Guardians of the Galaxy, 2014, directed by James Gunn
メインテキスト:和辻哲郎『倫理学』(原著は三巻本で昭和12年~24年。昭和40年の改版で二巻本となった。昭和50年第11刷)
同『人間の学としての倫理学』(原著の出版年は昭和9年。岩波文庫平成19年、平成23年第6刷)
サブテキスト:ミシェル・フーコー 田村俶訳『監獄の誕生 監視と処罰』(原著は1975年刊。新潮社昭和52年刊)
権力の問題については、以前にも言ったが、その他、思いついた時に思いつきを記していきたい。
今回の思いつきは、和辻哲郎の『人間の学としての倫理学』(以下、『人間の学』と略記する)を、文庫本で読み返したところから生じた。というか、初読の時から感じた違和感を形にしようとしたら、「権力」という言葉をてがかりにするのがよいように思えてきた。
それというのも、『人間の学』でも、『倫理学』でも、この言葉はほとんど全く出てこない(索引にない)。遅まきながらそれに気づいたからである。
これは特に珍しいことではなく、倫理の本ではまあ当たり前の話ではある。権力とは、人間の内面よりは、社会の、政治に属する問題だと思われるからだろう。従って、権力論とは、社会学あるいは政治学の一分野になっているようだ。とはいえ、政治哲学者であるマイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』にも、この言葉が表だって登場することはない。
しかし、和辻が強調するように、人間の共同態がなければ、倫理は生じない。倫理とは、人と人の「間」でこそ問題になることだから。それは、権力についてももちろん言える。権力とは、人と人との間柄の、一形態だと考えることができるだろう。その発生と働きは、人間心理に深く根ざしている。それを敢えて正面から取り上げないようにしたことで、例えば、和辻倫理学は偏頗なものになっているような印象が、私にはある。
和辻にとって最高の価値は「絶対的全体性」である。ただし注意を要するのは、それが固定したものとしてはあり得ない、としているところ。そうでなければ、彼は全体主義者になってしまう。
個人も社会も絶えず流動する。人は必ずある共同体の中に生まれて人となるのだから、共同態(人間の共同性)は、個人の本源でもある。しかし人間の個人意識が、「自分は他の人間とは違う」という形を取る以上、共同態からそれていくのもまた必然である。それは一見人間の本源からそれることでもあるから、通常「悪」と呼ばれる。反面、一度それた個人が共同態へと復帰することは「善」と呼ばれる。「人生の真相」は、この往還以外のところにはない。してみると、前述の「悪」こそ「善」が生じるための前提だと言えるから、「そう見える」というだけで、本当の悪ではない。往還の道が停滞し、個人と共同体が離間したまま固定するような事態こそ、真の悪である。
具体的な共同体として、和辻は、二人共同体(夫婦)から三人共同体(親子)、家族、地縁社会、経済共同体と文化共同体、そして国家、という具合に、多様な側面から考察している。あらゆる共同体には、その共同態からそれることを個々の成員(個人)に禁ずる「強制力」がある。これがつまり、普通「権力」と呼ばれているもののことか、と一瞬思うが、和辻倫理学の中では、この言葉は相応しくない。なぜなら、その力の根源は「信」だとされるからだ。共同性を保つために最も必要なのは成員相互の信頼である。それに背くからこそ、共同態からそれる個人のふるまいは、とりあえず「悪」とされる。共同体が夫婦から国家へと、大きくなっていくに従って、「信」の内容は抽象的になっていくが、根本原理は変わらない。信頼を失った個人は、必ず別の形ででも(例えば、家業を継ぐように期待された者が、それを裏切っても、別の職業について家族のためにつくす、というような)回復するように努めるべきなのであり、それをしなければ、彼/彼女は、その分個人の本源からも逸脱するのだから、満足な「私」にもなれない。
以上はもちろん、非常に単純化した和辻倫理学のまとめであって、重要なポイントを逸しているかもしれない。が、まるっきりの妄評ではないとすれば、どうも「歯が浮いてくる」ようだという私の感想も、わかってもらえるのではないだろうか。あまりにきれいごとに過ぎる。強制力が信頼関係にのみ基づくとすれば、なぜ共同体には昔から必ず権力があり、また権力の暴走がしばしば起こるのか。例えばそういう素朴な疑問が、自然に湧いてくる。
それでもやっぱり、人間も社会も、絶えず生々流転する運動の相の内に捉えようとする和辻倫理学のダイナミズムには、大きな魅力がある。「人間の学」で説かれている次のことは、よく納得できる。
