ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

【訂正】これから私は、沖縄で何をやっていくのか?

2021年09月03日 | ヤマヒデの歩み

大変長くて、恐縮です。8000字余りある。なお、ご連絡はコメント欄へ。メールアドレスなどいただければ対応いたします。無論、ブログにあげません。(ヤマヒデ) 

●これは、私のメモランダムです。今後とも、ご理解と、ご協力をいただければ、幸いです。


Ⅰ:私が沖縄について、あるいは沖縄で、これまでにやってきたことをふりかえる。
(1)1989年5月~1995年9月
①沖縄との出会い初めは偶然であり、必然だった。偶然とは都職労青年部反対派有志による沖縄への旅から始まった。「沖縄に行けば、安保がみえる」(記憶なので正確な呼称ではない)。ここに私は、すでに青年部の歳ではなかったが、参加したのだ。それがこんなに長く続くとは、当時思ってもいなかった。
 必然とは何か。1989年1月7日、天皇裕仁が死んだ。前年から天皇の代替わり過程が始まっていた。こうして私は、私たちが背負うべき歴史を《侵略の加害と被害の両面》から考えることを問われ続けてきた。そして1991年末、ソ連邦が崩壊した。米ソ冷戦構造が壊れていったのだ。


②沖縄を訪れる度に、現在の基地問題を思い知らされ、この国の歴史の延長にあることを自覚せざるをえなかった。1993年5月、糸満市で天皇の全国植樹祭が開かれた。「天皇と沖縄」は私のテーマになったのだ。


③1995年9月4日、米兵3名が12歳の少女をレイプする事件を起こした。沖縄はあらためて、「怒りの島」になった。こうした事件が起きる度に、兵隊によるレイプ事件の「必然性」と、「男」という存在を私は考えさせられ、考えてきた。

(2)1995年10月~2004年4月
①沖縄の闘いは、上記の闘いと、土地収用を巡る闘いが絡まり合いながら、発展していく。時は大田昌秀県政(1990年から98年)下だった。大田知事が、地主の土地契約拒否、首長の代理署名拒否を受け、遂に土地収用を拒否したのだ。こうした米軍提供用地の「不法占拠状態」を解消すべく国が沖縄県を提訴したため、全沖縄レベルの闘いになっていく。

②1996年4月12日、「普天間基地返還」が橋本首相とモンデール大使の会談で、決まったかのように見えた。しかしこれはウソだった。1996年4月17日の両国間の「安保再定義」は、冷戦後の安保体制をアジア太平洋安保として、米日共同の軍事態勢をとる第一歩となっていく。同年12月に鳴り物入りで交わされた沖縄特別行動委員会(SACO)合意は、「普天間基地返還」に見せかけた基地の再編強化を取り決めるものだった。そして1997年9月の「米日ガイドライン(軍事指針)」締結を受け、この国は1999年、周辺事態法を制定し、米国と共に戦争を始める基礎を作り上げていく。これは、「専守防衛」から《攻守防衛》への跳躍台となっていく。

③2001年9月11日、米国は未曾有の攻撃に遭う。米国は「対テロ戦争」を呼号し、アフガニスタンへ、イラクへと戦争をしかけていく。これを受け、日本政府は、2003年、04年、武力攻撃事態法や国民保護法制を制定していく。政府は自衛隊の海外派兵を始めていく。04年、05年の沖縄はシーンと静まりかえっていた。「テロ」で観光客らが来ない、米軍はイラクへ、アフガンへ出払っていたからだ。沖縄の静けさは、海外を戦場にして、もたらされていることを、痛感させられた。

④2004年4月17日、日本政府は、辺野古漁港で、新基地建設に着手してきた。これに対して市民・住民は、沖合案のための作業ヤード建設造りを阻止したのだ。ここから現地では座り込みが連日始まった。

(3)2004年6月~2010年12月
①辺野古の座り込みが始まると、私はここに足繁く通い出す。東京から沖縄の辺野古へ。私はこの珊瑚礁の海を知り、ここに「普天間基地返還」のためと言いながら新基地建設(飛行場のみならず弾薬搭弾場、軍港等をセットとした機能を併せ持つ)を造成することを認めることは出来なかった。明らかに軍事力の強化であり、中部(嘉手納・普天間)中心の沖縄の基地群を北部にシフトしていく。シュワブ基地から南西に中部訓練場、北東に北部訓練場をセットにし、中部の混雑(過密と渋滞)を緩和し、基地返還のイメージアップを狙う。

