メインテキスト: 柄谷行人『定本日本近代文学の起源』(岩波現代文庫平成20年、23年第3刷)
サブテキスト : 小谷野敦『リアリズムの擁護 近現代文学論集』(新曜社平成20年)
『風俗小説論』や『明治文学史』を書いた中村光夫も、彼を批判しつつ近代日本文学成立の事情を分析した柄谷行人も、次のことは等しく認めそうだ。田山花袋「蒲団」は、実質的に主人公竹中時雄のモノローグ(独白)である。ならば、三人称で書かれねばならぬ必然性はどこにもなかった。
小説における人称の問題(主人公、というか中心人物が「私」と書かれるか、「彼/彼女」と書かれるか)は、いろいろと考えると面倒かつ面白いでので、後でまた取り上げるとして、ここでは作品が語り出される(書き出される)視点・始点のことだとする。一人称小説は、たった一人の「私」が見たり聞いたり感じたりしたことを書くのがタテマエで、作品世界がこの範囲を出ることはない。一方三人称なら、「彼/彼女」はいくら増えてもかまわない。登場人物のそれぞれが感じていることを、主語を替えてどんどん並べていってもよい。一応そう言える。
「蒲団」は、主人公の内面描写(彼は~と考えた/~を感じた)と、彼の目と耳に入ったことに、作品世界がほとんど完全に限定されている。ヒロインの横山芳子や時雄の妻の考えを直接述べた部分も二、三あるが、それは時雄によって推測されたことだ、としてもさしつかえない。風景描写では主語は別になるが、例えば最後の一文「薄暗い一室、戸外(おもて)には風が吹暴(ふきあ)れて居た」にしても、「~のを聞いた」と付け加えても、文体がダラける、というような問題はあるだろうが、内容的に別におかしなことは生じない。つまり時雄によって感じ取られた外界しかない。
いやそれ以前に、「蒲団」は作者の実体験を述べたことを、そもそもの最初からウリにした小説なのだ。時雄=今これを書いている「私」=花袋田山録弥、だからこそ当時の文壇関係者や文学愛好家の興味を引いたのだ。どうしていっそのこと、「時雄は」ではなく、「私は」を主語にしなかったのか?
これは当の作者・花袋自身に聞いたとしても、唯一の「正解」は得られっこない問題だろう。それを、ああでもない、こうでもない、と引きずり回すのが文学論議なのである。で、私もやってみたい。
「ほとんど完全な限定」の、ほとんど唯一の例外が、終わり近く、田舎へ帰る芳子を、時雄が新橋の駅へ見送る場面にある。「時雄の後に、一群(むれ)の見送人が居た。其蔭に、柱の傍に、何時(いつ)来たか、一箇(ひとつ)の古い中折帽を冠(かぶ)つた男が立つて居た。芳子は此(これ)を認めて胸を轟かした。父親は不快な感を抱いた。けれど、空想に耽つて立盡した時雄は、其後に其男が居るのを夢にも知らなかつた」
男がいたことを知らないなら、それを見て芳子が胸をときめかせたことも、芳子の父がいやな気になったことも、時雄は推測しようもないはずで、ここでは彼とは別の、「作者」が現れている、としか見えない。「作者」はどうして、一度だけ出てくる必要があったのだろうか?
