メインテキスト: 菅野仁『教育幻想 クールティーチャー宣言』(ちくまプリマー新書 平成22年)
副題にある「クールティーチャー」とは、「人柄指向」だけではなく、「事柄指向」もできる教員のことだとされている。耳慣れない言葉だが、例えば、生徒が何か問題を引き起こしたとき、ただ罰を与えるのではなく、その子はなぜそういうことをしたのか、背景を含めて、「心」の部分を掴み、そこに対応していくべきだ、というようなのが「人柄指向」。
長い時間顔を合わせる他人の性格や「人間性」を考えてしまうのは、誰にしても自然なことでしかないが、「教師はそうすべき」などと言われるのは、インチキだ、と私は考えている。菅野はそこまでは言っていないが。
次のように考えたことはないだろうか。子どもが何か悪いことをしたとき、「こんなことをするのは、おまえが悪い人間だからだ」などと言われたりしたら? これも「人柄指向」なのである。それがひどい決めつけだとすれば、「おまえは本当はいい人間だ。しかし、これこれの環境やしかじかの事情で、やってしまったのだ」というのもまた、ひどくはないかも知れないが、決めつけなのだ。
もちろん、ルソーあたりを鼻祖とする近代の教育観は、性善説を大前提とする。生まれつきの悪人なんていない。そこからすれば、「おまえは悪い人間」は、必ずまちがった決めつけになる。それを疑うことは許されない。こちらの決めつけがあるために、安心して、「人柄」を見ろ、などと要求できるわけだ。
もっとも、いまどき、「子どもは善」などと、本当はどれくらい信じられているのかは非常に疑問だ。けれでも、少なくとも教育言論の世界では、疑いをあからさまに口に出すことは許されない、と感じられている。
私は、性善説と性悪説の、どちらが正しいか、なんぞという議論をしたいわけではない。それは畢竟信念だけの、宗教的な問題でしかない。しかし、次のことは確かな事実だろう。「本来」はなんであれ、ヒトは必ず一定の社会環境の中で、「人間」となる。それは即ち、最広義の教育を受けなければ、ヒトという動物が人間になることはない、ということだ。
そして、人間の様々な側面に応じて、教育も様々にある。学校教育はその中で、いわゆる一般社会で生きていくための、訓練の部分を受け持つ。放っておいて、すべての人間が、近代の勤労者にたるだけの、精神性や身体性を持ち得るわけではないだろう。人間性の本質がどうかなんぞという話はわからないが、それはいわば経験的な事実なのである。そこで近代社会では、学校が必要とされた。
何も大げさな話ではない。勤め人のエートス(一定の社会・集団で共有される行動規範)とは、まず、毎日決まった時間に一定の場所へ行き、一定時間決まったことをやることだ。朝起きてから日が暮れるまで、自然のリズムと自分の都合に合わせて仕事をする農民の意識とは明確に違う生き方が、そこでは要求される。学校とはまず何よりも、時計が普及した後の、人工的な時間感覚を身体に刻みつけるための場所なのである。
それともちろん、国民、及び市民として必要とされるマナー(行動様式)と知識を身につけるための。このうち、特にマナーについては、時代によって明らかに変わっていくので、生徒に強制していいものかどうか、時々議論の種になるものの、「身につけなければならない」ところは変わらない。
以上は、ミシェル・フーコーやピエール・ブルデューなどの構造主義者が説いて以来、菅野のような社会学者や、教育学者の中でも教育社会学者にとっては、常識に属することのようだ。ただし、概ね否定的に語られる。「訓練」とか「規律」とかいうのは、第二次世界大戦後の知識界を覆う左翼的な雰囲気の中では、悪なるものと捉えられがちなのだから、当然であろう。しかし、菅野も言うように(P.43以下)、だからと言って学校を否定してもなんにもならない。社会は今でも、大部分勤め人で構成され、その最低限のエートスは社会常識となっていて、何人もそれを無視しては生きられないのだから。
また、次のような事情も考慮されなくてはならない。国家や地方共同体や学校やらの、公的な集団とは別に、社会的な動物である人間は、自主的にグループを作りがちであり、その小グループが、外部に対する対抗意識から閉じられたものになると、往々にしてやたらに厳しいルール(ルールとは、エートスより明確なものであり、破られた場合にはこれまた明確な罰則が加えられるもの、と考えてよい)が構成員に課される。それは、「学校のリアルに応じて その1・その2」で縷々述べた。