②特に2005年の「米軍再編」と2006年の「ロードマップ」は、米国のアジアでの戦争政策を大きく変えるものだった。沖縄の海兵隊8000人を、沖縄の南東約2400kmにあるグアムに下げる計画にもかかわらず、「沖合案」を「沿岸案」に変えながら、なおも固執している。この後退は中国との戦争を見据えたものだ。
 これはおかしい、訳ありに違いないと考えながら、私は東京都内等での辺野古を中心とした沖縄写真展を繰り返していた。

③2010年1月の名護市長選での稲嶺進市長の誕生は、初めての光明だと言えた。私も現地に来て、これが名護市長選なのかと感じ入っていた。中央政府対名護市民の闘いだった。

④訳ありだと見定めたのは、2010年末のこの国(民主党政権)の「防衛計画大綱」を読んだからだ。「南西諸島防衛」とあるではないか。「動的防衛力」ともあり、米日共同軍で対中戦争に備えるようだ。新基地建設もこの一環であり、米日共同軍の要となるのだ。これで私の次の手が決まった。

(4)2011年1月~2013年9月
①琉球諸島が軍事化されるとはどういうことだ。それまでの私は、89年5月の初めての沖縄で、珊瑚礁の白保を守る運動の渦中にあった石垣島に行っただけだった。だからまずは行ってみるべし。2011年9月、与那国島、石垣島、宮古島に行った。日本の最西端に当たる与那国島は那覇から約520km。直行便は一日一本しか飛んでいない。あとは石垣島から乗り換えとなる。
 こうして沖縄島+琉球諸島となると、ゼニも時間もかかる。与那国島は小さくて歩いて回るのに最適な面積の島。大海原に取り囲まれた(珊瑚礁が殆どない)この島がレーダー基地になり、台湾まで110kmの距離であり、最前線となりかねない。あってはならないことだ。また、石垣島も宮古島も東西に延びる琉球諸島の中枢の島であり、飛行場も港もある。「尖閣防衛」という戯れ言ではなく、北海道から九州につながる即応機動部隊との連結など、点が線となり、面(ゾーン)となっていく。「島の安全保障」などと騙されては、ならない。沖縄島からグアム島までの北西から南東への米軍の軍事ゾーンがつくられ、「琉球諸島防衛網」とダブルミックスとなる。

②防衛省が「島嶼奪還作戦」というように、島人は、島に取り残され、盾にされていく。今度は米国のための第2の沖縄戦が想定されているのだ。だからこそ、島のことは島人が決める。これが肝心なのだ。

③こうして私は沖縄へのお引っ越しを考え始めた。私が沖縄島に引っ越したのは、2013年10月。なぜだったのだろうか。(イ)前記の通り、経済的な負担の大きさ。(ロ)東京で「島嶼防衛」を語れども、聞く耳もたずの状況に耐えきれなかった。(ハ)辺野古への基地建設を許さない実行委員会での一坪反戦地主会関東ブロックのあたかも党派であるかの言動(自己中)、軋轢に悩まされていた。(二)2013年4月28日に安倍政権が開催した「主権回復の日」に私は驚愕させられた。1879年、沖縄を併合し、1952年4月28日、沖縄を切り捨て、1972年5月15日、再併合しながら「主権回復」だと、「天皇陛下(ママ)万歳!」とやったのだ。私は怒りに震え、あきれかえった。天皇の「命」のために捧げられた沖縄戦であり、沖縄の米軍基地化であることを私たちは忘れてはならないはずだ。
(ホ)また、2012年、13年は、MV-22オスプレイがゲート前等での住民・市民の座り込みが日本政府の命を受けた機動隊に排除され、普天間基地に強行配備された。東京でネットで見ているだけでは、いじいじするだけだった。これを見ていた私は、悔しさが募っていった。

④それまでの私は、決して沖縄に移り住まないと決めていた。差別・抑圧してきた「日本人」として、何をどう革めるのか、東京(地元)で考え実践する、だと私は拘ってきた。この考えを宗旨替えしたのだった。この両者の間での葛藤は大きかった。しかし、家族との葛藤は比較的小さかった。深く感謝している。
 また、沖縄に来る決意を固めたのは、辺野古テント村の人々の引きがあったからだ。これがなければ、私は沖縄にこなかったことだろう。

