由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

国家意識について、小浜逸郎さんとの対話(その1)

2015年02月25日 | 倫理
メインテキスト:小浜逸郎・ことばの闘い



 小浜ブログに長期連載されてきた哲学的エッセイ「倫理の起源」がこのたび完結した(2月2日)。私はこの論考全体について云々できるほどの力量はないのだが、最後の頃取り上げられた『永遠の0』については同席した読書会でお話したこともあり、私なりに思うところもあったので、「倫理の起源 60」にコメントを入れさせていただいた。それについては小浜さんからコメント返しで「またお話ししましょう」と言われ、対話を継続するつもりでいたのだが、私の悪い癖で、また勝手気ままに言いたいことが膨らんできた。もはや長さだけでもコメント欄に載せるには相応しくない。愚考について、小浜さんにも、他の方々にも、多少は興味を持っていただけることを願って、ここに出す。一応小浜さんへの手紙形式で。
 
小浜様

 「永遠の0」と特攻隊については既に拙ブログ「道徳的な死のために その2(特攻について)」に書きましたが、小浜さんのおかげでいろいろ気づいたことがあります。まずそれから申し上げます。
 この作品のどこが一番優れているか。それは、日本式「美しい死」への嗜好にはっきりノンをつきつけたところではないでしょうか。
 これは読書会では、長谷川三千子氏に、『神やぶれたまはず』の時に申しあげましたが、それより以前、佐伯啓思氏に、確か人間学アカデミーでお会いしたときも。『国家についての考察』の最後のあたりで、「大君の辺にこそ死なめ」の精神は、遥か万葉の昔から特攻隊に至るまでわれわれ日本人の心の中に滔々と流れている、という意味のことが書かれていたのを思い出し、「戦争で美しく死ぬことを最優先に考えたら、勝てないじゃないですか」と(もっと稚拙な表現で)言ったのです。佐伯氏は寛大な人なので、破顔一笑して、「ああ言わないと特攻隊員を救済できないと思ったんだよ」とおっしゃってくれました。
 実際、不思議です。ラ・マルセイエーズに歌われている「進め 進め/汚れた血がわれらの畑を赤く染めるまで」の「血」は敵の血です。「海ゆかば」の「水漬く屍」「草蒸す屍」の「屍」は味方の死体です。「御馬前の死」こそもののふの本懐だとしても、死そのものを良しとして我先にバッタバッタと斃れていったら、しまいには誰が戦うの? 戦う人がいなくなったんじゃ、いくさは負けってことじゃないの? とは思はないのでしょうか?
 もっとも、ラ・マルセイエーズでもしまいのあたりでは、「生き残るよりは先人と棺をともにせんことを渇望する/われらは崇高なる誇りを抱き、先人の仇を討つかあるいは彼らの後を追うだろう」と、醜い生より輝かしい死をよしとする詞もあって、こういう心性はけっこう世界共通であることはわかりますが、それにしても日本のは度が過ぎている。そう感じる私は、日本人として何か欠けたところがあるのでしょうか?
 という疑問を抱いていた私にとって、宮部久蔵の登場は、たとえフィクションの世界であっても、百万の味方を得た思いがしました。彼は敵に無茶な攻撃を仕掛けた部下にこう説諭します。

「たとえ敵機を撃ち漏らしても、生き残ることが出来れば、また敵機を撃破する機会はある。しかし――」「一度でも墜とされれば、それでもうおしまいだ」「だから、とにかく生き延びることを第一に考えろ」

 まったく。私もそれが言いたかったんだよ。溜飲が下がるとはこのことです。「武士なら死に場所を心得よ」「犬死にはするな」と家来や若侍を叱咤する武将は、時代劇でなら見た覚えはあるのですが、近代戦争を扱った作品だと、フィクションでも実録でも、私は知りませんので。
 実際、このユニークな人物像からくるショックが、「永遠の0」の読者をまず惹きつける要因、パフォーマンスの世界のいわゆる「つかみ」になっていることは確かでしょう。

 とはいえ、「お国のことを思ったら、本当にそれでいいのか」との感想が出るのもわかります。だからこそ、今までそういう主人公は描かれなかった【私が知らない例があるなら、どうぞ皆様、ご教示下さい】のでしょう。
 これについては、小浜さんもご存知のW.H.さんが、拙ブログにコメントを寄せてくださり、「宮部の人物造形には無理がある」と指摘されました。兵隊が「生き延びることを第一に考え」ていたんでは軍隊はなりたたないだろう、と。同じ戦争であっても、戦場が違えば戦闘の激しさはまるで変わってくる。同じ戦場であっても、まっ先に突入する者の危険度は後に続く者よりずっと高いだろう。「生き延びること」が第一なら、危険な戦場は人任せにし、突撃の際にはなるべく後から行くようにするのではないか。兵隊がみんなそうだったら、戦争に勝つことなど思いもよらないじゃないか、ということで、これももっともだと思います。
【実は軍隊内部ではそういうこともあったらしいです。私の父は一年違いで召集を免れた、とよく言っていましたが、赤紙が来て戦地にひっぱられた人は、しばしば「軍隊は要領だ」と体験者から言われたとのことです。この言葉のうちには上に述べたようなことも含まれていたらしい。それが実行できたかどうかはわかりませんが、世の中には表もあれば裏もあるのが普通なので、それは軍隊という、表向き最高度の「無私」が要求される場でも、というよりむしろ、だからこそ、そうなのだろうな、と感じられます。が、これはまた別の話。】
 この問題を解決するために、宮部久蔵は、合理主義者ではあっても、エゴイストではない人物として造形されました。自分も育成の一端を担った若い兵士たちが、特攻に出撃した時でも、ほとんどなすところなく撃ち落されるのを見るのは耐え難い。つまり、「なんとしても生き残る」の「なんとしても」の中には、味方の誰かを犠牲にしても、は入らない。これで彼はどこから見ても非の打ちどころのない兵士となった。
 実際にこれほど立派な人がいたのか、は残念ながら疑問ですが、理念型としてはあり得ます。そして、兵士の理想としてよいでしょう。つまり、「惻隠の情と、職務への責任感を備えた合理主義者」こそ、そう呼ばれるに相応しい。
 これを描いたところに「永遠の0」の画期性がある。いかに新しかったかは、小浜さんがasreadの記事「団塊文芸批評家のずっこけ」で取り上げた加藤典洋氏の「解説 もうひとつの「0」」(島尾敏雄・吉田満『新編 特攻体験と戦後』所収)からわかります。彼は、日本軍の非合理と「戦争の犠牲者」が描かれているのなら「どちらかといえばむしろ反戦につながる」はずだと決めつけ、さらに反戦ならば南京大虐殺を否定したり憲法改正・日本の再軍備を唱えたりはしないはずだと決めて、作者の百田氏はそうではないので、彼は本作では、本心を隠して読者の感動を操ったのだと言う。
 こういう論もそんなに特殊ではない、と考えられるほどに、戦後日本の「反戦思想」のステレオタイプは強固なものです。旧軍の不合理ぶりを批判的に検証するのは、今後日本が再び戦争をするようになったら、もっとましな戦い方をして、少しでも犠牲を少なくするためにこそ有効ではないか、という発想は根底からない。そこを突いて、戦後の風潮に風穴を開けたという点で、百田氏の功績は大きなものがあります。「戦中的なイデオロギーと戦後的なイデオロギーとの妥協不可能な対立の止揚・克服」がそういう意味なら、小浜さんに対する異論はありません。

 しかしもちろん小浜さんの立論はそれに止まるものではありません。頭の整理のために、少し遡って、自分の言葉におきかえてみましょう。
 まず、主に「倫理の起源 54」などで開陳されている「男性の論理」対「女性のメンタリティー」の構図。これはつまり、「公私の別」ということで、「公」の担い手は男性、「私」のそれは女性、として、一般論としてはよいでしょう。そして、「私」(代表的なものは家庭)は所詮卑小で身勝手なものでしかしかないのだから、必ず「公」(最大にして代表的なものは国家)を優先させなければならない。いわゆる滅私奉公。戦前、特に戦中の日本は、戦争遂行の都合上、このタテマエが強く鼓吹された。また、「美しい死」の観念はその究極的な表現であるので、しばしば前面に押し出された。
 戦後も、「男性の論理」がなくなったわけではないですが、戦争が否定された結果、「公」は組織(代表的なのは会社)どまりになって、国家は意識の表面からはほとんど消えた。これが最大の違いです。そうなったのは、滅私奉公には大きな問題があったからです。論より証拠、この精神の下に動員されて戦われた大東亜戦争で、国民は失うもののみ大きく、何ら得るものはなかった。結果から見たら、国は国民に無用な犠牲を強いただけだった。そんなものなら、国家とはつまり悪ではないか。
 この感情は、論理的につめられないまま、主に進歩的文化人によって戦後日本に広く流布され、例えば前述の加藤典洋氏の感想のようなものが自然に出るまでになっているわけです。論理的に考えると、国家が悪だとすれば、地球上の陸地は南極などを除いてほぼ完全に国家で占められているのだから、そのうちのどこかがかつての日本のような悪さをしでかさないとは限らない。その対象に日本がならないという保証もまた、ない。ならば、その場合どう対処するか、視野に入れずにはすまないはずなのです。
 「いや、かつての日本以外にはそんなに悪い国はないんだよ。あっても、その悪が日本に向けられることはないんだよ」と感じさせるために、膨大な言論がこれまで積み上げられてきました。しかし、尖閣諸島問題などでこの思いも薄れてきた、だからと言って新たな方向もなかなか見出せないでいるのが、現在の状況です。

 このような不毛な思潮を是正し、日本にもっとましな国家意識を打ち立て、ひいてはもっとましな国家にしよう、というのが小浜さんの根本的な動機であるわけですね。この志は正当だし、立派なものだと認めます。
 そのためにはまず、滅私奉公は超克されねばならない。もともと無茶な話なんですから。「私」とは人間が具体的に生きて、愛や憎しみ、喜びや悲しみを体験する場所です。人倫が生まれてくる場所もまた、これ以外にはない。「私」に意味がないとしたら、「公」もまた無意味です。いや本当は、「公」は「私」に支えられて初めて存立するのです。
 そこへ「永遠の0」は、何よりも家族という「私」を大切にする軍人を描いた。この人物像によって「戦中的なイデオロギーと戦後的なイデオロギーとの妥協不可能な対立の止揚・克服」がなされたのだ、と小浜さんは言います。繰り返しますと、それに完全に反対というわけではないです。「命を大切にする軍人」には矛盾がないことは最初に申しました。また、「倫理の起源 61」に書かれている以下の軍事観・戦争観にも全く賛成です

大量の殺し合いが国家双方にとって良くないことは当たり前なので、戦争は最後の最後の手段であり、まずいかにしてそれを避けるかにこの合理的な努力を最大限注がなくてはならない。外交のみならず、軍事力の必要も経済力の必要も実はここにある。これらの潜在的な力の表現を背景に持たない外交は無力である。両者はパッケージとして初めて意味をもつのだ。
 しかしもしどうしても避けられずに戦争に突入してしまったら、いかにうまく勝つかということ、犠牲者をできるだけ少なくするために、いかに早く決着をつけるかということ、時には狡猾に立ち回っていかにうまく負けるかということに向けて、合理的精神を存分に発揮しなくてはならない。緻密な戦力分析、状況分析によって負けることがほぼ確実となった場合には、戦いは一刻も早くやめること、投了によるしばしの屈辱に耐える勇気を持つこと。


  我田引水を許してもらえるなら、私はかつて拙著『軟弱者の戦争論』でこれをもっと簡単な形でまとめました。軍隊という戦争の専門家集団がめざすべなのは、第一に戦争をできるだけ避けること。不幸にして始ってしまったら、一刻も早く終えることだ、と。これは実際には非常に難しくても、「窮極の目標」としてなら設定できると考えます。
 しかし、さらに進んで「生活を共有する身近な者たちがよりよい関係を築きながら強く生きるという理念を核心に置き、その理念が実現する限りにおいてのみ、国家への奉仕も承認するという考え方」となるとどうでしょうか。これは、「家族など、身近な者たちのためになるなら、国家のためにも戦おう」という意味だと考えてよろしいですか? もし違っていたら言っていただくとして、ここでは勝手に話をすすめさせていただきます。
 サム・ペキンパー監督の映画「わらの犬」のように、家庭を直接襲ってくる敵と戦ったり、黒澤明監督「七人の侍」のような小集落を防御する(もっともこのとき戦いの中心になる七人は、金で雇われた傭兵ですが)なら、守るべき対象は目の前にあって、迷う余地はありません。対して、近代国家はでかすぎる。これを一団として機能させようとしたら、人情とは別の原理が必要です。「公」と「私」の分裂は、まずこの単純な事実から生じたのでしょう。それを統一しようというわけですか?
 宮部久蔵にしても、最初からそれができる、と考えていたわけではないですよね。自分だけ生き残ることに耐えきれなくなり、家族との約束を破るのもやむなし、として特攻に志願したら、そこにかつて自分を救うために無茶をして死にかけた大石がいた。そして、自分が乗るはずだった飛行機の不調を見抜き、特攻でも機が故障した場合には帰還が許されていたので、これを大石のと取り換え、自分は特攻で死んで大石の命は救った。その大石が戦後宮部の妻子を救ったのだから、宮部は「たとえ死んでも帰る」という妻との約束を結果として守ったことになる。このすばらしいご都合主義(よくできたフィクションということですから、貶しているのではありません)によって、宮部が背負った「公」と「私」の分裂・相克は克服された、と見えるのです。
 「現実は決してそんなふうにうまくいかないよなあ」という感想は自然に湧いてくるでしょう。小浜さんの言う「考え方」が、これほどの偶然の連続によってしか実現しないなら、失礼ながら、また残念ながら、それはしょせん絵空事とすべきではないか、とも。
 では、現実の特攻隊員はどうだったのか。小浜さんもたくさん例示しておられるのですが、それに加えて私も、W.H.さんへのコメント返しで既に述べた、最初の特攻隊長とされる(異説あり)関行男大尉(死後二階級特進して中佐)に関する話を、森本忠夫 『特攻 外道の統率と人間の条件』から引いておきましょう。
 出撃の前夜、彼は部屋に訪ねてきた報道班員に次のように語ったそうです。

日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて。(中略)ぼくは天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(海軍用語でKAKAつまり奥さんのこと)のために行くんだ。命令とあらばやむをえない。日本が敗けたら、KAがアメ公に強姦されるかもしれない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだすばらしいだろう!

 こう言いながら、この後書かれたと思しき彼の両親への遺書には「今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以て君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐることはありません」と書かれ、奥さんのには「何もしてやる事も出来ず、散り行く事はお前に対して誠に済まぬと思つて居る。/何も云はずとも武人の妻の覚悟は十分出来て居る事と思ふ」(遺書は森史朗『敷島隊の五人 海軍大尉関行男の生涯』から引用)とあったそうです。
 死を前にした若者(関はこのとき満23歳)の心意をあれこれ詮索するのはそれ自体心ない行為だと思いますが、素直に感じたことだけを記します。彼は、「武人の本懐此れにすぐること」なしという一途な思いだけを抱いて、敵艦に突っ込んでいったのではないことは明らかでしょう。しかし、奥さんへの思いだけかと言うと、そうとも言い切れない。日本が降伏したらアメリカ軍が押し寄せてきて女はみんな強姦されるという、終戦直前に流布された噂をどの程度に信じていたかはわかりませんが、彼の言葉からは、不条理な作戦に殉じる自分の死を自分に納得させるべく、文字通り必死に思いをめぐらせている青年の姿が目に浮かんできます。
 その結果、彼の心の中では、国への誠忠と家族への愛の分裂は昇華され超克されたのか。森本忠夫はそう述べていますが、私には信じられない。土台、この二つは次元が違いすぎます。三島由紀夫のように、国家、ではなくて天皇への忠義をエロティックなものとした人もいるが、それはむしろ変態的というものでしょう(変態は嫌いではないですから、馬鹿にして言うのではありません)。普通人にとっては、「公」と「私」のレベルは永遠に重ならないまま、生きて死んでいくのが当り前ではないでしょうか。
 因みに、関行男の最愛の奥さんは、戦後まもなく再婚したそうです。なんとなく、坂口安吾「堕落論」が思い出されますが、それでも、彼が命をかけて守ろうとした女性が、(たぶん)幸せに暮らすことができたなら、けっこうな話だと思います。それでもこの話では感動的な小説にはならないですよね。関の犠牲が奥さんを救ったというわけではないですから。
 我々の大半はその程度に無力で、だからこそ、「かくありたい」願いを形にした物語がある。一方、「僕は最愛の妻のために戦い、死ぬんだ」という言葉だけでも、私は感動します。たとえそれが「強がり」と呼ばれるような種類のものであったとしても、精一杯運命に抗い、自己の一分(いちぶん)を樹てようとする人間の姿が、そこには刻まれているからです。

 関大尉のお母さんの話は、それとは別の、やり切れないものとしてあります。世間から、戦中は「軍神の母」と持ち上げられ、戦後は戦争が否定された結果疎まれて、行商などで貧しい生活を送り、最後は「せめて行男の墓を」と言い遺して五十五歳で亡くなったそうです。「国のために死ね」と要求するなら、最低限、遺族の生活の面倒ぐらい、ちゃんとみてあげられなくてどうするのか。しかしどの国家でも、こういうことはあまりきちんとはなされていないようですね。因みにこの場合の「国家」とは、我々一人一人のことです。
 こういうことは改めよう、もっと国民一人一人の生活の場を大切にする国家にしよう、というだけでしたら、反対する理由など何もありません。国家はできるだけ、個々の国民に犠牲を強いないほうがよい。そして、戦後の日本は、いくらも問題はあるにもせよ、一応そういう目標を掲げてきたとしてよいでしょう。実際に私は、戦後日本をそんなに悪い国だとは思っておりません。戦争放棄を唱えて、人類究極の課題の一つである暴力の管理からは目を背けてきた以外には。
 違和はもう少し別のところにあるようです。
 かつて小浜さんは、拙ブログの記事「道徳的な死のために その3(テロについて)」にコメントを寄せて下さり、次のようにおっしゃいました。「倫理的な問いを、特定の状況に置かれた個人の「心理」としてとらえるのではなく、どうすれば限界状況的な境遇に多くの人を追い込まずに済むか、というように視線変更する必要がある」。
 ここで言われている「倫理的な問い」とは、直接には「革命が正しいとすれば、そのための罪、例えば殺人は許されるのか」というものです。「国家の存続が正しいとすれば、そのための国民の犠牲は許されるのか」という問いにすぐに転換できることは明らかでしょう。ここで小浜さんは、こんな問いには一定の答えがないのは明らかなのだから、個人に背負わせないようにするのが大事だ、とおっしゃったわけです。
 実際問題として、平和日本の一般庶民には、「公」と「私」の分裂・対立が鋭く意識される機会などめったにあるものではなく、それは「限界状況」であって、一般化するのは不適当だ、と感じられるのは自然です。マイケル・サンデルが有名にした「思考実験」というのも、要するにお遊びに過ぎないのではいか、とも。
 対して私は、これらは人間の根源的な不完全さが鮮明に浮かび上がった状況であり、それならばモデルケースとしての普遍性はあると考える者です。我々は一人では生きられないので、まず家族を、それから共同体を作った。しかしその共同体の運営も、とても完璧になどできない。我々は、事態の深刻さの度合いは別にして、この矛盾からくる軋轢にいつ直面しないとも限らない。日本が今、そして今後、どれほどよい国になろうとも、不幸の種が根絶やしにされることはないと思いますから。

 最後はやや舌足らずになりましたが、もう既に長くなりすぎましたので、今回はこのへんでやめます。
 非礼にわたる言い方になったのはお詫びします。また、私の愚昧のせいでとんだ誤解をしているなら、ご指摘下さい。それを含めて、ご迷惑でなければ、何かの形でお返事をいただけると幸甚です。
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自動人形はチェスマスターを夢見るか

2014年01月26日 | 倫理
メインテキスト:小林秀雄「考へるヒント」(『小林秀雄全集第十二巻 考へるヒント』新潮社昭和43年)

サブテキスト:保木邦仁・渡辺明『ボナンザVS勝負能――最強将棋ソフトは人間を超えるか』(角川oneテーマ21、平成19年)
トム・スタンデージ 服部桂訳『謎のチェス指し人形「ターク」』(NTT出版平成23年)

 エドガー・アラン・ポーのエッセイ「メルツェルの将棋差し」は小林秀雄訳によって、雑誌『新青年』昭和5年2月増刊号に発表された(訳者名の記載なし)。ボードレールによる仏訳からの重訳で、遺漏が多く、さらに小林が原文にはない文章まで付け加えている。これを後に大岡昇平が補綴した訳が、現在『ポオ小説全集Ⅰ』(創元推理文庫昭和49年初版、62年第30版)に収録されている。
 以上はたぶん大岡の手になる創元推理文庫版の註による。そんなことより新たに訳したほうがいいのではないかな、とも思えるが、何しろ「文学の神様」が初期に書き残した文章ではある。「読者は重要な部分において、小林の初期の論文と同じ調子を認める」のは貴重と考えられるので、このようにした、と(たぶん)大岡は註記している。ポーの原文はここで読める。


 話は通称「ターク」(The Turk、トルコ人の意味)と呼ばれる、18世紀後半から19世紀前半にかけて有名だったチェスを指すオートマトン(自動人形)に関するものである。1770年にハンガリーの発明家ヴォルフガング・フォン・ケンベレンによって当時のハンガリー女王マリア・テレジアに献呈されたもので、19世紀初頭のケンベレンの死後、メトロノームの発明者として知られている(実際は違うらしい)ヨハン・ネボムク・メルツェルが買い取った。ケンベレンもメルツェンもトルコ人を持ってヨーロッパやアメリカ各地を巡業し、大評判を得た。
 巡業の中身は、トルコ人の扮装をしたからくり人形(薄いチェス版が嵌め込まれたテーブルが取り付けられている)と、人間との対戦である。非常に強かったが、全勝ではなく、たまには負けることもあった。ナポレオン・ポナパルトやベンジャミン・フランクリンとも対戦し、多くの人がその秘密の解明に挑んだ。
 1827年、ボルチモアでの公開時、二人の少年が、テーブル下のキャビネット部から人間が出てくるのを目撃した。この出来事は『ボルチモア・ガゼット』紙の記事となり、真相の核心はこの時点で明らかになっていた。タークとは、チェスを指す機械ではなく、チェスを指す人間を、からくり機械(大部分が単なる見せかけ)の中に巧妙に隠すための仕掛けなのだった。しかしこの記事も、タークに関する真偽さまざまな憶測(文書だけでもかなりあった)の中に埋もれて、やがて忘れられた。
 1836年、当時27歳のポーは、何回かタークの興行に足を運び、その観察に基づいた推論を発表した。これが「メルツェルの将棋差し」である。さすがに推理小説の元祖になった人だけのことはある鮮やかな推理が展開されており、タークのからくりを見抜いている(人間の隠れ場所を人形の内部だとする、などの誤りはあるが)。もっとも、実地の観察以前に、ポウには確固とした信念があり、これを証明することが文章を書いた根本的な動機であることは、最初に明らかにされている。
 それは、原理的に、機械にはチェスは指せない、ということである。この時代既に初期型のコンピューターというべき計算機はあり、例えばチャールズ・バベッジが発明した階差式計算機は、天文や航海に関する複雑な計算に役立てられていた。それでも、機械には、ある一定の答えがでるような問題にしか対応できないはずである。チェスのように、対手がいて、その出方によって局面が千変万化し、最善手(チェスの勝負に勝つために一番いいという意味で)もその都度変わるようなゲームには、すべてを通した「一定の答え」がそもそもなくて、ならば計算そのものが成り立たず、ならば機械の出番はない、はずだ。
 ポーのこの見解が正しいとすれば、対手の駒を取ったら、それを自分の駒として使える分チェスより複雑な日本の将棋では、なおさらそうだろう。が、小林秀雄は、自分勝手な訳を発表してから約30年後に、あるところで将棋を指すコンピューターの話を聞き、なんとなく不快な気持になって、銀座でたまたま会った中谷宇吉郎に尋ねてみることにする。

「仕切りが縦に三つしかない小さな盤で、君と僕とで歩一枚づつ置いて勝負をしたらどういふ事になる」と先づ中谷先生が言ふ。/「先手必敗さ」/「仕切りをもう一つ殖やして四つにしたら……」/「先手必勝だ」/「それ、見ろ。将棋の世界は人間同士の約束に過ぎない。(中略)問題は約束の数になる。普通の将棋のやうに、約束の数を無暗に殖やせば、約束の筋が読み切れなくなるのは当り前だ」/「自業自得だな」/「自業自得だ。科学者は、さういふ世界は御免かうむる事にしてるんだ」/「御免かうむらない事にしてくれよ」/「どうしろと言ふのだ」/「将棋の神様同士で差してみたら、と言ふんだよ。(中略)神様なら読み切れる筈だ」/「そりや、駒のコンビネーションの数は一定だから、さういふ筈だが、いくら神様だつて、計算しようとなれば、何億年かゝるかわからない」/「何億年かゝらうが、一向構はぬ」/「そんなら、結果は出るさ。無意味な結果が出る筈だ」/「無意味な結果とは、勝負を無意味にする結果といふ意味だな」/「無論さうだ」/「ともかく、先手必勝であるのか、後手必勝であるのか、それとも千日手になるのか、どれかになる事は判明する筈だな」/「さういふ筈だ」

