あるべき存在・当為)をちゃんと区別していないようだ。別言すれば「倫理学は、生の暗黒面という現実を直視しつつ、しかも最終的には「ゾレン」を追究する学であるという姿勢を一貫するのでなくてはならない」(pp.308~309)とすると、和辻にはその直視が足りないと言わざるを得ない。
 例えば和辻『倫理学』第三章「人倫的組織」中の第4節「地縁共同体」における、村落の共同労働や祝祭における絆の深さについての記述など、現実にはまず存在しない、いいことずくめである。それから、第5節「経済的組織」では、そこでの人倫精神の要は「奉仕」というキーワードで語られてい、これではブラック企業の経営者が喜ぶばかりだろう。

(2)共同体相互の関係。上に一部示したように、和辻は人間社会の「人倫的組織(=共同体)」を、家族・親族・地域共同体・経済的組織(企業など)・文化共同体(ある、一定、と見なし得る文化、例えば日本文化を共有していること)・国家、に分類している。近代人はこの全部、あるいは少なくともいくつかには属しているのが普通である。
 それぞれの共同体には固有の論理と倫理があり、すべて相俟って人間社会を支えている。しかし、すべてが矛盾なく並び立つ、なんてことはない。それはかつての徴兵制があった時代の戦争を考えただけで明らかだろう。
 男たちは基本的に、自分や家庭や地域の都合とは関係なく、国家の命令で戦地に赴き、最悪の場合には命を落とした(これが前回採り上げた「永遠の0」の主題)。今でも、企業人としての激務に追われ、家庭や親族間ではほとんど長期不在状態が続き、最悪その共同体の崩壊に繋がることもある。
 こういう場合、最小のもの(家族)から最大のもの(国家)まで、共同体の範囲が広くなるのは当然だが、その分価値も高くなるように感じられるのは、功罪相半ばする、というか、当然なところと危険なところがある。

Ⅴ 改めて、国家とは何か
 小浜は、現存する最大の共同体である国家については、その幻想性を語るところから始めている。
 国家とは実体ではなく、人々があると思っているからある。ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』、吉本隆明『共同幻想論』、古くはカール・マルクス『ドイツ・イデオロギー』にも同じ考えはある。
 一理あるが、殊更に「幻想」と呼ぶと、他所に何か実体があるような印象を与える。「しかし少し考えてみればわかるように、その程度はさまざまであれ、およそ人間が作る共同性は、すべてある意味で「想像」によって成り立ち、「幻想」を媒介としたものであることを免れない」(P.405)
 これは「少し考えてみればわかる」ことではないかも知れない。例えばこういうことだろう。結婚して新たな家庭という共同体を創る場合、自分及び相手に対する幻想、と言って言葉が強すぎるなら、ある種の思い込み、あるいは期待、がなくて結婚生活は始めるケースは稀だろう。前述の〈信頼〉も、結局はこれに基づく。
 だから、他のより小さな共同体に比べて、国家とは単なる幻想であり擬制だ、とは言えないのだが、しかし、その幻想―信頼の質そのものが、他とは決定的に違うものであることなら、誰にでも直感的にわかる。

 小浜は国家を次のように定義している。「近代国民国家とは、人々がさまざまな形で共有する土着的・伝統的な同一性、同質性を基礎にしながら、それらを一つの統治構造によってまとめ上げていこうとする虚構であり、運動なのである」(P.407)
 ポイントは〈運動〉とその〈作用〉というところにある。この着眼と表現は、たいへん秀逸なものだと思う。

第一に、国家は個々の政府機関のような実体なのではなくある統合性をもつ力の作用(はたらき)である。したがって第二に、その作用(はたらき)が有効に機能するために、統合を維持するに足る象徴性を必要とする(たとえば皇室や憲法や国旗や国籍のような)。そうして第三に、メンバー全員の間に、その象徴性に対して、たとえ無意識的にではあれ、同意と承認を与える心のシステムが成立しているのでなくてはならない。(P.410)

 そうである以上、「愛国」という言葉は今もあるけれど、国家への〈愛〉とは、普通に使われるこの言葉の示す心の働きとはずいぶん違う。前回述べたことをもう少し詳しく言うと。
 人は生まれ育った土地、いわゆる故郷に愛着を感じることはある。「忘れ難きふるさと」ということで。しかしそれは、唱歌の中でも、「兎追ひしかの山/小鮒つりしかの川」と歌われているように、風景や、そこで共に過ごした人々の具体的なイメージと結びついている。国全体となると、大きすぎて、各人が各人の想像力を使って思い浮かべるしかない。
 保守派の論客が愛国心教育のためにとよく持ち出す日本文化も、非常に多様で曖昧な諸概念である。他国と比較すると、特徴が際立つようにも思えるのだが、日本国内で普通に暮らしていて、何が「日本的」かなどめったに意識することはないし、もちろんそれでよい。
 逆から見ると、何が国の価値であって、どうすればそれを〈愛する〉ことになるのか、かなり好き勝手に言えることになる。サミュエル・ジョンソンの警句の通り「愛国心は悪党の最後の逃げ場」(もっともこの場合の愛国心はnationalismではなくて、patriotismだから「愛郷心」のほうが適当)になり得る。

 これらを要するに、あらゆる共同体がフィクションではあるが、国家、特に近代国家は、人間が成長するにつれて自然に身につく情感や知見とは最も遠い、という意味で、最も人工性、つまりフィクション性が高い。
 そもそもなぜ人類はこういうものを必要としたのか、小浜の論述から少し離れて、試みに、素朴なモデルを示しておこう。

 例えば老子は、「小国寡民」こそが理想的な社会だとした。一番大事なのは、そこで暮らす人々が、小さな共同体の中で完全に自足し、今ある以上のものは求めないこと。ならば、他所と交通する意欲もなく、他人を羨むことも、争うこともない。すると、文明の進歩はない。文明は、人々に快適をもたらすが、それ以上に不幸をもたらすものだというわけなのだろう。一理ある。が、人類は、西洋でも東洋でも、ほとんどこの道を採らなかった。
 今以上を求めるから、産業も商業も発展するのだが、一方、自分たちにはなくてよそにあるものを妬む心から、争いへとつながることは避けられない。争いはほとんど直ちに暴力に結びつき、他より立ち勝り、できれば支配するために、暴力の手段(兵器)も集団(軍隊)も発達する。これが野放図に横行したりしたら、明らかに安定した生活はない。
 対応策として、ある集団が揮う暴力のみを正当(公的)として、他のすべてを禁ずる、といってもなくすことなどできないので、不当・不法として取り締まる、という方式が選ばれた。そのために国家という機関ができた、とさえ考えられる。
 マックス・ウェーバーの有名な定義「国家とは、ある一定の領域内部で、正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体」(「職業としての政治」)はたとえ言い過ぎだとしても、それこそ、つまり暴力の管理こそは国家の枢要な仕事の一つであることはまちがいない。

 ただし、暴力は悪なので、押さえるためには、それを上回る暴力がなくてはならない、というのは、矛盾に見える。そこでその暴力の正当化の根拠として、国家の正当性が宣揚された。先の引用文中の「土着的・伝統的な同一性、同質性」さらにそれを簡明にした「象徴性」が動員される。「この国は、神に選ばれた偉大な民族である我々が建てたのだ」というような。時には、このような神話とも呼ばれるフィクションが新たに創られる場合もある。
 そして、暴力が最大限に発揮される場である対外戦争が仕上げをする。
 ヨーロッパ中世期では、戦争は王侯貴族がやるもので、一般庶民は、無理矢理駆り出されたか、他は金で雇われた傭兵が大部分で、命がけで戦う義理など感じていなかった。戦局が剣呑になれば、すぐに逃げ出した。マキャベリ「君主論」には、合計二万の軍勢が四時間戦いながら、戦死者は一人だけ、それも落馬した時の怪我がもと、という例も書かれている。

 徴兵制はフランス革命の産物だ。革命が自国に飛び火することを恐れたヨーロッパの諸王国は連合してフランスを攻撃した。フランスの国民公会は、これに対抗するために、様々な曲折の後、ルイ16世とマリー・アントワネットが処刑された年である1793年に「国民総動員令(または、「国民総徴兵法」)」を成立させ、18歳から25歳までの国内青年男子を動員し、百万人規模の軍隊を作った。この〈国民軍〉はその後ナポレオンに引き継がれ、戦時には民兵を指揮し、平時には軍事訓練を事とする専門の軍人によるいわゆる常設軍もできる。
 これはその後すぐに西欧世界全体に広がり、ここに、〈国民〉とナショナリズムが歴史の前面に躍り出た。以前に書いたように、あらゆる共同体が〈内〉と〈外〉を分けるもので、程度の差こそあれ、排他的になる。この力学をさかさまにして、〈外〉の脅威とそれによる危機感を煽って、〈内〉の結束を強めるのもよくある手法である。
 強大な外の脅威に対抗するには全力を挙げて戦わねばならない。戦争はいまや苛烈を極めたものとなり。何人もの人が命を落とす。すると、これまた逆転して、何人もが命懸けで保ち守ろうとしたからこそ、そこには価値がある何かが存在する、とも感じられる。それが即ち、(近代)国家である。

