ハレ時々オンデマンドTV

オンデマンドTVの感想やら日々の見聞録

浅草ロック座でケイトブッシュを聴く

2007-01-30 04:29:21 | Weblog
人間永く生きていると色々とふがいないことやら、
後ろめたいことを多々背負うことになる。
自分にとって、そのひとつが
いい歳をしてストリップを見たことが無い、ということだった。
別に無理して避けていたわけでもないし、機会が無かったということなんだけど
こういう(どういう?)仕事をしていながら見たことが無いというのは
やはり、ちょっとまずいのではないかと思っていたわけです。

で、今日たまたま浅草方面で打ち合わせが終わったあと
知り合いと晩飯を食べていて、ふと、ロック座があるじゃないか、
ということを思い出した。
折角だから一緒に行こうと、知り合いも誘ったのだけれど
あっさり断られ(女性だから、しょうがないか)結局一人で見ることにした。

観客はほぼ自分より年上の、おじさん(おじいさん)ばっかり。
ステージの踊り子さんは、まるで娘か、下手したら孫くらいだろうから
これはまさに学芸会だ。
孫の学芸会のお遊戯を見に来たおじいさん、と思ってみてると
なるほど会場は実に和やかで、ほのぼのとした空気に満ちている。

肝心のステージの方はというと、非常にソフトで
島歌が流れたかと思うとラテンの曲になったりめまぐるしく音楽が変わるのだが
ケイト・ブッシュの曲が出ていたときは、笑ってしまった。
まさかこんな浅草のステージで使われているとは、夢にも思うまい。

この業界がいまどういう状況なのか良くわからないが
少なくとも、この時代にこの職業を選んで踊っている彼女たちは、
それなりに志があるのだと思う。
元来「ストリッパー」という職業にはいわゆる風俗業とは一線を画する
存在感というか、オーラがあるように言われる。

10年ほど前は、かなりエゲツないことまでやっていたらしいけれど
結局それは、いくつもの小屋を潰すことにしかならなかった。
今日見た限りではステージの上で溌剌と踊る女性のエネルギーと
それを見守るやさしいおじさんの和んだ空気があって、
本来の姿(?)に戻っているのかもしれない。

AVやらアニメやらゲームやらバーチャルな世界がひたすら過激化していく一方で
リアルな世界が(ごく一部ではあるけれど)元に帰ろうとしている。

これも一種のデジタルデバイド?



ウルトラセブン 第四惑星の悪夢

2007-01-29 01:01:18 | ウルトラシリーズ
ウルトラセブン 第43話
第四惑星の悪夢/第四惑星人登場

昨日に引き続き、今日はオンデマンドTVで
ウルトラセブンを見る。
昨年亡くなった実相寺監督作品。
シュールな中にも
アンヌ隊員のアップカットが美しい。

新型ロケットの試験飛行に出たダンと曽我が
地球(日本)とそっくりな、アンドロイドが人間を支配する
第四惑星に連れ去られる物語。
そこでは、生活の全てが500年先まで
「電子計算機」によって予測・管理されている。

思うに、コンピューターという機械は、世代によって捉え方に
かなり違いがあるのではないだろうか。
われわれのような40代以上の世代にとっては「電子計算機」であり、
複雑怪奇なシステムを管理するためのハードマシンであろう。
もう少し下の、特にデザインに詳しい人なら
「グラフィックマシン」であり、すなわちそれはマッキントッシュ。
多分、ウインドウズの3.1や95で接した人なら、
「ビジネスマシン」であろう。
インターネットの常時接続が当たり前になった現在では
「コミュニケーションマシン」であり、ハードというよりソフトマシンである。

汎用性の高い機械だから当然といえばそうなのだが
自動車や飛行機に対する認識はそう変わらないのに比べると、この違いは大きい。
コンピューターの役割がほぼ携帯電話と相似する現代の認識からすると
「電子計算機が人間を支配する」とは、まさに大時代的感覚かもしれない。

デジタルデバイドという言葉があって、地域や世代、教育によって
IT関連機器や情報に接する頻度に差が生まれ
その利便性を享受する機会に差が出ることを意味している。

パソコンも随分安くなり、インターネットもほぼ全国で
ブロードバンドが利用できるようになっていることを考えると
コンピューターに触れる機会は(日本なら)
ほぼ誰にでも均等にあるように思える。
ただ、コンピューターという機械に対する認識の違いが
年長者に消し去りがたい距離をつくっているのではないだろうか。

