由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

物語作者としての宮澤賢治 上(風の又三郎)

2024年03月22日 | 文学


メインテキスト:宮澤賢治「風の又三郎」
        同「風野又三郎」
        同「ざしき童子のはなし」
サブテキスト:天沢退二郎『謎解き・風の又三郎』(丸善ライブラリー平成3年)

 別役実さんは、宮澤賢治関連だと、NHK少年ドラマシリーズ「風の又三郎」(昭和51年、上図の引用元)や杉井ギサブロー監督のアニメ映画「銀河鉄道の夜」(昭和60年)のシナリオを手がけています。その彼が、短いエッセイの中で、あるとき「宮澤賢治ってハイカラなんだよね」とふと知人に洩らした話しを書いています。知人からは、怪訝な顔で、「だけど、それだけじゃないよ」と返された、と。そりゃあそうで、そんなことが言いたいわけではないよ、でも、じゃあ、何? というのは言い難い、というところで終わっています(『イーハトーボゆき軽便鉄道』記憶で引用)。

 私もこれは気にかかります。賢治自身は岩手を離れたことはほとんどないのに、明確にこの地を舞台にした童話はほとんどない。それどころか、日本でもない場合が多い。例えばジョバンニとかカンパネルラとかは、イタリア人名です。が、では「銀河鉄道の夜」の舞台はイタリアなのかといえば、どうもそうではない。ケンタウルス祭なんてお祭りは、実際にはどこにもない。
 賢治は、外国かぶれなんてものではないのはもちろんですが、身近な生活感覚を直接描くことは、いくつかの例外を除いて、あまり喜ばなかったようだ。「頭の中でこしらえた観念なんて、しょせんはニセモノだ」なんて信仰が強かった日本では、これ自体が珍しい。

 では、賢治の頭の中にあった場所は? 地名としては、何語ともわからない「イーハトーブ」(あるいはイーハトーボ、イーハトヴ)が有名です。その正体は、『イーハトヴ童話集 注文の多い料理店』(大正13年出版)の広告文の中で「実にこれは著者の心象中にこの様な状景(アリスの辿った鏡の国など)をもつて実在したドリームランドとしての日本岩手県である」と彼自身が打ち明けています。実在の岩手が基だが、そこを詩人の精神で転換した心象(イメージ)、しかし〈心象としては実在する〉世界なのだ、と。
 では、ジョバンニたちがいるのはイーハトーブか。銀河鉄道の旅だけならそう言えても、そこへ行くまでの学校やお店や川がある街は、どうも少し違うように感じます。このへん賢治の世界はあまりにも多様で多元的だ、と凡人の私には平凡そのもののことしか言えないのですが、その入口の一つかな、と思えるところを軽く述べてみます。

 例えば、民話という、ある地域の人々の集合無意識というか、むしろ意識上のかな、のイメージに対しても、このような転換は働くようなのです。

 「ざしき童子のはなし」は、賢治の生前に活字になった数少ない童話の一つ(尾形亀之助主催の雑誌『月曜』大正15年2月号に発表。童子はここでは「ぼっこ」と呼ばれます)で、岩手県に伝わる、しかしたぶん賢治のおかげもあって今や全国的に有名になった、童形の妖怪だか神だかのエピソードを四つ並べたものです。ごく短い作品ですが、不気味だったり悲しかったりユーモラスだったりと、賢治童話の様々なテイストを、端的に味わうことができます。

 因みに、賢治の故郷の花巻、現在の花巻市から山を一つ越すと遠野市になります。ここ出身の佐々木喜善(号は鏡石)が、故郷の民話を柳田國男に語ったものを柳田が文章にまとめた『遠野物語』(明治43年)は、現在民俗学の最初期の古典として知られています。この中にも座敷童子(あるいは、座敷童衆)の話は出てきますが、内容はほぼ同じ話でも、軽妙な語り口は賢治独自のものです。
 いや、軽妙と言っていいかどうかはわかりません。「遠野物語」のもの哀しい山人と、賢治童話のとぼけた味わいを備えた山男の違いのようなものがある、ということです。

