(はじめに)
2024年8月22日~25日、私の写真展「基地の島 琉球諸島・沖縄島のリアルとこの国の深層」がフォトジャーナリズム展三重の主催で開催されました。今私は、1月以来の大きな宿題を終え、ちょっと、ほっとしています。もっとも現在進行形で「基地のシマジマ」は動いており、こちらは油断できない緊張状態が続いています。以下、経過を振り返り、到達点と今後の課題を整理してみます。
(註):以下に記した日時は、私が記録してきたものであり、正確です。
(Ⅰ)経過
①発端
2024年1月16日、三重県津市在住のT君から電話がありました。フォトジャーリズム展三重で沖縄の問題をやりたいのだけれど、受けてくれないかと依頼されました。特に自衛隊の軍事化についてやってほしいとの申し出でした。彼は、以前辺野古支援に滞在していた仲間でした。私が辺野古テント村で与那国島・石垣島・宮古島について日々語っていたのを聞いていたのでしょう。
私は「フォトジャーリズム展三重」の伝聞を多少承知していました。ジャーナリズム雑誌「デイズ・ジャパン」に掲載された名作を毎年展示し、また課題ごとの写真展をやってきたのです。とてもとても私ごときがお引き受けできる場ではないとも考えました。また2020年以降のCorona禍と金欠病で実際にシマジマに行く機会は限られており、自信がありませんでした。
ところが、会場の規模が大きい。150枚を展示できる広さがあるという。少々悩みましたが、お引き受けしました。不安よりもチャンスを生かしたいと考えたからです。特に、沖縄島と琉球諸島の問題を重ねて考え、撮っているフォトジャーナリストは私が知る限り殆どいないでしょう。今こそ、そこを問い直すことが重要だと考えました。
ここ2年、漸く沖縄島でシマジマのことを考え直し、このままいけば、シマジマ(沖縄島も含む)が戦場になることを危惧する人たちが出てきました。しかし「頭」はそうなりかけてきましたが、実感をまだ伴っていないようです。
力不足を承知しながら私は、多少なりともインパクトを起こせればと、引き受けました。
②事前準備
やるべき事は多数あります。予算がなければ不可能。実行委員会から早々とスタート資金が届きました。自分でもカンパを呼びかけました。支出項目の概算を計算しました。追いかけの取材先と日程。何よりも企画をどうするかです。
主催者側とタイトルをどうするかでやりとりがありました。2月末段階は「沖縄で基地の島をみつめてー私たちと沖縄」(仮題)としましたが、この「基地の島 琉球諸島・沖縄島のリアルとこの国の深層」が核心を突くだろうと私は考えました。基地の島にされて久しい沖縄島と、基地の島にされつつある琉球諸島(戦場化が想定されている)を見なおし、実像に迫りながら、この国を問い直す、大法螺吹きのタイトルにしました。
ただ、法螺を吹くと言っても、事実を証明できる写真を用意しなければ、どうにもなりません。ここがフォトジャーナリズムの難しさ・厳しさです。絵を描く、文を書く方がある意味易しいのです。今回私は、常に写真を撮る戦略=構想をもたないとダメだと気づかされました。ここで私は、2022年の安倍晋三の国葬の日の写真を使えると判断していました。米国からすれば、懸案だった「集団的自衛権」を閣議決定のみで、一部合憲化したのに、米国・米軍は必ずしも半旗を出していませんでした。私の予想が的中した、強く印象に残った現実でした。
2024年5月15日にチラシが完成し、私の手元に届きました。こうして宣伝が始まってしまえば、私は「逃亡者」になるわけにいきません。このチラシのために私は、石垣島の3枚を送りました。2023年10月のRD(レズリュートドラゴン=不屈の竜作戦)23米日共同演習の際に陸上自衛隊石垣駐屯地に掲げられた「日の丸と星条旗」、石垣空港にやってきた陸自オスプレイなどの3枚です。この時点で企画・構成は固まっていませんでしたが、この石垣島の写真こそ、米日関係を、「基地の島 琉球諸島・沖縄島のリアルとこの国の深層」を特徴づけるモノはなかったでしょう。
③企画案を思い描く