 中谷との対話はもう少し続き、それに基づき、「常識」に関する小林一流の、飛躍したご教説が展開される。ここでは、「無意味」の意味についてもう少しこだわりたい。
 機械がチェスや将棋を差す(指す)かと言えば、そんなことはない。機械自体がそんな「勝負」に「意味」を見出すわけはないのだ。この点でポウが唱え、小林も賛同した「常識」は、いかにも正しい。ただ、勝負事ではなく、一つのパズルとして捉えるなら、コンピューターも相当深くこの内部に入り込める。この観点がポーにはなかった。
 中谷の説明を言い換えると、こうなる。盤上でのチェスや将棋の駒の動かし方は、有限である。将棋だと、ゲーム開始の段階で30通り(30手)の動かし方がある。これはもちろん対手も同じ。ゲームが進むにつれて動かし方(及び相手の駒を取った場合にはどこへ張るかを含めて)も増えて、平均してだいたい一回に80通り、可能な手がある。二歩など、ルール上決められている禁じ手を除いて、すべての可能な駒の動かし方を尽くしていって、勝負がつくいわゆる「詰み」の状態か、千日手の引き分け状態まで進めたとしよう。それがゲームとしての最終形なわけだが、それだけでも何通りあるものか、見当もつかない。
【因みに、9手目に先手が後手を詰めるのが最少手順。将棋を多少でも知っている人は簡単に見つけられる。しかし、ルール上可能な手をランダムに指していってこの局面になる確率は、ちゃんと計算したわけではないが、だいたい2兆分の1以下である。人間が先手後手に分かれて指した場合には、二人で協力してやった場合以外にはあり得ない】

【相入玉となり、何手やっても勝負がつかない、これが将棋の「最終解答」だということもあり得る。これは今、考慮外とする】。
 コンピューターが上のすべての手順を記憶できるものならば、対手の手に応じた、自分が勝つための最善手を必ず見つけられる道理なので、最強となる。しかし記憶以前に、すべての可能な手はいくつあるのか。現在のプロの対局で終わるまでの平均指し手が120ぐらいとして80の120乗ほどの手数を検討すればいいんじゃないだろうか(実際はもっと多いだろうが)。と、軽く言ったが、これは宇宙に存在する原子の数より多いのだそうで、1秒に400万手以上読めるコンピューターを使っても、計算し終える頃には地球は無くなっているだろう。
 人間の身の丈で考えたら、そんなのは無限と同じで、計算不能と考えてよい。してみると、ポウは決してまちがっていたわけではない。また中谷のように、人間が遊びとして考え出したそんな煩雑なものは相手にしない、という態度も、充分に道理に適っている。私としては逆に、全部で9×9=81に区切った盤面と20×2=40の駒数で、宇宙全体を扱うに相応しい、いわゆる天文学的な数の変化のあるものを、大昔に発明した(もちろん、一度にできたのではなく、インドでできた原型に各地で長い年月の洗練が加えられ、チェスや将棋の形になった)人間という存在に、畏敬の念が持たれてしまう。
【因みに囲碁は、全可能手は361!前後だろうから、それよりさらにずっと多い。】

 が、話はこれでは終わらない。人間とコンピューターとの対戦は、チェスでも将棋でも、かなり前から始まっている。可能な限りのすべての手順を解明できなくても、人間が将棋を指すときの思考と似たものを、アルゴリズムとして組むことができればよい。
 具体的には、まず、10万以上の棋譜を覚え、いわゆる定石ができている場合には、それに従う。対局が始まってだいたい20数手目ぐらいに、定石から外れるので、それ以後は局面の有利不利を独自に判定していく。この場合も既存の棋譜の局面をモデル化して、その分析結果に基づいて点数化を行うのである。具体的には、自分の駒全部(盤上の駒+持ち駒)とその配置に点数をつけて(例えば、金が持ち駒なら5点、玉傍にあった場合は4点、相手陣地にあったら3点、という具合)、総合点を出し、対手側も同じように計算し、その差引計算をする。次に、以後により有利な局面を作るための最善手を見つける。先程のしらみつぶしの全検索をやったとして、(平均80手というのは、王手がかかった場合の可能手は平均10手前後になるからで、切迫した局面なら普通100手ぐらいであるとして)3手先なら100万手ほど、最近のコンピューターなら1秒以内に読める。5手先なら100億になるけれど、3手先の時点で、大多数の手はとうてい局面を有利にできないことはすぐに判定できるだろうから、それは捨てて、この点から見て可能性がある手順を、10分なら10分の制限時間でできるだけ先まで読み込み、最も見込みが高いと計算できた手を選ぶ。
 最大の問題は、すぐにわかるだろうが、有利不利の判定法である。私が例示したような単純なものではとうていないだろうが、それでも完璧にできているとは思えない。しかし、不完全な基準であっても定数があるなら、それを元に計算して、コンピューターは一定の答えを出す。実際の対局で手が進んで、選ばれた手が悪手であったとわかれば、コンピューターはそれを覚えるから、似たような局面で同じような手を選ぶ可能性は減る。また判定基準も修正される。こういうのは、人間の棋士の場合と同じだろう。ただ、すべての手順を試みたわけではない以上は、最強にはなり得ない。
 かくなるわけで、最強のコンピューターはまだできていない。人間と対局して、負ける場合もある。ただし、チェスの世界では人間はまずコンピューターに勝てなくなっているそうで、早晩将棋もそうなる可能性は高いようだ。

 この状況を踏まえると、ポーが唱え、小林秀雄が当然とした「常識」はどうなるだろうか。
 実は、何も変わらないのである。コンピューターは勝負をしているわけではなく、計算をしているのだから。

将棋は、不完全な機械の姿を決して現してはゐない。熟慮断行といふ人間的な活動の純粋な型を現してゐる。

 なぜそう言えるのか。チェス/将棋には未だに完全な解(≒必勝手順)は見つかっていない。だからこそ、やってみる値打ちが、つまり意味が、ある。結局は不完全でしかない、とわかっている考慮を重ねて、その限りでの結末(勝敗)に達するために。この不合理さこそ、人間的なのである。
 もちろん人間は、「チェス/将棋を指さない」を選ぶこともできる。逆に言うと、チェス/将棋というゲームが成立するためには、一手づつ交互に指す、などのルールに従うことが二人の人間の間で合意されていなくてはならない。さらに言えば、遊戯だけではなく、活動の全般が、例えば「言語ゲーム」(ヴィトゲンシュタイン)と呼ばれ得るような、「人間同士の約束」の一種であるのが、人間という、過剰な「意識」を持つ生物の特質であろう。
 さて、そこで機械の話に自分なりの(不完全な)決着をつけておこう。
 まず、人間が何かをする上では、先読みの推論(こうすれば、ああなる)が必ず伴う。その部分だけなら、余計なことを考えないだけでも、コンピューターのほうがずっと速く、確実にやってのけるだろう。だから機械のほうが優れている、なんて話ではない。
 この場合の「意味」とはこうだ。完全な解答はわからないことを当然の前提としてやるので、将棋は、いつも新たに、それに取り組む人間の、個人的な創造的な行為になり得る。即ち、主体がそこにある。それこそ幻想だ、と言われてしまえば、そうではないと証明するのは難しいけれど。そして機械は、そんな曖昧な領域には最初から無縁なものとして作られた。
 第二に、人間同士の約束事であったはずのものが、人間以外にも拡張する、となると、我々は方向感覚がくるわされるような、不安と興味を覚える。計算をする犬と同様に、チェスを指す機械が、見世物として人気を集めたのは、そういうわけである。
 フィリップ・K・ディックらのSF作家が描いてきたように、異星人でもアンドロイドでも、人間とは微妙だが決定的に違う知性と文明を備えた存在が現れたら、最もスリリングな形で「人間とは何か」が問題になるだろうが、幸か不幸か、それはまだない。
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権力はどんな味がするか その3(ピグマリオンのジレンマ)

2014年01月06日 | 倫理
メインテキスト:バーナード・ショー 小田島恒志訳『ピグマリオン』(光文社古典新訳文庫平成25年)

サブテキスト:大江麻里子『マイ・フェア・レディーズ バーナード・ショーの飼い慣らされないヒロインたち』(慧文社平成17年)

 

 昨年12月1日に新国立劇場で宮田慶子演出の「ピグマリオン」を見た。台本になっている小田島恒志訳の文庫本もそのとき買った。
 主演の石原さとみは、米国の映画サイト「TC Candler」が選ぶ「世界で最も美しい顔100人」で、今年日本人トップの32位になったそうで、さぞかし綺麗だったのだろうが、何しろ一番安い席で、舞台から遠かったので、顔はよく見えなかった(学生時分からの癖で、観劇に5,000円以上は出したくないのだ)。その限りで言うと、石原は、前半の花売り娘のときは、とても生き生きしていてよかった。しかし、後半レディになると、声が上ずった感じになるのがどうも耳について、あまり楽しめなかった。こちらのほうが彼女がTVや映画で演じている役柄に近いというのに(NHKドラマ「坂の上の雲」の、秋山真之夫人など)、舞台経験の浅い女優はこうなりがちなのはなぜだろう。
 という感想の他には、この戯曲の類まれなる性格が、あらためてよくわかったのが収穫だった。男女関係の一典型が描かれている。ただし、性愛の要素は一切含まずに。これが難しいのは、本作品がその後たどった変遷からもわかる。それについては後述。
 1912年に完成したオリジナル作品に即して言うと、題名にもなっている神話は、一種の(変態的な)恋愛譚ではある。そのヒーローとヒロインだからこそ、作者は敢えて惚れた腫れたを禁じたのではないだろうか。そう考える根拠の一つは、最初から「ロマンス」と銘打たれているところだ。だってこのバーナード・ショーという人、「ロマンチックではないロマンスを見せてやろう」てな思いつきが好きなんでしょう?【もっとも後出の「後日談」には、現実にはありそうもない話だと思われるだろうから、「お話」の意味もあるロマンスと名を付けたのだ、と言っている】。ショーはまた、クレオパトラの色香に迷ったわけではないシーザーを描いているし(「シーザーとクレオパトラ」1898年)、女嫌いのドン・ファン(「人と超人」1902~03年)も創造したし。女に強いマッチョはけっこう好きなんではないかな。
 色恋の代わりに劇の動力となるもの、それは教育である。ここにもまた、駆け引きもあれば嘘もある。当事者たちが社会的に定められたある合意点(結婚とか、卒業とか)に達しない場合には、最も厄介な感情の縺れをもたらす。ドラマチックになり得る要素は、いずれにも劣らず含まれていると言える。

 それでも、「ピグマリオン」の教育は、最初は、自動車教習所での運転のようなものに、教える-教わる範囲が限定されており、危険はごく少ないはずだった。
 ヘンリー・ヒギンズは音声学者である。各地の方言を研究して、話しているのを少し聞いただけで、その人がどこ出身か、直ちに当てるのが特技だった。また、自分でもけっこう乱暴な言葉も使うのに、「正しい、美しい英語」の使徒をもって自任しており、それを人に教えるのを主な収入源としていた。
 さてここに街頭で花を売る娘イライザは、ロンドン下層の、コックニーと呼ばれる「汚い」英語の話し手だった。綺麗な言葉が話せさえすれば、もっといいポジション、例えば大きな花屋の店員になれるのではないかと考え、ヒギンズの授業料も知らず、彼のところへ教わりにやって来る。ヒギンズが、自分が三カ月も訓練すれば、「お前みたいな腐ったキャベツ」でも、大使館の園遊会でも公爵夫人として通用するようにしてみせる、と豪語したからだ。友人のピカリング大佐が、もしヒギンズが言った通りのことを実際にやり遂げたら、授業料は全部自分が出す、という一種の賭けを申し出るので、ヒギンズはイライザを手元に置いて、正統的なキングズ・イングリシュを叩き込むことにする。
 しかし、最大の困難がやがて見えてくる。話し言葉は、話し手の実際の生活、そこでの日常の意識と密接不可分に結びついている。発音だけ矯正しても、生活意識が元のままで、花売り娘が公爵夫人になることはやはりできないのだ。だからこそ言葉は社会階層の標識になるのだし、また「正しい、美しい言葉」を学ぶ需要も出て来る。逆に言うと、言葉を完璧にしようと思えば、意識そのものの改造が必要になる(俳優やプロの詐欺師など、特殊な意識の持ち主はここでは度外視する)。ここでヒギンズの、イライザへの教育は、「人間教育」と呼ばれることもある、危険な領域にまで踏み込むことになる。
 この種の危険は、教育の試みが失敗した時より成功した時のほうが露わになる。ヒギンズ、よりもこの点ではピカリングの存在が大きかったのだ、と後にイライザは言うのだが、ともかく彼らは成功した。大使館の園遊会で、誰もイライザの出自を見抜けなかった、どころか、皆が彼女の優美さに魅了された。これは即ち彼女の成功ではないか? そうかも知れないが、そこでイライザは何を得たのか。彼女は何になったのか? 公爵夫人の皮を被った花売り娘か。いや、上流のマナー(≒意識)まで身につけた彼女は、もう泥の中へはもどれない。ヒギンズは賭けに勝って、自分の技量に満足すればそれでいいので、イライザがこの後どうなるかなどおよそ無関心だ。それは無責任ではないか?
 これは一見不当な非難である。ヒギンズはイライザが望んだことを、望み以上に完全にやり遂げた。それ以外には何も約束しなかったし、後でほのめかすこともなかった。彼女と同居(≠同衾)して、秘書兼女中のように使ったので、いなくなれば、部屋履き用のスリッパがどこにあるのかわからない、とか、今日の予定がわからない、とか、実際上の不便が生じる。また彼女に馴染んでもいる。しかし、それ以上の関係になることは拒む。彼にとって理想の女性は母親(ヒギンズ夫人、と表記される)で、つまりマザコン男であり、「それに、女はみんなバカだから」、劇の最初から最後まで独身主義者である。
 だから、彼がイライザから非難されるいわれはないのだが、ただ一つ、次のように言うことはできる。

誰にでも習って身につけられること(着こなしとか、正しい喋り方とか)は別にして、本当の意味でレディと花売り娘の違いは、どう振る舞うかではなく、どう扱われるかにあるのです。ヒギンズ先生にとっては私はいつまでも花売り娘のままです。先生はいつも私のことを花売り娘として扱われ、これからもずっとそうでしょう。でも、あなた【ピカリング大佐】の前では私はレディでいられるのです。いつだってそのように扱って下さり、これからもそうでしょうから。

 これは劇中最も有名なせりふであり、ショー一流の言い方で、人間世界の一般的な真実の半面を言い当ててはいるが、劇の中では、ヒギンズの唯一の、最大の過ちを告発するものになっている。イライザがいつまでも花売り娘でしかないのは、ヒギンズがそう扱うからだ、と。それでは彼の教育は完成しないはずではないのか?
 ジレンマは双方にある。イライザはレディに相応しい言葉遣いや所作を身に付けたが、生活の基盤はなく、ヒギンズとピカリングに頼るしかない。一方ヒギンズからすれば、イライザをレディとして扱うとは、特別な心遣いが必要な存在を日常生活の中で抱えることを意味する。それはいやだ、できない、となると、ヒギンズとイライザはいつまでも教師-生徒関係を続けるしかない。即ち、教育は終わらず、イライザは決して一人前にはなれない。ヒギンズはそれを望んでいるのか? いや、別に、と彼は言うのだが、実際は同じことになる。
 教育は支配-被支配の、つまり権力関係の一形態である。ヒギンズは、イライザがよい生徒であったからなおさら、生徒に恵まれた多くの教師がそうであるように、それに無自覚であった。そこでごく自然に、なんら後ろめたい気持ちもなく、イライザに対して支配者として振る舞う。イライザから「残酷な暴君」と言われても、全くピンとこない。イライザがこの関係を脱しようと思えば、師であるヒギンズの思いとは無関係に、一方的に「卒業」するしかない。
 それには、彼女に恋焦がれているフレディと結婚して、ヒギンズの元を去ればよい。しかし、フレディは、家柄はいいが、全く無力で無能力な青年だから、生計の道は別に考えなければならない。ヒギンズやピカリングから援助を仰がないとすれば、どうするか。イライザがヒギンズから学んだことを今度は人に教えればよいのだ。音声学、というか、発音の矯正を。そう思いついたイライザを、意外にもヒギンズは歓迎する。「けど、泣きごとを言うよりずっといい」と。「五分前には、君は僕の首にぶら下がる挽き臼みたいに重荷だった。今は、君は頼れる存在だ、味方の軍艦だ。君と僕とピカリングは、もう、ただの二人の男と一人のバカ娘じゃない、三人の独身連合だ」。
 結婚する、と言っているのに「独身連合」とはヘンだが、要するに独立した人間同士の繋がりが保てる、と言っているのだ。それが男であっても女であっても、他人に頼られることは鬱陶しくてたまらない男だから。しかし彼には本当のことはわかっていない。以下はショーが最初に書いたこの劇の結末である。これはネット上でも、ペンギン版でも、一番簡単に手に入るテキストなのに、たぶん現在まで訳されておらず、拙訳による本邦初訳(^^;)ということになる。

ヒギンズ:(前略)ああ、ところでイライザ、ハムとスティルトン・チーズを注文しといてくれないか。それと、トナカイの手袋の八号と、僕の新しいスーツに合うネクタイをイール・アンド・ビンマンズで買っておいてくれ。色は君に任せる。(彼の陽気で、無頓着で、精力的な声は、彼がどうしようもない人間であることを示している)
イライザ:(軽蔑を込めて)自分で買いなさい。(彼女はすばやく出て行く)
ヒギンズ夫人:あなたはあの娘を甘やかしてきたようね。でも、心配することはないわ。私が手袋とネクタイを買ってあげるから。
ヒギンズ:(快活に)ああ、ご心配なく。彼女がやっぱりちゃんと買ってくれますから。さよなら。
(二人はキスをする。ヒギンズ夫人は走って出て行く。ヒギンズは一人残って、ポケットの中の小銭をじゃらじゃらさせ、ほくそ笑んで、自分にひどく満足した様子で寛ぐ)


 イライザは戻る、とヒギンズは確信している。しかし、たぶん、今日明日はともかく、いつかは彼女は出て行くだろう。ヒギンズとイライザの関係がいつまでも続くことはあり得ない。男女関係は、教育とは、似たところはあっても、決定的に別な何かだし、そうあらねばならない。これがショーの確信だったようだ。
 つまり、「ピグマリオン」という題名自体が反語なのである。ギリシャ神話の名工は、自分の手で自分の理想の女ガラテア像を作り上げ、神様がそれに生命を与えてくださった。めでたし、めでたし、になるわけないよ、と少なくとも我々男は、経験上(でしょ?)わかっている場合が多いのではないかな。
 まあ妄想としてなら、例えば、光源氏が幼い紫の上を手元に置いて教育して、自分好みの女に仕立ててから、妻にする、というようなことは、やってみたくはあるけれど。やれるだけの権力や財力はない以外に、自分が一から十まですべて知っている存在と毎日暮らしても、面白くもなんともないのではないだろうか。それに、そうなれば、彼女の一から十まで、男の意思でそうなったことになり、彼女のすべてが男の責任だということになる。そんなものを負いきれるほど立派な男はめったにいない。ヒギンズもまた、大多数のほうに属するのだ。
 「源氏物語」とか、ジーン・ウェブスター「あしながおじさん」(たまたま、「ピグマリオン」が完成した1912年の発表)もその一種だと私には思えるが、これらの物語の中でピグマリオン的試みがうまくいくのは、やっぱり作者が女性で、男性を理想化できるからではないだろうか。以前に取り上げた田山花袋「蒲団」とか、谷崎潤一郎「痴人の愛」だと、男の師匠の、女弟子への性愛感情がモロに入り込んできてグダグダになり、教育は失敗して、女は男たちの支配を逃れる。だからこそ、彼らにとってのファム・ファタル(宿命の女)になる。こちらのほうがどうしてもリアリティがある。

 最後に学問的に、というほどではないが、今回調べられた限りでの、戯曲「ピグマリオン」が辿った変遷の跡を略記しておこう。美しい女がなかなか男の思うようにはならないように、この作品が魅力的であればあるほど、原作者ショーの思い通りにはならなかった。年代順に言うと、
(1)1914年、ロンドン、ヒズ・マジェスティズ劇場初演。ヒーローのヘンリー・ヒギンズはここの劇場主であるハーバート・B・ツリー卿が、ヒロインのイライザは当時五十歳目前のパトリック・キャンベルが演じた。バーナード・ショーは最初からキャンベルに当てて書き、彼女が年齢の点でためらったのを説き伏せることはできたが、その後事故にあったり結婚したりとキャンベル側の事情が重なって、1912年に完成していたこの戯曲の英語での上演が二年遅れたのだった(13年にドイツ語訳がウィーンで、先に上演されている)。
 幕が上がってみると、キャンベル以上にショーを悩ませたのはツリーだった。彼は「そちらのほうが絶対にウケる」からと、ラブ・ロマンスとして演じることに固執した。終幕で去っていくイライザに取り縋ったり、窓からイライザに花束を投げたり。業を煮やしたショーは、16年に出た版本に「後日談」を書いて載せる(今度の光文社文庫版には全文翻訳収録されている)。
 これによると、イライザはフレディと結婚し、ピカリングの援助で花屋を始めるのだ。するとピカリングとは、したがってヒギンズとも、縁が切れなくなるが、彼女の最初の望みに即したものではある。ただ、そうなってもイライザの生活が順風満帆というわけにはいかないことまで、ショーは書いている。それでも、ヒギンズとは結婚しない。
 作者曰く、イライザが、自分にとって最も強力な存在であるヒギンズと、自分の思い通りになるフレディと、どちらとも結婚できるとしたら、どちらを選ぶか、そんなことは明らかだ。それは「女性の本能だ」。「彫像のガラテアがみずからの創造主であるピグマリオンを本当に好きになることは決してない。彼女にとっては彼はあまりにも神のごとき存在であり、到底付き合えるものではないのである」。
 まあ、そうかも知れないな、とまたしても私は体験的に納得する。ただ残念なことに、現実的な話というのは、話としてはあんまり面白くないのである。

 
(2)1938年、映画化される。監督はアンソニー・アスキスとレスリー・ハワード。後者は「風とともに去りぬ」(ヴィクター・フレミング監督、1939年)のアシュレー役で日本でも有名な俳優で、本作のヒーローを演じてもいる。ヒロイン役はウェンディ・ヒラー。原作者バーナード・ショーは脚本にも関わり、アカデミー脚本賞まで得ている。
 ところが、大江麻里子によると、脚本についてとんでもないことが起こった。プロデューサーのガブリエル・パスカルは、この後45年の「シーザーとクレオパトラ」映画化の際には監督もしている、ショーと親交のある人物だったが、ショーが用意した結末がどうしても気に入らず、他人に書き直させた。ショーはそのことを、映画完成後の試写会まで知らなかったという。
 大江の本に「資料」として挙げられているショーのオリジナル台本によると、イライザとフレディがヒギンズ夫人とともに(急に成金になったイライザの父の結婚式に出席するために)車で去ったのち、一人残ったヒギンズの想像として、フレディとイライザが自分たちの花屋で仲睦まじく働くシーンが描かれて、終わりになる。
 実際の映画では、一人自分の研究所に戻ったヒギンズは、録音機に収めた、彼らが知り染めた頃のイライザの声を聞く。そこへもどって来たイライザが、肉声で、録音された言葉を繰り返す。「ちゃんと顔も手も洗っちきたんだ、出掛ける前(めえ)に」(小田島訳による)。ヒギンズは答える。「一体全体スリッパはどこだ、イライザ?」。
 ショー以外の誰かが書いたこの結末(他の脚本家として、W.P.リップスコームとセシル・ルイスの名がクレジットされている)は、その後、舞台のミュージカルからミュージカル映画へと引き継がれる。なぜイライザがヒギンズの元へ戻ってくるのか、映画ではこれ以前に特に伏線はない。逆にこの結末によってのみ、ヒギンズがイライザを愛していたことが観客には印象づけられる。考えてみると、このような終わり方は、その唐突さ(≒意外な結末)まで含めて、特に当時の映画の常套ではある。
 ショーは自分のあずかり知らぬところで起きたこの改変に抵抗しなかったのか? 現在の私にわかっているのは、1941年のペンギン版で、彼は大幅な改定をこの作品に加えていることだ(ピーター・カシラー「イライザ・ドゥリトルはどうなったか」に依る)。因みに、倉橋健による訳(『バーナード・ショー名作集』白水社昭和41年刊所収)も、今回の小田島恒志訳も、これを底本にしている。
 オリジナルの「ピグマリオン」は、典型的な近代劇の様式で、五幕の各幕は、すべて同一場面で展開する。41年版では、第二幕の、イライザがヒギンズを訪ねてくる場面に、イライザがピアス夫人(ヒギンズの家政婦)によって風呂に入れられる場面が挿入される。また、第四幕と五幕の間には、ヒギンズの元を飛び出したイライザが、ストーカーよろしくイライザの姿を一目でも見たいと外に立っていたフレディといっしょに、深夜のロンドンを徘徊する場面が描かれる。非常に映画的、と言うより、映画のシーンがそのまま取り入れられたのである。
 が、ラストは違う。ハムとか手袋の注文をするヒギンズのせりふまではオリジナルと同じで、次がこうなっている。小田島訳で引用する。

