メインテキスト : 菅野仁『教育幻想 クールティーチャー宣言』(ちくまプリマー新書 平成22年)
サブテキスト : 綿矢りさ『蹴りたい背中』(河出文庫 平成19年 平成22年26刷)
もう一つ、この小説を題材にして述べたいことがある。教師に関することだ。
主人公は陸上部に入っている。夏休み前のある日(この小説は高校最初の夏休みに入る直前までの時期を描いている)、練習をがんばりすぎた彼女は、転んで、軽い怪我をしてしまう。他の女子部員たちが「大丈夫?」と寄ってくる。主人公は部活でも浮いているから、本当に心配しているわけではない。ただ、練習をサボりたいだけ。
ところへ顧問の先生が登場。「先生、長谷川さん(主人公の名)が転んだのにびっくりして、みんな何周走ったか忘れちゃいました」と、とぼける部員たち。「しょうがない奴らだ。じゃあ今からミーティングだ」と、わざとらしく眉間に皺を寄せて応じる先生。「それは基礎練は終わりってことですか?」と念を押す生徒たち。「お前らは、どう思うんだ?」先生の目は“いたずらっぽい目”になっている。主人公はこの目にはぞっとさせられている。
で、練習は終わりになるが、すぐ後で主人公は事実を知る。光化学スモッグ注意報が発令されたという校内放送があった。誰かが怪我をしてもしなくても、練習をどれほどやっていてもやらなくても、屋外での運動は中止になったのだ。それを隠して、部員たちの希望を聞いてやる「優しい、話のわかる先生」を演じた顧問。その「みみっちい計算」を思うと、主人公は泣きたくなる(以上P.51~58)。
ここに描かれていることの前提に疑念を持つ人がいるかもしれないので、註記しておこう。なんで部活動がこんな状態になるのか? 出席が義務づけられている授業と違って、部活は原則自由参加だ(部活動全員強制加入の学校もあるが、それはここでは除く)。練習をさぼりたいくらいなら、入らなければいいだけの話ではないか? また、自分が中学高校時代に部活に打ち込んできた経験のある人の中には、厳しくしごいてくれる顧問に感謝している、それこそ「よい先生」ではないか、と自然に思っている場合も多いだろう。
そのような部活動は今でもあるが、そうでないのもある、ということである。最近の統計的な資料など、あるのかどうかさえよく知らないので、全体としてどちらが多いのか、確かなことは言えないが、次のような感覚が広がっているのは、教師として肌身に感じている。
授業でやる勉強よりは、部活でやる運動のほうが好きな子はもちろん多い。陸上競技が好きだから陸上部へ入るのであって、嫌いな子が来るわけはない。しかしその全員が、非常に苦しい練習を乗り越えてまで、実力をつけたいと念願しているかどうかは、また別の話になる。いくら好きでも、全国大会に出場できるほどの者はもとより少数であり、その他いろいろ考えても、運動をやったことによって報いられる見込みは、勉強よりもっと少ない。今の子どもにはその事実は知れ渡っている。と、すれば、好きなことは、好きなようにやりたくなる。
とはいえ、運動をやる以上、体力や技術が向上すればやっぱりうれしい。その喜びがないとしたら、部活はやらない。このへんの機微は非常に微妙であって、あまり強くない部の顧問になった教師は、それを視野に入れて、やっていくしかないのである。生徒の感情を無視して、むやみにスパルタでやっても、まるっきり放っておいても、その部活は早晩崩壊する公算が高い。
『蹴りたい背中』中の部活は、明らかに、スパルタ式訓練が通用する種類のものではない。生徒たちは、あまりきつい練習はしたくないので、甘えるふりをして、顧問教師を丸めこもうとする。教師は、丸めこまれたふりをして、なんとか体面を保ちつつ、部活を存続させようとする。
そんなに悪いことだろうか? とりあえず、教師と生徒の関係は良好なのだ。みみっちい計算が双方に働いていることは確かだが、見方を変えれば可愛いものだとも言えるだろう。主人公にしても、全国大会を目指すほど陸上に入れあげているわけではない。ここでも問題になるのは、彼女の潔癖さである。人間関係で働くインチキは、それが卑小なものであればあるほど、許せなくなるという、やっかいなリゴリズム。
