メインテキスト:『漱石全集 第六巻』(岩波書店平成6年)
森田芳光監督 「それから」 昭和60年
この小説の主人公長井代助は、漱石が創造した中でも、他に類のない、独時の人物である。お洒落なナルシストであり、放蕩(芸者遊び)もする。近代人で都会人であり、ニル・アドミラリ(無感動)状態に陥っている。それなら二ヒリストかというと、純粋で「自然」な自分なるものを信じていることが後に自分でわかって、そのために身を滅ぼす。それ以前は、これといって何もしない「高等遊民」=よいご身分、から出た明治期の文明批評が展開され、小説の前半はほぼそれで占められる。
それは漱石の他の言説、講演で直接述べたものや、他の小説、例えば「三四郎」の廣田先生の口を借りて出てきたものと軌を一にしているから、漱石その人の考えとしてさしつかえない。が、いつもよりペシミスティックに、苛烈な調子でなされていて、これがやりたかったので、代助のような人物像が必要とされたのであろうと見当がつく。以下に具体的に見ていこう。
まず、武家道徳に代表される旧来の日本的思想態度への批判。作中その代表は代助の父長井得であり、彼と代助との齟齬は、主に第三章と第九章に描かれている。
長井得は元武士で、その居室には旧藩主に書いてもらったとか言う「誠者天道也」という額が掛かっている。「代助は此額が甚だ嫌である。第一字が嫌だ。其上文句が気に喰はない。誠は天の道なりの後へ、人の道にあらずと附け加へたい様な心持がする」。この文句は「中庸」から来ている。青年期の漱石が学んだに違いない典籍の一つである。それに今彼は叛旗を翻す、少なくとも翻す人物を主人公に据えた。その理由はというと、
代助の考によると、誠実だらうが、熱心だらうが、自分が出来合の奴を胸に蓄はへてゐるんぢやなくつて、石と鉄と触れて火花の出る様に、相手次第で摩擦の具合がうまく行けば、当事者二人(ににん)の間に起るべき現象である。自分の有する性質と云ふよりは寧ろ精神の交換作用である。だから相手が悪くつては起り様がない。
時と場合と相手によっては、「誠」なんて言っていられなくなるだろう、というわけだ。それはそうだ、そうだがしかし、それはそれ、これはこれ、と自然に使い分けるのがいわゆる大人ではないか。どこの国だろうと、どんな時代だろうと、「タテマエとホンネ」はあるに違いない。ただ、おそらく日本という国は、その懸隔が最も著しい。そんなことにこだわること自体が、「子どもっぽい」と自然にみなされてしまうほどに。
代助は、悪徳そのものを排斥しようとする純粋な道徳家ではない。おやじはいい年をして若い妾を囲っている。かまいはしない。「代助から云ふと寧ろ賛成な位なもので、彼は妾を置く余裕のないものに限つて、蓄妾の攻撃をするんだと考へてゐる」。また、おやじが、維新後実業界に入って大金を儲けたについて、綺麗なことばかりやってきたわけもないことは、容易に察せられる。それもかまわない(だから、その金でもうすぐ三十になる自分が遊び暮らしていてもかまわない、ということらしい)。
ただ、どうにも閉口なのは、父がそのことは完全に等閑視して、「若い人がよく失敗(しくじる)といふが、全く誠実と熱心が足りないからだ」などと平気で説教するところ、その説教自体が、「今利他本位でやつてるかと思ふと、何時の間にか利己本位に変つてゐる」ようなところだ。代助が我慢できないと感じるのは、このようないいかげんな精神の在り方であった。あるいは、そのような矛盾を無視することを成立の要件とする、旧道徳のありかたであった。
彼は維新前の武士に固有な道義本位の教育を受けた。此教育は情意行為の標準を、自己以外の遠い所に据ゑて、事実の発展によつて証明せらるべき手近な真を、眼中に置かない無理なものであつた。にも拘はらず、父は習慣に囚へられて、未だに此教育に執着してゐる。さうして、一方には、劇烈な生活慾に冒され易い実業に従事した。父は実際に於て年々此生活慾の為に腐蝕されつゝ今日に至つた。だから昔の自分と、今の自分の間には、大いな相違のあるべき筈である。それを父は自認してゐなかつた。昔の自分が、昔通りの心得で、今の事業を是迄に成し遂げたとばかり公言する。けれども封建時代にのみ通用すべき教育の範囲を狭める事なしに、現代の生活慾を時々刻々に充たして行ける訳がないと代助は考へた。もし双方を其儘に存在させ様とすれば、之を敢てする個人は、矛盾の為に大苦痛を受けなければならない。もし内心に此苦痛を受けながら、たゞ苦痛の自覚丈明らかで、何の為の苦痛だか分別が付かないならば、それは頭脳の鈍い劣等な人種である。代助は父に対する毎に、父は自己を隠蔽する偽君子か、もしくは分別の足らない愚物か、何方かでなくてはならない様な気がした。さうして、左う云ふ気がするのが厭でならなかつた。
(中略)
代助は凡ての道徳の出立点は社会的事実より外にないと信じてゐた。始めから頭の中に硬張つた道徳を据ゑ付けて、其道徳から逆に社会的事実を発展させ様とする程、本末を誤つた話はないと信じてゐた。従つて日本の学校でやる、講釈の倫理教育は、無意義のものだと考へた。彼等は学校で昔し風の道徳を教授してゐる。それでなければ一般欧洲人に適切な道徳を呑み込ましてゐる。此劇烈なる生活慾に襲はれた不幸な国民から見れば、迂遠の空談に過ぎない。此迂遠な教育を受けたものは、他日社会を眼前に見る時、昔の講釈を思ひ出して笑つて仕舞ふ。でなければ馬鹿にされた様な気がする。代助に至つては、学校のみならず、現に自分の父から、尤も厳格で、尤も通用しない徳義上の教育を受けた。それがため、一時非常な矛盾の苦痛を、頭の中に起した。代助はそれを恨めしく思つてゐる位であつた。
長々と引用したが、ここには非常に大きな道徳的な問題が現れていると思う。自分の言葉でできるだけ簡単に説明してみよう。
