Extract from Ship of Fools (painted c. 1490–1500) by Hieronymus Bosch
前口上(由紀草一)
反知性主義、なる最近の用語は、ある種の、ひと昔前の用語だと「進歩派」なる陣営に属する知識人たちが、自分たちの反対派は「バカ」なんだ、ということを、多少お上品に言ったものです。だから、とてもイヤな言葉になってしまいましたが、元の、小難しいだけでものの役に立ちそうにない理屈や、それを口にする理屈屋に対する反感や不信という意味なら、世界中にあり、日本にもあります。
反知性主義というよりは反知識主義、ですかね。「知性」というのが既に、ブッた言葉ですから。それを、学校の中に取り入れようとする向きがあり、現に一部取り入れられている、と言うと、ちょっと不思議な感じがするでしょう。学校の第一の役割は知識を伝えることにあるはずですから。
でも、これはわりあいと自然なことです。何より、明治時代の草創期から、すべての子どもが学校に通うことは国家の要請だった。子どもを学校へ通わせることは国民の義務なんです。いわゆる、義務教育。子どもの側から見ると、誰もが、一定年限、否応なく行かなくちゃいけない場所、それが学校。ならば、「もうちょっと、オレの役に立つことを教えてくれてもいいじゃないか」という不満も、出てきがちではありますね。
学校側では、上の不満に応えようとした場合、さすがに知識なんて無益だ、とは言えないので、もっともらしく装います。それにはざっと二種類あって、
①学校では個々の知識とは別に、もっと「人として大事なこと」を学ぶべきだ、と。道徳教育がその具体的な方策として出てきました。これに対する批判は、本ブログ、「道徳教育という不道徳」でいたしました。
②従来学校でやる勉強には、何かしら欠けたところがあった。もっと多くの人を幸せにする「真の知識」があるはずだ。
近年、これに呼応した形で進められた「ゆとり教育」は、さんざん批判されて、どうやら頓挫したように見えます。でも、その謂わば双生児である「新学力観」は、名前こそ「問題解決能力」とか「生きる力」とか、いろいろと変わりましたが、依然として学校に居座っています。
①と②の両方とも、一種の反知性主義、あるいは反知識主義だ、というのが我々の、少なくとも私の、見立てです。もちろん、敢えてレッテル貼りをして、人の注目を惹きたいという動機もあることは否定しません。
そして今回の標的は、当然②です。
相方、じゃなくて実質的に「対話」の主である夏木智さんを紹介します。私と同じ茨城県立高等学校の教諭です。たまたま同じ学校で出会ったのですが、教育、というより学校問題について文章を書いたのは彼のほうが先でした。それに触発される形で、私も書いて、二人のを合わせて『学校の現在』というタイトルで出版できたのは、全くの幸運としか言いようがありません。
夏木さんの単著としては他に『誰が学校を殺したか』、『誰が教育を殺したか』、それに小説『不思議の学校のアリス』(これは物語としても面白い、傑作です。もっと知られてもよいのにと、他人の著作で歯がゆい思いをしたのは後にも先にも一度きりです)があります。同人誌『ひつじ通信』の主催者でもあり、ホームページへは左欄の「ブックマーク」中の該当項をクリックすれば行けます。
夏木さんから、久しぶりに学校論を共同でやろうじゃないか、と誘いを受けたのは、第一次安倍内閣の「教育再生会議」が、そろそろ最終答申を出そうかという七年前でした。対話形式がよかろう、でも、本当にしゃべって、その原稿を起こす、なんてたいへんだから、メールでやりとりをしたのをまとめようじゃないか、と決まりました。今回のシリーズはその時、つまり七年前にまとめて、『ひつじ通信』に掲載した「対話」の一部です。本当はメールのやり取りであるため、「対話」にしては、一人の発言部分が非常に長くなっている場合が多いことは、初めて読んでくれる人のためにお断りしておきます。
これをまた引っ張りだそうと思いついたのは、次の理由からです。最近またちょっと教育行政について考える機会があり、参考にはなるかな、と思って読み返してみたら、全然古びてない。というか、日本の学校は今日でもまたこの時期の「改革」の流れの中にあるとわかって、唖然としました。流れをなんとか押しとどめているのは、ひとえに教員の「鈍感力」(上からああしろこうしろ言われても、なかなか機敏に、その通りには動けない鈍重さ)の賜物です。
以上が本当かどうかは、読んでくださる人の判断にお任せするしかないでしょうが、あくまで個人的には、新学力観なんたらいう教育行政由来の反知性主義を、今後機会があるごとに批判していきたい、その出発点としてこれが最適、と思えました。最低限の手直しだけして、数回に分けてブログに掲載し、できれば皆様からのご批判を仰ぎたく思いますので、皆様、そして夏木さんも改めて、宜しくお願いいたします。
以下は夏木さんに送ったメールの、ほとんどそのままの引き写しです。
