メインテキスト: 柄谷行人『定本日本近代文学の起源』(岩波現代文庫平成20年、23年第3刷)
サブテキスト : 中島京子『FUTON』(平成15年講談社刊、講談社文庫版平成19年、22年第2刷)
ごく最近この小説を知って、読んでみたら、主要人物の一人が書いたものだという体裁で、作中の折々に挿入される「蒲団」のリライト「蒲団の打ち直し」がことのほかよくできていて、感心した。それに比べると、作品の大枠であるデイブ・マッコーリーとエミ一家の話にはやや退屈したが、まあそれは好みの問題かも知れない。
で、「蒲団の打ち直し」(この題名からしてまことに秀逸)だけを述べる。ここで、時雄の細君は、美穂という現代風の名前が与えられ、のみならず、主人公の地位も得ている。この一篇は、時雄と芳子の物語を、妻の立場から見る試みなのだ。これによって「蒲団」の世界に、原作にはほとんどない、あってもごく目立たない、批判的な視点が取り入れられる。
批判の多くは、直接には芳子に向けられている。時雄を魅する豊かな表情にしても、「その顔は美しいというのではなくて、表情がありすぎるのだ。目をくりくり動かしたり、唇を半開きにしたり、とんがらかしたり、美穂のように躾の厳しい商家で育ったものの目には、かえってはしたなく映った。神戸仕込みの、ハイカラの、新婦人の、と夫は無闇と芳子の肩をもったが、美穂に言わせればああいう娘は昔からいた。昔はハイカラと呼ばずにアバズレと呼んだものだ」という具合。もちろんこの批判は直ちにアバズレの崇拝者たる時雄に至るはずのものだが、そこは夫婦なので、どうしてもバイアスがかかる。それがこの小説内小説のキモであり、味にもなっている。
「蒲団」は、一度岡山へ帰省した芳子が、恋人と京都嵯峨に遊び、どうやら一泊したことも露見し、時雄が懊悩するところから始まる。芳子は、この恋は神聖なものであって、恋人田中との間に「汚れたこと」などない、と言い張るが、信用できるものかどうか。そんなことは、「蒲団の打ち直し」の美穂から見れば問題にならない。
「いったい、ツルゲーネフに、何が書いてあったか知らないが、体の一線を越えようと越えまいと、嫁入り前の娘が男友達と旅館に泊まるなんぞはふしだら以外のなにものでもないのであり、即刻田舎へ叩き返すのが娘のため、師としての面子のためでもあり、田舎の親なら話に変な尾鰭がつかないうちに、純朴な田舎男をだまして嫁にやってしまうほかないではないか」と、これが当時の堅気の商家一般の常識かどうか、正確にはわからないが、部分的には今も通用する見方ではあろう。美穂は、なぜ夫がただちにそうしないのか、不審でもあれば歯がゆくもある。
ただ、「その一方で、美穂もひどく夫の時雄の傾倒する文学だの新時代の思想だのに、何も知らないなりに惹かれるものがあって、時雄があんなにも苦しんでいるのだから、この跳ねっ返り娘の「神聖な恋愛」を、温かく見守ってやるのが師である時雄に添うたものの務めかもしれないなどと」思わぬでもない。美穂は時雄よりずっと、いろんなところに目配りができる人物になっているのだ。
時雄が芳子を帰したがらなかったのは、「文学だの新時代の思想だの」のためというよりは、「肉欲」に近い感情からである。自分を恋しないまでも、一心に敬慕はしてくれる、甘く華やかな肉体を手放すのが忍びがたいのだ。美穂はそれを正確に見抜くことはできず、芳子と田中の「神聖な恋」の「温情なる保護者」役を引き受けさせられる夫の「お人好し」に同情する。最後に、例の蒲団に付いた、「年頃の娘の漂わせているいかなる香りとも異なる、しかし美穂のよく知る一種むさくるしい匂い」によって、文字通り真実を嗅ぎつける。アナグノリシスによるカタストロフ(破局)で、「蒲団の打ち直し」は小説としてたいへん座りのよい終わりを迎えるのである。