人間の本源は人と人の間にこそあり、しかしその本源は個人としての人の行為において現れる。支那語で「世間」を示す人間(「人間(じんかん)万事塞翁が馬」の「人間」はこの意味)が、日本では個人としての人を示す言葉にもなったのは、最もよくこの消息を現している。個人の行為は、ある断面を切り取ってみれば孤立したもののようにも見えるが、必ず「間」で行われる以上は、行為の作用は、常に他からの反作用を受け、そこでこそ意味があるものとなる。例えば、他者を「見る」という行為は、
(前略)間柄において「ある者」を見るときには、この見られた者はそれ自身また見るという働きをする者である。だからある者を「見る」という志向作用が逆に見られた者から見返される。このことは「見る」という働きが単なる志向作用ではなくして間柄における働き合いであることを意味している。(中略)このことは一方から見るという働き自身がすでに初めより他方から見られることによって規定せられ、かかる「見る作用の連関」がすべての見るの地盤となることを示すのである。(もちろんこの場合には連関の欠如態もある。他方から見られないことによって規定せられた見方、すなわち傍観、垣間見などがそれである。)(P.196-197、下線部は原文傍点)
たいへん説得的だが、そうであるからこそ、せっかくカッコ書きで「連関の欠如態」も挙げてくれたのだから、ここをもう少しこだわって掘り下げてもらうことはできなかったのか、と思う。謹厳な和辻先生にはそれは無理なのだろう。そこで、もっとずっと卑俗な私がやってみることにする。
他方から見られない見かたの代表には、peeping(覗き、窃視)があるではないか。単に女の裸や痴態を見たい、というのではない。向こうが、見られていることに気づいていない状態、つまり、向こうから見返されない状態で相手を具に見ること。これは非常にイヤラシイ行為として、少なくとも男には感じられている。いかにも、それは人間の本源から外れたふるまいであろう。だからこそ、惹きつける力を持っている。人間性にはそういう一面も確かにある。そして私見によれば、権力はこのような一面と深く結びついている。
功利主義の祖として著名なジェレミー・ベンサムは、低コストで効率もいい監獄を考案した。一望監視施設(パノプティコン)である。もっとも、似たようなものは彼以前から考えられていて、それらは、ミシェル・フーコーが取り上げて以来よく知られるようになった。『監獄の誕生』にはベンサムが残した設計図なども載っているから、詳しくはそれを見てもらえればいい。要するに円形の監獄の中心部に監視部屋があり、円周部には独房があって、看守は一人でも、多くの囚人を見張ることができるような施設である。もちろん実際には、一人の看守が、360度の方向にいる複数の囚人を一度に監視するなど、できない。それなら、囚人のほうからは看守を見ることができないようにすればいいのだ。囚人が、いつでも見られている可能性があり、現に見られているかも知れないと思い込むだけで、「見張り」の効果は果たせるのだから。
つまりこの装置は「見る=見られるという一対の事態を切離す機械仕掛」(前掲書P.204)であり、「権力を自動的なものにし、権力を没個人化する」(同前)。なぜそれが理想的な権力の在り方に近いかと言うと、「見る=見られる」関係から生じる流動化、相対化を免れるからだ。権力とは、人及び人の世(即ち「人間」)の生々流転に歯止めをかけ、固定しようとする力のことである。和辻哲郎が描くような美しい予定調和、共同態を外れた者が必ずまた共同態にもどるような運動のみで社会が保たれるとは信じられないので、あるいは、いつもそう都合良く人間がふるまうとは信じられないので、社会はいつも「信頼関係」とは別の「権力関係」が必要だと感じられてきた。のみならず、権力は、人間が手に入れたいと望む欲望の対象にもなってきたのである。
ただ、ここでもまた、和辻倫理学が蘇ってくる余地がありそうに思える。他でもない、権力の理想形に近い没個人化されたそれは、それを行使する側の人間にとって、本当に魅力的なのだろうか、ということである。比較のために、自分がピーピングをする場合と、パノプティコンの看守になった場合とを思い浮かべてみてください。
前者の場合、相手はあなたを見返さないどころか、あなたの存在も知らない。あなたは、ただ見ているだけだ。そこには「固定された人間関係」も何も、「関係」そのものが全然ない。あなたが相手にどんな欲望や興味を懐こうと、どんな秘密を知ろうと、相手にとっては無意味であり、何らかのアクションを起こす、つまり、単に「見る」だけの存在であることを止めない限り、無意味であり続けるしかない。だからこそあなたは無限に自由であり、例えばいつでも「見る行為」をやめることができる。
