おはようございます。昨日は、「よし名護湾に残照を撮りに行く」と、急に決めて行きました。自宅から近くだからこそできる。あさってから9月です。東京にいた頃の私は、大概8月下旬に高山(こうざん)に行っていました。だから天気はよくなく、泣き泣き帰ったことも多数あり。シーズン中の混み合う山道は嫌であり、場合によっては、「誰もいない山」は、素敵でした。
晩夏は、秋から冬への季節の移ろい初めの時。しんみりした感慨が好きでした。いろいろな経験が頭に浮かびます。1967年8月30日(55年前ですね)、那須連山を歩きました。火山の岩山です。濃霧があたりの視界を奪っており、ケルンを頼りに歩きました。キベリタテハの羽の紺と縁の黄が濃霧を超えて感動的だった。視界の悪いときは足下を見る。これです。もっとも足下しか見ていないと道に迷う。これは最悪です。このバランスが大切です。
このとき、下山したのは、ある一軒家の温泉地。丁度最終バスが出発するところでした。辛くも間に合った。お陰で温泉に入りそびれた。それも(残念な)思い出としての価値がある。
沖縄には、この晩夏という感慨、概念はないようです。まだまだずっと(10月頃まで)暑いから。暑さを耐えしのぐ季節はまだまだ続きます。感傷に浸る余裕なし。それは私が老化したからかな。忙しすぎるのか?
話を戻しますが、晩夏と言えば、忘れられない花はマツムシソウです。信州などでよく見ました。殆どの花が終わっている中で、辺り一面に咲いていた。沖縄にいると1年中様々な花が咲いているから、こうした強烈な印象はかえって弱いかもしれません。それだけ一人一人の個性・感慨は多様で、○○一色は少ないかも知れません。逆にいいことだと私は思います。問題は何をプラス価値と見るのか、何をマイナス価値と見るのか。それぞれの感性を磨くことです。
ただいま県知事選の渦中。玉城デニー候補が主張するように、多様性を支え育む政治は大切です。「茶色の朝」は御免被る。多様性とは選択肢があり、認め合えることの以前に、何が多様なのかを感受できることです。感覚と論理の両方の裏付けがないと弱い。
暑い国はアバウトじゃないかというのは偏見です。私も多分にそう思っていました。四季があるから感覚が細やかだという「日本人」の「常識」も間違っている。定型化しがちで、その場で感受したり考えない。これが「秋」みたいな。たとえば、「ふるさと」をみんなで歌うみたいな奴。私は最低だと思っている。全然一緒にできないものを併せて感傷にふけるのは、間違っている。個性と、認め合える力があれば、問題ない。
共有すべきは「生きる」という価値でしょう。