2023年5月19日から始まったG7広島サミットは、私が予測していたように「核なき世界」を彼岸に遠ざけて終わった。そもそもこの7か国の内、米英仏は核を保持しており、議長国のこの国は、米国によるヒロシマ・ナガサキへの核攻撃を国際法違反として訴えてこなかった。それどころか、米国の「核の傘」に依存しながら、今日まで戦後78年を歩んできたのだ。
G7首脳が原爆資料館に立ち寄った、原爆慰霊碑に献花したことは、ただのパフォーマンスに過ぎないものだった。そもそも被爆国として核兵器禁止条約を真っ先に進めるべき国であるべきこの国は、日米同盟に依存してきたのであって、核大国米国に異論を挟むことすらできないのだ。そのことは現行の日米地位協定を巡る運用においても米国の言いなりであり、同根と言わざるをえないだろう。
こうした力と力のせめぎ合いの中にある今日、現にロシアと、NATO諸国の支援を受けたウクライナの戦争は現在進行形であり、核対立を隠然と孕みながら進んでいるのだ。
軍事力とは、政治の延長にある。今回の広島サミットも、経済的覇権の確保・拡大を求める手段としている現在の国際政治そのものの現れであり、招待国であるインド・ブラジル・インドネシアの取り込みを図り、対ロ(対中)包囲網を強化するもくろみの中で行なわれた。
確かに「国際協調」は容易ではない。力と力のせめぎ合いが強まることはあっても緩和に向かう気配が見えない今日、なおさらだ。核軍縮は、そもそも核兵器が何故作り出されたのかを再確認しなければ一歩も進まない。1944年、米国がナチスドイツとの対立の中で研究を始め、できあがったときには独は降伏しており、対日戦争に使われてしまったのだ。核兵器の残虐性は、米国が力と力の対立の中から核兵器を開発したことによって顧みられてこなかった。
私は、こうした78年という時空を超えて、核軍縮・核廃絶を目指すべきだと考える。広島の地を、被爆者らを政治利用するだけの空疎な「核兵器のない世界」を俎上に載せるだけのパフォーマンスを容認できない。何故こういうことが繰り返されるのか? かって「大東亜共栄圏」などと侵略大国の野望を掲げたまま力の支配を総括せずにきたこの国は、やはり力の対立に乗っかる以外の選択はないのだろうか。
悲しいことだが、このことを踏まえ直して、私たちは沖縄の地から「平和な島」を目指す以外にないだろう。