2022年11月11日(金)18:30開場 19:00開演
サントリーホール/ブルーローズ
・ルボンa、b(1987-89)
・響・花・間(1969) ※音響デザイン/寒河江勇志
・サウンドインスタレーション(即興)
・プサッファ(1975)
休憩
・ポストトーク 山之内正(評論家)、加藤訓子、水野みか子(作曲家、音楽評論家)
小ホールで椅子を並べた座席。観客は60代以上が8割の印象。ステージ上には3組の打楽器セット。向かって右がルボン、中奥がプサッファ、左はインスタレーション用。それぞれに大きなドラムまたはティンパニを置き、皮と木と金属が加わる。各セットによって木と金属の楽器に工夫があるようだ。
19:00定刻に加藤氏登場。黒のノースリーブに茶色の長い髪。体全体を使って優雅に、機敏に、髪を振り乱して叩くさまは圧巻。ダンスパフォーマンスを見るようなビジュアルインパクトはいつも通りで、あっという間に引き込まれていく。
<ルボンa、b>
2曲が同時に演奏されるのも珍しいとのこと。五線譜に書かれた作品。
aは、木製のスティック(ばち?)を使い、トントン、ズドン!と一定のリズムの中に、弱音と強音が入り混じる。途中でちょっと複雑な展開もあるが、比較的淡白な感じがした。
bでマレットに持ち替えた分、音圧が一段上がり、さらにスピードと迫力が増してリズム、音色も複雑化してくる。終盤に向かってダダダダと盛り上がっていくところは、やはり気持ちがいい。加藤氏自身の言葉によればaは和の印象で、和太鼓を入れて演奏していたこともあるそう。bはビートのあるラテン的な印象とのこと。
<響・花・間>
ルボンbが終わると間髪入れずに何やらノイズが聴こえだし、曲が始まっている。序盤では怪獣の声のような弦楽器のグリッサンドや、蜂の羽音のような音など、長短強弱様々な音がコラージュされていく。こういうと怒られそうだが、いかにも昔の電子音楽といった感じだ。大阪万博のためにつくられた曲で、主な音源は小澤征爾さんが指揮した日本フィルの演奏を加工したものだそうだ。現実音はなさそうだったが、日本らしく三味線の音も加わっていた。初演時は会場となった空間の床、壁、天井に1008個のスピーカーを仕込んで、8チャンネルの音を振り分け、三次元的に音を体感するようになっていたらしい。本日は小ホールの4カ所にLINN社のポール型スピーカーを立てていたが、内部に32個のミニスピーカーが入っているということなので、128個での再現。さすがに床下からというのはなかったが、頭上で響くような音がするなど、十分立体的な音作りがされていた。聴きながら今更のように思ったのは、やはりこういう曲でもテンポなり時間軸があって、出入りする音もコントロールされているがゆえに、成立しているということ。終盤重量感のあるホワイトノイズがブワーッと盛り上がって収束していく。
<インスタレーション>
響・花・間の残響が消え入る間に、どこからか風鈴がなるようなチリンチリンというかすかな音がして、再び加藤氏が登場。左袖の打楽器セットに入って演奏が始まる。この曲ではティンパニの上に載せた大小のおリンをゴムのマレットでこすって出すユワーンという音と、同じくティンパニの上に置いた5つのアンティークシンバル、シンバル、銅鑼の音を中心に構成されていた。ルボンとプサッファが皮のリズムを主体にした曲のため、あえて金属系の響きを使ったのかもしれない。これは私の憶測。たゆたうような響きにシンバルの連打が気持ちよく響き、冒頭と同じく謎の風鈴の音を残しつつ、中央奥のセットに移動。
<プサッファ>