2024年5月27日企画概要をまとめました。第1章プロローグ:「『基地の島』をフォーカスする」、第2章「観光では見えない基地のこと」、第3章「戦争準備が進む琉球諸島・沖縄島のリアル」、第4章「『辺野古が唯一』は、戦争への道!―普天間基地の返還はありうるのか?」、第5章「私たちが生きていくため、沖縄で問い続ける」でした。
ところが、ブースの関係もあり、4部構成の方がまとまります。余り歴史問題を入れると、スペース的に厳しく準備の時間の関係もあり、手短にしようと考え、6月25日までに、ほぼ最終案に到達しました。
章立てはこうです。第1章「観光島の陰で蠢く基地の島」、第2章「戦争準備が進む琉球諸島・沖縄島のリアルー『最前線』に押し上げられてきたシマジマ」、第3章「『辺野古が唯一』は利権と戦争への道―普天間基地の返還はあるのか?」、第4章「まとめー私たちが直視したい『戦争と平和のリアリズム』」です。
企画案を詰めなければ、コマ選びをしようにも不可能です。東京で写真展をやっていた時代は、年に数回沖縄に来て撮る、フイルムカメラでした。今や毎日のように撮っており、デジタル。選ぶ際の分母となる枚数が桁違いに多くなっています。私は半ば途方に暮れながらも、前ヘ前へと進めました。
6月25日からコマ選びの準備作業を始めました。2022年3月からのデータを見て予選候補を選び、ノートに記録する。7月6日に開会挨拶文を書き上げました。これで現地主催者に了解をいただきました。7月12日から再度画像を見て、使えそうなモノを絞っていく。データに場所と日時を記録しながら、「写真展」のカテゴリーに転記する。急坂が続きます。喘ぎ喘ぎの上り坂。あと1ヶ月余りとなりました。
それにしても、ただでさえ辛くなる絵(写真)ばかりです。それを2年余りに亘り連続して見続ける事は苦行でした。このコマ選びが全行程で一番大変でした。企画・構成の詰めと併せてやるにしても、写真としておもしろいものもバリバリ落とす不幸も重なり、青息吐息。簡潔に見せることは苦難の道でした。
7月18日から2015年から2019年のコマ選びに入り、与那国島から宮古島までを補いました。
一枚単独の作品と、2枚3枚での連続した作品を合わせて選びました。こうした組み合わせによって、納得感を得られたのではないでしょうか。
④万事休す!を乗り越えて
7月11日、新しいプリンターを購入しました。届くのは1週間後。ところが、そこであることに気付きました。沖縄の店舗にA3のプリント用紙が置かれていないのです(3,4カ所で確認)。今から注文しても間に合わない。たまたま私は7月20日~23日東京等に出かける予定を入れていました。ヨドバシカメラで買ってこよう。キャノンゴールド(光沢)とマットフォト、各80枚。ここで買えなければ完全に行き詰まっていました。新宿から名護まで重かったけれども、写真展のためならエンヤー・コーラでした。7月27日から最後の追加取材へ。石垣島、与那国島へ。7月31日まで。RD24が8月7日まで始まるのです。
8月5日から、プリント作業開始。8月12日、ゴールドプリントがなくなり、再びどうしよう。マットフォトは光沢がなく渋い。私は敢えて機体等を光らせず、鈍い色に。バックが黒っぽいモノもこれがいい。とはいえ、やはり光沢が欲しいものもある。
ないものはない。致し方なく第4章を簡潔にしました。泥縄作業になりましたが、8月13日、全てをプリントし、台紙への貼り込み作業に移行。この貼り込み作業が素早くできたのは、私の集中力+型枠を作っておいたからです。この型枠で、写真を貼り込む位置を決め、両面テープで貼り込んでいく。8月16日終了。三重県津市へ発送。キャプションは自然写真の24枚の他は未完。ひとまず送らなければ、22日の開会に間に合わなくなる。8月17日から始めて21日の01時30分(深夜)完了。146枚分約15200字を書き上げました。中には的を外したキャプションもありました。推敲など不十分になってしまい、誠に申し訳ありませんでした。
⑤主催者へお詫びとお礼