また、コンピューター=電子計算機という認識に凝り固まっている世代には
キーボードも近寄りがたい障壁になっている。
彼らにとってみれば、天気を調べるためにコンピュータに向かっても
無表情なキー配列が行く手を阻んでいるのだ。

ほんの10年の間でパソコンは格段に小さくなり、性能を上げてきた。
処理速度もメモリーもどんどん大きくなっている。
一番変わっていないのが、インターフェイスなのではないだろうか。

キーボードやマウスが無くても
ゲタを蹴り上げるように簡単に扱うことができれば
世のオジサン、オバサンたちはもっとコンピューターを使うようになるだろう。

そのとき初めて
「人間が電子計算機に支配される」という悪夢から解放されることになる。


いやはや、オジサンというのも手がかかるものだ・・・


ウルトラマン スカイドン

2007-01-28 02:51:33 | ウルトラシリーズ
ウルトラマン 第34話
空からの贈り物/メガトン怪獣スカイドン登場

久しぶりにオンデマンドTVでウルトラマンを見る。
ある冬の晩に、空から突然、チョー重い怪獣スカイドンが降ってくるという話。

この怪獣、ひたすら重くて、火を吹いては眠っているばかりだが
重すぎてウルトラマンすら歯が立たず、一時撤退してしまう・・・

で、この回が面白いのは、怪獣がしょうもない分
サービスカットのテンコ盛りで話を成り立たせているところか。

冒頭、雨の赤坂に出たキャップにジェットビートルで傘を届けたり
井出隊員の目の前のビルで身投げがあったり
夜中の警報でフジ隊員がパジャマ姿で出てきたり
怪獣を退治したとよろこんで、基地の中でビールで乾杯したり
航空自衛隊のF86が実写で、しかもブルーインパルス機がチラッと見えたり
皆でカレーを食べているところに怪獣が舞い戻ったため
早田隊員がベータカプセルとスプーンを間違えて変身しそこなったり
(有名なシーンですね)
〆は公園でお茶をたてるフジ隊員の和服姿。

ウルトラマンの出番が少ない分、科特隊が奮闘するが
四回も作戦に失敗するし・・・

なんだか訳のわからない展開ながらも怪獣を追っ払って、
最後のフジ隊員のセリフが
「もう空から変なものが降って欲しくないわ。だって春なんですもの」・・・
何か、大らかでいいなあ。

こういう天真爛漫というか、思考は、どこか落語に似ている。
怪獣だの何だの、訳のわからないものは
「冬なんだからしょうがないよ」と半分あきらめながらも
歯を食いしばって耐え、春が来て暖かくなると
それだけで「いいことがあるぞ」と喜ぶ。
人知を超えたものは、笑いとペーソスで乗り越えていくという
庶民的な生活感覚というか、処世術なのだと思う。

その根底には、未来に希望を感じ、人を信じて生きるという
ささやかながらも前向きで、愛情に満ちた暖かさがある。
「庶民」という言葉の裏には、それを卑下しながらも愛情を持って人認め
したたかに生きる快活なエネルギーがあった。
このエネルギーがニッポンを支えてきたのではないのか。
ウルトラマンこそ、そのエネルギーの象徴だったのだと思う。

最近「庶民」という言葉に替わって言われるようになった
上流・下流だの新下層階級だのワーキングプアだのという殺伐とした言葉には
愛情のカケラすらなく、互いの存在を認める余裕もない。

ウルトラマンの時代から40年が経ち、毎日流れるニュースでは
耳を覆う、人心を逸したかと思わせるものばかりが目立っている。
人間の心に怪獣を育てたのは、「庶民」という言葉を死後にしてしまう
想像力と愛情の欠如に他ならない。

モノがあふれ、情報はいつでも即座に手に入るようになった。
40年前はSFのおとぎ噺だったことが、目の前で実現している。
その代償として、未来への希望という想像力を失ったといわれても
とてもつりあっているとは思えない。

あのウルトラマンを生み出した大らかな想像力を
もう一度、取り戻すべきなのだ。


・・・と、おじさんは夜空に向かってこぶしを突き上げるのだった。
(遅いんだから、もう寝ろよ!)