まるで儀式のように天井を見上げ、意識を集中させてマレットを振り下ろす。これも皮をメインにリズムを刻んでいくのだが、五線譜に書かれたものではなく、等間隔に引いた縦線の間に3種類(皮、木、金属)の打楽器の音が点で配置されている曲だそうだ。そのせいかどうかはわからないが、最初はリズムがつかみづらく、微妙にずれている感じがして音に没入できなかったのだが、単なる聴覚の鈍ったオヤジの勘違いかもしれない。ただドラムを強打するとき、高々と左手を上げてややしばらく無音の時間が続くことが何度かあり、あえて聴く者のリズム感を乱しているようなところは感じられた。これも当たり前のことだが、聴いている自分は素人だから、ついノリで聴こうとするが、演奏する側は常に冷静で、どんなに幾何学的なリズムだろうが、正確無比に弾きこなしてしまう。終盤は自分の耳も慣れたのか、最初に感じた違和感もなく、金槌で叩いたこれも不思議な金属製の楽器の音が耳に残った。この曲はクセナキスが初めて書いた打楽器の曲だということだが、多彩な音色や圧倒的な音圧はのちのプレアデスにつながる、宇宙的な魅力に満ちた曲、とポストトークで山之内氏が指摘していた。
終わってみれば、4つの曲が切れ目なくつながり、実に多様な音響空間を体感するというプログラムだった。ただ巨匠の曲を回顧的に演奏するというのではなく、新たな演出でパフォーマンスを創造するというのは、それぞれの作品をより深く知り、かつより多くの聴衆に届けていくためにも歓迎すべきことだと思う。加藤氏自身フライヤーの中で「演奏家の役割(仕事)はどんなに大切なのかを改めて思い知る」と書いているが、クセナキスにしろライヒにしろ、演奏を突き詰めることで、彼女自身も新しい挑戦になるのだろう。見るたび、聴くたびに思うことだが、今回もやはり、小柄な体の中にみなぎるパワーに圧倒さた。本当にいつもありがとう!
演奏後のポストトークで使っていた楽器について触れていたので加えておく。
ルボンbで使われた5鍵のミニマリンバのような楽器はオリジナルで、加藤氏が使っているマリンバのメーカー、アダムスに依頼して制作したものだそう。クセナキスの指示が難解で、通常の楽器では演奏不可能な部分があり、それに対応するためにつくったという。調性を持たないように音を選んで木を削り、調整したそうだ。
インスタレーションで使われた謎の風鈴の音は、実は鉄製の火箸だった。姫路の明珍火箸だそうで、音響担当の方に教えられたと加藤氏は語っていた。調べてみると茶道具としてはもちろん、明珍風鈴として販売されてもいる。冨田勲やスティービー・ワンダーも好きだったようだ。ティンパニの上に乗っていたおリンは、黒くいぶした日本製のもの(お寺で使っているもの)のほか、金属色に輝いているのは中国製で、それぞれ見かけ通りの音がするのが面白い。
プサッファでは、数種の金属の管が使われた。ホームセンターで売っている金属パイプで、5cm角位で長さの違うものが何点か、直径30cm、長さ50cm位の円柱状のパイプなど。結構重そうで、本人も「なかなか物騒な物」と笑っていた。金槌で叩いていた錆びた箱状の物体はガムランで使われる楽器だとのこと。背後に置いていたバスドラムをかかとで踏んで強打していたが、両腕を使いなおかつ振り返らずにドラムを叩くという動作をこなすための工夫。というと簡単だが、それを超スピードで行う正確さと瞬発力は音楽家というよりも、アスリート。どれだけの試行錯誤と練習を繰り返したのかと思うと、正直ビビる。昔、吉原すみれさんが「打楽器の演奏には運動と同じ爽快感がある」と語っていたが、まさに同じなのだろう。演奏が終わった時の加藤氏の笑顔は、爽快感と達成感に満ちている。
クセナキスに限らず打楽器の作品では書きに限らず、あらゆる素材が使われる。作曲の指定によるものもあれば、演奏家の選択に任されている物もあり、何を使うかで曲の印象がまったく異なる。もちろん演奏方法の違いはあるけれど、こうした素材選びから演奏かなりの理解や解釈が始まっていくのだろう。一つひとつの楽器ならぬ楽器を説明する加藤氏はとても楽しそうで、本当に好きなんだなあ、という気持ちが伝わってきた。
サントリーホール/ブルーローズ