イライザ:(軽蔑するように)羊毛の裏地がついているのがよければ、八号じゃ小さすぎます。ネクタイは新しいのが三本、洗面台の引き出しに入れたまま、忘れておいでです。ピカリング大佐はスティルトンよりグロスター・チーズの一級品がお好きです、あなたには違いはお分かりにならないでしょうけど。ハムは、忘れないように今朝ピアスさんに電話で念を押しときました。私がいなくなったら、どうなさるおつもりでしょう。想像できませんわ。(さっと出ていく)
ミセス・ヒギンズ:ヘンリー、あの子のこと、ちょっと甘やかしたようね。あの子はピカリング大佐の方が好きなようだからいいけど、そうでなければあなたとあの子がうまくやっていけるか心配になるところですよ。
ヒギンズ:ピカリング! 何言ってるんですか! あいつはフレディと結婚するんですよ。はっ! はっ! フレディですよ! フレディ!! はっ、はっ、はっ、はっ、はっ!!!!!
(彼が大声で笑う中、芝居は終わる)


 
 イライザは、少なくとも家政婦としてなら、どれほど高貴な家庭でも通用するほどのマナーを身につけていること、ヒギンズのほうは、愚かしさが減り、イライザが彼の元を去ることを正確に予測する、これを示すのが原作者の最後の希望だった。しかし50年のショーの死後、作品はさらなる変貌を遂げていく。

(3)1956年、「マイ・フェア・レディ」と改題されてブロードウェイミュージカルになる。アラン・ジェイ・ラーナー脚色及び作詞、フレデリック・ロー作曲、モス・ハート演出、ジュリー・アンドリュース主演。
 ラーナーは映画から多くの要素を取り入れている。有名なミュージカル・ナンバーThe rain in Spain stays mainly in the plainは、[ei]の発音がコックニーだと[ai]になるのを矯正するための例文として、映画で初めて出て来る。フレディはオリジナルでは、第一幕と第三幕にだけ出て、イライザにうっとりするだけの文字通りのデクノボーでしかないが、映画版では出番と存在感を増し、ミュージカルではこれまた有名なナンバーOn the street where you live(君の住む街角)をソロで歌うまでになる。
 結末については前述の通り。映画にはなかった伏線としては、イライザの歌うまたまた有名なI could have danced all night(踊り明かそう)が、イライザのヒギンズへの恋心を直截に示している。
 1958年シグネット・クラシックス版の『ピグマリオン マイ・フェア・レディ』に付したノートで、ラーナーは言っている。「私は後日談は省いた。なぜなら、その中でショーは、イライザがどんなふうにヒギンズとではなくフレディといっしょになるか説明しているのだが、――ショーと神よ、許したまえ――私には彼が正しいとは確信できないからである

(4)1964年、映画「マイ・フェア・レディ」。上記の舞台の映画化で、歌はもちろん同じ、脚本のラーナーやヒーロー役のレックス・ハリソンなど、舞台から引き続き参加している。ジョージ・キューカー監督。八つのオスカーを得た名画であり、ハリウッド製ミュージカル映画の代表作。イライザと言えば本作のオードリー・ヘプバーンを思い浮かべる人が最も多いだろう。ショーが気づかなかったか、気づいても等閑視したのは、この作品のシンデレラ物語としての側面であったことは、圧倒的に華やかなオードリーの姿を見ていると、よく納得される。
 また、戯曲「ピグマリオン」と言えば、「マイ・フェア・レディ」の原作、と説明されることが普通になった。かくして、イライザとヒギンズは、原作者の望まぬ形で人々のイメージの中に残り、一方「ピグマリオン」は、それとは別次元で、劇文学として生き続けている。皮肉屋ショーとしては、もって瞑すべきではないだろうか。
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道徳的な死のために その3(テロについて)

2013年12月10日 | 倫理
メインテキスト:アルベール・カミュ 佐藤朔・白井浩司訳『反抗的人間』(原著は1951年刊、『新潮世界文学49 カミュⅡ』昭和44年刊より。なお、この叢書には白井健三郎訳「正義の人々 五幕」も収録されている)

サブテキスト:サヴィンコフ 川崎浹訳『テロリスト群像』上・下巻(原著は1926年刊。岩波現代文庫平成19年)

 「死とモラル」に因んで、アルベール・カミュが1950年前後に提起した問題に、若い頃興味と疑問を持ったことを思い出しましたので、今回改めて考えました。

 主著『反抗的人間』に集成されているものを一番大きく言うと、「目的は手段をどの程度まで正当化するか」であり、小さく言うと、「革命が正しいとして、そのためなら人を殺してもいいのか」になり、具体的にはいわゆるスターリニズム(この言葉が出てくるわけではない)の超克が目指されている、と思う。ニキータ・フルシチョフによるスターリン批判は1956年だから、カミュの先見性は讃えられるべきだろう。
 加えてこの時代は、日本でもそうだが、下手に人類初の共産主義国家ソビエトを批判すると、「お前は右翼だ、ホシュハンドーだ」とのレッテルを貼られ、知識人稼業が危うくなる状況があり、現にカミュもJ・P・サルトルとの有名な論争の果てに、このフランス知識界の大物と絶縁し、結果孤立することになった。それでもやった勇気という点でも、大したもんです。
 ただ、こういうのはやはり昔の話。現在でもなお意義が見出せるのは、カミュが戯曲「正義の人々」(49年作。同年上演)の題材とした、20世紀初頭の、ロシアのテロリストをめぐる議論だろう。
 『反抗的人間』中「第三章 歴史的反抗 心優しき殺害者たち」で改めて取り上げられているのを見ると、これはスターリニズムの解毒剤の有力候補として挙げられているようだ。つまり、非人道的な圧政に抗して巻き起こった革命が、成功してみると、前と同じか、さらにもっとひどい圧政が敷かれる。ロシアに限らず、フランス革命でも中国共産主義革命でも見られたこの悪夢の連鎖を断ち切る思想的な力が、他ならぬロシア革命(そのうちでも、いわゆる第一革命)の最初期を担い、すぐに消えていった革命家たちのうちに見出せるのではないか。こうまとめてもいい熱い思いが、カミュにはあった。

 このテロリストである革命家とは、社会革命党(頭文字から取ったエス・エルの略称で知られる)、その中の戦闘団に属した闘士たちのことを指す。レーニンがいた社会民主労働党(1903年にボルシェヴィキとメンシェヴィキに分裂した)はこの頃は機関誌を通じた言論・啓蒙活動を主としていたのに対して、彼らはロシア皇帝(ツアー)政府要人の暗殺という実力行使に出た。
 9.11以前はこういうのがテロの典型だと考えられていた。平成12(2000)年に出た『政治学事典』(弘文堂)では、次のように定義されている。

テロリズムとは殺人を通して、政敵を抑制・無力化・抹殺しようとする行動である。抑圧的な政府に対して集団的行動がなかなか思うように取れない時に、政府指導者個人を暗殺することで、レジーム自体を震動させ、崩壊させるきっかけをつくろうと企図することをテロリズムという。19世紀のロシアの無政府主義者のなかにはこのようなテロ戦術が有効であると考えて行動するものがいた。

 実際は19世紀後半は、ロシアに限らずヨーロッパ各地でアナーキストによるテロが激発した時代ではあるが、『反抗的人間』を読むと、ロシアの一人の人間と一つの組織がとりわけ印象に残るのは事実である。
 セルゲイ・ネチャーエフは、ゲルツェンやバクーニンほど有名ではないが、「革命のためにはすべてが許される」と初めて明確に言った人物だった。ただ実際にやったのは一連の詐欺と言ってよい。与太話によって作り上げた組織を防衛するためとして、仲間の一人を殺したことが最大の事績で、これはドストエフスキー「悪霊」の題材となった。
 一方、1881年に皇帝アレクサンドル2世を暗殺したことで有名な「人民の意思」派は、その後の強力な弾圧によって84年には壊滅している。その路線を継ぐことを期して1903年に戦闘団を組織したのがエス・エルである。最も過激な行動にも関わらず、彼らはネチャーエフ風のマキャベリズムとは無縁だった。あるいは、できるだけ無縁であろうとした。そこにカミュは多大な共感を寄せている。
 「殺害とは、必然的ではあるが、許せないもののように彼らには見えたのである」。なぜ必然かと言えば、それ以外にロシア帝政をくつがえす有効な手段はないからであり、しかしそれでもなお殺人は悪だとする。この二つを両立させる方法、というよりはむしろ、矛盾を抱えたままでなすべきことをするための方法を、彼らは示したのだ、と。
 具体的に言えば、人を殺した以上、自分も死ぬべきだ、と考えて、その通りに実行した、そこにポイントがある。

彼らが必然的だと思ったものを正当化することが不可能だと知ってから、彼らは、自己の身体を正当化に賭けられはしまいか、自分たちを犠牲に供することによって自己に課された質問に答えられはしまいか、と想像したのである。彼らにとって、彼らまでの他のすべての反抗者と同じく、殺人と自殺は同一のものであった。それゆえに一つのいのちは、もう一つの命によって支払われるわけであり、これら二つの犠牲から、ある価値が約束されるのである。カリャーエフも、ヴノロフスキーも、他の人たちも、いのちが等価値であることを信じている。それゆえ彼らは、思想のために殺人を犯すとはいえ、いかなる思想も人命以上とは考えなかった。正確に言えば彼らは、思想の高さに生きているのだ。彼らは、思想のために死ぬほど思想を肉体化しているので、最期には思想を正当化してしまう。

 すんなり納得できますか? 私は大学生時分から、ひっかかるものを感じている。
 命は等価である、というのは、法律の次元ではいかにもそうだろうし、そうでなければならない。しかし、実存(実際の生活上の意識、ぐらいの意味です)に即した場合、命はかけがえがない、これは「欠けた場合には替えはない」を意味する。つまり、交換はきかない。ならば、他人の死を自分の死で「支払」う、なんぞという取引が、根本的に成り立つはずはないのである。
 実はカミュもそれは理解していた。死後に公刊されたカイエ(ノート)の、1947年頃のに、次のような文が見つかる。「一つの生命は、一つの生命によって支払われる。その理屈は誤ってはいるが、尊重すべきだ。(奪われた一つの生命は、与えられた一つの生命に値しない)」(高畠正明訳『反抗の論理 カミュの手帖―2』新潮文庫)。原文は見ていないのだが、この訳の( )内は、どうもまちがいであるように思う。今回ネット上で見つけた西川宏人の講演録「アルベール・カミュ『正義の人びと』―愛と正義と死と―」ではこの部分は、(奪われる生命は差し出される生命と相殺できるものではない)とあって、これならピンとくるし、私も全く同感である。
 しかしそうであればなおのこと、上の『反抗的人間』の、熱烈な讃美はどういうことなのであろう。ぎりぎり言えるのは、彼らが殺人は罪であることは、どこまでも自覚して、ごまかそうとはしなかった、という点で、その後のレーニン、スターリン、毛沢東、などの成功した革命家、成功のために何人も殺した指導者たちよりはずっとましであった、ということだろう。何しろ本当に命がかかっていて、自己犠牲の精神もそこにはあるのだから、偉大、と言ってもいいかも知れない。
 もっとも、途中で死んでしまうのなら、彼らの手では革命は決して成就できない。それと引き換えに革命の純粋な夢を保ち続ける、子供っぽい類の偉大さであることはもう一面の真実ではある。だから、彼らが「思想の高さに生きて」、「思想を正当化」し得たのかどうか、今の私にはよくわからない。
 
 ただし、カミュも直接参考にしたサヴィンコフの回想録『テロリスト群像』によると、エス・エル戦闘団のメンバーも、多くは十死零生を期して事に臨んだわけではない。暗殺方法は爆弾を投げることで、当時の爆弾は扱いそのものがとても難しくて危険だったから、犠牲は覚悟されていたが、死ななくてはならない、というほどではなかった。
 1904年、反政府勢力に対する苛烈な弾圧を指揮したことで知られる内務大臣プレーヴェを爆殺したのが最初の成果だが、この実行犯サゾーノフは自分が投げた爆弾で負傷して、心ならずも(爆死したほうがましだったとその後も言い続けた)捕まり、たぶんプレーヴェの悪名のおかげもあったろう、絞首刑ではなく終身刑となり、その後減刑もされている。一方、06年、モスクワ総督ドゥパーソフを狙ったヴノロフスキーは、暗殺には失敗して自分が爆死した。それは充分覚悟のうえのことだったし、他に現代のいわゆる自爆テロに近いやり方をした者もいたが、この時代にはまだそれは例外と言ってよい。
 上の二件に挟まる形で、05年にイヴァン・カリャーエフが前のモスクワ総督で皇帝ニコライ2世の叔父セルゲイ大公暗殺に成功した。彼は、プレーヴェ暗殺計画に加わったときは、自分が爆弾を抱えて馬車の下に飛び込むことをエス・エル戦闘団の最高指導者エヴゲーニー・アゼーフ(後に秘密警察のスパイであったことが発覚した)に申し出ている。また、官憲に捕まるぐらいなら日本人に倣って「ハラキリ」をしたい、と現場指揮官のサヴィンコフには言っていたそうだ。が、実際には逮捕されて、絞首刑になっている。
 それよりも、彼を有名にしたのは、セルゲイ大公暗殺計画第一回目の失敗に依る。
 2月2日、大公は夫人が庇護している赤十字のための観劇会に出かけることがわかった。エス・エル戦闘団はこの日を決行日に定め、カリャーエフと、彼が失敗した場合に第二弾を投げるはずのもう一人のメンバーが、ボリショイ劇場付近の路上で配置についた。大公を乗せた馬車はカリャーエフの前を通った。しかし、爆弾は投げられなかった。予備の者も、何か不測の事態が起こったものと考えて、見送った(彼はこの後、自分には暗殺を実行するほどの力はないと感じて、戦闘団を離脱している)。
 起きたことはこうだった。カリャーエフは、爆弾を投げようとした寸前に、大公夫人と大公の幼い甥と姪が同乗しているのを見たのだ。「ぼくの行動は正しかったと思う。子供を殺すことができるだろうか?……
 『テロリスト群像』には、サヴィンコフも、他のメンバーも、カリャーエフを一切非難しなかったと書かれている。つまり、「子どもを殺すことはできない」は、エス・エル全体の意思だと認められた。
 彼らに代わってカミュが、実名のカリャーエフを主人公とする「正義の人々」第二幕で、「革命のためならいかなる犠牲もやむを得ない」とする党員を登場させて、議論させている。サヴィンコフに当たる登場人物は、これは「名誉の問題だ」と言ってこの党員を退ける。子どもを殺せば、たぶん彼等は民衆の支持を失う。それはエス・エルにとって致命的なダメージになり得る、と。
 その通りかも知れないが、これでは話は政策上の問題にとどまりそうである。もっと道徳的かつ原理的に、「子どもを殺してはいけない」と言えないだろうか。「正義の人々」第四幕は、非常に厳しい、妥協のない形でこの問題を追及している。まるでこの後エス・エル党員を手放しで讃美しているのが嘘に思えるほどに。
 カリャーエフは2月4日に、官邸から出たセルゲイ大公の馬車に投弾し、暗殺を成し遂げた後、その場で逮捕された。この幕は獄中の彼を描いている。まず警視総監がやって来て、次のように問いかける。「その思想で子供は殺せないということになると、同じ思想で大公なら殺せるというわけになるんですかな?」。答えは大公妃にすればいい、とも言われる。因みに、セルゲイ大公夫人が、夫の殺害者を訪ねたのは歴史的な事実である。ただ、彼女は自分たち皇族の慈悲深さを国民にアピールするのが目的だったようだから、以下の対話はカミュの創作である。
 自分は「正義の行為をした」と言うカリャーエフに、彼女は次のように告げる。「まあ、同じ声! お前のいまの声はあのひとの声とそっくり。男の人は、正義について話すときは、誰もみな同じ調子になるんですね。(中略)あのひとは間違ってたのかも知れません。お前も間違って……
 人間は誰も完全になれない以上、正義はついに相対的なものでしかない。エス・エル派から見れば大公の不正は明らかだが、大公からすれば彼らこそ不正なのだと言うだろう。どちらがより正しいか、完璧に決定するための超歴史的かつ超社会的な基準はないし、あっても人間にはわからない。カリャーエフは、もし自分が間違っているとしたら、今の牢獄と翌日の刑死がその報いになる、と言う。罰を甘受する覚悟があるから罪も恐れない、ということは、前述した議論の範囲に入るだろう。
 では、それでも子どもは殺さないことについては? 「子どもに罪はない」。世界中どこでも通用しそうな考えではあるが、本当に、いつもそう言えるのか? 大公妃は言う。姪は意地の悪い子だ。貧しい人に触れるのを嫌がった。大公は、少なくとも百姓たちを愛していた。いっしょにお酒も飲んだ。それなのに?
 いや、大公の人柄などは問題ではないのだ。「僕が殺すのは、彼じゃない。僕は専制政治を殺すんだ」と、カリャーエフは第一幕で言っている。しかし、そうだとすれば、生身のセルゲイ大公を殺す意味は、曖昧になるのではないか? ツアーを頂点とする専制政治さえ打倒できるなら、もう政府要人のだれそれという個人は問題にならなくなるはずだ。逆に、体制がそのままなら、個人は死んでも、その役を継ぐ者が必ず現れる。それを殺せば、また次が……、と、きりのない話になる。現に、セルゲイの次のモスクワ総督もまた、エス・エルは標的にせねばならなかったことは前述した。
 明らかに、革命は、個人よりレジーム(体制)の打倒を目指すべきものだ。ただし、それが成し遂げられたら殺人のほうはなくなる、というわけにはまずいかない。1918年の十月革命直後のロシアでは、レーニンの命令によって、皇帝ニコライ2世の一家が、十七歳の皇女アナスタシアを含めて全員惨殺されたのは、周知の通り。どの道をたどっても、血に飢えた正義の神を宥めるのは容易ではないのである。

 もう一つつけ加える。エス・エルが、暗殺はしてもできるだけ「道徳的」であろうとし、「名誉の問題」に気を配っていたことは事実である。裏切り者を処分したとき、彼の自宅で決行したので、止めに入った年老いた母親を傷つけてしまった、それまで問題視されたぐらいだ。またサヴィンコフは、他の乗客を巻き添えにする可能性の高い列車内の爆破には反対している。後には「ロシア皇帝の牢獄から脱走するとき彼は、彼の逃走をさまたげるかもしれぬ士官たちに発砲はしても、兵士たちに彼の武器をむけるよりはむしろ自殺しようと決心する」(『反抗的人間』)。当時のロシア軍の士官はだいたいは貴族だが、兵士は民衆だから、というわけだろう。しかし……。
 しかし馬車を狙った場合、列車よりは周囲の人に被害を及ぼす可能性はいかにも低いだろうが、標的が一人で乗っている場合でも、必ず馭者はいる。彼も爆破の被害を受けないわけにはいかないが、こちらは民衆に属するのではないか?
 セルゲイ大公の馭者はアンドレイ・ルーヂンキンという名だった。カリャーエフは大公の馬車を特定するのに、まず御者台の彼を目印にした。爆破後ルーヂンキンはどうなったろうか。『テロリスト群像』には、官公側の発表が写されており、そこに「無数の傷を負うた」とだけある。彼が死んだのか、一命はとりとめたのかは皆目わからない。
 カリャーエフも、サヴィンコフも、そしてカミュも、彼のことなど全く気にかけてはいないのである。もしそこまで気にかけたとしたら、爆弾テロそのものをやめるしかなく、彼らの活動は著しく制限されなければならなかったろう。ここで結局、革命の大義が、庶民を直接犠牲にする手段を正当化してしまっていることが認められる。
 以上は批判のために書いたのではない。不完全な我々には、完全な正義を行うことはできないことを改めて確認したかった。それにまた、「人を殺してはいけない」にも、「子どもを殺すことは大人を殺すより悪だ」にしても、論理的な根拠などない。感覚の問題である。ただ、このような感覚に基づいて、人の世は現に営まれているのだし、人はそういうところでしか生きていけないのは確かである。
 ここからして「何をなすべきか」について多少は論理的に言おうとしても、せいぜい、できるだけ謙虚に、寛容になりましょう、ということぐらいしかない。理想に則って世の中を一気に変えてしまおうとする革命は、犠牲が多くなり過ぎる。カミュの言う、この世の不条理(人間は完全になれないこともその中に入る)にノンと言い続ける反抗というのも、カッコよすぎてとうてい凡庸な身の丈には合わない。生まれてから身についた感覚を一応の頼りとして、迷いながら、多少とも正しいと思える方向に進む以外に、普通人にとっての「正しい道」はないようだ。ただ、迷うことそれ自体は倫理的な行為である、とは言い得ると思う。いつも同じようなことしか言えないのは、たいへん恐縮ですが。

 それにつけても、2001年9月11日以後我々の目にも明らかになった自爆テロの有様には慄然とさせられる。軍人でも政府の要人でもない一般の人々が集まるところへ、爆弾を抱いて行って、もろともに爆死する。一番成功率が高い、ということなのだろうが、それだけで、ここにはいかなる倫理も道徳も、それを気にかけようとする気配も、ない。
 国末憲人『自爆テロリストの正体』(新潮新書)によると、その実行犯たちは、アメリカやイスラエルに追い詰められてぎりぎりの生活を強いられた者、というわけでもない。多くは、けっこう裕福な家庭出身でそれなりに教育もある者たちが、例えばアラブ人であることで差別される、というような体験から、不全感を抱き、そこをアルカイダなどのテロ組織にオルグされて、やるのだと言う。
 パレスチナ出身のハニ・アブ・アサド監督の映画「パラダイス・ナウ」(2005年)を見ても、対イスラエルの自爆テロに向かう二人の青年(一人は途中で脱落)は、特に狂信的ではなく、恋愛もすれば、友人や家族を思いやる心も持っている。根深いコンプレックスはある(主人公の父は密告者だった)が、それをも含めて、日本でもざらに見つけられるような若者だ。違いは、明確な敵、つまりイスラエルとその背後のアメリカがあること。それで、自分自身を含めて多くの人を犠牲にするテロ行為に走るとは……。
 私の人間理解は、ここには到底及ばない。知識もない。年を取って自分から宿題ばかり増やしているのは我ながら苦笑ものですが、この問題に取り組むのもやっぱり他日を期します。
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道徳的な死のために その2(特攻について)

2013年11月23日 | 倫理
メインテキスト:モーリス・パンゲ、竹内信夫訳『自死の日本史』(筑摩書房昭和61年)

サブテキスト:百田尚樹『永遠の0』(太田出版平成18年刊。講談社文庫版平成21年、平成25年第40刷)
 この本は現在文庫の中で一番売れているそうだ。確かによくできた娯楽小説ではある。宮部久蔵という、現実にはまずいないスーパー・ヒーローを物語の中心に据えて、真珠湾奇襲攻撃から沖縄戦まで、日米戦争の一面がうまくまとめられ、描かれている。
 宮部は名人の域にまで達した零式戦闘機、通称零戦の操縦士だが、「戦争で死にたくない。生きて妻子のもとへもどりたい」と公言するところが、旧日本軍中では際だって特異なキャラクターになっている。もっとも、よく考えてみると、私も小説や映画からくるイメージ以上のことは知らないのだが、それによると、大東亜戦争中の日本軍では、「命が惜しい」などという言葉はタブーだったようだ(違う、という情報をお持ちの方はご教示ください)。
 兵隊がそんな臆病なのでは戦争に勝てないだろう、と言われかも知れないが、それとは異なる観点が示されている。小隊長としての宮部が部下を諭す言葉。

「たとえ敵機を撃ち漏らしても、生き残ることが出来れば、また敵機を撃破する機会はある。しかし―」「一度でも墜とされれば、それでもうおしまいだ」「だから、とにかく生き延びることを第一に考えろ」

 戦争に勝つためには、こちらは生きて、多くの敵を殺したほうがいい、だからなるべく生き延びるように心がけるべきだ。これは正論ではないだろうか。美しくないだけに、なおさらそう感じる。山本定朝の言う「武士道と云ふは、死ぬ事と見付たり。二つ二つの場にて、早く死方(しぬかた)に片付くばかり也。別に子細なし。胸すわつて進む也」などは、むしろ平時の武士の心がけを説いたものだ。思うに、戦争とはもっと汚いものなのだ。
 汚い話の実例も『永遠の0』中に書かれている。宮部は空中戦で敵機を撃ち落としたとき、向こうの操縦士がパラシュートで脱出するのを見つけたら、それをも機銃で撃った。これが彼の評判を悪くしたもう一つの要因となった。空中戦では、相手の飛行機を破壊すれば終わり、そこから脱出した兵士は、見逃すのが「武士の情け」だと思われていたから。宮部は、そんなものこそ無用な綺麗事だと言う。