加賀百万石名品展

2007-01-26 23:45:36 | Weblog
平日の真昼間からデパートに行くことなんて滅多にないのだが
たまたま時間ができたので、そごうデパートの横浜店に行ってみた。
所詮、お客さんがいるのは地下の食品売り場くらいだろうと
タカをくくっていたのだが、結構上の方まで客足が伸びているようで驚いた。
それも、割とご高齢の女性ばかり・・・で、上まで上がってみると
「加賀百万石名品展」という、定番イベントの開催中だった。

別に毎度見ているわけではないのでこんなこという資格はないのだけれど、
どうも十年一日というか、あまりにも変わり映えがしないんじゃないかと思う。
というよりも、伝統のものとか本当に価値あるもののよさが、伝わってこない。
地域で生まれ愛され続けてきたもの、あるいは新しく生まれつつあるものを
つくり手の思いやら情熱やらを、もっと感じられるようにできないのだろうか。

ガラス貼りのブースの中で寿司の実演をするより
インターネットで現地のリアルタイムの映像を見せたり
テレビ電話で話をしながら買い物ができたりすると
面白くてよいのではないかと思ったりもする。
あるいは、手描きのメッセージを添えるとか
アナログでナマな手法もあるだろう。

某大手菓子メーカーの例を待つまでもなく
今の時代、生産者と消費者の距離があまりにも離れすぎている。
遠隔地のものや旬のものが簡単に手に入るようになったのと矛盾するようだが
地域性がなくなり、商品が均一化された分
そこに介在する流通システムが、両者の間を分断してしまったのだろう。

めっきり少なくなった町の八百屋さんや魚屋さんの商品が
いかにも新鮮で、おいしく、安全に「思える」のは
売り手(生産者)と消費者が相対することで
距離感を感じさせないないからだ。
そこには「消費期限」や「衛生管理」とは次元の違う信頼関係がある。
いま必要なのは、この信頼関係なのだ。

製品の良し悪しは結局はモノの質によるものと思うが
価値を伝えたり、感じたりするのは生身の人間だ。
それを忘れると道を誤ったり、本来の姿を見えなくさせてしまう。


・・・などと偉そうなことを考えつつ
元気のいいエプロン姿のばあちゃんに笹ずしをすすめられ
化粧の濃いおばちゃんに「食べてみ!」と言われて
差し出された佃煮を断りきれず、
今夜の食卓は金沢・保古町「芝寿し」さんの笹ずしと
金沢尾張町「佃の佃煮」さんの若さぎ浮かし炊きです。

それはそれで、おいしいからいいんだけど・・・



笹寿し/金沢市保古「芝寿し」製 10個入り 1,050円
若さぎの浮かし炊き/金沢市尾張町「佃の佃煮」製 100g 368円
そごうデパート「加賀百万石名品展」にて
※1月30日まで開催中

ボーネルンドの地球儀

2007-01-25 22:20:51 | Weblog
ボーネルンドの横浜みなとみらい店に行く。
ショップに「KID-O-KID(キドキド)」という
プレイスペースが併設されていることもあって
平日の昼間だというのに(だからこそ、か)
ベビーカーママと子どもたちで大盛況だ。

子どもを外で安心して遊ばせることができない今どき
広々としたスペースで、親子で思い切り羽を伸ばせるスペースは
有料(30分/子ども600円、大人200円)でも
安いくらいなのかもしれない。
自分の子ども時代を思うと、本当に隔世の感がある・・・

ベビーカーで外出するときは、水やらタオルやら
荷物が多くて大変だというから、お母さんものんびりできていいのだろう。
顔見知りもいるようで、お母さんにとっては「井戸端」の延長でもある。

ショップも混んでいて、いくつかの玩具は現物を触って遊ぶことができる。
キャラクター全盛、商魂丸出しの日本製のおもちゃと違い
ヨーロッパ製の玩具には大人が知恵を絞ってつくっている愛情があり
そこにも同じ安心感がある。
結構売れているようだが、セール中だったから、
というのはあまり関係なさそうだ。
(道を挟んだ向かいのトイザラスは閑古鳥が鳴いていた・・・)

ついつられてドイツ製ステラノヴァの地球儀を買ってしまったが
北極と南極を軸にするのではなく、赤道面を水平にカットして
横回転はもちろん、縦スクロールもできるところが面白い。
グーグルアースを見るように、縦横無尽の視線で
地球を眺められるところが、なかなか楽しめる。

これひとつで事足りる、というものではないが
気軽で楽しい、という点ではおススメ、だな。


ボーネルンドの地球儀
¥1,836(セールなので1,400円くらいだった)
ボーネルンドみなとみらい店にて