学校だけの問題ではない。古くは連合赤軍、近くはオウム真理教の内部で起こった凄惨なリンチはこれが基だ。先頃茨城県の龍ヶ崎市で起きた、出会い系サイトで知り合って共同生活をしていた四人の男女のうちの一人が、「態度が悪い」「言うことを聞かない」といった理由で、他のメンバーから虐待され、死亡した事件もまたそうだ。
このような事態を避けるためには、グループを、外界との交流もある、開かれたものにしておかなくてはならない。ところが、それがきちんとなされるためには、より大きな集団内でのルールが共有されている必要がある。実のところ、国家を最大のものとする公的な集団の存在意義は、第一にはここにあると考えられる。
学校という公的機関の意義も、知識の伝授を別とすれば、それであろう。さらに、ここではルールの必要性は二重になっている。学校が何かをするための集団性を保持するためにも、子どもたちが将来生きていくために必要な最低限のエートスを身につけるためにも、それは必要なのだ。
しかし、教育社会学者以外の教育学者からは、こういう言葉を聞くことは稀である。特に、訓練とか規範という言葉は嫌われる。どうやら、教育学とは、「理想の子ども像」―「本来」は必ずよき者であるはずの子ども、いや、子どもそのものというよりは、そうあってほしいという大人の願望―を守り、ひいては「教育の理想」を守るためことを第一の任務としているらしい。いわば、神学である。俗界の人間たちの、いじましい現実に応じるようなものでは、もともとない。
例えば、「子どもは本来必ず学ぶ意欲を持つ」などと言われる。大学でそう教わってきた新人教師が教壇に立って見渡すと、どうも子どもたちからはそのような意欲は感じられない、ときもある。その場合は絶対に、教師である彼/彼女が悪いのだ。反省し、努力して、子どもたちから意欲を「引き出す」か、彼ら自身が「再発見」しなければならない。それを指向しないなら、彼/彼女は教師として明らかに怠慢なのである。
菅野にしても、それから私にしても、こういう指向自体が無駄である、と言っているわけではない。そうではなく、「学ぶ意欲」を持った子どもが、ちゃんと学ぶことができるためにも、生徒の「本来」を求める前に、もっと大事なことがある、と言っているのだ。
ある子どもが、ルールに「従えない」ときには、その子固有の問題があるかも知れない。それが無視されていいわけではない。しかし一方、どういう事情からであれ、一定のルール破り(「従わない」とき)には一定のペナルティが課される、そうでなければ、ペナルティーの正当性が疑われるから、ひいてはルールの正当性も疑われてしまう。ここをそんなに曖昧にしておくわけにはいかないのだ。ざっとこういうのが即ち「事柄指向」である。
そんなのは、特定の問題行動(例えば、他の生徒への暴行)に特定の罰(例えば、謹慎)を与えればいいのだから、簡単じゃないか、と思われるかも知れない。しかし、大人の世界の、裁判の有様をちょっと思い浮かべてもらえればいいと思うが、これはこれでけっこう難しいのである。
そのうえに、学校には学校固有の難しさがある。その大きな部分は、前述した教育学的(神学的)な言説から来ている。本来善なるはずの子どもに、どうしてペナルティーが必要なはずがあろうか。だから公的には、学校には「罰」はない。生徒を謹慎させるのも、罰としてそうするのではなく、生徒に反省の機会を与えるための指導措置として、そうすることになっている。
教師と生徒双方の実感に全くそぐわないこのようなタテマエが、本当に必要なのかどうか、私にはわからない。しかし学校は、当分この看板を下ろす気配はない。
それでも、というか、それだから教師は、もっとクールになる必要がある。人柄指向より、事柄指向を優先させねばならない場合も、必ずあるのだから。それは菅野の言う通りだ。
教師の側でこういうことに気づいた人間がいないのかというと、そうでもない。『ザ・中学教師』(別冊宝島70 昭和62年)でメジャーデビューした埼玉教育塾、後のプロ教師の会も、ほぼ同じことを説いていた。ただし彼らは、自分たちが非常に指導力のある教師であることを誇り、それを担保として、しかしそういう自分たちから見ても、従来の「理想主義的」な、人柄指向のみの教育観では、学校は立ちゆかなくなる、と訴えたのだった。
『教育幻想』もまた、教師によきコーディネーターであることを求め、菅野が見た優れた教師の例を挙げることで、なんだかんだ言っても教師がもっとしっかりすればなんとかなんるのだ、という印象を与えている。そうではない、などと教師が言えば、結局は自分の怠慢をごまかすための逃げ口上だ、ととられるのが今の世の中だ。
たぶん現在の学校は、そんなことではすまなくなっている。逃げ口上だと思われてもかまわない、特に優れた教師でも何でもない私が、なぜそう思うのか、次回に述べよう。