 しかも国家の価値は、根拠は怪しい分だけ、巨大でダイナミックである。その一部として、その存続を懸命に保ち守ろうとすることで、個人の背丈を遙かに超えた歴史の過程に参入した感じになれる。
 幻想だと言って侮る勿れ、その高揚感は、安定した日常生活では得られないものだ。20世紀の多くの若者を捉えた「革命」への熱情も、たとえ旧来の国家の廃絶を唱えたとしても、質的には同じである。いや、民主主義で、一国の政治に責任を感じて主体的に関わるように求められるなら、誰もがこの心性と無縁ではない。

 現代では、欧米のいわゆる先進国の多くは、常設軍はあっても、徴兵制は廃止している。20世紀末に冷戦が終わり、デタント(緊張緩和)が訪れた結果なので、ウクライナ戦争でロシアの脅威が再び高まったので、また導入が検討される場合も稀ではないようだ。
 それでも、成人前の(たいてい)男子に兵役に就く気があるかどうか答えさせるのがせいぜいで、つまり、いやだと言えばそれまで、無理矢理兵士として使役するまではとてもやれないのが実際らしい(六辻彰二「徴兵制はなぜオワコンか――ウクライナ戦争でもほとんど‘復活’しない理由」)。
 個人の意思の尊重をたてまえとする民主主義国ではそれが当然だろう。ただそれも、ヨーロッパの今後の情勢次第ではどうなるかわからない。

 戦後日本は徴兵どころか正式な軍隊もない。そもそも、国家意識に非常に乏しいと言われる。それでいて、国際性がどうのこうのと言っても、その「国際(各国の関係性)」の概念が他国の標準とは合っていないのではないかと思えるのだが、それはここで扱えるような問題ではない。
 小浜も、上の意味の国家意識には乏しいと言えるだろう。国家とはそれ自体が愛憎の対象になる価値なのではなく、機能なのだ、としている。人類が今更小国寡民の原始時代に戻れない以上、現在の生産と流通の状態を維持するために、統括のための巨大組織が必要になる。犯罪の取り締まり。即ち警察力もなくてはすまない。ここに国家の実際的な存在意義もある。

(前略)近代国家の精神は、個人個人の愛国感情によって支えられるよりも、はるかに大きく、そこに属する住民の福祉と安寧とをいかに確保するかという機能的・合理的な目的意識によって支えられているからである。
 このことは軍事・外交・安全保障にかかわる施策や行動においても例外ではない。もちろん実際の戦闘時の士気を維持することにとって参加メンバーの愛国心は大いに寄与しているように見えるが、それはよく個々のメンバーの行動心理に照らしてみれば、個人の愛国の情の力の集積というよりも、大きな目的を合理的に理解した上での、各部署における職業倫理と責任意識であり、同じ目的を追求していることから生じる同朋感情であり仲間意識なのである。これらがうまく機能するとき、「強い・負けない」国家はおのずと現れる。
(pp.417~418、下線部は原文傍点部)

 従ってここでも、何よりも各人が家庭や職場でそれぞれ具体的な責任を果たすことが重要であり、国家サイドからすると「身近な者たちへの愛が損なわれることのないような社会のかたち(秩序)をいかに練り上げるかという理性的な「工夫」」(P.420)こそが肝要と言うことになる。ここから前回掲げた「生活を共有する身近な者たちがよりよい関係を築きながら強く生きるという理念を核心に置き、その理念が実現する限りにおいてのみ、国家への奉仕も承認する」(p.466)という理念も出てくる。

 私も国家の第一の目的は国民の安寧秩序を守るところにあるのは同意する。そのための国家は、できるだけ理性的・合理的に営まれるべきなのも、そうであろう。しかしその道は幾重にも折れ曲がっている。ナショナリズムというかなり非合理な感情一つとっても、そう簡単には決着がつかない。
 そういうことに拘るのは、私が、小浜よりもっと、人間の暗黒面が気にかかる傾向があるからだ、ということは認めつつ、もう少し歩を進めたい。
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物語作者としての宮澤賢治 下(銀河鉄道の夜)

2024年04月08日 | 文学

杉井ギサブロー監督 「銀河鉄道の夜」(昭和60年)

メインテキスト:宮澤賢治「銀河鉄道の夜」(ちくま文庫『宮沢賢治全集7』昭和60年刊。第一~三次稿も「異稿」として収録されています)

 「銀河鉄道の夜」は大正末にはすでに一定の形にまでなっていましたが、その後賢治にとっては晩年の昭和五、六年まで改訂が続けられたことは比較的よく知られていました。しかし従来全集や作品集を編纂してきた編集者たちは、賢治の生原稿まで見ることはさほどはなかったようで、刊本によってけっこう異同があったのです。私が小学校の頃に初めて読んだのは、たぶん、谷川徹三編で昭和26年に出た岩波文庫『童話集 銀河鉄道の夜 他十四篇』を基にしたもので、以後これを旧版と呼びます。【岩波文庫には現在もこのテキストで入っています。】
 その後昭和46~48年に、入沢康夫と天沢退二郎が、遺されていたすべての生原稿を精査し、用紙やインクや書体などから、作品の生成過程を可能な限り明らかにしました。その成果は、まず『校本宮澤賢治全集』(筑摩書房全十四巻別巻一)に収められています。
 「銀河鉄道の夜」については、大きな改訂だけでも三回施されています。賢治が生前に手入れした最後のものは、けっこうまとまっているのですが、これを「決定稿」と呼ぶのは入沢・天沢両氏とも反対しています。それでも、この発見以後、「銀河鉄道の夜」と言えば、この第四次稿または新版と呼ばれるものを指すことになり、各種の全集や作品集に入っている他、アニメ映画「銀河鉄道の夜」の原作になったのもこれです。

 第四次稿と第三次以前の原稿は、「風野又三郎」と「風の又三郎」ほど別の話になっているわけではないのですが、かなり重要な変更があります。最大は、第一次稿から登場していて、銀河鉄道の旅を言わば主導していた人物・ブルカニロ博士が消失してしまったことです。
 結論から言うと、これによって、作品のテーマというか、大枠の構造が次のように変化したことが認められます。
 旧版〈少年が宇宙の神秘に目を開かれる〉→新版〈孤独な少年の魂の彷徨〉
 以下、これについて述べます。

 第四次稿=新版ならば、第三次稿=旧版なのかというと、必ずしもそうではありません。
 まず第三次稿には、「一 午后の授業」→「二 活版所」→「三 家」と続く冒頭部分がなく、「ケンタウル祭」から始まります。ジョバンニは街にいて、「ぼくはまるで軽便鉄道の機関車だ」と考えながら元気よく走っているのだが、同級生のザネリとすれちがった時、「どこへ行ったの」と訊き終わる前に「ジョバンニ、お父さんから、らつこの上着が来るよ」と冷たい言葉を投げつけられる。
 そこから主にジョバンニの内面の声によって、
(1)彼の父は遠洋漁業に出て長いこと留守なのだが、実はらっこや海豹の密猟をしていて、そのときのいざこざで人に怪我をさせてどこか遠くの国の牢屋に入っているという噂があること、
(2)彼の母は一家を支えるために農作業に従事していたのだが、無理がたたって体をこわしてしまったこと、
(3)そのためにジョバンニは朝は新聞配達、夜は活版所で働き、せっかくの祭の日なのに、遊びにも行けないこと、などがわかる。そして今彼はおつかさんのために、届かなかった牛乳を取りに来たのだった。
 牛乳は「今日はない」と言われる。金さえあればどこかで買うことが出来るのに。そこから、裕福で、賢くて、誰からも好かれているカムパネルラへ憧れる思いが浮かぶ。歩いていて再びザネリを含む子どもたちの一団とすれ違うと、また「らつこの上着」を囃し立てられる。その中にはカムパネルラもいて「気の毒さうに、だまつて少しわらつて、怒らないだらうかといふやうに」見ていた。
 すっかり悲しくなったジョバンニは、家へは帰らず、川を越えて暗い林を抜けて天気輪の柱のある丘の頂上にまで着く。そこで牛乳の川=milky way=銀河を眺めているうちに、いつの間にか銀河鉄道の中にいる。それも、カムパネルラといっしょに。

 ここから、本作のボディである、魅惑に満ちた銀河の旅が始まるのですが、今回は物語の構成だけを考えます。いきなりブロカニロ博士までいきましょう。もっとも彼は、実際に姿を現すまでに、「セロのやうな声」で「ひかりといふものは、ひとつのエネルギーだよ」など、ジョバンニの心の中に語りかけていろいろ知識を授けるのですが。
 彼が「黒い大きな帽子をかぶつた青白い顔の痩せた」姿を現すのは、旅の終わり、カムパネルラが突然姿を消して、ジョバンニが「はげしく胸をうつて叫びそれからもう咽喉(のど)いつぱい泣きだし」たとき。次のようにジョバンニを教え諭す。

(前略)みんながカムパネルラだ。おまへがあふどんなひとでも、みんな何べんもおまへといつしよに苹果(りんご)をたべたり汽車に乘つたりしたのだ。だからやつぱりおまへはさつき考へたやうに、あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなと一しよに早くそこに行くがいい。そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいつしよに行けるのだ」

 この次に博士は、一頁が一冊の(地球の各時代の)地歴の本になっている本を開いて、人類の意識の歴史を語り、やがて科学と宗教が一致する真理、人類全体の本当の幸福の時代が訪れる(ということだろうと思います)、そのためにこそ「一しんに勉強しなけあいけない」とジョバンニを励ます。