最初に、「ゆとり教育の見直し」から。見直すってことは、よくなかったんだということのはずなのに、どこがどうよくなかったのかの検討は全くなされないまま、中途半端な形で方向転換がなされようとしている。
今次の学習指導要領は小中高すべてで授業時間の一割増をうたっていて、その結果「総合的学習の時間」は節減されたけど、それでもなお週に一時間は残っちゃったというところ(以前のでは、小学校では三年生以上から週当たり三時間程度、中学校では週当たり二~四時間程度、高等学校では卒業までに三~六単位の配当)。よくないと決まったもんなら、すっぱり全部よすがいいのに、それじゃこのために努力した人たち、そこには制度を考えた人も、実施に当たった現場の教師も入るけど、彼らの面子をつぶすことになるから、忍びない、ということらしい。
けれどこんな日本的温情主義(かな?)は、この場合最悪なんだよ。だって、もう総合的学習の時間には概ね意味がない、って公に認めちゃったようなもんでしょ? そうでなかったら削る理由はないんだから。そういうあからさまに無意味な時間が週に一時間、時間割の中にあるってのは、教師にとっても生徒にとっても不幸だよ。
この温情主義は、日本的責任の取り方、それは結局は無責任ってことになるんだけど、その構造を支えるものとしてよく指摘される。今度も、日本的な形で責任を取らされた人がいる。「ミスターゆとり教育」とまで言われた寺脇研。官僚のトップである事務次官候補だったのに、降格されて、文科省をやめちゃったでしょう。今もマスコミにはよく登場するが、ゆとり教育が間違っていた、とは一度も認めていないね。
たぶん、間違っているとは夢にも思っていないんだろうな。信念の人じゃなかったら、当初から学力面に関して危惧の声が高かったゆとり教育の、非常に目立つ旗振り役になんかならないよ。官僚としてはそれは、不必要な危ない賭けだからね。
寺脇がそういう人だってことはそれまでとして、誰も彼を論破できない、っていうか、そもそも政府側では反論しようとする人さえいない、というところが問題でね。彼の言ったこと・したことの正否は棚上げにして、ともかく世間で評判が悪いから、ここは涙を飲んでくれって構図。そこで彼は、正しいことをしたのに、時に利あらず、一身に責を負って野に下った賢臣をいつまでも気取っていられるわけだ。
いや、ゆとり教育は、少なくとも理念としては正しかったんだと言う人は、民間にもけっこういる。実際的にも、学力低下にしたって、文部科学省が実施した「平成一七年度高等学校教育課程実施状況調査」では、高校生の学力はやや向上しているってことだしね。つまり、ゆとり教育体制でも、学力の維持・向上はできていた、ということみたい。ならば、もともと、ゆとり教育で学力が落ちたというのは本当だったのか、という疑問も生じてくる。
問題提起としてはこんなもんでいいだろう。で、夏木さんにバトンタイッチする。
1 ゆとりは効率を奪う(夏木智)
まず、今の方向転換がいかにも場当たり的だということはその通りだね。導入と同様に、何の冷静さも論理も節操もない。では、どうあるべきかということから考えなくてはならない。
いくつかの考え方の基本から確認することにしよう。一つ目は、この問題については、本当は目標がかなりはっきりしているし、人々の意見も一致していると言うことだ。「学力」の中身は後で議論するとして、学校とは、その本来の目的は学力を身につけるためにあって、それこそ人々ののぞんでいることだと言うことだ。
「学力」の中身が何であるかは議論の余地があるが、とにかく、それは今現に学校で教えられている数学や国語の内容であり、それによって問題が解ける力であることは、多くの人が漠然とではあれ、賛成していることだ。言論の世界では何とでも言える。しかし、現に社会を見れば、多くの一流大学が「学力」を元に入学者を決定していることは現実だ。社会を見れば、話はもっと複雑だが、しかし、少なくともその入り口の部分において「学力」がものを言っていることは現実だ。
たとえば「理科離れ」が憂慮されている。もし、学力が価値のないものだったら、こんなことを憂慮する理由はないはずだ。社会は、若者に学力を身につけてもらうことをのぞんでいるし、子どももまた社会で価値ある存在と認められるために学力を身につけることを望んでいる。そして、学校とはその学力を身につけてくれるところであるからこそ、人々は学校へ通うのだ。こう考えれば、学校がまず果たすべき役割は、子どもたちに「学力」をつけさせることなのだ。それをこそ、最優先させなくてはならない。
こんなことは、私には当たり前のことに思える。しかし、少なくとも、文部科学省を初めとする教育行政、教育学者、教育評論家、教員達にはちっとも当たり前のことではないようなのだ。
