メインテlキスト:小林秀雄「私小説論」(昭和10年初出、新潮社昭和43年『小林秀雄全集 第三巻』より引用)
近代日本の「私」の問題を考える、まして文学上で、というなら、この著名な評論に触れないわけにもいかないかな、という気分だけは以前からあった。私は個人的に、かつて凡庸な文学少年として、小林秀雄ファンでもあったのだし。
それでも、これを解釈もしくは解説する、なんて能力はない。ふと気が向いた、というだけの理由で、いつものように、「私小説論」にことよせて、勝手なことを言わせていただく。妄言もあまり度が過ぎていると思われたら、読者諸賢のご叱正をお願いします。
まず登場するのはジャン・ジャック・ルソー「コンフェッシオン(告白、あるいは懺悔録、とも訳された)」。その冒頭の、たいそう突っ張った宣言が引用されている。孫引きすると、
私は、嘗て例もなかつたし、将来真似手もあるまいと思はれることを企図するのである。一人の人間を、全く本然の真理に於いて、人々に示したい。その人間とは、私である。
たゞ私だけだ、私は自分の心を感じ、人々を知つて來た。私の人となりは私の會つた人々の誰とも似てゐない、いや世のあらゆる人々と異つてゐると敢へて信じようと思ふ。偉くないとしても、少なくとも違つてゐる。自然の手で私が叩き込まれた型を、自然は毀す方が善かつたか惡かつたか、それは私の本を讀んでから判定すべき事だ。
近代文学はここから始まる、と小林は言う。「自分」を提示する、偉大ではないが、独自ではある自分を。なんのために? 「人間」を考えるためのサンプルとして。なるほど、こんなことを考えついた人は以前にはいなかったようだ。後の世の「真似手」なら、「文学者」と呼ばれる者のうちから、何人か現れたようではあるが。
単に経歴からみても、ルソーのような人間はめったにいるものではない。しかし、「他人とは違う」のは、みんなそうである。人間は、個々人に固有名が与えられているところから考えて、いつでもそうだったのだろうし、誰もがそれを知っていたのだろう。独自なのは、その「違う」事実こそ、「自分」を表現し伝達する根拠になる、としたところだ。
それはそうとして、小林はここで、ある重要なことを故意にか偶然にか言い落としている、ように私には思える。「私が叩き込まれた型」とは、たぶん、普通周囲から「ジャン・ジャック・ルソーと呼ばれる男」つまり「私(ルソー)」のことだろうが、一方「私」はそこへ「叩き込まれた」、つまり型取りされた、と言うのである。それをしたのは「自然」である、と。
「自然」natureはルソーにとって最も重要なキーワードの一つだが、日本語の自然とは違うのはもちろん、西洋でもあまり類例のない使われ方がされているようだ。「造物主」即ち「神」というのに近いだろう。それでいて、後の言葉は使わないところにルソーのこだわりがあった。簡単に言ってしまえば、彼は究極の絶対者に人格(的なもの)を認めたくなかったのである。
しかし、我々日本人が素朴にこの言葉を味わうと、それこそ自然に、「神的な存在」を見つめる熾烈な眼差しが感じられてくるだろう。ルソーは本当は、読者の判定なんて曖昧なものは求めていない。自分のような男がいてよかったのか悪かったのか、究極の判定者が、人間世界にいるはずはない。どこかの彼岸にいるとすれば、出てきて、自分を裁いてもらいたい。人を本当に裁ける者だけが、人を本当に許せるだろうから。
そう考えれば、この試みは手の込んだ「告懈」なのだとわかる、というのも間の抜けた話で、題名のLes Confessionsはもともとその意味だった。ルソーは神の名は出さないぐらいだから、神父に懺悔をするつもりはなく、言葉を印刷して、社会に投げ出した。読む値打ちはあるはずだ。なぜなら、真に人間的なものは、「自分とは何か」と可能な限り真摯に問いかけること自体の中にあるはずだから。この確信から、近代文学は出発したのである。
もう一つ重要なことがある。それは、究極の価値をこの人間世界の外部に設定するなら、人間世界内部のすべてが相対的な価値しかないことになることだ。「自分」など、本当にはあるかないかわからないほどちっぽけなものだが、社会も国家も、詮ずるところ、そんなに巨大で確固不動なものだと考えるには及ばない。絶対者の目からすれば、五十歩百歩に過ぎないはずだから。