小谷野敦のおかげで、私は最近、この新橋駅のできごとも「事実」であることを知った(小谷野は小林一郎に拠って書いているので、以下は孫引きである)。芳子のモデルである岡田美知代の、恋人の永代静雄(「蒲団」では田中秀夫)は、実際に新橋駅へ来ていた。それを花袋は、美知代の父親からの手紙で、初めて知ったのだった。
上の引用文の最後を、「その男が居るのをその時は夢にも知らなかった」とでもすれば、作者=時雄であることははっきりする。その代わり、小説中の世界が「過去」であることは露わになる。花袋はそれを嫌ったのだと考えられる。が、問題はもう少しある。田中が芳子を陰ながら見送りに来る場面は、これが最初ではない。
この別れの日、時雄と芳子とその父とは、それぞれ車(人力車)に乗って出立する。時雄の細君と下女がこれを見送り、隣の細君も何事かと眺めている。「猶其後の小路の曲り角に、茶色の帽子を被つた男が立つて居た。芳子は二度、三度まで振返つた」
この茶色の帽子の男も田中、でしょうよね。このときは時雄は気がついたものかどうか、何も書かれていない。それで、帽子だが、このときは「茶色の帽子」で、後では「古い中折帽」。田中の帽子は古い茶色の中折帽だったわけだ。一方、時雄はと言うと、「時雄は茶色の中折帽、七子(ななこ)の三紋の羽織といふ扮装(いでたち)で、窓際に立盡して居た」
同じく「茶色の中折帽」だった……。これは、この時代(明治三十九年頃)の流行だったようだ。夏目漱石がこの年、「蒲団」の掲載誌になったのと同じ『新小説』に発表した「草枕」(明治三十九年九月号。「蒲団」は明治四十年八月号)では、ヒロインの元夫は、「茶色のはげた中折帽」をかぶって、最後のシーンで汽車に乗って去る。「蒲団」の基の「事実」において、新橋駅で二人の男が同時にかぶっていても、ありふれた偶然に過ぎなかったのかも知れない。そうだとしても、最後に出てくる、芳子の、手紙の文言はどうだろう。
「新橋にての別離(わかれ)、硝子(がらす)戸の前に立ち候毎に、茶色の帽子うつり候やうの心地致し、今猶まざまざと御姿見るのに候」
「茶色の帽子」は時雄だ、と読者は自然に思うだろう。それなら、時雄もそう思った、ことになる。「蒲団」を読むということは、時雄の視点で作品世界を見る、ということなのだから。しかし、すぐ前を読めば、もう一人、芳子が懐かしく思うであろう男が、同じ色の帽子で、後に立っていたのである。
芳子はこれ以前に、自分は処女だと言って時雄をだましていて、事実を告白したがために帰郷させられることになったのだ。この時も、だましたのだろうか? いや、だましたとすれは、それは最後の瞬間だけちらっと姿を現した「作者」である。誰を? もちろん読者を。なんのために? 次のようには考えられないだろうか。
時雄ってのはなんか、いやらしい男だな、と思うのは、あまりにも有名な、芳子が使っていた蒲団に顔を埋めて泣くシーンより、例えば次のように語られる彼の気持ちではないだろうか。
「時雄の胸は激しては居つたが、以前よりは軽快であつた。二百余里の山川を隔てて、もうその美しい表情をも見ることが出来なくなると思ふと、言ふに言はれぬ侘(わび)しさを感ずるが、其恋せる女を競争者の手から父親の手に移したことは尠(すく)くとも愉快であつた」。
まあ、好きな女をよその男に取られたときには、誰しもこんなふうになるのかも知れないが、いよいよお別れの間際になっても、この男は都合のいい空想に耽ったおかげで、「中折帽の男」に気づかないのだ。
「時雄は二人の此旅を思ひ、芳子の将来のことを思つた。其身と芳子とは盡きざる縁(えにし)があるやうに思はれる。妻が無ければ、無論自分は芳子を貰つたに相違ない。芳子も亦喜んで自分の妻になつたであらう。理想の生活、文学的の生活、堪へ難き創作の煩悶をも慰めて呉れるだらう。今の荒涼たる胸をも救つて呉れることが出来るだらう。『何故、今少し早く生れなかつたでせう、私も奥様時分に生れて居れば面白かつたでせうに……』と妻に言つた芳子の言葉を思ひ出した。此の芳子を妻にするやうな運命は永久其身に来ぬであらうか。この父親を自分の舅と呼ぶやうな時は来ぬだろうか。人生は長い、運命は奇(く)しき力を持つて居る。処女でないといふことが― 一度節操(みさを)を破つたといふことが、却つて年多く子供ある自分の妻たることを容易ならしむる条件となるかも知れぬ」
あいにく、芳子の心はこのときも田中のものだった。時雄は、「恋せる女を競争者の手から父親の手に移」すことには失敗していたのである。そして、「事実」の花袋は、少なくとも「蒲団」執筆時点(明治四十年七月頃)では、岡田美知代と永代の心が離れていないことを知っていた。