(5)2013年10月~2021年8月31日
①2013年10月、私は名護市民(沖縄県民)になった。そこから怒濤の名護市長選が始まる。名護市民の未来と新基地建設を止めるために、必ず勝たなければならない。2014年1月再選。辺野古テント村も沸きに沸いていた。

②辺野古テント村での生活は、来訪者への新基地建設や沖縄の歴史を巡る説明、沖縄と「日本」の歴史を語り、時に沖縄島の案内。多数の修学旅行生への対応、ゼミ生や各地のジャーナリストの訪問・取材や右翼、一般観光客など幅広い対応が求められ、見た目よりも遙かに難儀であった。
 また、私は「島嶼防衛」の問題を辺野古テント村でも大いに言及し、新基地建設とのセットだと訴えてきた。私は抗議船にも乗り、現場からの撮影を行っていた。現場での実感は、他をもっては変えられないものがある。

③2014年6月沖縄県知事選が翁長雄志候補を推して取り組むことになった。相手候補は、13年12月に埋め立てを承認した現職、仲井真弘多だった。「いい正月が迎えられる」と言い切った空威張りがマイナスの共鳴板になり、オール沖縄の力がこの国の中央政府を押し返した。 

④私が危惧していたとおり、安倍政権は2014年7月から基地建設に本腰をいれてきた。こうして辺野古側の埋め立てが進められてきた。防衛省は、軟弱地盤が広がっていると知りながら、2021年8月下旬、大浦湾側に着手してきたのだ。

⑤この2014年7月1日、安倍政権は、2つの重大な閣議決定を行った。第1に新基地建設のための「臨時立ち入り制限区域」の設定であり、第2が「集団的自衛権」の「一部合憲化」だった。前者は海辺沿いの基地提供のために基地(海岸)から海側に50mまでを基地に付随するエリアとして提供しているが、これに加えて基地建設の名目をつけ、2000mもの海域を取り囲み、「基地益(米日共同利権)」を押し出し、海人を含む第3者を排除している。これは、反対派の抵抗運動を潰し、自然破壊の調査なども不可とする多元的な意図があったのだ。
 同時に閣議決定された「集団的自衛権の合憲化」は、自民党政権がこれまでの「集団的自衛権=違憲」としてきた解釈を「限定的合憲」としたものだ。米軍等との共同作戦を大きく広げ、兵站機能を分かち合い、米軍等の防護・攻撃に当たることを可とするものだ。この閣議決定は、2015年4月の米日ガイドライン(軍事指針)決定の意向を先取りしたものであり、2015年9月、戦争法が強行採決に至る。こうして米日攻守同盟が確定され、運用されていく。

⑥高江のことにも言及したい。この国が高江にこだわったのはなぜだろう。これは(3)①でふれたが、新基地建設を中心に、中部訓練場と北部訓練場を結び、北部訓練場を使い勝手のいいものにするためだ。よりコンパクトに効果的に。こうして約8000haの半分の土地を返す替わりに高江集落(人家)の近くに6カ所のヘリパッドを新造し、また上陸演習場も造る。
2016年夏の闘いが大きな闘いとなった。この国は沖縄県警以外に警視庁と4府県警500名を動員し、県道70号線を封鎖して、ヘリパッド建設を強行したのだ。日本のマスコミはこの事実を殆ど報道しなかった。DHCがウソとヘイトの番組を制作した。大阪府警の警官が沖縄の民衆に対して「土人」と悪罵をなげつけ、安倍晋三の妻、安倍昭恵がひょこひょこやってきて、ピエロを演じて幻惑していった。
また、高江の闘いで私たちが忘れてはならないことがある。高江住民の会と現地に結集した多数の集まりの間のミスマッチは、少なからぬ問題を残したと私は考えている。
私は、たまたま経産省前テントが強制排除された2016年8月21日朝、経産省前に立ち寄った。なんと公安刑事に踏み倒され、公務執行妨害罪をでっちあげられ、不当逮捕されたのだ。安倍(自民党)政権の急所が原発と軍事基地であることは、こうしたことにも現れていたようだ。