私は常にスロースターターです。主催者は、私の準備がどこまで進んでいるのか、やきもきしていたでしょう。だからこそ、随時ブログに書いておりました。連絡役を担っていただいた現地津市のMさんは、現状把握や、督促を控えてくださいました。私は内心申し訳ないと思いつつ、これでイライラすることなく作業を進めることができました。誠にありがとうございました。
もう一点付け加えるべき事は、最初の私へのアプローチが知り合いだったT君からあったことです。もしも「できませんでした」では、彼のメンツを潰してしまいます。また私の沖縄への責任感もプラスに働きました。そして沖縄内外の私の友、支援者から物心両面に亘る大いなる励ましを私はいただいていました。誠にありがとうございました。
(Ⅱ)企画・構成など
結果として、
(1)プロローグ 「観光島の陰に蠢く基地の島」(計32枚)
(1)―1:東京でも始まっていたシマジマを思うこと。絵地図(1枚)
(1)-2:沖縄の玄関口を眺めてみよう (6枚)
(1)-3:宜野湾市嘉数から普天間基地が見えますか?(8枚)
(1)-4:嘉手納基地は楽しい? (4枚)
(1)-5:リゾート地や沖縄高速道の側にも基地があります (6枚)
(1)-6:「宮古島は美ら島」です (4枚)
(1)-7:石垣島に陸自オスプレイが到着。米日共同演習に星条旗が翻った (3枚)
(2)「戦争準備が進む琉球諸島・沖縄島のリアルー『最前線』に押し上げられてきたシマジマ」(計44枚)
(2)-1:与那国島(7枚)
(2)―2;石垣島(8枚)
(2)-3:宮古島(11枚)
(2)-4:自衛隊の日々の移動と、沖縄島に第7地対艦ミサイル連隊が新編された(24年3月)(8枚)
(2)-5:沖縄島の米軍基地も変わっていく(10枚)
(3)「『辺野古が唯一』は利権と戦争への道―普天間基地の返還はあるのか?」(計40枚+愛犬たち3枚)
(3)-1:海が壊され、森が壊されていく中で(新基地建設の実像)(12枚)
(3)-2:普天間基地は、本当に返還されるのか?(8枚)
(3)-3:岸壁と搭弾場が造られ、新たな総合演習場になるだろう(6枚)
(3)-4:闘いの現場からー今、ここにある希望を広げていくために(14枚)
(4)「まとめー私たちが直視したい『戦争と平和のリアリズム』」(計27枚)
(4)-1:今や、米軍だけ見ていたのでは間違えるーここにあるのは米日共同統合軍(6枚)
(4)-2:「日米地位協定」の重圧の中で (7枚)
(4)-3:米国の本音を垣間見るー安倍晋三元首相の国葬の日の在沖総領事館・在沖米軍の対応(3枚)
(4)-4:沖縄の課題―分断を超えて(3枚)
(4)-5:今、沖縄戦を捉え直し、新たな戦争と平和のリアリズムを(8枚)
①軍事の写真群に戸惑われたことと思います
一口に言って、軍事写真のオンパレードです。届いたモノをご覧頂いた主催者は、絶句したのではないでしょうか。そう思いながら、私は如何なる反応があるのか、不安であり、興味津々でもありました。
私は所謂軍事写真を中心に撮っています。これを否定できません。但し、軍事を断じて格好よく撮らないことは私の大前提です。軍隊とは、軍事マシーンであり、殺戮と破壊を目指すモノです。占領と支配を目指します。私はこうしたありかたを許容しません。できません。普段の撮影中、こう心得ています。しかし撮影現場で、この峻別は、容易ではありません。確かにその迫力に飲まれそうになることもあります。これを検証しながら今日まで撮ってきました。
②企画と選んだ写真群について
タイトルに「基地の島 琉球諸島・沖縄島のリアルとこの国の深層」としました。私の持ち駒からすれば、まずまずの出来だったと思います。第1章は沖縄県外の人への誘いです。これがなければ、島々が軍事化されていることなど想像しがたいだろうと考えたから付けた章です。
沖縄県外の人からすれば、米軍基地がある場所は限られています。それも1945年のこの国のアジア・太平洋への侵略・敗戦がもたらしたモノでありながら、「終戦」意識しか残っておらず、大多数の人々の頭の埒外にあるようです。また、自衛隊基地は小さく目立ちません。防災への出動など好意さえ抱いている人が多数派でしょう。