これも小谷野からの孫引きになるが、四十年五月六日と推定される美知代の母親への花袋の手紙では、「既に霊肉共に其人に許し候上は」「兎に角二人をして東京に新生活を始めしめ」るのがよいだろう、と書かれているそうだ。それ以前に美知代からもらった手紙には、どうしても永代と添い遂げたいという気持ちが書かれていて、花袋も最初のうちこそ腹を立てて永代を攻撃したりしたが、ここに至って、もう美知代を我がものにすることは決してできない、と観念したものらしい。以下の小谷野の見解は首肯できる。
(前略)当初、美知代を郷里へ帰した花袋が、美知代が永代を諦め、また前のような恋文めいた手紙を書いてくれることを期待、妄想しており、それがありえないと分かった時点で、美知代と永代の結婚を認め、かつまた自然主義の頭目の地位を占めることになるとの「賭け」の意味も込めた作を書くことにしたのである。
美知代と永代は明治四十二年に結婚している。妊娠したり、家出をしたりと、さんざん騒動を繰りひろげた美千代を、花袋が自分の養女にしてまで、添い遂げさせたのだ。
こういうのも、中年男の見栄と呼ばれるべきかも知れない。「蒲団」も、田中と芳子の肉体関係がばれるまでは、時雄が彼らと芳子の両親との仲立ちを頼まれ、本心とは裏腹に、「太っ腹に」その役を務めるところが、作品の中心になっている。その時雄にとって、芳子が経験済みだったのは、むしろ好都合とも考えられたことは、上に述べた通りである。
それもこれも、時雄の一人よがりであったことは、作品が成立したときには明らかだった。「事実」の花袋は、美知代の母親にあれだけのことを言ったからには、必要とあれば、美知代と永代の結婚のために、相当立ち入ったことまでやる決心はあったろう。
しかしもちろん、新橋駅での別れの(正確にはその日の夜の)時点で終わる物語の主人公である時雄には、そんなことは関係ない。彼と芳子の仲は、今後どうにもならないと決まっている、とも思わない。それならそれで放っておいてもいい、とも考えられるかも知れないが、それはしずらい。作品の中心をなす事件には、なんらかの結末をつけて終えるのが、西洋でも日本でも、物語の定法だからだ。実際、蒲団に顔を埋めて悲嘆に暮れる結末は、女を永遠に失った男にこそふさわしく、読者の受ける印象もそうだろう。
しかしさらに一方で、時雄の幻想が完全に破れるところを、花袋は描きたくなかった。それは多分、花袋の創作意図の核心に触れることだったろう。今簡単に言ってしまうと、花袋は、真実の「認知(アナグノリシス)」によって劇的に変容するギリシャ悲劇以来の伝統的なヒーローではなく、いつまでも幻想の中に止まろうとするドン・キホーテ型の、アンチヒーロー(一つの見方では、これこそが「小説」の始祖である)を描こうとしたらしい。
そこで、作中にも「真実」は描かれるが、それは目立たぬように、主人公の「後」に置かれ、読者が主人公並みに迂闊だとすれば(「蒲団」を最初に読んだときの私がそうだった)、気づかれずにすんでしまうような形になった。工夫は工夫だが、成功とは言えないと思う。どっちつかずの、曖昧さしか後に残らないようだから。
小谷野敦に教えられたことはもう一つある。こちらが『リアリズムの擁護』所収論文「岡田美知代と花袋「蒲団」について」の眼目に近いのだが、上述が末尾部分に関連するのに対して、「蒲団」の冒頭に近い次の部分に関することである。
「数多い感情づくめの手簡(てがみ)――二人の関係は何(ど)うしても尋常(よのつね)ではなかつた」
この手紙はどういうものか、具体的に明らかにされていないので、時雄の妄想であったようにも思える、と小谷野は言っている。私の素朴な読後感では、妄想とまでは思わなかったが、そう言われてみると、なるほど、「蒲団」は、何も具体的な証拠はないのに、ある種の若い女がよくふりまくコケットリイにひっかかって、恋愛妄想に陥り、ストーカーになる寸前までいった男の話にも読める。
しかし「事実」は、感情ずくめの手紙はあった。詳しくは小谷野のこの論文か、彼が引用しているもとの『田山花袋記念館研究叢書第2巻 「蒲団」をめぐる書簡集』を見てもらえればよい(私も早く読まなくては……)が、「一入(ひとしお)師の君恋しう存候」とか、「君は今西へ四百里春の日を此身涙にもの思ひ暮らす」というような短歌とか、口語で「私は先生を、……却つて失礼でせうけれ共(ども)師の君だと心から身も魂もさゝげて事(つか)へてるのですよ」とかいう文言が美知代の手紙にはある。「師」という言葉が出てくると、男女関係とは別よ、という言い逃れもできそうだが、これをもらった男が、恋文だ、と思い込んだとしても、それは妄想だとか、自惚れだ、などと嗤って済ませることはできないだろう。