「蒲団」は全く違う。芳子の恋人の発見から始まるこの小説は、芳子が処女であるかどうかの疑惑を大きな動因として展開し、彼女の告白をもってクライマックスに達する。ちゃんとそんなふうに構成されている。芳子と田中に肉体関係があろうとなかろうと、美穂にも、「蒲団」中の芳子の父親にも、大した問題とはされていないのだが、時雄にとっては重大であるなら、そういう描き方も当然であろう。
重大な問題ならば、だ。しかし、では、真実が明らかになったとき、時雄にはどのような変化が起きたのか。
告白の直前、もうそれに違いないと時雄の目にも映るようになったときには、一晩中煩悶する。ただしその中身は、「あの男に身を任せて居た位なら、何も其の処女の節操を尊ぶには当らなかつた。自分も大胆に手を出して、性慾の満足を買へば好かつた」などという、浅ましいものだった。
芳子が、口では言えないからと、同じ家内にいるのにわざわざ手紙で、「私は堕落女学生です」と告白した後は、なんと、かえって好都合だと思い始める。それは前回述べたことだが、あらためてまとめると、第一に、これを口実にして田中と芳子を別れさせることができるし、第二に、「傷もの」なのだから、年の離れた、三人も子どもがいる自分と結婚しやすいだろうとの目論見からである。それは両方とも全くの的外れであったことは、暗示はされているけれど、時雄の主観がすべてであるように見えるこの小説では、このご都合主義の極致のような妄想によって、せっかくの告白がカタストロフにはほど遠くなり、クライマックスはアンチ・クライマックスに変じる。
こうなると、結局のところ、主人公時雄の煩悶はなんだったのか、それ以前に、元々彼の拠って立つ基盤はなんだったのか、すべてが疑わしくなってくる。彼は、かつては熱烈に恋した細君が、今見ると旧弊な女に過ぎぬと不満たらたらなのだが、では、どれくらい「新時代の思想」に肩入れしているのかと言うと、
「勿論、此の女学生気質(かたぎ)を時雄は主義の上、趣味の上から喜んで見て居たのは事実である。昔のやうな教育を受けては、到底今の明治の男子の妻としては立つて行かれぬ。女子も立たねばならぬ、意志の力を充分に養はねばならぬことはかれの持論である。此持論をかれは芳子に向つても尠なからず鼓吹した。けれどこの新派のハイカラの実行を見ては流石(さすが)に眉を顰めずには居られなかつた」
他人がやるのを傍観しているだけならいいけれど、自分が強い関心を持つ者がやるとなると、いやになる。そんなものだったのだ。口先だけと言われても仕方あるまい。
渡邉正彦「田山花袋「蒲団」と「女学生堕落物語」」(『群馬県立女子大学国文学研究』平成四年三月十五日)という論文は、「蒲団」の先行テキストとして、『毎日新聞』に明治三十八年九月二十から十一月十七日まで三十五回にわたって連載された「女学生堕落物語」の存在を指摘している。「女子教育に就きて多年の経験を有する某氏」の談話という体裁で、女学生の危険な状況を訴えたものらしい。彼女らのうちでも特に田舎から出たての娘が、男子の「狼学生」の標的になり、貞操を奪われ金を貢がされて、挙げ句には妊娠、最悪の場合には女郎屋に売り飛ばされることさえあるという。実例を詳しく挙げての記事であれば、いくら世の教育者や保護者に警鐘を鳴らすというタテマエであっても、どういう好奇心で読まれたものか、今ならすぐに察しがつくが、明治時代の人はもっと素朴だったろうから、気がつかれずにすむこともあったのかも知れない。