【その後故郷に戻った佐々木喜善は、座敷童子関連の話を収拾する活動の一環として、賢治の童話に目をとめ、手紙を出し、そこから二人の交流が始まります。実際に宮澤家を訪れたのは昭和七年、賢治は既に病床にありましたが、その後数回会談しています。賢治は喜善より十歳年少で、喜善が信仰していた大本教を痛烈に批判したりしたのですが、喜善は「宮澤さんにはかなはない」「豪いですね、あの人は。全く豪いです」と言っていたそうで、彼は宮澤賢治のすごさを最も早いうちに認めた一人のようです。】

 話自体が際立って印象的なのは、前から二つ目のエピソードです。
 どこかの家のふるまい(お祝い事、でしょう)におよばれした子どもが十人、座敷で輪になってぐるぐる回って遊んでいた。それがいつのまにか十一人になっていた。「ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔がなく」、それでも数えるとどうしても十一人。その増えた一人がざしきぼつこだ、と大人に言われて、「けれどもたれがふえたのか、とにかくみんな、自分だけは、どうしてもざしきぼつこでないと、一生けん命眼を張つて、きちんとすわつてをりました。/こんなのがざしきぼつこです」。

 ちょっとみると、子どもの悪戯の微笑ましさがありそうで、じっくり考えるととても怖い話です。のみならず、生きている者が神隠しにあったり、死んだ者がこの世に甦ってくる『遠野物語』の世界とは違う種類の不気味さを感じます。
 だいたいの感じだと、異界、あるいは異界の者がこちらに入り込むやりかたが、「ハイカラ」なんです。だからこれは宮澤賢治のオリジナルか、原型はあっても、日本のものではないのではないか、と思えるのですが、確信はなく、とんだ勘違いかも知れません。先行話がここにある、と御存知の方は、教えてください。

 天沢退二郎さんは、このざしきぼつここそ、「風の又三郎」に登場する謎の少年の前身ではないか、という説を述べたことがあるそうです。あるいはそうかも知れません。

 天沢さんは、入沢康夫さんと共に(二人とも仏文学者で詩人という共通点がある)、宮澤賢治の生原稿を徹底的に精査し、それまで刊行されていたテキストは賢治が書き残したものとはかなり違う場合があることを発見し、その成果から筑摩書房の『校本宮澤賢治全集』を編んだ人です。特に「銀河鉄道の夜」の、主に構成上の大変更は、私が大学生の時に遭遇した最大の文学的事件でした。これについては後で書きます。
 「銀河鉄道の夜」と並ぶ二大傑作と呼ぶべき「風の又三郎」(しかしこの二作のテイストはずいぶん違います)についても、新事実を教えてもらいました。

 まず、大正13(1924)年頃に完成したらしい原稿があって、そこには明らかに題名として「風野又三郎」と記されていた。冒頭に「どっどど どどうど どどうど」で始まる歌(これにはシンコペーションを使った洋風のかっこいい曲をつけることを、賢治は希望していたそうです)が置かれ、「谷川の岸に小さな四角な学校がありました」(『四角の』は後に削除)と書き出される。夏休みが終わった九月一日、小学生たち(全学年の児童が同じ教室で学ぶ)が登校して外から教室の中を見ると、そこに奇妙な子どもが座っている。これが物語の導入部です。
 この後の部分は、昭和6~8年頃に大改訂された、というより、新たに書かれたとしか言いようのないものになりました。ただし題名は、原稿でも作品について記された各種のメモでも、一貫して「風野又三郎」なのですが、賢治の死後に出版された文圓堂版全集で初めて活字になった時、編集者の考えで「風の又三郎」とされ、以後それが踏襲されているのです。

 最初期の「風野又三郎」も、これはこれでなかなか魅力的ですので、「風の又三郎〈異稿〉」などとされてある程度は知られていたものが、『校本宮澤賢治全集』以来、「風野又三郎」の題で、各種の全集・童話集に収録されています。本稿でもこの名称に従います。

 「風野又三郎」をあと少したどりますと、このとき教室の中にぽつんと一人で座っていた子どもは「をかしな赤い髪」で、「変てこな鼠いろのマントを着て水晶かガラスか、とにかくきれいなすきとほつた沓をはいてゐました」と、実に怪しい。そして教室内に入った小学生が話しかけても何も応えないので、「外国人だな」とも言われます。ガラスの靴って、シンデレラのあれですかね? まあ、この子は、怪しいだけでなく、〈ハイカラ〉なんです。
 その後原稿が何枚か欠けていて、はっきりとはわからないのですが、どうもこの子どもは先生など、大人には見えないらしい。そして、いつの間にか教室から消えている。あれはなんだったのか? と子どもたちが飽きるほど考えていると、次の日の放課後、そのうちの二人が山で再び巡り会う。そして、「汝(うな)ぁ誰だ」と訊かれて、「風野又三郎」と応える。「ああ風の又三郎だ」とこちらは納得する。