自公政権は「高まる軍事緊張」と対立を煽りながら、日本を取り巻く軍事網を点が線となり面に組み込む動きに、敏感に気づいている人は極めて少ないようです。
私自身、今回の写真展に合わせて、三重県周辺の自衛隊基地一覧を作成しましたが、意を尽くせませんでした。陸上自衛隊は、中部方面隊レベルの塊で動いていますが、私も中部方面隊(中京圏から関西、四国・中国地方)全体を包括的に見ることを怠りました。また航空自衛隊は静岡県浜松と鳥取県美保が重要であり、海上自衛隊は呉が重要ですが、これらの陸海空統合軍をまだまだ捉えきれませんでした。
(2)「戦争準備が進む」と(3)「辺野古が唯一」は、シマジマと沖縄島の軍事的一体化が今後どうなっていくのかを見通せておらず、大きな課題が残されました。今後の課題です。最前線を支える兵站能力の強化が(2)と(3)を跨ぐことになるでしょう。そこの現場をバッチリ撮らなければならないはずです。
(2)-4については、具体的に島々と沖縄島を結ぶ日常的な移動現場をまだまだ押さえきれていませんでした。特に那覇空港で見かけた、私服で下りてきた自衛官が自衛隊のトラックに乗り、出て行く場面をタッチの差で撮り損ねたのは残念至極でした。
(3)-4は、何を選ぶべきか迷いました。私は「ひとりひとり」の行動に絞りました。リーダー的な人を敢えて外したのです。一人一人が動き出すことが先ず重要だと考えているからです。
(4)のまとめは、時間に追われ、紙がなくなり、縮小せざるをえなくなりました。事前の問題点の絞り込みが足らず、適格な絵を揃えられませんでした。米軍が公然と表現してきた「鳥居」の意味は意味深ではないでしょうか。米日政権は天皇制を象徴する鳥居を「相互了解」の元で、沖縄民衆を分断する意図を抱いていると私は考えています。私はあれこれ学び直しながら、今後あちこちで検証していきます。
「軍事オンパレード」と書きましたが、間違いなく人物は少なく、そこに息づく文化も決定的に不足していました。2024年8月時点の私の限界です。同時に今振り返って私が思うことは、無理に人も軍事もにしたら、かえって半端になり、結果として「正解」だったと考えています。
(Ⅲ)三重県津市の現地にて
①会場にて
私は8月21日16時頃会場に行きました。この場で、キャプションを貼り込みました。写真パネルはきっちり展示されておりました。さすがに長年写真展を継続されてきたベテランの集団です。キャプションの貼り込みはシートを切らなければなりません。この作業を手際よくやっていただきました。18時過ぎに完了。
翌日22日がオープンデイ。10:00から17:00。早速中日新聞が取材にお出でになる(23日三重版に掲載)など、動画撮りの社もあり、対応しました。
会場を見ていると、さっさと素通りされるかと不安に思っていましたが、意外にも、じっくりと見ている方が少なくなく、ほっとしました。敬遠されず、観てもらえることが、大切です。ジャーナリズム展三重のこれまで継続した取り組みが、人がジャーナリズムの写真を見ることの基礎を作ってきたのでしょう。本当にありがたいことでした。
ジャーナリズムの写真とは何かをここで深く論究しませんが、人が社会に生きていることを正面から撮った報道写真だといえるでしょう。今回の私の作品群は「人がといえるのか?」疑問符を付けられるかもしれません。しかし機材はともかく、軍隊も人が構成しています。AI・無人機ばかりでは機能しません。AIを操るのは人間なのです。ここを間違えてはなりません。今後の課題ですが、私はそう意識しています。
4日間を通じてご記帳頂いたお名前は約400名だそうです。中には神奈川から来たという方がおり、お話ししました。何を見てこられたのでしょうか? 聞きそびれてしまいました。また驚いたことに、「これ、父です」と驚かれていた女性がいました。宮古島で機動隊に排除されるシーンの写真です。こんな偶然があるのですね。
尚、私事ですが、私の友たちが三重県、奈良県、大阪府、長野県、静岡県から10名余りが、お忙しい中、立ち寄ってくださいました。大いなる励ましになりました。ありがとう。また人付き合いの苦手な私が初めての場でやるプレッシャーが大きく、不安もありました。23日~25日に妹がきてくれ、大変助かりました。
