ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

琉球諸島で考える「日本」という国(連載Ⅰ何も知らない私たち)(20220305)

2022年03月05日 | 他紙執筆原稿

◎本稿は、世田谷市民運動「いち」の依頼を受けて石垣島まで書きました。何も資料をもたない時だったので、本稿では一部を補足してます。ご理解ください。

「琉球諸島で考える『日本』という国」(連載)
シリーズⅠ:何も知らない私たち

【石垣島で】
 2022年2月20日、石垣市長選が告示された。私は石垣島に滞在している。直前に「いち」編集部から「琉球諸島を巡る」問題の原稿依頼を頂いた。申訳ないけれど、昨日・今日で書ける問題ではない。
 そこで「琉球諸島で考える『日本』という国」と題して、じっくりこちらから何が見えるのか提起したい。

【何も知らない私たち】
 1951年生まれの私は60年代から75年ベトナム戦争のニュースを聞きながら、青春時代を過ごしていた。大学入学が1970年。ベトナム反戦・反安保闘争の年だ。71年、72年は沖縄返還協定粉砕・沖縄解放を闘ったつもりだった。
 しかし私が沖縄を初めて訪れたのは1989年5月のことだった。72年から17年間のブランクが生じていた。何故だろうか?
 ひとことで述べれば、私の反安保・沖縄闘争は、沖縄と向き合っていなかったようだ。スローガンだけが空を切っていたのだ。私がこう気づかされたのは、95年9月4日の米兵による少女レイプ事件を契機としてだった。
 この傾向は私一人の問題ではなかった。1967年10月8日の佐藤訪ベト(ナム)阻止羽田闘争で、山崎博昭君が権力機動隊に殺害されていた。この50周年企画の出版・展示会を私は読み、見たが、当時の反安保闘争に沖縄のことは殆ど反映されていないのだ。
註:書籍は「かって10・8羽田闘争があったー山崎博昭追悼50周年記念[寄稿編]」10・8山崎博昭プロジェクト編 2017年10月刊
また「女たちの60年安保」(女たちの現在を問う会編。90年6月刊)を読んでも同様だった。
 
 何故私たちは沖縄からズレていたのだろうか。余りにも単純なイージーな理由が浮き上がる。率直に言って、戦後生まれの私たち「日本人」は、沖縄のことを知らなかったのだ。戦前生まれの「日本人」は、沖縄を度外視してきたのだ。総じて私たちは「忘れられた島」だとベールを被せ続けてきたようだ。その上、80年代に入り、「癒やしの島」、リゾートの島として売り出されて来た沖縄。

【歴史を取り逃した私たち】
 もとより、ベトナム反戦闘争に触発された日帝のアジア侵略を問い直す取り組みはあった。だが、沖縄や朝鮮への植民地支配・戦争の歴史を掘り起こすことは余りにも少なく弱かった。
ヒロシマ・ナガサキですら、米軍のプレス・コード(原爆関係の表現弾圧の指針)が解除され(52年4月28日)、54年3月のビキニ事件後のことだった。また、朝鮮問題は50年から53年の朝鮮戦争の勃発で抑え込まれていった。沖縄は52年4月28日の片面講話の中で米国・米軍に分離され、歴史認識は寸断されていった。
 戦時中の「日本人」の大半は、「大東亜戦争」「聖戦」といった侵略と天皇の統合の歴史に塗り固めらていたのだ。だからこそ「皇土防衛」を至上命題とされた沖縄戦にも無関心を決め込み、戦後も「時間稼ぎの戦争」を問うことを疎かにしてきた。

【2013年4月28日の安倍政権による「講話=日本独立」式典】
 安倍政権は2013年4月28日、「講話=日本独立」60周年式典を開催した。このことは、暗に沖縄の分離を昰とし、72年5月15日の「復帰=再併合」を黙殺した暴挙だった。
 この式典は、2010年の防衛計画大綱が「動的防衛力」を掲げ、軍事力の強化を打ち出し、2013年12月の同改訂が「統合防衛力」を打ち出し、「琉球諸島防衛」-島々に対中軍事網をつくりあげるまでになる中で強行された。この踏み台をバネに2015年安保法制がつくりあげていく。

(2022年2月23日執筆。つづく)  

 



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