 やがてジョバンニは元の丘の上にいる。そこにも博士はいて、「私は大へんいい實驗をした。遠くから私の考へを人に傳へる實驗をしたいとさつき考へてゐた」と言うので、銀河鉄道の旅はすべて博士の「考へ」をジョバンニに伝えたものらしい。そして、「僕きつとまつすぐに進みます。きつとほんたうの幸福を求めます」と力強く言うジョバンニに別れを告げ、「さつきの切符です」と、銀河鉄道でズボンのポケットに入っていることを発見した緑色の紙(「こんな不完全な幻想第四次の銀河鐵道なんか、どこまででも行ける」切符だと言われた。曼荼羅ではないかとも言われる)を改めて渡す。林の中を通って家へ帰る途中、ポケットが重いので、調べてみると、緑色の紙の間に金貨が二枚包まれていた。これでおっかさんに牛乳を買える。

 何かいろいろのものが一ぺんにジヨバンニの胸に集つて何とも云へずかなしいやうな親しいやうな氣がするのでした。
 琴の星がずうつと西の方へ移つてそしてまた蕈(きのこ)のやうに足をのばしてゐました。


 以上が、第一次稿から三次稿まで共通した作品の末尾です。

 推測を交えて言うと、旧版は次のようにできあがったのでしょう。
 まず、第四次稿で登場した「一」から「三」まで、つまり、学校の授業で、銀河について説明を求められてうまく応えられないところから、活版所でのアルバイト、家で病気のおっかさんと会話し、彼女のために届かなかった牛乳を取りに出かけるまで、すべてジョバンニの体験として直接描写された部分は活かす。結果として、「四 ケンタウル祭〈第四次稿で「ケンタウル祭の夜」、と改められた〉」で説明過剰になる部分は削る、そこまでは賢治自身がやっています。
 ところで、「三 家」で、おっかさんの直の言葉から新たに与えられた情報があって、ジョバンニの父とカムパネルラの父は小さい頃から仲が良く、その関係で、ジョバンニは、以前はしょっちゅうカムパネルラの家へ行って、いっしょに遊んだ、ということです。
 ここでジョバンニの淋しい生活を描くだけでなく、以前は全く登場していないカムパネルラの父について言及したことは、第三次稿までは宙ぶらりんにされていた二つの〈現実〉の事情、
①カムパネルラはどうなったのか、
②ジョバンニの父は今どういう状態で、これからどうするのか、

をきちんと伝える最初の伏線です。
 実際にここは明らかにされました。カムパネルラは川に落ちたザネリ(ジョバンニを一番苛めていた子)を助けるために自ら川に飛び込み、行方不明になってしまうのです。
 因みに、「三」でジョバンニが外出する直前、おっかさんが「川に入らないでね」と注意します。こういう細かい伏線を張れるのも物語作者としての才能ですね。
 第四次稿初登場のカムパネルラの父は、河原にいて懐中時計を眺めながら「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから」と言い、またジョバンニに、「あなたのお父さんはもう帰つてゐますか」と問いかける。「ぼくには一昨日大へん元気な便りがあつたんだが。今日あたりもう着くころなんだが。船が遅れたんだな」。

 さて、物語の重要な結束点というべき、原稿用紙で五枚ぐらいのこの場面は、第四次稿で初めて登場したわけですが、これは明らかにあったほうがいいですね。最初は確かに生きて活動していたカムパネルラが、銀河鉄道の中からは消えて、現実世界ではどうなったのか、わからないのではどうしてもおちつかない。
 それでまた、作品中のどこに置かれるべきかと言うと、やはり最後に、言わば謎解きのようにあるのが、一番適当なようです。実際作者・賢治も、わかっている限りでは最後に、そのように物語を締めくくることにした。しかし、では、ブロカニロ博士に勇気を与えられる、元の最後の会話はどうなるか。二つの結末はどうしても並び立たないので、賢治はとりあえず、潔く前のを消すことにしたのですね。
 今思いついたのですが、博士はあくまで銀河鉄道の中にいるだけで、そこから目覚めたジョバンニが川へもどって、カンパネルラの現実の死を知る、という筋立てはできそうです。なぜそうしなかったのか、賢治がもう少し長生きしてなお改稿したら、そんなふうにした可能性があるのかどうか、もちろん想像するしかありません。
 因みに新版の最後は次のようになっています。

 ジョバンニはもういろいろなことで胸がいつぱいでなんにも云へずに博士〈これはブロカニロではなく、カムパネルラの父〉の前をはなれて早くお母さんに牛乳を持つて行つてお父さんの帰ることを知らせやうと思ふともう一目散に河原を街の方へ走りました。

 旧版の最後にある「何とも云へずかなしいやうな親しいやうな氣」のうち、「親しいような」は見当たらなくなります。また、「みんながカンパネルラだ」という言葉もなくなったので、カムパネルラの幻想と現実双方での消失は、ジョバンニにとってどんな象徴的な意味があるのか、よくわかりません。父の帰宅という嬉しいニュースはあるとはいえ、淋しい気分のほうが強く残ります。
 牛乳については、新版では、銀河の旅から目覚めたジョバンニは、川へ行く前にまず再び牛乳屋へ行って無事に手に入れますので、ブロカニロ博士から金貨をもらわなくても、おっかさんに牛乳を持って帰るという外出のミッションを果たすことはできます。それで、新版からは、「セロのやうな声」を含めて、ブロカニロ博士は跡形もなく消されます。
 思うに、旧版の編集者たちは、宮澤賢治の思想を直截に述べていると思えるこの超越的な人物がいなくなることは、どうも了解できなかったのでしょう(単純に、賢治の推敲がちゃんとわからなかっただけの可能性はもちろんありますが)。それで、問題の、カンパネルラの死に関する部分を、銀河鉄道に乗る前にもってきて、その後は第三次稿そのままで完成作としたのでしょう。
 結果として、ジョバンニは、
一度天気輪の丘で眠って→その後川へ行ってカムパネルラの死を知る→その後でなぜかまた丘に戻って→銀河鉄道に乗る、
ということになってしまいました。
 新版が出るまでは気づかなかったのですが、考えてみれば、これは物語としてはけっこう無様、とまでは言わなくても、スマートさには欠けます。賢治という人は、このへんの物語作者としての感覚も、ちゃんと備えていました。

 さて最後に、どうしても暗く淋しい気分が勝る新版、そのために人によっては、旧版のほうがいい、とも言われるこの改変は何に拠るのか。物語の構成をきちんと整えるため、というのは、上で暗示したことで、それは小さな要素ではありません。しかし、それだけではないとすると。
 夢幻譚である「風野又三郎」から「風の又三郎」への改編で、現実の子どもを生き生きと描きながら、その現象の底に潜む奥深い世界をも開示して見せることに成功した賢治が、ここでももっと現実に寄せた物語にしたくなったのでしょうか。それも考えられます。
 もう一つ。旧版では、ジョバンニはブルカニロ博士の実験動物のようです。それで最後に、友を喪う悲哀の意味も、(凡人にはよく理解できないながら)教わり、それが救いになるのです。新版には、ジョバンニを教え導いてくれる大人はもういません。彼はこれから独力で

夢の鐵道の中でなしに本當の世界の火やはげしい波の中を大股にまつすぐに歩いて行かなければいけない〈←旧版の、ブルカニロ博士の言葉〉

のです。その厳しさ。何人かの親友と、最愛の妹とし子を喪った賢治の覚悟と、裏腹の寂寥感が、ここには滲み出ているのかも知れません(これについては以前当ブログ記事「銀河鉄道に乗る前に」で省察を述べました)。
 いや、人間は、さほど厳しい境涯ではなくても、大なり小なり、みんなそうなんじゃないか、とも、今の私の頭の中にはぼんやり浮かびます。
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物語作者としての宮澤賢治 上(風の又三郎)

2024年03月22日 | 文学


メインテキスト:宮澤賢治「風の又三郎」
        同「風野又三郎」
        同「ざしき童子のはなし」
サブテキスト:天沢退二郎『謎解き・風の又三郎』(丸善ライブラリー平成3年)

 別役実さんは、宮澤賢治関連だと、NHK少年ドラマシリーズ「風の又三郎」(昭和51年、上図の引用元)や杉井ギサブロー監督のアニメ映画「銀河鉄道の夜」(昭和60年)のシナリオを手がけています。その彼が、短いエッセイの中で、あるとき「宮澤賢治ってハイカラなんだよね」とふと知人に洩らした話しを書いています。知人からは、怪訝な顔で、「だけど、それだけじゃないよ」と返された、と。そりゃあそうで、そんなことが言いたいわけではないよ、でも、じゃあ、何? というのは言い難い、というところで終わっています(『イーハトーボゆき軽便鉄道』記憶で引用)。

 私もこれは気にかかります。賢治自身は岩手を離れたことはほとんどないのに、明確にこの地を舞台にした童話はほとんどない。それどころか、日本でもない場合が多い。例えばジョバンニとかカンパネルラとかは、イタリア人名です。が、では「銀河鉄道の夜」の舞台はイタリアなのかといえば、どうもそうではない。ケンタウルス祭なんてお祭りは、実際にはどこにもない。
 賢治は、外国かぶれなんてものではないのはもちろんですが、身近な生活感覚を直接描くことは、いくつかの例外を除いて、あまり喜ばなかったようだ。「頭の中でこしらえた観念なんて、しょせんはニセモノだ」なんて信仰が強かった日本では、これ自体が珍しい。

