メインテキスト:中島義道『不在の哲学』(ちくま学芸文庫平成28年)
サブテキスト:『「私」の秘密 私はなぜ〈いま・ここ〉にいないのか』(初版は平成14年、講談社学術文庫平成24年)
諸星大二郎 「子供の頃」 1982年
中島義道氏は確か以前に、人から褒めそやされるのは大嫌いだと書いておられたので、安心して言える。ある研究会でガラにもなく『不在の哲学』のレポーターを務めなければ、私はこれだけ熱心に同書に取り組むことはなかった。以前『「私」の秘密』は卒読したことがあり、割合と面白かった覚えがあるので、うかうか引き受けたのだが、もとより哲学には門外漢、私は両書を哲学的エッセイとして、つまり一種の文学として、読んだ。
中島氏の成し遂げたことが、哲学的にはどういう意味があるのか、なんて全くわからない。そもそも、あるテキストをきちんと紹介するというより、それに基づいて勝手なことを言うのは当ブログ「一読三陳」の主旨でもある。こういう捉え方もある、というサンプルを示す、それが他人にどういう意味を持つかには全く無責任、ということで、よろしくお願いします。
『不在の哲学』の最初の頁にはこうある(以下の引用はすべて同書から)。
無と不在の違いの一つは、前者にはそれを語る視点がないが、後者にはその視点があるということである。(P.009)
なるほど、「不在」は、ある視点から見て「無い」ことであって、そこには「かつてはあった」「あってもおかしくない」「ある/あった、はずだ」などが含意されている。「父は今不在です」などの、日常的な使用法を考えても、これは容易に納得される。「父」が死んでいたら、普通こうは言わないだろう。もっとも、こうは言えない、とか、言ってはいけない、などというわけではない。それは本書の後を読んでいけば自然にわかる。
また、上記から、「不在」には、それをそうみなす「視点」の判断が必ず伴うことがわかる。それを「主体」と言ってはいけないか。「主体」は、この両書の中でほとんど使われていない。たぶんそこにも、著者のこだわりがある。
大がかりな図式として、ピアジェの発達理論が援用され、それは『不在の哲学』の全編に渡って繰り返される。実際はピアジェとはあまり関係ないのだが、本書の基調であることはまちがいない。
われわれ人間は有機体として①もともと自己中心化しているが、②その有機体が言語を習得することによって脱自己中心化し、さらに③二次的自己中心化する。(P.012)
それぞれを、仮に発達の諸段階として記述すると、
①自己中心段階。幼児期、自分が知覚するものが世界のすべてである段階。自分が暗いと見れば世界は暗いのだし、暑いと感ずれば世界は暑い。
実はこの段階では自分―世界(≒外界)という二分法そのものが成立していない。そういう意味では、世界と一体化している。
②脱自己中心化段階。自分が「私」と言うときと、他人が「私」と言うときでは、「私」の中身(シニフィエ)が違っていることを発見する。
世界の中心から、世界の構成要素へと位置が変わる、ことを受け容れる、段階と言うよりは、過程。これはそのまま、言語を習得していく過程である。
③第二次自己中心化段階。「私」は、自身が世界のごく一部であり、世界のごく一部しか知らない、のを承知の上で、世界を語る。他の人もそうしている、ようであるから。
今私の眼の前にカップがある。人間の眼は二次元の画像としてしか世界を捉えられないから、カップの裏側も底も見えていない。少し視点をずらせば、微妙に違ったカップの像が眼に映る。他人にはこのカップがまるで別様に見えているかもしれない。日本語も英語も知らない人は「カップ」ではない別の名前でこのモノを呼ぶだろうし、そもそもそれまでに「カップ」を見たことも使ったこともない人は、このモノについて別様に語るだろう。
さらにまた、有機物も無機物も、時とともに化学的な変化を被り、つまり時々刻々古びていく。厳密には「このカップは~」と語っている間にも、微細な変化は起こっているから、「客観的に同一のカップ」について語るのは本来不可能なのだ。そんなものはないのだから。