ところで、「君は今西へ四百里」という言葉は、このとき花袋が、前回述べたように、日露戦争に従軍していたから出てきた。花袋は、小説家志望の娘を弟子にした直後に、戦争に出かけている、そのことは、「蒲団」では完全に抹消されている。その結果、時雄が作中で芳子に抱く感情の、基になったはずの「手紙」の中身も隠されてしまった。日露戦争直後に発表された作品であるにもかかわらず、「蒲団」中にあるこの大戦争との関連物と言えば、別れの日に芳子がしている「二百三高地巻き」(束髪の前部を高くした、当時の女学生に流行した髪型)しかない。
これに限らず、「蒲団」からは、時雄の芳子への執着以外は、夾雑物としてできるだけ排除されているようだ。東京市内の様子はけっこう細かく描写されていても、その中で積極的な意味があるのは「女学生」だけである。「電車は東京市の交通を一変させた。女学生は勢力になつて、もう自分が恋をした頃のやうな旧式の娘は見たくも見られなくなつた」。芳子はその、明治末に出現した女学生代表である。「美しいこと、理想を養うこと、虚栄心の高いこと――かういふ傾向をいつとなしに受けて、芳子は明治の女学生の長所と短所とを遺憾なく備えて居た」。むしろ、今ならロリコン趣味と言われそうな「少女病」(四十年五月、つまり前出の、美知代の母親への手紙と同じ月に発表)の著者でもある花袋にとって、執着断ち切りがたいのは、女学生一般のイメージであって、生身の芳子ではないのではないか、とさえ思えてくる。
関連して、以下のようなことは、花袋の同時代人片上天弦(かたがみ てんげん。後には本名の「片上伸」で執筆活動をした)などの批評以来、中村光夫によっても繰り返し言われてきた。「蒲団」は作者と主人公との、また作者と作品世界との、距離感がなさ過ぎる。芳子もそうだが、もう一人の重要人物であるはずの時雄の細君は、名前も与えられておらず、筋を運んだり、古い型の女として芳子と比較されたり、といった作者の都合だけで登場したような印象になっている。
その作者とイコール言われる主人公はどうか。失われた青春を追い求め、愛欲に苦しむ姿はそれとして、それを突き放して眺める視点がない。本当は、いい年をした妻子持ちのおっさん(数え年で三十六歳だから今風なら三十四、五だが、人間の寿命が今よりずっと短い明治時代の話だからね)が、十七も年下の女の子に、手を出すわけでもなく、思春期になりたての少年のように一人で思い悩み、酔って便所で寝てしまったり、道で転げまわって泥だらけになったり、というのは、笑い物になるはずなのだ。しかし、笑えない。主人公も、作者も、ひたすら大真面目なようだから。主人公を批判する視点を全く欠いた作品は、偏った、狭いものにならざるを得ない。
このような批判はもっともである、と私も思う。ただ、花袋が、承知のうえでこういう作品にしたのだとすれば、それはどういうことか、考える余地がありそうな気がする。
最初に述べた「茶色い中折帽」が、私の深読みではないとしたら、そして、「芳子は……胸を轟かした」とあるからには、深読みではないと思うのだが、ここで一瞬時雄を離れた「作者」の眼差しは、すぐに嘲笑に転嫁しそうなものだ。そもそも対象を離れるということ自体が、批評的になることだから。けれど、明らかな嗤いにならないように、わざわざ目立たなくする工夫がされている。その必要はどこから出てきたのだろう?
花袋という人は、最新の外国文学を同時代の誰よりもたくさん、英語で読んでいたと言われれているから、きっと、現実世界とも並び立つような客観的な世界を、文章で作り上げる野心もあったと思う。
例えば、自伝的な「生」「妻」「縁」の三部作のうち、前の二作は、三人称で、複数の視点から、一家の歴史が語られれている。岡田美知代をモデルにした女は、別の名前で、「妻」の最後のあたりに登場する。「縁」ではさらに別の名前になって、花袋(この作中では清という名)が骨を折って実現してやった、永代をモデルにした男との結婚から、その破綻までが描かれ、この作は、実質的に「蒲団」の後日談になっている。それを含めて、この三部作は、「生」の、母親の死の迫力ある描写こそ感銘深いものの、全体としては、「こんな退屈な話、わざわざ拵えてまでする人はいないから、きっと実際にあったことなんだろうな」と思えるようなできばえである。
そんなわけもあって、田山花袋と言えば「蒲団」、「蒲団」と言えば田山花袋、ということになったのは、果たして当人にとって幸福なことであったかどうか。また、小谷野敦が言うように、花袋がこの作品で、自然主義の頭目になる「賭け」をしたのだ、というのが本当なら、彼は賭けに勝ったわけだが、それは、平凡な男を平凡な妄想世界に閉じ込めた作戦が当たったからだ。なぜ当たると思ったのか、そして現に当たったのは何故?