私は、かつての文学少年として、彼女に多大な共感を覚えるが、残念ながら、馬齢を重ねるうちに、こういう感覚のままに生きていくのは非常に難しいことも学んでしまった。いかにも、本当の信頼関係は馴れ合いとは違うだろう。しかし、実際の生活の場で、この二つを区別することは口で言うほど簡単ではないし、区別する必要性が感じられることは、学校でもよそでも、めったにないのである。
教師だって「もてたい」のだ、ということは率直に認めておいたほうがいいだろう。こういうところでは、教師はまったくもって「ただの人」に過ぎない。当たり前の話だけれど。
誰だって、他人に嫌われるよりは、好かれたほうがいいに決まっている。『蹴りたい背中』の主人公のような、潔癖な性向のままに、厳しい生き方を選択した者でさえ。「人間(生徒たち)に囲まれて先生が舞い上がる度に、生き生きする度に、私は自分の生き方に対して自信を失くしていく」
別の箇所では、「長谷川は練習を頑張るから、これからは伸びるはずだ」と、嫌いなはずの顧問教師から言われ、不覚にも涙ぐみそうになる(P.109)。人に認めてもらいたい欲求は、人間として最も根源的なものの一つだろう。そのために多少不純な手練手管が働いたとしても、そんなに咎めるべきことではない。
問題はこの先にある。それでもやっぱり教師は、生徒と馴れ合ってばかりではいけない。
馴れ合い、とは、教師もまた、部活なら部活、クラスならクラスの空気にある程度合わせるということだ。『蹴りたい背中』の、陸上部の顧問教師も、そうだ。それは、教師もまた生徒とともに学校で生活する者である以上、ある程度は必然であり、必要なことでもある。ただ、度をこしてしまうと、まずいことになる。
『教育幻想』には、「教室の空気にあわせ過ぎてしまう」例として、昭和61年当時、かなり話題になった「葬式ごっこ」が出てくる(P.126~129)。ある生徒が病気でしばらく休んだとき、この子が死んだことにする遊びが始まった。追悼のための色紙がクラス内をめぐり、かなりの人数が書き込む。「安らかに眠ってくれ」とか、なんとか。そこに、担任教師も書き込みをしていた、というあの事件である。
この子どもは他でもいじめられており、「このままじゃ生きジゴクになっちゃうよ」という悲痛な遺書を残して自死した。そうでなければ、「葬式ごっこ」が世間に知れ渡ることはなかったろう。ひとたび知れ渡ったら、教師がなんという非常識な、いや、非道なことをするのだ、という憤激が、全国的に湧き上がり、以後、「いじめ」は、最も重要な教育問題であると認知された。
冷静に考えると、この教師の行動はどこから出てきたのか。菅野の指摘を待つまでもなく、葬式ごっこは、「軽いノリ」・「ほんの冗談」の調子で行われたのに違いない。色紙に書き込んだ生徒の大部分はもとより、ひょっとしたら首謀者(この「遊び」を始めた生徒)もそうだったかも知れない。そこに、教師も巻き込まれていった。つまり、おふざけ気分を共有して、生徒との「連帯」を得るために、書き込んでしまった。それがおそらく真相に近い。
こういう事態を招く原因の一つには、明らかに、従来からの教育観もある。教師は、生徒との信頼関係こそ大切であり、常に生徒の事情や気持ちを思いやることが求められる、とする、今でもおなじみのアレだ。まちがいだと言うつもりはない。しかし、お互いに対立することも珍しくないクラス内の個々人の「気持ち」を掴み、いちいち的確に対応していくなんて、並の人間には至難だ。勢い、クラスの多数派に同調しがちになる。そこに危険がある。
どうすればいいのか。「友だち教師」がダメなら、教師は、昔はあったとされている「威厳」を取り戻せばいいのか。これまた、非常に難しい。特にそれを、教師個人の力だけでやれ、ということになったら、はっきりと不可能だ、と申し上げたほうがよい。
昔の教師がエラかったとすれば、それは、世間に「教師はエラいってことにしとこう」という暗黙の了解があったことを意味する。この点で菅野の言うことは全く正確である。「(教師が)ときには「上からものを言う」ことも大切なのです。でもそれは周りの支えがない状態で、一人の先生の力で行うことは不可能です」(P.132)