「自分たちがしていることは戦争だ。戦争は敵を殺すことだ」「米国の工業力はすごい。戦闘機なんかすぐに作る。我々が殺さないといけないのは搭乗員だ」

 実際、戦争の中盤以降、日本軍は武器弾薬から食料医薬品に至るまでの物資面と同じく、あるいはそれ以上に、経験豊かで優秀な戦闘員の不足に悩まされた。特に、まともに戦えるようになるまでには極めて高い練度を要する戦闘機乗りが、ミッドウェイ海戦からガダルカナル島争奪戦を経てマリアナ沖海戦までに至る過程(昭和17年4月~19年6月)で、数多く戦死したことは、太平洋で戦う帝国海軍の首をじわじわと締め付けていった。これを要件の一つとして、特別攻撃作戦、略して特攻、連合軍からはKamikaze Attackと呼ばれて恐れられた、世界の戦史上類のない戦法が実施されたのである。

 最初の特攻は昭和19年10月、レイテ沖海戦での神風(当初は「しんぷう」と呼ばれた)特別攻撃隊によるものだった。この隊は20日に結成され、21日から出撃したが、悪天候のためになかなか米艦隊まで到達できず、25日になってから、空母セント・ローに激突、沈没させる、などの成果を挙げている。
 当初はこれはこの時限りの、それこそ特別な攻撃だと多くの人が思ったようだが、すぐに常態化した。その経緯は、この25日、第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将が、マニラ方面にいた飛行隊長以上の指揮者にした説明に、一番簡潔に示されている。森史朗『特攻とは何か』(文春新書)から引用する。

一、(前略)現在の大編隊の攻撃では、攻撃隊は目標を見る前に、敵戦闘機に迎撃され撃墜されてしまう。
二、しかし、索敵機のような単機ないし少数機ならば目標まで接近できる。現に今回敵空母を撃沈した彗星艦爆は単機毎の攻撃であった。
三、だが、現在の技倆では少数機により命中弾を得ることは極めて困難である。しかも、攻撃後の生還はほとんど望みがない。
四、どうせ死ぬならば、体当たりによって大きな損害を与えることこそ本望であろうし、そのような任務を与えることこそ慈悲であると思う。


 論理的、ではありますな。この時点で帝国海軍最大の目標は、日本列島に迫り来る米艦隊をなんとか止めることになっていた。しかしそのために多数の攻撃機を行かせたのでは、敵艦隊にたどり着く前に発見されて撃ち落とされてしまう。少数ならたどり着けるが、それでも敵の援護機や艦隊からの砲撃でこれまた撃ち落とされてしまう。さらに、促成した現在の多くの搭乗員(多くは昭和18年から徴兵された学徒兵が充てられた)には、敵艦に爆弾を当てるほどの技術がない。つまり、海戦のために打つ手はもはや、ない。まだしも有効なのは、飛行機ごと艦船にぶつかり、損害を与えることだ。「どうせ死ぬならば」…。日本の兵(つわもの)が、本当に「大君の辺にこそ死なめ」を念願するなら、ここがロドスだ、さあ跳べ! と文字通り命懸けの跳躍が行われた。
 言い換えると、なすすべもなくアメリカ軍に撃ち落とされるばかりなら、命と引き替えに一矢報いる道を与える、それが「慈悲」だ、と言ったとき、大西は、いや日本軍全体が、ある一線を越えた。狂瀾を既倒に廻らす方途を論理的に詰めていって、いわばそれを助走にして、倫理の壁を跳び越えたのだ。そのことを大西は自覚していたのだろうと思う。何しろ後に、これは「統率の外道」=「外道の戦法」だと漏らしたと言われているくらいだから。上の説明の最後には、「この案に反対する者は叩き斬る」と言い放ったらしいが、それもつまりは後ろめたさを感じていたからではないだろうか。自分の正しさに充分な自信があるなら、反対者を一人一人粘り強く説得しようとしただろう。
 別人の例。昭和20年4月、沖縄に来襲した米軍に対する菊水作戦が始まると、第五航空艦隊長官宇垣纏(うがき まとめ)中将は旗下の全機に特攻を指示した。出撃時には可能な限りはなむけの言葉を贈ったのだが、その折一人の准士官が、「本日の攻撃において、爆弾を百パーセント命中させる自信があります。命中させた場合、生還してもよろしゅうございますか」と尋ねた。宇垣は「まかりならぬ」と、即座に大声で答えた(岩井勉『空母零戦隊』より)。
 この准士官が言葉通りの技倆の持ち主だったとしたら、複数の敵艦を撃破できたかも知れない。特攻では最良で一機につき一艦撃沈のみに決まっている。戦術としてこれを見れば、この場合は明らかに損なのだ。しかし、大西や宇垣にとって、もうそういう問題ではなくなっていた。兵を、あくまで兵として、美しく死なしめること。それが戦争に勝つことより大事だった。それで初めて、全体として果たしてどれくらいの戦果があるのかを度外視して、特攻作戦を継続できる。
 逆に、たいして有効ではないから、という理由でこの作戦を見直すとしたら、今までに死んだ隊員は無駄死にだ、と見えてしまうだろう。つまり、跳び越えてしまった以上、もう元にはもどれなかったのである。もっとも、特攻を推進した軍幹部の中でも、そう理解していたのはごく少数だったらしい。
 大西瀧治郎は、8月16日に、腹心だった児玉誉士夫からもらった刀で割腹自殺し、宇垣纏はそれより早く15日正午の玉音放送を聞いた後で、艦上爆撃機(略して艦爆)彗星に乗って、僚機十機を従えて最後の特攻として沖縄沖へ飛び立っていった。これを責任のとりかただとすれば、「多くの若者の命を奪っておいて、老人が腹を切ったぐらいでなんだ」という意見も出るだろう。それは『永遠の0』にも書かれているが、私はむしろ、彼らは自分たちの作った美しい物語の内部に入り込んでしまっていたので、死をもってそれを完結する以外にない、そういう心境だったのだと考えている。
 ただ、生身の人間が、過酷な物語の中に敢えて止まって最期を迎えるのは、いつの時代でも難しい。だからこそ、英雄は希少な存在なのだ。この二人以外の特攻指導者の多くは、けっこう戦後まで生き延びてしまっている。因みに陸軍では、この理由で自決した将官は一人もいない。

 
 それなら、「慈悲」をかけられて、若い命を散らしていった特攻隊員達は英雄なのだろうか。そうとしか言いようがない。英霊、確かに彼らはそう呼ばれるに相応しい存在ではあった。どういう意味で? 自己犠牲の化身として。
 多数とは言えなくても、価値ある何かのために自分の身を捧げる高名な、あるいは無名の英雄は、どこにでも、いつの時代でも、いる。今年我々は、猛吹雪の中、幼い娘を庇って、自分は凍死した父親のニュースを知らされた。その荘厳さに心をうたれない人は稀だろう。それでこのような物語はアメリカ映画「タイタニック」(ジェームズ・キャメロン監督)や「アルマゲドン」(マイケル・ベイ監督)など、エンターテインメントにも多数取り上げられ、見る人の涙を誘ってきた。ネタバレになるが、『永遠の0』もまた、日本軍や特攻作戦そのものは批判しながらも、主人公に自己犠牲の死を遂げさせて、ヒーロー像の画竜点睛としている。
 これでもわかるように、戦争という、人命を軽んじなければならない際でも、積極的ないわゆる捨て身の働きはしばしば感動的に語られる。それも日本のお家芸ではない。ミッドウェイ海戦時、対空砲火に被弾したSB2Uヴィンディケ-ター機のリチャード・E・フレミング大尉は重巡洋艦三隅に激突した。そうしなくても死んだ可能性が高いのだろうが、そうだとしても体当たり攻撃など、なかなかできることではない。アメリカ人にとってもそうである証拠には、彼には死後に名誉勲章が贈られているそうだ。
 この延長上に特攻隊員も当然位置づけられる。モーリス・パンゲはこう言っている。

敵だけでなく、平和の到来を今か今かと待っているすべての人々が、彼らのその行為が戦争を長引かせていると思って、それを狂信だと言い、狂乱だと言って非難した。だが人の心を打つのは、むしろ彼らの英知、彼らの冷静、彼らの明晰なのだ。震えるばかりに繊細な心を持ち、時代の不幸を敏感に感じとるあまり、おのれの命さえ捨ててかえり見ないこの青年たちのことを、気の触れた人間と言うのでなければ、せいぜいよくて人の言いなりになるロボットだと、われわれは考えてきた。(中略)しかし実際には、無と同じほどに透明であるがゆえに人の目には見えない、水晶のごとき自己放棄の精神をそこに見るべきであったのだ。心をひき裂くばかりに悲しいのはこの透明さだ。(P.346)

 特攻隊員の遺書に折々見出すことができる不思議な清澄さを評するのに、私はこれ以上の言葉を知らない。それにまた、私のような凡庸な俗人は、この「水晶のごとき自己放棄の精神」など生涯無縁であろうと、すぐに得心できる。
 そういうわけで、私などとは精神の次元を異にする英雄がいることには同意するのだが、その前提として、パンゲが、特攻隊員の死は自由意志によるものだった、と言うのには異論がある。と、言うより、それが強制されたのか自発的だったのか、などという議論には意味がないと思う。それはパンゲにもわかっていたのではないだろうか。彼はこうも言っているのだ。「太平洋戦争が何か新しい物をもたらしたとするならば、それは〈意志的な死〉の計画化というものであった――あらゆる自由を組織化することに血道をあげている現代という時代に、それはいかにも似合いの発明品であった」(P.341)
 最初の時には大西が確かに彼らが志願するかどうか尋ねている。後にもそういうことはあった。志願する者は皆の前で態度を明らかにするのではなく、紙に名前を書いて提出したり、一週間以内に指揮者に個人的に申し出たケースもある。しかしいずれにせよ、特攻も何度も繰り返され、人間魚雷回天によるものなどを加えて戦死者が五千人以上にも及んだということは、この作戦がシステム化され、ルーティン化された、ということである。
 特攻隊員は、システムに乗って、いわば自動的に死んだのである。作戦上の効果もそうだが、彼らの死の意味、つまりは生の意味が考慮されることなどあるべくもなかった。そこで彼ら一人ひとりがそれこそ必死で考えたことのいくつかが、遺言として残され、後の我々を粛然とさせる。
 それにつけても、これはやっぱり外道の戦術であり、最悪のシステムだったと思う。『永遠の0』では、軍上層部は一般兵士など将棋のコマぐらいにしか考えていなかった、と批判されている。それは、戦争である以上、いつの時代でも、どの国でも、幾分かはそうなるだろう。アメリカも、例えば日本に上陸したら兵士の損耗(この言葉だけでも、わかりますわな)はどれくらいに及ぶか見積もった上で、原爆を投下したのだし、日露戦争時の旅順攻撃など、特攻とほとんど変わらない有様だったことは当ブログでも以前に書いた。それでも、紙一重でも、五十歩百歩でも、越えてはならない一線はあるのだと思う。
 例えばこう言えばいいだろうか。九死一生の激しい戦いを生き延びた者は、英雄になることがあり、そうでなくても自軍に帰れば温かく迎えられることは期待される。十死零生では、というかそもそも作戦成功の必要条件に自分の死があるのだから、生きていることは失敗でしかない。事実、悪天候や飛行機の不調で基地に戻ってきた隊員たちは、たいへんな焦燥を感じなければならなかったようだ。生を根底から否定するようなこんな試みは許されない。それを我が国はかつてやったのだ。大東亜戦争の反省として、第一に銘記すべきことであろう。
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道徳的な死のために その1(切腹について)

2013年11月08日 | 倫理
メインテキスト:モーリス・パンゲ、竹内信夫訳『自死の日本史』(筑摩書房昭和61年)

 長谷川三千子氏の近著『神やぶれたまはず 昭和二十年八月十五日』を題材にして、著者にもお越し願って、先日読書会を開いた。そのとき、長年考えていたことを口にすることができた。もっとも、口頭で思いをきちんと伝えるのはいつも難しい。だから多少とも読んでくれる人がいることを期待して、例えば今ここで文を綴っている。以下に、その時言ったことを改めて、枝葉をつけて、述べる。
 それは、日本人はなぜすぐに死にたがるのか、死を美化する傾向があるのか、ということである。
 もっとも、性急に「日本独特」だなどと言えば、まちがいになってしまう。「美しい死」の観念なら、世界中にある。モーリス・パンゲの著書は、「プルターク英雄伝」に描かれている、宿敵ジュリアス・シーザーとの戦いに敗れて、腹をかっさばいて、即ちその後「ハラキリ」と呼ばれるようになった方法で死んだカトー(小カトー)の話から始まっている(B.C.46)。降伏すれば、シーザーはカトーを殺すまでのことはなかったろう。しかし、この敗北によって、ローマに帝政が敷かれることは確定的となった。共和制のために生涯戦い続けてきた者が、どうしてそのような国で生き続けることができよう。信念に殉じた、最も誇り高い生き方としての自死。後にセネカは、この死を、この世で最も美しいものと呼んだそうだ。
 日本と違うのは、このような死が、賞賛されることはあっても、様式化され儀式化されるまでのことはなかった点だ。その要因の第一は、やはりキリスト教であろう。人に生命を与えたのは神である、とすれば、その命を自分の手で捨てることは神に対する反逆であり、罪である。こう明確に定めたのは聖アウグスティヌスであるらしい。そうすると、「美しい死」は、殉教、つまり節を曲げずに敵に殺されることしかなくなる。
 一方日本では、個々人はもとより「人と人との間」をも完全に超越した上位の審判者は、少なくとも一般的には考えられなかった。そこでは、「人からどう見られるか」が究極の価値とみなされがちになる。すると、「美しい(そう見える)死」の価値の底上げが起こる。あまりにも広大かつ複雑微妙な問題を単純化する弊を気にしなければ、そう言えるであろう。

 少しは具体的にわが国の切腹の様相を、『自死の日本史』から見ておこう。
 自刃という死に方そのものは平安時代からあったようだが、本格的な様式化を遂げたのは江戸時代からと考えてよいようだ。
 源義経は日本史上最も早い時期に、ちゃんとした割腹自殺を遂げた武将の一人ということになっている(1189年)。「義経記」によるとその最期はこうだ。兄頼朝からの圧力に屈して敵方にまわった藤原泰衡の軍勢に囲まれた義経は、奥州平泉の衣川館で最期を迎える。「さて、そろそろ自害の刻限のようだ。で、自害はどうしたらよいと言うのだろう」と義経が問うのに郎党が答えて、「佐藤兵衛(忠信)のやり方こそ、後々まで人のほめるものでありましょう」。忠信は三年前、義経の身代わりとなって京の堀川で奮戦、最期は切腹して果てていた。義経は、「けっこうだ。傷口は広いほうがよいな」と、鞍馬山時代から愛蔵していた刀を採り、左乳の下から突き通すと、傷口を三方に掻き破って腸を繰り出し…。
 「義経記」は、義経の時代から二百年ほど後、南北朝時代か室町時代の初期に書かれているので、実際の彼の死がこのようなものであったかどうかは分からない。むしろ、理想的な英雄とされた義経の死に方として、「義経記」の作者か、それ以外の誰かが与えたものとしたほうがいいだろう。逆に言うと、鎌倉時代末ぐらいまでには、切腹こそ武士に相応しい自死のやり方だという観念が定着してきていたのであろう。
 その南北朝時代を描いた「太平記」には、かなり一般的にはなったものの、まだ様式化にまでは至っていない、荒々しい切腹の描写が随所にある。中でも、鎌倉幕府の最後、東勝寺に落ち延びた北条氏得宗高時と一門が集団自殺を遂げる、その有様の凄絶さは無類である(1333年)。それは一種の宴であった。

(試訳)さて長崎高重が走り回り、「早々に御自害なされ。お手本を見せましょう」と、弟新右衛門に酌をさせると、三度飲み、その杯を摂津入道道準の前に置き、「一献さしあげる。これを肴にしたまえ」と、刀で左脇腹から右まで長く切り、腸を手繰り出して、道準の前に倒れ伏した。道準は盃を取り、「けっこうな肴じゃ。どんな下戸でもこれで飲まぬ者はなかろう」と戯れ、盃から半分ばかり飲んで、諏訪入道直性(じきしょう)の前に置くと、同じく腹を切って死んだ。直性は盃を静かに三度傾けると、相模入道(北条高時)の前に置いて、「若者どもがずいぶん芸をつくして見せたのに、年寄りがなんとしましょうぞ。今後は皆様これを私からの肴としていただきたい」と、腹を十文字に掻き切って、刀を相模入道の前に置いた。

 死を前にして血まみれになり、苦痛をこらえながらの、ブラックジョークの応酬。これこそ武士が備えるべき勇気と克己心をこの上なくよく示す実例と思われたのに不思議はない。だがそれだけではない。ここには多分にマゾヒスティックな、自虐の喜びがありそうだ。それはパンゲも指摘している。
 しかし、そのような隠微な喜びは、日本人には明治期まで一般には明らかにされなかった。おかげで切腹は、見た目の、禍々しさを裏地とした華々しさのため、武士に相応しい死に方、さらには、武士の特権とさえ考えられるようになった。死ぬ理由も、敗北死の他に数種数えられるようになる(以下の例は『自死の日本史』からではない)。
 まず、命と引き替えに主君に意見する「諫死」がある。戦国時代織田家に仕えた平手政秀は、傅役(もりやく)を勤めた信長の行状が父信秀の死後家督を継いでからもいっこうに改まらないので、諫めるために切腹して果てた(1553年)。
 それから、主君が死んだ後の後追い自殺としての「追い腹」、またの名を殉死。森鷗外「阿部一族」(大正二年)に、江戸時代初期、寛永年間(1640年代)の、肥後熊本藩におけるその様相が描かれている。普通に言ってなんら死ぬべき理由のない者が自死する不合理には、さしもの日本的美意識でも耐え難かったのだろう、寛文三年(1665)には幕府は禁令を出している。しかし明治時代、乃木希典が明治天皇に殉じて切腹しているのは有名で、「阿部一族」はその事件の影響下に書かれた可能性がある。
 恥をかいた/かかされた、と感じた場合でも武士は死ぬべきだとされた。山本常朝「葉隠」(1717年頃)が言葉にしたのはこれである。ただここでは、恥ずべき状態に陥ってから死ぬのは遅いので、それを避けるためには、少々先走りに見えても死ぬのがよい、と言われている。「阿部一族」の阿部弥一右衛門は、殉死しなかったのを「臆病なせいだ」と陰口されているようなのを憤って切腹する。しかしこれは彼に殉死を禁じた亡主細川忠利の遺命に背いたことになり、ここから阿部一族の悲劇が始まる。以上は史実ではないが、江戸期に出版された「阿部茶事談」に記されており、「君命に従う」と「恥をかかない」という武士の二大徳目が、いつも両立するわけではないことは、当時からある人々の目には映じていたことがわかる。それが思想的な課題とまでされたのは明治以降だというだけである。もちろん山本常朝には、こんな問題意識はない。
 それから、必ずしも自分が望んだわけではなく、周囲からの圧力によって切腹にまで追い込まれる場合は、「詰め腹を切る/切らせる」という成句を現在まで残している。幕末の長州藩で、長州征伐に至るまでの国難(この場合の「国」は「藩」)を回避できなかった責めを負って自決した周布(すふ)政之助あたりが代表例だろう(1864年)。それより先、藩論が攘夷一色になっていく時期に開国論を唱え、周囲から恨みを買った長井雅楽(うた)も腹を切っているが、こちらは藩主からの上意を受けてのことである(1863年)。おそらく数としては、後者のような、賜死としての切腹が一番多いだろう。この場合、咎がありながら、武士らしい死を与えられた、というので、光栄だとされた。切腹をめぐる話の中で、ここが一番ヘンだと、私には思える。
 ヘンなところは他にもあるので、そこからいこう。あらためて、武士の特権としての切腹の性格とはなんだったか。江戸時代という平和な時代に、戦争の専門家である武士が特権を保つために、彼らには日常から戦場にあるような(常在戦場)緊張感が求められた。卑怯な振る舞いがあったときにはただちに自らを裁く、それも非常にむごたらしい、苦痛を伴うやり方で。それこそが、士農工商の最上位として、人の上に立つに足るモラリティの徴であった。それが今日でも、もちろんお話としてはだが、あまり疑われないようなので、日本人というのは人がいいのだな、と感心する。
 むごいたらしいという意味で見た目が派手で、苦痛もべらぼうに大きいという、いわば形式面を考えてみよう。江戸時代には磔刑(たっけい)、あるいは磔(はりつけ)と呼ばれる残忍な刑罰があったのは周知だろう。柱にくくりつけられた罪人の腹を、両側から槍で何度も刺していくというもので、グロテスクな点でも痛いという点でも、切腹にひけをとるとはとうてい思えない。この刑を受けたのは庶民である。「自らの手で自らを裁く」ところが切腹のポイントだとも考えられるのだろうが、江戸時代、それは様式化された。様式化とは形式化ということで、形式化されたものはほぼ必然的に形骸化する。平和に慣れた武士では、自分の腹に刀を突き刺すことなどできない場合もあり、「扇腹(おうぎばら)」と言って、刀の代わりに扇子や木刀を三方に乗せたものが用意され、それを持った動作を合図にして介錯人が首を切る、実質的に斬首となんら変わらない切腹もよくあったようだ。
 内容面で、自決によってすべての罪も恥も解消される、という考え方はどうだろうか。死者を鞭打たない、というのは、日本人の美質の一つであると私も思うけれど、そこから「死ねばすべてが許される」→「何をしても死にさえすればいい」にまで至れば、明らかな短絡、あるいはすり替えがあるように感じられる。

 明治七年に出た「学問のスゝメ 第十篇」で、福沢諭吉はいわゆる忠臣義士を批判する論を述べて、物議を醸している。この部分が「楠公権助論」として知られているのは、福沢は名を挙げているわけではないが、この時代楠木正成が忠臣の代表とされていたからである。一方権助のほうは、愚昧な下僕の仮名として文中で使われている。
 その論に曰く、政府が暴政を行うとき、その下にある身の処し方のうち、最も優れているのは、一身の危険を顧みず正道を唱え続けることである。結果命を落としても、「失ふところのものはただ一人の身なれども、その功能は千万人を殺し千万両を費したる内乱の師(いくさ)よりもはるかに優れり」。一方、日本で名高い忠臣義士と言えば、「己(おの)が主人のためと言ひ己が主人に申し訳なしとて、ただ一命をさへ棄つればよきものと思ふは不文不明の世の常なれども、いま文明の大義をもつてこれを論ずれば、これらの人はいまだ命の棄てどころを知らざる者と言ふべし」。ただ主人への申し訳のために自死した者を義士と言うとしたら、主人の使いで預かった一両の金を紛失したので首を縊る下僕は珍しくない(そうですか?)が、これもそう呼ばれるべきだろう。いずれも同情の涙は誘うとしても、文明の進歩に寄与するところはない。
 こう言ったからといって福沢は、日本人の、「潔さ」に感動する傾向と無縁だったわけではない。明治三十四年、彼の死後に、本来出版を予定していなかった「丁丑(ていちゅう)公論」と「瘠我慢の説」が合本として出た。前者では、西南戦争で斃れた西郷隆盛を、武力を使ったやりかたは悪かったにせよ、政府に抵抗する精神を示したものとして称揚している。それはまだしも上の説と整合しているが、後者では、幕閣でありながら節を曲げて、維新後新政府に仕えた勝海舟と榎本武揚を、一国を支えるべき痩せ我慢の精神を欠いたものとして批判している。しかしこの精神が、「文明の進歩」にはどう役立つのか、理解するのは容易ではない。
 このような矛盾は、福沢一個に即してみれば、彼の魅力を増すものだと私は思うが、この世で倫理的であろうとするときの難しさの一端を示してもいると思う。ただ「正しい」だけで、「美しい」とは感じられないものには、人を動かす力は乏しい。一方「美しさ」に酔った人々が世に厄災を惹き起こすことも数多い。そうであれば、「美しい行為」の理非曲直を見極めようとする努力は必要であろう。それ自体は少しも美しくないにしても。