以下は「事実」の話である。丹波(「蒲団」では嵯峨)の一件の発覚後、田山花袋は「監督者」の責任として、岡田美知代には郷里の父親に手紙で報告させ、また自身でも詳しく書き送っている。それから何通かやりとりが続くのだが、美知代の父は、おりおり新聞の切り抜きを同封することもあったらしい。この切り抜きとはたぶん「女学生堕落物語」であろうと渡邉は推測している。美知代が処女かどうかより、娘の恋人は「狼学生」で、金をせびり取るのが最後の目的ではないか、のほうが心配だったのだろう。それは「蒲団」中の、芳子の父の言葉にちゃんと反映されている。花袋はこれに対して、そのように美知代と恋人を疑うのは、監督者としての自分をも疑うもので、心外だという意味のことを書き送っている。
地方の親が、娘を女学生として東京に送り出すときには、「必ず先づ相当の監督者を選んで之れに托」すことは、「女学生堕落物語」を語る某教育家の強い希望であった。明治三十二年の高等女学校令によって制度的に公認され、東京の景色を一変させた庇(ひさし)髪に海老茶袴の女学生は、新たな女性性、即ち性的な魅力を顕現させたイコンにもなった。それだからこそ、「監督者」が必要とされたのだが、その監督自体が性的な眼差しを帯びるのはほとんど必然であろう。「蒲団」は、読みようによっては、「教育」の名で隠蔽される眼差しの奥にあるものを暴露した小説でもある。ただ、おそらく作者自身は、そのことを意識していない。
柄谷行人は、
『蒲団』では、まったくとるにたらないことが告白されている。たぶん花袋はこんなことよりももっと懺悔に値することをやっていたはずである。しかし、それを告白しないで、とるにたらないことを告白するということ、そこに近代小説における「告白」というものの特異性がある。(P108。下線部は原文では傍点。以下同じ)
と書いている。
「もっと懺悔に値すること」とは何か。たぶん、そんなものはなかった。そしてむしろ、なかったことこそ問題だったろう、というのが私の考えである。
「蒲団」は抑圧された性の告白録だ、と柄谷は言う。
花袋の『蒲団』がなぜセンセーショナルに受けとられたのだろうか。それは、この作品のなかではじめて「性」が描かれたからだ。つまり、それまでの日本文学における性とはまったく異質な性、抑圧によってはじめて存在させられた性が書かれたのである。(P.110~111)
キリスト教によって、性、というよりは性欲が、告白して神の許しを乞うべき内面の罪とされた。逆に見ると、これによって「内面」が問題とされるべきものとなった。こうして発見された内面の上に、西欧の「文学」が建てられた。これが私なりに理解した柄谷の立論である。大枠は首肯する。告白すべき何かがある、ということは、即ち普段は隠すべき何かがある、ということであり、それこそが「内面」であろう。近代文学はなんらかの形でこの「内面」に関わらねばならない、ということは、当然の前提だと言ってよいだろう。
この定式を「蒲団」という小説に当てはめた場合には、かなりの人が違和感を覚えるのではないだろうか。なるほど、主人公が若い女弟子に向ける性的な視線が主題であることにまちがいない。その視線は、主人公が「師」であり、「監督者」であることで隠蔽されていることも事実だ。しかし、それは「罪」として抑圧されているか? 女弟子に性的な関心を持つことを、主人公は、あるいは作者は、罪悪だと感じて、その結果生じてきた「内面」と向き合っていると言えるのか?