サブテキスト : 綿矢りさ『蹴りたい背中』(河出文庫 平成19年 平成22年26刷)
もう一つ、この小説を題材にして述べたいことがある。教師に関することだ。
主人公は陸上部に入っている。夏休み前のある日(この小説は高校最初の夏休みに入る直前までの時期を描いている)、練習をがんばりすぎた彼女は、転んで、軽い怪我をしてしまう。他の女子部員たちが「大丈夫?」と寄ってくる。主人公は部活でも浮いているから、本当に心配しているわけではない。ただ、練習をサボりたいだけ。
ところへ顧問の先生が登場。「先生、長谷川さん(主人公の名)が転んだのにびっくりして、みんな何周走ったか忘れちゃいました」と、とぼける部員たち。「しょうがない奴らだ。じゃあ今からミーティングだ」と、わざとらしく眉間に皺を寄せて応じる先生。「それは基礎練は終わりってことですか?」と念を押す生徒たち。「お前らは、どう思うんだ?」先生の目は“いたずらっぽい目”になっている。主人公はこの目にはぞっとさせられている。
で、練習は終わりになるが、すぐ後で主人公は事実を知る。光化学スモッグ注意報が発令されたという校内放送があった。誰かが怪我をしてもしなくても、練習をどれほどやっていてもやらなくても、屋外での運動は中止になったのだ。それを隠して、部員たちの希望を聞いてやる「優しい、話のわかる先生」を演じた顧問。その「みみっちい計算」を思うと、主人公は泣きたくなる(以上P.51~58)。
ここに描かれていることの前提に疑念を持つ人がいるかもしれないので、註記しておこう。なんで部活動がこんな状態になるのか? 出席が義務づけられている授業と違って、部活は原則自由参加だ(部活動全員強制加入の学校もあるが、それはここでは除く)。練習をさぼりたいくらいなら、入らなければいいだけの話ではないか? また、自分が中学高校時代に部活に打ち込んできた経験のある人の中には、厳しくしごいてくれる顧問に感謝している、それこそ「よい先生」ではないか、と自然に思っている場合も多いだろう。
そのような部活動は今でもあるが、そうでないのもある、ということである。最近の統計的な資料など、あるのかどうかさえよく知らないので、全体としてどちらが多いのか、確かなことは言えないが、次のような感覚が広がっているのは、教師として肌身に感じている。
授業でやる勉強よりは、部活でやる運動のほうが好きな子はもちろん多い。陸上競技が好きだから陸上部へ入るのであって、嫌いな子が来るわけはない。しかしその全員が、非常に苦しい練習を乗り越えてまで、実力をつけたいと念願しているかどうかは、また別の話になる。いくら好きでも、全国大会に出場できるほどの者はもとより少数であり、その他いろいろ考えても、運動をやったことによって報いられる見込みは、勉強よりもっと少ない。今の子どもにはその事実は知れ渡っている。と、すれば、好きなことは、好きなようにやりたくなる。
とはいえ、運動をやる以上、体力や技術が向上すればやっぱりうれしい。その喜びがないとしたら、部活はやらない。このへんの機微は非常に微妙であって、あまり強くない部の顧問になった教師は、それを視野に入れて、やっていくしかないのである。生徒の感情を無視して、むやみにスパルタでやっても、まるっきり放っておいても、その部活は早晩崩壊する公算が高い。
『蹴りたい背中』中の部活は、明らかに、スパルタ式訓練が通用する種類のものではない。生徒たちは、あまりきつい練習はしたくないので、甘えるふりをして、顧問教師を丸めこもうとする。教師は、丸めこまれたふりをして、なんとか体面を保ちつつ、部活を存続させようとする。
そんなに悪いことだろうか? とりあえず、教師と生徒の関係は良好なのだ。みみっちい計算が双方に働いていることは確かだが、見方を変えれば可愛いものだとも言えるだろう。主人公にしても、全国大会を目指すほど陸上に入れあげているわけではない。ここでも問題になるのは、彼女の潔癖さである。人間関係で働くインチキは、それが卑小なものであればあるほど、許せなくなるという、やっかいなリゴリズム。