 関連して私が一番不思議だと思うのは、二・二六事件の青年将校たちが抱いた、「天皇から賜る、栄光としての死」という観念である。美津島明さんのブログに発表させていただいた「書評もどき 長谷川三千子『神やぶれたまはず』 その3 三島由紀夫の「忠義」」に略記したことを、ここで蒸し返す。
 昭和十一年二月二十八日、蹶起部隊は直ちに原隊へ戻るべし、という内容の奉勅命令(天皇からの直接の命令)は出されていたが、それはなぜか当該部隊にはきちんと届けられていなかった。この時蹶起将校の一人栗原安秀中尉が「(天皇に)お伺い申上げたうえでわれわれの進退を決しよう。もし死を賜るということにでもなれば、将校だけは自決しよう。自決するときには勅旨の御差遣くらいを仰ぐようにでもなればしあわせではないか」(高橋正衛『二・二六事件』より孫引)と言い出し、皆が賛成した。この願いは山下奉文(ともゆき)少将から本庄繁侍従武官長を通じて昭和天皇に伝奏された。それに対するご返答は、「自殺するならば勝手に為すべく此の如きものに勅使など以ての外なり」であった。
 これは『昭和天皇独白録』では、「勅使」ではなく「検視」と言われている。よくわからないが、勅使案が天皇に一蹴されてから、本庄が、ではせめて検視の者を、とでも言ったのかも知れない。それに対して昭和天皇は、「然し検視の使者を遣はすといふ事は、その行為に筋の通つた所があり、之を礼遇する意味も含まれてゐるものと思ふ。/赤穂義士の自決の場合に検視の使者を立てるといふ事は判つたやり方だが、叛いた者に検視を出す事は出来ないから、この案は採り上げないで、討伐命令を出したのである」。
 天皇が、討伐命令ではなく、誰かに直接「死ね」という内容の勅使を送ったことは、日本史上例がないのではないかと思う(もし、ある、という場合にはご教示ください)。検視でも同じことで、検視役正使は、君主からの切腹命令を伝えた後、ちゃんと切腹が成し遂げられたことを見届けるのが役目である。それを天皇が送れば、即ち死の命令が天皇から出たということになる。
 赤穂浪士に徳川幕府から切腹の命が出され、検視役も派遣されたのは、温情と言えるだろう。家禄を離れた浪人はもはや武士ではなく、罪を犯せば農工商の一般庶民と同じように罰せられるのが通例だから。吉良邸に討ち入ったのが押し込み強盗と殺人の類とされたら、四十七士は磔か獄門になったであろう。それを武士の「特権」である切腹に処したのは、仇討は美徳と認められていたし、また事件当時から彼らの人気が非常に高かったので、「礼遇」の必要が感じられたからだろう。
 ただし基本的に、命じられて切腹するのは、刑死の一種であることにはなんの変わりもない。「御馬前の死」=「戦場での討死」と同列に見られるようなものではないのだ。武士として最低限の面目が保たれていることは事実であるとしても、それ自体が栄光ある死だ、などとどうして考えられるのか。ここにはどうしてもある種の短絡ないし転倒があるとしか思えない。
 二・二六の蹶起将校の場合、「その行為に筋の通つた所」があると陛下に認められたとしたら、それは光栄でもあろう。が、それでもなお、三島由紀夫が「英霊の聲」(昭和四十一)年)で言ったように、死そのものが嘉されるわけではない。一番大きく見て、彼らの死は端的に、クーデターの失敗を意味する。そんなことはどうでもいい、と思っているらしいところが、三島などの独特なところで、また私には理解しがたいところである。
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権力はどんな味がするか その2

2012年06月14日 | 倫理
メインテキスト:エーリッヒ・フロム 日高六郎訳『自由からの逃走』(原著の出版年は1941年 東京創元社昭和26年刊、昭和50年
サブテキスト:大江健三郎「セヴンティーン」(初出は昭和36年、『性的人間』新潮文庫昭和43年刊所収)

 今回は「正しい道はあるのか その3」や「近代という隘路 その4」で主に述べた「近代的自己像」につながる話がしたい。
 近代とは、それまでの身分秩序が崩れて、人間が自由になった時代である。人は、自らの意思と努力で何にでもなれる。デイヴィッド・リースマンの言う「内部指向型人間」とは、「自分は何であるべきか」の理想像を刷り込まれ、そうなるべく努力し、そうなった/そうなったと思い込む/そうなったと見せかける、人間のことだと思ってよい。
 それは近代人のあるべき姿と考えられてきたことにまちがいはない。しかし、問題は最初からあったのだろうと思う。
 これまた何度か繰り返したように、人間の価値は、人と人の間で実現されるしかない。他人にとって自分はなんであるか/何に見えるか、を気にかけないわけにはいかない、というか、それは「自己像」にとって不可欠な一部なのである。
 「伝統指向型」社会で、先祖代々受け継がれてきた役割を果たしているだけなら、具体的な他人の目を、そんなに意識せずにすんだろう。それが崩れて、「自分になる」責任は専一に自分にあるとすると、「他人の目」もそれだけ意識せざるを得なくなる。社会が複雑になり、価値観が多様化すれば、ますますこの事態は進むから、むしろ「自分が自分をどう思うか」なんてことこそ無駄であるように思いみなす、「他人指向型」が数多く出現する、というわけ。
 それというのも、人と人の間即ち共同態から離れた「純粋な自己」を考えることは、人間が自由である以上、できるのだが、それは往々にして厭わしい体験になるからだ。なるほど、私は、きっと「自由に」何かにはなれるのだろう。しかし実は、それこそ私が本来は何者でもない証拠ではないか。「私」は空虚であり、価値ある何かを、他人にとっても価値ある何かを成し遂げて初めて、「何者か」になる。
 そうは言っても、苦労して成し遂げた「何か」でさえも、いつかは失われてしまう。つまり、誰もがいずれは死んでしまい、そうなれば「何か」も自分にとっては無に帰す。「他人の目」もまた、究極の支えになりようがない。初めに「私」は空虚であり、終わりにも空虚である。それなら、その中間の「何者か」にもほとんど意味はないのではないか? 試しに言葉にしてみると、このような底なしの恐怖と無力感が出現したのが近代という時代なのである。
 すでに十七世紀に、ブレイズ・パスカルが、「無限の空間の永遠の沈黙」に直面したときの恐れを表明していた(「パンセ」)。人間の社会的な自由が増大して、「自分とは何か」という答えが出ようのない問いに、誰もがさらされ得るようになってから、この恐れは一般化した。
 恐怖から逃れるための方法として採用されたものの一つに、エーリッヒ・フロムは「権威主義」と名づけた。

(前略)近代人は伝統的権威から解放されて「個人」となったが、しかし同時に、かれは孤独な無力なものになり、自分自身や他人から引きはなされた、外圧的な目的の道具となったということ、さらにこの状態は、かれの自我を根底から危くし、かれを弱め、おびやかし、かれに新しい束縛へすすんで服従するようにするということである。(P.206)

 「価値ある何かを成し遂げて初めて、何者かになれる」を言い換えると、「価値ある何か」は自分の外にあり、自分とはそれを成し遂げるための道具だ、ということになる。他人についてもまた、同じことが言える。「価値ある何か」を見出し、そのための道具となることこそ正しいと考える人間が、他人を道具にしてはいけないと考えるだろうか? かくして、ある価値のために多くのものを犠牲にして顧みずに邁進し、他人にもまるで当然のように犠牲を要求する人間が出現し、それは非常に強烈な印象を後まで残すことになる。
 このような「権威主義的性格」の代表として、フロムは、同時代ではアドルフ・ヒトラーを、近代初頭ではマルティン・ルターを挙げている。度はずれて厳格な父親に育てられたルターは、幼年期の彼を絶えず監視し、「もっとちゃんとしろ=今のお前はダメだ」と頭を押さえつけきた父性の権威を憎む一方で、権威の強力さに誰よりも憧れる人間であったろう、と。
 成長してからは、ローマン・カトリックの権威に対しては戦いを挑む(protest)が、そこから解放された人々を、ルターは「自由」なる真空の中に投げ出そうとはしなかった。そういうことをしたのはむしろイエスであって、そのために彼は人々から愛されるのと同じ程度に憎まれたのである。プロテスタンティズムは、教会ではなく、神の名において、カトリックより厳格な献身を求める。それがむしろ、以前より自由な時代にはふさわしかった。

 これ以上の論述は、フロムの要約より、まるで彼の論理を小説化したかのように見える大江健三郎「セヴンティーン」に即しながらしたほうがよいように思う。同趣旨の小説としてはジャン・ポール・サルトル「一指導者の幼年時代」(1938年作)があり、明らかに大江はこれを参考にしている。ただし、両作の帰結は、かなり違うものになっている。一言で言うと、サルトルの主人公はフロムの「権威主義」の段階にとどまるのに、大江のは、そこを踏み越えた新たな領域もあることを示している。
 また、大江の作品(特に、続編の「政治少年死す」)は、あからさまに実際の事件を題材にしているせいで、物議をかもしたが、何も主人公の右翼少年を貶めるまでの意図はないと思う。大江の政治的な立場は、主人公とは正反対と言ってよいにしても、彼は、そういう人物をも、最大限の「共感」をもって描き出している。前にも言ったように、文学だけにこんな芸当ができるのである。
 昭和三十五年、即ち60年安保の年。主人公は十七歳の誕生日を迎えた高校二年生で、家庭でも学校でも居場所がないように感じている。通っている学校は都内でも有数の進学校で、一年生の時はトップクラスに属していたのに、今では落ちこぼれてしまい、そうなるともう、彼にはどうしたらいいのかわからない。
 父親は私立学校の教頭で、アメリカ風(もちろん、当時の)の自由主義教育理念を誇っている。そこで、子どもたちにはいっさい干渉しない。「そんなものは無責任の信条だ。おれたちくらいの年齢の生徒は反抗したり不真面目だったりするけれど、自分の問題にしっかり肩をいれて考えてくれる教師をいちばん求めているのだ」と主人公は感じるが、他人となるべく関わらないことは、教育上の信条と言うより、独学で苦労して今の地位を手に入れた人間の護身術のようなものであって、このため、彼の家庭には会話があまりなく、冷たい雰囲気が漂っている。
 姉は、自衛隊の看護婦をしている。主人公の学校は、この頃の(たぶん今も)進学校の常として、教師も生徒も左翼かぶれで、その言説を空気のように呼吸しているから、TVを見ながら自衛隊の悪口を言ってみたりするのだが(しかし学校では、姉を意識して、自衛隊の弁護をしたこともある)、もとより身についたものではないから、姉と議論して簡単に言い負かされる。その挙げ句に腹を立てて姉に暴力を揮い、家族からの冷たい視線を浴びて、自分の部屋として一部改造した庭の物置に逃れる。
 そこには、物置でたまたま見つけた「来国雅」という銘のある三十センチほどの脇差しがあり、それを振り回しつつ、「いつかおれは敵をこの日本刀で刺殺するぞ」などと考えるのだが、そんなことは現実にはできっこないことは、彼自身が一番よく知っている。
なぜなら、おれの頭のなかに豚の白子のような弱い脳があり、自意識があるからだ。おれは自分を意識する、そして次の瞬間、世界じゅうのあらゆる他人から意地悪な眼でじろじろ見つめられているように感じ、体の動きがぎごちなくなり、体のあらゆる部分が蜂起して勝手なことをやりはじめたように感じる。恥ずかしくて死にたくなる、おれという肉体プラス精神がこの世にあるというだけで恥ずかしくて死にたくなるのだ。(下線部原文は傍点。以下同じ)」
 と言いながら、彼が最も恐れているのは死である。今すぐ死ぬというわけではないが、いつか確実にやってくる死。自分の意識がなくなった後続く無限の時間を思うと、恐怖で気絶しそうになる。「ああ、おれはどうすればこの恐怖から逃れられるのだろう、とおれは考えた。おれが死んだあとも、おれは滅びず、大きな樹木の一分枝が枯れたというだけで、おれをふくむ大きな樹木はいつまでも存在しつづけるのだったらいいのだ、とおれは不意に気づいた。それならおれは死の恐怖を感じなくていいのだ。しかしおれは、この世界で独りぼっちだった」。
 自分自身の無意味さからも、死の恐怖からも一瞬だけ逃れる唯一の手段は、オナニーだった。この夜は二度する。それですっかり消耗したので、次の日学校で、体力テストの持久走の最中、走りながら失禁するという醜態を全校生徒の前で演じる。
 このように、「セヴンティーン」の前半部分は、大江一流の手法で、主人公の惨めさを徹底して描き出している。食うに困っているというわけではなく、親の金でともかく高校へ通っている者の惨めさなのだから、それは自由な人間の「実存」に貼り付いたものだ。そのようなものはとんと感じない、言ってみれば、豊かな人間の贅沢品みたいなもんじゃないか、という人には、この小説も、『自由からの逃走』も縁がない。
 そちらのほうが幸せに違いないが、なんら現実的な理由はなく、従って解決しようがない恐怖に脅える人間は、現代でも確実に存在している。そしてこの恐怖はそのまま、新しい世界に飛び込むためのスプリングボードになり得る。連合赤軍も、オウム真理教も、全部とは言わないまでも、かなりの部分、ここを経由した者達の手で支えられたのだ。「セヴンティーン」の後半は、そのへんの事情を語っている。
 主人公の醜態を、体育教師への反抗だと勘違いした変わり者の同級生から、「右翼のサクラ」にならないかと誘われる。ほんの少しだけつながりのある《右》が、新橋の駅前で毎日演説している、それをいっしょに、聞いているような顔をしていればいい、と言われて、彼は出かける。それというのも、誤解であっても、ほんの少しでも、他人に認められたようなのが嬉しかったからだ。
 駅前広場で彼が見たのは、初老のライオンのような右翼の党首が怒号し続ける姿だった。何よりも驚かされたのは、もちろん演説の中身などではない、その孤独だ。明らかに、誰も聞いていない。通行人はほとんどが無関心、制服や背広を着て彼の周りにいる党員たちも、どうやら競馬情報板のほうに気を取られている。サクラである以上は、拍手や声援を送るべきだったろうが、きっかけがつかめない。
 黙って後のほうに座っている彼には、やがて不思議な安堵感が訪れ、さらにそこへ、党首の怒号が流れ込んでくる。「自分の弱い生命をまもるためにあいつらを殺しつくそう、それが正義だ」。主人公は立ち上がって、熱狂的に拍手し喚声をあげる。それを見た三人組の女事務員が、「あいつ、《右》よ、若いくせに」と呟くのを聞いて、彼は彼女らに詰め寄る。
おれは娘たちと、その周囲の男たちのまえに立って、それらすべての者らに敵意と憎悪をこめた眼をむけ黙ったままでいた。かれらすべてがおれを見つめていた、おれは《右》だ! おれは他人どもに見つめられながらどぎまぎもせず赤面もしない新しい自分を感じた。(中略)おれはいま自分が堅固な鎧のなかに弱くて卑小な自分をつつみこみ永久に他人どもの眼から遮断したのを感じた。《右》の鎧だ!」
 後に左翼政党の党首を刺殺することになる右翼少年は、かくして誕生した。

 フロムは、上に述べたような傾向を「マゾヒズム的」と呼ぶ。それこそが「権威主義」がこの世にところを得るための不可欠な前提なのだ。

マゾヒズム的努力のさまざまな形は、けっきょく一つのことをねらっている。個人的自己からのがれること自分自身を失うこと、いいかえれば、自由の重荷からのがれることである。(つけたせば他人が優越した力をもっていると考えることも、つねに相対的に理解されなければならない。それは他の人物のじっさいの力によることもあるし、また自己の完全な無主義性、無力感を信ずることによるばあいもある。後者のばあいには一匹の鼠でも、一枚の木の葉でも、おそるべきものと考えられる)。(P.170)

 サルトルが取り上げた反ユダヤ主義や、大江が描いた国粋主義が、ネズミや木の葉のようなものだと言いたいのではない。どちらにしろ、主義の中身は、根本的に問題ではなかった。それは「何者でもない」自分から逃れるために選ばれた方便なのだ。
 ただし大江は、より深い動機を探り当てている。「セヴンティーン」の少年は、何よりも《右》の孤立感と、そこからくる世間一般に向けられた憎悪に共鳴したのである。彼がかつて家族にも級友たちにも漠然と抱いていた敵意は、空回りするだけの、全くどうしようもない代物だった。《右》は、それに形を与えた。一見不思議なようだが、周囲から嫌われるような立場に積極的に身を置くと、他人から向けられる軽蔑の視線が、もはや恐くなくなる。今や、それには理由があるから。おれは確かに、世間から疎んじられるような人間だ、それがどうした? と、見返す眼差しを、少年は手に入れたのだ。
 
 こういう場合でも、安心していっしょに過ごせる仲間が少しはいることは重要であろう。本当にたった一人なのでは、「立場」もない。多かれ少なかれ、同じような「敵意」を抱く者同士が集まる共同体は、大小合わせたら数え切れないほどあったし、今もある。もっとも、組織であればすべて、例えばライバル企業などへの対抗心などは共有されているのが普通ではあるが、他には行き場がないと思う者同士の連帯感は、自然に強力になる。
 その中でも特に強いマイナスのエネルギーを発散している者は、連帯の核になれるから、少年が右翼の党首に惹きつけられたように、何人かの人間を惹きつけ、組織の指導者になることもある。「一指導者の幼年時代」は、主人公がこの道を歩み始めたところで終わっている。
 幸いなことに、悲惨な社会状況でもなければ、このタイプの権力者が一国を動かすまでのことはない。しかし、では、一国の置かれた状況が、他国への憎悪を多くの人に持たせるようなものであったとしたら? かくしてドイツは、ナチス党の覇権を見たのだ、とフロムは概ね論じている。
 とはいえもちろん、どういう社会でも、マイナスのエネルギーをコントロールすることは非常に難しい。ナチス党も完全にドイツを支配するまでには、流血を伴う激しい軋轢を経なければならなかった。敵は外部だけではなく、内部にもいた。ヒトラーが権力を保つために、突撃隊隊長エルンスト・レームを初めとする、数多くの党員が粛正された。憎悪が内部の結束や比較的小さなご褒美だけでは宥められず、より先鋭化して過激なものになると、今度は組織の安定を損なう最もやっかいな要素になるのである。
 「セヴンティーン」の少年が歩んだのは、こちらの道に近かった。ただし、内ゲバに向かったわけではない。彼は一人で、自分の中に、絶対の価値を見出した。それは「天皇」である。現実の天皇とはほとんどなんの関係もない、彼一人の、「幻の天皇」である。他の人間には、まず理解されず、また理解される必要もない。彼を見込んで居場所を与えてくれた、右翼政党の仲間たちさえ、例外ではない。
 党首から勧められた本のうち(この中には「マイン・カンプ」も入っている)、谷口雅春『天皇絶対論とその影響』中の一文が、彼の唯一の原則になる。「忠とは私心があってはならない」。
 そうだ、私心を捨てるのだ! もともと、捨てて惜しいような「私」があったわけではないから、「天皇」のためなら喜んで捨てられる。逆に見ると、「心」を完全に空っぽにすることができて初めて、「天皇」が絶対不動のものとして彼の中へ入り込んでくる。その時のエクスタシー。もう死も恐くない。彼が死んだ後も残る、不朽の「大きな樹木」が見つかったのだから。
 おそらく、初期のプロテスタンティズムの指導者たちが、真正な信仰の前提とした自己放棄はこれに似ている。しかし、「自分一人で、自分の神を見出す」段階にまで至ると、先ほどの、憎悪の先鋭化とはまた別の意味で危険であったろう。ただ、完全に一人になってしまうのだから、現実的な破壊力という意味の危険性は少ない。少年もまた、一人殺しただけである、ってもちろん、殺されるほうにしてみれば迷惑この上もないけれど。なんらかの政治的な理由で殺されたというより、「天皇」の純粋な赤子(せきし)として相応しい行動を求めた挙げ句、「天皇」に敵対すると思えた大勢の候補者の中から、たまたま選ばれたのだから、尚更だ。
 フロムの分析は、ここまでは及んでいない。自己嫌悪から、自己放棄に至り、外部の権威に依拠するところからさらに、権威と完全に同一化し、自己中心主義の極限にまで至るという逆説は、あまりにも特殊であり、文学的な題材だと思えたのかも知れない。
 しかし我々は、「バモイドオキ神」なる神を頭の中でこしらえて、それに捧げる儀式という形で、陰惨極まりない凶行に及んだ少年を、現実に知っている。
 主観世界の中へ、自分も、自分の手の届く範囲の他人も投げ込むことをためらわない心性は、最も純化された権力意思と呼ばれてよいかも知れない。さらに、それがあながち特殊とは言えない段階にまで、私たちの「自由」のニヒリズムは進行しているかも知れない。仮定を二つ並べただけで終わるが、「現在」について個人的に最も気になっていることを書いてみた。

【『自由からの逃走』について、訳者の日高六郎が等閑視している、細かい部分の註記しておきたい。それは、「第七章 自由とデモクラシー」中の以下の文に関することである。

こんにちでは、われわれは当然のこととして、自分は自分であると考えている。しかもなお自分自身についての懐疑は存在し、さらに増大しさえした。ピランデルロはその戯曲において、近代人のこの感情を表現した。彼は次の問いから始める。私はだれであろうかと。私の肉体的自我の持続のほかに、私自身の同一性を保証するものがあるであろうか。彼の答えはデカルトの解答―個人的自我の確証―とはことなり、その否定である。すなわち、私はなんの同一性ももたない。他人が私にそうあるように期待していることの反射にすぎないような自我以外に、自我などは存在しない。私は「あなたが私に望むままのもの」である。(P.280)

 最後の「あなたが私に望むままのもの」は原文As you desire meで、前に出ているイタリアの劇作家ルイジ・ピランデルロが1917年に発表した戯曲の題名を踏まえている。原題はCosì è (se vi pave)。英語の直訳だと、Right you are (if you think you are)が近いらしく、この題の英訳本も刊行されている。As you desire meは、この戯曲を原作にして1932年に製作されたハリウッド映画(グレタ・ガルポ主演、ジョージ・フィッツモリス監督)の題名で、これ以降今日まで、戯曲もこの題名で上演されることもあるようだ。因みに、日本語訳としては、たぶん、昭和三年(1928)の岩田豊雄(獅子文六)によるフランス語からの重訳しかなく、それは「御意にまかす」という題名になっている。As you desire meに似ているけれど、上の文中の書かれているような内容で、また、フィッツモリスも岩田も演劇畑に近く、シェイクスピアのAs you like it(お気に召すまま)が念頭に浮かびやすいとすれば、こういう訳になることはそれほど不思議ではない。】
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権力はどんな味がするか (たぶん)その1

2012年03月04日 | 倫理

Guardians of the Galaxy, 2014, directed by James Gunn

メインテキスト:和辻哲郎『倫理学』(原著は三巻本で昭和12年~24年。昭和40年の改版で二巻本となった。昭和50年第11刷)
同『人間の学としての倫理学』(原著の出版年は昭和9年。岩波文庫平成19年、平成23年第6刷)

サブテキスト:ミシェル・フーコー  田村俶訳『監獄の誕生 監視と処罰』(原著は1975年刊。新潮社昭和52年刊)

 権力の問題については、以前にも言ったが、その他、思いついた時に思いつきを記していきたい。
 今回の思いつきは、和辻哲郎の『人間の学としての倫理学』(以下、『人間の学』と略記する)を、文庫本で読み返したところから生じた。というか、初読の時から感じた違和感を形にしようとしたら、「権力」という言葉をてがかりにするのがよいように思えてきた。
 それというのも、『人間の学』でも、『倫理学』でも、この言葉はほとんど全く出てこない(索引にない)。遅まきながらそれに気づいたからである。
 これは特に珍しいことではなく、倫理の本ではまあ当たり前の話ではある。権力とは、人間の内面よりは、社会の、政治に属する問題だと思われるからだろう。従って、権力論とは、社会学あるいは政治学の一分野になっているようだ。とはいえ、政治哲学者であるマイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』にも、この言葉が表だって登場することはない。
 しかし、和辻が強調するように、人間の共同態がなければ、倫理は生じない。倫理とは、人と人の「間」でこそ問題になることだから。それは、権力についてももちろん言える。権力とは、人と人との間柄の、一形態だと考えることができるだろう。その発生と働きは、人間心理に深く根ざしている。それを敢えて正面から取り上げないようにしたことで、例えば、和辻倫理学は偏頗なものになっているような印象が、私にはある。

 和辻にとって最高の価値は「絶対的全体性」である。ただし注意を要するのは、それが固定したものとしてはあり得ない、としているところ。そうでなければ、彼は全体主義者になってしまう。
 個人も社会も絶えず流動する。人は必ずある共同体の中に生まれて人となるのだから、共同態(人間の共同性)は、個人の本源でもある。しかし人間の個人意識が、「自分は他の人間とは違う」という形を取る以上、共同態からそれていくのもまた必然である。それは一見人間の本源からそれることでもあるから、通常「悪」と呼ばれる。反面、一度それた個人が共同態へと復帰することは「善」と呼ばれる。「人生の真相」は、この往還以外のところにはない。してみると、前述の「悪」こそ「善」が生じるための前提だと言えるから、「そう見える」というだけで、本当の悪ではない。往還の道が停滞し、個人と共同体が離間したまま固定するような事態こそ、真の悪である。
 具体的な共同体として、和辻は、二人共同体(夫婦)から三人共同体(親子)、家族、地縁社会、経済共同体と文化共同体、そして国家、という具合に、多様な側面から考察している。あらゆる共同体には、その共同態からそれることを個々の成員(個人)に禁ずる「強制力」がある。これがつまり、普通「権力」と呼ばれているもののことか、と一瞬思うが、和辻倫理学の中では、この言葉は相応しくない。なぜなら、その力の根源は「信」だとされるからだ。共同性を保つために最も必要なのは成員相互の信頼である。それに背くからこそ、共同態からそれる個人のふるまいは、とりあえず「悪」とされる。共同体が夫婦から国家へと、大きくなっていくに従って、「信」の内容は抽象的になっていくが、根本原理は変わらない。信頼を失った個人は、必ず別の形ででも(例えば、家業を継ぐように期待された者が、それを裏切っても、別の職業について家族のためにつくす、というような)回復するように努めるべきなのであり、それをしなければ、彼/彼女は、その分個人の本源からも逸脱するのだから、満足な「私」にもなれない。
 以上はもちろん、非常に単純化した和辻倫理学のまとめであって、重要なポイントを逸しているかもしれない。が、まるっきりの妄評ではないとすれば、どうも「歯が浮いてくる」ようだという私の感想も、わかってもらえるのではないだろうか。あまりにきれいごとに過ぎる。強制力が信頼関係にのみ基づくとすれば、なぜ共同体には昔から必ず権力があり、また権力の暴走がしばしば起こるのか。例えばそういう素朴な疑問が、自然に湧いてくる。