それらをすべてカッコに入れ、「私」は、カップについて、「客観的」に、語る。これはカップだ。陶器で、色はアイボリー。スイス製かな。コーヒーを入れると、その黒が引き立って見えるね、等々。
なぜそんなことができるのか。簡単に言えば、それが言葉を語るということだから、で終わりである。
もう少し綾をつけると、『「私」の秘密』のほうで、これは事実問題なのではなく、権利問題なのだと言われている。このカントの用語を、私の頭で理解できる範囲で述べると、「私」が事実(客観)としてあるかないかを問題にするべきではなく、「私は」と発語するのは正当か否かが問題とされるべきだ、ということになる。そして、もちろん、正当である。即ち、あるかないかよくわからないものでも、正当性は主張し得る。そのような語り方の形式は正当だと、多くの人が認めさえすればよい。
この権利が行使されない、言語がない状態をもう一度、言語で、考えておこう。
赤ん坊は「私」とは言わない。「カップ」とも言わない。「暗い」とも「暑い」とも言わない。こう発語するときには、それぞれに対応する・時に対立する、何か、を必ず取り込んでいる。カップの中にはコーヒーという黒い飲み物が入っていた。今はないね。それは今は不在なのだ。それを私は知っている。そして、もう一杯ほしい、とか、もういらない、とかいう欲求ないし情緒が、その認識に伴っている。
「暗い」は「明るい」、「暑い」は「寒い」状態がかつてあった/これからもあるという知識・判断が前提とされ、今はそうではない=不在である、ことも同時に語られる。そして「私」がそう語ることは、(主語や時が明示されないとしても)そうではない感じ方(「そんなに、暗く/暑く、ない」など)があり得ることを、「言外に」、「不在として」、含む。殊更に、意識してそうするというより、人間が人間の言葉を話すとは、本来そういうことなのである。
コミュニケーションのために、あることを別のこと(音声など)におきかえて示すのが言語だとすれば、他の動物も使っている。ハチがハチ(8)の字を描いて歩き、蜜のある場所の方向と距離を他のハチに伝えることは有名だ。人間の言語も最初はそういうものだったのかも知れない。否定語(~はない/~ではない)を取り入れることによって、それとは別の次元が現れてきたと思しい。
動物はさまざまな視点から対象を見ているであろうが、不在を知らないであろう。なぜなら、不在とは一つの「否定的なもの」であるが、否定的なものは言語によってはじめて世界に登場してくるからである。(P.022)
生物は、温度が低くて凍死することも、逆に高過ぎて体内の水分が失われて枯死することもあるだろうが、それは、前述のように、「寒い」/「暑い」と言われることとは全く別である。
ただ、ここはもう少し突っ込んで考えることもできる。サルを使った有名な実験で、高いところに餌を吊り下げておき、棒を置いておくと、猿はその棒で餌を叩き落として食べる。これを何日かくりかえした後で、棒をどこかに隠したとする。このサル君は、棒を探さないだろうか。つまりこの状態を、「棒が不在」なものと認識しないだろうか。
多分そうするのだろう。人間のような、否定語を含む言語を使用しない動物でも、否定的なもの=不在と、このレベルでは、無縁ではない、と言えそうである。ただし人間はこれをよりダイナミックに使って、世界も自分も意味づける。そうする「権利」があると、人間同士で、勝手にみなしている。
〈いま〉は言語によってはじめて世界に到来する。それは、自然の連続的変化の「うち」にはない。〈いま〉の到来とは自然の連続的変化に楔を入れ、連続的変化を〈いま〉という単位に分断してとらえなおすことなのである。……。
言語は、存在と非存在という二元論をもって世界を再構成する。そして、いったん非存在を世界から排除しながらも、それを「非存在」という名の存在に仕立て上げて、取り戻す
先のカップの例で見たように、人間は客観的実在としての「今」をとらえることはできない。絶え間のない「変化」から、例えば、「かつてはあったが、今はない」何かをメルクマールとして拾い出し、「何か」が「あった」のが過去、「ない」のが現在、と名付けることならできる。