実際にルソーは、男女の性差など、「自然」によって作られたものは変えようがない、その意味では絶対のものだが、社会は、人間が作ったのだから、人間の手で変えることは可能だと考えていた。これこそ、文学を超えてルソー(だけではないが)が後世に絶大な影響をもたらした思想のモメントであろう。
話を文学に戻すと、このモメントは、「人間とは社会の因子である」とする観点を与えた。社会がなければ、普通の意味の人間はいない。その人間がまた、個々人の力は些少であっても、寄り集まって現にこの社会を動かす。この相互作用のダイナミズムにおいて「人間」を描くことが、リアリズム文学と呼ばれるものの要諦である。これによって、以後の文芸の首座は小説が占めることになった。
もっと見逃し得ないのは、そこでの創作意欲には、政治上の革命運動と同様、現にある社会を、即ち現にある自己を、観念のレベルであっても、超越しようとする意志が根底にあることだ。社会を描くことそれ自体に、その社会との対立葛藤の要素が含まれているのである。
要約すると、①絶対的なあるものに向けて「自分とは何か」と問いかける自己、②社会の因子たることを意識し、多少とも社会改革=自己改革を志向する自己。この両方とも、日本の旧来の思潮の中には存在しなかった。
小林秀雄からずいぶん離れてしまったようだが、以上で「(前略)彼(ルソー)を驅り立てたものは、社會に於ける個人といふものの持つ意味であり、引いては自然に於ける人間の位置に關する熱烈な思想である」の部分を自分なりに敷衍したつもりでいる。これだけのことを頭に入れておかないと、私には「私小説論」に近づくこともできない。
さて小林は、時代は移っても作家たちの頭には「個人と自然や社會との確然たる對決」は残った、と言う。もちろん西洋では、である。19世紀になると、個人側の最も有力な武器になると考えられたのは実証科学だった。宗教を代表とする迷信から人間を解放し、より「真実」を見つけやすい目を用意してくれると信じられたからだろう。
その進展に伴って、文学はリアリズムから自然主義(ナチュラリズム)へと進化した。虚飾を可能な限り取り去った人間の真の姿を提出するのだということで、一番単純な話、小説はどんどん露悪的になっていった。フロベール「ボヴァリー夫人」(1856年)が、不倫をする人妻を同情的に描いているからと、風俗紊乱の廉で告発されたのは、今から見ると冗談のような話であろう(無罪になったが)。不倫の挙句に夫を殺してしまう人妻を描いたゾラ「テレーズ・ラカン」は1867年の発表だから、10年ちょっとしか経っていない。社会の変化は、文学者の頭の中より早かったかも知れない。
実際、周知のように、19世紀ヨーロッパ社会の変化は激しかった。階級や宗教はどんどん力を失って後景に退いていった。そのことに文学も少しは力を貸したであろう。しかし主力はなんといっても資本主義の進展で、ここで金銭という、人間の世俗的な欲望と直結したイコンが社会の隅々まで蔽いつくしていった。
文学者は武器をまちがえたのかも知れない。実証主義・科学的合理主義がもたらしたものは人間の解放ではない。一見合理的に見える(現実にモノがすぐに手に入るという意味で)尺度ですべての社会的な価値を統一した結果、個人が拠って立つ基盤はどんどん狭まっていった。「すべての国民は、個人として尊重される」(日本国憲法第十三条)などと言われても、それは法律上の権利義務の話(例えば、法律の許す範囲でいくら金を儲けても公の機関は文句を言わないよ、ということ)であって、「個人の内面」なんぞ、流通に乗らず、市場価格はゼロなのだから、無視され勝ちになる。
20世紀前半のフランス文学が個人、の中でも具体的な「私」、の内面を描くようになったのはそのための、言わば対抗措置であって、小林が言うような「自然主義文学の爛熟」のせいではないと思う。もっとも、私には「爛熟」が何を指すのかわかっていないのだが。それもさておき、上のような事態を考えれば、いくら自分のことばかり書こうと、文学は依然として対立葛藤の対象としての社会を大きな要素として成立していることになる。