②24日、25日の講演会について
24日は14:00から、25日10:30からの2回私が話す機会を設けていただきました。各回10名から20名程度ならば、ブースごとに写真解説と考えていました。ところが24日は70名余り、25日は60名余りが来てくださいました。嬉しい誤算でした。第5のブース(沖縄の新聞と地元紙や中央紙を比較したブース)をお話しの会場にあつらえ、話しました。当初は2回別の話をと思っていましたが、自衛隊の琉球諸島と米軍中心の沖縄島がこの10年余りで、「最前線」に押し出されてきたこと、その軍事化は対中・朝・露包囲網であり、米国・米軍の核戦略とも結びつき、島々を戦場にしていくものだと語りました。
それはシマジマのみならず、ここ三重県周辺も含む、日本全体が戦争態勢に組み込まれていく渦中にあると話しました。沖縄の基地問題は決してローカルな問題ではないのです。沖縄を戦場としたかっての沖縄戦以来、沖縄島は米国・米軍の橋頭堡であり続け、それが西へ、与那国島まで伸ばされ、米日の空母等の戦列が南北にも広がり、軍事的に身構える事態が進んでいます。
米国は「米中戦争」を望んでいないはずです。相互に破滅する結果に至るからです。だからこそ、日本国と日本軍に先鋒を勤めさせ、「地域紛争」の範囲で米国の覇権を築きたいのです。もっとも地域紛争のつもりが、核を弄び始めたら、結果はどうなるか分かりません。そうなったら、権力者たちは、理性を発揮して終止符を打つ保証は何もありません。
また《「核抑止力」と原発》VS核兵器禁止条約の関係についても触れました。私たちは、大国の覇権主義に振り回されず、私たちが生きていける道を大切にすべきです。
なお、三重県は、1960年代から4つの原発設置の動きと対峙してきたのです。ことごとく阻止してきたのです。これこそ三重県民が誇るべき事柄であり、実績ですと、申し上げました。
私の堅い話を、参加された皆さんは終始、緊張を以て聞いていただきました。ご質問も幾つも飛び出して、ありがたかったです。感謝です。
③23日、伊勢から熊野灘へ原発予定地を御案内頂きました
詳細は別途ブログに揚げる予定ですが、「原発の断りかた」(月兎社刊 2020年)著者の柴原洋一さんに、伊勢市から熊野灘へ、帰路は鳥羽市まで、7時~18時までの時間、御案内頂きました。
道中、原発に関するお話しや、沖縄を巡るお話しなど、色々と語り合えた経験は、今後も役立つと思います。特に勝った三重県(各地)の運動から学ぶことは沢山あるようです。
訳知り顔の人は、しばしば原発と基地を並べて「似ているよね」と言います。国策としてガムシャラにやっている事は似ています。さらに、核と原発(核発電)の関連などもっと意識しなければならないことも事実です。しかし沖縄戦と沖縄占領があって始まった沖縄の基地(米日核安保体制)と、その後に起きた原発開発の歴史の違いに、もっと注意して見るべきだと、私は考えています。
また、熊野灘から鳥羽市までの海沿いの道中、ゴミが散乱していないことに私は目を見張りました。海流の流れもあるでしょうが、私は住民が海と向き合って生きているのだと実感させられました。沖縄の現状は、残念ながら、汚れが目立ちます。
御案内頂いた柴原洋一さん、誠にありがとうございました。
(Ⅳ)今後に向けて
①撮っていないことは表現できない
問題の基本はここです。行っていないところは、撮れません。理由の如何に関わりません。今回で言えば、与那国島。2020年1月から行けなかった。行けなければ、関心を維持できない。この事実を改めて考えざるを得なかった。他方で、軍事化の政治は日本全体、アジア全体に広がっている。分身の術をもたない私は、何処で撮るかを選択するしかない。一人での活動の限界を痛感しています。
②友たちの協力について自覚しなおさなければ、なりません。
体調を気遣ってくださる友、気遣ってくださるどころか、現場に向かう途中で、ぶっ倒れた私を探し出し、自宅まで運んで頂いた友。早朝の行動を車で迎えて頂き、現場から現場へと連れて行って頂いた友…