 それでもやっぱり、人間も社会も、絶えず生々流転する運動の相の内に捉えようとする和辻倫理学のダイナミズムには、大きな魅力がある。「人間の学」で説かれている次のことは、よく納得できる。
 人間の本源は人と人の間にこそあり、しかしその本源は個人としての人の行為において現れる。支那語で「世間」を示す人間(「人間(じんかん)万事塞翁が馬」の「人間」はこの意味)が、日本では個人としての人を示す言葉にもなったのは、最もよくこの消息を現している。個人の行為は、ある断面を切り取ってみれば孤立したもののようにも見えるが、必ず「間」で行われる以上は、行為の作用は、常に他からの反作用を受け、そこでこそ意味があるものとなる。例えば、他者を「見る」という行為は、

(前略)間柄において「ある者」を見るときには、この見られた者はそれ自身また見るという働きをする者である。だからある者を「見る」という志向作用が逆に見られた者から見返される。このことは「見る」という働きが単なる志向作用ではなくして間柄における働き合いであることを意味している。(中略)このことは一方から見るという働き自身がすでに初めより他方から見られることによって規定せられ、かかる「見る作用の連関」がすべての見るの地盤となることを示すのである。(もちろんこの場合には連関の欠如態もある。他方から見られないことによって規定せられた見方、すなわち傍観、垣間見などがそれである。)(P.196-197、下線部は原文傍点)

 たいへん説得的だが、そうであるからこそ、せっかくカッコ書きで「連関の欠如態」も挙げてくれたのだから、ここをもう少しこだわって掘り下げてもらうことはできなかったのか、と思う。謹厳な和辻先生にはそれは無理なのだろう。そこで、もっとずっと卑俗な私がやってみることにする。
 他方から見られない見かたの代表には、peeping(覗き、窃視)があるではないか。単に女の裸や痴態を見たい、というのではない。向こうが、見られていることに気づいていない状態、つまり、向こうから見返されない状態で相手を具に見ること。これは非常にイヤラシイ行為として、少なくとも男には感じられている。いかにも、それは人間の本源から外れたふるまいであろう。だからこそ、惹きつける力を持っている。人間性にはそういう一面も確かにある。そして私見によれば、権力はこのような一面と深く結びついている。

 功利主義の祖として著名なジェレミー・ベンサムは、低コストで効率もいい監獄を考案した。一望監視施設(パノプティコン)である。もっとも、似たようなものは彼以前から考えられていて、それらは、ミシェル・フーコーが取り上げて以来よく知られるようになった。『監獄の誕生』にはベンサムが残した設計図なども載っているから、詳しくはそれを見てもらえればいい。要するに円形の監獄の中心部に監視部屋があり、円周部には独房があって、看守は一人でも、多くの囚人を見張ることができるような施設である。もちろん実際には、一人の看守が、360度の方向にいる複数の囚人を一度に監視するなど、できない。それなら、囚人のほうからは看守を見ることができないようにすればいいのだ。囚人が、いつでも見られている可能性があり、現に見られているかも知れないと思い込むだけで、「見張り」の効果は果たせるのだから。
 つまりこの装置は「見る=見られるという一対の事態を切離す機械仕掛」(前掲書P.204)であり、「権力を自動的なものにし、権力を没個人化する」(同前)。なぜそれが理想的な権力の在り方に近いかと言うと、「見る=見られる」関係から生じる流動化、相対化を免れるからだ。権力とは、人及び人の世(即ち「人間」)の生々流転に歯止めをかけ、固定しようとする力のことである。和辻哲郎が描くような美しい予定調和、共同態を外れた者が必ずまた共同態にもどるような運動のみで社会が保たれるとは信じられないので、あるいは、いつもそう都合良く人間がふるまうとは信じられないので、社会はいつも「信頼関係」とは別の「権力関係」が必要だと感じられてきた。のみならず、権力は、人間が手に入れたいと望む欲望の対象にもなってきたのである。
 ただ、ここでもまた、和辻倫理学が蘇ってくる余地がありそうに思える。他でもない、権力の理想形に近い没個人化されたそれは、それを行使する側の人間にとって、本当に魅力的なのだろうか、ということである。比較のために、自分がピーピングをする場合と、パノプティコンの看守になった場合とを思い浮かべてみてください。
 前者の場合、相手はあなたを見返さないどころか、あなたの存在も知らない。あなたは、ただ見ているだけだ。そこには「固定された人間関係」も何も、「関係」そのものが全然ない。あなたが相手にどんな欲望や興味を懐こうと、どんな秘密を知ろうと、相手にとっては無意味であり、何らかのアクションを起こす、つまり、単に「見る」だけの存在であることを止めない限り、無意味であり続けるしかない。だからこそあなたは無限に自由であり、例えばいつでも「見る行為」をやめることができる。
 具体例として、アンリ・バルビュス「地獄」や江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」など、ピーピングそのものを題材にした文学作品を考えてもよいだろう。前者は安宿屋の壁穴から、ひたすら隣室をのぞき続ける男の話である。彼自身はのぞき見た人生模様に感動し、生きる力を与えられるのだが、なんだかとってつけたようなこの結末以外は、徹底して無意味な存在であり、要するに三人称小説の「作者」に、一定の境遇と視点が与えられたようなもの以上ではない。
 そう言えば、リアリズム演劇の理論として有名な「第四の壁」というのもあった。部屋の一方の壁をぶち抜き、その内部で起こっていることを観客が眺めるのが芝居だ、というものである。してみると、近代リアリズムの文芸とは、のぞきの喜びを与えるべく作られるものと言っていいかも知れない。ここで読者や観客は、内部にいかなる直接的な影響をもたらすことも許されない(劇の場合、演者が観客の反応に影響されることはあり得るが、それをその場で具体的に示して、舞台のこちら側と向こう側で「見る―見られる」関係をあからさまに始めることは、近代劇では禁じ手になっている)。その代わり彼らはその内部に対していかなる責任もなく、どのような感想を持とうと自由だ。感想が「批評」というような形で表に出れば、「事後的に」著者や演者に影響を与えることもある。しかし言うまでもなく、「作品」のほうはその前に完成してしまっている。
 「屋根裏の散歩者」の場合は、主人公は自由に他人を見ることができる全能感を勘違いしてしまい、殺人を犯す。その瞬間に、彼は「見る人」の地位から転落し、流動的な人間関係に入った。最終的には彼には「殺人者」の名が与えられるのだが、それは殺人の実行時に見たが、自分では見たことを忘れたまま深く影響されているあることを、探偵・明智小五郎に「発見」されるからである。つまり彼は余計なものまで見てしまった。ただ、それが「余計なもの」になるのは、探偵―犯人という関係性を自らの行為で引き寄せてしまったときなのだ。このとき、彼の行為は意味を持ち始める。彼自身にとっては非常に厭わしい意味を。

 さて、次にあなたはパノプティコンの看守になる。今度はあなたは現実世界でも力を得ただろうか。例えば、囚人の一人が、規則に反したことをしたのを見たら、報告できる。その囚人にはきっと罰が与えられるのだろう。ここで正しくあなたは他人に力を行使しているのではないか?
 どうも少し違う。囚人を見つめる目と、罰を与える手とは、切り離されていたほうがよいようだ。これこそがパノプティコンの要諦である。囚人は、なぜ自分が罰せられたのか、できればはっきり知らないほうがよい。そのほうが、「自分の悪いところ」を、「自主的に」あれこれ想像するから。そうして思いついた「悪いところ」を、囚人は自主規制するようになるだろう。これがつまり人を社会化し、社会を成立せしめる「訓練」の構造である。
 例えば、完全に放置された子どもなら、いわゆるトイレ・トレーニングも受けず、特定の場所でのみ用便をするというようなことさえ身につかないのだから、このような訓練が不要だ、とは決して言えない。そこで親は、「当然のこと」として、そのようなふるまいを子どもにさせる。それは「躾」と呼ばれる。やがて子どもは、親の直接の強制がなくても、それを「当然のこと」として受け入れ、「身体化」して、ごく自然にそうふるまうようになって、社会で生きていく資格を得る。
 つまり、フーコーが明確に記述しているように、人が、「外部から監視する目」を、自分の内部に取り入れること、その意味で「監視する目」そのものは最終的に不要になること、これが権力の究極的な理想形なのである。それは「非個人的」であって、誰のものでもないので、社会のすみずみにまで拡散し、行き渡る。ただし、そのような理想形が実現されたことはなく、必ずあちこちにほころびができていって、再び「監視の目」が必要だと感じられるのが、これまでの社会の現状ではあるのだが。
 あなたは、このような、「理想的にはいないほうがいい」存在になりたいだろうか。いや、「理想」が実現される以前でも、あなたの役割は徹底して「見る」だけの存在にとどまることなのだ。ピーピングと違うのは、相手は見られていることは知っており、そうである以上、あなたは「見られていることを意識している人間」しか見ることはできないところだ。前述した例では芝居の観客に一番近いようだが、あなたにどのような権力があろうと、あなたの存在を無視する、というか、近代劇の俳優がそうするように、あなたが見ているわけではないようにふるまってくれ、と囚人たちに要求することだけはできない。その意味で、完全に自由なわけではない。あなたはいかにも、相手から「見返される」ことはないが、それは即ち、役割があらかじめ固定されていて、あなたの意志で変えることは、「見る」ことをやめるのも含めて、許されていないからだ。このような立場、このような関係は、どんな喜びをあなたにもたらすのか?

 相手から見返されることのない、それゆえに固定した、つまり安定した権力は、歴史上実際に追及されてきた。
 例えば秦帝国の二代目皇帝となった胡亥。宦官・趙高の策略に乗り、始皇帝が後継ぎに定めた兄やその取り巻きを謀殺して皇位に上ったのだが、司馬遷「史記」の「李斯列伝」によると、その後さらに彼は趙高から次のように言われる。
「天子はめったに顔をみせず、声のみ聞かせたほうがありがたみが増すものです。また陛下はまだお若くて必ずしも諸般の事情に通じておられませんので、もし不当なご下命でもなさいましたら、ご権威の失墜を自ら招くことになります。ですから陛下には当分の間宮中深く座していただき、実際の政治は私など、法に通じた者たちに任せたほうがよろしいと存じます」
 この言葉を容れた胡亥は、趙高以外の者と会うこともめったになくなった。もちろん趙高は、皇帝の命令を騙って、自分が実際の国政を牛耳るためにそうしたのである。例えば宰相の李斯は、胡亥を皇位につけた陰謀の一味であったが、ことが実現すると邪魔になった。そこで趙高は、胡亥が宴席で美女たちと楽しんでいるときに参内するように李斯を促し、皇帝の不興を買うようにしむけ、失脚から、刑死にまで追いやる。李斯が真実を訴える手紙を奏上しようとしても、趙高に握りつぶされてしまい、どうにもならなかった。
 いくら古代支那でも、こんなことが実際にあったとはにわかには信じられないが、寓話とみれば、その意味は明らかだ。理想に近い権力者とは、見ている、とだけ思わせておいて、実際は何も見ていない存在なのである。そのほうが、「見返され」て、影響を受け、揺らぐことがないから。しかしそれなら、この権力者は、実際はいないほうがいいのだ、ということになってしまう。権力の最大の矛盾がここにある。
 いや、実際の権力者は、この場合、象徴としての皇帝の威を借りた趙高だろう、とは誰でも思いつく。不在の最高権力の蔭に身を隠して、自分を見えないようにしながら、力だけは発揮するのが、最も賢い権力者だということになるだろうか。そうも思えるが、実際は、趙高のような者が何をしているのかは、同時代でもかなり明らかであり、多くの人の恨みを買い、秦帝国のあまりにも早い滅亡も招き、趙高は悪臣の代表として歴史に名をとどめている。
 彼は、おそらく、自分で思っていた以上に正しいことを、二代目皇帝に告げていたのである。実際に人々に何かしておいて、自分の存在を完全に隠すなど不可能だ。で、存在が露わになれば、人から「見返される」ことを回避できなくなる。回避したいなら、何もしないに如くはない。しかしもちろん、何もしないなら、権力など最初から不用ではないか。この絶対的な矛盾を解消するためにとられた方策は、実際には何もしないから、間違いもしでかさず、尊さが疑われない権威の中心と、何かするから下手をすると批判されざるを得なくなる権力の中心を分けることである。
 あとは、「実務的な」権力者が、趙高ほど悪辣でなければ、この構造でけっこううまく世の中が治まる場合もある。日本の天皇制とは、長い間、そういう制度であった。

 いや、何もしないほうがいい権威なら、いっそ、この世の中ではなく、人間たちの世界を遠く離れた別のところにある、としたほうがいいではないか、とも考えられるだろう。ユダヤ人が考え出した、唯一絶対神というのがその典型である。これが信じられるなら、最高権威はそれこそ全く絶対不動のものとして、時代を超えて君臨し続けることになる。
 それはよくわかるのだが、人の世の側からみると、これもまた問題を生じる元にもなる。その一つに、唯一絶対に正しいものを人間界の外に設定した場合には、人間界の内部には相対的なものしか存在しなくなることがある。言葉の真の意味での絶対権力はなく、王たちも例外なく、「見るー見られる」流動的な関係を免れない。かくして、唯一絶対神を国教として受け入れたヨーロッパ諸国では、相対的な権力を求め、またそれを打倒しようとする、果てしない闘争に歯止めがかからなくなったのである。
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正しい道はあるのか? その6(最終回)

2011年02月26日 | 倫理
メインテキスト: マイケル・サンデル 鬼澤忍訳『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』(原著2009年刊 早川書房平成22年5月 同年9月87版)

サブテキスト:吉見義明『従軍慰安婦』(岩波新書平成7年 平成9年第7刷)

 自分の属する共同体の、過去への責務、それも、自分が生まれる前のも、と言われるなら、また別の角度から、教育の問題を考えねばならなくなる。単純に、まず第一に知識が必要とされるのだから。
 ソウルへ観光旅行に行って、安重根の銅像を見て、「これ、だあれ?」と、韓国人のガイドに尋ねた日本のお嬢さんが、ムッとしたガイドから説明を聞いた後、「へえ。じゃ、伊藤博文ってだあれ?」とさらに尋ねた。これは小林よしのり『ゴーマニズム宣言』に描かれているエピソードだが、こんな人に日本の韓国に対する植民地政策はどうたら言っても、まるっきり無理なのは明らかだ。自分が体験したことでないものについては、学ばなければ何も始まらない。しかしなにしろ、ものがデカいから、それも簡単にはいかない。

 サンデルは、P.271で、ナチスのホロコーストの事例に並べて、日本の「戦争中の残虐行為」である従軍慰安婦問題をとりあげている。が、彼はこの問題についてあまりよく知らない。「一九三〇年代および四〇年代に、韓国・朝鮮をはじめとするアジア諸国の何万人もの女性が日本兵によって慰安所に送られ、性的奴隷として虐待された」という記述は、嘘である。言い換えると、一方的な見方でできたイメージを、歴史的な事実だとしている。
 以下は、今では日本ではかなりよく知られている「事実」だと思うが、何しろ、アメリカでは、サンデルのような大学者さえおかしなことを言う情勢なのだから、あらためてまとめておこう。
 戦争によって占領地になった地域は、軍政がひかれる。軍隊が行政のトップに座るということで、敗戦後の日本を支配したGHQもその一例である。大東亜戦争中、日本は中国大陸から東南アジアにかけて、たくさんの地域を占領したから、自然に軍政地もたくさんできた。
 ここでの大きな悩みの一つは、兵士たちの性欲処理問題だった。放っておけば、現地人女性へのレイプが多発する。それでは、占領者日本への悪感情の火に油を注ぐから、支配がやりづらくなる。もっと大きな問題は、性病の蔓延である。その防止のために、慰安所が必要とされた。当時でもレイプは犯罪だが、売春は、公的に許可される場合(公娼制度)もあった。
 日本政府は戦後長いこと、慰安所への軍の関わりを一切否定してきたのだから、ウソツキ呼ばわりされるタネを自ら蒔いた、とは言える。実際には占領地での慰安所の設置には軍の認可が必要だったし、慰安婦に月に一度か週に一度の性病検査は義務づけるなどの管理はしたし、兵士たちには、行為の時にはコンドームの着用を義務づけるなどの規則を課してもいる。また、慰安婦たちを別の土地へ移送するのは、軍が直接行った。
 平成四年一月十一日、吉見義明が「発見」した資料を『朝日新聞』がスクープとして大々的に発表したのが、今日まで続くこの問題の発端である(日本軍のための慰安婦の存在は知られていたし、問題視する動きも日韓双方であったが、大きな問題とはされていなかった)。この時は宮沢喜一首相の訪韓が五日後に予定されていて、朝日の記事はどうやらそのタイミングに合わせたものだった。韓国では反日デモが荒れ狂い、宮沢は謝罪の言葉を繰り返し、真相究明を約束して帰国した。
 同年七月、加藤紘一官房長官が調査の結果、慰安所についての日本軍の関与は認めるが、「強制連行したことを裏づける資料は見つからなかった」と発表した。この実情は今日に至るまで変わっていない。しかしそれは、韓国で日本を糾弾している人々が望むような回答ではなかった。と言うか、彼らが求めていたのは、最初から「事実」なんぞではなかったようだ。
 たぶんなんらかの政治取引の結果、翌年、宮沢改造内閣で加藤の後を継いで官房長官になった河野洋平による、いわゆる「河野談話」が出る。これは、「(慰安婦問題は)軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である」ことを初めて認め、「政府は、この機会に、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げ」たことで、歴史的な談話となった。サンデルも、これを真実としたうえで、冒頭に挙げたようなことを書いている。
 事実関係で言えば、この談話の最大の問題は次のくだりである。「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」。
 日本と朝鮮半島について言えば、官憲、つまり軍や警察が、慰安婦の募集に「直接加担した」ことを示す証拠は、いっさいない。吉見の『従軍慰安婦』には、彼が韓国でヒアリングをした元慰安婦たちの証言が出ているが、すべて「甘言、強圧」によって慰安婦にされた例であり、それをしたのは韓国人や日本人の売春業者である。その後、軍人によって直接連行されたと言う人も何人か現れたが、その証言の信憑性は乏しい。
 中国大陸に関しては、元軍人の手記や回想記の類に頼っている。上官に命じられて、塩と交換に売春婦を譲り受けたり、支配下にある村へ行って、慰安婦を集めるように依頼したりしたのだという。「しかし、軍からの要請は、地元の住民にとっては、ほとんど命令と同じではなかっただろうか」と吉見は言う(P.117)。そうかも知れない。が、これは「強制連行」という言葉で普通に連想されるものとはずいぶん違うのも確かだろう。
 かなり近いと思えるのは、東南アジアで起きたいくつかの事例である。昭和十九年にジャワ島スマランで、スマラン事件、別名「白馬事件」と呼ばれる事件が起きた。同地は十七世紀以来三百年にわたってオランダの支配下にあったものを、昭和十七年日本軍が侵攻、現地にいたオランダ人たちは抑留所に収監されていた。スマランにはもともと慰安所はあったが、性病が発症していたため、軍は新たな慰安所の設立を計画した。そこで目をつけられたのが抑留所にいたオランダ人女性である。当地を支配していた第十六軍司令部は、慰安婦を集める際には、強制を禁じ、自由意志で応募したことを示す書類にサインさせることを指示していた模様だが、南方軍幹部候補生隊の将校の中に、これを無視する者が出た。収容所から、強制的にオランダ人女性を連行し、レイプしたうえで、慰安所で働かせたのである(「白馬」とは、「白人女性に乗る」を意味する、日本軍内部での隠語であったらしい)。
 戦後、パタピア(現ジャカルタ)で開かれたオランダ軍の軍事法廷で、この時集められた三十五人の女性のうち少なくとも二十五人が強制による売春だったと認定され、日本の幹部候補隊隊長を初めとする軍人・軍医・軍属十三名が、死刑二名を含む有罪となった。これは、いわゆる「BC級戦犯裁判」の一つであるが、アジア各国で、約五千七百人が裁かれた中で、「強姦」だけではなく、「強制売春」の罪名がついたのは、この一件のみである。
 これは「日本軍人による慰安婦の強制連行」であることはまちがいない。その他に、フィリピンで、反日活動をしていた女性を捕えて連行し、慰安所のような特定の場所ではないが、軍隊内部で強姦し続けた、との証言はある。しかし、いずれも、「日本軍による強制連行」とは言えない。つまり、個々の軍人による犯罪行為はあったが、軍命として、つまりは大日本帝国の国家意志として、日本軍が、組織的に、一般の女性を狩り集めて慰安婦とした、という事例は一つもない。

 何を細かいことにこだわっているのか、という人もいる。日本軍は表面上、合意なしの売春は禁じていたが、それを誠心誠意守ろうとした、とはとうてい言えない。スマラン事件の時も、司令部の意向で、この慰安所は二カ月ほどで閉鎖されはしたが、責任者たちは、日本軍自らの手で裁かれることはなかった。他にも、自分ではやらなくても、業者が不法に慰安婦を集め、日に何人もの男の相手をさせるなど、非人間的な扱いをしているのを、見て見ぬふりをしていたことはあったろう。それなら、日本軍に、ひいては日本人に、なんの責任もない、なんてあるわけないんだから、「ある」と、「男らしく」認めたらどうだ、という。
 純粋に道徳の話なら、そうも言えるかも知れない。そのうえ、このような「潔さ」は、日本人好みでもあるかも。この点から見たら、「河野談話」は、そんなに間違っているわけではない。しかし、この時の自民党政権や外務省が、それしか考えずに、この談話を、政府の公式見解として出したとしたら、その呑気さ自体が犯罪的である。
 国際社会は、実はどうかよく知らないが、少なくとも日韓関係は、「ちゃんとあやまっているんだから、それで水に流そう」なんてことで収まる段階をとっくに越えていた。今回長々と「慰安婦問題」が出てきた経緯を記したのは、これを明らかにするためだ。この問題は、最初から、道徳問題ではなく、政治問題だったのである。
 そこでは、謝罪するということは、自分の悪を全面的に認めたことになり、ではその補償はどうなる、という話に当然なる。実際、そうなった。補償となれば、相手のいいなりに払うわけにはいかないのだから、改めて、事実はどうであったのか、細かく調べなくてはならない。すると、一度自分の非を認めたくせになんだ、ということになる。苦肉の策として、日本は「財団法人女性のためのアジア平和国民基金」、略してアジア女性基金を作り、補償金ではなく見舞金を元慰安婦に出した。するとこれ自体が、日本の国家犯罪をごまかそうとする行為だ、と非難を浴びた。日本は、みごとに罠にはめられたようなものである。
 サンデルは、政治学者でもあるはずだが、この本の範囲では、こういうことに対してナイーブすぎるようである。いや、それ以上に、日本なんて国については、たいして興味がないのだろう。

 確かに、我々が生きるとは、物語を生きることだ。個人としても、国民としても。そして、雑多な歴史の事実から、一貫した物語を作るためには、嘘はつかないまでも、どうしても事実の取捨選択が行われる。事実の中のあるものを強調することそのものが、他のものを隠蔽する結果になる。それを前回見た。
 女性の立場から見たら、日本軍はいかにも、非道なことをした。とはいえそれは、吉見の本にも例が出ている、アメリカ占領軍が、日本のパンパンとかオンリーとか呼ばれた女性たちにしたことに比べて、格別にひどいわけではない。他の国にも、同じような罪科はある。そう言うと、「お前は日本の罪を隠そうとしている」と非難される。一理はあるが、逆に、日本だけが女性虐待をしたかのような言い方は、他国の罪を隠蔽することになる、というのも、同じぐらいの理がある。
 道徳的に人を非難するのはやめたほうがいいのではないだろうか。「汝らのうち罪なき者、この女を石もて撃て」というイエスの言葉が、この場合正しい唯一の道徳律である、と私は感じる。
 それでは、国家が過去に、他国民に犯した罪はどうなるのか、と言われるなら、それは国家という一種の法人格が存続する限り、法的・政治的な責務もまた続くであろう。それが、サンデルもいくつか例を挙げている、アファーマティブ・アクションまで至るべきものかどうかとなると、今の私にはよくわからない。
 それより、次のことは気にならないだろうか。慰安婦を買ったかつての日本人兵士を、我々はただ、「ひどいことをした」と断じられるだろうか? 赤紙一枚で、故郷を遠く離れた戦地に送られた人々が嘗めた辛酸は、今平和に暮らしている我々には想像もつかない。それはもちろん、慰安婦となった女性たちについても言える。
 我々は、彼らがしたことをいいとか悪いとかあげつらう前に、我々と彼らの間の圧倒的な差異に思いを致すべきではないだろうか。そしてその上で、可能な限りの思い遣りを持つように努めるべきではないだろうか。同朋意識、つまり同朋としての物語は、そのようにして我々の中に生まれるのだと私は思う。
 たぶん、それを教えるのは、政治学でも哲学でもなく、文学の役割であろう。いつか別の機会に、改めてこれを考えてみたい。
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正しい道はあるのか? その5