副題にある「クールティーチャー」とは、「人柄指向」だけではなく、「事柄指向」もできる教員のことだとされている。耳慣れない言葉だが、例えば、生徒が何か問題を引き起こしたとき、ただ罰を与えるのではなく、その子はなぜそういうことをしたのか、背景を含めて、「心」の部分を掴み、そこに対応していくべきだ、というようなのが「人柄指向」。
長い時間顔を合わせる他人の性格や「人間性」を考えてしまうのは、誰にしても自然なことでしかないが、「教師はそうすべき」などと言われるのは、インチキだ、と私は考えている。菅野はそこまでは言っていないが。
次のように考えたことはないだろうか。子どもが何か悪いことをしたとき、「こんなことをするのは、おまえが悪い人間だからだ」などと言われたりしたら? これも「人柄指向」なのである。それがひどい決めつけだとすれば、「おまえは本当はいい人間だ。しかし、これこれの環境やしかじかの事情で、やってしまったのだ」というのもまた、ひどくはないかも知れないが、決めつけなのだ。
もちろん、ルソーあたりを鼻祖とする近代の教育観は、性善説を大前提とする。生まれつきの悪人なんていない。そこからすれば、「おまえは悪い人間」は、必ずまちがった決めつけになる。それを疑うことは許されない。こちらの決めつけがあるために、安心して、「人柄」を見ろ、などと要求できるわけだ。
もっとも、いまどき、「子どもは善」などと、本当はどれくらい信じられているのかは非常に疑問だ。けれでも、少なくとも教育言論の世界では、疑いをあからさまに口に出すことは許されない、と感じられている。
私は、性善説と性悪説の、どちらが正しいか、なんぞという議論をしたいわけではない。それは畢竟信念だけの、宗教的な問題でしかない。しかし、次のことは確かな事実だろう。「本来」はなんであれ、ヒトは必ず一定の社会環境の中で、「人間」となる。それは即ち、最広義の教育を受けなければ、ヒトという動物が人間になることはない、ということだ。
そして、人間の様々な側面に応じて、教育も様々にある。学校教育はその中で、いわゆる一般社会で生きていくための、訓練の部分を受け持つ。放っておいて、すべての人間が、近代の勤労者にたるだけの、精神性や身体性を持ち得るわけではないだろう。人間性の本質がどうかなんぞという話はわからないが、それはいわば経験的な事実なのである。そこで近代社会では、学校が必要とされた。
何も大げさな話ではない。勤め人のエートス(一定の社会・集団で共有される行動規範)とは、まず、毎日決まった時間に一定の場所へ行き、一定時間決まったことをやることだ。朝起きてから日が暮れるまで、自然のリズムと自分の都合に合わせて仕事をする農民の意識とは明確に違う生き方が、そこでは要求される。学校とはまず何よりも、時計が普及した後の、人工的な時間感覚を身体に刻みつけるための場所なのである。
それともちろん、国民、及び市民として必要とされるマナー(行動様式)と知識を身につけるための。このうち、特にマナーについては、時代によって明らかに変わっていくので、生徒に強制していいものかどうか、時々議論の種になるものの、「身につけなければならない」ところは変わらない。
以上は、ミシェル・フーコーやピエール・ブルデューなどの構造主義者が説いて以来、菅野のような社会学者や、教育学者の中でも教育社会学者にとっては、常識に属することのようだ。ただし、概ね否定的に語られる。「訓練」とか「規律」とかいうのは、第二次世界大戦後の知識界を覆う左翼的な雰囲気の中では、悪なるものと捉えられがちなのだから、当然であろう。しかし、菅野も言うように(P.43以下)、だからと言って学校を否定してもなんにもならない。社会は今でも、大部分勤め人で構成され、その最低限のエートスは社会常識となっていて、何人もそれを無視しては生きられないのだから。
また、次のような事情も考慮されなくてはならない。国家や地方共同体や学校やらの、公的な集団とは別に、社会的な動物である人間は、自主的にグループを作りがちであり、その小グループが、外部に対する対抗意識から閉じられたものになると、往々にしてやたらに厳しいルール(ルールとは、エートスより明確なものであり、破られた場合にはこれまた明確な罰則が加えられるもの、と考えてよい)が構成員に課される。それは、「学校のリアルに応じて その1・その2」で縷々述べた。
学校だけの問題ではない。古くは連合赤軍、近くはオウム真理教の内部で起こった凄惨なリンチはこれが基だ。先頃茨城県の龍ヶ崎市で起きた、出会い系サイトで知り合って共同生活をしていた四人の男女のうちの一人が、「態度が悪い」「言うことを聞かない」といった理由で、他のメンバーから虐待され、死亡した事件もまたそうだ。