事例を挙げればきりがありませんが、こうした友が居てこそ撮れた写真は少なくありませんでした。「ありがとう」では、済まない現状があります。また、被写体になっていただく人が居てこそ、アクチュアルになる。闘っている人こそが主人公。フォトグラファーは、黒子です。
黒子だから、現場を黙ってみているのではなく、黒子だからこそ、最低限言うべき権利がある。フリを付けるのではなく、フリをつくる一員になる。難しいことですが、緊張関係の中で、主観と客観の異同を検証する。このためには、どこでも主人公である皆さんと信頼関係を築くことが第一義です。改めて模索し、追求していきます。
③結局、生活の場(近く)を優先してきた私
今回のテーマを「琉球諸島・沖縄島のリアル」としましたが、圧倒的に撮ってきた現場は、沖縄島であり、辺野古・大浦湾です。所詮ここから見て、あそこから見て、どこから見るかを総合的に如何にまとめ上げていくのか。ここに戦略的な見方(視点)を如何に考えているかが問われています。自分の一つの脳(目と耳と肌から繋がっている)、一つの身体、一つの心の限界を如何に打破していくかが問われる以上、多くの皆様との信頼関係を作り上げることが欠かせません。
自分が権力的にならないためには、信頼関係を自己中心的ではない、相手から信頼されることを先ず考えていきます。
④戦略的に考えておくべきこと
私が撮る主たる課題は、変わらないでしょう。しかしこの国は米国の属国ぶりを顧みることなく基地であれ、原発であれ、何ひとつ反省することなく、今日を迎えています。このまま推移すればこの国は破滅していくでしょう。大人の責任が問われています。
戦略的に考えるとは、イデオロギー的な思考ではありません。人類が生き延びていける条件を考え、私であれば脱軍事化から考えます。様々な人が様々なアプローチを取る中で、協力し合うことが必要です。こうした場をつくりあげていくためにも戦略的な検討と論議の場を作り出し、私は撮影を継続していきます。各地・各領域から協力関係を作り上げていきます。
因みに、「専守防衛」を国是としていた時代は実際のところ終了し、「集団的自衛権」が閣議決定により合憲化されて以降、戦争関連法が整備され、2015年には米日軍事指針が改定されました。米軍等との間で、RD(リゾリュート・ドラゴン)やKeen Sord共同統合演習が繰り返され、先制攻撃が目論まれています。
こうした想定が沖縄の島々を戦場にしている以上、沖縄の住民が日米軍によって迫害され殺される可能性が高くなります。また沖縄島に於いても、対艦ミサイル部隊が配備され、陸上自衛隊15旅団が15師団に格上げされる計画など、戦時体制が準備されていきます。沖縄島にも同様な危険が及んでくるでしょう。
⑤戦争と平和のリアリズムを考える
戦争のリアリズムならば、かなり具体的に想起できます。爆弾の破片をもてば、その重さに仰天します。これが当たれば、自分の足を、腕をもぎ取られるだろうことを、納得せざるをえません。他方で平和のリアリズムを具体的に考えることはずっと難しいでしょう。ふわっとしか考えてないからでしょう。しかしこれも一歩突っ込んで考えれば、「戦争=平和、平和=戦争」みたいな観念の虚飾を剥ぎ取り、可視化できるはずです。戦争とは始まるまでは分からず、始まってからでは遅いのです。先を見通し、足下を深掘りしていなければ、分からない。平和とは単に武力が横行していないのみならず、自治・自己決定が生きている社会であることが不可欠です。差別を許さないことが大きなポイントです。属国であることの歪みに敏感でありたいものです。武力に頼らず、持続可能な対等・互恵の関係を築きあげていく以外にないはずです。
私は今後もこの2つを正面に据えていきたいと考えます。また、食料の自給率の低さ、資源の自給率の低さ、原発を多数抱え込みながらの「軍事力による平和」などありえません。私たちは、自分の頭で考え、議論しながら前に進むしかないのです。
⑥展示について
地名が読めない、場所が分からないとのご指摘をいただきました。地図と読み方を一目で分かる図式を今後考えます。
⑦撮影を継続し、写真展や講演(討論)会など可能なことに着手します。