どうも、そうではない。時雄の行動は、当時の社会規範からしても、全く悪いところはないのはもちろん、彼自身が、「内面」で、その常識の枠外にある「自分」を特に感じているわけでもない。妄想にあったように、現在の妻と、死別でも生別でも、うまく離縁できて、芳子を新たな妻にしたとすれば、世間は、陰口は叩いても、指弾まではしない。時雄の「良心」も、あったとしても、なんら動揺しないだろう。その程度のものだ。とるに足りないことを告白する「自分」は、やっぱりとるに足りないものでしかない。
芳子の父は、クリスチャンだが、世慣れた地方の名士であるキャラクターのほうが強く、作中に具体的に登場する世間の代表と考えてよい。前述したように、彼もまた、「処女の純潔」なんぞという観念に、さほど決定的な重きを置いているわけではない。芳子の告白の前、時雄が、芳子と田中の間には「汚い関係」はないだろうと言っても、「でもまア、其方(そっち)の関係もあるものとして見なければなりますまい」と、落ち着いたものである。まあそれは、信心深い西洋の親でも、だいたいはそんなものだろう。「純潔」が尊いという説教は、未経験の者に言って聞かせてこそ一応の効力も期待できる。ヤっちまった者に言ってもしかたない。
この作品における「抑圧」とはこんな、表面さえ繕えればそれでよし、になりそうなものばかりだ。しかし、花袋は繕うのをやめた。いや、繕うも何も、黙っていればそれなりになることを、敢えて公表した。往々にして、「悪いこと」より「恥ずかしいこと」のほうが告白しづらいのだから、ここでの「告白」の真率さは、誰もが認めざるを得ないだろう、というのが作者の目論見であり、「賭」の切り札だったのだろうか?
そうだとすれば、それは西洋文学が理想として掲げた「真実の自己」あるいは「自己の真実」とは微妙だが決定的にズレている。とるに足りないことを告白するのが近代小説の特性だという柄谷の言葉を一応認めたとしてもなお、すり替えとしか呼べないことが行われている、と思える。中村光夫を初めとして、福田恆存、佐古純一郎など、西欧文芸を学んでから日本文学を批評するようになった評家たちの、この作品への不満の根底は、そんなところにある。
なんだか、西洋の「罪」の文化に対する日本の「恥」の文化というところへ収まってしまいそうな雲行きではある。私は、特にそれに異論はないのだが、もう少しこれに絡んで、考えてもいいことはありそうな気がしている。
サブテキスト : 中島京子『FUTON』(平成15年講談社刊、講談社文庫版平成19年、22年第2刷)
ごく最近この小説を知って、読んでみたら、主要人物の一人が書いたものだという体裁で、作中の折々に挿入される「蒲団」のリライト「蒲団の打ち直し」がことのほかよくできていて、感心した。それに比べると、作品の大枠であるデイブ・マッコーリーとエミ一家の話にはやや退屈したが、まあそれは好みの問題かも知れない。
で、「蒲団の打ち直し」(この題名からしてまことに秀逸)だけを述べる。ここで、時雄の細君は、美穂という現代風の名前が与えられ、のみならず、主人公の地位も得ている。この一篇は、時雄と芳子の物語を、妻の立場から見る試みなのだ。これによって「蒲団」の世界に、原作にはほとんどない、あってもごく目立たない、批判的な視点が取り入れられる。
批判の多くは、直接には芳子に向けられている。時雄を魅する豊かな表情にしても、「その顔は美しいというのではなくて、表情がありすぎるのだ。目をくりくり動かしたり、唇を半開きにしたり、とんがらかしたり、美穂のように躾の厳しい商家で育ったものの目には、かえってはしたなく映った。神戸仕込みの、ハイカラの、新婦人の、と夫は無闇と芳子の肩をもったが、美穂に言わせればああいう娘は昔からいた。昔はハイカラと呼ばずにアバズレと呼んだものだ」という具合。もちろんこの批判は直ちにアバズレの崇拝者たる時雄に至るはずのものだが、そこは夫婦なので、どうしてもバイアスがかかる。それがこの小説内小説のキモであり、味にもなっている。
