メインテキスト: 柄谷行人『定本日本近代文学の起源』(岩波現代文庫平成20年、23年第3刷)
前回軽く「近代的自我」などという言葉を使ったが、もっとよく考えるべきだったかも知れない。有史以来、人間は自己意識を持つ。個人名があるのが、何よりの証拠ではないか。八つぁん熊さん、李さん張さんといった名前であるにしても、とにかく個人名が呼ばれたのなら、呼ばれる個人=「自分」はあるのだろう。その「自分」についての意識が強くなりすぎて、自分の属する共同体と折れ合えなくなったと感じる場合もあるのは、何も近代になってからではあるまい。ただ、そのような「自己」には根拠があるのではないかと、けっこう、広く認められたのは、比較的近年の話だろう。
「近代的な権利意識」に目覚めた者が「近代的自我」なのだとすると、ちょっと別になる。「自分は自分であってよい」=「他人と違っていてよい」というのは、権利意識の一部、あるいは前提と考えてもよいかも知れない。「人は他人に迷惑をかけない限り、何をしてもよい」は、現に民主主義社会のモットーでもある。しかし、そのような、広い意味での法的な関係には収まりきれない自己もあり、私見では、そこに関わるべきものこそが文学なのである。
一つの実例として、たぶん明治末に移入されたごく短い小説をとりあげよう。
森鷗外は、同時代のヨーロッパ文学を多数翻訳紹介したことでも知られている。それらは、鷗外自身の、たいていの小説より面白い。そのうちの一つに、ヘルベルト・オイレンベルク「女の決闘」がある。『鷗外選集』第十七巻(岩波書店昭和五十五年)所収の小堀桂一郎の解説によれば、初出誌は不明。明治四十四年に訳出したと、鷗外の日記には記されているそうだ。新書サイズで、二段組全十二頁と四行、短編と言うより、今風ならショートショートというのに近い。
原著者のオイレンベルクは、この時代のドイツで、主に演劇方面で活躍した人らしい。鷗外は彼の短編集『綺談集』から二編訳出しており、もう一つの「塔の上の鶏」のほうが、国語の教科書にとりあげられることもあって、比較的知られているだろう。「女の決闘」のほうは、知名度は低いが、非常に鮮烈な読後感が残り、少数の愛好者はいる。
そのうちの一人が、太宰治である。昭和十五年、同じ「女の決闘」の題名で、オイレンベルクの小品を紹介・批評しつつ、作品にはない視点を取り入れて、独自の創作に仕立てている。その意味では中島京子「FUTON」と同じ趣向と言える。しかし新しいほうの「女の決闘」は、いかにも太宰らしい味はあるものの、私見では名作とは言いかねる。
元の作品は、時も場所も指定されていない。夫に浮気された女が、浮気相手の女学生に決闘を申込み、拳銃で撃ち合った結果、女学生を殺してしまう。これが作中の「事件」の全部である。その後彼女は自首して、夫と子どもを含めてすべての面会を断り、挙げ句に牢内で餓死してしまう。食物を摂っていないことが知られないように、口に入れて、こっそり吐き出すということまでして。遺書もない。ただ、一度だけ面会に来た牧師に宛てて、もう来ないでくれ、と要請した手紙の下書きが残っていて、そこにわずかに心情が吐露されている。それが、一篇のキモになっている。
彼女は言う。自分は夫との恋愛を、一片のしみもない完璧なものにしたかった。それが傷つけられたと知ったとき、ゆっくり腐っていくように死ぬのではなく、「意識して、真つ直ぐに立つた儘で死なうと思」った。対手の女学生には射撃の心得がある。自分はこれまで武器を持ったことがない。勝負は明らかなはずだが、偶然のいたずらで、自分の撃った最後の銃弾が女学生の胸を貫いてしまった。これで復讐は遂げられたが、恋愛を元通りにすることはできない、と悟った。いや、こんなことをやったからには、もう彼女自身が元に戻れない。夫や子どものもとへ帰ることなど決してできない。信仰も、役に立たない。