サブテキスト : 小谷野敦『リアリズムの擁護 近現代文学論集』(新曜社平成20年)
『風俗小説論』や『明治文学史』を書いた中村光夫も、彼を批判しつつ近代日本文学成立の事情を分析した柄谷行人も、次のことは等しく認めそうだ。田山花袋「蒲団」は、実質的に主人公竹中時雄のモノローグ(独白)である。ならば、三人称で書かれねばならぬ必然性はどこにもなかった。
小説における人称の問題(主人公、というか中心人物が「私」と書かれるか、「彼/彼女」と書かれるか)は、いろいろと考えると面倒かつ面白いでので、後でまた取り上げるとして、ここでは作品が語り出される(書き出される)視点・始点のことだとする。一人称小説は、たった一人の「私」が見たり聞いたり感じたりしたことを書くのがタテマエで、作品世界がこの範囲を出ることはない。一方三人称なら、「彼/彼女」はいくら増えてもかまわない。登場人物のそれぞれが感じていることを、主語を替えてどんどん並べていってもよい。一応そう言える。
「蒲団」は、主人公の内面描写(彼は~と考えた/~を感じた)と、彼の目と耳に入ったことに、作品世界がほとんど完全に限定されている。ヒロインの横山芳子や時雄の妻の考えを直接述べた部分も二、三あるが、それは時雄によって推測されたことだ、としてもさしつかえない。風景描写では主語は別になるが、例えば最後の一文「薄暗い一室、戸外(おもて)には風が吹暴(ふきあ)れて居た」にしても、「~のを聞いた」と付け加えても、文体がダラける、というような問題はあるだろうが、内容的に別におかしなことは生じない。つまり時雄によって感じ取られた外界しかない。
いやそれ以前に、「蒲団」は作者の実体験を述べたことを、そもそもの最初からウリにした小説なのだ。時雄=今これを書いている「私」=花袋田山録弥、だからこそ当時の文壇関係者や文学愛好家の興味を引いたのだ。どうしていっそのこと、「時雄は」ではなく、「私は」を主語にしなかったのか?
これは当の作者・花袋自身に聞いたとしても、唯一の「正解」は得られっこない問題だろう。それを、ああでもない、こうでもない、と引きずり回すのが文学論議なのである。で、私もやってみたい。
「ほとんど完全な限定」の、ほとんど唯一の例外が、終わり近く、田舎へ帰る芳子を、時雄が新橋の駅へ見送る場面にある。「時雄の後に、一群(むれ)の見送人が居た。其蔭に、柱の傍に、何時(いつ)来たか、一箇(ひとつ)の古い中折帽を冠(かぶ)つた男が立つて居た。芳子は此(これ)を認めて胸を轟かした。父親は不快な感を抱いた。けれど、空想に耽つて立盡した時雄は、其後に其男が居るのを夢にも知らなかつた」
男がいたことを知らないなら、それを見て芳子が胸をときめかせたことも、芳子の父がいやな気になったことも、時雄は推測しようもないはずで、ここでは彼とは別の、「作者」が現れている、としか見えない。「作者」はどうして、一度だけ出てくる必要があったのだろうか?