彼等【バレス、ジッド、プルースト、等】が各自遂にいかなる頂に達したとしても、その創作の動因には、同じ憧憬、つまり十九世紀自然主義思想の重圧の爲に形式化した人間性を再建しようとする焦燥があつた。彼らがこの仕事の爲に、「私」を研究して誤らなかつたのは、彼等の「私」がその時既に充分に社會化した「私」であつたからである。
この評論文中最も有名な「社会化された私」、とは、上で私が述べたようなものであるとして、考えねばならぬのは、「近代日本文学ではなぜそれがないのか?」、言い換えると「日本の『私』はなぜ『社会化』されないのか」であった。
小林の答えはけっこう簡単である。
自然主義文學は輸入されたが、この文學の背景たる實證主義思想を育てるためには、わが國の近代市民社會は狭隘であつたのみならず、要らない古い肥料が多すぎたのである。
「古い肥料」とは、このすぐ後にあるように日本文学の伝統を指す。それは社会の一部であるがゆえに社会との軋轢をどこかで意識せざるを得ない「私」などなしで、文学を綴る営みであった。我が国近代文学者の多くは、その営みとは切れたところで創作活動を始めようとしたのだが、西欧文学の根本が実感的に理解できない以上は、旧来の行き方を残すしかなかった。これは卵―鶏関係の一例で、逆にも言える。古い革袋(日本の文学的感性及び形式)に新しい酒(西洋文芸思想)を盛ることはできなかったのである。
しかし明治から大正昭和にかけて、特にロシア文学とフランス文学はもてはやされ、日本の作家に大きな影響をもたらしたはずだった。だいたい、「自然主義」とはnaturalismの訳語であったのだし。彼らはそこで、具体的に何を学んだのか。小林によると、純粋な技法として外国文学は受容されたのである。
例えば田山花袋はモーパッサンから「獣のごとく地を這ふことを屑(いさぎよ)しとせん、徒らに天上の星を望むものたらんよりは」という教えを受けたと書いている(「東京の三十年」)。が、モーパッサンは好んでこのような境地に達したわけではない。19世紀ブルジョワ社会には「私」を容れる余地はない、と観念したうえで、逆に皮相なブルジョワ道徳の下に潜む人間の真相を物語形式で描破するところに、「私」が生きる道を発見しようとした。彼は職業作家であって、そういう小説を商品として売ることで現に生活を営んだ、というのは見逃し得ない事実ではあるが、それをも含めて、モーパッサンの創作とは社会に対する一種の復讐だった。
花袋はそうまでして活路を見出すべき「私」を、そもそも感じてはいなかった。彼が感激したのは、普通人の普通の生活を描いても小説=文学になる、ということをモーパッサンが明瞭に示したと思えるところだろう。最初の長編「女の一生」(原題はUne vieで、ただの「一生」)が典型だが、ゾラなどと比較しても刺激的な要素は乏しく、淡々としている。それでいて、こちらは英文学だが、オースティン「高慢と偏見」のように、題名にもなっている「本当の道徳は何か」なんぞという問いかけもない。日常的な人間関係と心理だけを、「人生は良くも悪くもない」とただ提出する、これでいこう! ということで日本の自然主義文学の、方向が定まったのである。
これによって「私」の問題も棚上げにできる、と結果的に判断したことになった。ここにモーパッサンや田山花袋ら、個々人の資質を超えた問題がある。つまり、社会と不可避的に対立する「私」など現に感じず、それを淵源とした文学の伝統もない場所で創作をすれば、表面を似せれば似せるほど、「近代文学」とは違ったものにならざるを得なかった、という。
だいぶ先のほうで(『経済往来』誌に連載された、最後の四回目分で)小林は「私の封建的殘滓と社會の封建的殘滓との微妙な一致の上に私小説は爛熟して行つた」と言っている。「爛熟」とは何か、またしてもピンとこないのだが、なるほど、一致はしているのだろうな、と思える。