かくして「いま」と「昔」が成立する。「コーヒーを飲んでしまった今=コーヒーがあった昔に対してそれがない今」・「父が死んだ今=父がいた昔に対する彼がいない今」という具合。【念のために。「この子が生まれた今」という場合、「この子がいなかった」状態が、今では不在になっている。言葉がややこしいだけ。】
また、人間自身も、生々流転する世界の中で、ある場所に止まっていることはできない(そんな場所はない)。絶えず何かをする(最低でも、活きている以上、呼吸はする)。それによって現在は絶えず過去、とみなされ得るもの、になっていく。「私」が生きる場もまた、一連の不在以外にない(未来は、もとより、可能性としてあるだけ)。
ヒトは(他の有機体のように)単に外部からの刺激を受けるのではなく、それを言語的に捉え直して判断し、さらに刺激に対して能動的に意味付与するのだ。こうした意味付与作用自身は、実在世界に属さないという意味で、いわば能動的不在である……それは……みずからを能動的に「不在」にすることによって、実在世界=統一的客観世界を可能にする。言語を習得することは、この不思議な反転が起こること(P.024、文言を一部変えました)
「かつてあった棒が、今はない」ことを知覚するだけなら、サルでもやれる。それは「能動的な意味づけ」ではない。ヒトは、「今棒がないことの意味」=「かつて棒があったことの意味」を考えざるを得ない。考えて、答えが必ず見つかるとは限らない。しかし、このような問いかけのないところに、一定の意味(とみなし得るもの)のある「統一的客観世界」は登場しない。
私が眼前の木に対しているとき、私は単に「木を見ている」だけではなく、そこには同時に想起も想像も連想も感情もはたらいている。(P.157)
これは単純な事実である。私はあるとき、初めて行った場所で、それまで見たことのない「木」を見る。錯誤も多少はあるかも知れないが、ほとんどの場合、それが「木」であることにまちがいはないだろう。
このとき、次のことがおこっているのであろう。それまで私が接してきた様々な木、実物ではなく写真や絵も含めて、それに接した時の情緒をも伴って、未分化のまま蘇り(想起され)、その全体が「木」という言葉によって表象され、眼前の物に与えられる。
もちろん過去の木は「不在」である。かつての木も、いまの眼前の木も、同じように存在する、としたら、我々はその両方とも知覚できないことになる。
想起とはいきなり過去に戻ることなのではなく、私が〈いま〉伝達された構造の「うち」に不在の過去を読みとること、言いかえれば、それに「もうない」という意味を付与すること(P.152)
そのように意味付与するとき、意味付与する「私」は確かにいる、と言ってよいだろう。即ち世界に意味付与することによって、ではなく、それと同時に、「私」がある。
「私」のいわゆる主観と、統一的客観世界とは、同じものの両面だ、とも言えそうである。
他のすべての不在を付与できても、そこに「過去という不在」を付与できなければ、ヒトは「私」ではない。……ヒトが、眼前の物質の塊から現在の知覚世界をえぐり出したうえで、そこから排除された過去世界をあらためて「不在」として意味付与するとき、ヒトは「私」である最低の要件を充たしている。ヒトは対象世界に知覚的あるいは想起的に意味付与するごとに、自己同一的な「私」をいわば対象世界の反対側に不在として構成するのである。(P.201、文言を一部変えました)
最後に付け加える。文学とは、この「権利」を最高度に行使し、「自分にとって世界とは何か」=「世界にとって自分とは何か」という問いを、客観的事実のように押し出す試みのことだと定義し得る。それが「主体」の物語である。言葉の使用がここまですすんだことは、人間にとって幸福か不幸かはわからない。が、文明の発達の一部である言葉の発達の面からみて、これは必然ではあったのだろう。
噂によると、その文学は今衰退しているらしい。そうだとすれば、何が主因なのか。それは「私」の、即ち、世界に統一的客観性を与える人間の力の衰退をしめしているのか。中島氏は賢明だから、このような、「主体」の問題なんぞに踏み込むことはない。この問いは、哲学ではなく、文学の内部で追及されるべきなのだろう。