⑦島嶼防衛網は2016年3月、与那国島にレーダー基地ができ、2019年、宮古島に警備隊、20年に対艦ミサイル・対空ミサイル部隊が配備された。今弾薬庫の3分の2が完成し、ミサイルの搬入が準備されている。奄美大島にも19年、両ミサイル部隊が配備された。石垣島においては工事が進められており、23年新編されると言われている。こうして「島嶼防衛網」が西から東につながってきた。防衛省は、2021年8月20日、沖縄島(勝連半島)に対艦ミサイル部隊の新設を明らかにしてきた。馬毛島(鹿児島県)の米日訓練場の新設や、佐賀空港の陸自オスプレイ部隊新設が画策され、海自護衛艦の航空母艦への改修を進めるなど、米日一体での共同作戦態勢ができあがりつつある。

⑧話を沖縄に戻す。2018年1月・2月の名護市長選は、自・公―中央政治が準備万端全力で取り組んできた。これに対し、オール沖縄の側に、3期目という油断があり、敗北を喫した。新市長は保守、中央政治の軍事依存に忠実な渡具知武豊だった。

 2018年8月8日、翁長知事が亡くなった。沖縄県は8月31日、埋め立て承認を撤回した。県知事選は予定より前倒しされた。翁長知事の後継となった玉城デニー候補が圧勝した。ここには沖縄県民の意地が票に現れたのだ。また、デニー候補の柔軟な姿勢もプラスに作用したようだ。

⑨私が2013年10月に沖縄・名護に来たのは、現地での新基地建設を止める、島嶼防衛に反対する取材にあったが、現実として、辺野古テント村に関わる負担が大きくなり、現地取材がおろそかになった。私の体はひとつしかなく、二律背反になっていた。しかし打開策を見いだせなかった。
それでも私がこれまで続けることができたのは、テント村メンバーの支え合いがあり、海上行動やゲート前の人々との連帯があったからだ。そして「常連メンバー」とも言える人々の度重なる来訪に、私は大いに励まされてきた。
苦労を8年間共にしてきたテント村の仲間に、また今は沖縄を離れている仲間に、私は深く感謝している。誠にありがとうございました。

⑩2020年3月からのコロナ禍の広がりは、沖縄と全国各地の往来を困難にしてきた。他方、国は、不要不急な工事を強行しているのだ。だがこれこそが、戦後自民党(自公)政治の真骨頂だ。すべては安保と共に、民意を掃き捨て。2021年4月、米日首脳会談で「台湾有事」まで言い出した。 

Ⅱ:これからのこと
①私の基本は不変
◎「人と人がつながって」、「人と自然がつながって」。しかし今回の事態は、この根幹がくずれたのだから、とても痛い。即補修できれば、こうはならなかった。
◎何をやるのかの前に、一番大切だと思うことを書く。信頼関係を作り上げること。お互いに、不断に。謙虚に意見を聞くこと、自分が担当していないことにも目を、耳を向けること。地道に取り組むこと。
◎市民運動の原則を再度踏まえること。個々人の発意が活かされること、やりたいことをやりながら、協力しあうこと。自腹を切ること。 

②固まった場がない中での模索
 私は自由になった。まず自分から動き出す。おかげさまで、やるべきことはたくさんある。個人で動いていく。この中で、他者への思いを働かせ、他者(写真を撮りたい、学びたい人を含む)、市民運動(上記の意味での)住民運動との連携も常に視野に入れ、新たな可能性を探りたい。

③時・空を自覚しながら
 人間が生きていくということは、そこに良くも悪くも、社会をつくり歴史を作っていくものだ。私たち「日本人」が沖縄に関わるとき、如何なる社会と歴史を作っていく、いけるのかに自覚的でありたい。そうでなければ、無責任になり、間違いをおかす。日清戦争以来の侵略戦争が、飽くなき海外膨張、植民地支配を拡大し、挙げ句の果てに沖縄戦に至ったのだ。そして沖縄は、米国による軍事占領を受け、アジアにおける米国の軍事拠点にされたのだ。
沖縄を切り捨てた「戦後日本国家」は、ここから出発し、今再びふんぞり返っている。こういうと、「了見が狭い」と言われるかもしれない。この壁を越えない限り、沖縄に、「日本」に、自治・平和・民主主義をつくれない。私たちが歴史を顧みなければ、過ちを重ねていくしかないだろう。