 では、賢治の頭の中にあった場所は? 地名としては、何語ともわからない「イーハトーブ」(あるいはイーハトーボ、イーハトヴ)が有名です。その正体は、『イーハトヴ童話集 注文の多い料理店』(大正13年出版)の広告文の中で「実にこれは著者の心象中にこの様な状景(アリスの辿った鏡の国など)をもつて実在したドリームランドとしての日本岩手県である」と彼自身が打ち明けています。実在の岩手が基だが、そこを詩人の精神で転換した心象(イメージ)、しかし〈心象としては実在する〉世界なのだ、と。
 では、ジョバンニたちがいるのはイーハトーブか。銀河鉄道の旅だけならそう言えても、そこへ行くまでの学校やお店や川がある街は、どうも少し違うように感じます。このへん賢治の世界はあまりにも多様で多元的だ、と凡人の私には平凡そのもののことしか言えないのですが、その入口の一つかな、と思えるところを軽く述べてみます。

 例えば、民話という、ある地域の人々の集合無意識というか、むしろ意識上のかな、のイメージに対しても、このような転換は働くようなのです。

 「ざしき童子のはなし」は、賢治の生前に活字になった数少ない童話の一つ(尾形亀之助主催の雑誌『月曜』大正15年2月号に発表。童子はここでは「ぼっこ」と呼ばれます)で、岩手県に伝わる、しかしたぶん賢治のおかげもあって今や全国的に有名になった、童形の妖怪だか神だかのエピソードを四つ並べたものです。ごく短い作品ですが、不気味だったり悲しかったりユーモラスだったりと、賢治童話の様々なテイストを、端的に味わうことができます。

 因みに、賢治の故郷の花巻、現在の花巻市から山を一つ越すと遠野市になります。ここ出身の佐々木喜善(号は鏡石)が、故郷の民話を柳田國男に語ったものを柳田が文章にまとめた『遠野物語』(明治43年)は、現在民俗学の最初期の古典として知られています。この中にも座敷童子(あるいは、座敷童衆)の話は出てきますが、内容はほぼ同じ話でも、軽妙な語り口は賢治独自のものです。
 いや、軽妙と言っていいかどうかはわかりません。「遠野物語」のもの哀しい山人と、賢治童話のとぼけた味わいを備えた山男の違いのようなものがある、ということです。

【その後故郷に戻った佐々木喜善は、座敷童子関連の話を収拾する活動の一環として、賢治の童話に目をとめ、手紙を出し、そこから二人の交流が始まります。実際に宮澤家を訪れたのは昭和七年、賢治は既に病床にありましたが、その後数回会談しています。賢治は喜善より十歳年少で、喜善が信仰していた大本教を痛烈に批判したりしたのですが、喜善は「宮澤さんにはかなはない」「豪いですね、あの人は。全く豪いです」と言っていたそうで、彼は宮澤賢治のすごさを最も早いうちに認めた一人のようです。】

 話自体が際立って印象的なのは、前から二つ目のエピソードです。
 どこかの家のふるまい(お祝い事、でしょう)におよばれした子どもが十人、座敷で輪になってぐるぐる回って遊んでいた。それがいつのまにか十一人になっていた。「ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔がなく」、それでも数えるとどうしても十一人。その増えた一人がざしきぼつこだ、と大人に言われて、「けれどもたれがふえたのか、とにかくみんな、自分だけは、どうしてもざしきぼつこでないと、一生けん命眼を張つて、きちんとすわつてをりました。/こんなのがざしきぼつこです」。

 ちょっとみると、子どもの悪戯の微笑ましさがありそうで、じっくり考えるととても怖い話です。のみならず、生きている者が神隠しにあったり、死んだ者がこの世に甦ってくる『遠野物語』の世界とは違う種類の不気味さを感じます。
 だいたいの感じだと、異界、あるいは異界の者がこちらに入り込むやりかたが、「ハイカラ」なんです。だからこれは宮澤賢治のオリジナルか、原型はあっても、日本のものではないのではないか、と思えるのですが、確信はなく、とんだ勘違いかも知れません。先行話がここにある、と御存知の方は、教えてください。

 天沢退二郎さんは、このざしきぼつここそ、「風の又三郎」に登場する謎の少年の前身ではないか、という説を述べたことがあるそうです。あるいはそうかも知れません。

 天沢さんは、入沢康夫さんと共に(二人とも仏文学者で詩人という共通点がある)、宮澤賢治の生原稿を徹底的に精査し、それまで刊行されていたテキストは賢治が書き残したものとはかなり違う場合があることを発見し、その成果から筑摩書房の『校本宮澤賢治全集』を編んだ人です。特に「銀河鉄道の夜」の、主に構成上の大変更は、私が大学生の時に遭遇した最大の文学的事件でした。これについては後で書きます。
 「銀河鉄道の夜」と並ぶ二大傑作と呼ぶべき「風の又三郎」(しかしこの二作のテイストはずいぶん違います)についても、新事実を教えてもらいました。

 まず、大正13(1924)年頃に完成したらしい原稿があって、そこには明らかに題名として「風野又三郎」と記されていた。冒頭に「どっどど どどうど どどうど」で始まる歌(これにはシンコペーションを使った洋風のかっこいい曲をつけることを、賢治は希望していたそうです)が置かれ、「谷川の岸に小さな四角な学校がありました」(『四角の』は後に削除)と書き出される。夏休みが終わった九月一日、小学生たち(全学年の児童が同じ教室で学ぶ)が登校して外から教室の中を見ると、そこに奇妙な子どもが座っている。これが物語の導入部です。
 この後の部分は、昭和6~8年頃に大改訂された、というより、新たに書かれたとしか言いようのないものになりました。ただし題名は、原稿でも作品について記された各種のメモでも、一貫して「風野又三郎」なのですが、賢治の死後に出版された文圓堂版全集で初めて活字になった時、編集者の考えで「風の又三郎」とされ、以後それが踏襲されているのです。

 最初期の「風野又三郎」も、これはこれでなかなか魅力的ですので、「風の又三郎〈異稿〉」などとされてある程度は知られていたものが、『校本宮澤賢治全集』以来、「風野又三郎」の題で、各種の全集・童話集に収録されています。本稿でもこの名称に従います。

 「風野又三郎」をあと少したどりますと、このとき教室の中にぽつんと一人で座っていた子どもは「をかしな赤い髪」で、「変てこな鼠いろのマントを着て水晶かガラスか、とにかくきれいなすきとほつた沓をはいてゐました」と、実に怪しい。そして教室内に入った小学生が話しかけても何も応えないので、「外国人だな」とも言われます。ガラスの靴って、シンデレラのあれですかね? まあ、この子は、怪しいだけでなく、〈ハイカラ〉なんです。
 その後原稿が何枚か欠けていて、はっきりとはわからないのですが、どうもこの子どもは先生など、大人には見えないらしい。そして、いつの間にか教室から消えている。あれはなんだったのか? と子どもたちが飽きるほど考えていると、次の日の放課後、そのうちの二人が山で再び巡り会う。そして、「汝(うな)ぁ誰だ」と訊かれて、「風野又三郎」と応える。「ああ風の又三郎だ」とこちらは納得する。

 このやりとりから、〈風の又三郎〉はコロボックルとかドワーフとかホビットとか座敷童子とかいう種族あるいは一族名だと推察されます。実際、新潟から東北にかけて、風三郎・風の三郎・風の又三郎などと呼ばれる風の神を祀る信仰は広く認められるそうで。一方〈風野又三郎〉は、おそらくは大正期の、岩手県の小村に現れた童形の者の固有名なのでしょう。
 もっとも、彼の兄も父も叔父も風野又三郎だと言うのですが……。ともかく、神霊という特別な者が人間の姿で現れるのは特別なことなので、特別に特別を重ねたものが風野又三郎なのです。因みに〈風野又三郎〉の表記は自分で名乗る時だけで、あとは子どもたちの言葉でも地の文でも、ただの〈又三郎〉でなければ〈風の又三郎〉表記です。

 風野又三郎は、前述のように、学校に現れたときには何も言わず、次の日に喋り出したときには、名前も正体も少しも隠しません。そして九月九日までの間、自分が風として世界中で体験したことを生き生きと語ります。活動場所は地球全部なので、扮装は洋風だというわけかな、と少し思いますが、それは語られないまま、十日の風の強い日には村を去って行きます。
 村の子どもたちは話を聴くだけで、自分からは何も行動しません。これは弱点ではなく、そういう作品だというだけです。しかし、では、風野又三郎はなぜ、最初小学校の教室に現れて、子どもたちを驚かせたのかなあ、と思うと、うまい回答は見つかりません。

 そのこともあって、だと思いますが、新版の「風の又三郎」だと、焦点の童形の者の正体は曖昧にされ、格好と標準語を話すところが少し変わっていますが、村の子どもたちといっしょに遊びます。
 登場したときには、元の「風野又三郎」と同じく、夏休み明けの教室に一人でぽつんと座っているのですが、格好は、やはり赤毛で「変てこなねずみいろのだぶだぶの上着を着て、白い半ずぼんをはいて、それに赤い革の半靴」と、やはり怪しいけれど、マントはなくなり、また靴も変わっています。その理由は後でわかります。それでやっぱり話が通じず、「外国人だ」と言われ、やはりいつのまにかいなくなっている。