人間集団であれば必ず倫理・道徳と呼ばれてよいものは存在するだろう。その淵源は、二種考えられる。①ある理想的な人物像を考えておいて、それを基準として個々人を馴致しようとするもの、と②社会存続の必要性から割り出されたもの。
後のほうが上の引用文で「社会的事実」を「出立点」とする道徳ということになる。なるべく卑近な例を挙げれば、人は誰しも、勝手気ままにふるまいたい。好きなことだけやって、いやなことはやりたくない。しかしそれでは社会は成り立たない。のみならず、ある個人の得手勝手を過度に許したりしたら、それ自体が必ず、他の誰かに不自由を強いる結果になる。この単純な事実からして、人は自分の自由が制限されることを「道徳的に正しいこと」として、受け入れねばならない。
このようなことはあまりにも自明とされるであろう。そこに問題がある。この種の道徳は、交通信号のようなものだ。必要であることは誰しもが認めても、それ以上の、「偉大なもの」に結びつかない。若者の憧れを搔き立てるようなものではないのだ。血気盛んな若者なら、そんなものを破り、勝手気ままに振舞う者にこそ憧れるかも知れない。
そこで道徳とは、しばしば①の形で現れる。それはかなり無理なものである。江戸時代でも見える人の目には明らかにそう映じていた。普通人には到底達成し難い徳目を押し付けておいて、挙句に「そんなことができないお前はダメだ」なんぞと非難するようなのは悪趣味だ、と荻生徂徠が言っているそうだ(丸山真男『日本政治思想史研究』)。しかし、無理だからこそ、人を惹きつける力もある。
が、平和な時代であれば、無理な理想が人に無理な行動をさせることは、そんなに大規模にはおこらない。オウム真理教事件のようなのは、やはり例外なのだ。つまり、たいていは、俗塵となんとか妥協してやっていく。
そのためには、例えば、「仁」とは何か「恕」とは何か、などと内実に立ち入って論理的に詰めて考えるなんて、しないほうがいい。徂徠や伊藤仁斎のような学者はしかたないとして、俗人は。考えれば考えるほど、道徳体系の論理的な破綻が見えるようになるだろうから。生活上の「事実」を基に道徳を検証しようなどとするのも同じこと。「それはそれ、これはこれ」でなければ、というか、そんな区別自体も考えないほうがよい。現に多くの人がそうしている。
以上は、日本でも西洋でも同じことだろう。ただ、人間一般を(本来罪深いものとして)対象とする超越的宗教と違って、儒教が説くのは基本的に士分の者にのみ求められる仁義礼智などである。とすれば、この徳目が、ひいては道徳体系自体が雲の上のものに見えてきやすい。雲の下の人間の現実との関係は薄くなり、その分、言葉としては無傷で残り易い。
代助にはこれが許せない。悪徳は許せる、偽善も許そう、しかし偽善を偽善と気づかない鈍感さ、その愚物ぶりには耐えられない。即ち、父は愚物である。
しかしそうだとすれば、その愚物の金で毎日遊び暮らしている代助とはどういう存在なのか。「天保調と明治の現代調を、容赦なく継ぎ合せた様な一種の人物である」(これは趣味に関する、いい意味)嫂(あねよめ)からそう追及されて、ろくに答えられない。
この問題は第六章で、友人の平岡とその妻三千代に対して一番詳しく展開されている。「何故働かないつて、そりや僕が悪いんぢやない。つまり世の中が悪いのだ。もつと、大袈裟に云ふと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ」と。
日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでゐて、一等国を以て任じてゐる。さうして、無理にも一等国の仲間入をしやうとする。だから、あらゆる方面に向つて、奥行を削つて、一等国丈の間口を張つちまつた。なまじい張れるから、なほ悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。
なるほど、現状認識としては正しい。日本が大東亜戦争敗北の破局に至った道筋を最も簡単に言うとこうなるだろう。ただ気になるのは、それでは近代日本が進むべき道筋は他にあったろうかということである。代助の見通しには情がない。その分、客観的に正鵠を射たものになっているのではないか。
それはそうと、最初にもどって、どうして働かないのか。社会全体で、みんな余裕がなく、むきつけの生存競争をしている状態では、到底いい仕事はできないから、ということらしい。どうもまるで、説得力がない。
西洋の「一等国」には日本より余裕があるとすれば、二等以下の国から長年に渡って収奪してきたからだ、という事実は棚上げにされていることは棚上げにするとしても、「日本の社会が精神的、徳義的、身体的に、大体の上に於て健全なら、僕は依然として有為多望なのさ。さうなれば遣る事はいくらでもあるからね」なる言い草は、いい気なものだとしか見えないだろう。そんな「健全な社会」が、いつどこにあったというのか。
酒を飲んでしつこくなった平岡に対して、代助はさらにこんな例を出す。「常山紀談」にある話である。織田信長が上洛して、三好家を滅ぼした時、同家に仕えていた坪内某という料理人が捕えられた。京料理の名手としてよく知られた人物だったので、織田家で召し抱えるよう進言された信長は、料理を試してからにしようと言った。そこで坪内が朝食を作り、信長に出すと、「こんな水っぽいものは食えない。誅殺してしまえ」と怒った。坪内は今一度の機会を乞い、許されたので、翌朝も料理を出した。今度はひどくうまかった。信長は満足し、坪内には禄が与えられた。さて後に坪内が語るには、最初の料理こそ、名門三好家に供した第一等の料理であった。次の日に出したものは、野卑な田舎風の味付けにした。それがつまり、信長の好みに合ったのだ、と。