小谷野敦のおかげで、私は最近、この新橋駅のできごとも「事実」であることを知った(小谷野は小林一郎に拠って書いているので、以下は孫引きである)。芳子のモデルである岡田美知代の、恋人の永代静雄(「蒲団」では田中秀夫)は、実際に新橋駅へ来ていた。それを花袋は、美知代の父親からの手紙で、初めて知ったのだった。
上の引用文の最後を、「その男が居るのをその時は夢にも知らなかった」とでもすれば、作者=時雄であることははっきりする。その代わり、小説中の世界が「過去」であることは露わになる。花袋はそれを嫌ったのだと考えられる。が、問題はもう少しある。田中が芳子を陰ながら見送りに来る場面は、これが最初ではない。
この別れの日、時雄と芳子とその父とは、それぞれ車(人力車)に乗って出立する。時雄の細君と下女がこれを見送り、隣の細君も何事かと眺めている。「猶其後の小路の曲り角に、茶色の帽子を被つた男が立つて居た。芳子は二度、三度まで振返つた」
この茶色の帽子の男も田中、でしょうよね。このときは時雄は気がついたものかどうか、何も書かれていない。それで、帽子だが、このときは「茶色の帽子」で、後では「古い中折帽」。田中の帽子は古い茶色の中折帽だったわけだ。一方、時雄はと言うと、「時雄は茶色の中折帽、七子(ななこ)の三紋の羽織といふ扮装(いでたち)で、窓際に立盡して居た」
同じく「茶色の中折帽」だった……。これは、この時代(明治三十九年頃)の流行だったようだ。夏目漱石がこの年、「蒲団」の掲載誌になったのと同じ『新小説』に発表した「草枕」(明治三十九年九月号。「蒲団」は明治四十年八月号)では、ヒロインの元夫は、「茶色のはげた中折帽」をかぶって、最後のシーンで汽車に乗って去る。「蒲団」の基の「事実」において、新橋駅で二人の男が同時にかぶっていても、ありふれた偶然に過ぎなかったのかも知れない。そうだとしても、最後に出てくる、芳子の、手紙の文言はどうだろう。
「新橋にての別離(わかれ)、硝子(がらす)戸の前に立ち候毎に、茶色の帽子うつり候やうの心地致し、今猶まざまざと御姿見るのに候」
「茶色の帽子」は時雄だ、と読者は自然に思うだろう。それなら、時雄もそう思った、ことになる。「蒲団」を読むということは、時雄の視点で作品世界を見る、ということなのだから。しかし、すぐ前を読めば、もう一人、芳子が懐かしく思うであろう男が、同じ色の帽子で、後に立っていたのである。
芳子はこれ以前に、自分は処女だと言って時雄をだましていて、事実を告白したがために帰郷させられることになったのだ。この時も、だましたのだろうか? いや、だましたとすれは、それは最後の瞬間だけちらっと姿を現した「作者」である。誰を? もちろん読者を。なんのために? 次のようには考えられないだろうか。
時雄ってのはなんか、いやらしい男だな、と思うのは、あまりにも有名な、芳子が使っていた蒲団に顔を埋めて泣くシーンより、例えば次のように語られる彼の気持ちではないだろうか。
「時雄の胸は激しては居つたが、以前よりは軽快であつた。二百余里の山川を隔てて、もうその美しい表情をも見ることが出来なくなると思ふと、言ふに言はれぬ侘(わび)しさを感ずるが、其恋せる女を競争者の手から父親の手に移したことは尠(すく)くとも愉快であつた」。
まあ、好きな女をよその男に取られたときには、誰しもこんなふうになるのかも知れないが、いよいよお別れの間際になっても、この男は都合のいい空想に耽ったおかげで、「中折帽の男」に気づかないのだ。
「時雄は二人の此旅を思ひ、芳子の将来のことを思つた。其身と芳子とは盡きざる縁(えにし)があるやうに思はれる。妻が無ければ、無論自分は芳子を貰つたに相違ない。芳子も亦喜んで自分の妻になつたであらう。理想の生活、文学的の生活、堪へ難き創作の煩悶をも慰めて呉れるだらう。今の荒涼たる胸をも救つて呉れることが出来るだらう。『何故、今少し早く生れなかつたでせう、私も奥様時分に生れて居れば面白かつたでせうに……』と妻に言つた芳子の言葉を思ひ出した。此の芳子を妻にするやうな運命は永久其身に来ぬであらうか。この父親を自分の舅と呼ぶやうな時は来ぬだろうか。人生は長い、運命は奇(く)しき力を持つて居る。処女でないといふことが― 一度節操(みさを)を破つたといふことが、却つて年多く子供ある自分の妻たることを容易ならしむる条件となるかも知れぬ」
あいにく、芳子の心はこのときも田中のものだった。時雄は、「恋せる女を競争者の手から父親の手に移」すことには失敗していたのである。そして、「事実」の花袋は、少なくとも「蒲団」執筆時点(明治四十年七月頃)では、岡田美知代と永代の心が離れていないことを知っていた。