ひとまず、今回撮影させて頂いた人々に、パネルを差し上げることを準備しています。各現場からこんな形で他人と繋がることができるのだと、実感頂ければ、ありがたい。なお、カンパを頂いた方に、別途収支報告書をお送り致します。今暫くお待ち願います。
その他具体的なことはこれからですが、ブログ「ヤマヒデの沖縄便り Ⅳ」に随時揚げていきます。皆様方のご協力あってこその私です。
⑧フォトジャーナリズム展三重の皆様に改めて感謝申し上げます。
末尾になってしまい、恐縮です。主催された皆様方は、今回の取り組みについてどんな印象をもたれたのでしょうか? ささやかであれ、ご期待の一端を果たせたとすれば、望外の喜びです。私にとっては、大きな場をご提供いただいたことが、今後の取り組みに向けたステップになりました。誠にありがとうございました。長年に亘る経験の蓄積があったからの力ですね。目に見えないところにも留意した取り組みが大切だと思いました。
そしてお一人お一人の、お力添えが、終始、和やかで、力をいただきました。誠にありがとうございました。(2024年10月4日。10月14日改稿)
(Ⅴ)追記
9月29日に概ね上記の文(改稿以前の文)をフォトジャーナリズム展三重にお送り致しました。そして改めてご意見・ご感想を寄せていただきました。
①実行委員会の皆様のご指摘を受けて
昨年来、「次は沖縄を取り上げる」と決まっていたそうです。今年最初の会議で、T君が私を推薦してくれたようです。私がこれを受託し、3つのブースから4つのブースに広げて依頼され、今回の基礎パターンができました。
タイトルについて、実行委員会からある提案があったのですが、私はこれを蹴りました。蹴った以上、逆提案しなければならないと考えたのが「基地の島 琉球諸島・沖縄島のリアルとこの国の深層」でした。確かに堅いことは否めません。しかし「基地の島」を前に持ってきて、沖縄島と琉球諸島を逆転させ、琉球諸島・沖縄島のリアルと「この国の深層」で対比させて考えたかったのです。
何処までその趣旨を貫けるのか、抜けたのか自信はありませんでしたが、挑戦しました。無難なタイトルにしなかったとも言えるでしょう。実行委員会の皆様を冷や冷やさせたことでしょう。無論、もっとわかりやすいタイトルを考え抜けば良かった。智恵が浮かびませんでした。
その後、私のブログを随時見ていただき、これならば大丈夫だろうと信用いただいたようです。ありがとうございました。尚、「気難しい」人だと思っていたが、会って話したら、そんな思い込みは解消したとのご意見もいただきました。ありがとうございます。私が現地に5日間入り、四方山話も含めて話した「信頼」だったでしょう。
こうした写真をどんな奴が撮っているのかは、やはり気になりますよね。「気になる写真」だったことを嬉しく思います。
また「地を這うように『追っかけ』をして(開催間際まで)、それを包み隠さず差し出してくれたものを、私たちは受け取ったのではないか」というご指摘に、私は感謝申し上げます。本当にそうしたいと思いつつ、時間切れとなり、課題が山のように残りました。やはり日々撮る方法論、それらをまとめて提示する方法論がないと、不可能でした。狙い通りに撮るためには、運に任せず、「戦略的に撮る」「場面を想定」して撮る、失敗を活かしながら撮ることを、避けられません。
また実行委員メンバーによる新聞紙を読み比べる企画(第5のブース)や紙芝居も来場者の理解を深める学びになったようです。私の写真との「共演」が成立したことは、学びの場を共有できたということです。ご尽力に感謝します。
なお、講演の中で「写真を見せながら、なぜこの写真なのか、(中略)思ったことを語り合う場があるといい」とのご指摘を受けました。全く同感です。ご参加いただいた方々が多すぎ、そうした中で、どうしたら可能だったのかを考えておくべきでした。
②実行委員会のアンケートを読んで
主催者であるフォトジャーナリズム展三重が会場で取っていたアンケートを、当日私も読みました。事後に集約したものを送っていただきました。総じて「有意義だった」と回答頂いたことに感謝です。