この話のキモは、織田信長は田舎者であったこと以外だと、状況に応じて、うまく立ち回って活路を開く機転の見事さにあるのだろう。しかし代助はそこを逆にする。この料理人は給金のために(元の話では命のために)、敢えて二流の仕事をした、それはつまり仕事と技芸を侮辱することである。金のために働くなら、必ずそういう羽目になるのだ、と。
だったら、代助のように金に困っていない人間こそ、「よい仕事」をすべきではないか。そう反論されて終わりである。【因みに、「よい仕事」をしたかどうかはともかく、かなりの年になるまで親の金で食わしてもらっていた純文学の大作家は、近代日本では珍しくない。志賀直哉は自分で公言しているから有名だし、永井荷風も、正宗白鳥も多分そう。この点、大学卒業後朝日新聞に入るまで教員として自活していた漱石のほうが、ずっと苦労人だと言える。】
要するに彼は自分を守りたいだけのようである。自分の何を? それもはっきりしないならば、結局、状況に流されるだけになってしまうだろう。このへん彼は、現代のニートを先取りしている、と言える。
「それから」一篇は、このような代助の、結婚問題を中心にして展開する。父は小説の開始以前から、ある縁談を勧めている。先方の家と縁戚になるのは、父の事業にとって有利になるからだが、先に言ったようなわけで、そのこと自体さほど嫌悪する必要はない。就職と違って結婚については、「代助は此二三年来、凡ての物に対して重きを置かない習慣になつた如く、結婚に対しても、あまり重きを置く必要を認めてゐない」(第七章)のだから、問題はないはずだ。代助自身が、なぜか、気が進まない以外には。
しかし面白いもので、「貴方【父】にそれ程御都合が好い事があるなら、もう一遍【結婚を】考へて見ませう」と言うと、父は機嫌を悪くする(第九章)。江戸時代の武家なら、政略結婚などはむしろ当たり前ではなかったかと思うのだが、それは現在の偏見というものなのだろうか。そうだとしてもここには、前回取り上げた「虞美人草」の謎の女の、取り繕いと同じものがある。自分の意志だけをしゃにむに押し通すように見えるのは、たとえその権利はあったとしても、できるだけ避けたい。西洋との関わり以前に、このような心性が、日本の文明の中で発達していたのである。
代助にもどると、彼は結婚のみならず、男女の愛そのものにさほどの重きを置いていなかった。「代助は渝(かは)らざる愛を、今の世に口にするものを偽善家の第一位に置いた」(第十一章)。その理由と言うのが、なんだか青臭いような、アホくさいようなものである。曰く、大自然に囲まれている田舎ならともかく、「都会は人間の展覧会に過ぎない」から、例えば男であれば女の様々な美しさに心を動かされないわけにはいかない、結婚していてもいなくても。そして、心は変わっても結婚という関係は変えないとするならば、それは精神的に不義(インフイデリチ)を働くのと同様である、云々。
現に結婚していた作者・漱石が、こんな理屈をまともに考えていたとは思えない。主眼は別のところにあるのだ。
上の第七章で、父との話の後で、そうまで結婚をいやがるのは、誰か好いた女があるのだろうと嫂に言われた時初めて、代助の心中に三千代の名が浮かぶ。また第十一章の妙な結婚観の後でも、彼女が思い出されて、これは今の考えとは別の因子(ファクター)なのではないかと疑う。
実際、ヒロイン・三千代の美しさは、決して強調されていない。初めて登場したときには、「色の白い割に髪の黒い、細面に眉毛(まみへ)の判然《はつきり》映る女である。一寸見ると何所となく淋しい感じの起る所が、古版の浮世絵に似てゐる」(第四章)と描写され、漱石はこういう女が好きだったのだな、とは推測される。そして第十六章に到って、やっと、「しとやかな、奥行のある、美くしい女」と言われる。後者は、代助による告白の後である。
その告白というのも、「僕の存在には貴方が必要だ。何(ど)うしても必要だ」なるもので、「代助の言葉には、普通の愛人の用ひる様な甘い文彩(あや)を含んでゐなかつた。彼の調子は其言葉と共に簡単で素朴であつた。寧ろ厳粛の域に逼つてゐた」とも注されている。
代助の三千代への思いは普通の恋愛ではない、少なくとも、女の色香に迷うというようなのとは次元が違うことを強調したいらしい。そこで働く原理は、「自然」と呼ばれる。告白前の代助の心境は以下のように描かれている。
「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云つた。斯《か》う云ひ得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故もつと早く帰る事が出来なかつたのかと思つた。始から何故自然に抵抗したのかと思つた。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出した。其生命の裏にも表にも、慾得はなかつた、利害はなかつた、自己を圧迫する道徳はなかつた。雲の様な自由と、水の如き自然とがあつた。さうして凡てが幸(ブリス)であつた。だから凡てが美しかつた。
代助は三千代の兄と親友で、三人は学生時代始終いっしょにいた。後にそこへ平岡が加わった。兄の死後、平岡から三千代への気持ちを打ち明けられた代助は、友だちのために泣き、彼と三千代との仲をとりもった。
三年経って平岡夫婦と再会してみると、彼等は幸せではなかった。平岡は勤め先をしくじり、彼らの間に生まれた子は早世した。三千代は健康を損ない、平岡の気性は荒れた。何より、彼らの間には愛情が感じられなかった。それは最初からそうだったのか、三年の間にそうなったのか、わからない。それを代助は、「三年経過するうちに自然は自然に特有な結果を、彼等二人(ににん)の前に突き付けた」(第九章)と、自分も憎からず思っていた三千代を平岡に譲った、その不自然さこそ根本の理由であるとした。
これ、説得力ありますか?