「わたくしは、あなたの教で禁じてある程、自分の意志の儘に進んで参つて、跡を振り返つても見ませんでした。それはわたくし好く存じてゐます。併しどなただつて、わたくしに、お前の愛しやうは違ふから、別な愛しやうをしろと仰しやる事は出来ますまい。あなたの心の臓はわたくしの胸には嵌まりますまい。又わたくしのはあなたのお胸には嵌まりますまい。あなたはわたくしを、謙遜を知らぬ、我慾の強いものだと仰しやるかも知れませんが、それと同じ権利で、わたくしはあなたを、気の狭い卑屈な方だと申す事も出来ませう。あなたの尺度でわたくしをお測りになつて、その尺度が足らぬからと言つて、わたくしを度はづれだと仰しやる訳には行きますまい。あなたとわたくしとの間には、対等の決闘は成り立ちません。お互に手に持つてゐる武器が違ひます。(後略)」
こんなことを書き残すこと自体、とても度外れだろう。
自分でも言っている通り、この女には謙譲の徳が欠けている。キリスト教から見てそう言える、というだけではない。ギリシャ人が言った「傲慢(ヒュブリス)」の罪を犯しており、それが彼女をギリシャ悲劇のヒーローに近づけている。人間はどこから見ても完璧ではないのだから、完璧なものを求めてはならない。何かが完璧でなかったからといって、それでは生きている甲斐がない、などと思うのが、既に傲慢なのである。
しかし彼女は自分がまちがっているとは認めない。かえってこう問いかけるのだ。まちがいだ、などと言うのは、それほど強く人を愛することができない人間の言い草ではないのか。自分が持っているような種類の情熱は理解できないからではないか。そんな人たちには、本当の意味でこの自分を救うことも、また、罰することもできはしない。だから、放っておいてくれ、と、片意地からでも自棄になったからでもなく、真っ直ぐに言っているのである。
こういう小説から、我々は何を学ぶのか。女は恐い、ではなくて、人間の恐さを。人間性の多様性を知り、畏敬の念を抱くことを、である。だからどうだ、ということはない。集団の、社会の側からすれば、並外れた情熱を決して捨てず、その命ずるところに従って真っ直ぐに生きようとする者は、娑婆では生きる場所はないのだから、どこかよそへ、例えば、あの世に、行ってもらうしかない。
社会の存続を是とする以上、そのような「掟」を我々は現に認めていることになる。けれどここにもう一つ、人は社会の次元にのみ生きている者ではないという事実がある。その感覚をも完全に忘れた去った社会は、根本的に抑圧的な、非人間的なものにならざるを得ないだろう。文学はそういう警告を発する。言ってみればそれが、文学の唯一の効用であると私は思っている。
権力の問題について、前回述べた視点からも考えておこう。
復讐心とは、裏返された権力意志である。「女の決闘」のヒロインもそれとは無縁でなかったことは、決闘後、「復讐といふものはこんなに苦い味のものか知ら」と述懐するとこらからわかる。
彼女が平凡で無力な女房ではなく、権力者であったとしたら? エリザベスⅠ世のように、恋敵(メアリー・ステュアート)を処刑することもできたろう。もっともこれは、フリードリッヒ・フォン・シラーの戯曲「マリア・シュトゥーアルト」の筋であって、史実とは言えない。この作中のエリザベスも、終幕で、成し遂げられた復讐の苦い味を噛みしめている。
女房のほうは、処刑どころか殺人も意図せず、かえって相手に殺されることを予期していた。しかし、予期した通りになれば、女学生のほうが殺人者となる。もっとも、「その決闘といふものが正当な決闘であつたなら、女房の受ける処分は禁獄に過ぎぬから、別に名誉を損ずるものではない」とも説明されているから、今よりはずいぶん軽い罪ではあったのだろう。それても、人を死なせた事実は女学生の後半生でたいへんな重荷になることは変わらない。つまり女房は、どのみち女学生の人生を狂わせるのである。そこまで意識したかどうかは、作中に何も書かれていないが、これもまた、立派な復讐、と呼ばれてよい。
そして、復讐は決して完全な満足をもたらさない。一度失われたもの、この場合は愛、は二度と戻ってこない。いつもそうなのかどうかはわからないが、悲劇及び悲劇的な文学作品の主人公たちが生きるのはそういう種類の運命である。彼らは敗北必至な戦いを遂行し、当然、敗れる。権力は、どんな種類のものであっても、役に立たない。そこにこそ、純粋な個人の可能性がある。
そうは言っても、ヒーローは、強い自負心は抱いているだろう。それが、敗北するのだから、自分を哀れむ心も強くなる。読者は、同情して、涙を流す。それが文学の主眼だと考えられている向きもある。