 しかし、その後、先生に連れられて再び姿を現し、お父さんの仕事の都合で「けふからみなさんのお友だちになる」高田三郎くんだ、と紹介される。だけでなく、いつの間にか「白いだぶだぶの麻服を着」た大人が教室の後にいて、学活が終わったとき先生に近づいて「何ぶんどうかよろしくおねがひいたします」と挨拶して、三郎を連れて帰ります。これは三郎のお父さんということで、つまりこの子は家庭まで含めて大人にも存在が認められている、普通の子どもなのです。
 それでも村の子どもたちの間では、少しの言い争いの後、あれは又三郎だということに一決し、以後ずっと「又三郎」と呼びます。当の本人はそう呼ばれても抗議もせず返事をしますが、それ以上自分が又三郎なのかそうでないかについては触れません。因みに地の文では〈三郎〉と表記され、〈風野又三郎〉表記はこちらでは一度も出てきません。

 この後三郎が、一見村の子どもたちと溶け込んで様々な活動するリアルな話が続きます。その筋の運びと描写の手腕は大したものです。しかし一番注目すべきなのは、普通の日常が、異界に接近し、重なる部分の手際のよさです。

 前半のヤマ場は、最初の日の二日後なので九月三日(「風野又三郎」では章題代わりに日付が記されているが、「風の又三郎」ではそれはすべて消えている)。馬が集められている場所へ子どもたちが入り、怖がる様子をからかわれた三郎が口惜しがって競馬をやろうと言い出す。馬は最初なかなか動かなかったが、走り出すと、そのうちの一頭が土手の切れているところから外へ逃げる。三郎と嘉助という少年がそれを追う。土手の向こうはすすきやたかあざみが生い茂って視界が悪く、崖にも接していて危険なので、立ち入りが禁じられている場所だった。嘉助はやがて三郎も馬も見失う。霧も出てきて帰り道がわからなくなり、嘉助はついに草の上の昏倒する。

 そんなことはみんなどこかの遠いできごとのやうでした。
 もう又三郎がすぐ目の前に足を投げだしてだまつて空を見あげてゐるのです。いつかいつものねずみいろの上着の上にガラスのマントを着てゐるのです。それから光るガラスの靴をはいてゐるのです。

(中略)
 又三郎は笑ひもしなければ物も言ひません。ただ小さなくちびるを強さうにきつと結んだまま黙つてそらを見てゐます。いきなり又三郎はひらつとそらへ飛びあがりました。ガラスのマントがギラギラ光りました。

 この前の文に「嘉助はとうとう草の中に倒れてねむつてしまひました」と明らかに書いてあるのに、この時は嘉助は目を覚ますでもなく、まるで以前からそうだったように、又三郎になった三郎がいて、ガラスのマントを光らせて空へ昇ります。いやあ、お洒落ですねえ。

 この時は一人の少年の幻視ですが、やがて村の子どもたち全員の前で、異界が一瞬、口を開きます。

 嘉助は三郎といっしょに救出されて、無事に家に帰ることができ、次の日から普通に皆といっしょに外で遊びます。三郎も、負けん気の強さは折々見せるのですが、まずます無事にその集団に参加しています。その話が続いて最後に、川での〈鬼ごっこ〉の場面になります。
 三郎が〈鬼〉になると、嘉助にからわかれたこともあって、むきになって村の子を川につかまえ、「三郎の髪の毛が赤くてばしやばしやしてゐるのに、あんまり長く水につかつてくちびるもすこし紫いろなので、子どもらはすつかりこわがつてしまひました」と、文字通り〈鬼〉に近い様子になる。すると……、ここは長くなりますがやはり引用しなければならないでしょう。

 そのうちに、いきなり上の野原のあたりで、ごろごろごろと雷が鳴り出しました。と思ふと、まるで山つなみのやうな音がして、一ぺんに夕立がやつて来ました。風までひゆうひゆう吹きだしました。
 淵の水には、大きなぶちぶちがたくさんできて、水だか石だかわからなくなつてしまひました。
 みんなは河原から着物をかかえて、ねむの木の下へ逃げこみました。すると三郎もなんだかはじめてこはくなつたと見えて、さいかちの木の下からどぼんと水へはいつてみんなのはうへ泳ぎだしました。
 すると、だれともなく、
「雨はざつこざつこ雨三郎、
 風はどつこどつこ又三郎。」と叫んだものがありました。
 みんなもすぐ声をそろへて叫びました。
「雨はざつこざつこ雨三郎、
 風はどつこどつこ又三郎。」
 三郎はまるであわてて、何かに足をひつぱられるやうにして淵からとびあがつて、一目散にみんなのところに走つて来て、がたがたふるへながら、
「いま叫んだのはおまへらだちかい。」とききました。
「そでない、そでない。」みんないつしよに叫びました。
 ぺ吉がまた一人出て来て、
「そでない。」と言ひました。
 三郎は気味悪そうに川のほうを見てゐましたが、色のあせたくちびるを、いつものやうにきつとかんで、「なんだい。」と言ひましたが、からだはやはりがくがくふるへてゐました。


 物語「風の又三郎」はあと少し続き、余韻を残す終わりを迎えますが、転校生高田三郎はもはやどんな姿でも村の子どもたちの前に姿を現すことはなく、お母さんがいるという北海道へ戻ると言われます。

 この物語にはいくつかの解釈が可能ですが、一応自分のを言っておきましょう。
 高田三郎はまず普通の子どもですが、村の子に「風の又三郎だ」と言われ、どういう気持ちでだか、その役を演じているうちに、いつか本物の異界を呼び寄せてしまったのです。
 それは山村の人々の無意識と、一番奥底で繋がっていて、時々「遠野物語」に収められた各種の民話として現出するものです。詩人はこれをさらに〈心象としての実在〉として、地方色を脱したスマートに、しかしやはり怖いものとして、描き出すことに成功しました。
 やっぱり平凡なんですが、戦前の日本の田舎にいて、よくこんなものが書けたなあ、と驚嘆するばかりです。
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小浜逸郎論ノート その3(共同態・上)

2024年03月01日 | 倫理


メインテキスト:小浜逸郎『倫理の起源』(ポット出版プラス令和元年)

 初期の著作『男はどこにいるのか』からいきなり晩年の大著に移るのは、最近これについての勉強会を開催したからです。それで久しぶりに『倫理の起源』を読み返して驚いたのは、書かれていることの九割方に同意できること。それなのに、初読(小浜ブログ「ことばの闘い」の連載記事)の時から感じてきた違和感はなんだったのか、あらためていぶかしく思えました。今回はこれにこだわってみます。

Ⅰ.善の在りどころ
 小浜の最大の意図は明瞭で、西洋の大哲学者たちが、倫理の根拠を、善のイデアだの我が内なる道徳律だの、やたらに高いところや深いところにおいてきたものを、身近で具体的な人間関係の場に降ろそうということである。
 その中でも、あまりに卑近に感じられるからだろう、従来まともにとりあげられることもなかった男女の性愛関係に重きを置こうとする指向は、独創的と呼ばれてよいかも知れない。
 それ以外だと、一般的に、人間にとって最も重要なのは具体的な共同性であるのは当然すぎる話だ。人間は人間から生まれるだけではなく、普通は家庭という最小の共同体内で、人間に育てられなければ人間にはなれない。共同性(他者とのかかわり)以前に個人はない。倫理(人としての正しいふるまい)もまた、人の間にいればこそ必要なのである。

「善」とは、そもそも共同存在としての人間の生活を離れたところに自立的に成り立つような「観念」ではない。それは人間生活がうまく回っていることやうまく回そうと努力していることを示す「現実」の表現である。(P.077)

 ならば「善」は、なんら特別なことではなく、家庭も社会もひっくるめた共同体が無事に経営されている、それを支える日々のルーティンの中の「ひそやかで慎ましいもの」(p.079)であるはずなのだ。しかし、しばしばそれでは足りないと考えられて、それは簡単に錯覚だとは言えない。
 すると、むしろ問いは、なぜことさらに、共同性以外の人倫の根源を、特に西洋の思想家たち(東洋にもなくはない)が、探してきたか、という形にすべきではないだろうか。
 小浜が置いてくれた里程標を辿って、この問いに自分なりに向き合おう。
【実は、つい最近まで本当に忘れていたのですが、以下の記事は以前「倫理の起点」として書いたものと内容はかなり重なります。ただ今回は、ここから自分なりの一歩進めたいという意欲だけははっきり自覚しましたので、それに沿う形で編み直しました。】

Ⅱ. 国家の在り方
 近代国家は現在のところ最大の共同体だが、大きすぎて、全体を完全に把握することは誰にもできない。日本ぐらいの国になれば、国内でも、一度も行ったことのない土地のほうが多いだろうし、大部分の人とは一度も会っていないだろう。ごく普通の意味で(エロス的に)愛せるようなものではなく、「そこに属する住民の福祉と安寧とをいかに確保するかという機能的・合理的な目的意識によって支えられている」(p.418)ものなのだ。
 具体的には国家はどのような体制であるべきなのか。一見両極端が挙げられている。

(1)生活を共有する身近な者たちがよりよい関係を築きながら強く生きるという理念を核心に置き、その理念が実現する限りにおいてのみ、国家への奉仕も承認する(p.466)

 国家は国民の安寧秩序を守ることを第一の目的とすべきだ、ということなら、私を含めて、反対する人は現在少数だろう。ただ上の言葉を、個々人の幸福のためなら国家なんてどうでもいいんだ、というふうに取るなら、戦後の進歩主義と同じだということになる。小浜はそうではなかった。

(2)もし公共体としての国家が、外敵から己れを守るために個人の命を捨てることを要求する場合には、進んでそれに従わなければならない。(p.390)