 このやりとりから、〈風の又三郎〉はコロボックルとかドワーフとかホビットとか座敷童子とかいう種族あるいは一族名だと推察されます。実際、新潟から東北にかけて、風三郎・風の三郎・風の又三郎などと呼ばれる風の神を祀る信仰は広く認められるそうで。一方〈風野又三郎〉は、おそらくは大正期の、岩手県の小村に現れた童形の者の固有名なのでしょう。
 もっとも、彼の兄も父も叔父も風野又三郎だと言うのですが……。ともかく、神霊という特別な者が人間の姿で現れるのは特別なことなので、特別に特別を重ねたものが風野又三郎なのです。因みに〈風野又三郎〉の表記は自分で名乗る時だけで、あとは子どもたちの言葉でも地の文でも、ただの〈又三郎〉でなければ〈風の又三郎〉表記です。

 風野又三郎は、前述のように、学校に現れたときには何も言わず、次の日に喋り出したときには、名前も正体も少しも隠しません。そして九月九日までの間、自分が風として世界中で体験したことを生き生きと語ります。活動場所は地球全部なので、扮装は洋風だというわけかな、と少し思いますが、それは語られないまま、十日の風の強い日には村を去って行きます。
 村の子どもたちは話を聴くだけで、自分からは何も行動しません。これは弱点ではなく、そういう作品だというだけです。しかし、では、風野又三郎はなぜ、最初小学校の教室に現れて、子どもたちを驚かせたのかなあ、と思うと、うまい回答は見つかりません。

 そのこともあって、だと思いますが、新版の「風の又三郎」だと、焦点の童形の者の正体は曖昧にされ、格好と標準語を話すところが少し変わっていますが、村の子どもたちといっしょに遊びます。
 登場したときには、元の「風野又三郎」と同じく、夏休み明けの教室に一人でぽつんと座っているのですが、格好は、やはり赤毛で「変てこなねずみいろのだぶだぶの上着を着て、白い半ずぼんをはいて、それに赤い革の半靴」と、やはり怪しいけれど、マントはなくなり、また靴も変わっています。その理由は後でわかります。それでやっぱり話が通じず、「外国人だ」と言われ、やはりいつのまにかいなくなっている。

 しかし、その後、先生に連れられて再び姿を現し、お父さんの仕事の都合で「けふからみなさんのお友だちになる」高田三郎くんだ、と紹介される。だけでなく、いつの間にか「白いだぶだぶの麻服を着」た大人が教室の後にいて、学活が終わったとき先生に近づいて「何ぶんどうかよろしくおねがひいたします」と挨拶して、三郎を連れて帰ります。これは三郎のお父さんということで、つまりこの子は家庭まで含めて大人にも存在が認められている、普通の子どもなのです。
 それでも村の子どもたちの間では、少しの言い争いの後、あれは又三郎だということに一決し、以後ずっと「又三郎」と呼びます。当の本人はそう呼ばれても抗議もせず返事をしますが、それ以上自分が又三郎なのかそうでないかについては触れません。因みに地の文では〈三郎〉と表記され、〈風野又三郎〉表記はこちらでは一度も出てきません。

 この後三郎が、一見村の子どもたちと溶け込んで様々な活動するリアルな話が続きます。その筋の運びと描写の手腕は大したものです。しかし一番注目すべきなのは、普通の日常が、異界に接近し、重なる部分の手際のよさです。

 前半のヤマ場は、最初の日の二日後なので九月三日(「風野又三郎」では章題代わりに日付が記されているが、「風の又三郎」ではそれはすべて消えている)。馬が集められている場所へ子どもたちが入り、怖がる様子をからかわれた三郎が口惜しがって競馬をやろうと言い出す。馬は最初なかなか動かなかったが、走り出すと、そのうちの一頭が土手の切れているところから外へ逃げる。三郎と嘉助という少年がそれを追う。土手の向こうはすすきやたかあざみが生い茂って視界が悪く、崖にも接していて危険なので、立ち入りが禁じられている場所だった。嘉助はやがて三郎も馬も見失う。霧も出てきて帰り道がわからなくなり、嘉助はついに草の上の昏倒する。