・ルボンa、b(1987-89)
・響・花・間(1969) ※音響デザイン/寒河江勇志
・サウンドインスタレーション(即興)
・プサッファ(1975)
休憩
・ポストトーク 山之内正(評論家)、加藤訓子、水野みか子(作曲家、音楽評論家)
小ホールで椅子を並べた座席。観客は60代以上が8割の印象。ステージ上には3組の打楽器セット。向かって右がルボン、中奥がプサッファ、左はインスタレーション用。それぞれに大きなドラムまたはティンパニを置き、皮と木と金属が加わる。各セットによって木と金属の楽器に工夫があるようだ。
19:00定刻に加藤氏登場。黒のノースリーブに茶色の長い髪。体全体を使って優雅に、機敏に、髪を振り乱して叩くさまは圧巻。ダンスパフォーマンスを見るようなビジュアルインパクトはいつも通りで、あっという間に引き込まれていく。
<ルボンa、b>
2曲が同時に演奏されるのも珍しいとのこと。五線譜に書かれた作品。
aは、木製のスティック(ばち?)を使い、トントン、ズドン!と一定のリズムの中に、弱音と強音が入り混じる。途中でちょっと複雑な展開もあるが、比較的淡白な感じがした。
bでマレットに持ち替えた分、音圧が一段上がり、さらにスピードと迫力が増してリズム、音色も複雑化してくる。終盤に向かってダダダダと盛り上がっていくところは、やはり気持ちがいい。加藤氏自身の言葉によればaは和の印象で、和太鼓を入れて演奏していたこともあるそう。bはビートのあるラテン的な印象とのこと。
<響・花・間>
ルボンbが終わると間髪入れずに何やらノイズが聴こえだし、曲が始まっている。序盤では怪獣の声のような弦楽器のグリッサンドや、蜂の羽音のような音など、長短強弱様々な音がコラージュされていく。こういうと怒られそうだが、いかにも昔の電子音楽といった感じだ。大阪万博のためにつくられた曲で、主な音源は小澤征爾さんが指揮した日本フィルの演奏を加工したものだそうだ。現実音はなさそうだったが、日本らしく三味線の音も加わっていた。初演時は会場となった空間の床、壁、天井に1008個のスピーカーを仕込んで、8チャンネルの音を振り分け、三次元的に音を体感するようになっていたらしい。本日は小ホールの4カ所にLINN社のポール型スピーカーを立てていたが、内部に32個のミニスピーカーが入っているということなので、128個での再現。さすがに床下からというのはなかったが、頭上で響くような音がするなど、十分立体的な音作りがされていた。聴きながら今更のように思ったのは、やはりこういう曲でもテンポなり時間軸があって、出入りする音もコントロールされているがゆえに、成立しているということ。終盤重量感のあるホワイトノイズがブワーッと盛り上がって収束していく。
<インスタレーション>
響・花・間の残響が消え入る間に、どこからか風鈴がなるようなチリンチリンというかすかな音がして、再び加藤氏が登場。左袖の打楽器セットに入って演奏が始まる。この曲ではティンパニの上に載せた大小のおリンをゴムのマレットでこすって出すユワーンという音と、同じくティンパニの上に置いた5つのアンティークシンバル、シンバル、銅鑼の音を中心に構成されていた。ルボンとプサッファが皮のリズムを主体にした曲のため、あえて金属系の響きを使ったのかもしれない。これは私の憶測。たゆたうような響きにシンバルの連打が気持ちよく響き、冒頭と同じく謎の風鈴の音を残しつつ、中央奥のセットに移動。
<プサッファ>