サブテキスト:『「私」の秘密 私はなぜ〈いま・ここ〉にいないのか』(初版は平成14年、講談社学術文庫平成24年)
諸星大二郎 「子供の頃」 1982年
中島義道氏は確か以前に、人から褒めそやされるのは大嫌いだと書いておられたので、安心して言える。ある研究会でガラにもなく『不在の哲学』のレポーターを務めなければ、私はこれだけ熱心に同書に取り組むことはなかった。以前『「私」の秘密』は卒読したことがあり、割合と面白かった覚えがあるので、うかうか引き受けたのだが、もとより哲学には門外漢、私は両書を哲学的エッセイとして、つまり一種の文学として、読んだ。
中島氏の成し遂げたことが、哲学的にはどういう意味があるのか、なんて全くわからない。そもそも、あるテキストをきちんと紹介するというより、それに基づいて勝手なことを言うのは当ブログ「一読三陳」の主旨でもある。こういう捉え方もある、というサンプルを示す、それが他人にどういう意味を持つかには全く無責任、ということで、よろしくお願いします。
『不在の哲学』の最初の頁にはこうある(以下の引用はすべて同書から)。
無と不在の違いの一つは、前者にはそれを語る視点がないが、後者にはその視点があるということである。(P.009)
なるほど、「不在」は、ある視点から見て「無い」ことであって、そこには「かつてはあった」「あってもおかしくない」「ある/あった、はずだ」などが含意されている。「父は今不在です」などの、日常的な使用法を考えても、これは容易に納得される。「父」が死んでいたら、普通こうは言わないだろう。もっとも、こうは言えない、とか、言ってはいけない、などというわけではない。それは本書の後を読んでいけば自然にわかる。
また、上記から、「不在」には、それをそうみなす「視点」の判断が必ず伴うことがわかる。それを「主体」と言ってはいけないか。「主体」は、この両書の中でほとんど使われていない。たぶんそこにも、著者のこだわりがある。
大がかりな図式として、ピアジェの発達理論が援用され、それは『不在の哲学』の全編に渡って繰り返される。実際はピアジェとはあまり関係ないのだが、本書の基調であることはまちがいない。
われわれ人間は有機体として①もともと自己中心化しているが、②その有機体が言語を習得することによって脱自己中心化し、さらに③二次的自己中心化する。(P.012)
それぞれを、仮に発達の諸段階として記述すると、
①自己中心段階。幼児期、自分が知覚するものが世界のすべてである段階。自分が暗いと見れば世界は暗いのだし、暑いと感ずれば世界は暑い。
実はこの段階では自分―世界(≒外界)という二分法そのものが成立していない。そういう意味では、世界と一体化している。
②脱自己中心化段階。自分が「私」と言うときと、他人が「私」と言うときでは、「私」の中身(シニフィエ)が違っていることを発見する。
世界の中心から、世界の構成要素へと位置が変わる、ことを受け容れる、段階と言うよりは、過程。これはそのまま、言語を習得していく過程である。
③第二次自己中心化段階。「私」は、自身が世界のごく一部であり、世界のごく一部しか知らない、のを承知の上で、世界を語る。他の人もそうしている、ようであるから。
今私の眼の前にカップがある。人間の眼は二次元の画像としてしか世界を捉えられないから、カップの裏側も底も見えていない。少し視点をずらせば、微妙に違ったカップの像が眼に映る。他人にはこのカップがまるで別様に見えているかもしれない。日本語も英語も知らない人は「カップ」ではない別の名前でこのモノを呼ぶだろうし、そもそもそれまでに「カップ」を見たことも使ったこともない人は、このモノについて別様に語るだろう。
さらにまた、有機物も無機物も、時とともに化学的な変化を被り、つまり時々刻々古びていく。厳密には「このカップは~」と語っている間にも、微細な変化は起こっているから、「客観的に同一のカップ」について語るのは本来不可能なのだ。そんなものはないのだから。
それらをすべてカッコに入れ、「私」は、カップについて、「客観的」に、語る。これはカップだ。陶器で、色はアイボリー。スイス製かな。コーヒーを入れると、その黒が引き立って見えるね、等々。