このような事態を避けるためには、グループを、外界との交流もある、開かれたものにしておかなくてはならない。ところが、それがきちんとなされるためには、より大きな集団内でのルールが共有されている必要がある。実のところ、国家を最大のものとする公的な集団の存在意義は、第一にはここにあると考えられる。
学校という公的機関の意義も、知識の伝授を別とすれば、それであろう。さらに、ここではルールの必要性は二重になっている。学校が何かをするための集団性を保持するためにも、子どもたちが将来生きていくために必要な最低限のエートスを身につけるためにも、それは必要なのだ。
しかし、教育社会学者以外の教育学者からは、こういう言葉を聞くことは稀である。特に、訓練とか規範という言葉は嫌われる。どうやら、教育学とは、「理想の子ども像」―「本来」は必ずよき者であるはずの子ども、いや、子どもそのものというよりは、そうあってほしいという大人の願望―を守り、ひいては「教育の理想」を守るためことを第一の任務としているらしい。いわば、神学である。俗界の人間たちの、いじましい現実に応じるようなものでは、もともとない。
例えば、「子どもは本来必ず学ぶ意欲を持つ」などと言われる。大学でそう教わってきた新人教師が教壇に立って見渡すと、どうも子どもたちからはそのような意欲は感じられない、ときもある。その場合は絶対に、教師である彼/彼女が悪いのだ。反省し、努力して、子どもたちから意欲を「引き出す」か、彼ら自身が「再発見」しなければならない。それを指向しないなら、彼/彼女は教師として明らかに怠慢なのである。
菅野にしても、それから私にしても、こういう指向自体が無駄である、と言っているわけではない。そうではなく、「学ぶ意欲」を持った子どもが、ちゃんと学ぶことができるためにも、生徒の「本来」を求める前に、もっと大事なことがある、と言っているのだ。
ある子どもが、ルールに「従えない」ときには、その子固有の問題があるかも知れない。それが無視されていいわけではない。しかし一方、どういう事情からであれ、一定のルール破り(「従わない」とき)には一定のペナルティが課される、そうでなければ、ペナルティーの正当性が疑われるから、ひいてはルールの正当性も疑われてしまう。ここをそんなに曖昧にしておくわけにはいかないのだ。ざっとこういうのが即ち「事柄指向」である。
そんなのは、特定の問題行動(例えば、他の生徒への暴行)に特定の罰(例えば、謹慎)を与えればいいのだから、簡単じゃないか、と思われるかも知れない。しかし、大人の世界の、裁判の有様をちょっと思い浮かべてもらえればいいと思うが、これはこれでけっこう難しいのである。
そのうえに、学校には学校固有の難しさがある。その大きな部分は、前述した教育学的(神学的)な言説から来ている。本来善なるはずの子どもに、どうしてペナルティーが必要なはずがあろうか。だから公的には、学校には「罰」はない。生徒を謹慎させるのも、罰としてそうするのではなく、生徒に反省の機会を与えるための指導措置として、そうすることになっている。
教師と生徒双方の実感に全くそぐわないこのようなタテマエが、本当に必要なのかどうか、私にはわからない。しかし学校は、当分この看板を下ろす気配はない。
それでも、というか、それだから教師は、もっとクールになる必要がある。人柄指向より、事柄指向を優先させねばならない場合も、必ずあるのだから。それは菅野の言う通りだ。
教師の側でこういうことに気づいた人間がいないのかというと、そうでもない。『ザ・中学教師』(別冊宝島70 昭和62年)でメジャーデビューした埼玉教育塾、後のプロ教師の会も、ほぼ同じことを説いていた。ただし彼らは、自分たちが非常に指導力のある教師であることを誇り、それを担保として、しかしそういう自分たちから見ても、従来の「理想主義的」な、人柄指向のみの教育観では、学校は立ちゆかなくなる、と訴えたのだった。
『教育幻想』もまた、教師によきコーディネーターであることを求め、菅野が見た優れた教師の例を挙げることで、なんだかんだ言っても教師がもっとしっかりすればなんとかなんるのだ、という印象を与えている。そうではない、などと教師が言えば、結局は自分の怠慢をごまかすための逃げ口上だ、ととられるのが今の世の中だ。
たぶん現在の学校は、そんなことではすまなくなっている。逃げ口上だと思われてもかまわない、特に優れた教師でも何でもない私が、なぜそう思うのか、次回に述べよう。