「蒲団」は、一度岡山へ帰省した芳子が、恋人と京都嵯峨に遊び、どうやら一泊したことも露見し、時雄が懊悩するところから始まる。芳子は、この恋は神聖なものであって、恋人田中との間に「汚れたこと」などない、と言い張るが、信用できるものかどうか。そんなことは、「蒲団の打ち直し」の美穂から見れば問題にならない。
「いったい、ツルゲーネフに、何が書いてあったか知らないが、体の一線を越えようと越えまいと、嫁入り前の娘が男友達と旅館に泊まるなんぞはふしだら以外のなにものでもないのであり、即刻田舎へ叩き返すのが娘のため、師としての面子のためでもあり、田舎の親なら話に変な尾鰭がつかないうちに、純朴な田舎男をだまして嫁にやってしまうほかないではないか」と、これが当時の堅気の商家一般の常識かどうか、正確にはわからないが、部分的には今も通用する見方ではあろう。美穂は、なぜ夫がただちにそうしないのか、不審でもあれば歯がゆくもある。
ただ、「その一方で、美穂もひどく夫の時雄の傾倒する文学だの新時代の思想だのに、何も知らないなりに惹かれるものがあって、時雄があんなにも苦しんでいるのだから、この跳ねっ返り娘の「神聖な恋愛」を、温かく見守ってやるのが師である時雄に添うたものの務めかもしれないなどと」思わぬでもない。美穂は時雄よりずっと、いろんなところに目配りができる人物になっているのだ。
時雄が芳子を帰したがらなかったのは、「文学だの新時代の思想だの」のためというよりは、「肉欲」に近い感情からである。自分を恋しないまでも、一心に敬慕はしてくれる、甘く華やかな肉体を手放すのが忍びがたいのだ。美穂はそれを正確に見抜くことはできず、芳子と田中の「神聖な恋」の「温情なる保護者」役を引き受けさせられる夫の「お人好し」に同情する。最後に、例の蒲団に付いた、「年頃の娘の漂わせているいかなる香りとも異なる、しかし美穂のよく知る一種むさくるしい匂い」によって、文字通り真実を嗅ぎつける。アナグノリシスによるカタストロフ(破局)で、「蒲団の打ち直し」は小説としてたいへん座りのよい終わりを迎えるのである。
「蒲団」は全く違う。芳子の恋人の発見から始まるこの小説は、芳子が処女であるかどうかの疑惑を大きな動因として展開し、彼女の告白をもってクライマックスに達する。ちゃんとそんなふうに構成されている。芳子と田中に肉体関係があろうとなかろうと、美穂にも、「蒲団」中の芳子の父親にも、大した問題とはされていないのだが、時雄にとっては重大であるなら、そういう描き方も当然であろう。
重大な問題ならば、だ。しかし、では、真実が明らかになったとき、時雄にはどのような変化が起きたのか。
告白の直前、もうそれに違いないと時雄の目にも映るようになったときには、一晩中煩悶する。ただしその中身は、「あの男に身を任せて居た位なら、何も其の処女の節操を尊ぶには当らなかつた。自分も大胆に手を出して、性慾の満足を買へば好かつた」などという、浅ましいものだった。
芳子が、口では言えないからと、同じ家内にいるのにわざわざ手紙で、「私は堕落女学生です」と告白した後は、なんと、かえって好都合だと思い始める。それは前回述べたことだが、あらためてまとめると、第一に、これを口実にして田中と芳子を別れさせることができるし、第二に、「傷もの」なのだから、年の離れた、三人も子どもがいる自分と結婚しやすいだろうとの目論見からである。それは両方とも全くの的外れであったことは、暗示はされているけれど、時雄の主観がすべてであるように見えるこの小説では、このご都合主義の極致のような妄想によって、せっかくの告白がカタストロフにはほど遠くなり、クライマックスはアンチ・クライマックスに変じる。