だからこそ、だと思うが、文学にもっと大きな野心を抱いている作家たちは、安易な同情を意識的に拒絶する。それはもっと深いレベルでの共感を求めているからであって、これまた権力意識の一部と言えるかも知れない。それでも、敗北必至で、世界を実際に変えることはできないことがあらかじめ組み込まれているのだから、普通の意味での権力として発現することはない。
「女の決闘」を読んで、私はすぐにアルベール・カミュ「異邦人」を連想した。どちらも素っ気ないほど簡潔な叙述で貫かれており、最後に神の使い(前者は牧師、後者は司祭)が差し出す救いの手を拒絶するところが、似ている。「女の決闘」は、「異邦人」の根幹だけを無造作に取り出して見せたような作品だが、逆に言うと、「異邦人」は「女の決闘」に比べると、乾ききったような印象の文体にもかかわらず、余計な枝葉がついているように見えてしまう。
もちろん、次の違いは重要である。「女の決闘」の殺人の動機は、「嫉妬」という、人の世で昔からよく知られていて、いまさらくだくだしく説明する必要はない感情なので、その結果だけをただ投げ出すことができた。一方「異邦人」は、「太陽が暑すぎた」のが殺人の動機だという、タワケた話として知られている。実際は、友人の女をめぐるトラブルに巻き込まれて、喧嘩になった相手をつい殺してしまった男の話だ。ピストルを使ったのだが、相手も匕首を抜いている。事件そのものは新聞の三面記事を見れば、現代でもありふれていて(実際にカミュは三面記事からこの作品を着想した)、「何も殺すまでのことはなかったろうに。愚かだなあ」という感想が持たれて、終わりになる。カミュは、逆に、そういう殺人者には世界がどう見えているか、一人称で描いた。二つの作品の眼目は全く違う。
しかし、両作の主人公たちはいずれも、この世で孤立せざるを得ないだけの「内面」を持っている。それが明らかになったとき、彼らはこの世に対してどういうふうに振舞うのか。「異邦人」の主人公ムルソーは、司祭に向かってこう言う。「君は死人のような生き方をしているから、自分が生きているということにさえ、自信がない。私はといえば、両手はからっぽのようだ。しかし、私は自信を持っている。自分について、すべてについて、君より強く、また、私の人生について、来るべきあの死について。そうだ、私にはこれしかない。しかし、少なくとも、この真理が私を捕えていると同じだけ、私はこの真理をしっかり捕えている。私はかつて正しかったし、今もなお正しい」(窪田啓作訳)。
彼の主張する正しさは、むろん、広く認められてはならない種類のものである。カミュの戯曲「カリギュラ」は、このような「正しさ」を権力で他人に押しつけようとして、迷惑極まりない暴君となる男の話だ。ムルソーは平凡な勤め人で、他人とうまくやっていくことが苦手なだけだとしか周りには見えなかったろう。しかし、意外にも、他人との不思議な「連帯」は熾烈に求めていたらしい。「すべてが終わって、私がより孤独でないことを感じるために、(中略)私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげ」ることを望む、と最後に語っているのだから。敢えて言うと、そこが甘さになっている。
あの女房もまた、牧師に向かって自分を尊敬するように求めてはいる。「どうぞ聖者の毫光(ごうこう)を御尊敬なさると同じお心持で、勝利を得たものの額の月桂冠を御尊敬なすつて下さいまし」と。それは、「こんな恋愛がこの世界で、この世界にゐる人妻のために、正当な恋愛でありましたか、どうでしたか」、これから一人で考えるためである。どうも彼女は来世というものを信じているらしく、それは重要なファクターだろうが、私にはわからない。とりあえず、彼女が他人に望むのは、ただ放っておいてくれることだけだ。そのほうが純粋で強い「自己」のありかたとして、相応しいだろう。