これも小谷野からの孫引きになるが、四十年五月六日と推定される美知代の母親への花袋の手紙では、「既に霊肉共に其人に許し候上は」「兎に角二人をして東京に新生活を始めしめ」るのがよいだろう、と書かれているそうだ。それ以前に美知代からもらった手紙には、どうしても永代と添い遂げたいという気持ちが書かれていて、花袋も最初のうちこそ腹を立てて永代を攻撃したりしたが、ここに至って、もう美知代を我がものにすることは決してできない、と観念したものらしい。以下の小谷野の見解は首肯できる。
(前略)当初、美知代を郷里へ帰した花袋が、美知代が永代を諦め、また前のような恋文めいた手紙を書いてくれることを期待、妄想しており、それがありえないと分かった時点で、美知代と永代の結婚を認め、かつまた自然主義の頭目の地位を占めることになるとの「賭け」の意味も込めた作を書くことにしたのである。
美知代と永代は明治四十二年に結婚している。妊娠したり、家出をしたりと、さんざん騒動を繰りひろげた美千代を、花袋が自分の養女にしてまで、添い遂げさせたのだ。
こういうのも、中年男の見栄と呼ばれるべきかも知れない。「蒲団」も、田中と芳子の肉体関係がばれるまでは、時雄が彼らと芳子の両親との仲立ちを頼まれ、本心とは裏腹に、「太っ腹に」その役を務めるところが、作品の中心になっている。その時雄にとって、芳子が経験済みだったのは、むしろ好都合とも考えられたことは、上に述べた通りである。
それもこれも、時雄の一人よがりであったことは、作品が成立したときには明らかだった。「事実」の花袋は、美知代の母親にあれだけのことを言ったからには、必要とあれば、美知代と永代の結婚のために、相当立ち入ったことまでやる決心はあったろう。
しかしもちろん、新橋駅での別れの(正確にはその日の夜の)時点で終わる物語の主人公である時雄には、そんなことは関係ない。彼と芳子の仲は、今後どうにもならないと決まっている、とも思わない。それならそれで放っておいてもいい、とも考えられるかも知れないが、それはしずらい。作品の中心をなす事件には、なんらかの結末をつけて終えるのが、西洋でも日本でも、物語の定法だからだ。実際、蒲団に顔を埋めて悲嘆に暮れる結末は、女を永遠に失った男にこそふさわしく、読者の受ける印象もそうだろう。
しかしさらに一方で、時雄の幻想が完全に破れるところを、花袋は描きたくなかった。それは多分、花袋の創作意図の核心に触れることだったろう。今簡単に言ってしまうと、花袋は、真実の「認知(アナグノリシス)」によって劇的に変容するギリシャ悲劇以来の伝統的なヒーローではなく、いつまでも幻想の中に止まろうとするドン・キホーテ型の、アンチヒーロー(一つの見方では、これこそが「小説」の始祖である)を描こうとしたらしい。
そこで、作中にも「真実」は描かれるが、それは目立たぬように、主人公の「後」に置かれ、読者が主人公並みに迂闊だとすれば(「蒲団」を最初に読んだときの私がそうだった)、気づかれずにすんでしまうような形になった。工夫は工夫だが、成功とは言えないと思う。どっちつかずの、曖昧さしか後に残らないようだから。
小谷野敦に教えられたことはもう一つある。こちらが『リアリズムの擁護』所収論文「岡田美知代と花袋「蒲団」について」の眼目に近いのだが、上述が末尾部分に関連するのに対して、「蒲団」の冒頭に近い次の部分に関することである。
「数多い感情づくめの手簡(てがみ)――二人の関係は何(ど)うしても尋常(よのつね)ではなかつた」
この手紙はどういうものか、具体的に明らかにされていないので、時雄の妄想であったようにも思える、と小谷野は言っている。私の素朴な読後感では、妄想とまでは思わなかったが、そう言われてみると、なるほど、「蒲団」は、何も具体的な証拠はないのに、ある種の若い女がよくふりまくコケットリイにひっかかって、恋愛妄想に陥り、ストーカーになる寸前までいった男の話にも読める。
しかし「事実」は、感情ずくめの手紙はあった。詳しくは小谷野のこの論文か、彼が引用しているもとの『田山花袋記念館研究叢書第2巻 「蒲団」をめぐる書簡集』を見てもらえればよい(私も早く読まなくては……)が、「一入(ひとしお)師の君恋しう存候」とか、「君は今西へ四百里春の日を此身涙にもの思ひ暮らす」というような短歌とか、口語で「私は先生を、……却つて失礼でせうけれ共(ども)師の君だと心から身も魂もさゝげて事(つか)へてるのですよ」とかいう文言が美知代の手紙にはある。「師」という言葉が出てくると、男女関係とは別よ、という言い逃れもできそうだが、これをもらった男が、恋文だ、と思い込んだとしても、それは妄想だとか、自惚れだ、などと嗤って済ませることはできないだろう。