 これはスイスの憲法の規定らしく、小浜自身が明らかに賛成しているわけではないが、反対はしていない。
 この二つはどのように両立するのか。

個体生命倫理そのものはなるべく貫かれるべきであるし、個々の個体生命の限界を超えて維持されるべきであるが、しかし絶対的ではない。いずれ誰もが死ぬということは、すべての人がよく知っているので、(中略)この倫理をただ何よりも優先されるべきものとして前面に押し出せば済むのではなく、ケースによっては死んでも仕方がないという諦念をいつも傍らに引き寄せておく必要がある。(p.393)

 「ケース」は、〈自分の属する共同体を守るために必要なら〉というのがすぐに頭に浮かび、だから(2)のような要求も出てくる。しかしこの要求が正当であり、従うしかないとすれば、「よりよい関係を築きながら強く生きる」のほうは損なわれる。これはアポリア(解き難い矛盾)とするしかないと思う。

(前略)公共性という概念そのものは厳として存在する。それは、もともと私的であることと一対の関係にある概念だから、抽象的であることを免れないのである。つまり、この種の関係概念は、ある事態(たとえば家族生活)が他方の事態(たとえば国家活動)に比べてより私的かより公的かという相対的な位置関係で把握するほかない概念である。言い換えると、私的・公的という対概念は、互いに他方の「否定態」としてしか成立しない。 (p.395)

 それでも小浜は後のほうで、このアポリアを解くことはできるという考えを示した。そのモデルとして採り上げられたのが百田尚樹の小説「永遠の0」。これについては前にも述べたが、未読の人のために以下に粗筋を書いておく。
 主人公は宮部久蔵という大東亜戦争中の軍人であり、達人の域に達した戦闘機乗り。にもかかわらず、戦場にいて「生きて家族の元へ帰りたい」と公言して、物議をかもす。戦局が悪化し、彼が指導した若いパイロットたちが特攻によって散っていくことが重なるにつれて、罪の意識からの葛藤に追い詰められていく。最後には彼自身が特攻に志願するが、同時に進発する隊員の中にかつて宮部を庇おうとして無茶をした大石がいた。宮部は自分が乗る予定の機に不調があるのを知って、口実を作って大石の機と交換し、自分は無事(?)米艦に突撃して戦死する。大石は、エンジントラブルのために無人島に不時着し、帰還する。この場合に限って、特攻から生還することが認められていたのだ。そして終戦。大石は帰国し、宮部の妻と面会、やがてお互いに行為を抱くようになって結婚、彼女と子どもとを守る。宮部が家族とした約束は、このようにして、大石によって果たされた、とみなせる。
 感動的な話である。お伽話としては。「単に戦前・戦中をひたすら軍国主義が支配した悪の時代と見る左翼的な平和主義イデオロギー」と「その左翼イデオロギーの偏向を批判するために、日本の行った戦争のうちにことさら肯定的な部分を探し当てたり、失敗を認めまいとしたりする一部保守派の傾向」という「戦後における二つの対立する戦争史観の矛盾を止揚・克服している」(以上p.445)とも言えるかも知れない。
 しかし、現実には。上の梗概の、「最後には彼自身が特攻に志願する」以下の部分の、偶然の連なりを考えれば、宝籤の特賞に連続して当るほどの確率だから、こんなことの実現はほぼ不可能だな、と自然に納得されるのではないだろうか。
 お伽話そのものも、ありがちなご都合主義も軽蔑はしない。そこには人間の時代や場所、さらには根本的な人間の条件をも超えたいとする切ない願望の現われである。それが傲慢な駄法螺にはならないのは、語るほうと聞くほうに、「世の中、そう都合良くはいかないがな」という諦念があればこそだ。
 結局、公と私とは、「互いに他方の「否定態」としてしか成立しない」のであれば、(イギリスの王家の紋章に描かれた王冠を支えるライオンと一角獣のように)、決して完全には相容れず、争い続けるまさにそのことによってこの世界を保っているということだ。
 ならばまた、個々の場面では、どちらかがどちらかのために犠牲になることを完全になくす術はない。この場合、弱い立場の私・個人のほうが、犠牲になるべく強いられることが圧倒的に多いのもごく自然であろう。
 できることは、「生活を共有する身近な者たちがよりよい関係を築きながら強く生きる」ことこそ人間が望み得る最高の幸福であり、簡単に無視されたり毀損されることがないように心がけていく、ぐらいではないだろうか。これすら、けっこう難しいのだ。

Ⅲ. 自己を支えるもの
 戦後の日本は、「個人の命を捨てることを要求」することはないだろう。少なくとも、露骨には。(個人の)生命至上主義は、普段敢えて頭に上ることさえないぐらい我々の常識になっている。とりあえず、結構なことと思う。
 国民が命懸けで国のために尽くす場面の代表はなんといっても戦争、壮年男性であれば必ずそこに参加することを義務とする、つまり徴兵制は、現在の先進国ではたいてい、実質的になくなっている。しかし、軍隊はある。徴兵制に対して志願制で。日本でも(自衛隊は軍隊かそうでないか、なんぞという面倒な議論は置くとして)、以下のような誓約をしてから国防の任に就く。

事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえることを誓います。

 つまり、国家から与えられた責務を完遂するためには一身を擲つこと、するとかなりの確率で「身近な者たち」の「よりよい関係」を失うことまで要求できるのは、事前に「それでいい」と約束した人だけになる。最初に個人の決断が必要とされている。
 いや、最初ではない、そもそもある個人がそのような決断に至るまでには、彼の過去の共同性に由来する価値観や、今後の共同性をうまく保っていくための配慮(だいたい、日本国憲法第九条がある以上、日本は戦争なんかしない、だから、兵士として危険な目に合うなんてことは実際はないんだ、と予想するような配慮まで含めて)が、決定的な働きをしているはずだ、と小浜的な立場からは言うだろう。
 それに間違いはないのだが、いずれにしろ個人の意向はあり、それは無視できない、というのは民主主義国家の重要な前提、いやタテマエである。
 そうでなくても、人生には選択がつきものである。人がある共同態の中でけっこう不満を抱えていようと、まずます幸福にすごしていようとも。その選択の基準もまた、共同体から得た価値観にあるが、個別具体的な事態は決して繰り返されることはないのだから、結果は完全な予測は不可能であり、『人間は時間の中でたえず新たな「決断」と「行為」をなしていく存在』(p.304)であるからこそ、人は絶えず不安を抱えずにはいられない存在である。
 本書には、妻が難産で苦しみこのまま出産を続ければ母体も危険である、と言われた場合が例にでている(p.388)。このように直接に生死に関わる問題以外に、介護が必要になった老親を施設に入れるか在宅介護にするか、いつどの相手と結婚するか、転職するかしないか、家を建てるかマンション住まいを続けるか、などなど。
 念のために言うと、その問題が各個人及び家族にとってどれほど重い問題であるか、まで含めて、よそからは窺い知れない。自己責任なる言葉は好きではないが、何かを選んで、何かを捨て、何かを為すのは、個人であるしかない。
 ただ、小浜はこここで、それでもやはり、共同体への信頼感(これこれをやれば、家族や知り合いに認められる、少なくとも非難はされない、といった)がなければ、人は何事も決断し得ず、何事もなし得ない。つまり、人は不安であるからこそ、共同体内部の信頼が必要となる、としている。ここは非常に微妙なポイントなので、後で改めて考える。
 いずれにしても、現に決断して、その結果を受け止めねばならないのは個人である。選択がうまくいかなかったと感じられたときには、であることによって、そのを物心両面にわたって産み出した共同性が実現されている、という幸福な一体感は揺れて、単独者としての私が顔を出す。
 大前提として、小浜は、身近な人間関係、即ち彼の言うエロス的関係以外は、国家も、自由で自立的した個人も、すべて人間社会を保つためのフィクション(人工物・仕組み・約束事)だと考えていた。私もそう思う。しかしそれがフィクションである以上、〈共同主観〉ではあっても、根拠が見失われたら雲散霧消してしまいかねない。その危険は常にある。

それでは、「個人の自由意志の結果としての行為」という、近代道徳の図式の基礎にあるフィクション性には何の根拠もないのかといえば、そうではない。そこにはフィクションを構成せざるを得なかったそれなりの理由がある。また私たちは、人と交わりつつ生活していくうえで、このフィクションを設定せずにはすまない。
 それは、簡単に言えば、私たちが関係を編みながら生活しているとさまざまな摩擦葛藤が生まれ、やがてそれが高じて取り返しのつかない不幸な事件や解決不能な不祥事が引き起こされることがあるからである。つまり自由意志から行為へという因果関係は、じつは逆なので、まず不幸や不祥事が起きた時に私たちの感情が混乱し、自己喪失や共同性の崩壊の感覚に襲われるのだ。それを何とか収拾して未来に臨むために、私たちは、「ある個人の行為は、その人の自由で理性的な選択意志を原因としている」というフィクションを必要とするのである。
(P.193)