「自然主義文学は、明治期にも残されていた封建制との闘い」だと言った人がいたような気がするが、本当にそう思っているなら、具体的にはどんな「闘い」があったのか、ご教示願いたい。封建的残滓の最たるものと言われる、家父長制下の家を正面から取り上げた、島崎藤村「家」にしても花袋「生」にしても、それらしき片言はあっても、「個人の解放」のために本気で戦おうなんて意欲を感じることはできない。一方、以前「蒲団」について言ったように、「女子も立たねばならぬ、意志の力を充分に養はねばならぬことはかれの持論である」が、「この新派のハイカラの実行を見ては流石(さすが)に眉を顰めずには居られなかつた」程度の新しがりが、この時代の日本の文学者だったのだ。
「言ってることとやってることが違う」こと自体を、糾弾したわけではない。そんなものは、いつでもどこでも、違うのが当り前なのだろう。しかし、「当り前だ」で能事足れりとする「私」では、社会と相渉ることは永遠にできない。つまり、「私」は決して社会化されることはない。
これも以前に言ったように、「蒲団」は、いつまでも幻想の中に止まろうとするドン・キホーテ型の、アンチヒーローを描いた近代小説になり得る作品だった。それを明確にするなら、ここの「私」は諷刺されたことになり、その否定的な契機から、新たな段階への可能性が僅かなりとも示し得たかも知れない。が、実際はこの作品は中年男の侘しさを前面に押し出したものになっている。そういうのがつまり文学だ、と花袋は思っていたようだし、その感覚は、それから一世紀近く経った我々現代日本人にも無縁ではない。
またまた大雑把に言ってしまうと、我々日本人は、「私」を社会の因子と言うより自然の因子として観る心性を、文学的なものとして長年養ってきたのだろう。つまり、外界を変えることなどない自己である。心は、天候や季節や、人事の移り変わりに応じて、様々に色づく、それに和歌などの形を与えて記録するのが、つまり文学であった。そういう分野では、日本は世界に冠たる作品を産み出してきたであろう。また、小林秀雄も、大東亜戦争直前からこっち、こちらに軸足を置いた仕事をしたおかげで、文学の神様と呼ばれるまでになったと思しい。
ただしかし、表面的であっても、「社会化された私」が輸入された影響はそんなに小さくなかったはずだ。もう少し「私小説論」を読む必要がある。
近代日本の「私」の問題を考える、まして文学上で、というなら、この著名な評論に触れないわけにもいかないかな、という気分だけは以前からあった。私は個人的に、かつて凡庸な文学少年として、小林秀雄ファンでもあったのだし。
それでも、これを解釈もしくは解説する、なんて能力はない。ふと気が向いた、というだけの理由で、いつものように、「私小説論」にことよせて、勝手なことを言わせていただく。妄言もあまり度が過ぎていると思われたら、読者諸賢のご叱正をお願いします。
まず登場するのはジャン・ジャック・ルソー「コンフェッシオン(告白、あるいは懺悔録、とも訳された)」。その冒頭の、たいそう突っ張った宣言が引用されている。孫引きすると、
私は、嘗て例もなかつたし、将来真似手もあるまいと思はれることを企図するのである。一人の人間を、全く本然の真理に於いて、人々に示したい。その人間とは、私である。
たゞ私だけだ、私は自分の心を感じ、人々を知つて來た。私の人となりは私の會つた人々の誰とも似てゐない、いや世のあらゆる人々と異つてゐると敢へて信じようと思ふ。偉くないとしても、少なくとも違つてゐる。自然の手で私が叩き込まれた型を、自然は毀す方が善かつたか惡かつたか、それは私の本を讀んでから判定すべき事だ。
近代文学はここから始まる、と小林は言う。「自分」を提示する、偉大ではないが、独自ではある自分を。なんのために? 「人間」を考えるためのサンプルとして。なるほど、こんなことを考えついた人は以前にはいなかったようだ。後の世の「真似手」なら、「文学者」と呼ばれる者のうちから、何人か現れたようではあるが。
単に経歴からみても、ルソーのような人間はめったにいるものではない。しかし、「他人とは違う」のは、みんなそうである。人間は、個々人に固有名が与えられているところから考えて、いつでもそうだったのだろうし、誰もがそれを知っていたのだろう。独自なのは、その「違う」事実こそ、「自分」を表現し伝達する根拠になる、としたところだ。