「それから」が近代日本の恋愛小説中屈指の名作であるのは、第十四章以下の、人妻との愛の描写の、清冽な緊張感にある。肉欲の要素はまるでない。と言えば綺麗事に聞こえるが、読んでいるときには少しも気にならない。
それというのも、ヒロインの態度が非常に見事だからだ。捨てられたのだと思っていた男から告白された喜びに輝き、先のことなど思い煩わない一途さ。「此間から私は、若もの事があれば、死ぬ積で覚悟を極めてゐるんですもの」、何も怖がる必要はない。これは確かに美しい。付け焼刃ではない迫真性をもってこういう女性の姿が描けた漱石の力量は誉むべきと思う。
が、男の方は、なあ。
恋愛小説としての完成度を期すとしたら、当初、代助はなぜ三千代を平岡と結婚させたのか、回想形式でもよいから、具体的に描くべきだったろう。友人のために犠牲になるヒロイズムに酔ったのか、女への愛着などに大した意味を認めないニヒリズムのせいだったのか。そのへんが曖昧なので、彼が口にする「自然」とは何か、どうも素直に胸に落ちて来ない。これはやっぱり、欠陥と言うべきであろう。
作品中の道徳問題を取り上げて、これを「自然」の命じるように生きて、結果社会に圧迫される運命に陥る個人を描いたもの、とした人に武者小路實篤がいる。彼の「『それから』に就て」は、『白樺』創刊号(明治43年4月)の巻頭に掲げられているのだから、これは白樺派のマニュフェストともみなし得る。
曰く、「自然に従ふものは社会から外面的に迫害され、社会に従ふものは自然から内面的に迫害される」、この悲劇こそ、「それから」一篇の眼目である、と。
愛し合う男女が、他者(社会)の都合・思惑によって引き裂かれようとする、このプロットは、「ロミオとジュリエット」以来の、恋愛物語の王道であろう。この場合、男女は必ず美しく正しく、社会は必ず醜く間違っている。我々は観客・読者としてこのような物語に接するとき、そう思い込むようにあらかじめ要請されている。それが承認されなければ、恋愛物語は最初から成り立ちようがない。そしてこの要請のさらに底には、人間の内面はあり、それは尊重されなければならない、という思想が、一応見出される。
私はこのような個人尊重の思想こそ最も重要だ、と信じる者だ。しかし、「恋愛は神聖」(と、「吾輩は猫である」の登場人物越智東風は言う)などという言葉には、ほぼ必ずセンチメンタリズムが伴い、すると、贋物性も伴いやすい気もする。つまり、「恋とは麻疹のようなもの」という言葉にも、(自分の経験に照らしても)一面の真実を認めざるを得ない以上は、恋愛の神聖視をもって「個人の価値」が打ち立てられた、などと素朴に信じることはできない。そこで漱石も、代助と三千代の愛から、浮わついた、世俗的なところはできるだけなくすように努力したのだろう。
それにまた、すべての恋愛が社会によって引き裂かれるものでもない。代助の場合三千代と平岡との結婚を勧めたりせず、さっさと自分が貰うか、約束だけでもすれば、最悪の事態は防げたのである。あまりに遅く「自然」の情に生きることに決めたので、何も恐れない三千代にまで、平岡への罪悪感だけは抱かせる結果になった。この点だけでも、「それから」は、社会と自然との根本的な対立を扱った作品と言うにしては、少し物足りないところがあると思う。
武者小路自身は、大正8年の小説「友情」で、女への愛と男への友情の葛藤を描いた。そのヒロインに、「友への義理より、自然への義理の方がいゝことは「それから」の代助も云つてゐるではありませんか」と言わせている(こんな言葉は実際は、「それから」中にない)。で、結局のところ、友が女を愛していることを知っていたので、ためらっていた男は、女からの求愛を受け入れる。そうしても彼らは、社会からなんの制裁も受けない。おめでたい話ではあるが、社会と自然の対立という大テーマは? 消えてしまっている。
この人には、これを自らのテーマとして展開するだけの、作家的な必然性はなかったのだろう。同じ白樺派の、有島武郎「或る女」は、これに近いところで、相当な達成を示した傑作であるが、取り組むのは後の課題としよう。
「『それから』に就いて」には、以下のような箇所もある。
自分は漱石氏は何時までも今のまゝに、社会に対して絶望的な考を持つてゐられるか、或は社会と人間の自然性の間にある調和を見出されるかを見たいと思ふ。自分は後者になられるだらうと思つてゐる。さうしてその時は自然を社会に調和させやうとされず、社会を自然に調和させやうとされるだらうと思ふ。さうしてその時漱石氏は真の国民の教育者となられると思ふ。
幸か不幸か、漱石は教育者でも宗教者でもなく、文学者だった。彼は個人と社会との調和を見出そうとするより多く、見出しがたい根本の事情に光を当てようと試みた。それを社会に対する絶望と呼ぶ必要はない。人も社会も決して完全にはなれない。この根本的な事情を抱えながら、悩み苦しみつつ日々を送るのが、いつも変わらぬ人の姿であり、それこそ文学が扱うべきものだからである。
この後の、「門」の主人公は、代助のような厭味はないが、同じく人の妻を奪って結婚し、罪の意識に苦しんで宗教(禅)に救いを求め、結局得られない。「こゝろ」では、「それから」とは真逆に、最初から友情より女への愛を選んだ主人公が、それは「自然」なことだったかどうかは問わぬままに、また社会的に非難されるようなことは全くないにも拘わらず、自分だけ一個の罪を感じて、自裁する。どの方向へ行こうが、デッドロックに乗り上げてしまう。残念ながら、その必然性が作品から充分に感得されないので、漱石作品は近代人の悲劇として傑作だとは手放しで褒められないのだが、一番深いところでそれを追求した栄誉は、やはり彼のものであろう。
森田芳光監督 「それから」 昭和60年