 問題は、不幸や不祥事だけではない。我々庶民が生涯のうちに何度か直面せざるを得ない選択もそうであることは前述の通り。だいたい、crisisの原義は「分岐点」なのだ。
 あらゆるものがそうであるように、共同性も時間の中にあり、変化する。親も自分も年老いるし、幸せな性愛関係を結んでいた相手もあるとき突然心変わりする。そこに肉親の扶養義務や、結婚という制度の枠を嵌めて、外側から、あまりに乱脈にしないようにするのは国家の役割だが、内面的に、既成の共同性を超えてを支えてくれる存在への冀求も生じる。そこにまた、自分を大きな存在と思いたい心性も相俟って、永遠に確固不動の超越者・絶対者の概念が、人間社会の中に広く長く見出されるようになる。
 我々東洋人、特に日本人は、伝統的に、「自己喪失や共同性の崩壊の感覚に襲われ」ることが少なかったか、あるいは、それをことさらに問題視する心の習慣に乏しかったせいで、絶対なる観念とは縁遠かった。それは幸せなことと言ってよい。なぜなら、そんな観念が必要と感じられる共同体は、けっこう不幸なものだろうから。
 しかし、今後もその幸運が続き、例えば、私というフィクションを支えるための絶対者などの大フィクション(苦しいときに頼む神であっても)の必要が実感されないかどうか、そこまではわからない。
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小浜逸郎論ノート その2(男女関係論)

2024年02月05日 | 倫理


メインテキスト:小浜逸郎『男はどこにいるのか』(草思社平成2年→ちくま文芸文庫平成7年→ポット出版平成19年)

 前回の続きですが、表記の著作の主題である男性論・男女関係論について、特に興味を惹かれたところを、できるだけ咀嚼して自分の言葉にして述べてみます。地の文の〈  〉は強調、引用文中のは引用者の註記です。

Ⅱ.フェミニズム。すべての男女関係を権力関係として糾弾する。
 旧来の〈男らしさ・女らしさ〉、いわゆるジェンダー・アイデンティティに疑問符をつきつけたのは何よりもフェミニズム及びそれに近い人々だった。
 現在ではX(旧ツイッター)に蟠踞する通称ツイフェミや、各種NPO法人での活動が目立つが、30年前には上野千鶴子や江原由美子らの少壮の学者がマスコミによくとりあげられていた。彼らは歴史学や精神医学、さらには文化人類学からさまざまな知見を動員した言説を展開したが、この思想が世に広まった論理と心理は昔も今も変わらず、以下のように要約できる。
 「男性がこの世を支配し、女性が屈従に甘んじている」(P.262)。これは理不尽でもあれば不当である(論理)。ムカつく(心理)。
 まるっきりのデタラメではない。そう言ってもいい現実はあったし、ある。そして、このような論理と心理の最大の強みは、少なからぬ人が、多くは女性が、日頃抱きがちなルサンチマンに訴えることができる点だ。「自分が職場や家庭でうまくいかないのは、男性(中心)社会だからだ」という具合に。
 さらにルサンチマンは被害者感情を与え、そこからして、多少(でもないが)の無理には目を塞いで、単純化した見方をゴリ押しすることをも正当化する。①旧来の社会悪は、戦争も圧政もすべて男がやったことだ、とか、②いつも男は加害者で女は被害者だったのがから、補償を求めても当然、とか。たぶんここで得られる快感は、合法的に得られる範囲では、他にほとんどない。
 しかし、と小浜は言う。「現在の男と女の枠組みは「作られ」「仕組まれた」ものだというようなことを何べん声高に繰り返してみたところで、それは相も変わらぬ潜在的な不満や怒りを一定の水準にまで組織化できるだけであって、そこから先には一歩も進むことができない」(P.27)。
 大切なのは、個々の理論や社会観の正しさ以上に、一人の女性、と男性、の幸福に、いかに、どれくらい資するか、なのだ。このような穏健な考えでさえも、攻撃専用武器に特化したフェミニズムからは、旧来の、男性社会の、社会悪を防衛しようとする動機から出ているように見えてしまう。小浜もまた、そのような糾弾を浴びることがあった。
 それに社会運動でもあるフェミニズムは、一歩を進めたとも言えるようである。運動や思想内部では細かい相違もあるが、大きなところでは、〈男らしさ・女らしさ〉の枠をできるだけ緩やかにすること、いわゆるジェンダー・フリーが、大きな目標となった。それがSDGs十七の目標の一つに入ったのは、この運動の成果ではある。また日本ではフェミニズムがウーマンリブと呼ばれていた頃から、女性の社会進出の促進が叫ばれ、昭和47年の男女雇用機会均等法という成果を出した。
 それを踏まえて、改めて考えよう。男らしさ・女らしさは、長い間広い範囲で通用してきた価値観であり、それには個人を束縛する要素も必ずあるだろう。とりわけ、女性を家庭に縛りつけ、いわゆる社会の指導層に入ることを妨げてきたことはあるだろう。そのことは女性にとって、不幸なことばかりだったのだろうか。
正確に言えば、男を地位や権力を手放さないできたのではなく、勝ち負けや成功失敗がはっきりせずにはおかない、地位や権力をめぐるゲームに巻き込まれてきたのであって、女はそのゲームから外されてきた」(P.37)のが実情なら、女性もまたそのゲームに加わることが必ずよいなんてどうして言えるのか。権力と呼ばれる強制力が、ずっと人間社会で必要とされてきた事情が、女性が中心の座を占めたところで変わるものではない。それは、政治や経済の指導層に女性が多く就くようになったヨーロッパの国々の様子を見ても明らかであろう。
 個々の女性の立場からしても。このようなゲームでは、確実に、勝者より敗者のほうが多くなる。職場で実績を出して能力が認められ、輝いているキャリア・ウーマンはいるだろうが、それは少数。まず大抵は、若い女性が嫌うくたびれたサラリーマンおっさんの女版になるしかない。女性も社会で働くのがごく当り前になった現在だから、そのことも明らかになったのである。
 いや、それすらもう古いのかも。「男に頼らない自立した女性」を持ち上げた雑誌記事などを信じて未婚を選んだ女性たちの、その後の嘆きを描いた松原惇子『クロワッサン症候群』が出たのは、昭和最後の、1988年である(文藝春秋社刊)。
 結局のところ、この点で従来の社会風習の問題点としては、意欲も能力もあるのに、女性だからという理由でしかるべき地位に就けない場合は、本人にとっても社会にとっても不幸なのだから、できるだけ改めたほうがよい、ということに尽きるのである。

Ⅲ.家庭の変貌。「継ぐもの」から「創るもの」へ。その中の男。
 近代日本の「家」の変貌について、歴史的なことは小浜はあまり言っていないので、私が別の機会に調べたことを下に略記する。
① 家(父)長制。明治31年完成の旧民法では、家長(法文では戸主)が家産のすべてを受け継ぎ、家人はその許可がなければ転居も結婚もできなかった。その代わり老親など、家人を扶養保護する義務も専一にあった。次代の戸主は、可能な限り長男が継いだ。
② 江戸時代では人口の八割以上を占める農民は、歩いて行ける範囲の田畑を耕して生計を立てた。同一地域に住居と仕事場がある人々は、協力し合うことも多い村落共同体の中で生活していた。明治以後、産業の発展と共に、大都市の企業に勤めるサラリーマンは、郊外に家を持ち、30分から1時間以上かけて通勤する「職住分離」が代表的な勤務形態になった。同時に、妻は、多くの場合、夫の補助としてであれ、農作業に従事することが当り前だった立場から、夫が仕事中に「家を守る」専業主婦に変わった。
 両方合わせると、家庭は縦軸(家名・家督)からのも横軸(地域社会)の共同体からも独立を強め、一国一城の如きものとなった。男と女が、お互いに相手を探して結婚して家族となり、子どもを産んで育てて、その子が成長したらまた新たな家族を創る。それがサラリーマンが勤労者の九割近くを占めるようになった現在の、ごく普通の家族の在り方であり、小浜が最大の価値を置いたものである。
 旧制度は男というよりは、共同体の最小単位、いわば細胞であると同時に生産拠点でもあった家(農家)を守るためのものであった。しかし、男性中心・優位を当然としてはいる。新民法では、この前提は建前上消えて、男性の優位は「金を稼いでくる」以外にはない。小浜はこの点では全く守旧派ではなく、こう言い切っている。「しかし、いわゆる男の権威なるものが実態のない前世紀の遺物にすぎないならば、この〈男は家庭内では無力であるという〉自己暴露は進めば進むほどよい」(P.249)。
 また地域社会は、よい時には、労働時の協力以上に、セーフティ・ネットとして有効に機能したこともあった。母が病気で寝込んだとき、隣家の奥さんが食事を作って持ってきてくれる、なんぞというのは、昭和29年生まれで農村育ちの私が実際に経験したことである。また、男女ともにいい歳まで独身でいると、近所の世話焼きおばさんがお見合い話を持ってきてくれることも普通にあった。すべての男女が独力で結婚相手を見つけられるわけではないので、おかげで助かった人もいる。今は結婚相談所があり、各種の配達サービスや福祉施設のサポートなどで、そういうのはいわばアウトソーシングされている。ただし、けっこう充実している場合でも、大きな家族のような地域社会が持っていた直接性や即応性にはどうしても欠ける。
 それこそが温かい人間同士の結びつきなのに、日本社会が豊かになり都会化した結果すっかり失われた、なんぞという保守的な人々にありがちな嘆きは、ものごとのせいぜい半面しか見ていない。これは「半ば戦後大衆自らが個人生活の快活さを求めて進んだ道」(P.258)であって、「「核家族」という生活思想の枠組みは、けっして後戻りもできず、また後戻りすることがよいともいえないような、強固な現実的基盤としての意味」(下線部は原文では傍点部。P.259)がある、と小浜は言う。近所中が昔からの知り合いで、雨戸以外は障子一枚で外と仕切られた家では、プライバシーなどないも同様、それは不快だ、と多くの人が思わなかったら、今のような世の中にはなっていないはずだ。
 その上で考えるべきこと。「家庭が無条件に憩いの場であってほしいというのは、男が飽くことなく抱いてきた幻想」(P.246)だが、その構築と維持には現在特有の難しさがある。そもそも「家を守る」というが、家名なんぞというのは江戸時代には名字もなかった庶民にはもともと関係ない話なのだし、「位牌を守る」というのは、お盆の時の民族大移動的な故郷への墓参の形でまだ残っているとは言え、日常的にはすっかり薄れている。今の家が具体的に守るべきものは、子ども以外にはない。だから、家庭の中心課題は子ども、その「教育」になった。
養育時間の自立と、平等社会というイデオロギーと、親の職能伝授による成長促進の喪失。〈中略〉この三条件はよく考えてみると、すべて子どもが成人するまでの時間をいったん白紙の状態に置き、そこへ他者主導型の「教育」という過程を介入させる予備条件の意味を持っている。」(P.253)地域共同体という目に見える中間項が崩壊した状態で、子どもの将来の社会的な価値を測ろうとすると(測らないわけにはいかない)、国家大の一般的な尺度によらざるを得ない。偏差値とか、有名大学への入学とか。それを示すのは、学校とそれに付随する教育産業などの外部機関だ。核家族、なんぞという言葉がもう使われなくなったほど当り前になった現在では、仕方のないなりゆきではある。
 それでも、子どもの扱いに迷ったとき、外部の「専門家」に頼るまでは仕方がないとしても、それに家庭の内部事情まですっかり委ねるのは「グロテスク」(P.256)でしかない。一般社会と家庭は本質的に違う場所だし、そうであるべきなのだ。
 また、社会的な評価基準は、夫を測るためにも当然使われる。収入とか、企業内の地位とか。妻子から見てもそれが男の価値のすべてになったりしたら、実質的に家庭崩壊である。
 すべてひっくるめて、家庭というエロス的共同体であるべき場所もまた、タダで手に入るものではないことが明らかになった。男もより主体的に家庭に関わることが求められる。それは必ずしも家事や育児をもっと分担しろという意味ではなく、「男はおざなりに用意された空虚な権威性や古い枠組みに安住せず、家庭内における存在性を人間的実力によって獲得すべき」(P.260)なのだ。
 ただ、こう言うだけなら、単なる説教にしか過ぎない。それはもちろん小浜も気づいていて、「好むところでもなければ、得意とするところでもない」が、「ある望ましい心構えを私たちが形成することは、現在の社会体制のなかにある問題点を少しでも鮮明にすることに寄与するかもしれないと考えて、あえて慣れないことを試みた」(以上P.261)と付け加えている。
 また、後の著作では、父親像を「家父長型」「人まかせ型」「友だち型」の三タイプに分け、「一つの前提」として自分がどういう傾向に陥りやすいか、少しでも意識してほしい、「その後は、自分及び自分の家族にとって一番いい父親像とはどういうものかということを、各自で模索していくしかない」(『中年男性論』筑摩書房平成6年P.93)としている。一般的に言えるのは、これがせいぜいなところなのは、了解できる。