なぜそんなことができるのか。簡単に言えば、それが言葉を語るということだから、で終わりである。
もう少し綾をつけると、『「私」の秘密』のほうで、これは事実問題なのではなく、権利問題なのだと言われている。このカントの用語を、私の頭で理解できる範囲で述べると、「私」が事実(客観)としてあるかないかを問題にするべきではなく、「私は」と発語するのは正当か否かが問題とされるべきだ、ということになる。そして、もちろん、正当である。即ち、あるかないかよくわからないものでも、正当性は主張し得る。そのような語り方の形式は正当だと、多くの人が認めさえすればよい。
この権利が行使されない、言語がない状態をもう一度、言語で、考えておこう。
赤ん坊は「私」とは言わない。「カップ」とも言わない。「暗い」とも「暑い」とも言わない。こう発語するときには、それぞれに対応する・時に対立する、何か、を必ず取り込んでいる。カップの中にはコーヒーという黒い飲み物が入っていた。今はないね。それは今は不在なのだ。それを私は知っている。そして、もう一杯ほしい、とか、もういらない、とかいう欲求ないし情緒が、その認識に伴っている。
「暗い」は「明るい」、「暑い」は「寒い」状態がかつてあった/これからもあるという知識・判断が前提とされ、今はそうではない=不在である、ことも同時に語られる。そして「私」がそう語ることは、(主語や時が明示されないとしても)そうではない感じ方(「そんなに、暗く/暑く、ない」など)があり得ることを、「言外に」、「不在として」、含む。殊更に、意識してそうするというより、人間が人間の言葉を話すとは、本来そういうことなのである。
コミュニケーションのために、あることを別のこと(音声など)におきかえて示すのが言語だとすれば、他の動物も使っている。ハチがハチ(8)の字を描いて歩き、蜜のある場所の方向と距離を他のハチに伝えることは有名だ。人間の言語も最初はそういうものだったのかも知れない。否定語(~はない/~ではない)を取り入れることによって、それとは別の次元が現れてきたと思しい。
動物はさまざまな視点から対象を見ているであろうが、不在を知らないであろう。なぜなら、不在とは一つの「否定的なもの」であるが、否定的なものは言語によってはじめて世界に登場してくるからである。(P.022)
生物は、温度が低くて凍死することも、逆に高過ぎて体内の水分が失われて枯死することもあるだろうが、それは、前述のように、「寒い」/「暑い」と言われることとは全く別である。
ただ、ここはもう少し突っ込んで考えることもできる。サルを使った有名な実験で、高いところに餌を吊り下げておき、棒を置いておくと、猿はその棒で餌を叩き落として食べる。これを何日かくりかえした後で、棒をどこかに隠したとする。このサル君は、棒を探さないだろうか。つまりこの状態を、「棒が不在」なものと認識しないだろうか。
多分そうするのだろう。人間のような、否定語を含む言語を使用しない動物でも、否定的なもの=不在と、このレベルでは、無縁ではない、と言えそうである。ただし人間はこれをよりダイナミックに使って、世界も自分も意味づける。そうする「権利」があると、人間同士で、勝手にみなしている。
〈いま〉は言語によってはじめて世界に到来する。それは、自然の連続的変化の「うち」にはない。〈いま〉の到来とは自然の連続的変化に楔を入れ、連続的変化を〈いま〉という単位に分断してとらえなおすことなのである。……。
言語は、存在と非存在という二元論をもって世界を再構成する。そして、いったん非存在を世界から排除しながらも、それを「非存在」という名の存在に仕立て上げて、取り戻す
先のカップの例で見たように、人間は客観的実在としての「今」をとらえることはできない。絶え間のない「変化」から、例えば、「かつてはあったが、今はない」何かをメルクマールとして拾い出し、「何か」が「あった」のが過去、「ない」のが現在、と名付けることならできる。