この小説の主人公長井代助は、漱石が創造した中でも、他に類のない、独時の人物である。お洒落なナルシストであり、放蕩(芸者遊び)もする。近代人で都会人であり、ニル・アドミラリ(無感動)状態に陥っている。それなら二ヒリストかというと、純粋で「自然」な自分なるものを信じていることが後に自分でわかって、そのために身を滅ぼす。それ以前は、これといって何もしない「高等遊民」=よいご身分、から出た明治期の文明批評が展開され、小説の前半はほぼそれで占められる。
それは漱石の他の言説、講演で直接述べたものや、他の小説、例えば「三四郎」の廣田先生の口を借りて出てきたものと軌を一にしているから、漱石その人の考えとしてさしつかえない。が、いつもよりペシミスティックに、苛烈な調子でなされていて、これがやりたかったので、代助のような人物像が必要とされたのであろうと見当がつく。以下に具体的に見ていこう。
まず、武家道徳に代表される旧来の日本的思想態度への批判。作中その代表は代助の父長井得であり、彼と代助との齟齬は、主に第三章と第九章に描かれている。
長井得は元武士で、その居室には旧藩主に書いてもらったとか言う「誠者天道也」という額が掛かっている。「代助は此額が甚だ嫌である。第一字が嫌だ。其上文句が気に喰はない。誠は天の道なりの後へ、人の道にあらずと附け加へたい様な心持がする」。この文句は「中庸」から来ている。青年期の漱石が学んだに違いない典籍の一つである。それに今彼は叛旗を翻す、少なくとも翻す人物を主人公に据えた。その理由はというと、
代助の考によると、誠実だらうが、熱心だらうが、自分が出来合の奴を胸に蓄はへてゐるんぢやなくつて、石と鉄と触れて火花の出る様に、相手次第で摩擦の具合がうまく行けば、当事者二人(ににん)の間に起るべき現象である。自分の有する性質と云ふよりは寧ろ精神の交換作用である。だから相手が悪くつては起り様がない。
時と場合と相手によっては、「誠」なんて言っていられなくなるだろう、というわけだ。それはそうだ、そうだがしかし、それはそれ、これはこれ、と自然に使い分けるのがいわゆる大人ではないか。どこの国だろうと、どんな時代だろうと、「タテマエとホンネ」はあるに違いない。ただ、おそらく日本という国は、その懸隔が最も著しい。そんなことにこだわること自体が、「子どもっぽい」と自然にみなされてしまうほどに。
代助は、悪徳そのものを排斥しようとする純粋な道徳家ではない。おやじはいい年をして若い妾を囲っている。かまいはしない。「代助から云ふと寧ろ賛成な位なもので、彼は妾を置く余裕のないものに限つて、蓄妾の攻撃をするんだと考へてゐる」。また、おやじが、維新後実業界に入って大金を儲けたについて、綺麗なことばかりやってきたわけもないことは、容易に察せられる。それもかまわない(だから、その金でもうすぐ三十になる自分が遊び暮らしていてもかまわない、ということらしい)。
ただ、どうにも閉口なのは、父がそのことは完全に等閑視して、「若い人がよく失敗(しくじる)といふが、全く誠実と熱心が足りないからだ」などと平気で説教するところ、その説教自体が、「今利他本位でやつてるかと思ふと、何時の間にか利己本位に変つてゐる」ようなところだ。代助が我慢できないと感じるのは、このようないいかげんな精神の在り方であった。あるいは、そのような矛盾を無視することを成立の要件とする、旧道徳のありかたであった。
彼は維新前の武士に固有な道義本位の教育を受けた。此教育は情意行為の標準を、自己以外の遠い所に据ゑて、事実の発展によつて証明せらるべき手近な真を、眼中に置かない無理なものであつた。にも拘はらず、父は習慣に囚へられて、未だに此教育に執着してゐる。さうして、一方には、劇烈な生活慾に冒され易い実業に従事した。父は実際に於て年々此生活慾の為に腐蝕されつゝ今日に至つた。だから昔の自分と、今の自分の間には、大いな相違のあるべき筈である。それを父は自認してゐなかつた。昔の自分が、昔通りの心得で、今の事業を是迄に成し遂げたとばかり公言する。けれども封建時代にのみ通用すべき教育の範囲を狭める事なしに、現代の生活慾を時々刻々に充たして行ける訳がないと代助は考へた。もし双方を其儘に存在させ様とすれば、之を敢てする個人は、矛盾の為に大苦痛を受けなければならない。もし内心に此苦痛を受けながら、たゞ苦痛の自覚丈明らかで、何の為の苦痛だか分別が付かないならば、それは頭脳の鈍い劣等な人種である。代助は父に対する毎に、父は自己を隠蔽する偽君子か、もしくは分別の足らない愚物か、何方かでなくてはならない様な気がした。さうして、左う云ふ気がするのが厭でならなかつた。
(中略)
代助は凡ての道徳の出立点は社会的事実より外にないと信じてゐた。始めから頭の中に硬張つた道徳を据ゑ付けて、其道徳から逆に社会的事実を発展させ様とする程、本末を誤つた話はないと信じてゐた。従つて日本の学校でやる、講釈の倫理教育は、無意義のものだと考へた。彼等は学校で昔し風の道徳を教授してゐる。それでなければ一般欧洲人に適切な道徳を呑み込ましてゐる。此劇烈なる生活慾に襲はれた不幸な国民から見れば、迂遠の空談に過ぎない。此迂遠な教育を受けたものは、他日社会を眼前に見る時、昔の講釈を思ひ出して笑つて仕舞ふ。でなければ馬鹿にされた様な気がする。代助に至つては、学校のみならず、現に自分の父から、尤も厳格で、尤も通用しない徳義上の教育を受けた。それがため、一時非常な矛盾の苦痛を、頭の中に起した。代助はそれを恨めしく思つてゐる位であつた。
長々と引用したが、ここには非常に大きな道徳的な問題が現れていると思う。自分の言葉でできるだけ簡単に説明してみよう。
人間集団であれば必ず倫理・道徳と呼ばれてよいものは存在するだろう。その淵源は、二種考えられる。①ある理想的な人物像を考えておいて、それを基準として個々人を馴致しようとするもの、と②社会存続の必要性から割り出されたもの。