2011年02月20日 | 倫理
メインテキスト: マイケル・サンデル 鬼澤忍訳『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』(原著2009年刊 早川書房平成22年5月 同年9月87版)

サブテキスト:田中克彦『ことばと国家』(岩波新書昭和56年)

 閑話休題。
 前々回私は本書第9章「たがいに負うものは何か?―忠誠のジレンマ」中に出ている問題を取り上げたのだが、サンデルが提出している最も困難な課題は棚上げにしてしまった。それは、共同体が犯した罪を、個人が、自分のものとして引き受けよ、という要請である。それも、自分が生まれる前のできごとについても。例えば日本なら、かつての従軍慰安婦への非道を償う責任が、現在の私たちにある、とされる。
 「自分の国が過去に犯した過ちを償うのは、国への忠誠を表明する一つの方法である」(P.303)。
 同意されるだろうか? これに答えるためには、サンデルが直接には述べていないことについても、あれこれ考慮されなければならない、と私は感じる。

 まず、国家に対する忠誠心、などと言うと、少し前の日本なら、直ちに忌避されたものだ。忠誠なんて言葉自体、封建的でオクレているものの代表だった。今は、いわゆる保守化傾向の世の中で、そうでもなくなったのだろうか?
 あまりよくわからないけれど、国家共同体にまつわる、難しい問題はまだなくなっていない。それは、ここまで大きくなってしまうと、普通の個人には全体を見渡せなくなってしまう、という事情に由来する。
 家族や地域共同体なら、人が実際にその中で育つのだから、疑いようのない具体性を備えたものとして個人の前にある。いや、それ以前に、これら共同体内部の人々との交流を通じて、あなたはあなたという一個の人間になるのであって、あなたと、あなたの家族や故郷とを完全に切り離すことは決してできない。
 つまり、あなたのかけがえのないアイデンティティの一部がそこにある。それに対する忠誠などという「他人行儀」な言葉は、ふつう似つかわしくない。それは前々回に詳しく述べたことである。
 国家の場合、ただちにそうとは言えない。日本のような、さほど広くない国の場合でも、大部分が行ったことのない土地だし、そこに住む国民の大多数が見知らぬ他人だ。そこに同胞意識が生まれるためには、特別な教育が必要とされる。そのために、学校がある。
 以前私は、「学校のリアルに応じて その4」で、近代の勤め人のエートスを身につけるために、学校は必要だと書いた。それとは少し次元が違うところで、学校は、国民国家の、国民を形成する役割も果たす。
 と言って、「学校にそんな大それたことができるものか」と呆れられた経験が、これまで何度かある。それはそうだ、中でやっていることだけを考えれば。
 例えば、かつて標準語普及のために、学校で「方言撲滅運動」というのが実行されたことがある。現在、方言がなくなったわけでもないし、なくそうという人もいないと思うが、日本ならどこへ行っても、言葉がまるで通じなくて困る、なんてことはまずなくなった。その、最大の功績は、どう考えても、まずマスメディア、の中でもラジオ、次にテレビ、という電波媒体にあって、学校ではない。学校だけだったら、どんなに子どもを虐めても、とてもこうはいかなかったろう。
 重要なのはそれ以前なのだ。我が国では明治五年に「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期」した学制ができ、小学校の就学率は当初こそ三割に満たず、農村部では、労働力として当てにされていた子どもを、学校なんてわけのわからないところへ取られるなんて馬鹿な話があるか、という理由で一揆まで起きたくらいだったが、明治末までにはほぼ100パーセントを達成した。この時期から日本では、学校はあるのが当たり前であり、子どもはそこへ通うのが疑いの余地のないものとなった。
 学校が子ども期を制度化し、さらに中高等教育の拡大によって、その時期は次第に延びて、前時代にはあまり一般的ではなかった「青年」という階層が普通のものとなった。それは国家の意思である。あなたが「子ども」というと漠然と思い浮かべる、イメージの大本を作ったのは学校なのだ。
 中でやることだって、全く問題にならないわけではない。達成されることだけ考えたら、半分以上の人が、学校で習ったことなんて、社会へ出たらたいてい忘れるよ、と言うかも知れない。しかし、何しろ、全国統一カリキュラムで、日本語を使って、国語とか算数とか、やることはやるのである。地域にも社会階層にも性別にも左右されない、共通の経験は、国民全員に与えていると言っていいだろう。
 それだけか、と言われるかも知れないが、それだけでも、あるのとないのではえらい違いだ、とは納得されるのではないだろうか。

 学校の話のついでに、日本ではあまり気がつかれない、次のことにも触れておこう。
 アルフォンス・ドーデの短編集『月曜物語』中の「最後の授業」は、以前はよく教科書に載っていたから、かなりよく知られているだろう。独仏両国にはさまれたアルザス地方で、フランス語の教師が最後の授業をする。教室には子どもたちだけでなく、大人も混じっている。教師は言う。この地方はドイツに占領された。明日から学校でフランス語を教えることはできず、自分もどこか他へ行かなければならない。しかし、忘れないでほしい。フランス語は「世界じゅうでいちばん美しい、いちばんはっきりした、いちばん力強いことば」なのだ。「たとえ民族が奴隷の身にされようとも、自分の国のことばを守ってさえいれば、牢屋のカギを握っているようなもの」である。そして彼はいつものように授業をした後、黒板にVive la France!(フランス万歳!)と大書して、皆に別れを告げる。
 美しい物語だ。しかし、『ことばと国家』(「最後の授業」中からの引用も、同書による)などのおかげで、次の事情も今ではよく知られている。
 フランスではアルザス・ロレーヌ地方、ドイツではエリザス・ロートリンゲン地方と呼ばれる地域は、ヨーロッパ史の中で、領有権をめぐって複雑な争いの舞台になった。1648年のウェストファリア条約で、神聖ローマ帝国からフランスに割譲されてから、公用語はフランス語となったが、土着語のアルザス・ドジン語は、ドイツ語の方言とみなすべきものである。「最後の授業」の時代背景は1871年の普仏戦争だが、この時代でもフランス語が生活の中で定着していなかったことは、「ドイツ人たちにこう言われたらどうするんだ。君たちはフランス人だと言いはっていた。だのに君たちのことばを話すことも書くこともできではないか」という先生の言葉からもわかる。
 つまり、「最後の授業」が描く、母国語(フランス語)が奪われることに対する抵抗の物語は、その奥に、もともとフランスがこの地方の土着語を住民から奪おうとしてきた事情を隠している。田中克彦などは、これがつまり国家というもののやり口であり、同一言語を話し同じ過去を持つ「国民」というものは、むしろ後からでっちあげられるのだ、と論じる。
 私は、その面もあることは否定しない。
 人が生きるとは物語を生きるということだ、とサンデルはアラスデス・マッキンタイア『美徳なき時代』を援用して述べている。自分が地域的歴史的に形成されたある集団の一員であり、そこである役割を背負う、と考えることは、契約によって他者とつながる、という個人主義の考えよりずっとダイナミックでエキサイティングな「生きる意味」を与える。国家はその中でも、民族の物語という、最も大きなものを与え、またそれを基盤にして成立している。
 しかし、それが物語、と呼ばれてもいいのは、客観的に確実な根拠はないからだ。その意味では、フィクションの部分が非常に大きい。学校は、このフィクションを伝える場なのである。例えば、お前たちはもともとフランス人だったのだ、これから政治体制は変るかも知れないが、フランス語を忘れない限り、その「事実」はずっと続く、というような。
 「最後の授業」の場合ほどフィクションがはっきりしている例はむしろ稀だ。特に島国日本など、「一民族一国家」がほとんど疑われることがないぐらい、国家幻想が深く浸透している、とも言えるかも知れない。私の先祖など、いつどこから来て、どういう人の血と混じって、その結果今私が日本人として生活しているものやら、皆目わからない。それでも、全く平気で、「日本人」をやっている。
 正直なところ、このような「アイデンテティの根拠」には、あまり興味もない。国民意識を、根拠のない幻想であるとして解除したとしても、今度は例えば「階級意識」なる、別の物語に取り込まれるのがオチだ。20世紀は、そのための大実験が世界的に行われた時期だったと思う。

 とはいえやっぱり、国家というデカすぎる物語は、ときに我々をとんでもないところへ連れて行く可能性があることは、確かである。
 他の人もたいがいそうだと思うが、私はふだん自分が日本人だなんて特に意識することはない。が、TVでオリンピックやサッカーのワールドカップやWBCを見ると、自然に日本チームを応援している。その一方で、日本人一般が侮辱されたと感じたら、平静ではいられない。昔、日の丸が焼かれる映像を見て、嫌な気になったものだ。日本人が別の国の人に、不当に扱われたり、極大だと虐殺されたと知れば、怒りもする。
 我々を主に動かすのは後者の感情だ。本ブログの最初「学校のリアルに応じて その1」で、小グループの排他性ということに触れたが、それは大グループにもある、ということである。人と人をつなぐ原理は、同時に人を遠ざける原理にもなる。
 戦後日本で、国家や、「集団への忠誠」がいやがられたのは、この面が強調されたからである。それは結局、差別や虐待、さらには戦争の温床ではないか、と。アメリカのリバタリアンもまた、その面で、共同体を警戒しているのだろう。
 だからサンデルは、共同体の過去の罪業も背負え、と言ったのだろうか? 「ユダヤ人に対してドイツ人が、アフリカ系アメリカ人に対して白人のアメリカ人が負うように、歴史的不正への集団的謝罪と補償は、自分が属さないコミュニティに対する道徳的責任が連帯から生み出されることの好例だ」と彼は、冒頭に挙げたP.303の引用文のすぐ前に書いている。
 このような道徳的責任は、共同体を外へと開いていくものだろうか? そうだとして、その前提についても、効果についても、まだ考えるべきことは多い。
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正しい道はあるのか? その4(幕間即興狂言)

2011年02月15日 | 倫理


 ちょっと足踏みして、今回は芝居を題材にしておしゃべりします。

 前回私は、「立派な行為」と呼ばれるべきなのは、むしろ、他者のために身近な人を犠牲にするようなものではないか、と述べて、後でそれを簡単に覆してしまった。単純に、あまりよく考えていなかったからだが、なんとなく前者のような感覚が持たれるのは、いくらかは国民性に関連した、普遍的な問題でもあるかな、と思える。
 我々日本人が「私」というとき、それは「公」の反対概念であり、後者より価値の低いもの、と考えがちである。「公」の要請の前では、「私事」は必ず控えなければならない。これが嵩じると、「私」から遠く離れたものほど重要だ、というような感じにさえなる。一種の倒錯かも知れない。ちょっとこだわりたいところだ。

 日本の「公」は、実践すべき徳目としては、義とか義理とか呼ばれるものになる。その代表が、武士の世界の、主君への忠義。武士というのは、江戸時代で人口の一割にも満たなかったわけだが、このノーブレス・オブリージュ(高貴な義務)を背負う者として、人々の上に君臨する道徳的な根拠を得た。一方「私」に関わることは、人情と呼ばれる。
 武士を主人公とする、時代物の浄瑠璃(多くが歌舞伎になった)のヒーローは、公の価値、即ち義の体現者である。義経も、大星由良之助(モデルは大石内蔵助)も、唐木政右衛門(モデルは荒木又右衛門)も、この点でブレることはない。大岡裁きのような、というより一休さんの頓智みたいなものを使って、人情を汲み取ることはあるものの、公→私の順は彼らの中では不動だ。
 こういう人物には葛藤がないので、本当は劇的とは言えず、事実、よく上演される有名な場面(時代物というのはやたらに長いので、全場が「通し」で上演されることは現在ではまずない。一方、各場面の独立性が高くて、一つの芝居として完結していると見えるから、それだけ取り上げられるのが普通である)では、多くの場合彼らは登場さえしない。ここでの実質的な主人公は、公と私、即ち義理と人情の間で、引き裂かれて苦しむ、より心が弱く、立場も弱い者たちだ。
 ここでも、必ず公が尊ばれることは変わらない。人情に惑わされて、主君への忠節や世間への義理を欠く者は、正しい者とはされず、後で自決して責任を取ることで、ヒーローに昇格する(代表例は「仮名手本忠臣蔵」の早野勘平)。そうではなく、大きな私的犠牲を払って公のために尽くした者の場合でも、芝居の眼目となるのは彼らの人間としての苦しみである。
 そのためには、犠牲が大きく、従って苦しみが大きいほどいい。敵方に殺されそうになっている主君の子どもを救うために、自分の子どもを身代わりにする、という筋は、ほとんどすべての演目にある。いくつか見ているうちに、ええ加減にせえよ、と言いたくなるぐらいだ。
 もっと凄いのもある。「菅原伝授手習鑑」中の「寺子屋」では、主君である菅丞相(モデルは菅直人、ではもちろんない、菅原道真)の幼子菅秀才を匿いつつ寺子屋を営む武部源蔵が、いよいよ敵の追求から逃れられない際まで追いつめられて、菅秀才の身代わりに、寺子屋に来ている他人の、上品な子どもを殺してしまう。いくらなんでもそんなのアリか、と思わせておいて、実は、この子どもは、本心を隠して敵方の藤原時平に仕える松王丸の実子で、松王丸はこうなることを見越して源蔵の寺子屋に我が子を預けたのだ、という隠された事情が後でわかる。さすがに他には例を見ないこのすばらしいご都合主義によって、源蔵の行為は最終的に、公の、正義に叶うものとされるのだ(正に、結果良ければすべてよし、ですな)。
 上はもちろんフィクションであって、江戸時代の観客といえども、こんなことが実際に武士の世界にはある、などと信じていたわけではないだろう。それでも、こんな物語が浄瑠璃語りによって繰り返し語られ、人形浄瑠璃として上演され、さらに歌舞伎として生身の役者によっても演じられて、今日まで伝わっている事実は、何者かではある。
 物語によって私たちのエートスが形成されるのか、それとも私たちのエートスと響き合うから、こういう物語が広く受け入れられるのか、これは卵―鶏関係と言うより、同じものを別の面から見ているだけのことだと思う。ともかく、「何が立派か」についての、私たち日本人の感性に、このような「身を捨てて仁(ではなくて、義、だけど)をなす」行為は確実に面影を留めている。
 乃木希典のかつての人気は、彼が我が子も一兵士として特別視せず戦場に送り出し、結果として二人の息子を戦死させた事実に依るところが大きいだろう。戦後でも、フィクションなら、「義理と人情を秤にかけりゃ/義理が重たい男の世界」という歌をバックに死地へと赴くヒーローを描いた「昭和残侠伝」シリーズがヒットしたのは、割合と最近の話である。
 
 お話変わって西洋では。
 二つの原理が妥協の余地なく対立している、crisisの最中にある者こそ劇のヒーローである。そこは日本とほぼ同じで、違うのは、その二つの間に、あらかじめ優劣関係はないところだ。
 ギリシャ悲劇「アンティゴネ」では、題名になっているヒロインは、かの有名なオイディプスが彼の実母イオカステとの間にもうけた、都市国家テーバイの王女である。同じ父母から、他に息子が二人と娘が一人生まれている。父(であると同時に兄)の、忌まわしい醜聞が暴かれて、彼自身がくだした命令によって追放されると、彼女の兄二人の間で、王位をめぐる争いが起きる。破れたほうは、他国の軍勢をたのみ、テーバイを襲撃する。激戦の末、兄弟は相討ちに斃れ、敵軍は撃退されて、テーバイには平和が戻る。新たに王となったイオカステの弟クレオンは、戦後処理の一つとして、この二人のうち、国を守るために戦って死んだほうは鄭重に埋葬し、裏切り者であるもう一人の死体は野に晒しておくように命じる。
 この禁令を破った者がアンティゴネである。彼女はテーバイ城外に打ち捨てられたままの兄の遺骸に、ひとくれの土をかけるという、最も簡素な行為で、哀悼の意を示した。肝心なのは、彼女が、人情からそうしたのではないところだ。
 なぜ国王の命に背くのか、というクレオンの詰問に、アンティゴネは敢然と答える。家族を埋葬するのは、国家以前に、神々の定めた掟である。その後にできた人間界の都合によって変更されていいものではない、と。
 日本なら、国事の公に比べたら家族間のことは私事で、小さな問題だ、とすぐに考えられる。しかしアンティゴネが依っているのは、もう一つの公であり、これがあり得ると考えただけで、国家は相対化される。現実には彼女に与する人間は何人いるのかはわからない(大勢のほうが公に近く、つまり正義に近いとつい考えがちなのも、日本人の悪いところかも知れない)。原理の話なら、「あり得る」だけでも充分である。
 ずっと時代が下って十九世紀末、西洋演劇は、たった一人で「公」を主張するもう一人のヒロインを出現させた。「人形の家」のノラは、夫は自分をまるで人形のように愛玩するだけで、一個の人間として扱っていないと言って、三人の子どもまで置いて、家を去る。
 作者ヘンリック・イプセンの名誉のために、一言断っておくべきだろう。ノラは別に、今日のフェミニストの先祖ではない。
 ことは次のように起きる。かつて夫が大病をして、医療費が足りなくなった時、彼女は死の床にあった父の署名を偽造して、借金をした。夫にはずっと隠し通してきた、犯罪行為である。それがばれそうになったとき、ノラは、夫は自分をかばうために、罪を被ろうとするのではないか、そんなことは耐えられないから、すべてを告白して自殺しよう、と考える。ボバリー夫人と同じ、結婚にロマンチックで過大な幻想を抱く主婦、それがノラだ。
 こんなのは当然、すぐに破れる。夫は、世間体や自身の出世のことばかり気にして、一方的にノラを詰る。半分以上の夫は、まずはそんなものであって、子どもっぽい夢を見たノラが愚かだった、というだけの話にも見える。
 しかし、幻滅して、裸の現実を突きつけられたノラに、「人間同士の本当の結びつきとは何か」という問題が、切実に立ち上がってくる必然性はある。彼女は、本当に一人の、「全き個人」に近い者になって、彼女だけの答えを見つけるために、家を出るのだ。これまた愚かな行為と呼ばれてもいいが、動機の部分では、「人間」に関する西洋近代の公的な概念に、直接関わっているのは確かなのである。

 私は、西洋と日本を比べて、どちらが優れている、とか劣っている、とかいう話にはあまり興味がない。それでも、個人がストレートに公につながることもあり得る、と考えられているようだ、というところでは、あちらを少し羨ましく思うときもある。また、そのような個人観があるからこそ、社会契約説というのにも、原理としてはリアリティがあるのかな、とも。まだ思いつきの域を出ないが、言えそうなことを言ってみた。
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正しい道はあるのか? その3

2011年02月10日 | 倫理
メインテキスト: マイケル・サンデル 鬼澤忍訳『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』(原著2009年刊 早川書房平成22年5月 同年9月87版)

サブテキスト : ジャン・ポール・サルトル 伊吹武彦訳『実存主義とは何か』(原著1946年刊 人文書院 改訂版昭和49年) 

 自由主義の発想で、公正な社会の原理は示せるかも知れない。しかし、それでは何かが、人間が生きていく上で重要な何かが足りない、というのがサンデルたちコミュニタリアンの立場である。
 だいたい、自立した自由な個人がまずあり、その個人同士が約束(契約)して大小の社会=共同体を作り上げる、という発想自体に無理がある。前にも書いたように(学校のリアルに応じて その3)、ヒトは共同体の中で生まれ育ち、最広義の教育を受けて、人間となる。人間は、まず子どもとして、やがては、夫/妻として、父/母としての役割を受け持つ。ずっと独身でいたとしても、地域共同体の一員として、さらには国家の一員としても、やるべきことはある。これらの共同体は明らかに個人に先行しているし、人間が生きる意味を見いだすのは、共同体内の、人と人の「間」以外にはない。Crisis(「危機」及び「分かれ道」)のとき、決断する場もまた同じ。この「場」を棚上げにして、「何が正義か」を考えても無意味ではないか?
 それでサンデルはまず、契約という概念だけで、人間の考える「正しさ」を説明することはできないと証明しようとする。私が、この時代の、日本の、ある地方に、ある父母の子として生まれた事実には、いささかも私の意志的な選択は含まれていない。自由主義的な考えでは、そのような場合、私は誰にも責任を感じる必要はないのだが、実際は感じているではないか、と。
 それは認めるけれど、やっぱり一般的抽象的な話に留まっている。「やるべきこと」については、大雑把なアウトラインが示されたに過ぎない。個別具体的な場面で、決断して何事かをなす(何もしない、も含む)のはあなたであり、主体はやっぱり問題にされざるを得ない。そうでなければ、責任という概念もまた、生じようがない。「責任ある主体」とは何か、という問いが立ちあがってくる必然性は、やはりある。
 腹立たしいことに、共同体は、個人には背負いきれない義務を強いてくることも、たまにある。その代表例としては、家族→地域→国家(さらにこの上に人類共同体を考えるべきかどうか、私にはわからない)と、共同体が大きくなるにつれて、各レベルで要請される「正しいこと」が矛盾する場合が挙げられよう。このような最大の危機に立ったとき、個人はどうするべきか。あらかじめ身も蓋もなく結論だけを言うと、明確な解答はない。

 サンデルが「共同体の成員としての責務」を説明するために挙げた例にも、上の矛盾はあからさまに現れている。
 フランスのレジスタンスの話をみよう(P.293~294)。第二次世界大戦中ドイツに占領されていたフランスで、レジスタンスの活動家のうちある者は、各地を空爆していた。もちろんドイツ軍の軍事施設が目標だが、その周辺にいる一般のフランス人にも犠牲が出ることは避けられず、それはやむを得ぬこととされていた。ある日、この活動に従事していた一人のパイロットが、空爆の任務を誰か他の者に代えてくれと願い出た。その時の標的は彼の故郷の村だったのである。
 サンデルは、実際にあったことかどうかは定かではないこの話を紹介した後、こう問いかける。「パイロットが躊躇したのは、単なる臆病からだろうか? それとも、道徳的に重要な何かの表明だろうか?」。そうとは書かれていないが、サンデル自身は明らかに後者だと考える者であり、このパイロットの行為は、故郷の一員としてのアイデンティティに忠実だったものとして、どうやら賞賛されている。
 私がこの問に是非答えろ、と迫られたら、前者だ、と言うことになる。このパイロットの立場におかれたら、やはり(臆病風に吹かれて?)、同じようにふるまうことは大いにあり得る、とは認めるが、その上でも、やはり。
 空爆は、彼がやらなければ、他の者がやるのはわかりきっている。そして、それは「正しい行為」であるとまで、彼は認めている。そうでなければ、誰かの故郷ではある、フランスの他の場所を空爆できるはずはない。それなのに、やらない、というのは、「自分の手は汚したくない」というだけの話ではないか。
 むしろ、「立派な行為」と呼ばれるべきなのは、彼が故郷や家族への思いは断ち切って、空爆したときではないだろうか。依然として、そういうふうに私がやれるというわけでも、他人にそうしろと勧めるわけでもないが。それはどうも、煮え切らない、もっと言えば卑劣な態度に見える、と言われたら、私は、世の中には「立派な行為」はあるし、そのための基準も一応あるが、人はそれのみでは生きられない、と答える。

 本書ではさらに、二人の子どもが海で溺れていたとき、一方が自分の子どもで、もう一方がそうでなければ、自分の子どもを優先して助けるのが「正しい行為だ」とも言われている。ただし、他人の子どもの頭を踏んづけたりしない限りは、と留保がつけられている(P.306)。それでも、こう言い切ってしまえるのはすごいなあ、と私は感嘆する。
 すると、既にちょっと触れたが(正しい道はあるのか? その1)、最初に出した「暴走する路面電車」の「仮定1」ではこうなるのだろう。五人の命を救うために一人を死なせるのは正しい、とは言われていないが、どうもそのようだ。この人々がどういう人間かを問わないうちは。ここで、「一人」が、自分の家族だったとしたら、彼/彼女を助けて、五人を死なせるのが正しいことに…、なるようだなあ。あなたも、そう思いますか?
 人間には自分の家族に対する特別の義務があるのは確かだ。私は自分の子どもを養育する義務はあるが、隣の子どもに対しては、ない。だからと言って、隣の子どものおやつを取り上げて、自分の子にあげてもいいわけではないのはもちろんである、なんてことより、もっと進んで、次のようには考えられないだろうか。
 自分の子どもを大切にするのは、「義務」であろうか。サンデルがそう説くのに、ことさら異を立てるまでの必要性は感じないものの、どうも、そのような堅い言葉はここではそぐわないように、我々日本人には自然に思えないか? 我が子が不幸せになって、私が幸福になるなんて、あり得ない。そうだとしたら、血の繋がりの有無にかかわらず、もう家族とは呼べない。と、すると、我が子をよその子よりも大切にするのは、つまりは自分のためなのではないか? 我が子のために結果としてよその子を犠牲にするのは、道徳的な責務に従ったというより、全く逆に、自己中心的な、うんと厳しく言えばエゴイズムから発した行為だと言えないか?
 またしても煮え切らない態度だ、と言われるかも知れないが、私は、だからと言って、自分の子をさしおいても他人の子を助けるべきだと主張するわけでもないし、さらに、エゴイズムが必ず悪いとも主張しない。だいたい、誰が(例えばカントが)主張しても、それはなくならない。人間が自己中心的であるのは、単に自然なことだ。
 ただし、それだけでは社会は保たないのも事実で、だからこそ我々は倫理・道徳を必要とする。正義とはそういうところで語られるべきだ、というのが私の考えなのである。