まるで儀式のように天井を見上げ、意識を集中させてマレットを振り下ろす。これも皮をメインにリズムを刻んでいくのだが、五線譜に書かれたものではなく、等間隔に引いた縦線の間に3種類(皮、木、金属)の打楽器の音が点で配置されている曲だそうだ。そのせいかどうかはわからないが、最初はリズムがつかみづらく、微妙にずれている感じがして音に没入できなかったのだが、単なる聴覚の鈍ったオヤジの勘違いかもしれない。ただドラムを強打するとき、高々と左手を上げてややしばらく無音の時間が続くことが何度かあり、あえて聴く者のリズム感を乱しているようなところは感じられた。これも当たり前のことだが、聴いている自分は素人だから、ついノリで聴こうとするが、演奏する側は常に冷静で、どんなに幾何学的なリズムだろうが、正確無比に弾きこなしてしまう。終盤は自分の耳も慣れたのか、最初に感じた違和感もなく、金槌で叩いたこれも不思議な金属製の楽器の音が耳に残った。この曲はクセナキスが初めて書いた打楽器の曲だということだが、多彩な音色や圧倒的な音圧はのちのプレアデスにつながる、宇宙的な魅力に満ちた曲、とポストトークで山之内氏が指摘していた。
終わってみれば、4つの曲が切れ目なくつながり、実に多様な音響空間を体感するというプログラムだった。ただ巨匠の曲を回顧的に演奏するというのではなく、新たな演出でパフォーマンスを創造するというのは、それぞれの作品をより深く知り、かつより多くの聴衆に届けていくためにも歓迎すべきことだと思う。加藤氏自身フライヤーの中で「演奏家の役割(仕事)はどんなに大切なのかを改めて思い知る」と書いているが、クセナキスにしろライヒにしろ、演奏を突き詰めることで、彼女自身も新しい挑戦になるのだろう。見るたび、聴くたびに思うことだが、今回もやはり、小柄な体の中にみなぎるパワーに圧倒さた。本当にいつもありがとう!
演奏後のポストトークで使っていた楽器について触れていたので加えておく。
ルボンbで使われた5鍵のミニマリンバのような楽器はオリジナルで、加藤氏が使っているマリンバのメーカー、アダムスに依頼して制作したものだそう。クセナキスの指示が難解で、通常の楽器では演奏不可能な部分があり、それに対応するためにつくったという。調性を持たないように音を選んで木を削り、調整したそうだ。
インスタレーションで使われた謎の風鈴の音は、実は鉄製の火箸だった。姫路の明珍火箸だそうで、音響担当の方に教えられたと加藤氏は語っていた。調べてみると茶道具としてはもちろん、明珍風鈴として販売されてもいる。冨田勲やスティービー・ワンダーも好きだったようだ。ティンパニの上に乗っていたおリンは、黒くいぶした日本製のもの(お寺で使っているもの)のほか、金属色に輝いているのは中国製で、それぞれ見かけ通りの音がするのが面白い。
プサッファでは、数種の金属の管が使われた。ホームセンターで売っている金属パイプで、5cm角位で長さの違うものが何点か、直径30cm、長さ50cm位の円柱状のパイプなど。結構重そうで、本人も「なかなか物騒な物」と笑っていた。金槌で叩いていた錆びた箱状の物体はガムランで使われる楽器だとのこと。背後に置いていたバスドラムをかかとで踏んで強打していたが、両腕を使いなおかつ振り返らずにドラムを叩くという動作をこなすための工夫。というと簡単だが、それを超スピードで行う正確さと瞬発力は音楽家というよりも、アスリート。どれだけの試行錯誤と練習を繰り返したのかと思うと、正直ビビる。昔、吉原すみれさんが「打楽器の演奏には運動と同じ爽快感がある」と語っていたが、まさに同じなのだろう。演奏が終わった時の加藤氏の笑顔は、爽快感と達成感に満ちている。
クセナキスに限らず打楽器の作品では書きに限らず、あらゆる素材が使われる。作曲の指定によるものもあれば、演奏家の選択に任されている物もあり、何を使うかで曲の印象がまったく異なる。もちろん演奏方法の違いはあるけれど、こうした素材選びから演奏かなりの理解や解釈が始まっていくのだろう。一つひとつの楽器ならぬ楽器を説明する加藤氏はとても楽しそうで、本当に好きなんだなあ、という気持ちが伝わってきた。
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