後のほうが上の引用文で「社会的事実」を「出立点」とする道徳ということになる。なるべく卑近な例を挙げれば、人は誰しも、勝手気ままにふるまいたい。好きなことだけやって、いやなことはやりたくない。しかしそれでは社会は成り立たない。のみならず、ある個人の得手勝手を過度に許したりしたら、それ自体が必ず、他の誰かに不自由を強いる結果になる。この単純な事実からして、人は自分の自由が制限されることを「道徳的に正しいこと」として、受け入れねばならない。
このようなことはあまりにも自明とされるであろう。そこに問題がある。この種の道徳は、交通信号のようなものだ。必要であることは誰しもが認めても、それ以上の、「偉大なもの」に結びつかない。若者の憧れを搔き立てるようなものではないのだ。血気盛んな若者なら、そんなものを破り、勝手気ままに振舞う者にこそ憧れるかも知れない。
そこで道徳とは、しばしば①の形で現れる。それはかなり無理なものである。江戸時代でも見える人の目には明らかにそう映じていた。普通人には到底達成し難い徳目を押し付けておいて、挙句に「そんなことができないお前はダメだ」なんぞと非難するようなのは悪趣味だ、と荻生徂徠が言っているそうだ(丸山真男『日本政治思想史研究』)。しかし、無理だからこそ、人を惹きつける力もある。
が、平和な時代であれば、無理な理想が人に無理な行動をさせることは、そんなに大規模にはおこらない。オウム真理教事件のようなのは、やはり例外なのだ。つまり、たいていは、俗塵となんとか妥協してやっていく。
そのためには、例えば、「仁」とは何か「恕」とは何か、などと内実に立ち入って論理的に詰めて考えるなんて、しないほうがいい。徂徠や伊藤仁斎のような学者はしかたないとして、俗人は。考えれば考えるほど、道徳体系の論理的な破綻が見えるようになるだろうから。生活上の「事実」を基に道徳を検証しようなどとするのも同じこと。「それはそれ、これはこれ」でなければ、というか、そんな区別自体も考えないほうがよい。現に多くの人がそうしている。
以上は、日本でも西洋でも同じことだろう。ただ、人間一般を(本来罪深いものとして)対象とする超越的宗教と違って、儒教が説くのは基本的に士分の者にのみ求められる仁義礼智などである。とすれば、この徳目が、ひいては道徳体系自体が雲の上のものに見えてきやすい。雲の下の人間の現実との関係は薄くなり、その分、言葉としては無傷で残り易い。
代助にはこれが許せない。悪徳は許せる、偽善も許そう、しかし偽善を偽善と気づかない鈍感さ、その愚物ぶりには耐えられない。即ち、父は愚物である。
しかしそうだとすれば、その愚物の金で毎日遊び暮らしている代助とはどういう存在なのか。「天保調と明治の現代調を、容赦なく継ぎ合せた様な一種の人物である」(これは趣味に関する、いい意味)嫂(あねよめ)からそう追及されて、ろくに答えられない。
この問題は第六章で、友人の平岡とその妻三千代に対して一番詳しく展開されている。「何故働かないつて、そりや僕が悪いんぢやない。つまり世の中が悪いのだ。もつと、大袈裟に云ふと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ」と。
日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでゐて、一等国を以て任じてゐる。さうして、無理にも一等国の仲間入をしやうとする。だから、あらゆる方面に向つて、奥行を削つて、一等国丈の間口を張つちまつた。なまじい張れるから、なほ悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。
なるほど、現状認識としては正しい。日本が大東亜戦争敗北の破局に至った道筋を最も簡単に言うとこうなるだろう。ただ気になるのは、それでは近代日本が進むべき道筋は他にあったろうかということである。代助の見通しには情がない。その分、客観的に正鵠を射たものになっているのではないか。
それはそうと、最初にもどって、どうして働かないのか。社会全体で、みんな余裕がなく、むきつけの生存競争をしている状態では、到底いい仕事はできないから、ということらしい。どうもまるで、説得力がない。
西洋の「一等国」には日本より余裕があるとすれば、二等以下の国から長年に渡って収奪してきたからだ、という事実は棚上げにされていることは棚上げにするとしても、「日本の社会が精神的、徳義的、身体的に、大体の上に於て健全なら、僕は依然として有為多望なのさ。さうなれば遣る事はいくらでもあるからね」なる言い草は、いい気なものだとしか見えないだろう。そんな「健全な社会」が、いつどこにあったというのか。
酒を飲んでしつこくなった平岡に対して、代助はさらにこんな例を出す。「常山紀談」にある話である。織田信長が上洛して、三好家を滅ぼした時、同家に仕えていた坪内某という料理人が捕えられた。京料理の名手としてよく知られた人物だったので、織田家で召し抱えるよう進言された信長は、料理を試してからにしようと言った。そこで坪内が朝食を作り、信長に出すと、「こんな水っぽいものは食えない。誅殺してしまえ」と怒った。坪内は今一度の機会を乞い、許されたので、翌朝も料理を出した。今度はひどくうまかった。信長は満足し、坪内には禄が与えられた。さて後に坪内が語るには、最初の料理こそ、名門三好家に供した第一等の料理であった。次の日に出したものは、野卑な田舎風の味付けにした。それがつまり、信長の好みに合ったのだ、と。