それはそうとして、小林はここで、ある重要なことを故意にか偶然にか言い落としている、ように私には思える。「私が叩き込まれた型」とは、たぶん、普通周囲から「ジャン・ジャック・ルソーと呼ばれる男」つまり「私(ルソー)」のことだろうが、一方「私」はそこへ「叩き込まれた」、つまり型取りされた、と言うのである。それをしたのは「自然」である、と。
「自然」natureはルソーにとって最も重要なキーワードの一つだが、日本語の自然とは違うのはもちろん、西洋でもあまり類例のない使われ方がされているようだ。「造物主」即ち「神」というのに近いだろう。それでいて、後の言葉は使わないところにルソーのこだわりがあった。簡単に言ってしまえば、彼は究極の絶対者に人格(的なもの)を認めたくなかったのである。
しかし、我々日本人が素朴にこの言葉を味わうと、それこそ自然に、「神的な存在」を見つめる熾烈な眼差しが感じられてくるだろう。ルソーは本当は、読者の判定なんて曖昧なものは求めていない。自分のような男がいてよかったのか悪かったのか、究極の判定者が、人間世界にいるはずはない。どこかの彼岸にいるとすれば、出てきて、自分を裁いてもらいたい。人を本当に裁ける者だけが、人を本当に許せるだろうから。
そう考えれば、この試みは手の込んだ「告懈」なのだとわかる、というのも間の抜けた話で、題名のLes Confessionsはもともとその意味だった。ルソーは神の名は出さないぐらいだから、神父に懺悔をするつもりはなく、言葉を印刷して、社会に投げ出した。読む値打ちはあるはずだ。なぜなら、真に人間的なものは、「自分とは何か」と可能な限り真摯に問いかけること自体の中にあるはずだから。この確信から、近代文学は出発したのである。
もう一つ重要なことがある。それは、究極の価値をこの人間世界の外部に設定するなら、人間世界内部のすべてが相対的な価値しかないことになることだ。「自分」など、本当にはあるかないかわからないほどちっぽけなものだが、社会も国家も、詮ずるところ、そんなに巨大で確固不動なものだと考えるには及ばない。絶対者の目からすれば、五十歩百歩に過ぎないはずだから。
実際にルソーは、男女の性差など、「自然」によって作られたものは変えようがない、その意味では絶対のものだが、社会は、人間が作ったのだから、人間の手で変えることは可能だと考えていた。これこそ、文学を超えてルソー(だけではないが)が後世に絶大な影響をもたらした思想のモメントであろう。
話を文学に戻すと、このモメントは、「人間とは社会の因子である」とする観点を与えた。社会がなければ、普通の意味の人間はいない。その人間がまた、個々人の力は些少であっても、寄り集まって現にこの社会を動かす。この相互作用のダイナミズムにおいて「人間」を描くことが、リアリズム文学と呼ばれるものの要諦である。これによって、以後の文芸の首座は小説が占めることになった。
もっと見逃し得ないのは、そこでの創作意欲には、政治上の革命運動と同様、現にある社会を、即ち現にある自己を、観念のレベルであっても、超越しようとする意志が根底にあることだ。社会を描くことそれ自体に、その社会との対立葛藤の要素が含まれているのである。
要約すると、①絶対的なあるものに向けて「自分とは何か」と問いかける自己、②社会の因子たることを意識し、多少とも社会改革=自己改革を志向する自己。この両方とも、日本の旧来の思潮の中には存在しなかった。
小林秀雄からずいぶん離れてしまったようだが、以上で「(前略)彼(ルソー)を驅り立てたものは、社會に於ける個人といふものの持つ意味であり、引いては自然に於ける人間の位置に關する熱烈な思想である」の部分を自分なりに敷衍したつもりでいる。これだけのことを頭に入れておかないと、私には「私小説論」に近づくこともできない。
さて小林は、時代は移っても作家たちの頭には「個人と自然や社會との確然たる對決」は残った、と言う。もちろん西洋では、である。19世紀になると、個人側の最も有力な武器になると考えられたのは実証科学だった。宗教を代表とする迷信から人間を解放し、より「真実」を見つけやすい目を用意してくれると信じられたからだろう。