具体例として、アンリ・バルビュス「地獄」や江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」など、ピーピングそのものを題材にした文学作品を考えてもよいだろう。前者は安宿屋の壁穴から、ひたすら隣室をのぞき続ける男の話である。彼自身はのぞき見た人生模様に感動し、生きる力を与えられるのだが、なんだかとってつけたようなこの結末以外は、徹底して無意味な存在であり、要するに三人称小説の「作者」に、一定の境遇と視点が与えられたようなもの以上ではない。
そう言えば、リアリズム演劇の理論として有名な「第四の壁」というのもあった。部屋の一方の壁をぶち抜き、その内部で起こっていることを観客が眺めるのが芝居だ、というものである。してみると、近代リアリズムの文芸とは、のぞきの喜びを与えるべく作られるものと言っていいかも知れない。ここで読者や観客は、内部にいかなる直接的な影響をもたらすことも許されない(劇の場合、演者が観客の反応に影響されることはあり得るが、それをその場で具体的に示して、舞台のこちら側と向こう側で「見る―見られる」関係をあからさまに始めることは、近代劇では禁じ手になっている)。その代わり彼らはその内部に対していかなる責任もなく、どのような感想を持とうと自由だ。感想が「批評」というような形で表に出れば、「事後的に」著者や演者に影響を与えることもある。しかし言うまでもなく、「作品」のほうはその前に完成してしまっている。
「屋根裏の散歩者」の場合は、主人公は自由に他人を見ることができる全能感を勘違いしてしまい、殺人を犯す。その瞬間に、彼は「見る人」の地位から転落し、流動的な人間関係に入った。最終的には彼には「殺人者」の名が与えられるのだが、それは殺人の実行時に見たが、自分では見たことを忘れたまま深く影響されているあることを、探偵・明智小五郎に「発見」されるからである。つまり彼は余計なものまで見てしまった。ただ、それが「余計なもの」になるのは、探偵―犯人という関係性を自らの行為で引き寄せてしまったときなのだ。このとき、彼の行為は意味を持ち始める。彼自身にとっては非常に厭わしい意味を。
さて、次にあなたはパノプティコンの看守になる。今度はあなたは現実世界でも力を得ただろうか。例えば、囚人の一人が、規則に反したことをしたのを見たら、報告できる。その囚人にはきっと罰が与えられるのだろう。ここで正しくあなたは他人に力を行使しているのではないか?
どうも少し違う。囚人を見つめる目と、罰を与える手とは、切り離されていたほうがよいようだ。これこそがパノプティコンの要諦である。囚人は、なぜ自分が罰せられたのか、できればはっきり知らないほうがよい。そのほうが、「自分の悪いところ」を、「自主的に」あれこれ想像するから。そうして思いついた「悪いところ」を、囚人は自主規制するようになるだろう。これがつまり人を社会化し、社会を成立せしめる「訓練」の構造である。
例えば、完全に放置された子どもなら、いわゆるトイレ・トレーニングも受けず、特定の場所でのみ用便をするというようなことさえ身につかないのだから、このような訓練が不要だ、とは決して言えない。そこで親は、「当然のこと」として、そのようなふるまいを子どもにさせる。それは「躾」と呼ばれる。やがて子どもは、親の直接の強制がなくても、それを「当然のこと」として受け入れ、「身体化」して、ごく自然にそうふるまうようになって、社会で生きていく資格を得る。
つまり、フーコーが明確に記述しているように、人が、「外部から監視する目」を、自分の内部に取り入れること、その意味で「監視する目」そのものは最終的に不要になること、これが権力の究極的な理想形なのである。それは「非個人的」であって、誰のものでもないので、社会のすみずみにまで拡散し、行き渡る。ただし、そのような理想形が実現されたことはなく、必ずあちこちにほころびができていって、再び「監視の目」が必要だと感じられるのが、これまでの社会の現状ではあるのだが。
あなたは、このような、「理想的にはいないほうがいい」存在になりたいだろうか。いや、「理想」が実現される以前でも、あなたの役割は徹底して「見る」だけの存在にとどまることなのだ。ピーピングと違うのは、相手は見られていることは知っており、そうである以上、あなたは「見られていることを意識している人間」しか見ることはできないところだ。前述した例では芝居の観客に一番近いようだが、あなたにどのような権力があろうと、あなたの存在を無視する、というか、近代劇の俳優がそうするように、あなたが見ているわけではないようにふるまってくれ、と囚人たちに要求することだけはできない。その意味で、完全に自由なわけではない。あなたはいかにも、相手から「見返される」ことはないが、それは即ち、役割があらかじめ固定されていて、あなたの意志で変えることは、「見る」ことをやめるのも含めて、許されていないからだ。このような立場、このような関係は、どんな喜びをあなたにもたらすのか?