この話のキモは、織田信長は田舎者であったこと以外だと、状況に応じて、うまく立ち回って活路を開く機転の見事さにあるのだろう。しかし代助はそこを逆にする。この料理人は給金のために(元の話では命のために)、敢えて二流の仕事をした、それはつまり仕事と技芸を侮辱することである。金のために働くなら、必ずそういう羽目になるのだ、と。
だったら、代助のように金に困っていない人間こそ、「よい仕事」をすべきではないか。そう反論されて終わりである。【因みに、「よい仕事」をしたかどうかはともかく、かなりの年になるまで親の金で食わしてもらっていた純文学の大作家は、近代日本では珍しくない。志賀直哉は自分で公言しているから有名だし、永井荷風も、正宗白鳥も多分そう。この点、大学卒業後朝日新聞に入るまで教員として自活していた漱石のほうが、ずっと苦労人だと言える。】
要するに彼は自分を守りたいだけのようである。自分の何を? それもはっきりしないならば、結局、状況に流されるだけになってしまうだろう。このへん彼は、現代のニートを先取りしている、と言える。
「それから」一篇は、このような代助の、結婚問題を中心にして展開する。父は小説の開始以前から、ある縁談を勧めている。先方の家と縁戚になるのは、父の事業にとって有利になるからだが、先に言ったようなわけで、そのこと自体さほど嫌悪する必要はない。就職と違って結婚については、「代助は此二三年来、凡ての物に対して重きを置かない習慣になつた如く、結婚に対しても、あまり重きを置く必要を認めてゐない」(第七章)のだから、問題はないはずだ。代助自身が、なぜか、気が進まない以外には。
しかし面白いもので、「貴方【父】にそれ程御都合が好い事があるなら、もう一遍【結婚を】考へて見ませう」と言うと、父は機嫌を悪くする(第九章)。江戸時代の武家なら、政略結婚などはむしろ当たり前ではなかったかと思うのだが、それは現在の偏見というものなのだろうか。そうだとしてもここには、前回取り上げた「虞美人草」の謎の女の、取り繕いと同じものがある。自分の意志だけをしゃにむに押し通すように見えるのは、たとえその権利はあったとしても、できるだけ避けたい。西洋との関わり以前に、このような心性が、日本の文明の中で発達していたのである。
代助にもどると、彼は結婚のみならず、男女の愛そのものにさほどの重きを置いていなかった。「代助は渝(かは)らざる愛を、今の世に口にするものを偽善家の第一位に置いた」(第十一章)。その理由と言うのが、なんだか青臭いような、アホくさいようなものである。曰く、大自然に囲まれている田舎ならともかく、「都会は人間の展覧会に過ぎない」から、例えば男であれば女の様々な美しさに心を動かされないわけにはいかない、結婚していてもいなくても。そして、心は変わっても結婚という関係は変えないとするならば、それは精神的に不義(インフイデリチ)を働くのと同様である、云々。
現に結婚していた作者・漱石が、こんな理屈をまともに考えていたとは思えない。主眼は別のところにあるのだ。
上の第七章で、父との話の後で、そうまで結婚をいやがるのは、誰か好いた女があるのだろうと嫂に言われた時初めて、代助の心中に三千代の名が浮かぶ。また第十一章の妙な結婚観の後でも、彼女が思い出されて、これは今の考えとは別の因子(ファクター)なのではないかと疑う。
実際、ヒロイン・三千代の美しさは、決して強調されていない。初めて登場したときには、「色の白い割に髪の黒い、細面に眉毛(まみへ)の判然《はつきり》映る女である。一寸見ると何所となく淋しい感じの起る所が、古版の浮世絵に似てゐる」(第四章)と描写され、漱石はこういう女が好きだったのだな、とは推測される。そして第十六章に到って、やっと、「しとやかな、奥行のある、美くしい女」と言われる。後者は、代助による告白の後である。
その告白というのも、「僕の存在には貴方が必要だ。何(ど)うしても必要だ」なるもので、「代助の言葉には、普通の愛人の用ひる様な甘い文彩(あや)を含んでゐなかつた。彼の調子は其言葉と共に簡単で素朴であつた。寧ろ厳粛の域に逼つてゐた」とも注されている。
代助の三千代への思いは普通の恋愛ではない、少なくとも、女の色香に迷うというようなのとは次元が違うことを強調したいらしい。そこで働く原理は、「自然」と呼ばれる。告白前の代助の心境は以下のように描かれている。
「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云つた。斯《か》う云ひ得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故もつと早く帰る事が出来なかつたのかと思つた。始から何故自然に抵抗したのかと思つた。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出した。其生命の裏にも表にも、慾得はなかつた、利害はなかつた、自己を圧迫する道徳はなかつた。雲の様な自由と、水の如き自然とがあつた。さうして凡てが幸(ブリス)であつた。だから凡てが美しかつた。
代助は三千代の兄と親友で、三人は学生時代始終いっしょにいた。後にそこへ平岡が加わった。兄の死後、平岡から三千代への気持ちを打ち明けられた代助は、友だちのために泣き、彼と三千代との仲をとりもった。
三年経って平岡夫婦と再会してみると、彼等は幸せではなかった。平岡は勤め先をしくじり、彼らの間に生まれた子は早世した。三千代は健康を損ない、平岡の気性は荒れた。何より、彼らの間には愛情が感じられなかった。それは最初からそうだったのか、三年の間にそうなったのか、わからない。それを代助は、「三年経過するうちに自然は自然に特有な結果を、彼等二人(ににん)の前に突き付けた」(第九章)と、自分も憎からず思っていた三千代を平岡に譲った、その不自然さこそ根本の理由であるとした。
これ、説得力ありますか?