こうなると、結局のところ、主人公時雄の煩悶はなんだったのか、それ以前に、元々彼の拠って立つ基盤はなんだったのか、すべてが疑わしくなってくる。彼は、かつては熱烈に恋した細君が、今見ると旧弊な女に過ぎぬと不満たらたらなのだが、では、どれくらい「新時代の思想」に肩入れしているのかと言うと、
「勿論、此の女学生気質(かたぎ)を時雄は主義の上、趣味の上から喜んで見て居たのは事実である。昔のやうな教育を受けては、到底今の明治の男子の妻としては立つて行かれぬ。女子も立たねばならぬ、意志の力を充分に養はねばならぬことはかれの持論である。此持論をかれは芳子に向つても尠なからず鼓吹した。けれどこの新派のハイカラの実行を見ては流石(さすが)に眉を顰めずには居られなかつた」
他人がやるのを傍観しているだけならいいけれど、自分が強い関心を持つ者がやるとなると、いやになる。そんなものだったのだ。口先だけと言われても仕方あるまい。
渡邉正彦「田山花袋「蒲団」と「女学生堕落物語」」(『群馬県立女子大学国文学研究』平成四年三月十五日)という論文は、「蒲団」の先行テキストとして、『毎日新聞』に明治三十八年九月二十から十一月十七日まで三十五回にわたって連載された「女学生堕落物語」の存在を指摘している。「女子教育に就きて多年の経験を有する某氏」の談話という体裁で、女学生の危険な状況を訴えたものらしい。彼女らのうちでも特に田舎から出たての娘が、男子の「狼学生」の標的になり、貞操を奪われ金を貢がされて、挙げ句には妊娠、最悪の場合には女郎屋に売り飛ばされることさえあるという。実例を詳しく挙げての記事であれば、いくら世の教育者や保護者に警鐘を鳴らすというタテマエであっても、どういう好奇心で読まれたものか、今ならすぐに察しがつくが、明治時代の人はもっと素朴だったろうから、気がつかれずにすむこともあったのかも知れない。
以下は「事実」の話である。丹波(「蒲団」では嵯峨)の一件の発覚後、田山花袋は「監督者」の責任として、岡田美知代には郷里の父親に手紙で報告させ、また自身でも詳しく書き送っている。それから何通かやりとりが続くのだが、美知代の父は、おりおり新聞の切り抜きを同封することもあったらしい。この切り抜きとはたぶん「女学生堕落物語」であろうと渡邉は推測している。美知代が処女かどうかより、娘の恋人は「狼学生」で、金をせびり取るのが最後の目的ではないか、のほうが心配だったのだろう。それは「蒲団」中の、芳子の父の言葉にちゃんと反映されている。花袋はこれに対して、そのように美知代と恋人を疑うのは、監督者としての自分をも疑うもので、心外だという意味のことを書き送っている。
地方の親が、娘を女学生として東京に送り出すときには、「必ず先づ相当の監督者を選んで之れに托」すことは、「女学生堕落物語」を語る某教育家の強い希望であった。明治三十二年の高等女学校令によって制度的に公認され、東京の景色を一変させた庇(ひさし)髪に海老茶袴の女学生は、新たな女性性、即ち性的な魅力を顕現させたイコンにもなった。それだからこそ、「監督者」が必要とされたのだが、その監督自体が性的な眼差しを帯びるのはほとんど必然であろう。「蒲団」は、読みようによっては、「教育」の名で隠蔽される眼差しの奥にあるものを暴露した小説でもある。ただ、おそらく作者自身は、そのことを意識していない。
柄谷行人は、
『蒲団』では、まったくとるにたらないことが告白されている。たぶん花袋はこんなことよりももっと懺悔に値することをやっていたはずである。しかし、それを告白しないで、とるにたらないことを告白するということ、そこに近代小説における「告白」というものの特異性がある。(P108。下線部は原文では傍点。以下同じ)
と書いている。
「もっと懺悔に値すること」とは何か。たぶん、そんなものはなかった。そしてむしろ、なかったことこそ問題だったろう、というのが私の考えである。