相手から見返されることのない、それゆえに固定した、つまり安定した権力は、歴史上実際に追及されてきた。
例えば秦帝国の二代目皇帝となった胡亥。宦官・趙高の策略に乗り、始皇帝が後継ぎに定めた兄やその取り巻きを謀殺して皇位に上ったのだが、司馬遷「史記」の「李斯列伝」によると、その後さらに彼は趙高から次のように言われる。
「天子はめったに顔をみせず、声のみ聞かせたほうがありがたみが増すものです。また陛下はまだお若くて必ずしも諸般の事情に通じておられませんので、もし不当なご下命でもなさいましたら、ご権威の失墜を自ら招くことになります。ですから陛下には当分の間宮中深く座していただき、実際の政治は私など、法に通じた者たちに任せたほうがよろしいと存じます」
この言葉を容れた胡亥は、趙高以外の者と会うこともめったになくなった。もちろん趙高は、皇帝の命令を騙って、自分が実際の国政を牛耳るためにそうしたのである。例えば宰相の李斯は、胡亥を皇位につけた陰謀の一味であったが、ことが実現すると邪魔になった。そこで趙高は、胡亥が宴席で美女たちと楽しんでいるときに参内するように李斯を促し、皇帝の不興を買うようにしむけ、失脚から、刑死にまで追いやる。李斯が真実を訴える手紙を奏上しようとしても、趙高に握りつぶされてしまい、どうにもならなかった。
いくら古代支那でも、こんなことが実際にあったとはにわかには信じられないが、寓話とみれば、その意味は明らかだ。理想に近い権力者とは、見ている、とだけ思わせておいて、実際は何も見ていない存在なのである。そのほうが、「見返され」て、影響を受け、揺らぐことがないから。しかしそれなら、この権力者は、実際はいないほうがいいのだ、ということになってしまう。権力の最大の矛盾がここにある。
いや、実際の権力者は、この場合、象徴としての皇帝の威を借りた趙高だろう、とは誰でも思いつく。不在の最高権力の蔭に身を隠して、自分を見えないようにしながら、力だけは発揮するのが、最も賢い権力者だということになるだろうか。そうも思えるが、実際は、趙高のような者が何をしているのかは、同時代でもかなり明らかであり、多くの人の恨みを買い、秦帝国のあまりにも早い滅亡も招き、趙高は悪臣の代表として歴史に名をとどめている。
彼は、おそらく、自分で思っていた以上に正しいことを、二代目皇帝に告げていたのである。実際に人々に何かしておいて、自分の存在を完全に隠すなど不可能だ。で、存在が露わになれば、人から「見返される」ことを回避できなくなる。回避したいなら、何もしないに如くはない。しかしもちろん、何もしないなら、権力など最初から不用ではないか。この絶対的な矛盾を解消するためにとられた方策は、実際には何もしないから、間違いもしでかさず、尊さが疑われない権威の中心と、何かするから下手をすると批判されざるを得なくなる権力の中心を分けることである。
あとは、「実務的な」権力者が、趙高ほど悪辣でなければ、この構造でけっこううまく世の中が治まる場合もある。日本の天皇制とは、長い間、そういう制度であった。
いや、何もしないほうがいい権威なら、いっそ、この世の中ではなく、人間たちの世界を遠く離れた別のところにある、としたほうがいいではないか、とも考えられるだろう。ユダヤ人が考え出した、唯一絶対神というのがその典型である。これが信じられるなら、最高権威はそれこそ全く絶対不動のものとして、時代を超えて君臨し続けることになる。
それはよくわかるのだが、人の世の側からみると、これもまた問題を生じる元にもなる。その一つに、唯一絶対に正しいものを人間界の外に設定した場合には、人間界の内部には相対的なものしか存在しなくなることがある。言葉の真の意味での絶対権力はなく、王たちも例外なく、「見るー見られる」流動的な関係を免れない。かくして、唯一絶対神を国教として受け入れたヨーロッパ諸国では、相対的な権力を求め、またそれを打倒しようとする、果てしない闘争に歯止めがかからなくなったのである。