ところで、「君は今西へ四百里」という言葉は、このとき花袋が、前回述べたように、日露戦争に従軍していたから出てきた。花袋は、小説家志望の娘を弟子にした直後に、戦争に出かけている、そのことは、「蒲団」では完全に抹消されている。その結果、時雄が作中で芳子に抱く感情の、基になったはずの「手紙」の中身も隠されてしまった。日露戦争直後に発表された作品であるにもかかわらず、「蒲団」中にあるこの大戦争との関連物と言えば、別れの日に芳子がしている「二百三高地巻き」(束髪の前部を高くした、当時の女学生に流行した髪型)しかない。
これに限らず、「蒲団」からは、時雄の芳子への執着以外は、夾雑物としてできるだけ排除されているようだ。東京市内の様子はけっこう細かく描写されていても、その中で積極的な意味があるのは「女学生」だけである。「電車は東京市の交通を一変させた。女学生は勢力になつて、もう自分が恋をした頃のやうな旧式の娘は見たくも見られなくなつた」。芳子はその、明治末に出現した女学生代表である。「美しいこと、理想を養うこと、虚栄心の高いこと――かういふ傾向をいつとなしに受けて、芳子は明治の女学生の長所と短所とを遺憾なく備えて居た」。むしろ、今ならロリコン趣味と言われそうな「少女病」(四十年五月、つまり前出の、美知代の母親への手紙と同じ月に発表)の著者でもある花袋にとって、執着断ち切りがたいのは、女学生一般のイメージであって、生身の芳子ではないのではないか、とさえ思えてくる。
関連して、以下のようなことは、花袋の同時代人片上天弦(かたがみ てんげん。後には本名の「片上伸」で執筆活動をした)などの批評以来、中村光夫によっても繰り返し言われてきた。「蒲団」は作者と主人公との、また作者と作品世界との、距離感がなさ過ぎる。芳子もそうだが、もう一人の重要人物であるはずの時雄の細君は、名前も与えられておらず、筋を運んだり、古い型の女として芳子と比較されたり、といった作者の都合だけで登場したような印象になっている。
その作者とイコール言われる主人公はどうか。失われた青春を追い求め、愛欲に苦しむ姿はそれとして、それを突き放して眺める視点がない。本当は、いい年をした妻子持ちのおっさん(数え年で三十六歳だから今風なら三十四、五だが、人間の寿命が今よりずっと短い明治時代の話だからね)が、十七も年下の女の子に、手を出すわけでもなく、思春期になりたての少年のように一人で思い悩み、酔って便所で寝てしまったり、道で転げまわって泥だらけになったり、というのは、笑い物になるはずなのだ。しかし、笑えない。主人公も、作者も、ひたすら大真面目なようだから。主人公を批判する視点を全く欠いた作品は、偏った、狭いものにならざるを得ない。
このような批判はもっともである、と私も思う。ただ、花袋が、承知のうえでこういう作品にしたのだとすれば、それはどういうことか、考える余地がありそうな気がする。
最初に述べた「茶色い中折帽」が、私の深読みではないとしたら、そして、「芳子は……胸を轟かした」とあるからには、深読みではないと思うのだが、ここで一瞬時雄を離れた「作者」の眼差しは、すぐに嘲笑に転嫁しそうなものだ。そもそも対象を離れるということ自体が、批評的になることだから。けれど、明らかな嗤いにならないように、わざわざ目立たなくする工夫がされている。その必要はどこから出てきたのだろう?
花袋という人は、最新の外国文学を同時代の誰よりもたくさん、英語で読んでいたと言われれているから、きっと、現実世界とも並び立つような客観的な世界を、文章で作り上げる野心もあったと思う。
例えば、自伝的な「生」「妻」「縁」の三部作のうち、前の二作は、三人称で、複数の視点から、一家の歴史が語られれている。岡田美知代をモデルにした女は、別の名前で、「妻」の最後のあたりに登場する。「縁」ではさらに別の名前になって、花袋(この作中では清という名)が骨を折って実現してやった、永代をモデルにした男との結婚から、その破綻までが描かれ、この作は、実質的に「蒲団」の後日談になっている。それを含めて、この三部作は、「生」の、母親の死の迫力ある描写こそ感銘深いものの、全体としては、「こんな退屈な話、わざわざ拵えてまでする人はいないから、きっと実際にあったことなんだろうな」と思えるようなできばえである。
そんなわけもあって、田山花袋と言えば「蒲団」、「蒲団」と言えば田山花袋、ということになったのは、果たして当人にとって幸福なことであったかどうか。また、小谷野敦が言うように、花袋がこの作品で、自然主義の頭目になる「賭け」をしたのだ、というのが本当なら、彼は賭けに勝ったわけだが、それは、平凡な男を平凡な妄想世界に閉じ込めた作戦が当たったからだ。なぜ当たると思ったのか、そして現に当たったのは何故?