「それから」が近代日本の恋愛小説中屈指の名作であるのは、第十四章以下の、人妻との愛の描写の、清冽な緊張感にある。肉欲の要素はまるでない。と言えば綺麗事に聞こえるが、読んでいるときには少しも気にならない。
それというのも、ヒロインの態度が非常に見事だからだ。捨てられたのだと思っていた男から告白された喜びに輝き、先のことなど思い煩わない一途さ。「此間から私は、若もの事があれば、死ぬ積で覚悟を極めてゐるんですもの」、何も怖がる必要はない。これは確かに美しい。付け焼刃ではない迫真性をもってこういう女性の姿が描けた漱石の力量は誉むべきと思う。
が、男の方は、なあ。
恋愛小説としての完成度を期すとしたら、当初、代助はなぜ三千代を平岡と結婚させたのか、回想形式でもよいから、具体的に描くべきだったろう。友人のために犠牲になるヒロイズムに酔ったのか、女への愛着などに大した意味を認めないニヒリズムのせいだったのか。そのへんが曖昧なので、彼が口にする「自然」とは何か、どうも素直に胸に落ちて来ない。これはやっぱり、欠陥と言うべきであろう。
作品中の道徳問題を取り上げて、これを「自然」の命じるように生きて、結果社会に圧迫される運命に陥る個人を描いたもの、とした人に武者小路實篤がいる。彼の「『それから』に就て」は、『白樺』創刊号(明治43年4月)の巻頭に掲げられているのだから、これは白樺派のマニュフェストともみなし得る。
曰く、「自然に従ふものは社会から外面的に迫害され、社会に従ふものは自然から内面的に迫害される」、この悲劇こそ、「それから」一篇の眼目である、と。
愛し合う男女が、他者(社会)の都合・思惑によって引き裂かれようとする、このプロットは、「ロミオとジュリエット」以来の、恋愛物語の王道であろう。この場合、男女は必ず美しく正しく、社会は必ず醜く間違っている。我々は観客・読者としてこのような物語に接するとき、そう思い込むようにあらかじめ要請されている。それが承認されなければ、恋愛物語は最初から成り立ちようがない。そしてこの要請のさらに底には、人間の内面はあり、それは尊重されなければならない、という思想が、一応見出される。
私はこのような個人尊重の思想こそ最も重要だ、と信じる者だ。しかし、「恋愛は神聖」(と、「吾輩は猫である」の登場人物越智東風は言う)などという言葉には、ほぼ必ずセンチメンタリズムが伴い、すると、贋物性も伴いやすい気もする。つまり、「恋とは麻疹のようなもの」という言葉にも、(自分の経験に照らしても)一面の真実を認めざるを得ない以上は、恋愛の神聖視をもって「個人の価値」が打ち立てられた、などと素朴に信じることはできない。そこで漱石も、代助と三千代の愛から、浮わついた、世俗的なところはできるだけなくすように努力したのだろう。
それにまた、すべての恋愛が社会によって引き裂かれるものでもない。代助の場合三千代と平岡との結婚を勧めたりせず、さっさと自分が貰うか、約束だけでもすれば、最悪の事態は防げたのである。あまりに遅く「自然」の情に生きることに決めたので、何も恐れない三千代にまで、平岡への罪悪感だけは抱かせる結果になった。この点だけでも、「それから」は、社会と自然との根本的な対立を扱った作品と言うにしては、少し物足りないところがあると思う。
武者小路自身は、大正8年の小説「友情」で、女への愛と男への友情の葛藤を描いた。そのヒロインに、「友への義理より、自然への義理の方がいゝことは「それから」の代助も云つてゐるではありませんか」と言わせている(こんな言葉は実際は、「それから」中にない)。で、結局のところ、友が女を愛していることを知っていたので、ためらっていた男は、女からの求愛を受け入れる。そうしても彼らは、社会からなんの制裁も受けない。おめでたい話ではあるが、社会と自然の対立という大テーマは? 消えてしまっている。
この人には、これを自らのテーマとして展開するだけの、作家的な必然性はなかったのだろう。同じ白樺派の、有島武郎「或る女」は、これに近いところで、相当な達成を示した傑作であるが、取り組むのは後の課題としよう。
「『それから』に就いて」には、以下のような箇所もある。
自分は漱石氏は何時までも今のまゝに、社会に対して絶望的な考を持つてゐられるか、或は社会と人間の自然性の間にある調和を見出されるかを見たいと思ふ。自分は後者になられるだらうと思つてゐる。さうしてその時は自然を社会に調和させやうとされず、社会を自然に調和させやうとされるだらうと思ふ。さうしてその時漱石氏は真の国民の教育者となられると思ふ。
幸か不幸か、漱石は教育者でも宗教者でもなく、文学者だった。彼は個人と社会との調和を見出そうとするより多く、見出しがたい根本の事情に光を当てようと試みた。それを社会に対する絶望と呼ぶ必要はない。人も社会も決して完全にはなれない。この根本的な事情を抱えながら、悩み苦しみつつ日々を送るのが、いつも変わらぬ人の姿であり、それこそ文学が扱うべきものだからである。
この後の、「門」の主人公は、代助のような厭味はないが、同じく人の妻を奪って結婚し、罪の意識に苦しんで宗教(禅)に救いを求め、結局得られない。「こゝろ」では、「それから」とは真逆に、最初から友情より女への愛を選んだ主人公が、それは「自然」なことだったかどうかは問わぬままに、また社会的に非難されるようなことは全くないにも拘わらず、自分だけ一個の罪を感じて、自裁する。どの方向へ行こうが、デッドロックに乗り上げてしまう。残念ながら、その必然性が作品から充分に感得されないので、漱石作品は近代人の悲劇として傑作だとは手放しで褒められないのだが、一番深いところでそれを追求した栄誉は、やはり彼のものであろう。