今初中等教育において私立が人気を博している。その最大の原因は「いじめ」の問題だが、それに次ぐ大きな問題として、私立はこの学力の問題に正直だと言うことがあげられる。うちの近くの私立の宣伝は「塾へ行かなくても学力をつけられます」だという。つまり、公立学校へ行くなら、塾へ行かないと学力はつかないということが、かなり広く共有された認識だということなのだ。
「ゆとり教育」の名で批判されたものは何かといえば、それは、一言で言えば、公立学校の経営者の「学力軽視の姿勢」だったのだと言える。それに関しては、議論の余地なく明らかだと私は思う。授業時間の削減、内容の3割カット、その代わりに「総合学習」をしますなどといっても、そもそもその中身さえ「現場の努力」などと繰り返しているのだから、誰がどう見たって明らかじゃないか。親も子も学力を身につけるために、少なからぬ苦労をして学校へ通っているのに、授業時間は減らしますよ、内容もやさしくしますよ、これで落ちこぼれはいません、楽しく学校へ通えますよ、なんて言われて黙っていられますか。そんなんじゃ、何のために学校へ通っているのか分からないと多くの親子は考えるはずだよ。
結局、そうした危機感が、教育施策の問題を指摘するための証拠として飛びついたのが「学力低下」問題であって、本当に「学力低下」しているかという問題はむしろないがしろにされているとさえ言ってよいと思うよ。まあ、私に言わせれば、それでよいと思うんだがね。というのも、「ゆとり教育」そのものが間違っているのだから、学力低下の証拠を探すのはむしろ本末転倒だと思うくらいなんだ。
ゆとり教育の問題点は次のことにつきる。すなわち、それまで子どもたちは学校の中だけでいわば勤務時間内の労働でかなり多くの学力を手に入れていたのに、ゆとり教育というシステム変更によって、子どもたちは多くの時間外労働によって前より少ない学力をようやく手に入れるような貧困生活に陥らされてしまったということだ。
ゆとり以前は、勉強は(宿題はもちろんあったが)、それなりに学校内で完結していたのだ。詰め込みすぎという批判はあったかも知れないが、学校で教えてくれないので、塾で教えてもらうというような本末転倒は存在しなかった。ところが、ゆとり教育によって、授業内容がすかすかになり、教える時間も削られたために、足りない分を子どもたちが時間外労働で補わなくてはならなくなったのだ。
これは、実は教員の側もそうだ。学校の授業時間では、それこそ総合学習や、体育や徳育に力を注がなければならなくなり、教科教育に時間を割けなくなった分、宿題をだすことで、教科教育を行わなければ学力を保てない状況に陥っているのだ。
子どもの話だが、小学校のある担任は、授業ができるときには、生徒に自習させ、そのあいだに宿題の点検をしているという。確かにそうでもしなければ、膨大な宿題のチェックをやっている時間は小学校の教師には存在しないのだ。昼休みでさえ給食指導をしているのだから。しかし、勉強は宿題でさせ、授業時間は自習にしておいて宿題の点検というのでは、本末転倒もいいところだろう。もちろん、一部の話を全体に広げられないが、しかし、本質的な部分では同じ構図だということは認識しておいていい。
ゆとり教育の生み出したものは、「学力低下」というよりは、むしろ、「効率性の悪さ」なのだ。子ども、保護者の立場に立ってみれば、以前は少ない時間で、比較的安上がりに手に入れていた「学力」を、ゆとり教育によって、多くの時間と費用をかけてやっと手に入れられるような状況にされてしまったということなのだ。
実はこれこそ、学力の二極分化をもたらしたものでもある。平坦で走りやすい道を走っていれば、体力、能力に劣るものもそれほど遅れないでついていけるだろう? しかし、でこぼこでおまけに起伏も多いとすれば、よいシューズをもっていなかったり、足が痛かったりするものにとって、ついていくのに多大の障害があることは間違いない。
もちろん、ゆとり教育そのものはこういう状況を目指して導入されたものではない。しかし、経営者たるもの、ある改革がどういう効果をもたらすか、きちんと見通してその正否を論じるべきだし、まして、すでに現実となったこういう状況をきちんと把握さえできないとしたら、完全に失格だろう。
「学力低下」というのは、基本的には、社会が子どもたちの労働の結果だけしか見ていないということだ。子どもたちに長時間労働を強いてかまわない、子どもたちの学力さえ上がってくれれば、という態度が、真に子どもたちや保護者、ひいては社会全体のために誠実な態度だと言えるだろうか。
だが、最近の教育改革は、子どもたち(と教員)の労働時間を増やすことが、正しい改革だと信じて疑わないように思えるがね。全く、子どもたちを見ていない、自分さえよければいいという、典型的な思い上がったワンマン経営者だね。やるべき改革は全く逆だ。必要なことは、ゆとり教育によって奪われたゆとりを取り戻すことなのだ。
これをもう少し具体的に言うには、ゆとり教育というシステムがどのようなもので、なぜ、このような状況を生み出すことになったかを、もう少し具体的に見ていかなければならない。