もう一つ、主人公が意図的な餓死を遂げるところが共通する、高橋和巳「邪宗門」も、試しに横に置いて眺めてみよう。私はこの作品は戦後日本文学屈指の傑作だとは思うけれど、どちらかというと、「難しいことも書いてある通俗小説」と呼ばれるべきではないかと思っている。一つには、主人公千葉潔がモテすぎる。男にも女にも。大学でいっしょだったからという理由だけで、彼のために何人かの男が命賭けで戦ったりするのだ。
千葉のほうは、少年期からこの世に対する絶望感を抱いているニヒリストである。そうなった理由も書かれている。そんな彼を、世の中のほうでも相手にしないとしたら、波瀾万丈の大長編の主人公にはなれない。それで、だと思うが、周りは彼をやたらに気にかける。こういうところで、彼は机竜之介か、眠狂四郎か、はたまた木枯し紋次郎の同類のように見えてしまう。
それはまだいいとしても、千葉は、三代目教主として率いてきた「ひのもと救霊会」が占領軍との戦いで崩壊した後、最後まで残った三名の信者といっしょに断食の末死ぬのだが、その直前、やはり牧師が訪れてくる。千葉たちは何も言わない。牧師のほうで勝手に、彼らが全身から漂わせている現世否定の真っ黒な情念に恐れ戦いて、こんなことを言う。
「何かおっしゃってください。悩みがあるならば悩みを、怒りがたまっているなら瞋恚(しんい)の言葉を。いや、腕を振りあげて私の頬を打ってもいい。そのように、人でありながら、人と人との交わりのすべてを拒絶しては、どんな真理も、どんな宗教も、あり得ません!」
最後までやっぱりモテるんだな、と私は思った。こういうことは現実にはあり得ない、とまでは言わないが、文学作品では、これは即ち主人公の扱いにことよせた作者の、自己憐憫の現れだと思わないわけにはいかない。主人公の側では完全に捨て去った現世から、たった一人でも、なんとか関わりを持とうとする声が聞こえてくるところが。自分の「正しさ」以外、なんの望みもないなら、この世の誰にも理解されず、なんとか理解してやろうとする者さえいない、全き孤独が与えられるのが至当ではないか。それほど孤立した自己でも、やっぱり存在理由はあるのだと示してくれ、というのは、厳しすぎる要求であろうか。
連想の赴くままに書いていたら、太宰作品に触れないうちに、あまりにもたくさんの字数を費やしてしまった。それは次回に回します。
前回軽く「近代的自我」などという言葉を使ったが、もっとよく考えるべきだったかも知れない。有史以来、人間は自己意識を持つ。個人名があるのが、何よりの証拠ではないか。八つぁん熊さん、李さん張さんといった名前であるにしても、とにかく個人名が呼ばれたのなら、呼ばれる個人=「自分」はあるのだろう。その「自分」についての意識が強くなりすぎて、自分の属する共同体と折れ合えなくなったと感じる場合もあるのは、何も近代になってからではあるまい。ただ、そのような「自己」には根拠があるのではないかと、けっこう、広く認められたのは、比較的近年の話だろう。
「近代的な権利意識」に目覚めた者が「近代的自我」なのだとすると、ちょっと別になる。「自分は自分であってよい」=「他人と違っていてよい」というのは、権利意識の一部、あるいは前提と考えてもよいかも知れない。「人は他人に迷惑をかけない限り、何をしてもよい」は、現に民主主義社会のモットーでもある。しかし、そのような、広い意味での法的な関係には収まりきれない自己もあり、私見では、そこに関わるべきものこそが文学なのである。
一つの実例として、たぶん明治末に移入されたごく短い小説をとりあげよう。
森鷗外は、同時代のヨーロッパ文学を多数翻訳紹介したことでも知られている。それらは、鷗外自身の、たいていの小説より面白い。そのうちの一つに、ヘルベルト・オイレンベルク「女の決闘」がある。『鷗外選集』第十七巻(岩波書店昭和五十五年)所収の小堀桂一郎の解説によれば、初出誌は不明。明治四十四年に訳出したと、鷗外の日記には記されているそうだ。新書サイズで、二段組全十二頁と四行、短編と言うより、今風ならショートショートというのに近い。
原著者のオイレンベルクは、この時代のドイツで、主に演劇方面で活躍した人らしい。鷗外は彼の短編集『綺談集』から二編訳出しており、もう一つの「塔の上の鶏」のほうが、国語の教科書にとりあげられることもあって、比較的知られているだろう。「女の決闘」のほうは、知名度は低いが、非常に鮮烈な読後感が残り、少数の愛好者はいる。