「蒲団」は抑圧された性の告白録だ、と柄谷は言う。
花袋の『蒲団』がなぜセンセーショナルに受けとられたのだろうか。それは、この作品のなかではじめて「性」が描かれたからだ。つまり、それまでの日本文学における性とはまったく異質な性、抑圧によってはじめて存在させられた性が書かれたのである。(P.110~111)
キリスト教によって、性、というよりは性欲が、告白して神の許しを乞うべき内面の罪とされた。逆に見ると、これによって「内面」が問題とされるべきものとなった。こうして発見された内面の上に、西欧の「文学」が建てられた。これが私なりに理解した柄谷の立論である。大枠は首肯する。告白すべき何かがある、ということは、即ち普段は隠すべき何かがある、ということであり、それこそが「内面」であろう。近代文学はなんらかの形でこの「内面」に関わらねばならない、ということは、当然の前提だと言ってよいだろう。
この定式を「蒲団」という小説に当てはめた場合には、かなりの人が違和感を覚えるのではないだろうか。なるほど、主人公が若い女弟子に向ける性的な視線が主題であることにまちがいない。その視線は、主人公が「師」であり、「監督者」であることで隠蔽されていることも事実だ。しかし、それは「罪」として抑圧されているか? 女弟子に性的な関心を持つことを、主人公は、あるいは作者は、罪悪だと感じて、その結果生じてきた「内面」と向き合っていると言えるのか?
どうも、そうではない。時雄の行動は、当時の社会規範からしても、全く悪いところはないのはもちろん、彼自身が、「内面」で、その常識の枠外にある「自分」を特に感じているわけでもない。妄想にあったように、現在の妻と、死別でも生別でも、うまく離縁できて、芳子を新たな妻にしたとすれば、世間は、陰口は叩いても、指弾まではしない。時雄の「良心」も、あったとしても、なんら動揺しないだろう。その程度のものだ。とるに足りないことを告白する「自分」は、やっぱりとるに足りないものでしかない。
芳子の父は、クリスチャンだが、世慣れた地方の名士であるキャラクターのほうが強く、作中に具体的に登場する世間の代表と考えてよい。前述したように、彼もまた、「処女の純潔」なんぞという観念に、さほど決定的な重きを置いているわけではない。芳子の告白の前、時雄が、芳子と田中の間には「汚い関係」はないだろうと言っても、「でもまア、其方(そっち)の関係もあるものとして見なければなりますまい」と、落ち着いたものである。まあそれは、信心深い西洋の親でも、だいたいはそんなものだろう。「純潔」が尊いという説教は、未経験の者に言って聞かせてこそ一応の効力も期待できる。ヤっちまった者に言ってもしかたない。
この作品における「抑圧」とはこんな、表面さえ繕えればそれでよし、になりそうなものばかりだ。しかし、花袋は繕うのをやめた。いや、繕うも何も、黙っていればそれなりになることを、敢えて公表した。往々にして、「悪いこと」より「恥ずかしいこと」のほうが告白しづらいのだから、ここでの「告白」の真率さは、誰もが認めざるを得ないだろう、というのが作者の目論見であり、「賭」の切り札だったのだろうか?
そうだとすれば、それは西洋文学が理想として掲げた「真実の自己」あるいは「自己の真実」とは微妙だが決定的にズレている。とるに足りないことを告白するのが近代小説の特性だという柄谷の言葉を一応認めたとしてもなお、すり替えとしか呼べないことが行われている、と思える。中村光夫を初めとして、福田恆存、佐古純一郎など、西欧文芸を学んでから日本文学を批評するようになった評家たちの、この作品への不満の根底は、そんなところにある。
なんだか、西洋の「罪」の文化に対する日本の「恥」の文化というところへ収まってしまいそうな雲行きではある。私は、特にそれに異論はないのだが、もう少しこれに絡んで、考えてもいいことはありそうな気がしている。