かくして「いま」と「昔」が成立する。「コーヒーを飲んでしまった今=コーヒーがあった昔に対してそれがない今」・「父が死んだ今=父がいた昔に対する彼がいない今」という具合。【念のために。「この子が生まれた今」という場合、「この子がいなかった」状態が、今では不在になっている。言葉がややこしいだけ。】
また、人間自身も、生々流転する世界の中で、ある場所に止まっていることはできない(そんな場所はない)。絶えず何かをする(最低でも、活きている以上、呼吸はする)。それによって現在は絶えず過去、とみなされ得るもの、になっていく。「私」が生きる場もまた、一連の不在以外にない(未来は、もとより、可能性としてあるだけ)。
ヒトは(他の有機体のように)単に外部からの刺激を受けるのではなく、それを言語的に捉え直して判断し、さらに刺激に対して能動的に意味付与するのだ。こうした意味付与作用自身は、実在世界に属さないという意味で、いわば能動的不在である……それは……みずからを能動的に「不在」にすることによって、実在世界=統一的客観世界を可能にする。言語を習得することは、この不思議な反転が起こること(P.024、文言を一部変えました)
「かつてあった棒が、今はない」ことを知覚するだけなら、サルでもやれる。それは「能動的な意味づけ」ではない。ヒトは、「今棒がないことの意味」=「かつて棒があったことの意味」を考えざるを得ない。考えて、答えが必ず見つかるとは限らない。しかし、このような問いかけのないところに、一定の意味(とみなし得るもの)のある「統一的客観世界」は登場しない。
私が眼前の木に対しているとき、私は単に「木を見ている」だけではなく、そこには同時に想起も想像も連想も感情もはたらいている。(P.157)
これは単純な事実である。私はあるとき、初めて行った場所で、それまで見たことのない「木」を見る。錯誤も多少はあるかも知れないが、ほとんどの場合、それが「木」であることにまちがいはないだろう。
このとき、次のことがおこっているのであろう。それまで私が接してきた様々な木、実物ではなく写真や絵も含めて、それに接した時の情緒をも伴って、未分化のまま蘇り(想起され)、その全体が「木」という言葉によって表象され、眼前の物に与えられる。
もちろん過去の木は「不在」である。かつての木も、いまの眼前の木も、同じように存在する、としたら、我々はその両方とも知覚できないことになる。
想起とはいきなり過去に戻ることなのではなく、私が〈いま〉伝達された構造の「うち」に不在の過去を読みとること、言いかえれば、それに「もうない」という意味を付与すること(P.152)
そのように意味付与するとき、意味付与する「私」は確かにいる、と言ってよいだろう。即ち世界に意味付与することによって、ではなく、それと同時に、「私」がある。
「私」のいわゆる主観と、統一的客観世界とは、同じものの両面だ、とも言えそうである。
他のすべての不在を付与できても、そこに「過去という不在」を付与できなければ、ヒトは「私」ではない。……ヒトが、眼前の物質の塊から現在の知覚世界をえぐり出したうえで、そこから排除された過去世界をあらためて「不在」として意味付与するとき、ヒトは「私」である最低の要件を充たしている。ヒトは対象世界に知覚的あるいは想起的に意味付与するごとに、自己同一的な「私」をいわば対象世界の反対側に不在として構成するのである。(P.201、文言を一部変えました)
最後に付け加える。文学とは、この「権利」を最高度に行使し、「自分にとって世界とは何か」=「世界にとって自分とは何か」という問いを、客観的事実のように押し出す試みのことだと定義し得る。それが「主体」の物語である。言葉の使用がここまですすんだことは、人間にとって幸福か不幸かはわからない。が、文明の発達の一部である言葉の発達の面からみて、これは必然ではあったのだろう。
噂によると、その文学は今衰退しているらしい。そうだとすれば、何が主因なのか。それは「私」の、即ち、世界に統一的客観性を与える人間の力の衰退をしめしているのか。中島氏は賢明だから、このような、「主体」の問題なんぞに踏み込むことはない。この問いは、哲学ではなく、文学の内部で追及されるべきなのだろう。