そのうちの一人が、太宰治である。昭和十五年、同じ「女の決闘」の題名で、オイレンベルクの小品を紹介・批評しつつ、作品にはない視点を取り入れて、独自の創作に仕立てている。その意味では中島京子「FUTON」と同じ趣向と言える。しかし新しいほうの「女の決闘」は、いかにも太宰らしい味はあるものの、私見では名作とは言いかねる。
元の作品は、時も場所も指定されていない。夫に浮気された女が、浮気相手の女学生に決闘を申込み、拳銃で撃ち合った結果、女学生を殺してしまう。これが作中の「事件」の全部である。その後彼女は自首して、夫と子どもを含めてすべての面会を断り、挙げ句に牢内で餓死してしまう。食物を摂っていないことが知られないように、口に入れて、こっそり吐き出すということまでして。遺書もない。ただ、一度だけ面会に来た牧師に宛てて、もう来ないでくれ、と要請した手紙の下書きが残っていて、そこにわずかに心情が吐露されている。それが、一篇のキモになっている。
彼女は言う。自分は夫との恋愛を、一片のしみもない完璧なものにしたかった。それが傷つけられたと知ったとき、ゆっくり腐っていくように死ぬのではなく、「意識して、真つ直ぐに立つた儘で死なうと思」った。対手の女学生には射撃の心得がある。自分はこれまで武器を持ったことがない。勝負は明らかなはずだが、偶然のいたずらで、自分の撃った最後の銃弾が女学生の胸を貫いてしまった。これで復讐は遂げられたが、恋愛を元通りにすることはできない、と悟った。いや、こんなことをやったからには、もう彼女自身が元に戻れない。夫や子どものもとへ帰ることなど決してできない。信仰も、役に立たない。
「わたくしは、あなたの教で禁じてある程、自分の意志の儘に進んで参つて、跡を振り返つても見ませんでした。それはわたくし好く存じてゐます。併しどなただつて、わたくしに、お前の愛しやうは違ふから、別な愛しやうをしろと仰しやる事は出来ますまい。あなたの心の臓はわたくしの胸には嵌まりますまい。又わたくしのはあなたのお胸には嵌まりますまい。あなたはわたくしを、謙遜を知らぬ、我慾の強いものだと仰しやるかも知れませんが、それと同じ権利で、わたくしはあなたを、気の狭い卑屈な方だと申す事も出来ませう。あなたの尺度でわたくしをお測りになつて、その尺度が足らぬからと言つて、わたくしを度はづれだと仰しやる訳には行きますまい。あなたとわたくしとの間には、対等の決闘は成り立ちません。お互に手に持つてゐる武器が違ひます。(後略)」
こんなことを書き残すこと自体、とても度外れだろう。
自分でも言っている通り、この女には謙譲の徳が欠けている。キリスト教から見てそう言える、というだけではない。ギリシャ人が言った「傲慢(ヒュブリス)」の罪を犯しており、それが彼女をギリシャ悲劇のヒーローに近づけている。人間はどこから見ても完璧ではないのだから、完璧なものを求めてはならない。何かが完璧でなかったからといって、それでは生きている甲斐がない、などと思うのが、既に傲慢なのである。
しかし彼女は自分がまちがっているとは認めない。かえってこう問いかけるのだ。まちがいだ、などと言うのは、それほど強く人を愛することができない人間の言い草ではないのか。自分が持っているような種類の情熱は理解できないからではないか。そんな人たちには、本当の意味でこの自分を救うことも、また、罰することもできはしない。だから、放っておいてくれ、と、片意地からでも自棄になったからでもなく、真っ直ぐに言っているのである。
こういう小説から、我々は何を学ぶのか。女は恐い、ではなくて、人間の恐さを。人間性の多様性を知り、畏敬の念を抱くことを、である。だからどうだ、ということはない。集団の、社会の側からすれば、並外れた情熱を決して捨てず、その命ずるところに従って真っ直ぐに生きようとする者は、娑婆では生きる場所はないのだから、どこかよそへ、例えば、あの世に、行ってもらうしかない。
社会の存続を是とする以上、そのような「掟」を我々は現に認めていることになる。けれどここにもう一つ、人は社会の次元にのみ生きている者ではないという事実がある。その感覚をも完全に忘れた去った社会は、根本的に抑圧的な、非人間的なものにならざるを得ないだろう。文学はそういう警告を発する。言ってみればそれが、文学の唯一の効用であると私は思っている。