私は、かつての文学少年として、彼女に多大な共感を覚えるが、残念ながら、馬齢を重ねるうちに、こういう感覚のままに生きていくのは非常に難しいことも学んでしまった。いかにも、本当の信頼関係は馴れ合いとは違うだろう。しかし、実際の生活の場で、この二つを区別することは口で言うほど簡単ではないし、区別する必要性が感じられることは、学校でもよそでも、めったにないのである。
教師だって「もてたい」のだ、ということは率直に認めておいたほうがいいだろう。こういうところでは、教師はまったくもって「ただの人」に過ぎない。当たり前の話だけれど。
誰だって、他人に嫌われるよりは、好かれたほうがいいに決まっている。『蹴りたい背中』の主人公のような、潔癖な性向のままに、厳しい生き方を選択した者でさえ。「人間(生徒たち)に囲まれて先生が舞い上がる度に、生き生きする度に、私は自分の生き方に対して自信を失くしていく」
別の箇所では、「長谷川は練習を頑張るから、これからは伸びるはずだ」と、嫌いなはずの顧問教師から言われ、不覚にも涙ぐみそうになる(P.109)。人に認めてもらいたい欲求は、人間として最も根源的なものの一つだろう。そのために多少不純な手練手管が働いたとしても、そんなに咎めるべきことではない。
問題はこの先にある。それでもやっぱり教師は、生徒と馴れ合ってばかりではいけない。
馴れ合い、とは、教師もまた、部活なら部活、クラスならクラスの空気にある程度合わせるということだ。『蹴りたい背中』の、陸上部の顧問教師も、そうだ。それは、教師もまた生徒とともに学校で生活する者である以上、ある程度は必然であり、必要なことでもある。ただ、度をこしてしまうと、まずいことになる。
『教育幻想』には、「教室の空気にあわせ過ぎてしまう」例として、昭和61年当時、かなり話題になった「葬式ごっこ」が出てくる(P.126~129)。ある生徒が病気でしばらく休んだとき、この子が死んだことにする遊びが始まった。追悼のための色紙がクラス内をめぐり、かなりの人数が書き込む。「安らかに眠ってくれ」とか、なんとか。そこに、担任教師も書き込みをしていた、というあの事件である。
この子どもは他でもいじめられており、「このままじゃ生きジゴクになっちゃうよ」という悲痛な遺書を残して自死した。そうでなければ、「葬式ごっこ」が世間に知れ渡ることはなかったろう。ひとたび知れ渡ったら、教師がなんという非常識な、いや、非道なことをするのだ、という憤激が、全国的に湧き上がり、以後、「いじめ」は、最も重要な教育問題であると認知された。
冷静に考えると、この教師の行動はどこから出てきたのか。菅野の指摘を待つまでもなく、葬式ごっこは、「軽いノリ」・「ほんの冗談」の調子で行われたのに違いない。色紙に書き込んだ生徒の大部分はもとより、ひょっとしたら首謀者(この「遊び」を始めた生徒)もそうだったかも知れない。そこに、教師も巻き込まれていった。つまり、おふざけ気分を共有して、生徒との「連帯」を得るために、書き込んでしまった。それがおそらく真相に近い。
こういう事態を招く原因の一つには、明らかに、従来からの教育観もある。教師は、生徒との信頼関係こそ大切であり、常に生徒の事情や気持ちを思いやることが求められる、とする、今でもおなじみのアレだ。まちがいだと言うつもりはない。しかし、お互いに対立することも珍しくないクラス内の個々人の「気持ち」を掴み、いちいち的確に対応していくなんて、並の人間には至難だ。勢い、クラスの多数派に同調しがちになる。そこに危険がある。
どうすればいいのか。「友だち教師」がダメなら、教師は、昔はあったとされている「威厳」を取り戻せばいいのか。これまた、非常に難しい。特にそれを、教師個人の力だけでやれ、ということになったら、はっきりと不可能だ、と申し上げたほうがよい。
昔の教師がエラかったとすれば、それは、世間に「教師はエラいってことにしとこう」という暗黙の了解があったことを意味する。この点で菅野の言うことは全く正確である。「(教師が)ときには「上からものを言う」ことも大切なのです。でもそれは周りの支えがない状態で、一人の先生の力で行うことは不可能です」(P.132)