その進展に伴って、文学はリアリズムから自然主義(ナチュラリズム)へと進化した。虚飾を可能な限り取り去った人間の真の姿を提出するのだということで、一番単純な話、小説はどんどん露悪的になっていった。フロベール「ボヴァリー夫人」(1856年)が、不倫をする人妻を同情的に描いているからと、風俗紊乱の廉で告発されたのは、今から見ると冗談のような話であろう(無罪になったが)。不倫の挙句に夫を殺してしまう人妻を描いたゾラ「テレーズ・ラカン」は1867年の発表だから、10年ちょっとしか経っていない。社会の変化は、文学者の頭の中より早かったかも知れない。
実際、周知のように、19世紀ヨーロッパ社会の変化は激しかった。階級や宗教はどんどん力を失って後景に退いていった。そのことに文学も少しは力を貸したであろう。しかし主力はなんといっても資本主義の進展で、ここで金銭という、人間の世俗的な欲望と直結したイコンが社会の隅々まで蔽いつくしていった。
文学者は武器をまちがえたのかも知れない。実証主義・科学的合理主義がもたらしたものは人間の解放ではない。一見合理的に見える(現実にモノがすぐに手に入るという意味で)尺度ですべての社会的な価値を統一した結果、個人が拠って立つ基盤はどんどん狭まっていった。「すべての国民は、個人として尊重される」(日本国憲法第十三条)などと言われても、それは法律上の権利義務の話(例えば、法律の許す範囲でいくら金を儲けても公の機関は文句を言わないよ、ということ)であって、「個人の内面」なんぞ、流通に乗らず、市場価格はゼロなのだから、無視され勝ちになる。
20世紀前半のフランス文学が個人、の中でも具体的な「私」、の内面を描くようになったのはそのための、言わば対抗措置であって、小林が言うような「自然主義文学の爛熟」のせいではないと思う。もっとも、私には「爛熟」が何を指すのかわかっていないのだが。それもさておき、上のような事態を考えれば、いくら自分のことばかり書こうと、文学は依然として対立葛藤の対象としての社会を大きな要素として成立していることになる。
彼等【バレス、ジッド、プルースト、等】が各自遂にいかなる頂に達したとしても、その創作の動因には、同じ憧憬、つまり十九世紀自然主義思想の重圧の爲に形式化した人間性を再建しようとする焦燥があつた。彼らがこの仕事の爲に、「私」を研究して誤らなかつたのは、彼等の「私」がその時既に充分に社會化した「私」であつたからである。
この評論文中最も有名な「社会化された私」、とは、上で私が述べたようなものであるとして、考えねばならぬのは、「近代日本文学ではなぜそれがないのか?」、言い換えると「日本の『私』はなぜ『社会化』されないのか」であった。
小林の答えはけっこう簡単である。
自然主義文學は輸入されたが、この文學の背景たる實證主義思想を育てるためには、わが國の近代市民社會は狭隘であつたのみならず、要らない古い肥料が多すぎたのである。
「古い肥料」とは、このすぐ後にあるように日本文学の伝統を指す。それは社会の一部であるがゆえに社会との軋轢をどこかで意識せざるを得ない「私」などなしで、文学を綴る営みであった。我が国近代文学者の多くは、その営みとは切れたところで創作活動を始めようとしたのだが、西欧文学の根本が実感的に理解できない以上は、旧来の行き方を残すしかなかった。これは卵―鶏関係の一例で、逆にも言える。古い革袋(日本の文学的感性及び形式)に新しい酒(西洋文芸思想)を盛ることはできなかったのである。
しかし明治から大正昭和にかけて、特にロシア文学とフランス文学はもてはやされ、日本の作家に大きな影響をもたらしたはずだった。だいたい、「自然主義」とはnaturalismの訳語であったのだし。彼らはそこで、具体的に何を学んだのか。小林によると、純粋な技法として外国文学は受容されたのである。
例えば田山花袋はモーパッサンから「獣のごとく地を這ふことを屑(いさぎよ)しとせん、徒らに天上の星を望むものたらんよりは」という教えを受けたと書いている(「東京の三十年」)。が、モーパッサンは好んでこのような境地に達したわけではない。19世紀ブルジョワ社会には「私」を容れる余地はない、と観念したうえで、逆に皮相なブルジョワ道徳の下に潜む人間の真相を物語形式で描破するところに、「私」が生きる道を発見しようとした。彼は職業作家であって、そういう小説を商品として売ることで現に生活を営んだ、というのは見逃し得ない事実ではあるが、それをも含めて、モーパッサンの創作とは社会に対する一種の復讐だった。
