イースター前の一週間を受難週といいます。キリスト教では、重要な暦のうちの一つです。その週の(今週の)金曜日、イエス・キリストは十字架につけられました。
十字架上でイエスが残された7つの言葉のうち4番目の言葉に注目したいと思います。
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マルコ14:34)
十字架上でイエスは、父なる神にそっぽを向かれます。祝福が去って行ったのです。
祝福の基本となる概念は、神のみ顔がいつも向けられているということです。そう、この箇所で確実にイエスは、祝福を奪われ、神からそっぽを向かれ、見捨てられた存在としてご自分を表しておられるのです。 イエスの生涯を振り返ってみてください。ヨルダン川で洗礼を受けた時、「これは私の愛する子。私はこれを喜ぶ。」と父なる神より言われ、公生涯に踏み出します。人々の病を癒し、盲人を見えるようにし、オシを話せるようにしました。まさしくその姿は、神とともに歩む人。神の御心をなす神のお気に入りでした。愛なる神の存在をここまで如実に表した人間はいないのです。「私を見たものは父を見たのです。」とまで、最後の晩餐で言っています。それほどまでに神の祝福を受け、臨在の中に過ごしていた主が、「どうしてお見捨てになったのですか?」と、神に疑問をぶちまけています。 いや、私たちの罪を負うことそのこと自体が神の祝福を奪う原因、神に見捨てられる原因となったのです。
私事ですが、神の召しにより、仕事をしていたことがあります。しかしその仕事も
病がひどくなってしまい、辞めざるを得なくなりました。「神の御心を行なっていながら、なぜ?」と、私は叫び声を上げました。しかし、イエスは、そんな私の苦しみを味わうために十字架上で苦しまれたのです。
皆さんも神様に「どうして?」と、叫びたくなることがあるかと思います。
その時、このみ言葉を思い出してほしいのです。神の子であるイエス・キリストが、
神との交わりから遮断され、見捨てられた事実を思い出してほしいのです。
どんな試練が襲ってこようとも、神に見捨てられたと思っても、命をとってくださいと祈るとき、インマヌエル(主、我とともいる)の主に、見捨てられたと思ったときにこそ、このみ言葉を思い起こして欲しいのです。その時あなたは確信するでしょう。
主のみ手は決して私を離れないと。「永遠の腕が下に」(申命記33:27)、このみ言葉を深みを味わうことができるのです。
最後に、永遠の腕には今、十字架の釘跡が残っていることを覚えたいのです。
それは、あなたを愛している確かな証拠です。両方の腕をもって、あなたの存在の下に、どんな暗闇の中でも、落ち込んでいても、マリアナ海溝より深く落ち込んだとしてもその下にイエス・キリストは存在してくださるのです。
この受難週、イエス・キリストの十字架のみ業を深く、深く心に刻み付けたいものです。