Ⅳ.セクシャリティー(性の在り方)について
(1)「見るー見られる」関係

男は女との出会いの瞬間から、女の直接的な身体性を性的信号として受け取っているが、その信号は、もともとエロス的な関係の全体性にむかって開かれてゆく可能性を持っている」(P.55)。その場合まず肝心なのは、見る側と見られる側を固定しないことである。固定されたら、それは正に権力の関係になる。秘密の裡に徹底的に監視されていて、ゆえに完全に管理されているG.オーウェル「1984」を思い浮かべるとよい。その関係が「全体性にむかって開かれてゆく」ためには、〈見返す〉眼差しが必要となる。
 倫理学の点で小浜が最も影響を受けた和辻哲郎の言葉を、以前にも引用したが、もう一度引いておこう。

間柄において「ある者」を見るときには、この見られた者はそれ自身また見るという働きをする者である。だからある者を「見る」という志向作用が逆に見られた者から見返される。このことは「見る」という働きが単なる志向作用ではなくして間柄における働き合いであることを意味している。(和辻哲郎『人間の学としての倫理学』)

 これを男女関係で考えると、「女は性的主体として受動的であることによって能動的である。彼女は自分の心と肉体を他者のまなざしにさらすことを通じて自分の性的主体性を確認してゆく。「見られる」ことは「見せる」ことでもある。」(P.70)
 〈見られる〉身体を〈見せる〉ものとして主体的に引き受ける時、〈見る〉者としての(普通は)男を引き受けるかどうかの決定権も得る。レイプとセックスは違うが、(普通は)男との行為が暴力であるかエロスの関係であるかは、女性の思い次第である。
【もちろん「不同意性交」などで罪に問われるとしたら、一応でも客観的な基準が必要になるが、それはあくまで社会的関係の次元の話。男性は、女性に認めてもらえなかったら、性交はできても、エロス的関係にはなれない、ということ。】
 上記の〈確認〉は生涯のかなり早い段階で起きる。「女の子は、性の目覚めを生活に連続するものとして受けとめるが、男の子は、一回ごとの行為〈ここは「行為」ではなく「欲望」では?〉に促されるものとして受け止めてしまい、自分に起こっている問題を自分の未来や具体的な他者につなげていくことに困難を見出す。そういう原基的な世界経験の差異というものが、言語とか思考とかの領域において、世界への向き合い方についてについてのある〈男女別の〉特定のスタイルを無意識に選び取ることに作用していないはずはない」(P.150)。
【ちょっと疑問なのは、女性は性自認において完璧に安定してるというラルフ・R・グリーンソン(マリリン・モンローが最晩年に頼った精神科医で、彼女との数十時間に及ぶ面談テープを遺したことで有名)の言葉を小浜は引用し(P.218)、賛同しているが、本当だろうか。男からすると、12歳前後に初潮を迎えてから女性の身体になっていき、それと同時かその後に〈見られる〉性であることを引き受ける心の過程はかなりドラマチックではないかと想像される。それを経た(のか?)女性は、なるほど、男性よりずっと落ち着いて見えるけれど。】

(2)哲学男と物語女
 「人間〈特に男〉は社会的動物である」という自己認識がいかに偏ったものであろうと、男は、他人の目にも見える形で、つまり自分の外側で、何かを達成してナンボ、という価値観は少なくとも当分は変わらないだろう。
 セックスもまた、男にとっては達成すべき事業の面がある。「それ〈男性にとっての性行動〉は、道具を用いて「一仕事やってのける」というイメージにたいへん近い。それは短時間で終結してしまう一回ごとの物語であり、彼(の意識)は、その終わりを「やれやれ」といって離れることができる」(P.120)。つまり、男にとっての性行為は、勃起(スタンドバイ)→挿入(過程)→射精(完成)と順序立てて進む作業であって、終わったら「ご苦労様」と、誰も言ってくれないが、自分で自分に言いたくなるイベントである。
 これに対して女性は、「一般にからだのいろいろな部分をさわられることに非常に敏感であり、〈中略〉しかも女性器は身体の内部につながる器官であり、膣にペニスを挿入されるという受け身的な経験は、それが本当に快楽を引き起こすなら、全身への拡張を容易にし、ちょうど体内の痛みが心の注意を強く引きつけるように、しかしそれとは逆の意味で、心的なはたらきを喚起する度合いが強いように思われる」(小浜『エロス身体論』平凡社新書平成16年p.170)。
 つまり女性の性体験は〈全人的〉であり、その相手である(普通は)男の、ペニスではなく、〈人間性〉はより大きな問題にならざるを得ない。また自分が単なる女(≒女性器)として扱われることには大きな屈辱を感じる。
 さらに、「〈子どもを産むポテンシャルのために〉自分の人生について彼女はあるイメージをもってしまい、自由で不安定な状態にとどまることの可能性が自然と狭められる。授乳と養育に駆りたてられるのは、単に機能的な必要性の観点からそうなるのではなく、彼女の心身そのものが大きな方向性を受けとってしまうからそうなるのである。彼女は、自分が主人公である長い物語を与えられた」(P.122)
 赤ん坊は女性にとって文字通り血肉を分けた分身なので、母親はそれに〈とっての〉存在であることはごく自然に受け取られ、それとのともに生きていく物語もまた自然に受け入れることができる。
 言い換えると、「女はエロスの神に正式採用されるが、男はいつも臨時雇いにすぎない」(P.123)ので、「一人の女とエロス的な時間を共有しようとするとき、男は自分のエロス的なものの欠損部分を、倫理的なものによって補償するしかない。愛と呼ばれるものは、男にとって半ばは倫理であり、愛そうとする意思である。」(P.150)。ヤッちまって孕ませちまったら女とガキが生きていけるように責任取るしかないよな、というような倫理と意思。この哲学を実践する自分はカッコいいぜ、という、またしても誰も言ってくれないが、自分で思うのは自由で、そんな快楽が男には大事なのである。
 一応の結論。「男は社会、女は家庭という分業形態は〈中略〉なかなかに変わり硬い人間的性差を根拠とした、一つの支配的な現象形態であった」(P.143)「蓋然的なことしかいえないのだが、要するに、この〈男女の分業上の〉違いは、原初的な性差と、それに基づく歴史的分業過程との合作」(P.144)なので、そんなに容易には変わらないし、無理に変えるべきものでもない。だからといって女性の社会化(社会進出)が進むこと自体がいけないわけではないが、その場合でもこれを視野に入れていたほうが、男女双方とも幸せになりやすいだろう。
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