 そんなことはみんなどこかの遠いできごとのやうでした。
 もう又三郎がすぐ目の前に足を投げだしてだまつて空を見あげてゐるのです。いつかいつものねずみいろの上着の上にガラスのマントを着てゐるのです。それから光るガラスの靴をはいてゐるのです。

(中略)
 又三郎は笑ひもしなければ物も言ひません。ただ小さなくちびるを強さうにきつと結んだまま黙つてそらを見てゐます。いきなり又三郎はひらつとそらへ飛びあがりました。ガラスのマントがギラギラ光りました。

 この前の文に「嘉助はとうとう草の中に倒れてねむつてしまひました」と明らかに書いてあるのに、この時は嘉助は目を覚ますでもなく、まるで以前からそうだったように、又三郎になった三郎がいて、ガラスのマントを光らせて空へ昇ります。いやあ、お洒落ですねえ。

 この時は一人の少年の幻視ですが、やがて村の子どもたち全員の前で、異界が一瞬、口を開きます。

 嘉助は三郎といっしょに救出されて、無事に家に帰ることができ、次の日から普通に皆といっしょに外で遊びます。三郎も、負けん気の強さは折々見せるのですが、まずます無事にその集団に参加しています。その話が続いて最後に、川での〈鬼ごっこ〉の場面になります。
 三郎が〈鬼〉になると、嘉助にからわかれたこともあって、むきになって村の子を川につかまえ、「三郎の髪の毛が赤くてばしやばしやしてゐるのに、あんまり長く水につかつてくちびるもすこし紫いろなので、子どもらはすつかりこわがつてしまひました」と、文字通り〈鬼〉に近い様子になる。すると……、ここは長くなりますがやはり引用しなければならないでしょう。

 そのうちに、いきなり上の野原のあたりで、ごろごろごろと雷が鳴り出しました。と思ふと、まるで山つなみのやうな音がして、一ぺんに夕立がやつて来ました。風までひゆうひゆう吹きだしました。
 淵の水には、大きなぶちぶちがたくさんできて、水だか石だかわからなくなつてしまひました。
 みんなは河原から着物をかかえて、ねむの木の下へ逃げこみました。すると三郎もなんだかはじめてこはくなつたと見えて、さいかちの木の下からどぼんと水へはいつてみんなのはうへ泳ぎだしました。
 すると、だれともなく、
「雨はざつこざつこ雨三郎、
 風はどつこどつこ又三郎。」と叫んだものがありました。
 みんなもすぐ声をそろへて叫びました。
「雨はざつこざつこ雨三郎、
 風はどつこどつこ又三郎。」
 三郎はまるであわてて、何かに足をひつぱられるやうにして淵からとびあがつて、一目散にみんなのところに走つて来て、がたがたふるへながら、
「いま叫んだのはおまへらだちかい。」とききました。
「そでない、そでない。」みんないつしよに叫びました。
 ぺ吉がまた一人出て来て、
「そでない。」と言ひました。
 三郎は気味悪そうに川のほうを見てゐましたが、色のあせたくちびるを、いつものやうにきつとかんで、「なんだい。」と言ひましたが、からだはやはりがくがくふるへてゐました。


 物語「風の又三郎」はあと少し続き、余韻を残す終わりを迎えますが、転校生高田三郎はもはやどんな姿でも村の子どもたちの前に姿を現すことはなく、お母さんがいるという北海道へ戻ると言われます。

 この物語にはいくつかの解釈が可能ですが、一応自分のを言っておきましょう。
 高田三郎はまず普通の子どもですが、村の子に「風の又三郎だ」と言われ、どういう気持ちでだか、その役を演じているうちに、いつか本物の異界を呼び寄せてしまったのです。
 それは山村の人々の無意識と、一番奥底で繋がっていて、時々「遠野物語」に収められた各種の民話として現出するものです。詩人はこれをさらに〈心象としての実在〉として、地方色を脱したスマートに、しかしやはり怖いものとして、描き出すことに成功しました。
 やっぱり平凡なんですが、戦前の日本の田舎にいて、よくこんなものが書けたなあ、と驚嘆するばかりです。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 小浜逸郎論ノート その3(... | トップ | 物語作者としての宮澤賢治 ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

文学」カテゴリの最新記事