④今大切なことは何か
 「日米地位協定は日本国憲法の上位にある」と指摘されている。現実をみていれば、日々(悔しいけれど)実感できることだ。但し、地位協定の「文言」と「実態」の違いを見れば、実相が見えてくる。米国政府・米軍―日本政府―沖縄の上意下達の3層構造が透けて見える。これは、事件・事故が起きてから見えてくるのだが、実は不断にそうなのだ。
 ということは、これに対する沖縄の構えが、事が起きてから抗議するだけでは遅い(弱い)のだ。常に原因を考察し、対処方針を県・市町村、人々が連携し、準備していなければ太刀打ちできない。
 この上に立って、私は現在進行形の新基地建設や、「島嶼防衛」などの問題を見ていきたい。軍事演習から、軍事動向まで見極めていきたい。抵抗の闘いにつながりたい。もしも中国との戦になればどうなるか?! 沖縄が戦場となり、またたくまに日本中が戦禍にまみれていく。核戦争もありえるだろう。米日・中が共に先制使用を可だとしている。核兵器禁止条約を批准していないのだ。

⑤オール沖縄勢力との関係について、私の立場
 オール沖縄勢力は、オスプレイ反対と新基地建設反対の共闘だという。みてきたとおり、私の見解とは異なる。自衛隊は米日共同作戦の部隊に成り上がっている。いつまでも防災と急患搬送のお便利なものではない。対中戦争を避けなければ、沖縄は生きていけない。あの沖縄戦の経験から育まれてきた「命どう宝」を活かすならば、第2の沖縄戦を招きかねない事態を排除するしかない。
沖縄こそが、米国・日本国、中国の双方に、「覇権主義を許さない」と言うべきだ。こう言い切れる勇気と、そのための態勢をつくりあげたい。
故翁長雄志前知事は、「腹7分目」と言っていた。しかし沖縄人の命を摩耗する事が必至(必死)な本件を曖昧にしていいのだろうか。これは断じて党利党略ではないと、私は考えている。

⑥「不承認」の動きを加速させたい
 防衛省は、大浦湾側の工事に新規に着手した(N-2護岸)。コロナ禍に悩まされている玉城知事の動きが鈍い。「不承認」にとりくむ世論喚起を考えたい。「不承認」を呼びかけたい。沖縄-全国各地でつながることを考えたい。どうしたら新基地建設を止められるのか。もう時間がない。

⑦一連の選挙について
 10月に衆議院選挙が行われる。2022年1月に名護市長選、2022年6月に沖縄県知事選がまっている。この一連の闘いに本腰を入れるべき時がやってきた。まだ私自身は、具体的なことを言える準備が出来ていない。やれることはなんでもやりたい。早急に考える。

⑧沖縄の自然を見直したい
 私は元々ナチュラリスト(自然観察者)。琉球諸島は、湿潤な亜熱帯地方にある。珊瑚礁の海が広がり、独特な照葉樹林が広がっている。基地問題すらなければ、もっと注目されたはずだ。私は辺野古・大浦湾を日々観察しながら、また琉球諸島の島々で、こう実感してきた。
 基地と観光の2重の経済は、沖縄の自立には向かわない。大資本に吸い取られるだけだ。自然との付き合い方が、お金に集約されてしまい、沖縄の自然は珊瑚礁の海のイメージだけに押し隠されてしまう。
因みに、私はこういう写真を撮る写真家を全く信用していない。
 沖縄には、アキノ隊員のような愚直なナチュナリストがもっといなければウソだろう。やんばるの森を米軍基地(米日共同使用)から全面返還させること、返したという場所から銃弾などの「遺留品」を処分させることは、ごく正当な要求だ。「世界遺産」がなんだか知らないが、問題は実態なのだ。
 沖縄島の領域だけで自然を見ていたら、視野が狭くなる。私は「島嶼防衛」を撮影する合間に、こう実感させられてきた。例えば、ツグミ類の渡りは、沖縄島と、宮古島・八重山では、全く違う。沖縄島にはほぼシロハラしか渡ってこないが、ほかでは多種が渡ってくる。渡り鳥の調査をやれば、おもしろいことがわかってくる。国境をひょいと越えてくる鳥たち。エリグロアジサシなどは、南半球から渡ってくる。
 野鳥が渡ってくる自然を残すことは、暴力本位の軍事基地を強化することの何千倍もの意味があるだろう。これからの生きものたちの未来のために。私たち人間も生きものなのだ。

⑨重要な補足―自活のために
 動けば動くほどお金がなくなる。絵はがきの販売、ブックカードの制作・販売、写真の販売など、対応できることは何でもやりたい。沖縄の自立のために苦労されている個人・団体に協力したい。基地・平和ガイドもやりたい。市民講座の出前にも応じたい。そのための準備を急ぎたい。(2021年9月3日)

 



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