花袋はそうまでして活路を見出すべき「私」を、そもそも感じてはいなかった。彼が感激したのは、普通人の普通の生活を描いても小説=文学になる、ということをモーパッサンが明瞭に示したと思えるところだろう。最初の長編「女の一生」(原題はUne vieで、ただの「一生」)が典型だが、ゾラなどと比較しても刺激的な要素は乏しく、淡々としている。それでいて、こちらは英文学だが、オースティン「高慢と偏見」のように、題名にもなっている「本当の道徳は何か」なんぞという問いかけもない。日常的な人間関係と心理だけを、「人生は良くも悪くもない」とただ提出する、これでいこう! ということで日本の自然主義文学の、方向が定まったのである。
これによって「私」の問題も棚上げにできる、と結果的に判断したことになった。ここにモーパッサンや田山花袋ら、個々人の資質を超えた問題がある。つまり、社会と不可避的に対立する「私」など現に感じず、それを淵源とした文学の伝統もない場所で創作をすれば、表面を似せれば似せるほど、「近代文学」とは違ったものにならざるを得なかった、という。
だいぶ先のほうで(『経済往来』誌に連載された、最後の四回目分で)小林は「私の封建的殘滓と社會の封建的殘滓との微妙な一致の上に私小説は爛熟して行つた」と言っている。「爛熟」とは何か、またしてもピンとこないのだが、なるほど、一致はしているのだろうな、と思える。
「自然主義文学は、明治期にも残されていた封建制との闘い」だと言った人がいたような気がするが、本当にそう思っているなら、具体的にはどんな「闘い」があったのか、ご教示願いたい。封建的残滓の最たるものと言われる、家父長制下の家を正面から取り上げた、島崎藤村「家」にしても花袋「生」にしても、それらしき片言はあっても、「個人の解放」のために本気で戦おうなんて意欲を感じることはできない。一方、以前「蒲団」について言ったように、「女子も立たねばならぬ、意志の力を充分に養はねばならぬことはかれの持論である」が、「この新派のハイカラの実行を見ては流石(さすが)に眉を顰めずには居られなかつた」程度の新しがりが、この時代の日本の文学者だったのだ。
「言ってることとやってることが違う」こと自体を、糾弾したわけではない。そんなものは、いつでもどこでも、違うのが当り前なのだろう。しかし、「当り前だ」で能事足れりとする「私」では、社会と相渉ることは永遠にできない。つまり、「私」は決して社会化されることはない。
これも以前に言ったように、「蒲団」は、いつまでも幻想の中に止まろうとするドン・キホーテ型の、アンチヒーローを描いた近代小説になり得る作品だった。それを明確にするなら、ここの「私」は諷刺されたことになり、その否定的な契機から、新たな段階への可能性が僅かなりとも示し得たかも知れない。が、実際はこの作品は中年男の侘しさを前面に押し出したものになっている。そういうのがつまり文学だ、と花袋は思っていたようだし、その感覚は、それから一世紀近く経った我々現代日本人にも無縁ではない。
またまた大雑把に言ってしまうと、我々日本人は、「私」を社会の因子と言うより自然の因子として観る心性を、文学的なものとして長年養ってきたのだろう。つまり、外界を変えることなどない自己である。心は、天候や季節や、人事の移り変わりに応じて、様々に色づく、それに和歌などの形を与えて記録するのが、つまり文学であった。そういう分野では、日本は世界に冠たる作品を産み出してきたであろう。また、小林秀雄も、大東亜戦争直前からこっち、こちらに軸足を置いた仕事をしたおかげで、文学の神様と呼ばれるまでになったと思しい。
ただしかし、表面的であっても、「社会化された私」が輸入された影響はそんなに小さくなかったはずだ。もう少し「私小説論」を読む必要がある。
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