権力の問題について、前回述べた視点からも考えておこう。
復讐心とは、裏返された権力意志である。「女の決闘」のヒロインもそれとは無縁でなかったことは、決闘後、「復讐といふものはこんなに苦い味のものか知ら」と述懐するとこらからわかる。
彼女が平凡で無力な女房ではなく、権力者であったとしたら? エリザベスⅠ世のように、恋敵(メアリー・ステュアート)を処刑することもできたろう。もっともこれは、フリードリッヒ・フォン・シラーの戯曲「マリア・シュトゥーアルト」の筋であって、史実とは言えない。この作中のエリザベスも、終幕で、成し遂げられた復讐の苦い味を噛みしめている。
女房のほうは、処刑どころか殺人も意図せず、かえって相手に殺されることを予期していた。しかし、予期した通りになれば、女学生のほうが殺人者となる。もっとも、「その決闘といふものが正当な決闘であつたなら、女房の受ける処分は禁獄に過ぎぬから、別に名誉を損ずるものではない」とも説明されているから、今よりはずいぶん軽い罪ではあったのだろう。それても、人を死なせた事実は女学生の後半生でたいへんな重荷になることは変わらない。つまり女房は、どのみち女学生の人生を狂わせるのである。そこまで意識したかどうかは、作中に何も書かれていないが、これもまた、立派な復讐、と呼ばれてよい。
そして、復讐は決して完全な満足をもたらさない。一度失われたもの、この場合は愛、は二度と戻ってこない。いつもそうなのかどうかはわからないが、悲劇及び悲劇的な文学作品の主人公たちが生きるのはそういう種類の運命である。彼らは敗北必至な戦いを遂行し、当然、敗れる。権力は、どんな種類のものであっても、役に立たない。そこにこそ、純粋な個人の可能性がある。
そうは言っても、ヒーローは、強い自負心は抱いているだろう。それが、敗北するのだから、自分を哀れむ心も強くなる。読者は、同情して、涙を流す。それが文学の主眼だと考えられている向きもある。
だからこそ、だと思うが、文学にもっと大きな野心を抱いている作家たちは、安易な同情を意識的に拒絶する。それはもっと深いレベルでの共感を求めているからであって、これまた権力意識の一部と言えるかも知れない。それでも、敗北必至で、世界を実際に変えることはできないことがあらかじめ組み込まれているのだから、普通の意味での権力として発現することはない。
「女の決闘」を読んで、私はすぐにアルベール・カミュ「異邦人」を連想した。どちらも素っ気ないほど簡潔な叙述で貫かれており、最後に神の使い(前者は牧師、後者は司祭)が差し出す救いの手を拒絶するところが、似ている。「女の決闘」は、「異邦人」の根幹だけを無造作に取り出して見せたような作品だが、逆に言うと、「異邦人」は「女の決闘」に比べると、乾ききったような印象の文体にもかかわらず、余計な枝葉がついているように見えてしまう。
もちろん、次の違いは重要である。「女の決闘」の殺人の動機は、「嫉妬」という、人の世で昔からよく知られていて、いまさらくだくだしく説明する必要はない感情なので、その結果だけをただ投げ出すことができた。一方「異邦人」は、「太陽が暑すぎた」のが殺人の動機だという、タワケた話として知られている。実際は、友人の女をめぐるトラブルに巻き込まれて、喧嘩になった相手をつい殺してしまった男の話だ。ピストルを使ったのだが、相手も匕首を抜いている。事件そのものは新聞の三面記事を見れば、現代でもありふれていて(実際にカミュは三面記事からこの作品を着想した)、「何も殺すまでのことはなかったろうに。愚かだなあ」という感想が持たれて、終わりになる。カミュは、逆に、そういう殺人者には世界がどう見えているか、一人称で描いた。二つの作品の眼目は全く違う。