 最初の話に戻ると、ここでは共同体の二つのレベルから、相反する二つの要求が来ているのは見易い。祖国フランスからと、自分を育ててくれた家族や馴染み深い人々からの。
 後者の場合、共同体の運命は、自分の幸福に直結するので、それを守ろうとするのは一種のエゴイズムではないか、という疑問を上では述べた。この話のパイロットがそこまで考えたかどうかはともかくとして、彼は大筋でこちらを捨てた。結局のところ、空爆はされるのだから。そこまでの動機の部分は、立派なものだったろうか?
 面倒くさくてご免なさい、だけど、そうとも言い切れない。空爆が、犠牲の大きさに比べて、どれほどの効果があったかの、実際的な面での疑問もある(結局のところ、英米軍が上陸してくるまでは、フランスは解放されなかった)し、そもそも国家とは、これほどの犠牲を払っても、解放されるべきかどうか、と問う余地もある。
 問は例えばこんな形になる。自国が占領されているのは、たいていの人にとって屈辱的ではあろう。それでも、屈辱を雪ぐために、覚悟しているわけでも同意しているわけでもない人々まで、戦火に巻き込んでもいいのだろうか? こちらはこちらで、国家のエゴイズムと呼ばれるべきではないのか?
(こんなふうにいちいちくだくだしく考えていたのでは、何もできなくなる。いいかげんによしたらどうだ、という声が聞こえてきそうだ。そう、我々はどこかで、考えを打ち切って、行動に踏み切らねばなない。とはいえ、私たちは事前に考えることができて、また考えてしまう動物でもある。それならいっそ、とことんまでいきましょう。考えるなんて無意味だと考えられるところまででも、できれば、行ってみようじゃありませんか)

 結局のところ、「何をなすべきか」の基盤は、いつも危うい。
 誤解を招かないようにつけ加えておくと、サンデルは、身近な人間への義務と国家や社会への義務が対立したら、いつも前者を優先すべきだ、とは言っていない。自分の兄は犯罪者ではないか、と気づいた二人の弟の、相反する行動が、本書には並列されている。そのことを警察には黙っていた弟と、警察に告げた弟と。どちらが正しいともサンデルは言わない。それには決着がつかないことは自明なので、敢て言う必要はないと思っているのかも知れない。
 彼は、こんなふうに悩むことそのものが、人間の価値なのだ、というところでやめている。
「人格者であるとは、みずからの(ときにはたがいに対立する)重荷を認識して生きるということなのだ」(P.307)

 別の人の意見も聞いておこう。
 たぶん、私のように、若い頃、名声がまだ衰えていなかったサルトルに多少とも親しんだ者なら、彼の言葉が思い出されるだろう。やはりフランスの、対独レジスタンスにまつわる話だ(P.31~37)。
 ある日、サルトルが教えた学生の一人が、相談にやって来る。
「私の父は、ドイツの協力者となり、家族を捨てた。兄は、ドイツ軍と戦って、戦死した。自分も兄のようにしたいが、それでは、年老いた母を一人ぼっちで置き去りにすることになる。そのうえ、自分ももちろん戦死する可能性があり、そうなったら母を絶望のどん底に突き落とすことになるだろう。私はどうしたらいいのか?」
 自分に相談に来た以上、答えは決まっている。それはこの学生にもあらかじめわかっていたはずだ、とサルトルは言う。答えとは、「君は自由だ。選びたまえ。つまり創りたまえ」。
 改めて整理しよう。
(1)サルトルは認めたくないようだが、家族や国家は、価値あるものであり、従って維持するための努力を、成員に要求するものとして、個人に先駆けて、あらかじめ、ある。そうでなければ、サンデルのパイロットも、サルトルの学生も、悩む必要などまったくなかったのだ。
(2)しかし、価値は結局相対的なものでしかない。早い話が、ある特定の家族・故郷出身ではなく、フランスという故国を同じくする者でなければ、彼らの悩みは実際問題としては共有できない。いつでも、誰にでも、通用する価値ではないので、ときには、一つの価値のためにもう一つは犠牲にすることも要求されたりする。このとき、サルトルは、再び「自由」を呼び出したのだった。
 つまり、人間が自由である、とは、端的に、人が必ず従うべき価値基準は存在しない状態のことである。このときの自由は、それ自体が価値ではないし、なんらかの価値のために都合がいい状態でもない。どうにも変えようがない、根源的な、人間の条件なのだ。「人間は自由の刑に処せられている」(P.20)と言い得るような。
 ただし、とサルトルはまた反転する。で、あるからこそ、人間は自分の意志で何かをすることができるのだし、価値と呼ぶに足る何かを自ら創りだすこともできる。すると自由は、人間が価値ある存在となるために、必要な状態なのだということにもなる。
 このような論理はあなたにはどう見えるのだろう。今の私には踏み込んで考える余裕はないが、気にかける値打ちはまだあると思えるので、書き記した。
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正しい道はあるのか? その2

2011年02月05日 | 倫理
メインテキスト: マイケル・サンデル 鬼澤忍訳『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』(原著2009年刊 早川書房平成22年5月 同年9月87版)

 本書の特に後半で著者が最も力を入れているのは、自由主義の批判である。そして読者である私が疑問を感じるのも、その部分に集中している。
 その検討に入る前に、自由主義の根源について、サンデルの見解を基に瞥見しておく。
 前回紹介した、政府の干渉はいっさい不要とする立場は、経済面に限ってもなお少数であろう。「他人の自由を阻害する自由」なんてものまで認めたら、実際上自由はほとんどなくなってしまう。それなら、自由主義の哲学とは、自由のために自由を制限する原理をどのように建てるか、こそを専ら考究するべきものだろう。
 敵を論難するにしても、くだらない連中ばかり相手にする議論ならそれ自体くだらない。自由主義批判のためには、この主義のチャンピオンにご登場願わなくてはならない。サンデルが選んだ相手は、申し分なさ過ぎるほどの二人である。イマヌエル・カントと、ジョン・ロールズだ。
 この大哲学者たちの全貌を要約する、なんてことをこの私が夢想しているわけではない。私は、彼らについてサンデルが紹介したものを、さらに自分の問題意識に応じて略述しようと思うだけだ。あまりにも見当外れのことを述べた場合には、諸賢のご叱正をお願いしたい。

 カント哲学のうち、重大なものとしてサンデルが挙げているのは、「人格の尊厳」の概念である。これを生かすために人が心がけるべきポイントは、以下の二つであろうかと思う。
(1)一人の人間は、決して、単なる手段・道具として扱われてはならない。たとえ、一般に立派な目的とされるもののためであっても。それを認めたら、結局は人格の完全否定に行き着く。
(2)人が責任・義務を感じるべきなのは、結果よりも動機についてである。全知全能ではない人間が、行為の結果に完全な責任を持てるなんて、あり得ない。しかし、自分の内心の動機に関しては、理性的な人間ならそれができるはずだ。
 サンデルはそう言っているわけではないが、この原理を適用すると、前回挙げた「暴走する路面電車」の問題に解答できそうだ。「仮定2」で、デブを突き落としてはならない。どんなデブでも一個の人間である以上、電車を止めるための道具として扱われてはならないから。それによって五人の人間が死ぬことになっても、それは結果なのだから、責任を感じる必要はない。同じく、「仮定1」で、五人を助ける「動機」で、「結果」として一人を殺すことになっても、それは容認されなければならない。
 と、いうことで、完全に納得できる人は少数だと思う(私も納得していない)が、解答への有力なアプローチではあるだろ。(デブをナメるなよってこと、ではない。念のため)。
 以上でだいたいわかるように、カントの自由主義と呼ばれるべきものは、たいていの反自由主義よりも厳しい戒律を要求する。人格が尊重されるべきなのは、自由で自律的な人間のみが、この世界に普遍妥当する法則を見つけられると期待されるからで、動物的な欲望やエゴイズムはむしろ邪魔なのだ。逆に言うと、後者に由来する欲求の虜にはならず、そこから自由であることこそが肝心なのだ。
 これも前回挙げた、便乗値上げなどは、他人の困窮を利用して金儲けを企む、最も悪しき動機によるものだから、最も忌むべきだ。たとえその結果、被災地の復旧が早まるとしても、そんなことは問題ではない。
 また、売春はいけない。男女双方が合意の上でやるんなら、誰も困るわけではなし、いいじゃないか、なんてことにはならない。このとき、男は女を、欲望を満たすための道具として利用するのだし、女のほうでは男を、金儲けのこれまた道具として、利用するだけだからだ。人と人との交りがそんなものだけになったとしたら、人格の尊厳のための基盤は雲散霧消してしまう。
 嘘もいけない。それはどういう場合でも、相手に偽情報を与えて、自分のつごうのいいようにふるまってほしいという、不純な動機から発しているものだから(しかし、「言い逃れ」ならいいという、カント自身がやった、なかなか笑える話は、P.174~175にある)。
 カント倫理観の弱点は、現実に、厳密に適用することはたぶん不可能だというところにある。すべての人間がそんなに立派な内面を備えられるわけはないし、結果はどうしても気にせずにはおれないし。だから世間は、「結果良ければすべて良し」=「結果が悪ければすべて悪し」になりがちだし。
 しかし原理としては、「すべての人間は個人として尊重されねばならない」という、今も普通に言われているモットーに、最上の根拠を与えるものだろう。それはサンデルも認めているようだ。
 
 カントは政治哲学者ではない(たぶん、そういう分野自体がカントの時代にはなかった)から、具体的な社会制度についての言及はほとんどない。社会契約説は既にあったが、誰もこの社会で生き始めるときに、契約などしていないのは明らかなのだから、仮想上のものであることは当然である。それはそうと、社会とはそもそもどのようなものであって、どうであるのが望ましいか、カントからは直接学ぶことはできない。彼の「人格の尊厳」概念と両立する形で、二十世紀も後半になってからそれを構築しよとうとしたのが、サンデルによると、ロールズなのである。
 そのための方法論「無知のベール」については、あまりにもよく知られているので、ここで繰り返す必要は感じられない。この思考実験から導かれた望ましい社会の姿は、次のようになる。
 社会の中に競争があり、その結果格差が生じること自体は、解消できない。考えるべきなのは、そこから来る害悪を、どうやって減らすか、なのである。具体的には、(1)どのような人種的・宗教的・経済的なマイノリティ(少数派)にも、平等な権利が認められるべきこと、(2)社会の最底辺の階層の利益に一番適っていること、が社会制度の眼目とされるべきである。
(やっぱり「無知のベール」にほんの少し触れると、あなたが、最小のマイノリティに属し、経済的にも最低の部類に属するかも知れない、と考えたとしたら、上のような制度こそ望ましいと考えるはずだ、そして、それこそが「正しさ」を計る唯一の尺度だ、とロールズは主張する)。
 さて、このような考え自体は、わざわざ言うまでもなく、自明であると言う人もいるだろう。マイノリティへの差別撤廃も、弱者救済のための各種の社会保障も、先進国では、公には、当然のこととされている。それがうまくいっていないとすれば、基本的な「考え」の問題ではなく、制度設計や、制度を運営する人間に問題があるからだ、と。
 ロールズはもっとラディカルなことを考えている。彼は、個人の背丈を超えた価値、だから個人がそのために奉仕すべき価値が、社会の中に存在することを認めない。そんなお題目は、無意味であるだけではなく、躓きの石であり、人を欺く口実に使われる。早い話が、上の二点がなかなかきちんとは実現しないのは、「他にもやるべきことはある」などと思われているからだ。それなら、最優先されるべきなのは何かに関する認識が、定められる必要は今もある。
 この地点でロールズとサンデルは決定的に分かれる。しかし一致するところもある。
 ロールズは、現に生きている人間以外の価値を認めず、個々人の自由は可能な限り保障されるべきだとしている。にもかかわらず、最高の金持ちが金を出して、最低の貧者に与える「所得の再分配」は正当だとも言う。なぜか。
 例えば、イチローが千八百万ドルの年俸をもらうのは、彼の超人的な努力の賜物であり、他人からの「借り」など感じる必要はない、と一見思える。しかしよく考えると、その「努力ができる能力」を含めた才能は、彼個人だけで獲得したものと言えるだろうか(遺伝と環境が決定的な因子になるだろう)。さらに、彼が、野球というスポーツがこれほど人気のある時代と社会に生まれなかったとしたら、普通のサラリーマンが一生かかっても絶対に獲得できない金を一年で稼ぐなんて、不可能だった。そういう意味では、イチローの稼ぎは、幾分かは社会の恩恵を受けているのだから、その金の一部を、逆に、この社会では恵まれない境遇にならざるを得なかった人々に与えるのは、理にかなっている。
 どうも私のまとめ方が悪いせいか、屁理屈にも聞こえるな。サンデルが用意した、もっと適切な例を出そう(P.21~24)。
 2008年~09年の金融危機のとき、ブッシュ大統領は、大手銀行や金融会社救済のための公的資金導入を議会に求めた。それは通ったが、大方が予想したように、評判は悪かった。中でも、こうして救済された会社の一つ、保険会社AIGの幹部の中で、一億ドルを超えるボーナスをもらっている者もいることが判明した時には、多くのアメリカ国民の憤激をかった。もっとも、好況時には、この幹部のボーナスは、その二十倍にも及んだらしいが。会社の稼ぎからでなく、公金即ち税金から、破綻した会社の役員に、多額の金が支払われるとなれば、アメリカでも日本でも、多くの人が、不当なことが行われたと感じる。
 「でも」と、幹部の一人が言ったらしい。「会社が依然として業績不振で、公金からの補助を返せないでいるのは、今の経済状況のせいでもあるんです。我々だってできるだけ努力しているんです」
 大いに、そうかも知れない。しかし、業績が伸びないのは幾分かは社会状況のせいであるとしたら、業績が伸びるのも幾分かはそうであろう。それなのに、その時の収益金は全部「自分のもの」としたのはおかしくないか? 困ったっときには国から助けてもらうんだから、儲かっているときには国に、即ち公の側に、幾分か納めるべきだろう。
 
 以上は理にかなった考え方だと一般にも認められるだろう。累進課税の正当性は、こう考えなければ出てこないのだから。
 たくさんの金を稼いだ人ほどたくさん社会に還元すべきだ、とは考えられていないとしたら、累進課税どころか、税率というものが既に不当だということになるだろう。税金とは、公共サービスの対価であるだけなら、消費税や公共料金がそうであるように、一定のサービスは一定の料金が課されるしか、正当なことはないはずなのだ。
(まあ実際は、税金は、取れるところから取ったほうがいいから、ということで累進課税が用いられている面は否定できない。月収二十万円の人から二万円貰うより、月収一千万円の人から五百万円貰ったほうが楽だ。五百万の金は、そんなに簡単には使えないから。しかし、正当化のための理屈はやっぱりあったほうがいい)。

 人格の尊厳の原理やら、正しい社会制度の原理については、サンデルはけっこう、彼が自由主義者と呼ぶ人々と共通していることがわかった。違いが出てくるのは、もっと別の面、「この人生をどうやって充実させるか」に関するところなのである。
 そこでの私の疑問の核心を一番短く言うと、こうだ。人生の問題を、「正義」ということと、必ず関連させなければならないものだろうか?
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正しい道はあるのか? その1

2011年02月03日 | 倫理
メインテキスト: マイケル・サンデル 鬼澤忍訳『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』(原著2009年刊 早川書房平成22年5月 同年9月87版)

 最近の私はネットで本を買うばっかりで、本屋にはめったに行かなくなった。
 昨年暮れ、久しぶりに立ち寄ったら、入口付近の最も目立つ棚に、ドラッカーの本などと一緒に平積みにされている白い本があった。やっぱりマネージメントか何か、そっち系の本なんだろうな、と軽く考えてふと書名を見たら『これからの「正義」の話をしよう』。え? 金儲けに「正義」が関係あるわけ? そんなのにこだわっていたら、商売の障りになるばかりじゃないか?
 と不審に感じ、著者名を見たらマイケル・サンデル。え? あの? 『自由主義と正義の限界』の? それじゃあ、政治哲学だよな、どうしてそんな本がこんな、売れ筋商品を並べる場所にあるわけ? と、つられて、私は、表紙の、帯を見た。「NHK教育テレビにて放送!」「ハーバード白熱教室in東京大学(仮)」。
 つまり、ハーバード大でサンデル教授の講義の人気は高く、ついにTV放送されるに及んだ、それは日本でも放映され、サンデル自身、東大へ来て出前授業をした、とのこと。
 後日私は、何人もの知人がこの番組を見ていたことを知った。我が家のチャンネル権は、まず五歳の息子が握っており、次が家内、最後が私で、この序列最下位の者が好きな番組を見る機会はごく僅か。自然、TVそのものへの関心も薄くなって、私はこのような番組の存在を全く知らなかった。従って、授業者としてのサンデルの腕前のほどについては何も分からない。今後DVDか何かで、番組を見る機会はあるかも知れないが、それを自分の授業で生かせるかどうか、まあ、望みは薄い。
 しかし、いくらわかりやすく書いてあって、TVの(結果としての)宣伝はあったとはいえ、このような本がベストセラーになるというのは、いまだに不思議である。これは私が世間の人をみくびり過ぎていたということか。客観的には望みは薄い、としか依然として思えないが、今後は生徒をなんとか乗せる手立てをもう一工夫してみよう。

 サンデルの講義はその名も「正義」Justiceと名付けられているとのこと。この講義名は日本では考えられないだろうな。中身は、多くは実際にあった、いろいろな事例を出して、「何が正義か」を学生たちに考えさせ、議論させる、と。それはきっと面白いだろう。結論は出ないだろうし、学生たちが今後生きていくうえでどれくらい役に立つかはやや疑問だが。授業は、やらなくてはならないものなら、面白いに越したことはない。
 で、ついに私は買うことにした。
 この本は、講義をベースにして、新たに書き下ろされたものだ(同書「謝辞」P.347)。授業の熱気は伝わらないが、とりあえず私は、倫理、というか、「何が正しいか」の話は好きだ。英米系の哲学者が得意らしい「思考実験」(譬え話のようなものを使って、ものごとを考えさせること)も好きだ。事実、面白く読めた。これから述べるいくつかの違和感はあったが、それをも含めて。
 一つ私も、サンデル先生の生徒になったつもりで、「何が正義か」について、というより、「何が正義かなんて、なかなかわからない」ことについて、になると思うが、自分の意見を述べよう。読んでくれている人の中で、御親切に、サンデル先生になりかわって、教導してくださる人がいらっしゃったら、よろしくお願い申します。

 本書は第一章からして、考える材料を豊富に出している。そのうちの柱は、(1)2004年の夏、甚大な台風被害を被ったフロリダで、実際にあった話と、(2)思考実験のための譬え話としてけっこう有名らしい、「暴走する路面電車」。
 コミュニタリアン(共同体主義者)として著名なサンデルは、(1)は自由主義に対する、(2)は功利主義に対する、批判のための例示にするつもりらしい、とは後からわかる。そんなのは知らなくてもいいようなものだけれど、知ってしまうと、そうとしか読めない論述になっている。本であれ講義であれ、一人の人がやる以上、その人格からあるバイアスがかかるのは、どうにも仕方がない。
 (1)は、台風通過直後のフロリダで、氷や家庭用発電機や家の修理費用やモーテル代が高騰した話。もちろん便乗値上げも多く、最終的には規制されたが、経済学者の中には、そのような施策は不要である、と唱えた者もいたそうだ。
 その理由の第一は原理的なもの。自由主義経済下ではものの値段は需要と供給によって決まるのであって、それは時と場所によって変動するのが当たり前。取引(売り買い)以前に「公正な価格」があるように思うのは、畢竟感情的な問題に過ぎない。
 第二は現実的なもので、これによって経済活動を活性化させることができる、ということ。例えば氷が高く売れる見込みがあるなら、多くの業者が増産してフロリダまで運ぶようになるだろう。結果として、被災地の復興が早まる効果が期待できる。
 後のほうは、実際にそうなったかどうか、わからないが、ここではそうだった、ということにする。そうだとしても、だから便乗値上げをした業者は正しく、その事態は放置しておくほうがいいのか、となると、少なからぬ人が首をかしげるだろう。人が困っているのにつけ込んで金儲けをする輩に対しては、なんらかの社会的な規制なり罰則が必要なのではないか、と素朴に思えてくる。
 いや、罰もまた市場(売り買いの場)によって与えられるから、それ以上のことを考える必要はないのだ、とする立場もあるだろう。高い品物やサービスを売りつけられた消費者は、自由に買える日が来たら、二度とその業者からは買わないかも知れない。ところで、それは当然だ、と思うぐらいには、私たちはこのような際に便乗値上げをする業者はあこぎで、悪しき者だと考えているのだ。
 即ち、自由主義が、経済的に完全なレッセフェール(放置主義)で市場万能主義をよしとするとしたら、一般にいつも正しいとはされ得ない。その通り。異論はない。

 (2)のほうは少々難しい。純然たる思考実験、つまり仮定の話だ。
 仮定1。あなたは路面電車の運転手だ。時速六十マイルで走行中、前方に五人の作業員が線路にいるのを発見する。ブレーキは間に合わない。ふと、右側へそれる待避線が目に入る。そこには一人だけ作業員がいる。この待避線へとハンドルを切れば、五人の命は助けられるが、一人は殺すことになる。あなたならどうするか?
 仮定2。あなたは橋の上から、走行している路面電車の前方の線路に、五人の作業員がいるのを見る。あなたの隣にはとても太った男がいた。彼を橋から突き落とせば、その男は死ぬだろうが、電車は止まり、五人の命は助かる。どうするか?
(しかし、特に「仮定2」のほうは、すごい仮定だ。だいたい、ぶつかって電車を止められるほどのデブがいるものだろうか。こういうのはデブ差別ではないか、とデブの私などは思うが、もちろんそれは関係ない話)
 多くの人が、「仮定1」では、電車を待避線に入れて、一人を殺して五人を助けるほうがいいと考えるだろう。しかし「仮定2」では、デブを突き落として五人助けるのがいいとは思えないだろう(そうですか?)。
 しかし、何が違うのか? 両方の場合とも、一人の命を犠牲にして五人の命を救う、という点では変わらない。功利主義は、人の命も計算できるとするから、その立場からは、いつも、一人の命より五人の命のほうに、より(五倍の?)価値があることになる。「仮定1」で一人の犠牲者を出すことが正しい行為なら、「仮定2」でも正しい行為である。そうとしか言えない。
 それには同意できないとすれば、功利主義はいつも、一般的に正しいとはされないことになる。う~ん、それはそうか…? でも、これでちゃんと批判したことになるか? いや、それ以前に、前提が少しおかしくないか?
 どのような理由からであれ、やむを得ず一人を死なせるのと、積極的に手を下して一人を殺すのでは、やっぱり違う、とは確かに思えるかも知れない。しかしそれこそ、感情の問題ではないだろうか?
 では、やっぱりどちらの行為も正しいということになるか? いや、むしろ逆ではなかろうか。「仮定1」の場合、運転手が結果として一人死なせる行為は「やむを得ないこと」として、免責されるのは当然であるとしても、積極的に推奨できる「正しい行為」とまで言えるのだろうか? 感情の問題からすると、あなたが、助かった五人とは赤の他人であり、死ぬことになった一人の友人や家族だったとしても、正しいことがなされたのだからよかったのだと、納得できるものだろうか?
 ここで、そんなことを言うなら、(1)の場合だって、規制されたり罰を受けたりする業者やその身内はいやな思いをするじゃないか、と考える人がいるかも知れないので、言葉を重ねよう。このときには、特定の人々の利益や感情を損ねる結果になっても、それを無視して貫くべき「社会的正義」がある、と私は考える。なんと言っても、便上値上げは、自らの意思で行うものだ。しかし(2)は、被害者の意思は全く関係ない。「仮定1」と「仮定2」の違いは、死なせる側の積極性の度合いに過ぎない。片方を是とし、片方を非とするのは、どうにも割り切れないものが残りはしないか?
 本書を最後まで読んでも、「仮定1」での結果としての殺人は正しいが「仮定2」ではそうではない、とする根拠は示されない。割り切れなさは宙ぶらりんのまま残される。さらに、それと同じような思いは、本書中のいろいろな場所で反響するのである。
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