特に、「これからも平和を追求していこうと思った」という積極的な感慨を抱いていただけたことに、やって良かったと私は思いました。「どこにあっても軍事に反対し抵抗する人の姿に勇気をもらえる」などの見方が特に嬉しいです。美しい自然と軍事のギャップに驚かされたという、私の狙い通りの反応をいただきました。
「ここ10年程、宮古島へ何度か旅行に行き、肌で感じていた武装化だったので、写真ではそこまで伝わらなかった」というご意見がありました。宮古島に行き、肌で感じたのは、相当な意識を持っていらしたからでしょう。ただの観光だと、無意識に見たくないことを避けてしまいがちです。だから、普段の意識と島の軍事化のギャップに気づくような写真を撮る必要があります。ここは永遠の課題でしょう。今後も追求して参ります。
オスプレイの墜落現場が印象的だったという声が複数寄せられています。海中で大破したオスプレイの残骸と、捜索艇の上で呆然とVサインを見せる若い兵士、海兵隊が破損した部品を海から回収した物の周りを警備する沖縄県警と抗議に集ってきた沖縄の人々の3枚でした。何をどう撮るか、何をどう見せるか。自分で言ってはなりませんが、「極まった写真群」でした。
「心穏やかには見られません。米(国)のやり方、あり方、日本の受け方、されるままに。冷静に見つめ、ありのままを中から訴えるものが読み取れる写真に心がかき乱されます」。そう読み込んでいただけて、ありがたいことです。緊張する場面を撮っている時は、私も必死。何に緊張させられるかは様々です。権力による弾圧も無視できませんが、何が起きているのかが分かりかねるときの緊張が一番でしょうか。私は冷静に事態を見届けていきます。
沖縄から遠いところに居る人たちの視線を少しでも近づける。これはフォトジャーナリズムの私の基本だと再確認したいと思います。私は普段沖縄島から見ており、与那国島・石垣島・宮古島等の島々に行けば、私も同じようなギャップを避けられません。経験の積み重ねと、これから起きるだろう事を考えながら撮って参ります。
なかには「伝え方がもう少し中立になっていると良かった」というご意見もありました。しかし「中立」とは、どういうことを指すのでしょうか? バランスでしょうか。分かったようで分からないことです。私は米国・米軍を「良き隣人」とは全く考えていません。沖縄島で暮らしていれば、到底そんな風に思えません。無論、個々の米兵全部が悪いとは、思いたくありません。見ていれば、この国の警察官は「米軍を守る」のが彼らのお仕事のようです。誰がどう動いているのかを凝視することは重要です。こうした現場で客観的に見ることは極めて重要です。具体的に何をしているか、如何なる場で何をやっているのか。総じて言えば、「中立」という束縛から自由になることが、フォトジャーナリズムの神髄だと考えています。
講演についての感想も私に縷々寄せられました。「すごいアジテーターだと思った」と書かれた方がありました。私は扇動したいのではありません。何なのだろう、どうしてなのだろうと考えて欲しいのです。まだまだ私が短気なので、「考えろよ」と言うアジテーションぽくなっているのでしょう。そこを改め、もっと効果的に問いたいものです。学ぶことも知ることも、もとより大事ですが、私(あなた)が生きている場でこうなっているのは、なぜだろうと考えたいのです。
もとより1度でわからない。私(あなた)は何度も何度も重ねながら見ては、聞き、読んで疑問を絞り込む。ぼうっとしていたら何も見えてきません。
「講師の熱い気持ちは良く伝わってきた。かっての全く共闘ではなかった全共闘の時代を思い出した。今、どのような運動が必要なのか?」というご意見もいただきました。私はポスト全共闘世代です。無論その時代の陰を追いかけてきたことも否めません。しかし写真は主観的な思い込みを問い直す意味もあります。全共闘運動の「直接民主主義的な行動」を問い直す素材にもなるはずです。
キャプションの字が小さいとのご指摘もありました。確かにそうでした。狭いスペースに、少しでも書きたいという矛盾の結果です。改善していきます。(2024年10月14日)