しかし、両作の主人公たちはいずれも、この世で孤立せざるを得ないだけの「内面」を持っている。それが明らかになったとき、彼らはこの世に対してどういうふうに振舞うのか。「異邦人」の主人公ムルソーは、司祭に向かってこう言う。「君は死人のような生き方をしているから、自分が生きているということにさえ、自信がない。私はといえば、両手はからっぽのようだ。しかし、私は自信を持っている。自分について、すべてについて、君より強く、また、私の人生について、来るべきあの死について。そうだ、私にはこれしかない。しかし、少なくとも、この真理が私を捕えていると同じだけ、私はこの真理をしっかり捕えている。私はかつて正しかったし、今もなお正しい」(窪田啓作訳)。
彼の主張する正しさは、むろん、広く認められてはならない種類のものである。カミュの戯曲「カリギュラ」は、このような「正しさ」を権力で他人に押しつけようとして、迷惑極まりない暴君となる男の話だ。ムルソーは平凡な勤め人で、他人とうまくやっていくことが苦手なだけだとしか周りには見えなかったろう。しかし、意外にも、他人との不思議な「連帯」は熾烈に求めていたらしい。「すべてが終わって、私がより孤独でないことを感じるために、(中略)私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげ」ることを望む、と最後に語っているのだから。敢えて言うと、そこが甘さになっている。
あの女房もまた、牧師に向かって自分を尊敬するように求めてはいる。「どうぞ聖者の毫光(ごうこう)を御尊敬なさると同じお心持で、勝利を得たものの額の月桂冠を御尊敬なすつて下さいまし」と。それは、「こんな恋愛がこの世界で、この世界にゐる人妻のために、正当な恋愛でありましたか、どうでしたか」、これから一人で考えるためである。どうも彼女は来世というものを信じているらしく、それは重要なファクターだろうが、私にはわからない。とりあえず、彼女が他人に望むのは、ただ放っておいてくれることだけだ。そのほうが純粋で強い「自己」のありかたとして、相応しいだろう。
もう一つ、主人公が意図的な餓死を遂げるところが共通する、高橋和巳「邪宗門」も、試しに横に置いて眺めてみよう。私はこの作品は戦後日本文学屈指の傑作だとは思うけれど、どちらかというと、「難しいことも書いてある通俗小説」と呼ばれるべきではないかと思っている。一つには、主人公千葉潔がモテすぎる。男にも女にも。大学でいっしょだったからという理由だけで、彼のために何人かの男が命賭けで戦ったりするのだ。
千葉のほうは、少年期からこの世に対する絶望感を抱いているニヒリストである。そうなった理由も書かれている。そんな彼を、世の中のほうでも相手にしないとしたら、波瀾万丈の大長編の主人公にはなれない。それで、だと思うが、周りは彼をやたらに気にかける。こういうところで、彼は机竜之介か、眠狂四郎か、はたまた木枯し紋次郎の同類のように見えてしまう。
それはまだいいとしても、千葉は、三代目教主として率いてきた「ひのもと救霊会」が占領軍との戦いで崩壊した後、最後まで残った三名の信者といっしょに断食の末死ぬのだが、その直前、やはり牧師が訪れてくる。千葉たちは何も言わない。牧師のほうで勝手に、彼らが全身から漂わせている現世否定の真っ黒な情念に恐れ戦いて、こんなことを言う。
「何かおっしゃってください。悩みがあるならば悩みを、怒りがたまっているなら瞋恚(しんい)の言葉を。いや、腕を振りあげて私の頬を打ってもいい。そのように、人でありながら、人と人との交わりのすべてを拒絶しては、どんな真理も、どんな宗教も、あり得ません!」
最後までやっぱりモテるんだな、と私は思った。こういうことは現実にはあり得ない、とまでは言わないが、文学作品では、これは即ち主人公の扱いにことよせた作者の、自己憐憫の現れだと思わないわけにはいかない。主人公の側では完全に捨て去った現世から、たった一人でも、なんとか関わりを持とうとする声が聞こえてくるところが。自分の「正しさ」以外、なんの望みもないなら、この世の誰にも理解されず、なんとか理解してやろうとする者さえいない、全き孤独が与えられるのが至当ではないか。それほど孤立した自己でも、やっぱり存在理由はあるのだと示してくれ、というのは、厳しすぎる要求であろうか。
連想の赴くままに書いていたら、太宰作品に触れないうちに、あまりにもたくさんの字数を費やしてしまった。それは次回に回します。